ジキル博士とハイド氏

Dr. Jekyll and Mr. Hyde
1941年,アメリカ,114分
監督:ヴィクター・フレミング
原作:ロバート・ルイス・スティーヴンソン
脚本:ジョン・リー・メイヒン
撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ
音楽:フランツ・ワックスマン
出演:スペンサー・トレイシー、イングリッド・バーグマン、ラナ・ターナー、ドナルド・クリスプ

 高名な医師のジキル博士は教会で見かけた狂人を友人の医師ジョンのもとに連れて行く。博士はその男を自分の研究の実験材料に最適だと考え、ジョンにそれを伝えるが、彼はそれは倫理的に許されないとして拒否する。あくる日、婚約者とともに出席した晩餐会の席上で自分の理論を夢物語だといわれた博士は自分の体で実験することを決意する。
 『ジキル博士とハイド氏』3度目の映画化。スペンサー・トレイシーとイングリッド・バーグマンを主役に据え、ハリウッドらしい華やかな雰囲気に。

 つくりはいかにもハリウッドらしく、主登場人物の2人の女性も美しく、スペンサー・トレイシーもなかなか骨太の演技を見せるので、言うことはないのですが、やはり60年まえだからなのか、戦争中だからなのか、どうしてもちゃちい印象は否めない。変身シーンの特撮(?)が稚拙なのは仕方がないにしても、普通の場面の背景などが書割丸出しなのはなんだか残念。いわゆるハリウッド黄金時代だったなら、あんなちゃちな書割は使わなかったんだろうな… と考えてみる。
 それはさておきこのお話、これを見るまではもっとSF的な話だと思っていたんですが、意外に倫理的な話だった。二重人格といった神経的な話ではなくて、もっと理性的な話。ジキル博士とハイド氏は人格はひとつで、性質と外見が違う。外見が違うのに、人格が2つというのはかなり不思議なものだという気がしました。同じ人とは言えないにしても、ずっと記憶を保っているし、ひとつの人格であることは間違いない。

ニコラ

La Classe de Neige
1998年,フランス,96分
監督:クロード・ミレール
原作:エマニュエル・カレール
脚本:エマニュエル・カレール、クロード・ミレール
撮影:ギョーム・シュフマン
音楽:アンリ・テシエ
出演:クレモン・ヴァン・デン・ベルグ、フランソワ・ロイ、ロックマン・ナルカカン

 寝てもさめても悪夢ばかりを見る小学生のニコラはスキー教室に参加することになった。しかし、両親が数日前におこったバス事故を気にして、ニコラはバスではなく父親の車で合宿場所まで行くことにした。みんなから少し送れて合宿場所に着いたニコラは父親が帰ってしまった後荷物を車に積んだまま忘れてしまったことに気づく…
 不思議なモチーフでスリラーの雰囲気を持つドラマだが、基本的には少年ニコラの内的世界を描いたものなのか。

 ニコラの悪夢や想像と現実との境目をあいまいなものにするやり方はなかなかうまいと思う。これはニコラの主観からすべてを描いた映画であるといえ、だからこそ現実とそれ以外との境界がないということだろう。今見ているものが現実なのか、悪夢なのか、想像なのかということはそれを見ている時点で判断できるものではなく、あくまで時間が経過してから始めて判断できるものである。しかし、それはあくまで相対的なもので、あるひとつのつながりを現実と判断することでそれ以外は現実ではないと判断するしかないわけだ。
 この映画は基本的には現実とそれ以外というものを分けて描く。それは最初の父兄への説明会の場面と最後のホドゥカン一人の場面というニコラの主観ではない場面の存在によって固定されている。しかし、それ以外の場面が(多分)すべてニコラの視点から描かれていることを考えると、これら場面もニコラの見ている場面であると考えることもできる。それはつまりこの映画の文脈からいうとニコラの想像ということになる。両方があるいは少なくともどちらか一方が。
 そう考えると、どんどんわけがわからなくなっていく。合宿場所へと向かうニコラが車の中で寝入ってしまったことを考えると、それ以降は全部現実ではないのかもしれないと思えたりする。
 どれが現実で、どれが想像か。さらりと見ただけだと、一つの当たり前の解釈が成り立つようだけれど、果たして本当にそれでいいのかということはわからない。「もしかしたら」と考える可能性。それがこの映画のいいところだと思います。

チアーズ

Bring it on
2000年,アメリカ,100分
監督:ペイトン・リード
脚本:ジェシカ・ベンディンガー
撮影:ショーン・マウラー
音楽:クリストフ・ベック
出演:キルステン・ダンスト、エリザ・ドゥシュク、ジェシー・ブラッドフォード

 高校生のトーレンスは全国大会5回優勝の実績を誇るチームでチアリーディングに打ち込む生活を送っている。そして最高学年になり、キャプテンに指名されたのだが、その最初の練習でメンバーの一人が大怪我をしてしまう。しかし、大会はもう目の前で…
 チアを題材にしたということ以外はいたってオーソドックスな学園もの青春映画。チアリーディングを見るのは楽しい。

 とても普通ですが、最近の学園者の中で異色をはなっていると思えるのは、非常に「いい」映画であるということ。日本で言えば、文部省(文部科学省か)推薦でもおかしくないような意味で「いい」映画です。ドラッグとか、セックスとか、そういったことはあまり出てこず、とりあえず青春な感じで、友情な感じで、少し恋みたいなもの。
 笑えるのは、「え?本当にこんなのやっちゃうの」というべたネタですが、この笑いは悪くない。ここもあまり下ネタには走らないところが文部省推薦。
 残念といえば、ミッシーは器械体操もやっていて、キャラ的も重要そうなのに、あまり生かされていないところ。映画としてもそうですが、チア的に、ちゃんと器械体操をやっていたならもっと大技をやらせてもいいのに。
 まあ、そんなことはどうでもよいのですが、特筆すべきことも特にないので。このミッシーに限らず、この映画はトーレンスが一人活躍する映画で、まわりはあまり前面に出てこない。クリフの曲だってもう少し活用されるのかと思ったらされないし、主要メンバー以外は顔と名前が一致しないくらいしか登場しないし。唯一ゲイネタだけが後からまた使われたのはよかったかなと思います。

輪舞

La Ronde
1950年,フランス,97分
監督:マックス・オフェルス
原作:アルトゥール・シュニッツラー
脚本:マックス・オフェルス、ジャック・ナタンソン
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:オスカー・ストラウス
出演:ダニエラ・ジェラン、シモーヌ・シニョレ、ダニエル・ダリュー、アントン・ウォルブルック、ジェラール・フィリップ

 舞台に登場する一人の男。この男を狂言まわしとして、いくつものラヴ・ストーリーを描く。ひとつのエピソードの男女のどちらかが、べつの相手と繰り広げるラヴ・ストーリーを描くことで、物語を連鎖的に展開してゆく。狂言まわしの男の存在がなかなか面白い。
 フランス映画がフランス映画であったころの典型的な作品であり、名作である。凝ったつくりに、しゃれたセリフ、オフェルスの演出力もさすが。

 狂言まわしの男が一人語りをする最初のシーン、この長い長い1カットのシーンはなかなかの見所。一つ目のエピソードの冒頭まで完全に1カットで撮り切っている。おそらく5分くらいのカットで感じるのは、書割の風景のリアルさとタイミングの難しさ。このような作り手の側に属する部分を見せてしまうのが、この映画の一つの狙いなのだろう。だから、照明機材なんかをわざわざ映したりする。
 内容のほうはといえば、一つ一つのエピソードがそれぞおれそれなりに面白いのだけれども、エピソード間のつながり方が完全に定型化してしまっているので、後ろに行くほどマンネリ化してしまう気がする。
 狂言回しの男の存在の仕方はなかなか面白い。映画の中の物語に対して、映画に外にいるという立場がはっきりしていて、映画の中で彼自身が言っていたよう、神出鬼没である。しかし、映画の登場人物たちに対して全能なわけではないので、なんとなくコミカルな存在でいることができる。
 最初のシーンに限らず、カメラの動きもなんだかすごい。すごいなーとは思うんですが、個人的にあまり好きなタイプの映画ではなかったのでした(私見)。

間諜X27

Dishonored
1931年,アメリカ,91分
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
脚本:ダニエル・N・ルービン、ジョセフ・フォン・スタンバーグ
撮影:リー・ガームス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ヴィクター・マクラグレン、グスタフ・フォン・セイファーティッツ、バリー・ノートン

 第一次大戦中のウィーン、女は自分のアパートでまた自殺者が出たのを見て、「私は生きるのも死ぬのも怖くない」とつぶやく。それを聞いた男が女を誘って
女の部屋へ。男は女にスパイをしないかと持ちかける。ワインを買いに行くといって部屋を出た女は反オーストリアだといった男を逮捕させるため警察官を連れて
くる。
 スタンバーグはディートリッヒがスターダムにのし上がるきっかけを作った監督で、アメリカでの初期の作品で7本コンビを組んでいる。

 ディートリッヒは美しい。ディートリッヒが美しいから、あとはどうでもいい。というか、あとはディートリッヒの美しさを引き立てるためにある。といいたくなってしまう。
 この映画のプロットはかなりお粗末といっていい。こんなのんきなスパイはいないと思う。にもかかわらず「女でなかったら最高のスパイだっただろう」などと冒頭で強調するのは、あくまでその「女」の部分を強調したかったからだろう。それはひいては、この映画がスパイ映画ではなく恋愛映画であるということを主張しているということだ。そしてその恋愛を引き立たせるために(スパイ同士という)困難な状況を作る。
 これはこの映画の過度のロマンティシズムを生む。いま見るとこの映画ロマンティックすぎる。この映画が作られたのは1930年、ちょうど世界恐慌が起こったころだ。再び戦争の足音が聞こえてきた時代、ロマンティシズムは映画制作者と観客を現実から一時逃れさせてくれたのかもしれない。ロマンティシズムで世界を救うことはできないが、一人の人間をいっとき救うことはできるのかもしれない。それを生み出すのがかくも美しいディートリッヒならなおさらのことだ。
 それにしても、ディートリッヒはずん胴ね。脚は細くて美しいのに、どうしてあんなにずん胴なんだろう?

愛情萬歳

愛情萬歳
1994年,台湾,118分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・ビ・リン、ツァイ・イチャン
撮影:リャオ・ベンジュン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション、チェン・チャオロン

 セールスマンのシャオカンはある日、高級アパートで扉に刺さったままになっている鍵を見つけ、それを抜き取って持っていく。その夜、そのアパートに行ってみると、そこは空き家のようだった。夜の街で何度かすれ違う男と女が言葉を交わさぬまま、そのアパートにやってくる…
 台湾ニューウェーヴの旗手の一人ツァイ・ミンリャンを一躍世界の舞台へと引き上げた作品。せりふもあまり交わされず、まったく音楽を使わないというところも印象的な作品。

 映画全体にわたって、何かが起こりそうという期待感を抱かせながら、何も起こらないというパターンの繰り返し。その「何かが起こりそう」という期待感は映像の構成の仕方にある。たとえばメイがベットに横たわる場面。画面の左側が大きく開き、メイの視線はその空白の向こう側に注がれている。この画面をぱっと見ると、その視線の先に何かありそうな気がする。そこで何かが起きそうな気がする。しかし、メイの視線はうつろになり、そのまま何も起こらずにシーンが切り替わる。同じように、シャオカンがベットに横たわるシーン。シャオカンのクロースアップから仰向けになったところを正面から写すショットに変わる。そのとき、シャオカンの顔や視線は映らない。このように近いショットから、いわば他者の視線へと移ると、そこには具体的にその画面を見つめる誰かがいるのでは?という気持ちにさせられる。しかし、それは具体的な誰かのショットではなく、誰もおらず、言葉にならないシャオカンの一人語りが続くだけだ。
 このような裏切りというか肩透かしは、われわれが映画による感情の操作に慣らされているせいでおきるのだと気づく。映画を見るということを繰り返すうちに、そこにあるひとつのパターンに染まり、ひとつの典型的な映像の作り方が出てくると、その後起こるべきことを勝手に想像する。もちろんそれは常にあたるわけではないけれど、あたることが多いからこそ一つのパターンとして無意識のうちに認識されるようになるのだ。
 そのようなパターンを裏切ることが映画に驚きを加え、映画を面白くするということもわかる。だから、そのようなパターンはたびたび裏切られる。しかしそれはあくまで驚きを「加える」ためだ。この映画はすべての場面でその期待を裏切る。それは最初のうちは生じていた驚きを最後には拭い去ってしまう。裏切られることを当然として映画を見るようになる。
 最後の一連のシーン。ただただ歩くメイを映すカット、長い長いパン移動のカットこれらはその後に何かが起こることを期待させるカットであるはずだ。しかし、2時間この映画に浸ってしまうと、普通にこのシーンを見た場合とはなんだか感触が変わってしまっている気がする。それはこの映画が執拗に浮き出させようとする「孤独」というものとも関連があるかもしれないが、今日のところは画面に映ったものだけにこだわって考えてみた。

エクセス・バゲッジ

Excess Baggage
1997年,アメリカ,101分
監督:マルコ・ブランビヤ
脚本:マックス・D・アダムス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ジョン・ルーリー
出演:アリシア・シルヴァーストーン、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン、ハリー・コニック・Jr

 父親の気を引こうと狂言誘拐を企てた大富豪の娘エミリー。計画は順調に進んでみ、解放される段取りになり、自らをガムテープで縛り上げ、トランクに入ったが、そこに車泥棒のビンセントが現れ、その車を盗んでいってしまう。

 物語はとても普通で、もっと突き抜ければ面白いB級映画になったのに… と思ってしまう程度。そして、アリシア・シルヴァーストーンがひどすぎる。いつも決してうまいとはいえないけれど、このまったくとらえどころのないキャラクターは何なのか? 自分が作った製作会社の作品ということでちょっとやる気が空回りという感じでしょうか? アリシア・シルヴァーストーンといえば小悪魔的な魅力が売りですが、この映画のキャラクターは小悪魔を超えてただの気まぐれ、わがまま、自分勝手。それはつまりキャラクターとしての一貫性がないということ。これでは人をひきつける魅力は作り出せません。
 この映画を救うのは、ベニチオ・デル・トロ、クリストファー・ウォーケン・ハリー・コニック・Jrたち。3人ともなんだかさえない役回りで、輝いてはいないけれど、その情けなさがなかなかよろしい。たぶん本当はわがままお嬢様に振り回されるという役回りで描かれるべきなのだけれど、お嬢様は一人で暴れまわっているだけで、別に誰も振り回さない。だから周りの人たちもよくわからないまま情けない役回りをさせられているという感じになってしまう。
 まとめるならば、なんとなく全体的に間が抜けている感じ。それぞれの部分部分がばらばらで、それがいつかはまっていくんだろうと思わせながら、きっちりとはまることはなく、なんとなくうやむやにされてしまう感じ。
 と、文句ばかり言っていますが、決して悪くはないんです。最後まで見るに耐えるくらいは面白いんです。でも、それ以上ではない。ベニチオ・デル・トロはなんだか不思議な役者で、見ていると飽きないんですね。何かしそうな気がするというか、よくわからない期待感を抱かせるんですねこれが。不思議な役者さんだなぁ。

アメリ

Le Fabuleux Destin d’Amelie Poulain
2001年,フランス,120分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
出演:オドレイ・トトゥ、マチュー・カソヴィッツ、ヨランド・モロー、ルーファス

 子供のころ、両親に心臓病と決め付けられ、他の子供と遊ぶことなく育ったアメリは想像の世界で遊ぶことが大好きだった。22歳になり、家を出て、パリのカフェで働くようになってもそれは変わらなかった。そんなアメリがある日、自分のアパートで40年前その部屋に住んでいた少年の宝箱を見つけた…
 これまでは暗く奇妙な世界を描いてきたジュネ監督が一転、陽気なファンタジーを撮った。

 この映画はさまざまな見方ができ、それによってさまざまな評価ができると思う。一番単純には、素直に明るい物語とその世界を追っていく方法。そのように表面をさらりとさらうととてもポップで明るいお話で、とても女の子受けもよい感じ。それはジャン=ポール・ジュネ独特の鮮やかな色彩や奇妙な世界観。それは現実とかけ離れているという意味で非常に浸りやすく、それだけに見終わった後も楽しく宝物のように映画をとって置くことができる。
 しかし、そこから掘り下げてゆくと、ジャン=ポール・ジュネはやはりジャン=ポール・ジュネだという話になる。現実とかけ離れた奇妙な世界観は細部を気にし始めるといろいろと理解しがたいところが出てきて、そこから先は好みの問題となっていく。ジュネの世界の人たちはとにかくおかしい。それをファンタジーとしてとらえるか、ありえないとして拒否するか、あるいは自分の内的現実との共鳴を感じるか。
 そもそも、アメリというキャラクターに共感できるのかどうか? そして、その周りの変な人たちを受け入れることができるのかどうか? たとえば、アメリと下の階のガラスの骨のおじいさんは互いに覗き見していることを知りながら、それを受け入れている関係。よく考えるとこの関係も相当不思議。アメリだっていたずらといえば聞こえはいいけれど、よく考えるとかなり悪いことをしている気もする。
 となるわけですが、私はこの世界観が非常に好きです。そもそもジャン=ピエール・ジュネは好き。それは彼の描く特異なキャラクターたちも含めてです。そして、アメリも好き。アメリのような人は大好きです。なかなか言葉で表現するのは難しいところを、ジュネがうまく映画という形で表現してくれたといいたいくらいとっても好きなキャラクター。私にとってはアメリはそれくらいしっくり来るキャラクターでした。
 アメリはこの映画で3つのことをしようとしているわけです。人を幸せにすること、一人の人をいたずらでいじめること、自分が幸せになること。そのそれぞれは成功したり失敗したりしますが、面白いのはそれが成功するかどうかということではなくて、その過程。そのいたずら心。その過程の面白さはみているわれわれを幸せにしてくれる。それが素敵(一番はやはり小人かな)。
 それにしてもジュネ監督の細部へのこだわりは相変わらず。一番思ったのは、アメリが作ったパスタの湯気。本物の湯気があんなにしっかりとカメラに映るはずもなく、ということはわざわざ映像に湯気を足したということなわけで、しかしその湯気がことさら重要なわけでもない。その辺りのこだわりがとてもいいのではないかと思う。

1957年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:久里子亭
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:京マチ子、船越英二、山村聡、菅原謙二、石原慎太郎

 文芸誌に自分の汚職記事が載ったと憤慨した猿丸刑事はその出版社に殴りこむ。編集長に詰め寄ると、当のライター北長子はすでにクビになったとだった。クビになった北長子は自殺しようと遺書をしたためるがそこにやってきた隣人の赤羽にしばらくの間行方不明になって、そのルポを書くという提案をされ、そのアイデアを売り込みに出版社に行くことにした。
 市川崑らしいスピード感あふれるサスペンス・コメディ。

 なんとなく見て安心という感じ。1950年代後半から60年代と口をすっぱくして言っていますが、その昭和30年代的なもののひとつの典型。スピード感とモダンさと途中ではいる脈略にあまり関係のない唄といろいろな要素がそう思わせます。
 この映画は京マチ子がいいですね。船越英二はいつもどおりおんなったらしな感じの役でいいですが、京マチ子はこういうアクティヴな役のほうがいいのかもしれません。変装と言えるのかわからないような変な変装もかなりいい。水商売ふうの女はまだしも田舎娘の格好は似合いすぎていて怖いです。眉毛がやけに太くなっているのもいい。眉毛といえば、菅原謙二もある意味相当な変装です。
 当時の2500万というのはどれくらいだったのか… それで銀行が買収できてしまうくらいの金額ということは、相当な金額のような気はしますが、本当にそんな額なのかという気もします。そもそも、支店長風情が急に銀行の大株主になったら怪しまれんじゃないの? という疑問もつきません。まあ、そんな細かいことはどうでもよろしい。
 京マチ子の話でした。京マチ子は美人なんだか美人じゃないんだかよくわからない女優さんですね。『女の一生』(増村)などでは、どうもその不美人振りが目立つのですが、基本的には『雨月物語』(溝口)や『千羽鶴』(増村)などの魔性の女っぽさというのが基本的なキャラクターなのかもしれません。そもそも若いころには『痴人の愛』(木村恵吾)ではナオミをやっていた。そして『黒蜥蜴』(井上梅次)も忘れられません。若尾文子や山本富士子のように看板美人女優ではないけれど、非常に個性的なところがいいのでしょう。しかも映画の中では美人といわれることが多いのも不思議。
 ついでに京マチ子の話を続けましょう。『寅さん』にも出ているらしい。見たことないんですが、マドンナなの? 後は、おととしかな、大河ドラマにでたらしい(これも見ていませんが…)。80年代以降ほとんど映画にも出ていなかったのですが、どうなっているのかしら…
 ということで、今日は京マチ子に注目してみました。

マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive
2001年,アメリカ,146分
監督:デヴィッド・リンチ
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:ピーター・デミング
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・ハリング、ジャスティン・セロー、アン・ミラー

 マルホランド・ドライブを車で走っている途中、殺されそうになる女。しかし、そこに車が突っ込んできて、激突。女は壊れた車から抜け出し、歩いて街へと降りてゆく。翌朝、たまたま見つけた家に入り込む。その家はちょうど留守で、その間に滞在することになっていた女優の卵ベティがその家にやってくる。
 『ストレイト・ストーリー』から再びリンチらしい世界に復帰。もともとTVシリーズとして企画されたものらしく、『ツイン・ピークス』を髣髴とさせる。見れば見るほどわからなくなるのがリンチ・ワールドと思わせる作品。

 デヴィッド・リンチの物語を理解しようとする努力は常に徒労に終わる。彼のすごさは理解できないものを理解できないものとして提示してしまうことだ。普通はいくら難解なものを撮っても、どうにかして理解できるようにするものだ。デヴィッド・リンチはそれすら拒否している。それは監督本人すら理解できない世界であると思わせる。それは「意味」という論理的なものではなく、感覚的なもので組み立てられた世界。漠然としてイメージを漠然としたまま映像として提示する。そこに浮かび上がってくるイメージはいったいどんなものなのか、それがわからないまま世界を作り始めてしまっている印象。
 だから、その世界を解釈することは「意味」のレベルで言えばまったく無意味なことである。しかし、言葉で語ることには常に「意味」がつきまとう。だから私のこの文章にも何らかの「意味」が付加されてしまうことは仕方がない。それならば、この物語を多少意味的に解釈して見ようなどと思う。この物語を解釈する上で私にとって(あくまで私にとって)確実であると思えるのは、この二つの世界がいわばコインの裏表であるということ。それはつまり、同時に平行して存在しているけれど、決して互いに向き合うことができない世界。背中合わせに金属という希薄なつながりを持っているに過ぎない二つの世界。もちろんそれをつなぐのは「箱」と「リタ/カミーラ」である。そこまでは確実だと思うのだけれど、それ以上は何もいえない。おそらく見るたびにそのそれぞれに付加したくなる「意味」は変わってくるだろう。
 デヴィッド・リンチの映画の難解さは「それを理解しよう」という欲求を起こさせる。しかし、映画を見ている間われわれをとらえるのは実際はその音響や映像による感情のコントロールである。見ている側の喜怒哀楽を巧妙にコントロールすることで映画に観客を引き込んでいく。もっともそれがわかりやすく出たのは、ほとんど最後のほうでダイアンがなんだかわからないものに攻め立てられるところの恐怖感。なぜ起こるのか、他とどんなつながりがあるのか、恐怖のもとは何なのか、はまったくわからないにもかかわらず、そのシーンがあおる恐怖感はものすごい。そのように感情を揺さぶられ、圧倒され、映画館を出たときに残るのは映画を見ている間ずっとくすぶっていた「理解しよう」という欲求。それに片をつけるまでは映画を離れることはできない。そしてその「意味」をとらえようとすればするほど、細部を整合させることができないことに気づく。ひとつの物語で解釈しようとするとそれぞれの細部に矛盾が生じる。リンチの物語とはそういうものだ。そしてその細部こそリンチ的な不可思議な魅力が存在しているところなのだから、話はさらに難しい。その魅力的な細部を物語と矛盾するということで切り捨ててしまうことは私にはできない。
 だから、ある程度落ち着ける意味を見つけ、他のところは「リンチだから」という常套句で片付けて、その欲求を棚上げにする。すべてをひとつの「意味」に押し込めて、ひとつの物語をでっち上げることはリンチが大事にしている細部をないがしろにしてしまうことになるのだから、それはせずに、見るたびに異なる味を楽しみにしていたい。