華氏451

Fahrenheit 451
1966年,イギリス=フランス,112分
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック

 モンターグは、全面的に禁止されている本を探索し焼却する「消防士」として有能な青年で、上司に昇進も約束されていた。ある日モンテーグは帰りのモノレールの中で近所に住むクラリスという女性に声をかけられ、クラリスは「本を読んだことがあるの?」と聞く。家でテレビを見、くすりで恍惚感に浸るばかりの妻と見た目はそっくりながらはつらつとしたクラリスに魅かれた彼は徐々に彼女と親しくなっていく。
 トリュフォーがレイ・ブラッドベリの近未来SFを映画化。初の英語圏作品だが、ニコラス・ローグ、バーナード・ハーマンなど多彩な才能に恵まれ、フランス語作品に全く見劣りしない作品に仕上がっている。

 最初の「逃げて」「逃げて」「逃げて」からかなりすごい。
 おそらくこれは原作も非常に面白いはずで、それを見事に映像化したトリュフォーもすごいということ。原作ということで言えば、「本が禁じられる」という設定と、それを取り締まる「消防士(fireman)」という発想が非常にうまい(全部が耐火住宅になったからって、消防士がいらなくなるという設定はかなり無理があるけれど)。禁止されるということと欲望との関係、それを本を利用してうまく描いているということ。
 しかし、やはりさらにすごいのはトリュフォー。近未来の世界観。1960年代から見た近未来なので、今頃のことかもしれない。壁にかけられたスクリーン、モノレール、規格化された住宅、などなど細部ではいろいろと「ちょっとね」と思うところもあるけれど、ひとつの寒々しい時代のイメージを作るのに成功している。「消防車」以外に車が全く走っていないというのも非常に印象的な設定である。そして本が燃えていくシーンのすばらしさ。本を読むシーンのすばらしさ。このすばらしさは主人公のモンターグよりむしろ「本」に焦点を当てることによって可能になっているのだろう。もちろん普通に考えれば主人公はモンターグなのだけれど、無表情で言葉すくなな彼の心情を明らかにすることよりも、彼が魅入られた本を描くことで彼と彼に代表される本に魅入られる人々の心理を審らかにあらわす。
 本が燃えていくシーンに心動かされるのは、そのように「本」というものに感情移入ではないけれど、愛着を覚えているから。そしてそのような「本」への愛着を生み出すのもその本が燃えていくシーンであるというのも面白い。繰り返される本が燃やされるシーン、そのそれぞれを自分がどのように見つめているのか、それを見つめ返してみるとこの映画のすごさがわかるのだと思う。
 そのように「本」への愛着がわけば、おのずとラストシーンもしっくり来るでしょう。ラストシーンは映像もとても効果的。ラストに限らず、この映画の映像はかなりいい。特に人間があまりいないシーンがいいですね。ネガとか、そんな実験的なものはちょっとよくわからなかったですが、ただ風景が映っているようなシーン、あるいは人がすごく小さく写っているようなシーンの構図がとても美しかった。

傷だらけの山河

1964年,日本,152分
監督:山本薩夫
原作:石川達三
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:山村聡、若尾文子、船越英二、村瀬幸子

 有馬勝平は自ら築き上げた企業グループの会長を務め、辣腕を振るっていた。彼には正妻のほかに3人の妾がおり、そこにも子供がいた。時折妾の下もたずねながら、息子たちに自分の哲学を語る。そんな彼が娘婿との会談にお茶を持ってきた事務員に目をかける…
 事業の鬼と化した男をめぐる事件とスキャンダル。豪華キャストで、しっかりとしたスタッフが作り出した骨太の力作。

 映画を製作会社で見るのはなんだかマニアックな印象がありますが、この当時(昭和30年代前後)の映画を見ていると、製作会社ごとの色彩というのがわかってきます。役者たちも製作会社が同じなら、同じ人が出てくることが多いので、製作会社を意識せざるを得ない。で、この映画は大映のわけですが、わたしは大映ファンということで、この映画を見てかなりつぼに入るわけです。大映といえばやはり増村ですが、山本薩夫もかなりのもの。監督はさておいたとしても、脚本が新藤兼人、カメラが小林節雄と来れば、大映らしさが感じ取れます。役者で言っても、若尾文子はもちろんのこと、船越英二や川崎敬三、高松英郎などが出てきて、「やっぱ大映だね」と思わされるのでした。
 他には松竹、東映、日活などがあるわけで、一番の大手といえば松竹となりますが、わたしは大映が好き。ということです。
 さて、製作会社の話はさておき、この映画ですが、映画の全体を通して、非常に激しく、なんだか戦争映画のような印象です。最初のほうはカメラも遠めで、落ち着いた始まりですが、物語が進むにつれ、山村聡がクロースアップで恫喝する場面などがかなり出てきて、激しくなる。当時の企業間の競争はいわば戦争のようなもので、それを見事にフィルムに写し撮ったということなのでしょう。だからかなりの迫力があって、2時間半という時間もあっという間に過ぎます。白黒、シネスコという今は敬遠されがちなフォーマットながら、全くそんなことは関係なく面白い。これは女性関係と事業という二つの軸をうまく絡み合わせているからでしょう。どちらかが中心になってしまって、物語が平行するというようなことになってしまうとおそらく全体が散漫な印象になってしまう。それをプロットの段階でうまくより合わせて、複雑な一つの物語にしたことがこれだけの迫力ある映画を作れた要因だと思います。さすが新藤兼人というところですね。
 そして、この映画は画面から人と人との距離感がよく出ていると思います。横長の画面いっぱいを使って、端と端に人を配す場面、片側に寄せて密着させる場面、その距離感が関係をわかりやすく表現する。さすが小林節雄ということころですね。
 そして、若尾文子はやっぱりいいな。となります。やはり。

四畳半襖の裏張り

1973年,日本,72分
監督:神代辰巳
原作:永井荷風
脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久
音楽:菊川芳江
出演:宮下順子、丘奈保美、絵沢萌子、江角英明

 大正中期の東京の花街、芸者の袖子は客に呼ばれ座敷に上がる。客は30代くらいのちょっといい男。男は早速袖子を寝屋へと連れて行く。「初会の客には気をやるな」という黒地に白の字幕が出て、ふたりは蚊帳の中布団の中で格闘し始める…
 永井荷風の小説を映画化した日活ロマンポルノの名作。ポルノはポルノだが、非常に不思議な映画。

 とても変な映画ですよこれは。ポルノ映画なので、袖子は冒頭からセックスシーンに突入し、それは延々と30分くらいまで続くわけですが、それと平行して花枝の物語が語られる。兵隊さんが出てきて「時間がないんだよ~」といっているのも面白いですが、それはともかくその二つの物語の間の切り替えが不思議。袖子のあえぎ声からいきなりトイレ掃除のシーンに飛んだり、その飛び方が尋常ではないわけです。
 そのミスマッチに笑ってしまうけれど、真面目な顔して考えてみると、それが現実というものなのかもしれない。映画というものは概してセックスにロマンティシズムを持ち込みすぎ、それを何か現実と乖離したもののように描いてしまいがちではないですか。ポルノ映画は一般的にはロマンティシズムとは逆の方向で現実からかけ離れたものとするけれど、この映画はセックスを見事に現実の只中に投げ込む。
 同時に描かれる戦争というものも本来は現実とはかけ離れたところにあるものだけれど、セックスというものを介在させることによってそれを現実に近づける。生活とセックスと戦争とが密接にひとつの現実として立ち現れてくるような空間。そんな空間がこの映画にはあるのではないでしょうか。
 そんな風に空間が成り立ちうるのはこの映画が描いているのが花街であり、セックスと非常に近いところにいる人たちだからだという風に最初は思うのですが、話が進むにつれその考えが間違っていたと思うようになる。後半は花街の人たちだって他の人たちとちっとも変わらないということが描かれているような気がする。それに気づかせてくれるのは最後のシークエンス。そして(ついつい笑ってしまう)終わり方。

全線

Staroye i Novoye
1929年,ソ連,84分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
出演:マルファ・ラブキナ、M・イワーニン

 革命前の慣習が残る農村では、土地は相続されるためにどんどん細分化されてゆき、暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。そんな貧農の一人マルファは馬を持たず、牛に畑を耕させるがなかなかうまくいかない。中には自分で鋤を引き、畑を耕そうとする農夫もいた。そんな現実に我慢できないマルファはソヴィエトの提案するコルホーズの組織に賛成し、積極的に参加してゆく。
 『戦艦ポチョムキン』で世界的名声をえたエイゼンシュテインの革命賛歌。

 これは一種のプロパガンダ映画で、ソヴィエトがコルホーズによって農民を組織することで、農民たちの暮らしがどれだけ楽になるかを描いたということはわざわざ書くまでもないが、それを誰に向けたのかということは問題となるかもしれない。被写体となっている農民たち自身に向けているのか、それとも革命に参加したような都市の人々に農村の問題を投げかけようとしているのか。映画を見ると、農村の人たちに向けた映画のように見えるが、上映する手段はあったのだろうか? と、考えるとむしろ都市部の人たちに向けた映画であるような気がする。あるいは、ソ連の外の人たちにも向けているかもしれない。すでに国際的な注目を集める監督であったエイゼンシュテインの作品を使って共産主義思想の浸透を図る。別に革命へ導くというまでの意図はないにしても、ソヴィエトというものがどのようなものかを教える。そしてそれが有益なものであると感じさせる。そのような意図が映画全体から見えてくる。
 そんな映画を共産主義体制が崩壊してしまった今見ること。それが意味するのは当時の意図とは異なってくる。むしろその意図を見る。映画がそのような何かを変えようという意図を持って作られるということ。そのことが重要なのかもしれないと思う。映画が産業ではなかったソ連で作られた映画を見ることは、現代にも意味を持つと思う。
 その意味はまた考えることにして、もうちょっと映画に近づいてみていくと、エイゼンシュテインのカッティングはすごい。映画前編で使われるクロース・アップの連続もすごいけれど、最初のほうでのこぎりで木を切るシーンに圧倒される。のこぎりを引くリズムに合わせて大胆に切り返される画面が作る躍動感はすごい。まさに音が聞こえる映像。画面が切り返されるたびに「ギッ」という音が聞こえてくる。ただ、これだけ細かくカットを割っていくと、どうしてもフィクショナルな印象になってしまう観があり、このような映画にはマイナスかもしれない。しかし、現在の視点からはこのエイゼンシュテインの表現はすばらしいものに見える。これだけダイナミックな映像を作り上げられるエイゼンシュテインはやっぱりすごい。

この素晴らしき世界

Musime si Pomahat
2000年,チェコ,123分
監督:ヤン・フジェベイク
脚本:ペトル・ヤルホフスキー
撮影:ヤン・マリーシュ
音楽:アレシュ・ブジェズィナ
出演:ポレスラフ・ポリーフカ、アンナ・シィシェコヴァー、ヤロスラフ・ドゥシェク、チョンゴル・カッシャイ

 第二次大戦下のチェコ。ユダヤ人で工場を経営するヴィーネル家の家族はナチスに家を接収され、街中に居を移す。そしてさらにポーランドのゲットーへの移住を命じられる。隣に住むチージェク夫妻は彼らの身を案じつつ、彼らを見送るしかなかった。そしてその数年後、そのチージェク夫妻の下に収容所を逃げ出したヴィーネル家の息子ダヴィドがやってくる…
 ナチス-ユダヤをめぐる映画のチェコ版。ストレートに感動させるヒューマンドラマ。『ライフ・イズ・ビューティフル』に感動できた人ならば、きっとはまるはず。

 ストーリーはとても面白いです。プロットもよい。ちなみに、一応解説しますが、ストーリーとは映画全体の物語の流れ、プロットとは映画で描かれるシーンの流れです。ちょっと聞くと同じものであるように聞こえますが、ストーリーというのはプロットでは省かれている物語も含むという点が違います。基本的に映画を作るとき(脚本を書くとき)にはストーリーからプロットを起こす。つまり映画的な展開になるように場面を省いたり足したりする作業をするようです。わかったようなわからないような説明ですが、ストーリーが面白いというと、お話が面白いということ。プロットが面白いというと映画の展開が面白いということという感じでわたしは使い分けています。
 ちょっと映画の基礎知識の話しになってしまいましたが、映画の話に戻って、こういうホロコーストものは、単純なヒューマンストリーではなくて、はらはらどきどきするところがいいですね。誰が敵で誰が味方か、というようなことを感じながら、その展開を見守る。そのスリルを演出するという点ではこの映画は優れているでしょう。
 しかし、それは逆にこの映画を娯楽作品にしてしまっている。チェコでのホロコーストという題材をシリアスに扱っていながら、そこから踏み込むことはせず、スリルと感動を届けるという話に。
 簡単に言ってしまえばリアルではないということでしょうか。これは完全にお話であって、ひとつのリアルな物語ではないということを感じてしまう。というところです。
 でも、面白いには面白い。です。

マジェスティック

The Majestic
2001年,アメリカ,152分
監督:フランク・ダラボン
脚本:フランク・ダラボン
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:マーク・アイシャム
出演:ジム・キャリー、マーティン・ランドー、ローリー・ホールデン、アマンダ・デトマー

 第二次大戦直後のハリウッド脚本家のピーターは自分の作品が映画化され、その主演女優は自分の恋人とこれから順風満帆な人生が待ち受けていると思っていた。しかし、当時ハリウッドを席巻していた赤狩りの標的になってしまう。まったく身に覚えのなかった彼だったが、逃れられない運命を悟り、あてもなく車を走らせて事故を起こしてしまう…
 『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』という感動作を撮ったフランク・ダラボンがオリジナル脚本で挑む意欲作。ジム・キャリーはすっかりシリアスな役が似合うようになってしまった。

 いわゆる感動作ですが、どうでしょう。ストーリーはなかなか。予想の範囲は出ませんがまあよくできているという感じです。
 いいと思ったのは脇役の使い方。特に「マジェスティック」の人々はとてもいいキャラクターを持っている。タラボン監督というのは脇役の作り方、使い方がうまい人なのかもしれない。それも一人重要な脇役を配するというのではなく、何人も脇役を作ることで、主役を食うほどのキャラクターは生まれないというのがいいのかもしれません。
 ひとつどうかなと思ったのは、今頃、このように赤狩りを批判的に描き、それに立ち向かった(フィクショナルな)ヒーローを描くということはどうなのかと思います。過去を顧みる意味ではいいけれど、こんなに正々堂々と自分は正義の代弁者だというスタンスを取るのはどうなんだと思ってしまいました。
 時代による価値観の違いを見つめることはしないで、今の価値観から過去を無批判に評価しているように見えてしまう。そのような一面的なものの見方はその視線を現代に向けたときに大きな問題を生む危険があるような気がします。現代の多様な価値観もどこか一点から見てしまいはしないかという危惧。
 そんな勝手な推量からこの映画を批判するのもなんなので、批判はしませんが、「ちょっと臆面なさ過ぎるんじゃないの?」と感じたということです。まあ、あくまで娯楽作品なので、それほど小難しく考えることはないかと思いますがね。

阿賀に生きる

1992年,日本,115分
監督:佐藤真
撮影:小林茂
音楽:経麻朗
出演:阿賀野川沿いに住む人々

 新潟県を流れる阿賀野川。沿岸に住む人は愛情を込めて「阿賀」と呼ぶ。佐藤真はスタッフとともにこの阿賀沿いに3年間にわたってキャンプを張り、そこに生きる人たちを撮影した。昭和電工の垂れ流す有機水銀によって引き起こされた新潟水俣病の問題もひとつの焦点となる。
 ドキュメンタリーとはかくありなん。というストレートなドキュメンタリーだが、完成度はかなりのもの。

 ドキュメンタリーを撮るというと、常に問題になってくるのは相手との距離感。それを克服するひとつの方法は時間だ。佐藤真とスタッフは3年間という時間によって阿賀の人たちとの距離感をつめていった。住み着いた初期のエピソードは語られはするもののおそらくあまり使われてはいないだろう。それよりも阿賀の人たちが彼らに慣れ、カメラに慣れて初めて使える映像が撮れるということなのだろう。
 この映画は新潟水俣病の未認定患者という問題はもちろん、他にも主に過疎がもたらすこの地方の問題を提示する。しかし、それを眉間にしわを寄せてみるようなシリアスなものに仕上げるのではなく、生活のほうからその生活に含まれるものとしてあらゆる問題を描く。このあたりがジャーナリズム的な問題の捉え方とは違うところだろう。それを可能にしたのもやはり「時間」だ。
 そして映画としても、しっかりと計算されている。最初のほう、つつが虫除けのお祈りをするシーンで、最初カートを押すおばあさんが映り、右のほうからなにやら祈る音が聞こえる。おばあさんから右にスーッとパンしていくと祈っている光景が映り、字幕で「つつが虫除けのお祈り」と入る。そこからもう一度、左にゆっくりパンするとおばあさんがちょうどついたところで、その祈りの輪に入る。この1カットの描写がとてもいい。他にも風景も非常に美しく捉えられ、ひとつの魅力となる。
 もちろん、被写体となる阿賀の人たちの魅力こそがこの映画の最大の魅力であることは確かだ。船大工の遠藤さんの舟を見つめる目や、長谷川さんが鈎流しをやる時の目は実にさまざまなことを物語る。いくらナレーションしても足りない言葉をその目は語りかけてくる。
 3年間の映像を120分にまとめる。ドキュメンタリーとはそんなものだといってしまえばそれまでだが、この映画を見ていると、その血のにじむような作業で落とされていったフィルムの存在も感じられる。それだけ研ぎ澄まされた、無駄のない編集。「ドキュメンタリー映画の監督っていったい何をするんだ?」と思ってしまうものですが、編集をはじめとしてこの映画はかなり監督の力量が反映されているのではないかと思いました。

Jazz seen/カメラが聴いたジャズ

Jazz Seen: The Life and Times of William Claxton
2001年,ドイツ,80分
監督:ジュリアン・ベネディクト
脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・クレサー
出演:ウィリアム・クラクストン、ペギー・モフィット

 ウェスト・コースと・ジャズのジャケットをはじめとしたアーティスト写真に加えファッション写真でも名を上げた写真家のウィリアム・クラクストン。彼の半生をインタビューに再現ドラマを加えて語る。
 モデルであり、パートナーであるペギー・モフィットに加え、デニス・ホッパー、カサンドラ・ウィルソン、ヘルムート・ニュートン、バーと・バカラックなどが登場し、クラックストンについて、あるいはクラクストンと語る。

 ドキュメンタリーらしいドキュメンタリーというか、しゃれた「知ってるつもり」というか、そんなものです。「知ってるつもり」にしてはセンスもよく、出てくる人たちもものすごいということですが、基本的なスタンスは変わりません。なんといっても再現ドラマを使うというところがなんだかTV番組っぽい。別にTV番組っぽくて悪いということはありませんが、あの再現ドラマは本当に必要だったのか?という疑問は残ります。
 監督のジュリアン・ベネディクトは『BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ』というジャズ・ドキュメンタリーを撮っているだけに、おそらくクラクストンに共感を感じているのでしょう。彼の作品を撮影する仕方は非常にいい。劇中でも述べられているようにクラクストンの写真の構図は非常にすばらしいのですが、その構図の美しさをうまくフィルムにのせている。
 まあしかし、ドキュメンタリー映画というよりはやはり教養番組ととらえたほうがいいんでしょうね。ジャズと写真というなんだかしゃれた教養を身につけた大人のための(あるいは大人になるための)教養番組という感じ。教養番組も面白くないと身につかないので、面白さは必要。この映画を見ていると、クラクストンにも興味がわくし、写真にも興味がわくし、ジャズにも興味がわく。ということで、とてもよい教養番組だということでしょう。
 ヘルムート・ニュートンとの写真の専門的な話とか、4×5のカメラとか、35ミリのフィルムとか、専門的な話もあるのですが、そこを下手に解説しないところがいい。そのわからなさがなんだか味わいでもあるという気がします。

少林サッカー

少林足球
2001年,香港,112分
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー
脚本:チャウ・シンチー、ツァング・カンチョング
撮影:クウェン・パクヒュエン、クォン・ティンウー
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、ン・マンタ、ヴィッキー・チャオ、カレン・モク

 「黄金右脚」といわれる名プレイヤーだったファンはチームメイトのハンが持ちかけた八百長に乗ってしまい、PKをはずして観客に襲われ右脚を折られてしまった。20年後、ファンは変わってスターとなったハンの下で働いていた。 そんなハンが街で少林寺拳法の普及を夢見るシンとである。最初はバカにしていたハンだったが、彼のキックが並々ならぬものであることに気づく…
 香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督主演したアクション・コメディ。ワイヤー・アクションはバリバリ、ネタはベタベタ。

 映画は面白ければいい。ということをこれだけあっけらかんと示されると気持ちがいい。いろいろ言えば、いろいろ言える。しかし、あまり何も言わないほうが面白い。と言いつつ言わねばならないのですが。
 さて、なんといっても目につくのはワイヤー・アクションとCGですね。どちらもどうでもいいところに多用されているのがいい。これはまさに過剰なことが笑いを生むものなわけですが、すべてを笑いに持っていこうというベタベタな精神はちょっと残念です。コメディ映画だからしょうがないし、このままでも十分腹がよじれるほど面白いのですが、もしやっている本人たちはいたって真面目ということが画面に現れつつも、その果てしない過剰さで見ている者を笑わせずにはいないというものが作れれば、それはもう内臓が噴出すほど面白いものになったのではと思います。
 こんなことを真面目につらつらと書いていても仕方ないので、楽しい気分で行きましょう。オープニングのアニメーションは正統派でかっこいいのですが、その前のカンパニー・クレジットからしてパロディです。しかも脈略とは全く関係ありません。パロディといえば、この映画はたくさんのパロディが含まれていますね。踊ったり、ドラゴンだったり、いろいろです。キーパーの人はブルース・リーにそっくりですが、ユニフォームがそろったときにキーパーの服を見て誰かが「それ、かっこいいなあ。交換しようぜ」などといっているのもかなりのもの。このブルース・リー関係ではかなりいろいろなネタがあると思うのですが、ブルース・リーファンというわけではないわたしはたくさん見逃している気がします。 チャウ・シンチーさんは拳法とかやっていたんでしょうかね。それとも香港人にしてみるとこれくらいのことは常識なのか。少林拳とか崋山派とか太極拳とかいろいろ出てきます。そのあたりの違いは今ひとつわかりませんが、面白いからいいか。結局全部それ。
 あまり面白さが伝わっていない気がしますね。まあ、でもこの面白さを文章で伝えるのは無理というもの。
 この映画は熱狂的なファンが多く生まれ、DVDなども企画もののボックスなどが発売されました。そこまでマニアではなくてもチェックしたいのが、字幕版と吹き替え版の違い。セリフの長さが違うので、内容が微妙に変わってくるのはどの映画でも同じですが、この映画の場合、字幕版と吹き替え版でギャグがかなり違います。だから両方見れば、ギャグの量は2倍とは言わないまでも1.2倍くらいにはなるのです。さらに、日本版・香港版・インターナショナル版と3バージョンあるらしいので、それも見比べてみるといろいろと発見があるかもしれません。
 字幕と吹替えの間が開いてしまったので、どこが変わったということはわかりませんが、歌なんかはもちろん日本語になっていたりして、山寺宏一さんの吹替えは適度に音痴でなかなかよかったです。歌のシーンのみんなで踊るのは、なんとなく『ブルース・ブラザーズ』のパロディっぽい気がします。踊りもソウルな感じで、それも安っぽいパパイヤ鈴木的ソウルな感じ。このシーンも結構好きです。

 最後に、こらえられないネタひとつ(字幕にも吹替えにも登場)
 「地球は危ない。火星に戻れ」
 ぷぷぷぷぷ

夏至

A La Verticale de Lete
2000年,フランス=ベトナム,112分
監督:トラン・アン・ユン
脚本:トラン・アン・ユン
撮影:マーク・リー
音楽:トン=ツァ・ティエ
出演:トラン・ヌー・イェン・ケー、グエン・ニュー・クイン、レ・カイン、ゴー・クアン・ハイ

 ハノイに住む4人の兄弟。長女スオン、次女カインの上の2人は夫や子供とともに暮らし、3女リエンと長男のハイは2人で暮らしていた。母の命日に客を呼び、料理を作った姉妹は両親の話をし、母が初恋の人をずっと愛していたと話し合った…
 トラン・アン・ユンが『シクロ』以来で撮った長編作品。今回も舞台はベトナム。淡々とそこに住む人々の生活を描く。

 映画が始まりまず思うのはその部屋のかっこよさ。緑色の壁、掛かった絵など、非常にセンスあふれている。これは美術のセンスの良さなのだろうと思いつつ、兄弟の関係性の描き方もなかなか面白い。リエンのハイに対する思いの寄せ方は近親相姦を予想させ、そんなどろどろのはなしかと思うが、映像はあくまでさわやかでしなやか。
 果たして淡々と物語は続き、それぞれの苦悩が浮かび上がってくるわけだけれど、その中で離縁の人間像がわかってくると最初の心配は杞憂でしかなかったことがわかる。そこで明らかになった人間関係、そしてリエンのあまりに純粋で素朴な人間像がこの物語の生命線だ。
 それ以外の姉妹(とその夫)の物語は、どこにでもあるような物語、さんざん描かれてきた愛の物語。それをアジアテイストに焼き直しただけだ。すべてがこの物語に染まってしまってはこの映画は苦しい。そんな中でリエンの存在ははかなくも貴重である。だから、普通だったらあまりに臭いラストのの裏切りがすっと理解できるのかもしれない。
 さて、それにしてもこの映画、あまりにアジアを売り物にしすぎていやしないか、と思う。ベトナムには行ったことがないので実際のところどうなのかはわからないけれど、ベトナムとは描くも欧米人のアジア像に一致する風景の国なのか?すべての風景がアジア的で、出てくる人たちもアジア的。女の人は黒く長く真っ直ぐな髪、誰もがいわゆるベトナム風のシャツを着ている。それは本当だろうか?確かに、それが本当ではなく、アジア的なるものを売り物にしているとしても、それを非難する理由はないが、アジア的なもので世界的な名声を得て、賞まで取った監督には、一人のアジア人として、そのようなアジア像が欧米人の幻想に過ぎないということを表現する映画をとってほしいという思いを抱く。
 欧米人はいまだにこのような純粋で素朴なイメージをアジアに求めているのかもしれない。だから、彼らに認められるためにはそのようなアジア像を映像にすることがいいのだろう。しかし、それは続けることはその(おそらく)誤ったアジア像を強化することに過ぎず、映画作家ともあろうものがそのような自分たちの文化に対する誤解を放置するだけでなく強化することをしていいのだろうか?という疑問を覚えずにはいられないのだ。
 この映画が与えてくれる長大な(あるいは長すぎる)余白に、わたしはそんなことを考えずにいられなかった。