マレーナ

Malena
2000年,イタリア=アメリカ,95分
監督:ジョゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジョゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:モニカ・ベルッチ、ジョゼッペ・スルファーロ、ルチアーノ・フェデリコ、マティルデ・ピアナ

 第二次大戦中のシチリア、レナート少年は父親に自転車を買ってもらい、年上の少年たちの仲間にいれてもらう。「半ズボン」といって馬鹿にされる彼だったが、何とか仲間に入れてもらい、彼らについてゆく。彼らが向かった先には街の男の視線を一身に集める妖艶な美女マレーナがいた。レナートは一目で彼女に恋し、一途に彼女を思うようになるが…
 少年の淡い恋に戦争を絡めて描いたトルナトーレ監督得意のノスタルジックな作品。古い街並みとエンニオ・モリコーネの音楽は絶品。

 映画に美しさを求めるならば、この映画はまれに見る優れもの。フィルムに刻まれた街並みと、マレーナの美しさ。モリコーネの音楽、美しいものがはかなく崩れ落ちてゆくときのさらなる美しさ。
 しかし、ドラマとしてみると、私には展開が単調でロマンティックすぎるように思える。物語のすべてが明らかで謎がなく、唯一のどんでん返しも物語の展開から推測できてしまう。しかも明確なメッセージがこめられていて、そのメッセージのために物語が単純化されすぎている。男と女、少年、大衆、夫と妻などなど舞台を大戦中にしたことで現代では偏見として切り捨てられてしまうようなことをあたりまえの事として描いてしまえるわけだが、それを当たり前に描いてしまうところにこの映画の限界がある。ノスタルジーとロマンティシティ。ただこれだけが作品から滲み出してくる。現代でもこの映画に描かれるような「愛」の形は感動的なものとしてみられるのかもしれないけれど、私には過去に対する感傷としか思えませんでした。
 と、物語には否定的ですが、モニカ・ベルッチの美しさには抗うことはできず、男たるものの悲哀を感じもしたのでした。それともう一つ美しかったのは、街が爆撃されるシーンで、高い建物のうえで爆発が起きるところ。なんとなく古い町並みと爆発という一種のミスマッチが美しかったのでした。

ボディ・ドロップ・アスファルト

2000年,日本,96分
監督:和田淳子
脚本:和田淳子
撮影:白尾一博、宮下昇
音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ、尾木真琴、田中要次、岸野雄一

 どこにでもいるような女の子・真中エリ。仕事もなく恋人もない彼女が自分の妄想・頭のざわざを言葉にする。それは理想の自分を書くことだった。そんな彼女の書いた小説が思いがけずベストセラーに。新進小説家となったエリは思い描いていた理想の生活を手に入れたはずだったが…
 アヴァンギャルドな短編映画を撮ってきた和田淳子監督の初の長編作品。映画の概念から外れかねないくらいまで映画を脱構築したこの作品は、アヴァンギャルドでありながらユーモアにとんだ分かりやすい作品に仕上がっている。

 かなりすごい。冒頭のシークエンスからすでにこの映画の要素が濃縮されて収めれられています。それはアヴァンギャルドさであり、映像の突飛さであり、一種の安っぽさである。足ばかりを執拗に映すという試みと、ホームビデオのようなドットの粗い字幕、その実験性とチープさに期待感をあおられる。そして、続くモノローグのシークエンスはそれ自体アートであるところの映像作品として作られており、それでいながらどこかで転調するに違いないという予想を抱かせる。その予想は一種の驚きと共に実現され、そこからはなだれ込むように魅惑の世界が広がっていく。
 などと感想もまたどこかアートっぽくなってしまう感じですが、実際のところこの映画はかなり笑いにあふれ、非常に分かりやすく、面白い。小難しく見ることと素直に楽しく見ることが同時にできるようなそんな映画。私が一番気に入ったのはやはり「初台の吉野家」。見た人にしかわからないのですが、見た人は絶対うなずく。あの部分のネタとそれを紡ぐ映像はまさに絶品。そんな笑える部分にこそこの映画の魅力があると私は思います。
 しかし、笑いにも様々な種類があって、単純にネタとして面白いものもあれば映画であるからこそ面白いものもある。映画として面白い笑いというものは概していわゆる映画からそれることで笑いを作り出すものであり、それは映画を壊すことから始まっている。それはある種の(映画としての)突飛さであり、この突飛さこそがこの映画の全編に共通する特徴であるということ。
 映画をこわし、脱構築することはいま面白い映画を撮る一つの方法であり、この映画の突飛さも一種の映画の破壊であるという点では、その方法論に乗っている。しかし、脱構築に成功している映画というのはすべてが全く違う方法論にのっとったものであり、一つの方法論というものは存在しない。新たな破壊の方法を見つけなければ映画をこわすことは不可能なのだ。だからすべてが全く違う映画であり、全く違う面白さがある。しかしその脱構築と言うものはなかなか成功しないものである。
 と、小難しく書いてみましたが、要するにいわゆる映画というものをこわすことから映画は始まるのです。それは実はすべての映画に当てはまることであって、これまでの映画の何かをこわした映画だけが本当に面白い映画なのだと言うこともできるのです。
 この映画は映画をこわし、それは笑いへと昇華させ、しかも映画として完成させている。それはものすごいことで、この映画の感想はと聞かれたら、開口一番「すごい!!!」とエクスクラメーションマーク×3で答えるしかないほどすごいのです。
Database参照

PLANET OF THE APES/猿の惑星

Planet of the Apes
2001年,アメリカ,119分
監督:ティム・バートン
原作:ピエール・ブール
脚本:ウィリアムズ・ブロイルズ・Jr、ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マーク・ウォールバーグ、ティム・ロス、ヘレナ・ボナム・カーター、マイケル・クラーク・ダンカン

 2029年、スペースステーション・オベロン号はチンパンジーを宇宙飛行士として教育し、宇宙探査を行っていた。壮絶な磁気嵐に遭遇したオベロン号はチンパンジーのペリクリーズを探査船で送り込むがペリクリーズは消息を絶ってしまったそれを見た宇宙飛行士のレオは独断でポッドを発進させ、ぺリグリーズを追った。
 1968年の名作SFをティム・バートンがリイマージュした意欲作。前作とはまったく異なる物語展開を見せ、ILMの技術を駆使した猿もすごい。

 一言で言えば期待通りのティム・バートン・ワールド。とにかく面白ければいいんだという監督の姿勢がとてもいい。そのためには原作のストーリーなんて曲げてしまえばいいし、使える技術は使えばいい。それだけばさっと割り切った作品なので、前作のような明確なメッセージがないのがむしろいい。
 猿のリアルさは相当なものだけれど、やはり不自然さは否めない。ティム・ロスはまったくもってすごいけれど、ヘレナ・ボナム・カーターの顔は今ひとつ。全般的にいってメスの猿の造作があと一歩というところ。ゴリラ系の猿たちはかなりいい。
 ネタばれは避けなくてはならない映画なので、短めにとめておきます。とりあえず娯楽映画としてはよいと思います。

Maelstrom
2000年,カナダ,86分
監督:デニ・ヴィルヌーヴ
脚本:デニ・ヴィルヌーヴ
撮影:アンドレ・ターピン
音楽:ピエール・デロシュール
出演:マリ=ジョゼ・クローズ、ジャン=ニコラス・ヴェロー、ステファニー・モーゲン・スターン

 カナダでブティックを経営するビビアンは大女優を母に持ち、マスコミにも注目されていた。しかしブティックの経営状態はよくなく、オーナーである兄に店を閉めるように勧告されていた。そんな状態の中で彼女は中絶手術を受ける。自暴自棄になって酒を飲んでかえる途中、男性をはねてしまう…
 カナダの新鋭デニ・ヴィルヌーヴ監督のデビュー作。いわゆるアート系の雰囲気だがシュールな雰囲気と異様な映像美が才能を感じさせる作品。

 毒々しい魚が出てきて語りをはじめる辺り、同じカナダだからと言うわけではないけれど、どことなくクローネンバーグを思い起こさせる。物語の展開も一筋縄では行かない不思議な展開。
 この不思議さは物語のみならず映像・音楽すべてに通じているもので、なかなか分析することは難しい。途中で挿入される字幕もまた一般的な映画の文法を破るという意味では不思議な点かもしれない。
 なんといっても一番異様なのは徹底的なクロースアップ。印象では映画の半分以上がクロースアップでできてたんじゃないかってくらい徹底したクロースアップの連続。これは技術的にもすごいけれど、やってしまう度胸はもっとすごい。何なんでしょう。おそらくここまでアップを続けてしつこくならないのはブルーに統一された色調のせいでしょう。とことんまでに白い肌とブルーの背景という効果が可能にしたクロースアップ。
 果たして問題はそんなすごい映像を作り上げてなにが生まれたのかと言うこと。すごいなーと思いながら見れはするけれど、実際何かが伝わってくるのかというとなかなか難しいところ。解釈の余地はあるけれど、ぐんぐん迫ってくる何かがあると言うわけではない。単なるアート系の映像芸術は越えていると思うけれど、物語である映画としてはどうなのか。映像と物語とは互いが支えあってこそ意味があるのであって、映像だけが遊離してしまったり物語を伝えるだけになってしまってはそれは映画ではない。この映画は映画にはなっているけれど、物語の部分がどうしても弱い。それはいわゆる「アート系」の映画一般にいえることだけれど、この監督はおそらくそんな括弧つきのアート系を乗り越えられるだけの力があると思うので、そんな不満も口をつく。
 でも、楽しみな監督が出てきましたね。と思う。

レクイエム・フォー・ドリーム

Requiem for a Dream
2000年,アメリカ,102分
監督:ダーレン・アロノフスキー
原作:ヒューバート・セルビー・Jr
脚本:ヒューバート・セルビー・Jr、ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティーク
音楽:クリント・マンセル
出演:エレン・バースティン、ジャレッド・レトー、ジェニファー・コネリー、マーロン・ウェイアンジュ

 ビリーは今日も母親のテレビを持ち出し、相棒のテリーとともに海辺の道を運んでいく。なじみのおやじに売ってもらった金でドラッグを買う。二人は金儲けのため、ヤクを買って半分を売りさばくという計画を立てた。一方、母親の元にはテレビの出演者に選ばれたという電話がかかってきて、彼女は有頂天になるのだが…
 「π」の 監督の第2作。「ドラッグ」をテーマとし、アヴァンギャルドな映像とサウンドは前作をしっかり踏襲。再び正気を揺さぶるような映画世界を作り出している。

 この監督はすごいと思うのですが、やはり「π」の衝撃と比べるとこちらの免疫効果なのかどうなのか、そのショックは小さくなっています。事前の期待度を差し引いて、冷静に見てみればこの作品も「π」も同程度の狂気をはらんでいると思うのですが、映画もドラッグと同じでより刺激的なものを求めてしまいがちなのでしょう。ましてや同じ監督の作品となれば。
 ということで、途中までは「アー、なるほどね」とかなり予想通りという感じで見ていたし、監督の神経を逆撫でようとする意図を冷静に分析していたのですよ。そしてそのまま最後まで冷静でいたつもりなのです。が、なぜかラスト5分あたりから異様な感動の渦が私を襲いました。この感動はなんなのか? 決して感動を誘うような作品ではないと思いますが、私を襲ったのはまさに感動。じくじくと狂気のジャブが効いていて、それが最後にあふれ出たのか? ともかくなぞの感動を覚え、エンドロールに流れるストリングスの音に妙に鋭敏になったりしました。一種の擬似ドラックなの?
 まあ、とにかく不思議な映画でした。「π」を見たことがない人にはおそらくかなりの衝撃があるでしょう。そして「π」を見たという人も何かを発見できると思う。たぶん。

RUSH!

2001年,日本,97分
監督:瀬々敬久
脚本:瀬々敬久、井土紀州
撮影:林淳一郎
音楽:安川午朗
出演:キム・ユンジン、哀川翔、柳葉敏郎、大杉漣、阿部寛、千原浩史

 横転した車、横に倒れている男と女、さらにかたわらには風にさらわれていく1万円札。
 「焼肉革命」というキャッチフレーズでチェーン展開する焼肉店で働く昌也はやくざ風の男に昔働いていた韓国人の行方を尋ねられ、知らないという。しかし、実はその韓国人たちと社長の娘の狂言誘拐を計画していた。
 昨年、「HYSTERIC」が話題を呼んだ瀬々監督が日本語とハングルをミックスして撮り上げた不思議なサスペンス、そしてラブ・ストーリー。

 なんといってもいいのはテンポ。時間の流れとは関係なく、短い断片をつないでゆくことで非常に軽快なテンポで映画を展開させることができている。そして、もちろん、それぞれがどう絡み合っているのかという謎もうまれる。この手法自体は目新しいものではなく、展開に慣れてゆくにつれ、徐々にスピードダウンしていく感があり、残念残念と思っていたらそうではなかった。最後まできれいに期待を裏切って、微笑みながらエンドロールを見つめてしまう。ネタばれのためいえませんが、この終わり方は絶品でした。
 構図なども非常に考えられてはいるのですが、それはアートとして考えられているのではなく、あくまで映画全体の雰囲気作りというか、空気を描写するためのものであるというところもとてもいい。いわゆるアート系の映画ほどには考えさせず、しかし絵としては非常に美しい、そんな構図が絶妙でした。特に哀川翔とキム・ユンジンの二人のシーンはどれも構図にかなりのこだわりを感じました。
 さらに面白かったのは、車やバイクで移動するシーン(特に前半)の妙な安っぽさ。50年位前なら当たり前のウィンドウに景色はめ込みの映像がこれでもかとばかりに連発される。決して全体的にふざけた感じの映画ではないのに、こんな遊び方をしてしまう。このあたりも非常によかったです。
 もちろん日本語と韓国語のディスコミュニケーションという道具の使い方もよかったのですが、ディスコミュニケーションの状況を伝えながら、両方の話している意味を伝えるというのはなかなか難しかったのではないかと思ってしまいます。この映画では字幕を使って両方の言っていることがわかるように仕向けられているわけですが、それはつまりあくまで傍観者としてその場面を見つめるしかないということでもあります。それはそれでいいのですが、ディスコミュニケーションの感覚は今ひとつ伝わりにくかったとは思います。でも両方を実現するのはやはり無理。ここでの監督の選択は正しかったと私は思います。

姉のいた夏、いない夏

The Invisible Circus
2001年,アメリカ,93分
監督:アダム・ブルックス
原作:ジェニファー・イーガン
脚本:アダム・ブルックス
撮影:ヘンリー・ブラハム
音楽:ニック・レア=クロウズ
出演:ジョーダナ・ブリュースター、クリストファー・エクルストン、キャメロン・ディアス、プライス・ダナー

 18才のフィービーは6年程前に旅先のポルトガルで自殺してしまった大好きだった姉のことを思い、浮かぬ日々を送っていた。姉のフェイスはフィービーが12歳のときヨーロッパに旅に出たまま帰らぬ人となってしまった。フィービーはその姉の足跡をたどるため母親の反対を押し切ってヨーロッパへと出発する。
 60年代から70年代の若者を描いた青春ドラマ。淡々とした物語のなかにいろいろなメッセージが込められているような気がする。

 最近は若者を描こうとするなら70年代という風潮が目に付きますが、それはやはり作り手がまさに青春を送った時代だからでしょう。それが悪いというわけではありませんが、同じような設定ばかりだと新鮮味がなくなって、面白さが減じてしまうということはあります。この作品は舞台をヨーロッパとすることで、アメリカ映画としてはちょっと違う雰囲気を出したものの、革新的と言えるほどではなかった。音楽の使い方なども非常にオーソドックスでした。
 物語のほうはなかなかよくて、心理的なゆらぎを中心に描くことで、なんとな奥深そうな印象を与えることができている。奥深い部分は全く描いていないのだけれど、その部分は見る側がどうにでも想像できるという余地を残している。この辺りはうまいです。基本的なコンセプトとしては、突き抜ける激しさと結局平凡へと帰るその力強さとを対比させるという感じなのでしょうが、どちらがいいとも悪いとも、強いとも弱いとも、言い切らない。その微妙な感じは好きですが。
 しかし逆に、結局のところ普通すぎるという印象も否めません。描かないということは平板さに甘んじるということにもなるので、全体的に漫然とした感じになってしまう。まあ、当たり前のことですが心理描写を中心としたドラマを作る場合にはそのあたりのバランスが難しいのだなと感じたわけです。

ベンゴ

Vengo
2000年,スペイン=フランス,89分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:ティエリー・ブジェ
音楽:アマリエ・デュ・シャッセ
出演:アントニオ・カナーレス、ビリャサン・ロドリゲス、アントニオ・ペレス・デチェント、フアン・ルイス・コリエンテス

 アンダルシアの小さな町で開かれるパーティー、それを主催するカコ。彼は体の不自由な甥ディエゴを溺愛し、娼婦の世話までしようとする。しかし陽気に振舞う2人はカコの娘ペパの面影を忘れることができなかった。
 途切れなくフラメンコの音楽がかかり、情熱的に迫ってくるこの映画は「観る」というより「浴びる」のがいい。

 映画を「浴びる」。圧倒的に迫る音楽は冷静に映画を見せてはくれない。ひたすらに降り注ぐ音楽と映像を浴び、その中に浸り、それによって押し付けられる感情に浸る。否応なく感じさせられる怒りあるいは苦悩にもいらだつよりは身を任せ、映画が押し進むその方向に押し流されていくことで何とか映画を消化できる。
 連続するクロースアップや(過度といっていいほどに)雄弁にものを語る登場人物の表情が暴力的ではあるけれど確実に見るものの感情をコントロールする。
 という映画です。確かに力強いけれど、ちょっと暴力的過ぎるかなという気がします(内容ではなく映画として)。そして音楽の映画ということで、さすがに音楽は素晴らしいですが、演奏シーンはすごく長い。兵隊が寄ってくるところのようにちょっとまわりにエピソードを加えたり、カコの夢と現の間のようなシーンみたいに映像的な工夫がなされているとその長さも苦にならないのだけれど、ひたすら演奏を映しているシーンはちょっと長すぎるかなという気はしました。
 音楽に浸って忘我したいという気分にはぴったりかもしれません。プロットもそれなりに練られていたし。やはりガトリフは自分の世界をしっかりと構築しているので、着実にいい作品を作ります。大きくはずすことはない。この映画はガトリフとしてはちょっと平凡な映画になってしまった感も無きにしも非ずですが、これが彼の世界なのでしょう。

メトロポリス

2001年,日本,100分
監督:りんたろう
原作:手塚治虫
脚本:大友克洋
音楽:本多俊之
出演:井元由香、小林桂、富田耕生

 巨大都市メトロポリス、そこではそれを象徴する「ジグラット」の式典が行われていた。メトロポリスを事実上支配するレッド候は国際手配犯である科学者のロートン博士に巨額の資金を払って一体のロボット“ティマ”を作らせていた。その時、そのロートン博士を追って日本から探偵の伴俊作と甥のケンイチがやってきていた。
 手塚治虫の短編を大友克洋が戯曲化し、りんたろうが監督したという豪華な作品。その期待にたがわず豊穣な世界がそこには描かれている。本多俊之の音楽も秀逸。

 やはりアニメはこうじゃなくっちゃ。「アイアン・ジャイアント」もたしかに面白いけれど、あの単純さはやはり子供向けという観を免れない。それに比べてこの映画はすごい。勧善懲悪に表面的には見える(表面的にも見えないかもしれない)その実は非常に哲学的な善と悪の概念が交錯する。果たしてなにを「悪」とみなすのか。それが問題なのである。
 ここに出てくる登場人物たち。ロック、レッド候、アトラス、彼らは異なるものを「悪」と考えていた。その様々な「悪」に対して絶対的な「善」なるものが存在するのか。純粋無垢な存在であるケンイチとティマはその「善」なるものになれるのか?
 解釈的にあらすじを述べるとそういうことだと思います。かなり物語へのひきつけ方もうまく、キャラクターも素晴らしい。特にロボットの描き方はすごく面白い。映像はそれほど「すげえ!」ということはありませんが、やはり完成度は高いと思いました。
 そしてそして、個人的には音楽の使い方がすごくいいと思いました。デキシーランドジャズ風(でいいのかな?)を中心にジャズナンバーをうまく使う。こういう叙事詩的なものを描くとどうしてもクラッシックを使いたくなるものですが、そこをジャズで行ったというところは素晴らしいし、映像と音楽の兼ね合いがまた素晴らしい。ラスト前のあのシーン(ネタばれ防止のためシーンはいえない)にかかる曲(そして曲名もわからない)。何のことやら分かりませんが、そこだけを切り取っても一つの作品となりうるような素晴らしさでした。

あの頃ペニー・レインと

Almost Famous
2000年,アメリカ,123分
監督:キャメロン・クロウ
脚本:キャメロン・クロウ
撮影:ジョン・トール
音楽:ナンシー・ウィルソン
出演:ビリー・クラダップ、フランシス・マクドーマンド、ケイト・ハドソン、パトリック・フュジット、アンナ・パキン

 サン・ディエゴに住む少年ウィリアムは大学教授の母親のもの、非常に厳しく育てられた。そんな厳しい家庭環境でウィリアムの姉はハイ・スクールの卒業とともに家出、ウィリアムスにロックのレコードを残していった。それからロックの世界にのめりこんでいったウィリアムスは15歳で地元の音楽雑誌に評論を載せるほどになった。
 キャメロン・クロウの実体験を元に、70年代のロック界を描いた作品。少年の成長物語でもあり、時代へのオマージュでもあり、などなどといろいろな要素が盛り込まれた秀作。

 結局のところ少年の成長物語なのだけれど、そこにうまく音楽を使い、時代性を持ち込み、まとまりのある世界を作り出す。実体験に基づいているというだけにプロットの進め方に力があり、物語にすっと引き込まれる。これがこの映画の全てかもしれない。映像も普通で、つまりさりげなく、時間の流れ方も滞りない。特に緊張感が高まるシーンもなく、先の見えないミステリーというものがあるわけでもない。それでもこれだけ力強く物語を転がしていけるのだから、なかなかのものといわざるをえないというわけ。
 この映画で印象的なのは、どうしてもペニー・レイン=ケイト・ハドソンの顔です。もちろんアップが多いというのもありますが、なんとなくパッとひきつけられる表情を浮かべています。それほど美人というわけでもなく、好みでいえばアンナ・パキンのほうが好きだけど、この映画ではケイト・ハドソンが映るとはっとしてしまう。ウィリアムスに自己同一化していたという事なのか、それともケイト・ハドソンの力なのか、キャメロン・クロウの撮り方なのか?
 撮り方で言えば、これはあくまで印象ですが、ケイト・ハドソンのクロースアップでは、背景がぼやけているシーンが多かったような… クロースアップというのは概して背景にはピントがあっていないものですが、この映画のケイト・ハドソンの場合は意識的にそんな演出がなされていたのかもしれないとふっと思いました。気のせいかも。
 でも、それは効果として幻想的な、夢うつつなイメージを生むものだから、ウィリアムスの心理とは一致していていいのではないの? やっぱり意識的なのかも。それは監督かカメラマンか当人だけが知る意図ですが、こんな疑問を見つけると、同じ映画をくり返し見たくなります。