リトル★ニッキー

Little Nicky
2000年,アメリカ,93分
監督:スティーヴン・ブリル
脚本:ティム・ハーリヒー、アダム・サンドラー、スティーヴン・ブリル
撮影:テオ・ヴァン・デ・サンデ
音楽:テディ・カステルッチ
出演:アダム・サンドラー、ハーヴェイ・カイテル、パトリシア・アークエット、リス・アイファンズ

 魔王が在位1万年を迎える年、魔王は退位し3人の息子のうちの誰かが王位を継ぐと見られていた。しかし、魔王は息子たちの未熟さを理由にもう1万年留意することに決めた。それに腹を立てたエイドリアンとカシアスの兄弟は地上を新たな地獄に変えようと地獄を飛び出してしまい、地獄の業火が凍ってしまい、魔王の命も徐々にすり減っていった。その地獄の危機を救うため、気の優しいへヴィメタファンの3男ニッキーが二人の兄を連れ戻すため地上に行くことになった。
 ドタバタコメディの名手アダム・サンドラー主演の地獄コメディ。アダム・サンドラーらしさは随所に見られるが、パロディ色が強く、日本人にはなじみにくいかもしれない。

 アダム・サンドラーはいつものようにおバカな役回り。魔王の息子なので強いはずなんだけど、基本的にはおバカということで、いつもどおりのキャラクター。このキャラクターはなかなかよくできていて、シャベルで殴られて顔がゆがんだというのも(ずっと顔をゆがめて演技している)、ナヨナヨ声というのもなかなかいい。おバカなコメディではあるけれど、ちょっとハートウォーミングなところもうまく混ざる。というあたりはまあまあという感じ。
 しかし、この映画は基本的にパロディ、といっても何かの映画のパロディではなくて、現実のパロディ。だからいろいろな人が本人役で出てくる。ダン・マリーノとかオジー・オズボーンがわからないとちょっと笑いが減ってしまう。ヒトラーはさすがにわかるけれど、ヒトラーのねたはいまいち面白くない。ハーレム・グローブトロッターズは知っている人が多いかもしれないけれど、知らない人にはちいとも面白くない。ということですね。
 アメリカ人はパロディ好きだというのはよく言われることですが、実際本当にそうなのかはわからない。実際、この映画はアメリカでもあまり評判が芳しくなく、ラジー賞で5部門にノミネート(受賞はなし)。私はブス役をやったパトリシア・アークエットはなかなかよかったと思いますが、ワースト助演女優賞にノミネートされました。この年は「バトルフィールド・アース」という強敵がいたために1つも賞を取れなかったんでしょう(ほしくないだろうけれど)。ちなみに、バトルフィールド・アースは7部門で受賞。
 ラジー賞の話はいいとしても、この映画はアメリカ本国でも今ひとつだったわけで、となるとアメリカ人は別にパロディが好きというわけでもないということかもしれない。多分、パロディは短絡的に笑いにつながりそうだと思ってしまうんでしょうね。

ベティ・サイズモア

Nurse Betty
2000年,アメリカ,112分
監督:ニール・ラビュート
脚本:ジョン・リチャーズ、ジェームズ・フラムバーグ
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ロルフ・ケント
出演:レニー・ゼルウィガー、モーガン・フリーマン、クリス・ロック、グレッグ・キニア、アーロン・エッカート

 カンザスの田舎町でウェイトレスをしているベティは昼メロ「愛のすべて」に夢中で、その主人公の医師デヴィッドにあこがれていた。誕生日にはウェイトレス仲間からデヴィッドのパネルをもらい、友達と出かけようと中古車ディーラーの夫のビュイックを拝借した。しかし友達は都合が悪く、家でビデオを見ることに。そこに夫が客を連れて帰ってきて、商談を始めるが、話はだんだん怪しい方向に…
 『ブリジット・ジョーンズの日記』でブレイクしたレニー・ゼルウィガー主演のサスペンス・コメディ。カンヌで脚本賞を受賞しただけに、物語はなかなか不思議な展開をしていく。登場人物たちもそれぞれが魅力的でいい。爆笑というわけではないが、見ながらニヤニヤしてしまう、そんなドラマ。

 不思議といってしまうと、一言で終わってしまうので、そうは言わず、創意工夫が凝らされた映画といいましょう。この映画の狙いは不思議さであり、不思議さを狙って作られた映画を「不思議な映画だった」ということは、アクション映画を見て「アクション映画だった」というのと同じで、まるで何も行っていないことになってしまう。この映画のすべての下にあるのが「不思議さ」で、コメディ映画とかサスペンス映画とかいうジャンルでこの映画を分類すると、「不思議映画」になると思えるくらい「不思議な」映画。
 でも不思議さというのにはいろいろあり、この映画はその中でもおかしさを生み出すような不思議さを目指している。それはある種の予想される展開からのずらし、ストーリーがあってそれに笑いを加味していくというコメディに一般的な展開に沿っているようで沿っていないネタの配し方、などによって生み出されている。
 だから、笑いはたいてい驚きとともにある。それは時には本当は笑えないシーンであったりもする。ウェズリーがデルの頭の皮をはぐシーン、それだけ見れば笑うところではないのだけれど、どこかおかしさを誘うようなところがある。ベティの思い込みも、笑っていないで何らかの対応をするべきで、精神科医にあたるとか、ベティを正気に戻らせようとするのをドラマにすることも可能だったと思うが、この映画ではその問題はおいておいてとにかく話を前にするめる。そこから生まれる笑いは何かこう消化不良のような引っ掛かりがある笑い。
 何かすっきりしないというか、解決しない問題をいろいろ抱えたままいろいろなネタが繰り出され、結局それは解決しない。アー、なんだかすっきりしない!という感じですが、それも多分狙いでしょう。

 こういう、微妙にずらした映画を見るときにいつも感じるのは、見る環境によって映画の見え方が違ってくるんだろうなぁ、ということ。映画館でたくさんのいい観客に囲まれて、いい雰囲気で見る(つまり、タイミングよくみんなが笑ったりする)のと、家で一人でビデオで見るのとはぜんぜん違う。たぶん映画館で見たほうが面白いでしょう。でも、映画館でもタイミングをはずして笑ったり、とにかく大爆笑したりする人がいると、こっちは興ざめということになりますが、そういうはずした人が結構でそうな映画でもあります。
 これはいつも言っていることですが、映画とは観客がいてはじめて完成するもの、観客は一人でも一万人でもかまわないわけですが、観客と映像作品との関係性こそが映画というものだということです。こういう微妙なコメディを見ると、そのように観客の存在が映画にかかわってくるということを意識します。だからこのような映画を自分の見た環境を問うことなく評価してしまうのは気が引けます。もう一度違う環境で見たらまったく違う感想を持つんじゃないかと思ってしまう。
 私は一人で家でテレビで(ビデオではなく)見ましたが、できればあまり人のいない二番館(そんな言葉もう使わないか)あたりで見たい映画でした。

ウェディング・プランナー

The Wedding Planner
2001年,アメリカ,103分
監督:アダム・シャンクマン
脚本:パメラ・フォーク、マイケル・エリス
撮影:ジュリオ・マカット
音楽:マーヴィン・ウォーレン
出演:ジェニファー・ロペス、マシュー・マコノヒー、ブリジット・ウィルソン、ジャスティン・チャンバース

 子供のころからロマンティックな結婚式にあこがれ、結婚式を取り仕切るウェディング・プランナーとなったメアリーは会社の中でもダントツのやり手だが、自分の恋のほうはさっぱり。そんな彼女が大会社の娘フランの結婚式のプロデュースをすることになった。その打ち合わせの帰り、危ないところを小児科医のスティーヴに助けられ、メアリーは恋に落ちる…
 ジェニファー・ロペスがコメディ初主演、普段とは違うキュートさを強調する。ライトなラブ・コメディとしてはそれなりに笑え、それなりに面白い。話の展開がわかり安すぎるのと、ジェニファー・ロペスの演技がもうひとつなのがちょっとね。

 ジェニファー・ロペスは結構好きなんですが、特に『アウト・オブ・サイト』はかなりいい映画だと思いました。基本的に顔がきついのでアクション映画とか、シリアスな感じのほうがぴたりとはまる。もちろんだからといって、それにはまってしまってはいけないし、『ザ・セル』みないにシリアスな役でも失敗することはある。この映画も特に違和感があるわけではないし、酔っ払いの演技なんかはなかなかうまいと思うし、ダンスもさすがにうまい。でも、ちょっと眺めのクロースアップのシーンがあって、そこでは表情で演技をして、感情を伝えようとしているのはわかるんだけれど、顔のつくりが大きいせいか、どうも表情が大げさでとても自然とは言いがたかった。そのあたりの演技力をもっと磨いていただきたいと思うしだいであります。
 これはあくまでもコメディ、しかもライト・コメディなので、演技派的な濃い演技は求められておらず、あくまでも自然に、さりげなく演じなければならないはず。その点では助演のふたり、メアリーの助手のペニー(ジュディ・グリア)と押しかけ婚約者のイタリア男(ジャスティン・チャンバース)が今後、コメディのいい脇役として登場するのではないかと期待が持てます。マシュー・マコノヒーはちょっと濃すぎた気がします。そういえば、花嫁フラン役のブリジット・ウィルソンはテニスプレイヤーのピート・サンプラスの奥さんだそうです。

 ラブ・コメディの素材としては結婚式というのは定番のようで、なかなか佳作と呼べるようなものも多いですね。近いところでは『ウェディング・シンガー』や『フォー・ウェディング』あたりがあるでしょうか。にもかかわらず、この映画が今ひとつになってしまったのは、やはりキャスティングがいまいちだったということでしょう。この映画は製作にメグ・ライアンが絡んでいるらしく、言われてみればメグ・ライアンが(若かったら)出ていそうな映画。そのほうが見てみたかったな。ジェニファー・ロペスも悪くないし、この映画はジェニファー・ロペスでもっているといっても過言ではないけれど、それでも違う人のほうがよかった。と思います。

Les Rivieres Pourpres
2000年,フランス,105分
監督:マチュー・カソヴィッツ
原作:ジャン=クリフトフ・グランジェ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ジャン・レノ、ヴァンサン・カッセル、ナディア・ファレス、ドミニク・サンダ

 フランスの山沿いの村ゲルノンで手を切断され、眼球をくりぬかれ、体中に切り傷をつけられた死体が見つかった。その村はフランス有数の大学を擁し、学長が村長並みの権力を持つ村だったが、殺された男もその大学の職員だった。その捜査にパリからニーマンス警視が派遣される。一方、200キロ離れたザルザックでは子供の墓があらされるという事件がおき、新任の警部補マックスがその捜査に当たっていた。
 複雑に絡み合う殺人事件のなぞを解く二人の刑事をジャン・レノとヴァンサン・カッセルが演じる描いたサスペンスドラマ。原作はフランスでベストセラーとなった小説で、さすがにスリル満点だが、オチがちょっと弱い気もする。

 冒頭の死体を克明に映しながらタイトルクレジットを流すところからして映像にかなりの緊迫感がある。全体的にもブルーのトーン、雪山、雨がちということもあり暗めの画面構成で、いかにもサスペンスという雰囲気が漂う。
 大学というある種の聖域をサスペンスの舞台にしたのもかなりうまく、それも含めて謎解きという点ではおそらく原作の面白さがそのまま映画に反映しているということができるだろう(原作読んでないけど)。結末の部分は原作と同じなのかもしれないけれど、なんだかあっさりしすぎていて、「そうなの?」とちょっと拍子抜けという感じがするのが珠に瑕。最後まで緊迫感を漂わせたまま終われれば、サスペンスの名作になったかもしれないのに。
 映画的には二人の刑事がとてもいい。ジャン・レノはちょっと太めだけれど、そこに貫禄があって、無愛想な役にはぴったり。でもヴァンサン・カッセルのほうがこの映画では味がある。破天荒なようでいながら非常に誠実にことを進める。それでいて三枚目としての役割も負っている。このような役まわりの登場人物がいるところがこの映画のフランス映画らしい(ハリウッド映画とは違う)ところだろうか。
 あとは、恐怖心をあおるような音楽をやたらとつかって、本当に何かがおきるのがどこかわからなくなっている。あまりに何か起こりそうで見え見えというのもどうかと思うけれど、使いすぎるのもどうかなという感じ。観客の緊張感を持続させるという意味ではいいのだけれど、そうして引っ張り続けた緊張感に見合うだけの結末を用意できなかっただけに、少々過剰演出かという気がしてしまう。
 つまり、結局のところこの映画の難点はオチの弱さというところに終始し、映画全編に漂う緊張感が最後まで維持できなかったというところに問題があるということ。それ以外は本当にいい映画でした。

水の女

2002年,日本,115分
監督:杉森秀則
脚本:杉森秀則
撮影:町田博
音楽:菅野よう子
出演:UA、浅野忠信、HIKARU、江夏豊、小川眞由美

 小さな町で父親と銭湯を営む涼は清水涼という名の通り、自他ともに認める「雨女」、大事な日にはいつも雨が降る。親知らずを抜くことになっていた日も雨、婚約者で警察官のヨシオはその雨の中で事故をおこして死んでしまう。その同じ日、父親の忠雄も心臓発作を起こし、おがくずの中に倒れ、そのまま死んでしまった。失意に沈んだ涼は一人旅に出て、そこで自由な女ユキノに出会って少し元気を取り戻した涼が家に帰ると、食卓で見知らぬ男が食事をしていた…
 ギリシャ自然哲学において宇宙の四元素とされる水・風・火・土が出会う場所としての銭湯を舞台に、CMやTVドラマで活躍する杉森秀則がオリジナル脚本撮った初監督作品。

 人間よりも自然を主役にしようという意識、それはカットが切り替わるとき、画面の中心に木や草や水や空が映っている場面がいかに多いか、ということからも伺える。人間は端のほうに映っていたり、あるいはフレームインしてきたりと、自然の事物よりも後から観客に捉えられるようになっている。
 このような自然の扱い方は少々露骨過ぎる気もする。だが、人間を物事の中心に据えず、人と物とを等価に扱おうとする姿勢は、いわゆる日本映画というイメージにぴたりとはまる。そしてこの静謐さや、超現実的な出来事を日常の中に紛れ込ませるやり方など、この映画のいろいろな要素は現代の日本映画とはかくあるべきだ、とでも言いたげな印象を与える。
 ここで言う「現代日本映画」とは、実験精神にあふれた世界映画ではなくて、あくまでも「日本映画」という範疇にとどまって、その中である種の新しさと伝統を調和させる方法、たとえば北野武もそのような日本映画の作家だと思うが、この監督も映画の色は違うが、そのような哲学を持って映画をつくっていると思う。

 現代の日本映画が持つ傾向は各国の映画の垣根を取り払って一種の「世界映画」になろうとする動きと「日本映画」というブランドを掲げて世界に出て行こうという動き、の2つがあると思う。この2つの動きはともにハリウッド映画と微妙な関係を持っていて、前者は自ら世界映画たらんとするハリウッド映画を取り入れ、消化し、それを乗り越えて、あるいはハリウッドをも巻き込んで「世界映画」たらんとする世界的なムーヴメントの一端を担うものとして存在している。
 これに対して後者は、ハリウッドに支配される世界の映画市場にあって、それとは別の価値を生産するひとつのジャンルとして存在する。この場合、「世界」を市場とすることはできないが、世界中にある日本映画、あるいはアジア映画の市場にはすんなりと入り込める。
 この二つのどちらかがよくて、どちらかが悪いということではなくて、今世界に向けて生産される日本映画には2種類あって、この映画は2つのうちの後者、つまりいわゆる「日本映画」として世界の市場に受け入れられるような映画であり、その中ではなかなか質のよいものである、ということ。しかもそれは、キタノのように外国向けに日本というものを見せるのではなく、日本人に日本を見せるものとして優れているのだ。
 これが意味するのは、日本人はこの映画を評価しなければならないということだ。世界的には評価されなかったとしても、日本でも「UA」という話題以外でしか取り上げられなかったとしても、そのような外から押し付けられた仮面の奥にあるこの映画の真価は評価されるべきものだと思う。

ロバート・イーズ

Southern Comfort
2000年,アメリカ,90分
監督:ケイト・デイヴィス
撮影:ケイト・デイヴィス
音楽:ジョエル・ハリソン
出演:ロバート・イーズ、ローラ・コーラ

 典型的な南部の郊外のトレーラー・ハウスで暮らすロバート・イーズ。どこから見ても普通のおじさんという彼だが、実は女性として生まれ二人の子供まで生んだ後、性転換手術を受け、男性となった。そして今は、子宮と卵巣が末期のがんに侵され、余命いくばくもない状態だった。しかし、彼は秋に開かれるトランスセクシャルの大会(サザン・コンフォート)にもう一度参加することを夢見て、パートナーのローラと懸命に生きるのだった。
 アメリカでも好機の目にさらされるTS(トランスセクシャル)やTG(トランスジェンダー)の問題と真っ向から向かい合ったドキュメンタリー。非常にわかりやすく問題の所在を描き出している。

 TSやTGという人は実際はきっとたくさんいて、ただそれが余りメディアに登場しない。日本では金八先生で「性同一性障害」が取り上げられて話題になったけれど、本当はこれを病気として扱うことにも問題がある。しかし、この映画でも言われているように、性転換手術には膨大な費用がかかるので、保険の問題から病気といわざるを得ないということは言える。性別の自己決定権というかなり難しい問題を理解するひとつの方法としてこの映画は多少の役には立つ。
 実際の問題はそのような理知的なレベルではなくて、いわゆる偏見のレベルにある。「気持ち悪い」とか「親にもらった体なのに」という周りの偏見や勝手な思い込み、これが彼らのみに重くのしかかる。マックスの妹のように身近にそのような人がいればその痛みがわかるのだろうけれど、いないとなかなかわからない。だからこの映画のように、メディアを通じてその痛みを感じさせてくれるようなものを見る。それでも本当の痛みはわからないけれど、何もわからず彼らを痛めつけてしまうよりはいいだろう。
 この映画は、ひとつの映画としては死期の迫った一人の男を追ったドキュメンタリーにすぎず、彼がたまたまトランスジェンダーであったというだけに見える。そのことが強調されてはいるが、それによって何か事件が起こったりするわけではない。穏やかに、普通の人と同じく、一つの生きがいを持って(TSの大会に参加すること)、生きる男の物語。
 だから、特にスペクタクルで面白いというものではないけれど、逆にこのように普通であることが重要なのだ。「普通の人と同じく」と書いたけれど、彼らだって普通の人と変わらないということをそれを意識することなく感じ取れること。つまり、「彼らも普通の人と変わらないんだ」と思うことではなく、「何だ、普通の話じゃん」と思えてこそ、彼らの気持ちに近づいているのだと思う。
 そう考えると、この映画は見ている人の意識を喚起させるのには役立つけれど、彼らは普通の人とは違うととらえているところがあるという点では被写体との間すこし距離があるのではないかと思う。

浅草キッドの 浅草キッド

2002年,日本,111分
監督:篠崎誠
原作:ビートたけし
脚本:ダンカン
撮影:武内克己
音楽:奥田民生
出演:水道橋博士、玉袋筋太郎、石倉三郎、深浦加奈子、井上晴美、内海桂子、寺島進

 芸人を志して浅草にやってきたタケシ。しかし、何をすればいいかもわからず、ふと見かけたフランス座の「コント」というのに興味を引かれる。そして受付のおばさんに進められるままにエレベーターボーイをすることにするが、ほうきとちりとりを渡されて怒って帰ってしまう。しかし、その夜、居候している友人が音楽の夢を捨ててサラリーマンになるということを聞いてそこを飛び出し、フランス座で働くことにした。
 ビートたけしが浅草時代について書いた自伝小説をダンカンが脚色し、篠崎誠が監督したスカイパーフェクトTV用オリジナルドラマ。今や大監督となった北野武の芸人としての原点を映画にするという面白さがそこにはある。芸人が数多く出演していることで、即興的な面白さも加味され、かなり楽しめる作品になっている。

 まだ生きている人の伝記を映画化するというのはそもそも難しい。しかも、その相手がいまや映画監督となっているとなるとなおさらだ。しかし、この映画はその原作に忠実であるよりはドラマとしての面白さを追求することで、その第一の難関を見事に越えた。おそらく脚本の段階で相当に原作が崩されていると思うが、時代設定などを厳密にして、伝記とするのではなく、「ビートたけし」という名を借りながら、ある程度の普遍性を持つキャラクターを再創造しているところがポイントになる。
 この映画に時代設定はなく、物語を考えると70年代くらい、小道具や風景などは現代、フランス座は十数年前まであったから、そのあたりでも問題はない。そもそも主演の浅草キッドも十数年前にフランス座で修行をしていたから、彼らにとっても自分の伝記を演じているような感じもあっただろう。そのように時代をあいまいにすることは、近過去を描く作品が流れがちなノスタルジーという罠から逃れる方法としても成功している(昔ながらの店先を短いカットでつないだシーンはちょっとノスタルジーのにおいがしたが)。
 ノスタルジーから逃れることが重要なのは、そのことによって映画が現代性を獲得できるからだ。ノスタルジーにはまってしまった映画はそのノスタルジーを共有できる人にとっては甘美なものだが、それを共有できない人も多い。それでいいというのならいいのだが、より一般的な価値というか面白さを志向する場合、ノスタルジーはその障害になってしまう。だからこの映画がノスタルジーから逃れようとしたのは正しいし、およそ成功していると思う。

 さて、原作や時代とのかかわりはそんな感じですが、映画として私が気に入ったのはひとつはコメディとしての面白さ。映画全体としてのコメディとしての面白さというよりは局面局面のネタの面白さ。「ちゃんとやってるんだー」ということがわかったつぶやきシローの転んだり、頭をぶつけたりという細かいネタ。石倉三郎と水道橋博士のやり取り、そのあたりが面白い。
 もうひとつはラストちょっと前あたりのすうシーン、タケシと井上の二人が居酒屋で話し始めるとき、最初いっぱいいっぱいの2ショットだったのが、井上の表情にひきつけられるようにズームアップしていくカット、ここもなかなか。一番いいのは、それにつながる、タケシが薄暗がりの浅草を仲見世まで歩いていくシーン。この2カットでできたシーンは表情がほとんど見えない薄暗いところから微妙に光の下限が変わりながら、3分くらい歩くシーンが続き、最後にぱっと仲見世の明かりが見える。このバックにはこの映画で唯一といっていいくらいのBGMが流れる。限られた場所で効果的にBGMを使うのは篠崎誠の特徴のひとつであるけれど、この映画でもここのBGMが非常に効果的。
 このシーンの余韻はその後の数カット続き、まったくせりふがないままドラマだけが進み、何も語らず、何も書き残さず井上は去っていくわけだが、その長い無言の後に吐かれる「出て行きたいやつは出て行けばいい」というセリフ、ここから次のカットへのつながりまでが本当にすばらしい。この10分から15分くらいの4シーン10カット程度のシークエンスを見るだけでもこの映画を見る価値はあると思う。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

旅の途中で FARDA

2002年,日本=イラン,106分
監督:中山節夫
脚本:横田与志
撮影:古山正
出演:宍戸開、オスマン・ムハマドパラスト、忍足亜希子、寺田農、保坂尚輝

 自動車の部品メーカーでサラリーマンで忙しく働く井沢、学生時代の友人で画家の木田の個展に呼ばれ、出かけると、そこに浩子が来ていた。浩子は井沢がかつて世話になっていた町工場の社長村田の娘で、昔は親しく付き合っていたが、井沢の会社が切り捨てたことで工場は倒産してしまっていた。そのとき、村田が心臓発作で倒れたという知らせが入る…
 競争社会に飽み疲れたサラリーマンがイランを旅するというロードムービー。アッバス・キアロスタミ監修の下でイラン・ロケを敢行。日本人の目からイランを見ることができるという面ではいい。

 すごく普通というか、まともな映画で、設定や物語は古臭ささえ感じるほどオーソドックスである。人を探すたびが自分探しのたびになるというロードムービーの王道を臆面もなく堂々と展開する。もちろんそれが悪いというわけではないけれど、それではあまりに話が予想通りに進みすぎる。
 言葉をしゃべれないヒロインを登場させて、ちょっとアクセントをつけてはいるものの、その恋愛物語は映画の主プロットからは完全に外れていて、なんだかとってつけたような内容。しかも手話の場面でBGMが流してしまうのもなんともわかりやすいというか、わかりやすくしようとしすぎている。
 この映画の新しさはイランということ。イラン映画はこれまでも数多く日本に入ってきて、イランがどのようなところであるかはそれらの映画を見ればなんとなくわかる。しかしそれはあくまでイラン人が作ったイラン映画であって、日本人が見たとしても、それはイラン人としてその映画世界に入っていく。しかし、この映画を見ることは日本人としてイランに入っていく体験だ。その意味では映画において始めてイランと日本が本当に出会ったといっていいのだろう(私の知らない映画があるかもしれないけど)。
 この映画を見ていいと感じるのは、ほとんどすべてがイランのよさである。その風景、その音楽、その人間、それらイランなるものがすべていい。「急ぐのは悪魔の仕業」ということわざはこの映画のことは忘れてしまっても、忘れることのできない言葉だ。あまりに日本語をしゃべれるイラン人に出会いすぎという気はするが、それもまたイランと日本の「近さ」を表現しようとするひとつの誇張であると捉えれば首肯できる。

 しかし、この映画の主人公の幼稚さにはちょっと辟易する。恋愛話でも言葉が通じないからとか、そんなことをいっているが、そんな段階でくよくよ悩んでいるんじゃどうしよううもないわけで、そんなことわざわざイランまで来なくてもわかるだろうという気がしてしまう。
 わざわざイランまで来て受け取るべきものはもっと違うものだったはずで、たとえば、彼が敬虔な仏教徒のように手を合わせて祈ること。もちろん彼は日本ではそんなことはしていないはずで、神の国イランにふさわしいと思うから普段やらないそのような所作を思わずしてしまう。ということについて思いをはせれば、もっと深い部分にある何かを受け取れたんじゃないか。
 映画を見ているわれわれのほうが実際にイランに行ったはずの主人公よりイランから多くのものを受け取っているような気がしてしまい、その分この主人公が薄っぺらな感じがしてしまう。

隣のヒットマン

The Whole Nine Yards
2001年,アメリカ,99分
監督:ジョナサン・リン
脚本:ミッチェル・カプナー
撮影:デヴィッド・フランコ
音楽:ランディ・エデルマン
出演:ブルース・ウィリス、マシュー・ペリー、ロザンナ・アークエット、マイケル・クラーク・ダンカン

 歯科医のオズの隣に一人の男が引っ越してきた。なんだか見たことがあると思ったオズはすぐにその男が17人もの人を殺し、マフィアのボスを売って短い刑期で出てきた名高い殺し屋ジミー・チュデスキだということに気付く。そしてオズは、折り合いのよくない妻のソフィアに半ば脅されるようにシカゴにジミーを密告にいくはめに…
 ブルース・ウィリスと『フレンズ』のマシュー・ペリー共演のサスペンスコメディ。物語の転がり方が面白く、なかなか楽しく見ることができる。監督はヒット作はないものの地味にコメディを採り続けている監督ジョナサン・リン。

 サスペンス・コメディというジャンルはどうかと思いますが、この映画は間違いなくサスペンス・コメディで、なかなかうまくいっている。ひとつは脚本のうまさで、サスペンスの展開として重要な出来事をうまく笑いに結び付けている。ネタはばらせませんが、オズのアシスタントのジルが・・・だったというのはなかなかうまい展開と舌を巻きました。
 あとは、キャスティングのうまさでしょうか。『フレンズ』のマシュー・ペリーはもちろん、ジル役のアマンダ・ピートも『ジャック&ジル』というコメディに出ていて(こっちでの役名はジャックなので、多分意識している)、少なくともアメリカ人にとっては喜劇役者として一応知られている人たちなわけです。ブルース・ウィリスも今はムキムキマッチョ君になってしまいましたが、もとはといえば、『こちらブルームーン探偵社』でとぼけた役をやっていたわけで、それを考えると、これは喜劇役者を集めてサスペンスをとってみた映画。ということなのかもしれません。
 だからなんとなく全体的にサスペンスの「間」ではなくて、コメディの「間」になっている。もちろん監督がコメディ畑の監督だというのもあるんでしょうけれど。しかし、だからといって笑えるかといえば、別に笑えるわけでもなく、はらはらするかといえばそれほどはらはらするわけでもなく、中途半端といってしまえばそれまでの作品ですが、わたしはこういう根本的にうそっぽいドラマは大好きです。ここまで明るく人を殺せる人はなかなかいないね。
 好みは分かれるところかとは思いますが、いろいろ辻褄が合っていないと、落ち着かない人は見ないほうがいいと思います。テキトーなことが好きな人は結構つぼにはまるかと思います。