君を想って海をゆく

 フランス北部の街カレーにはイギリスに渡ろうという不法移民が集まっていた。イラクからやってきた17歳のクルド人ビラルもその一人。彼は家族とイギリスに渡った恋人を追って海を渡ろうとするが密航は失敗に終わり、あとはドーバー海峡を泳いで渡るしかないと考えプールに通い始める。そしてプールで妻と離婚調停中のコーチ・シモンと出会う…
『パリ空港の人々』のフィリップ・リオレ監督が移民問題をテーマに描いたヒューマンドラマ。

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地球にやさしい生活

 ニューヨークに妻子と暮らす作家のコリン・ビーヴァンは自分の生活に疑問をいだき、次の本のネタ作りも兼ねて、ニューヨークで環境にやさしい生活を送ることを決意する。まず1年間新しいものを買わず、なるべくゴミを出さないことに決め、さらに食べ物は近郊でとれたものだけに。そして最終的には電気もやめようと考えるが、奥さんのミシェルは買い物中毒のカフェイン中毒だった…
NYで自らが実験台となってブログが人気を集めた「No Impact Man」ことコリン・ビーヴァンを追ったドキュメンタリー。普通の人目線で環境問題が扱われていて面白い。

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ルドandクルシ

 バナナ園で現場監督をするベトとそこで働きながら歌手を夢見る弟のタト、草サッカーでゴールキーパーとストライカーとして活躍する二人はたまたま近くで自動車がパンクして試合を見に来たスカウトのバトゥータの目に留まる。PK対決で勝ったほうがプロチームに紹介されることになり、ベトはタトに右に蹴るように言うが…
メキシコ出身の3人の監督が設立した製作会社の第1回作品。ガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナが『天国の口、終りの楽園。』以来久しぶりの共演。

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The Education of Shelby Knox

The Education of Shelby Knox
2005年,アメリカ,76分
監督:マリオン・リップシューツ、ローズ・ローセンブラット
撮影:ゲイリー・グリフィン
音楽:リック・ベイツ
(TOKYO MX「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で放送)

テキサス州のキリスト教保守派の高校では“絶対禁欲教育”が行われ、避妊などの性教育が行われないため高校生の妊娠や出産があとをたたず、性病の感染者も多かった。そんな高校のひとつに通うシェルビー・ノックスはその現状に疑問を抱き、性教育を実施するように運動を始めるが…

キリスト教福音派の街で起きる騒動を描いたドキュメンタリー。保守がちがちの街で奮闘するシェルビーの戦いが見もの。

キリスト教福音派は聖書の教えを文字通りに守ろうという宗派で、キリスト教原理主義ともいわれる。アメリカ南部の“バイブルベルト”と言われる地域に集中する彼らの主義主張はアメリカの政治と社会にさまざまな影響をもたらしてきた。

この“絶対禁欲教育”というのもそのひとつ。この考え方は未婚の男女の性交渉を禁じている聖書に基づいて結婚前の禁欲を説く教育。確かにセックスをしなければ妊娠もしないし、性感染症もうつらないのだが、実際にはセックスをするわけだし、その再生に関する知識がないために容易に妊娠し、性感染症も蔓延する。

シェルビー・ノックスは福音派の信者で自身は結婚まで貞操を守る“純潔の誓い”をした敬虔なクリスチャンだ。しかし現実主義的でもあり、性教育をすることは必要だと考えている。そりゃそうだ。福音派の牧師は「性教育をしたらセックスがしたくなる」というが、性教育をしなくたってセックスはしたいんだから性教育はしたほうがいいに決まっている。牧師だって十代のころセックスしたかっただろうに、どうしてそのことを思い起こそうとしないのだろうか。

まあともかくシェルビーは性教育を実施するための運動を開始し、彼女が所属する青年会もそれに呼応する。がちがちの共和党支持者の父親も彼女を指示する。しかし、彼女がゲイの学生たちとつながり始めると青年会も両親も彼女から距離を置く。同性愛の問題は性教育よりもはるかに受け容れ難い問題らしい。そして市や州はさらに強く彼女に反発する。

「普通の」感覚からいうと彼女の言うことは至極最もで、むしろ彼女でも保守的過ぎるという気がするのだが、そういう「常識」はここでは通用しない。これを見るとアメリカという国はあまりに宗教的であまりに偏狭だ。アメリカというと“自由”といわれるが、はっきり言ってこの作品に描かれるアメリカに自由などない。力あるものの自由のために弱者の自由は徹底的に奪われる。それがアメリカという国だ。そしてそれをキリスト教という偏狭な宗教の倫理に摩り替えて弱者を騙すのだ。

牧師自身キリスト教は偏狭な宗教だと言っている。シェルビーはそうではないというが、キリスト教福音派はかなり偏狭な宗教だ。キリスト教自体は成立から2000年を経る間に変遷し、中には寛容な宗派も生まれているが、原理主義である福音派は偏狭だ。

その偏狭さは想像力の欠如につながり、互いの不理解がさまざまな軋轢と矛盾の原因となる。この映画はそんな軋轢を描いた作品のひとつだが、こんな映画がアメリカにはたくさんあるんだということに気づく。まあ福音派の人たちはこんな映画が作られたところで変わることはないだろうから、やはりこういう映画は作られ続けるのだろう。

本当に理解し難いが、それを理解しようとしなければ彼らと同じになってしまうから、頑張って理解しよう。

マルタのやさしい刺繍

老人たちの活躍が心温まりスカッともするスイス映画の佳作

Die Herbstzeitlosen
2006年,スイス,89分
監督:ベティナ・オベルリ
原案:ベティナ・オベルリ
脚本:サビーヌ・ポッホハンマー
撮影:ステファン・クティ
音楽:リュック・ツィマーマン
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイジ・マリア・グレスナー、アンネマリー・デューリンガー、モニカ・グブザー、ハンスペーター・ミュラー=ドロサート

 スイスの山間の小さな村、夫に先立たれ生きる意欲を失ってしまった80歳のマルタは村の合唱団の旗の修復を頼まれたことをきっかけにランジェリーショップを開くという若い頃の夢を思い出す。そして親友のリージの協力を得て開店準備を進めるが、村人達はマルタを破廉恥と後ろ指差すようになる…
 スイスからやってきた老人を主役にした佳作。ちょっと紋切り型過ぎる気もするが、心温まる雰囲気を持った作品。

 80歳で夫に先立たれ生きる意味を失った老女が若い頃の夢を思い出して活力を取り戻すという話。その夢がランジェリーショップというのが肝で、保守的な村人達からは白い目で見られてしまうという話。

 主人公のマルタとその友だちのばあちゃん達が対立するのはその息子達、息子達は40代くらいの働き盛りで親を役に立たない年寄りとみなし、自分たちの価値観を押し付けることを当然と考えている。まあそれはわかるのだが、この村人達はあまりに保守的過ぎ、自分勝手過ぎる。マルタの息子で牧師のヴァルターは聖書勉強会の会場にするためにマルタの店からランジェリーを撤去し、捨ててしまったりする。さすがにそこまではやらんだろう…

 でもまあそれによって老人たちの活力がより強調され、映画としてはわかりやすくなり、観客は老人達を応援したくなることは確かだろう。子供世代にバカにされる年寄り達がその鼻を明かすという物語は本当にスカッとする。

 老人を主役にした映画というのは最近では子供や動物ものと同様に簡単に面白い作品になるという気がする。老人に厳しい世の中になって、老人が尊敬の対象というよりは社会のお荷物、世話しなければならない対象となったことで、弱者が強者をやっつけるという物語が可能になったからだろう。

 老人は動きが鈍かったりして弱弱しくはあるけれど文字通りの老練さと歳の功があって若者をギャフンといわせられる。これはある意味、現代の勧善懲悪の一つのパターンになっているのではないか。だから、そのパターンは予定調和と感じられるのだけれど、まあ予定調和の安心して見られる物語というのも気晴らしにはいいものだ。

 贅沢を言うならば、マルタのランジェリーに対するこだわりやその製作過程がもっと細かく描かれているとよかった。現代の機械によるものとマルタの手仕事によるものの違い、彼女のデザインにどのようなものがあるか、重要な小道具である民族衣装の柄をポイントに入れたランジェリーの詳細など、そういった細部が細かく描かれているとわかり安すぎる人物像を補うリアリティが生まれたのではないだろうか。

闇の子供たち

描かれるのは社会の闇それ自体ではなく、それを見つめるわれわれの欲望

2008年,日本,138分
監督:阪本順治
原作:梁石日
脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
音楽:岩代太郎
出演:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、豊原功補、塩見三省、佐藤浩市

 日本新聞社のバンコク支局で記者を務める南部浩行は本社から闇ルートで行われる臓器移植について調べるよう言われる。調査を開始すると、臓器提供者は生きたまま臓器を取られるという可能性が明らかになってくる… 同じ頃、日本で社会福祉を学んだ音羽恵子は社会福祉センターでボランティアとして働くためバンコクにやってくる。
 阪本順治が梁石日の同名小説を映画化。衝撃的な内容でタイでは上映が見送られる字体となった。

 タイで横行する幼児売春と存在するといわれている臓器の闇売買を描いた社会派ドラマ。と、言いたいところだが、これを社会派ドラマというかどうかは微妙だ。そもそも社会派ドラマとは何を指すかということ自体あいまいだが、基本的には「事実に基づいて社会で問題になっている題材に一定の見解を示す」とでもいう感じだろう。重要なのはその映画が“社会派ドラマ”と目されると、そこで描かれていることの真実性が問題となるということだ。社会の問題について語るなら、その問題が真実でなければ話にならないからそれは当たり前だ。タイの幼児売春について描けば、それが存在することは真実だから社会派ドラマになりうるということだ。

 この作品に登場する日本人のロリコン男の部分は社会派ドラマとして成立している。タイにまで行って幼女を買い、その子供を強姦してインターネットのコミュニティに自慢げにそれをさらす。そのようなことがいまも横行していることは確かだし、それは由々しき問題である。

 あるいは、社会で問題とされていることが真実なのかどうかを議論するというパターンも社会派ドラマたりうる。それは“見えない事実”について語られるときにありうるパターンだ。たとえばアパルトヘイト後の南アフリカについて描かれた『イン・マイ・カントリー』などはその“見えない事実”について語った社会はドラマだ。

 しかし、この『闇の子供たち』が描いている臓器売買についてはどうだろうか? これは議論に値する社会的テーマだろうか? もちろん子供を殺して臓器を売るなんてのは言語道断なことだが、それは誰が考えても言語道断なことであり、そのことを知りながらわが子の臓器移植を望む人間について議論の余地などないのではないか? それではこれを社会問題とし議論する対象にはなりえない。

 それよりもむしろこの映画が描こうとしているのは人間の欲望の問題だろう。幼児買春も欲望の発露であるが、他人の子供の命を奪ってまで自分の子供の命を助けるというのも極端ではあるが欲望の発露なのではないか。この映画が語りかけてくるのは、そこにある問題をどうするかということではなく、われわれが抱える欲望をどうするのかということだ。タイの子供が犠牲になることを知ってまで自分の子供を生かしたいと思ってしまう欲望、それは道義心によって打ち消されるけれど、その欲望が存在するという事実を消すことはできない。その欲望を抱えながら生きていくということの意味をこの作品は問うていると考えることもできるのではないか。

 この映画の結末はどこか突拍子もないという印象のものだ。しかし、この“欲望”という視点で見てみるとすべてがつながっている。人間の欲望がもたらす悲劇、その悲劇が全編を貫き、この作品に登場するすべての人を悲しみの陰が覆っている。

 ただ、宮崎あおいと妻夫木聡が演じた日本人の若者ふたりだけはそこから逃れているようにも見える。それは彼らがまだ自分の欲望の何たるかをわかっていないから、無邪気に“自分探し”を続けているからだ。そこに日本という国の安寧さが透けてみる。しかし、彼らはタイにやってきてそこにはびこる欲望と、それがもたらす悲劇に身をさらすことで目的どおり“自分”を発見するだろう。そのことによって自分もまた悲しみの陰から逃れられなくなるわけだが。

 世界を悲しみの陰で覆う欲望の発露は時代とともに激しくなってきているように見える。それは絶対的な人口の増大にもよるのだとおもうが、資本主義という社会体制が欲望を拡大再生産するシステムであることにも遠因があるのだと思う。“欲望の世紀”と呼ばれた20世紀は終わったけれど、欲望の拡大再生産は終わらない。ルネ・ジラールが欲望論の教科書といわれる「欲望の現象学」を著したのは1961年、それからまもなく50年になるがわれわれはまだまだ自分自身の欲望を処す術を身につけられてはいない。とりあえず知っておかねばならないのは欲望の発露がどこかで悲しみを生むかもしれないということ、この映画はそのことを壮大なスケールで描いたメッセージなのではないか。

 演出も説明も過剰でドラマとしてはちょっと退屈だが、その過剰なわかりやすさが、表面に描かれた問題の奥にある“欲望”の問題を浮かび上がらせる触媒になってはいる。阪本順治という監督は上手ではないが、真摯だし、作品になるべくたくさんの物事を盛り込もうとしている。そんな風に感じた作品だった。

サーチャーズ 2.0

アレックス・コックス&ロジャー・コーマン、すごい低予算映画

Searchers 2.0
2007年,アメリカ,96分
監督:アレックス・コックス
脚本:アレックス・コックス
撮影:スティーヴン・ファイアーバーグ
音楽:プレイ・フォー・レイン
出演:デル・ザモラ、エド・パンシューロ、ジャクリン・ジョネット、サイ・リチャードソン、ロジャー・コーマン

 メキシコ系の中年男メル・トレスは聞き覚えのある西部劇のテーマ曲に導かれてフレッド・フレッチャーの家を訪れる。同じ映画に子役として出演していたことを知った彼らはそのとき脚本家に虐待された記憶を共有していた。そしてその脚本家フリッツ・フロビシャーがモニュメント・バレーで講演を行うことを知り、メルの娘デライラに車を借りて出かけようとするが…
 鬼才アレックス・コックスが西部劇『捜索者』をモチーフに撮ったシニカルなコメディ。製作総指揮は低予算映画の巨匠ロジャー・コーマン。

 B級西部劇に出演したことのある元俳優ふたりが子役のころに虐待を受けた脚本家に仕返しをしに行く。足がないためメキシコ系のメルの娘デライラに嘘をついて車を出させる。西部劇オタクのふたりは道中で話すことも西部劇の会話ばかり、西部劇に興味のないデライラはただあきれるばかり。

 しかし、ふたりがそのデライラに西部劇の魅力を説明しようと復讐劇の意味について語り出すと、古典劇における復讐劇は西部劇とのそれとは違う(古典劇では復讐を果たした主人公はその報いを受ける)と一蹴されてしまう。これは復讐が正義であるというハリウッド映画の欺瞞を信じきっているコドモな大人を揶揄した表現なわけだが、基本的にこのスタンスが作品を貫いている。

 西部劇の復讐劇というのは復讐を果たし、主人公がヒロインと結ばれて大団円を迎える。デライラはそれを批判するが、おじさんふたりはそれを肯定する。そして主人公が死んでしまうような作品はダメで、そのために自分が主役を張るはずだったはずのリメイク企画がぽしゃったと見当違いの批判を述べたりする。

 このなんとも間の抜けたやり取りのおかしさがとてもいい。よっぽどの映画マニアでないと真偽のほどがわからないような話題もたくさん出てくるのだが、アメリカにはそんなマニアがたくさんいる。マニアだけに語れる映画と軍の関係(大統領にベトナム戦争の停戦を求めたというサム・ペキンパーのエピソードなども登場)。

 そしてその間の抜けた会話の中にアメリカ社会に対する皮肉をさらりと織り込んでいく。たとえば9.11を7.11と言い間違えたりするというのは政治について語りながらも、実際は政治意識が低いというアメリカ国民の多くを揶揄しているわけだし、フレッドがバカでかい銃を持ち歩いているところなんてのも強烈だ。

 この主人公ふたりを演じる役者がまったくの無名、映画自体が非常に低予算でウェブサイトで出資者を募って製作された。そして、その製作総指揮にクレジットされているのがロジャー・コーマンというのがすごい。ロジャー・コーマンといえばB級西部劇の監督として名を上げ、その後はB級ホラーに手を出し、監督業から引退したあともB級映画のプロデュースをやり続けてきたB級映画の巨星。プロデュース作品は約400というから驚く。そのロジャー・コーマンとアレックス・コックスが組んだ西部劇のパロディ/オマージュ、それでピンと来る人には文句なしに面白い作品だろう。

 インディペンデントはまだまだこういう作品を取れる。アレックス・コックスもこのところ泣かず飛ばずだったけれど、これで復活のきっかけをつかむか?

Shopgirl/恋の商品価値

出会いと恋は人を変える。それはいくつになっても同じこと。

Shopgirl
2007年,アメリカ,107分
監督:アナンド・タッカー
原作:スティーヴ・マーティン
脚本:スティーヴ・マーティン
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:スティーヴ・マーティン
出演:スティーヴ・マーティン、クレア・デインズ、ジェイソン・シュワルツマン、ブリジット・ウィルソン=サンプラス

 ロスの高級デパートの手袋売り場で働くミラベルは一念発起田舎から出てきたのだが孤独な日々を送っていたが、ある日コインランドリーで自称アーティストの貧乏青年ジェレミーと出会い、胡散臭く思いながらもどこか惹かれる。その直後、仕事中に客としてやってきた50代の紳士レイに声をかけられ、彼にも魅かれてしまう…
 スティーヴ・マーティンがベストセラーとなった自らの小説を脚本化して主演したラブロマンス。

 若くて貧乏だけど男前と金持ちだけれど年寄りでブ男というなら古典的な“究極の選択”だが、この作品の物語は年寄りで金持ちなレイのほうが貧乏で若いジェレミーよりも明らかに色男である。女性の扱いにもなれ、大人の色気を感じさせるレイに対して、ジェレミーが勝っているのはミラベルと歳が近いということだけ。これでは最初から勝負は決まったようなものではないか。

 ならば、物語にならないかといえばそうでもないのがスティーヴ・マーティンのなかなかうまいところ。ストレートな“究極の選択”的ラブ・ストーリーを避け、ひとりの女とふたりの男が出会う(まあレイとジェレミーは厳密には出会ってはいないが)ことによってそれぞれが人間として成長するさまを描くという物語にずらすことで話に深みを出している。

 ジェイソン・シュワルツマン演じるジェレミーという青年は登場したときからおどおどしていていかにも変わり者、自信なさげなのだけれど同時に根拠のない自信も持っているという感じである。ミラベルとの出会いもぎこちなく、なんでもないようなふりをしながら彼にとって大きな意味を持っていたようだ。

 スティーヴ・マーティン演じるレイは間違いなく成功者でありながらどこか臆病なところがあり、自分を偽ったり、自分を守るために他人を傷つけたりしてしまう。

 そのふたりがミラベルに出会い、自分の中にある何かに気づく。若くても若くなくても恋愛は自分に足りない何かに気づかせてくれる。それが意味を持つかどうかはその人によるわけだが、それ以前に人と人との出会いがその人に与える影響が描かれているというところに面白みがあると思う。

 まあ実際のところ物語として面白いかといえば、それほどでもない。特にラブ・ストーリーとしてみるとなんとも煮え切らない感じで大団円がまっているわけでもなく拍子抜けな感じだ。

 原作はアメリカでベストセラーになったということだが、それはおそらくこの3人の登場人物が人間的で魅力があったからだろう。この2時間弱の映画ではその魅力の一端しか見ることができず、それが全体としてぼんやりとした印象になってしまったのかもしれない。

 つまらない映画ではないし、キャストもいいのだがDVDスルーになってしまったのも仕方がないというところだろうか。

長江にいきる 秉愛の物語

ダムをめぐって人々から伝わってくる生々しい中国が濃い!

秉愛
2007年,中国,117分
監督:フォン・イェン
撮影:フォン・イェン、フォン・ウェンヅ

 三峡ダムの建設に伴い、水中に沈むことになる集落に暮らす秉愛は、体の弱い夫と2人の子供を抱え、毎日身を粉にして働いていた。そんな秉愛の集落もいよいよ退去しなければならなくなるが、秉愛は頑として退去に応じず、役人の度重なる要請も断って毎日畑に通うのだった…
 日本留学中に小川紳介の作品を見てドキュメンタリーを撮り始めたという監督が7年間にわたって撮影した作品。2007年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でアジア最優秀賞に当たる「小川紳介賞」を受賞した。

 作品は主人公の“おばさん”秉愛の恋の思い出のモノローグではじまる。夕暮れの川辺で洗濯をする秉愛の映像をバックに「昔は恋をした」なんていう語りがつけられる。このシーンの眼目は望まない結婚だったということであり、それにもかかわらずいまは彼女は家族のために頑張っているのだ。彼女は、役人たちに反論して追い返し、自分の畑を見下ろしながら、畑を広げてもっと豊かな生活を送るという夢を語る。

 その彼女の姿は、強い“母”として魅力的である。貧しさにも苦境にも負けずに家族のために頑張るという母親像が明確なものとしてイメージされている。そして、「強い」と同時に「優しく」もある。役人とのやり取りでは強い口調でまくしたてるが、夫や子供は優しく気遣い、カメラに向かってははにかんだ笑顔を見せる。そんな彼女の人間性がこの作品の最大の魅力なのだろう。

しかし、どこかで自分勝手なのが「中国人らしい」と思ってしまう。日本人の感覚から言うと、ある程度の決め事によって退去せざるを得ないということになってしまえば、仕方ないから退去して、その上で交渉をするというのが「普通の」感覚だと思うのだが、この秉愛は納得がいかないことは納得がいかないといい続け、退去すること自体を拒否する。

 そして、その自分勝手さが非常によく出ているのが、村の話し合いの光景だ。このシーンでは村人達が移住後の土地の割り当てなどについて話し合っているのだが、一人の男が突然「自分を特別扱いしろ」と言い出す。そうでなくても点でばらばらな発言をしてまとまりのない話し合いは、さらにまとまらなくなるのだが、最後はなんとなく挙手によって話が決まる。

 これはその土地の雰囲気が生々しく伝わってくる非常にいいシーンだと思う。そしてそれは同時に観ている者との価値観の違いも浮き彫りにする。ドキュメンタリーというのはその対象となっているものに共感しなければ意味がないものではない。そこに映っているリアルと自分のリアルとがぶつかることで、自分のリアルを相対的に眺めることができるということによっても意味を生み出すことができるのだ。

 そして、このシーンは同時に村人達と秉愛との違いも明らかにする。秉愛はあくまでも自分と家族というたち位置を明確にして、そこから移住ということを考えているのに対し、村人達は他の人との相対的な関係として移住を考えているのだ。秉愛はおそらく村では少し孤立した存在で、その違和感がこの作品に絶妙の味わいを与えているのだろう。

 難点はといえば、この三峡ダムの計画の全貌が明らかにならない点だ。三峡ダムという巨大なダムの建設の事実と、それに伴う住民の退去という事実を知っていて見始めればよいが、そのような予備知識なしにいきなり見始めると、このおばさんはいったい何をごねているのかという気分になる。彼女の家の場所と畑の場所、そして移住場所として割り当てられた土地との位置関係も今ひとつわかりにくいので、彼女の訴えの切実さが今ひとつ伝わってこないのだ。たとえば、彼女が家から畑に向かう道のりや、そこから新しい移住場所を見上げる画があれば、描かれている空間がとらえやすくなり、もっと秉愛と感覚を共有できたのではないかと思う。

 監督によれば、秉愛以外の女性を中心に撮ったフィルムもあり、それらを編集してまた違う作品を作るという。そちらを見れば全貌がわかりやすくなり、この『秉愛』についても理解が進むのではないかと思う。

マーゴット・ウェディング

登場人物がみな情緒不安定、見ているほうが不安になる“サイコ”映画

Margot at the Wedding
2007年,アメリカ,93分
監督:ノア・バームバック
脚本:ノア・バームバック
撮影:ハリス・サヴィデス
出演:ニコール・キッドマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ゼイン・バイス、ジャック・ブラック、ジョン・タトゥーロ

 作家のマーゴットは長く不仲だった妹のポーリンの結婚式のために息子のクロードと生家を訪れる。彼女は定職を持たない妹の婚約者に不満を述べ、隣家との間にいさかいを起こし、集まった人々は徐々に不満を募らせてゆく…
『イカとクジラ』のノア・バームバックが監督したファミリー・ドラマ。

 不仲だった妹の結婚式に出席するために生家を訪れるという導入、さらにジャック・ブラックが登場してアットホームなヒューマンドラマかと思うが、主演がニコール・キッドマンなだけにそうは行かない。ニコール・キッドマン演じるマーゴットはジャック・ブラック演じる妹の婚約者マルコムをろくでもないやつと決めてかかる。

 このマーゴットは柔らかな物腰ながら久しぶりに会った妹を支配しようとし、すべてが自分の思い通りに運ぶようにしなければ気がすまない。それはわがままというよりは独善的、自分の意見だけを信じ、周囲のことはまったく気にも留めない。そして自分の意見を押し付け、周囲がそれに同意するのが当然と思っている。

 こういういやな女を演じさせたらニコール・キッドマンはうまい。さすがに年とともに小じわは目立つようになったが、冷たい印象は健在、氷のような美人とはまさにニコール・キッドマンのためにある言葉だと思ってしまう。

 しかもこのマーゴットは非常に不安定な女だ。自信満々に振舞いながらも実は常に不安に襲われていて、人のあら探しばかりし、自分の不安感は薬に頼らなければてなづけることができない。

 そして、彼女に振り回せれる周囲の人々も不安定な人ばかり。これではまったくかみ合わず、はっきりとした物語は生まれないのは当たり前のこと。もちろんそれが狙いなのだろうけれど、こういう散漫な物語というのはどうも苦手だ。

 それでもそんな母親を慕い、母親の元から離れようとしない息子のクロードの存在は非常に印象的だ。マーゴットはもちろんクロードも自分の思うままになるように仕向け、ある程度それに成功しているわけだけれど、さすがに息子も母親の不安定さやいやらしさに気づいてもいる。母親への愛情と世間の評価との間の齟齬に戸惑う彼の心理はこの映画にわずかな実感を与えている。

 最後の最後までこのマーゴットの行動は予想がつかない。見るものはその予想のつかなさに不安になり、映画の中に何か確かなものがないかと探してみるのだが、唯一確かなものであったはずの大木も切り倒され、探る手は虚空で空を切るばかりだ。そんなどこを向いても見通しの聞かない世界の中で、同じく途方にくれるジャック・ブラックがわずかながら唯一、共感を覚えうる存在だった。彼が象徴する男の矮小さ、だらしなさ、見栄っ張りなところにはうなずける。

 もしかしたら女性はポーリンにそれを見出すのかもしれないが、とにもかくにも不安を掻き立てる映画だ。