サイコ

Psycho
1960年,アメリカ,109分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ジョン・ギャビン、ヴェラ・マイルズ

 フェニックスの不動産会社に勤めるマリアンは、たまに出張で町にやってくるサムと昼休みに逢い引きをし、会社に戻る。そして、売り上げの4万ドルを銀行に預けにいくように言われるが、マリアンは頭痛を口実に、帰りに銀行によるといってその4万ドルを持って会社をあとにした。
 ヒッチコックの代表作のひとつであると同時に、映画史上でも古典的ハリウッド映画からアメリカン・ニューシネマへの移行に際する重要な作品と位置づけられるという作品。
 ヒッチコック自身が上映館に「観客の途中入場を禁ずる」というお達しを出したほどなので、見たことない人は、なるべくこれ以上の予備知識を入れないようにしてとりあえず映画を見ましょう。

 この映画はさすがに、何度も見ていて話も覚えているので、何も知らないつもりで見ることはできませんが、わたしの気分としては、初めて見る場合の事にも触れたい。
 この映画を初めて見ると、おそらくあの衝撃シーンにまさしく衝撃を受けるだろう。それは、シーン自体の主人公であったはずのヒロインが死んでしまうということから来る衝撃だ。当時の古典的ハリウッド映画(乱暴に言ってしまえば、観客の視点を主人公と一致させ、最初から最後まで主人公の視点から物語を語る映画)しか見てこなかった観客と比べると、その事実を受け入れることは容易だけれど、その場面を「え?」という一種の驚きを持ってみることは確かだろう。それこそが映画史的に言って非常に重要なことなのだけれど、映画史のことは別にどうでもいいので、今見た場合を語りましょう。今見ると、結局のところ、後半こそが映画の主題で(だからこそ『サイコ』という題名がついている)前半は後半の謎解きへと観客をいざなうための導入であるような気がする。だから、衝撃的であるはずの殺人シーンがイメージとして流布していても、映画の本質的な部分は失われないということだ。
 ということなので、現在では内容を知っていようと知っていまいと、『サイコ』という作品の見え方にそれほど違いはないということになるだろう。そのように考えた上で、この作品のどこがすごいのか? と考えると、それはどうしても歴史的な意味によってしまう。それは『サイコ』以後、サイコのような作品がたくさん作られ、初めて見るにしろ、何度目かに見るにしろ、サイコ的な要素をほかの映画ですでに見たことがあるからだ。音の使い方。それはまさにサイコがサイコであるゆえん。観客の恐怖心をあおるための音の使い方。それはサスペンス映画あるいはホラー映画の基本。むしろそのサイコ的なオーソドックスな使い方を避けることによって映画が成立する。精神分析的な謎解き、あるいは恐怖の演出、それはまさしく「サイコ・スリラー」というもの。
 つまり、『サイコ』を見ると、映画史を意識せずには入られないということ。それはそれより前のいわゆる古典を見るときよりも、である。まあ、見るときはそんなことを意識せず見て、楽しめばいいのですが、見終わってちょっと振り返ってみると、そんな歴史が頭に上ってしまいます。
 マア、細部に入れば、いろいろとマニアックなコメントもあるのですが、そのあたりはまた次の機会に。

舞台恐怖症

Stage Fright
1950年,イギリス,110分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:セルウィン・ジェプソン
脚本:ウィットフィールド・クック
撮影:ウィルキー・クーパー
音楽:レイトン・ルーカス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ジェーン・ワイマン、リチャード・トッド

 舞台俳優のジョナサンが来るまで友人のイヴに告白する。彼は愛人の女優シャーロットが夫を殺し、自分の部屋に助けを求めて駆け込んできたという。そして、その血みどろのドレスを始末しようとしているところを女中に見つかって逃げてきたのだと…
 ハリウッドに渡ったヒッチコックが、イギリスに戻り、ディートリッヒを迎えて撮った作品。おそらくハリウッドとは違うヨーロッパ的なサスペンスを作ろうと考えてのこととみえ、ドラマの仕立て方も謎解き中心の落ち着いたものになっている。

 このサスペンスの展開には賛否両論あると思います。その内容はネタがばれてしまうので言えませんが、結局のところ観客を巧妙にだますことで謎解きが難しくなっているというところがある。ひとつの「うそ」が物語の鍵になるということですね。その「うそ」が見終わったときに映画全体の緊迫感を弱めてしまうような感じになってしまう。そのような意味であまり後味がよくない、ということです。
 が、しかし、その「うそ」に全く気付かなかったわたしは、「してやられた」という気持ちで映画を見終わり、エンドクレジットの直後には「さすがヒッチコックよのお」とさわやかに思っていたのでした。だからこれはこれでいいとわたしは思うのです。後から振り返ってみると、「なんかなぁ」と思うけれど、その120分間は充実したもので、見るほうは純粋に謎解きに頭を使って、あーでもないこーでもないと考えるわけです。この作業が楽しいわけで、それで十分ということです。(だからネタばれは絶対ダメなのね)
 後はディートリッヒということになりますが、この映画のころすでに40代後半、さすがに要望の衰えは隠せません。おそらくハリウッドのライティング技術を生かし、観客の心に残るかこの映像を生かし、美しくは見えるものの、若いジョナサンが夢中になるほど美しいかというとなかなか難しいところです。若さを取り繕うせいか、表情も少し乏しい。まあ、その表情の乏しさは、男を陥れようとする「魔性の女」(ファム・ファタルというらしい)っぽさを演出していていいのですが。
 それにしても、ヒッチコックらしいと思ったのはやはりライティング、大事な場面ではライティングがその恐怖心や、同情心をあおる重要なポイントになっています。先日の『レベッカ』のときも書いた気がしますが、ヒッチコックはやはりライティングが重要なのでしょう。後は、ヒッチコック自身がどこに登場するかということも!

PARTY7

2000年,日本,104分
監督:石井克人
原作:石井克人
脚本:石井克人
撮影:町田博
音楽:ジェイムス下地
出演:永瀬正敏、浅野忠信、原田芳雄、堀部圭亮、佐藤明美

 郊外もかなり田舎に経つホテル・ニューメキシコ、めったに客もこなさそうなホテルにやってきたチンピラ三木、薄暗いどう見てもまとうではないが、三木の知り合いらしいおばさんのやっている旅行会社の紹介でやってきた。
 一方、オキタはのぞきで何度も刑務所に入っていた男、その父親の友人がそのホテル・ニューメキシコのオーナーで、のぞき部屋を作ってあった。
 奇才石井克人がなんとも不思議な作品を作った。

 オープニングのアニメは長すぎると思う。それはさておき、こういういわゆるスタイリッシュな現代風の映画は、とっぴな発想が重要な要素となるだけに、下ネタに笑いを求めたりする。下ネタ字体は悪くないけれど、それが下品になってしまうと、どうにも苦い映画になってしまう。この映画は時折下品な方向に偏ってしまいがちで、そのあたりが問題なのかもしれない。
 ノゾキ部屋の浅野忠信と原田芳雄の会話などはなかなか面白い。しかし、それが父親の話になって、言い争いになったあたりから収拾がつかなくなり、ユーモアの範囲にとどまらなくなってくる。永瀬正敏のいる部屋のほうでも、3人でもめている段階では、悪くないのだけれど、堀部がやってきたあたりから、どうも切れがなくなる。それでも、時折面白いネタがはさまれるので見通すできるけれど、映画が進むにつれて面白くなくなっていくことは確かだ。
 それは何故かと考えると、映画として全体の脈略がない。特殊な効果をねらう(松金よね子が高速にページをめくったり、永瀬正敏がトランクを隠すとき、ジャンプカットの連続になる)こと自体はいいし、ここの場面は面白いものになっているのだけれど、それが映画の脈略の中で必要かというと特に必要でもないし、全体のスタイルも統一されていない。そのような(チープな)特殊効果を使って映像を見せようというなら、それで押し切ればいいのに、時々思い出したように使われるだけ。その単発的な感じが今ひとつというところ。
 いいところをあげるなら、浅野忠信。浅野忠信は最初から最後まで一人で頑張る。それほどセリフがあるわけでもないけれど、キャラクターもしっかりしているし、おかしさを全身で表現しているような気がする。どうせなら、のぞき部屋の視点だけで全編を見てみたかった。親切にすべてのいきさつやネタをばらしていくのはくどいというか、観客をバカにしているというか、観客の想像力をもっと信用して映画を作ってもいいような気がした。そのような意味でものぞき部屋視点で作ってもいい気がした。

ふたつの時、ふたりの時間

那邊幾點
2001年,台湾=フランス,116分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・イーピン
撮影:ブノワ・ドゥローム
出演:リー・カンション、チェン・シアンチー、ルー・イーチン、セシリア・イップ、ジャン=ピエール・レオ

 シャオカンは父をなくした。ひっそりと葬式をして、シャオカンはいつものように路上で腕時計をする生活に戻るが、母親は父親の霊を呼び戻すことのかたくなになる。腕時計を売っていると、翌日パリに行くという女性アンチーがシャオカンのつけている腕時計を売ってくれと強引に買っていく。シャオカンはそのときからパリのことが気に掛かり始めた。
 カメラマンに『青いパパイヤの香り』などで知られるブノワ・ドゥロームを迎えたが、基本的には淡々としたツァイ・ミンリャンの世界は変わらない。

 リー・カンションの佇まいはいい。無言でも何かを語る。それは必ずしもうまいということではなく、雰囲気があるということ。時計の卸やで時計をたたきつける前から、そんなことをやりそうな雰囲気がある。時計を売っているだけで絵になる。何が起ころうともそれが運命であるかのような顔をしている。
 そのような佇まいをジャン=ピエール・レオも持っている。この映画の中で引用されるのは、『大人は判ってくれない』の牛乳を盗むシーンだが、このシーンだけでも、その雰囲気は感じられる。おそらくわざとらしくない演技ということなのだろうが、何かそれを超えた自然さというか、もとから持っている雰囲気なんじゃないかと思わせる何かがある。それは本人の登場シーンでの、なんだかなぞめいた薄い微笑みからも感じられる。
 そして孤独だ。ツァイ・ミンリャンの同情人物たちはみな孤独だが、今回もまた孤独だ。しかし、いつもどおり、その孤独にはどこか救いがある。『Hole』では最後に救われた。この映画ではずっと孤独でありながら、ずっとどこかに人とのつながりを感じさせる。それは非常に希薄なつながりではあるのだけれど、つながりであることは間違いない。シャオカンとシアンチー、シャオカンの父と母、シャオカンと母、そのつながりははかなく、明確に語られことはないけれど、この映画はまさにそのつながりを描いた映画なのだと思う。だからこの映画は本当は孤独を描いた映画ではなく、孤独ではないことを描いた映画なのだ。人は本来的に孤独だということと、本来的に孤独ではないということ、この相反する2つのことが、決して相反するわけではないということを描いているような、つまり、それは同時に真実でありえるということを描いているような、そんな微妙な映画。
 しかし、よく考えると、そんなことはこの映画に限らず、あるいは映画に限らず、どんなことからも導き出せる結論なのかもしれない。

Hole


1998年,台湾=フランス,93分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン
撮影:リャオ・ペンロン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション

 2000年まであと7日と迫った台湾。あるマンションで謎のウィルスが蔓延し、隔離する措置がとられていた。そこに住む若い男は地下の市場で乾物屋を営む。その男のところに下の階で漏水しているので調べさせてくれと水道屋がやってくる。下の階には女性が住み、異常なほどの水漏れで家はビチョビチョだった。
 近未来を舞台に、ミュージカル的な要素も織り交ぜた異色作。かなり不可思議な空間だが、何故か心地よい。

 まっとうな映画を見ている人のまっとうな反応はおそらく「なんじゃ、コリャ」というもの。全くわけがわからない。ストーリーもわからなければ、途中で挿入される妙に長い歌のシーンもわけがわからないということになる。小難しく映画を見ている人は、何のかのと解釈をつける。世紀末とか、懐古主義とか、閉鎖空間とかそういった感じで、多分精神分析的に見たりすることもできる。
 しかし、わたしはこの映画はなんとなく見るべきだと思う。目に飛び込んでくるもの、耳に流れ込んでくるものをただただ受け入れる。そこに間があって、何かを思考できる時間があっても、そんなことはやめて映画がパズルのように頭の中に納まっていくのを待つ。答えを得ようとするのではなく、そこに何かひとつの空間が立ち上がってくるのを受け入れる。そのような見方をしたい。
 と、言いながら、それを解釈してしまうのですが…
 そのようにしてみると、この映画に存在するのはひとつのカフカ的な空間であり、しかしそれは決して悲劇的ではない。階上の男は孤独という迷宮に、階下の女は水という迷宮にとらわれているわけだが、その独立して存在するはずの2つのカフカ的迷宮がひとつの穴によってつながったらどうなるのか、全体としてはそのような映画なのだと思う。
 そこに挿入される歌はいったいなんなのか? この解釈はおそらく自由、投げ出されたものとして存在しているでしょう。映画とは直接関係のなさそうな歌詞と映像。映画のために作られたのではなく、もともとあった音楽なので、それは当たり前なのですが。おそらくこの映画は音楽のほうから作られている。ひとつの高層があり、そこにあう音楽を探したのではなく、まず音楽があって、そこから映画ができた。グレース・チャンという一人の昔の(50年代ころらしいですが)スターがいて、その音楽がつむぎだす時代と世界というものがある。それに対して現代(あるいは近未来)というものがある。そこのすりあわせで生まれてきた世界がこの映画であるということなのだと思います。
 「Hole」は2つの部屋(カフカ的迷宮)をつなぐ空間的な穴であると同時に、過去と現在をつなぐ時空間的な穴でもあるのかもしれません。
 このレビューを読んでさらにわからなくなった人。あなたは正しい。

レベッカ

Rebecca
1940年,アメリカ,130分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ダフネ・デュ・モーリア
脚本:ロバート・E・シャーウッド、ジョーン・ハリソン
撮影:ジョージ・バーンズ
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:ローレンス・オリビエ、ジョーン・フォンテイン、ジョージ・サンダース

 ホッパー夫人のお供としてモンテカルロにやってきたマリアンは崖で自殺をしようとしていた男に出会った。のちに、その男はホッパー夫人の知り合いのド・ウィンター氏であり、マリアンが一度見かけ、その後何度も夢に見るマンダレーの主人であることがわかった。ド・ウィンターはマリアンをドライブに誘い、ホッパー夫人が病気の間に二人は何度もデートを重ねた。しかし、ホッパー夫人の娘が婚約し、マリアンは急にニューヨークに帰ることに…
 ヒッチコックのハリウッド進出第1作。ヒッチコックのいわゆるサスペンスとはちょっと構成が異なるサスペンスチックなロマンス。

 前半はなんだかのろのろとしていて、ヒッチコックらしくないというか、どのようなサスペンスが展開されるのかがわからないのがもどかしい。ネタばれ防止のため全部のストーリーを語ってしまうのはやめにしますが、半分くらいまではばらしてしまいます。マリアンがマンダレーに行っても、まだ物語りは急展開しない。物語が急展開するのは終盤といってもいいころで、そこからの30分から45分は本当にすばらしい。それを見てから考えると、そこまでのもたもたしていたと見える展開も細かな複線の集積だったとわかる。
 結局のところヒッチコックなので、どこかに「恐怖」が存在することを期待してしまう。そしてその恐怖を演出するのはなんと言ってもライティング。ダンヴァース夫人は登場のところから怖い、したから、あるいは横からライトが当てられ、上半分あるいは横半分が影になる。このような演出が「恐怖」を演出するものであることは明らかだ。だからみながマリアンに「怖がらなくてもいい」というのは、逆説的に「彼女は怖い人だ」と語っているのだ。でも、彼女が本当に怖いのかどうかはわからない。その演出された恐怖すらも覆すのがヒッチコックのサスペンスの醍醐味だから。
 この映画はそのような恐怖を演出するライティングをはじめとして、光をうまく使っている。演出として音はあまり使っていないので、白黒の画面ではサスペンスを効果的に演出するのは光なのだろう。クライマックスの場面はまさにその光がすべてを語るのだ。そういえば、最初にシーンでマリアンの夢に出てきたマンダレーでも、ポイントになるのは建物にふっと点る灯りだった。
 ヒッチコックが得意とする演出のひとつ、光の演出が充分に楽しめる作品。

アレクサンドル・ネフスキー

Alexander Nevsky
1938年,ソ連,108分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワリーシェフ
撮影:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
出演:ニコライ・チェルカーソフ、ニコライ・オフロプコフ、ドミトリ・オルロフ

 13世紀のロシア、スウェーデン軍を破った武将アレクサンドル・ネフスキー公爵は通りかかったモンゴル軍にも名を知られる名将、漁をして平和な日々を送っていた。しかし、東からゲルマン軍が侵攻してきて、近郊のノヴゴロドに迫っていた。ノブゴロドの武将はゲルマンの大群になすすべなしとして、ネフスキー公に将となり、軍を率いてくれるように依頼する。
 勇猛果敢なロシア人の伝統を振り返り、ゲルマン人に対する抵抗を訴えたプロパガンダ映画。

 ソヴィエトにあって、その革命思想に共鳴し、人々を動員するような映画を撮りながら、それを芸術の域にまで高めていたのは、かたくななまでの映像美、特にモンタージュの秀逸さであった。そんなエイゼンシュテインがナチスの侵攻を前に、ゲルマン人に対する抵抗を人民に訴えるために撮った映画。その映画はプロパガンダ映画に堕してしまった。エイゼンシュテインはトーキーという技術によって「声」を手に入れたことで堕落してしまった。ゲルマンとローマとキリスト教を悪魔的なものとして描き、ロシアを正義として描く。完全に一方的な視点から取られた寓話は映画ではなく、ひとつの広告に過ぎない。映画をプロパガンダに利用しようという姿勢ではソヴィエトもナチスと大差ないものであったようだ。
 ロシア側を描くときにたびたび流れる「歌」、その歌詞は明確で、戦士たちの勇敢さを朗々と歌い上げるものだ。それに対して、最初にゲルマン軍が登場するときのおどろおどろしい音楽、映像の扱いには非常なセンスと気遣いをするエイゼンシュテインがここまでステレオタイプに音楽を使ってしまったのはなぜなのか、そのような疑問が頭を掠める。しかも、ゲルマン側の(おそらく)司祭は悪魔的な容貌で、悪者然としている。そのような勧善懲悪のプロパガンダ映画でしかないこの映画が、さらに救われないのは映像の鈍さである。サイレント時代のエイゼンシュテインの鋭敏さは影を潜め、説明的なカットがつながっている。音に容易にメッセージをこめることが可能になってしまったことによって、映像を研ぎ澄ますことがおろそかになってしまっているのか、その映像のつながりは鈍い。
 それでも、映像にエイゼンシュテインの感性を感じることはできる。戦闘シーン、行軍する大人数の軍隊をものすごいロングで撮ったカット。個人個人が判別できないくらい小さいそのロングショットの構図の美しさは、冒頭の湖の場面と並んでエイゼンシュテインらしさを感じさせる場面だ。しかし、それが美しいからといってこの映画のプロパガンダ性を免罪しはしない。逆に美しいからこそ、プロパガンダとしての効果が高まり、その罪も重くなるのだろう。だとするならば、この映画が映画として精彩を欠いていることは、逆にエイゼンシュテインを免罪することになるのかもしれない。

戦争の記憶

Kippur : War Memories
1994年,イスラエル,104分
監督:アモス・ギタイ
撮影:エマヌエル・アルデマ、オフェル・コーエン
音楽:ジーモン・シュトックハウゼン、マルクス・シュトックハウゼン
出演:アモス・ギタイ

 アモス・ギタイはヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)に参加した際、8ミリカメラを持参し、兵士の救援へと向かうヘリコプターから撮影を行った。その撮影されたフィルムと、当時ともにヘリコプターに乗っていた仲間との戦場への旅、戦死してしまった当時の副操縦士の家族へのインタビューなどを通して、当時を振り返る。
 2000年に制作された劇映画『キプールの記憶』のもとになった作品。

 ヘリコプターの操縦士が当時を振り返って、「あの記憶は一種のトラウマになっている」と言う。心理学的な意味のトラウマとは少し違うかもしれないが、その意味が消化できない記憶であることは確かだろう。その記憶は他に類を見ないくらい強烈な記憶であるにもかかわらず、その記憶は自分の頭の中で収まるべきところを見つけられない。他の記憶と折り合いがつかないそのような記憶として頭の中にある。アモス・ギタイ自身も他の戦友たちもそのことを明言することはないけれど、それが強烈な記憶であり、忘れたくても忘れられないものであることは明らかだ。
 この映画は2部構成になっているが、前半部では、その記憶の整理が行われる。その細部がそれぞれに異なっている記憶をすり合わせていく。別にひとつの正当な見解を合意として打ち出していくわけではないが、他の人の異なった記憶を聞いているうちに、その記憶が、おそらく映像とともに蘇り(挿入されるギタイの撮影した白黒の8ミリフィルムはその記憶のフラッシュバックを象徴しているような気がする)、ばらばらな悲惨な記憶としてではなく、ひとつの記憶のブロックとして認識できるようになる。これはその記憶を自分の頭の中で消化し、収まりをつけるための第一歩になるのだろう。副操縦士の遺族に会うということも、その記憶が決して現在と断絶したものではなく、今につながるひとつの現実であうということを再認識させる。これもまた記憶の消化の一助となるだろう。
 後半部ではともに戦場へと赴き、戦場でもともに行動した親友ウッズィとの語らいになる。『キプールの記憶』によれば、二人は近所に住んでおり、もともと下士官であり、戦争が始まると聞くや否や焦燥感に駆られて車を飛ばして部隊に向かったが、本来の部隊にたどり着くことができず、ちょうど作戦行動を行おうとしていた救援部隊に参加することになったと言うものであった。この映画の話の断片から判断するとその流れはほとんど事実であると言っていいのだろう。そのような親友との語らいはギタイが実際に自らのトラウマを溶かしていく場だ。親友の話を聞くという設定でありながら、ギタイ自らが被写体となり、徐々にギタイの語りが中心になっていく。これは偶発的な出来事と言うよりはギタイ流の映画的作為という気がするが、それが作為であろうと偶発的な出来事であろうと、そのアモスの語りがアモス自身の記憶の再構成の過程であることに変わりはない。
 個人的なトラウマとして戦争を忘れたいと言うウッズィに対し、アモスはカメラを使うことで個人的な観点を超えた形で戦争を考えたいと語る。「なぜ自分たちは生き残ったのか」そんな重い疑問をアモスは投げかける。個人的な痛みと、映画監督を選択したことによる使命、その両方を自覚しながらアモス・ギタイは揺れ動き、親友との対話を終える。そこに答えはなく、親友に「しっかり映画を撮ってくれ」と励まされるのだった。その親友の励ましへの答えとしてアモス・ギタイは『キプールの記憶』を撮ったのだろう。そして、この作品は「戦争3部作」の第1作として構想されている。今後2作を通してパレスティナ紛争の全貌を整理して提示するのだろう。それは個人的な記憶の消化の作業でもある。

エルサレムの家

A House in Jerusalem
1998年,フランス=イスラエル,89分
監督:アモス・ギタイ
撮影:ヌリット・アヴィヴ

 1980年、”Bayit”(『家』)という作品で取材した東エルサレムにある家に再びやってきたギタイはその家とその家があるドルドルヴェドルシェヴ通りに今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。
 ドキュメンタリーといいながら、どこか作りものじみた印象がある映画。もちろん「ドキュメンタリーだ」と宣言しているわけではないし、ドキュメンタリーであっても、作り物であってもかまわないのですが…

 主役といえるアラブ人の親子。下もとその「家」の所有者で、その父親がギタイの『家』に出ていたというアラブ人親子は英語で話し、カナダ国籍をとったという。彼らはイスラエルのアラブ人で、それは国籍がないということを意味する。彼らはカナダ国籍をとれたことはラッキーだったと語る。そんな父親は病院を経営しているらしい。この父娘の話は見ているものの心にすっと入ってくる。彼らはその土地に愛着を持ち、ユダヤ人を敵視してなどはいない。ともに生きられればいいのにと望みながら、その選択を誤ったアラブ人の過去を非難したりする。
 それに対して、ドルドルヴェドルシェヴ通りに住むイスラエル人たちはスイス出身であったり、ベルギー出身であったりする。しかも、彼らはイスラエルを住みよい国だという。しかし、ヘブライ語は話さず、自分自身の言語は捨てない。ギタイがたずねる「ドルドルヴェドルシェヴ通りの意味」についても、人から聞いたあやふやな話をするだけで、明確な答えは提示できない。
 発掘作業場が出てくる。そこにはアメリカから来たというユダヤ人の若い女性と、アラブ人の労働者がいる。ユダヤ人の女性はそこで働いているのではなく、祭礼浴をしていた。彼女は「ユダヤ人もアラブ人も土地を奪われた犠牲者だ」というようなことを言う。
 このようなことでわたしの心に浮かぶのは、ユダヤ人に対する反発だ。それは多くのユダヤ人が自らの立場に意識的ではなく、あるいは無知であるということだ。自らの加害者性を意識することなく安穏と生きているように見える。そこに憤りを覚えずにはいられない。
 イスラエル人であるギタイはここで何を語ろうとしているのか。彼は明確なメッセージを語ろうとはしない。暴力化するイスラエルを危惧する場面はある。おそらく彼はイスラエルが抱える二重性に注目しているのだろう。本来住むべきである家を奪われたアラブ人と現在そこに住んでいるイスラエル人との対比によって、娘が西エルサレムでアラビア語で話すことの怖さによって、エルサレムという都市とイスラエルという国家の二重性を明らかにするのだろう。

ネゴシエーター

Metro
1997年,アメリカ,117分
監督:トーマス・カーター
脚本:ランディ・フェルドマン
撮影:フレッド・マーフィー
音楽:スティーヴ・ポーカロー
出演:エディ・マーフィー、マイケル・ラパポート、マイケル・ウィンコット、キム・ミヨリ

 犯人と交渉することを専門的に担当する刑事ネゴシエーターのスコットは、人質を守るためなら犯人を撃ち殺すこともためらわない。一匹狼的に仕事こなすスコットに署長は元SWAT新人マコールを教育するように命ずる。新人教育といっても、それは常に現場で行われる…
 今ひとつ役に立たない、あるいは愛称の悪い相棒を持つのはエディ・マーフィーのひとつのパターン、しかも喋りが仕事のネゴシエーターということで、はまり役であることは間違いなく、全体にまっとうなアクションになっている。

 『48時間』『ビバリーヒルズ・コップ』という刑事ものをしっかりと踏襲して、普通に作られたアクション。それはつまり面白くはあるけれど、今までのものほどは面白くないということ。デビュー作といえる『48時間』の衝撃、『ビバリーヒルズ・コップ』の展開の新しさは望むべくもないが、それぞれの続編となら比べられるくらいの出来。エディー・マーフィーといえば、コメディアンなので、どうしても笑いの要素を求めてしまいがちだが、この映画は笑いをかなり抑え目にしている。しかも、スーパーマン的なキャラクターではなく、どこか間が抜けたような、人間らしい設定になっている。エディ・マーフィーというと喋りを中心にして周囲の人を圧倒するというキャラクターが多いのに、ここではそうではない。それで特別面白くなっているというわけではないけれど。
 やはり、エディ・マーフィーは昔のほうが面白かった。上の2つ以外でも『大逆転』『星の王子』なんかは面白い。しかし、はずれも多く、『ゴールデン・チャイルド』『ハーレム・ナイト』『ブーメラン』あたりは目も当てられない。などといいつつ、これだけの作品を見ているので、わたしはエディ・マーフィーが好きらしい。最近は『ナッティ・プロフェッサー』と『ドリトル』といったファミリー向けコメディに力を入れているのはきっと子供がかわいいのでしょう。
 エディ・マーフィーを見るならやっぱり『ビバリーヒルズ・コップ』。この映画はそれを思い出させてくれる映画でした。