ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

木靴の樹

L’Albero Degli Zoccoli
1978年,イタリア,187分
監督:エルマンノ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:エルマンノ・オルミ
出演:ルイジ・オルナーギ、オマール・ブリニョッリ

 19世紀末のイタリアの農村、地主に収穫の3分の2を取られながら、その土地にすがるしかない農民たち。そんな農民の一人バティスティは神父に進められて息子を学校にやることにした。しかし、生活は依然として苦しい。
 貧しい農民たちの暮らしを淡々と描く作品。舞台を19世紀末と設定したことによりかろうじてフィクションの形をとっているが、映画の作り方としてはドキュメンタリーに近いものといえる。

 この映画がフィクションであると断言できるのは、最初に説明される19世紀末という設定があるからである。この映画が撮られた時代を含む現代ではこのような農村は存在しなくなってしまい、このような映画をドキュメンタリーで撮ることは難しくなってしまった。だから、この映画はフィクションとしてとられるしかなかったのだ。しかし、あえて言うならばこの映画はドキュメンタリーであってもよかった。ありえないことは承知でこれを19世紀末の農村に関するドキュメンタリーと言い切ってもよかったはずだ。
 この映画で19世紀末の農民たちを演じているのはおそらく現代の農民たちで、彼らは自分たちの先祖を追体験しているのだ。それほどまでにこの映像は真に迫っている。農民たちの真剣な目、土に向かうひたむきな姿勢、機械のない前近代的な農業にしか宿ることのない美しさがそこにある。
 ここに見えてくるのはフィクションとドキュメンタリーの、あるいは劇映画と記録映画の境界のあいまいさだ。この映画で作家が提示したかったものは、現代には存在せず、19世紀にしか存在しなかった。それが具体的になんであるかということはこの映画はあからさまには主張しないが、おそらく現代に対する一種の批判であるだろう。人と家畜が、あるいは人と植物が、人と土が親密であった時代から現代を批判する。もちろん、その時代はただ美しいだけではなく、非人間的な生活を強要され、生きにくい時代でもあっただろう。この映画はその両方を提示しているが、力点が置かれているのは美しさのほうだ。だから、彼らが悲劇的な境遇から救われたり、自ら抵抗の道を選ぼうとはしない。これがフィクションであり、ひとつのドラマであり、虐げられた人々のドラマであると了解している観客は彼らがどこかで立ち上がり、自由を勝ち取るのだと期待する。そのように期待して遅々として進まないストーリーを追い、画面の端々に注意を向ける。

しかし、この映画ではそのような抵抗や革命は起こらない。それはこの映画から数十年前に同じイタリアで作られたネオ・リアリズモ映画ならありえた展開だが、この映画ではそれは起こりえない。観客は裏切られ、この映画の劇性に疑問を持つ。しかし、観客が裏切られたと気付くのはすでに映画を見始めてから2時間半が経ったときである。単純な日常を切り取っただけの映画、まるでドキュメンタリーのようなフィクション。そのとき観客はすでに、そのような映画であるとわかった映画の世界に入り込んでしまっている。ドキュメンタリーであるフィクション。黙ってただ立ち去る彼らを見ながら、やり場のない怒りを感じながら、しかしその怒りを映画に向けるわけにはいけないことを知っている。これはドキュメンタリーであって、フィクションではないのだから、映画には結末を操作できないのだと。そのような幻覚を抱かざるを得ない。彼らは別の土地に移り住み、やはり土とともに生き、しかし今よりさらに過酷な生活を強いられるのだとわかっているから。

鬼が来た!

鬼子来了
2000年,中国,140分
監督:チアン・ウェン
原作:ユウ・フェンウェイ
脚本:チアン・ウェン、シー・チュンチュアン、シュー・ピン、リウ・シン
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:リー・ハイイン、ツイ・チェン
出演:チアン・ウェン、香川照之、チアン・ホンポー、ユエン・ティン

 1945年、日本軍占領下の中国の小さな村掛甲台、日本軍の砲台があり毎朝、軍艦マーチがなる村に住む馬大三は愛人と暮らしていた、そんなある夜、謎の中国人が大三に銃を突きつけ、「荷物を預かってくれ」と言った。実はその荷物は日本兵と日本軍の通訳だった…
 『紅いコーリャン』などで知られる俳優チアン・ウェン(姜文)の監督第2作。難しく重いテーマを扱いながら、ブラックユーモアで包み隠し、軽く見られるように仕上げている。

 目につくのは過剰なクロースアップと手持ちカメラで追うアクションシーン。映画のテーマとなるべき部分が語られるとき、カメラは執拗に発話者を追う。丹念に、忠実に発話者の顔を正面からクロースアップで捉える。そのしつこさは耳に聞こえてくる言葉を振り払う。もちろん字幕で読んでいるのだけれど、そもそも耳に聞こえてくるのは言葉であり、その言葉が聞こえなければ、字幕も頭に入ってこない。この映画の言葉は頭に入ってこない。しつこく映されるでかい顔の口が動き、音が出ているのだけれど、その音が意味を成すことはない。
 アクションシーン、手持ちカメラで、動く人を至近距離で捕らえようとするその映像には肝心の人が映っていない。ただ動く何者かがあるだけ。人を斬る瞬間も、走る勢いもそこには映っていない。ただ乗り物酔いを誘うような揺れる画面があるだけ。そこからは中国人と日本軍の関係性は伝わってこない。
 アクションやユーモアでテーマの重さをカヴァーする。それは決して悪いことではない。しかし、そのカヴァーの下のどこかでそのテーマを追求するべきではないだろうか? この映画でその追求されるべきテーマは上滑りするセリフの中にしかない。
 要するに、この映画にはリアルさがない。このリアルでなさの原因は何か。誤解を恐れずに言えば、それはカットの多さ。もちろんカットが多くてもリアルな映画はある。しかし、この映画の場合カットを多く割ることによって、画面と画面のつながりが、そして人と人とのつながりが希薄になる。クロースアップの繰り返しである会話の画面のセリフがなぜ真に迫らないのかと言えば、その一つ一つの発言(一つ一つのカット)が全体から浮いていて、それぞれがひとつの一人語りでしかないからだ。つまりそこには会話が成立していない。役者自身がその人になりきれていないのかもしれない。とにかく、この画面に登場する人たちは生きていないのだとわたしは思う。

吾輩は猫である

1975年,日本,116分
監督:市川崑
原作:夏目漱石
脚本:八住利雄
撮影:岡崎宏三
音楽:宮本光雄
出演:仲代達矢、伊丹十三、岡本信人、島田陽子、岡田茉莉子

 中学校の教師苦沙弥の家に迷い込んだ野良猫。苦沙弥は妻と3人の娘と暮らしている。そこに日参する独身の迷亭、たまにやってくる研究者の寒月、話はその寒月が苦沙弥の家の近くの実業家の金田の娘と知り合ったことから始まる。
 筋があるのかないのかわからない「吾輩は猫である」を見事に映画化。このとりとめのない物語を映画にするのは大変だ。

 前半は本当に取り留めなく、まさに「吾輩は猫である」の世界のごとく展開してゆく。こういうのをなんというのでしょう。わびさび? ちょっと違う。しかし、劇中で出てきた句「行水の 女にほれる カラスかな」とはまさに作品の感じで、ちょっとしたおかしさと余韻のようなものを含んでいるような気がします。迷亭というのがその不思議な感じを出す最大の要因で、原作でもそんなキャラクターだったかどうかは思い出せませんが、この映画では前半部の主役といっていいキャラクターなわけです。
 しかし、この映画そのまま最後まで行ってしまうのではなく、中盤からちょっとした物語性を帯びて、苦沙弥が主役らしい主役になっていく。苦沙弥の苦悩というものが映画のテーマになっていくわけです。とりとめのないまま最後まで行ってもいいのかと思いますが、この映画の展開の仕方はなかなか見事ですね。いつそんなまっとうな物語が始まったのかわからないまま、気付いてみればその物語に巻き込まれている。とりとめのない話の間に苦沙弥&迷亭の味方になってしまった観客は苦沙弥の苦悩に呼び込まれていってしまうわけです。そこにさらに猫がうまく絡み合って… とラストまでドラマを帯びながらもどこかシュールで、依然としてどこか俳句の世界のような余韻を残しながら映画が展開していくところがいい。のでした。
 やはり市川崑は市川崑。面白い映画を作り続けるのでした。そうえいば、1955年には「こころ」も映画化しています。みたことないですが、見たほうがいいのかもしれない。この『吾輩は猫である』を見る限り市川崑はなかなか漱石と相性がいいのかもしれない。イメージとしては谷崎なんかのほうがありますが、志賀直哉の『破戒』なんかもあるし、古典文学といわれるものを映画化するのが得意なのかもしれませんね。

探偵マイク・ハマー/俺が掟だ

I, the Jury
1982年,アメリカ,111分
監督:リチャード・T・へフロン
原作:ミッキー・スピレーン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:アンドリュー・ラズロ
音楽:ビル・コンティ
出演:アーマンド・アサンテ、バーバラ・カレラ、アラン・キング

 私立探偵のマイク・ハマーは親友のジャックが殺されたと聞き、現場に駆けつける。ジャックはベトナムでマイクのために片腕を失ったのだった。マイクは犯人を突き止め、復讐をしようと独自の調査を開始する。最初に行き当たったのは「セックス治療」と称してセックスを売り物にするシャーロットだった…
 ミッキー・スピレーンの人気探偵小説の映画かで、この映画以降TVシリーズも作られた作品。あくの強い主人公マイク・ハマーが気に入れば、つぼに入る。

 どうでしょう、この手のアクションは。かなり暗く、激しく、あくの強いドラマで、人もたくさん死ぬ。マイク・ハマー自体10年ぶりくらいに見て、その昔見たのはこれではなく、ステイシー・キーチのTV版だったと気づきました。TV版のほうが当たり前ですが、ソフトで見やすかった気がします。もちろん激しく、エロティックな作品が悪いといっているわけではありませんが、作品全体としてそれが効果的かというとそうでもない。マイク・ハマーという人と、謎解きというメインのライン以外の見せ場として詰め込まれているという印象しかもてない。そこが今ひとつなわけです。
 よかったのはマイク・ハマーのポーカー・フェイスと最後の対決シーンですか。マイク・ハマーのキャラクターはかなりいい。さすがTVシリーズ化されるだけはあるという感じです。
 これだけ書くことが思いつかない映画も珍しいですが、濱マイクとも特に共通点はありません。魚(ハマーは熱帯魚、濱は金魚)を飼っているということくらいでしょうか。

ギター弾きの恋

Sweet and Lowdown
1999年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:フェイ・チャオ
音楽:ディック・ハイマン
出演:ショーン・ペン、サマンサ・モートン、ユマ・サーマン、ウディ・アレン

 ギタリストのエメットはジャンゴ・ラインハルトを除けば、世界で1番うまいと自認し、実際聞くものみなをひきつける腕の持ち主。しかし、酒でステージをすっぽかすことも多く、趣味はねずみを拳銃で撃つことと汽車を眺めることというかなりの変人。そんな変人の生涯をインタビューと再現ドラマで語ろうというドキュメンタリー風伝記。
 感動的なお話で、ショーン・ペンの演技はなかなか。ギターの音もとてもいい。しかし、ウッディ・アレン自身が冒頭に登場し、作りものじみたつくりになっているところがあまり…

 要するにこれは、ドキュメンタリー風ドラマを装った完全なドラマなわけで、映画の構造もウディ・アレンの遊びなわけです。おそらく、ジャズ好きのウディ・アレンが古きよき時代の雰囲気を引っ張り出すために作り出したキャラクター。最初は本当にいたのかと思わせるけれど、徐々にフィクショナルな人物であることがわかるという感じ。
 最後の2人の関係は『カイロの紫のバラ』ににて、なかなかいい。おそらくハティは結婚なんてしていなくて、でもエメットにはそういってしまった。その後の結末がちゃんとついているところは『カイロ…』と違うように思えるけれど、消息不明というところで、いろいろな可能性が考えられる。たとえば、やっぱりハティのところに戻り、ハティと一緒になったとか。
 というラストあたりの感情の機微以外は特に見るものはなく、後は音楽がなかなかいいというくらいのもの。さすがにギター弾きの映画だけあって、ギターの音色には気を使っていて、響き方でエメットのものだとわかるような音の使い方をしていたのが印象的。
 やはり最初からウディ・アレン自身が出てきてしまったのがよくなかったのでしょうか。こんな変なドキュメンタリー風ドラマにしないで、ひとつの架空の人物のドラマとして描けばこんなつまらないことにならなかった気もします。ストーリーテラーとしては一流だけれど、映画作家としてはやはりどうなのかというのが感想になってしまいました。どうも映画に対するスタンスが中途半端で、『カイロ…』の映画に対する哲学的な姿勢はたまたまなのかと思ってしまう。それとも真摯に映画に取り組むことに対するテレがあるのか…

カイロの紫のバラ

The Purple Rose of Cairo
1985年,アメリカ,82分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、ダイアン・ウィースト

 大恐慌期のアメリカ。シンシアは姉と同じ店でウェイトレスをし、仕事もなくぶらぶらしている夫に邪険にされながら、映画館に熱心に通う。彼女のお気に入りは『カイロの紫のバラ』、ミスを繰り返しウェイトレスをクビになった日、泣きながら映画を見ていると、映画の登場人物が彼女に話しかけてくる。
 ウッディ・アレンのラブ・ロマンス、その独特の世界観は理不尽なのだけれど、破綻をきたさずそこにあり、われわれの心の何かをくすぐる。

 理不尽な映画、誰もがそう感じるだろう。スクリーンから現実に飛び出す人。スクリーンの中に残り、逃げ出してしまったことを何日にも渡って愚痴り続ける出演者たち。登場人物がスクリーンから逃げ出してしまったことをあまり不思議にも思わず受け入れてしまう人々。「そんなはずないだろう」という反論がすぐに口をつく。しかし、映画の中にそんな反論を言い出す人はいない。この反論する人を登場させないところがウディ・アレンの巧妙さだ。普通は、反論する人を登場させ、それがありえるかありえないかが物語のひとつの核になっていく。そうさせないためにウッディ・アレンは反論の芽を摘む。「スクリーンから人が出てきてしまうことはありうべきことなのだ」という了解を無理やり作り出してしまう。映画を見ているわれわれは最初は首肯じ得ないものの、いつしかそれに従わざるを得ないことに気付く。ストーリーはどんどん展開していくから、それがありえないんだという主張を映画に対して投げかける余地はなく、その疑問はいつしか気にならなくなってくる。このあたりが巧妙だと思う。この映画にはスクリーンと現実の世界の間に何らかのルールが存在し、登場人物たちはみなそれを了解している。それはもちろん彼らみながスクリーン上の夢の存在に過ぎないからだ。見ている側にそのルールは説明されていないが、聞く暇がない以上、そのルールを受け入れて映画を見るしかない。そのルールが受け入れられないと、この映画は恐ろしくつまらない映画になってしまう。だからウッディ・アレンは見ている人たちがそのルールを受け入れざるを得ないように巧妙に映画を組み立てているのだ。
 そのルールをわれわれが受け入れるということは、自分自身をシンシアと同じ立場におくということにも通じる。劇中劇を見ていたシンシアのようにわたしたちはこの映画を見ている。その二重性(あるいは三重性)もこの映画の作戦のひとつだ。ゴダールが『女と男のいる舗道』で『裁かるるジャンヌ』を引き合いに出したように、映画の中で映画を上映することで観客が存在している空間を映画の中の空間と不可分なものとする。この観客が存在している空間と映画の中の空間のつながりをファンタジックに描いたのがこの映画だ。この映画は『キートンの探偵学入門』と対比されることがあり(『キートン…』のほうはバスター・キートンがスクリーンの中に入り込む)、それと比べて「笑えない」という評価がされることが多いようだ。しかし、キートンのそれは映画の中の世界と現実の世界との断絶を笑いにしているの対して、ウッディ・アレンのそれはその境界の不明確さを笑いにしているのだから、この二つは似て非なるものだと思う。
 意地の悪い見方をすれば、確かにゴダールの域にも、キートンの域にも達していない映画となるのだろうけれど、わたしはこのようなあいまいな空間に見るものを引き込む映画は感覚的にわかりやすくていいと思う。映画の中のファンタジーと現実の関係性を包む映画全体がファンタジーであるという関係性が、この映画とわれわれにとっての現実との関係性の鏡像であるという感覚。ファンタジックに表現するならば、この映画を見ているわれわれを見ている観客がまた存在しているかもしれないということ。あるいは、劇中劇の役者が言っていたように、映画こそが現実で、われわれのいる世界こそが幻影なのかもしれないということ。そのような可能性が感覚として伝わってくるというのがこの映画の最もすばらしい点だと思う。
 わたしはこれをウッディ・アレンの最高傑作に推したい。ダニー・アイエロも好き。

燃えよドラゴン

Enter The Dragon
1973年,香港=アメリカ,103分
監督:ロバート・クローズ
脚本:マイケル・オーリン
撮影:ギルバート・ハッブス
音楽:ラロ・シフリン
出演:ブルース・リー、ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン

 少林寺でも随一の実力を持つリーは師から少林寺の精神を裏切ったハンの話を聞かされ、アメリカの役人からハンの島への潜入操作を依頼される。さらに、自分の妹が命を落とした真実を聞かされ、ハンの島で開かれる武芸トーナメントに参加することに決めた。
 香港で名声を極めたブルース・リーがアメリカンメジャー初の香港ロケ映画に主演。しかし、公開直前に謎の死を遂げてしまった。映画はブルース・リーの死後、約3分間がカットされて公開。現在はその3分間を入れなおしたディレクターズ・カット版が発売されている。

 ブルース・リーがいなければどうしょうもない映画になっていたでしょう。話の筋もよくわからないし、プロットに必然性があまりにもないわけです。ハンが謎の人物ということですべての不合理が片付けられる。鏡の部屋がなぜあるのかは見当もつかない。そんな映画なわけですが、そのすべてをブルースリーのアクションと、筋肉と、目と、眉間の皺で補って余りある。なんといっても、倒れた相手の内臓に蹴り込むシーンの顔のアップ。うーん、こんなに切なく人を殺せる人は映画史上他にいません。
 監督としては(あるいはブルース・リーが)いろいろなメッセージをこめようとして、おそらく監督のほうは、ウィリアムスとローパーにヴェトナム帰りという背景を持たせ、ウィリアムスと警官のいざこざや、その語りでメッセージをこめようとしているのだけれど、それはあけすけ過ぎて今ひとつ伝わってこない。それよりもブルース・リーが自らの体(たとえばやはりあの顔)で語る哲学のようなもののほうが観客の心に伝わってくるわけです。
 だから、どう振り返ってみてもこれはブルース・リーの映画で、パラマウントのブルース・リーをアメリカ映画に取り込もうという作戦は失敗している。確かにブルース・リーは英語をしゃべっているけれど、それは香港を体現するものでしかなく、アメリカ映画にはならない。むしろアメリカ人たちはお客様で香港人による香港の物語となってしまう。
 つまり、ブルース・リーはかっこいい、他に並ぶもののないアクターだということ。この映画はそれが香港だけではなくて、ハリウッドにも通じるのだということを証明しているのだと思います。ブルース・リーの映画で他に面白いものもありますが、ブルース・リーを評価する上ではこの事実を逃すわけには行かないということでしょう。
 余談を2つ。娘のシャノン・リーは1998年に『エンター・ザ・イーグル』という作品に主演しています。しかし邦題は『燃えよイーグル』ではなくて、原題のまま。『燃えよイーグル』にしたらヒットしたかもしれないのに。
 あとは、最初にブルース・リーと組み手をしているのはどう見てもサモ・ハン・キン・ポー。ちょっとやせていますが、やはり身軽でバック転を軽々としているので確かでしょう。

我が人生最悪の時

1994年,日本,92分
監督:林海象
脚本:林海象、天願大介
撮影:長田勇市
音楽:めいなCo.
出演:永瀬正敏、南原清隆、楊海平、宍戸錠

 黄金町の名画座・横浜日劇の2階に事務所を構える私立探偵の濱マイク(本名)やってくる以来は人探しばかりだが、人探しのスペシャリストとして仕事はしっかりこなしていた。そんなある日、仲間と雀荘でマージャンを打っていたところ、やくざ風の男が、日本語のたどたどしい店員のヤンにいちゃもんをつけたことがきっかけで、喧嘩に巻き込まれてしまう。
 林海象×永瀬正敏の「濱マイク」シリーズの1作目。コミカルさも併せ持つスタイリッシュな1作。

 鈴木清順が掘り起こされたのは90年代、アメリカでタランティーノが『レザボア・ドックス』を撮ったころ。この作品も鈴木清順に敬意を払い、エースの錠を復活させて、鈴木清順の流麗なカメラをまねる。拳銃を持ってにらみ合う二人を切り返しではなく、移動カメラで捉える。その捉え方に清順の影を見る。
 日本映画にはありえないようなスタイリッシュな格好よさも清順ゆずりか、あるいは、ともに清順を消化したアメリカのインディーズ映画の影響か。懐から武器を取り出そうとするヤンをほんのわずかな動作で止める濱マイクの格好よさは日本映画にはなかなかない。ともあれ、全体を通じるスタイリッシュな感じというのは、清順であり、タランティーノであるとわたしは思います。
 ところで、その武器を取り出そうとしたところですでにヤンの素性にある程度感ずいていたはずのマイクを最後まであくまでヤンの味方に、ヤンを信じさせるように仕向けるものはなんなのか? マイクがそこまでヤンに肩入れする理由はなんなのか? 映画の中でも問いが投げかけられるがそれに対する答えはない。そして映画の中からそれが伝わってくることもない。そのあたりを緻密に描ければ、スタイリッシュであると同時にロマンティックな映画となれたのだと思う。そのロマンティックさの欠如がラストへの盛り上がりと観客の感情移入を妨げる。
 ロマンティックさを排除するならば、あのようなウェットな終盤は不必要で、あくまでクールにばっさりと終わってしまったほうがよかった。あの終盤を描きたいのなら、もっとマイクの視点に観客を引き込むべきだった。そのどちらにも徹しきれなかったところがこの映画の残念なところだと思います。

悪魔のいけにえ

The Texas Chainswa Massacre
1974年,アメリカ,84分
監督:トビー・フーパー
脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル
撮影:ダニエル・パール
音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー
出演:マリリン・バーンズ、ガンナー・ハンセン、エド・ニール

 墓から死体が掘り起こされるという事件が相次いだテキサスのある街。フランクリン兄妹とそのともだちは、祖父の墓の安全を確認しつつ、今は廃屋となっている昔住んだ家を訪れようと計画していた。途中、気の狂ったハイカーを乗せ、ガソリンスタンドではガソリンがないといわれ、それでもとりあえず家にたどり着いた…
 実際に起きた事件をもとに、ホラー映画界の伝説的な一本が生まれた。衝撃的な内容と演出はこれ以降のホラー映画に多大な影響を与えた。

 「ホラー映画なんて…」とか「ホラー映画は嫌い」という前に、この映画は見なくてはならない。もちろん怖い、神経に障る、非常にいらだたしい映画。しかし、それは同時にこの映画がすごいということでもある。観客の心理をそれだけ操作する映画。しかも、血飛沫が飛び散ったり、グロテスクなシーンがあったりするわけではない。人が殺されるシーンでも、切られるシーンでも、首が飛んだりすることはない。それにしてこの恐ろしさ。それは緻密に計算された画面の構成、音楽の利用の仕方。惨劇のシーンを直接見せるのではなく、そのシーンを直視したものを映すことによって、その衝撃を伝えるというやり方が、非常に効果的。
 最初の殺人シーンはでは、何かありそうでいながらも、彼らの心情に合わせるかのように淡々と日常を切り取っていく。しかし、最初の殺人、そしてその痙攣(死ぬ人が痙攣するというのは映画史上初だという話もある)の後、カメラも音楽もいかにもホラー映画という調子に変わっていく。そのあたりの転調も見事だし、その変わる部分のシークエンスが最高。ちょっとネタばれになりますが、最初の殺人が起きるシーンには全く音楽が使われておらず、しかもロングショットで起きるというアンチクライマックス。その不意をつく見せ方がすばらしい。
 そして、後半の叫び声。これはかなり神経に来る。これだけ徹底的にやるのは本当にすごいと思う。チェーンソーとか、ハンマーとか、即物的なものに恐怖があると思われがちだけれど、この映画で一番恐ろしいのはこの叫び声だと思う。見ているものの心をつかんで引っ掻き回すような叫び声。このシーンにもう映像はいらないのかもしれない。彼らが何をやっていても、ただひたすら続く叫び声でその恐ろしさがあらわされてしまう。だから彼らが何をやっていてもあまり関係ない。そしてその叫び声がやむ瞬間、映画は新たに展開し、その終わり方もまたすばらしい。なんともいえない終わり方というのでしょうか。すべてが終わったとはわかるけれど、どこかに残る後味の悪さ。という感じです。
 怖いです、とても怖いです。最後まで見られないかもしれません。しかし、それはこの映画が面白いということの証明でもあるのです。現在も映画監督たちはこの映画を見て、その魅力にとりつかれ、引用を繰り返す。それほどまでにすごい映画。なのです。

 逃げ出す瞬間に感じる美しさは、それまでの不安感が一因にある。単純なくらい画面から明るい画面への転換、夜明けの空の美しさだけに還元できない心理的な美しさ。脳に直接突き刺さるかのような叫び声がやんだ瞬間に無意識に生まれる安堵感が、その画を「美しい」と感じさせる一因になっていると思う。
 つまり、この美しさは映画の文脈を離れては味わうことのできない美しさであるということ。しかもその原因がすぐには意識に上ってこないというのも面白い。ただ「美しい」と感じたとき、その原因は画面の美しさにあると感じる。しかし、仮にそのカットだけを見せられたときにそれほどの美しさを感じるかといえば、そんなことは無いように思える。