シーズ・オール・ザット

She’s All That
1999年,アメリカ,96分
監督:ロバート・イスコヴ
脚本:R・リー・フレミング・Jr
撮影:フランシス・ケニー
音楽:アマンダ・シアー=デミ
出演:フレディ・プリンゼ・Jr、レイチェル・リー・クック、ジョディ・リン・オキーフ、マシュー・リラード

 生徒会長のザックは春休み明け、ガールフレンドのテイラーに振られてしまう。成績優秀、スポーツ万能、全女子生徒の憧れの彼が振られてしまったのにつけこみ、友人のディーンは学校一ダサいというレイニーをプロムクイーンに仕立て上げられるか賭けをしようとザックに持ちかける。
 とてもよくある学園もののティーン・ムーヴィー。学園者のティーン・ムーヴィーといえば、やっぱりクライマックスはプロム。どうしてアメリカ人はこんなにプロムが好きなのか?

 映画を見る前から映画のプロットのすべてが予想できるというのもすごい話。学園イチダサいといわれるレイニーが変身前からどう見てもかわいいのが納得がいかない。もうちょっとダサさが出ていれば物語に納得がいきそうなものだけれど、これじゃあねという感じです。
 しかし、レイチェル・リー・クックはひどくかわいい。対抗馬としてキャスティングされているジョディ・リン・オキーフがいまいちぱっとしないというのもありますがね。繰り返しますが、変身前から明らかにかわいいんじゃないかと思ってしまう。
 若い役者たちが売りとなるしかないティーン・ムーヴィーにしてはこのレイチェル・リー・クック以外のキャストがぱっとしない。
 のですが、逆にプロットは意外と面白かった。確かに筋としてはすべてが読めてしまうものだけれど、友情とか個性とか将来とか高校生あたりにはとても魅力的であろう話題がうまくちりばめられていていい。
 そういえば、サラ・ミシェル・ゲラーがちょい役で出てましたね。もうすでに『バフィー』で人気が出ているはずなので、ティーンズ・ムーヴィー常連さんとしての友情出演という感じでしょうか。おそらく、そんな感じでアメリカのTVで人気の役者さんがたくさん出ているはずです。私には見分けがつきませんでしたが… わかりやすいところでは、ザックの妹はアンナ・パキン、レイニーをいじめる美術部の子は『17才のカルテ』の子(クレア・デュバル)という感じですね。
 後は音楽。シックス・ペンス・ナン・ザ・リッチャーのヒット曲はもちろんですが、劇中のラップなんかもなかなか素敵。こう考えると、まさにエンターテイメント。絵に書いたような現代アメリカ映画。

罪と罰

Rikos Ja Rangaistus
1983年,フィンランド,93分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ドストエフスキー
脚本:アキ・カウリスマキ、パウリ・ペンティ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ペドロ・ヒエタネン
出演:マルック・トイッカ、アイノ・セッポ、エスコ・ニッカリ、マッティ・ペロンパー

 生肉工場で働くラヒカイネンは一人の男のあとをつけ、家まで行く。電報と偽ってドアを開けさせ、家の中に入り込む。ラヒカイネンは「お前を殺す」と言って、ピストルを突きつけ、その男を撃ち殺してしまう。そこに買い物袋を提げた若い女が入ってくる。彼女はその家で当夜開かれる予定だったパーティのために呼ばれたケータリング店の店員だった。
 フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの処女長編。処女作にしてこれだけの作品を作ってしまうのはさすがとしか言いようがない。

 映画監督同士の類似や影響をあげつらって作品を論評するのはあまり好きではないですが、それがともに好きな監督である場合にはどうしてもいいたくなってしまう。この映画をみて思うのはやはりヴェンダース。映画のリズムなどはぜんぜん違いますが、映像がとてもヴェンダース。ヴェンダースというよりはロビー・ミューラーと言ったほうが正しいのかもしれません。ヴェンダースとミューラー、そしてカウリスマキとティモ・サルミネン。このコンビが作り出す映像が似ているということだと思います。それはなんとなくざらざらした映像に盛り込まれた暗いトーンの色のアンザンブル。全体に暗いトーンなのだけれど、そこには多彩な色が盛り込まれている。そのイメージがとても好きです。
 ドストエフスキーの『罪と罰』は私が最も好きな小説のひとつ。これまで何度となく読んできた小説です。その面白さは、どのようにでも解釈できるところ。ラスコーリニコフの殺人の動機というか意味というか、そのようなものは明らかにならないまま終わり、その解釈を読むたびに考えることができること。この映画はその『罪と罰』のあいまいさをそのまま映画に閉じ込めているところがすばらしい。大体好きな小説が映画化されるとがっかりすることが多いですが、これはかなりしっくり来ました。舞台も登場人物も設定もすべて変えていながら、物語にとって重要な抽象的なプロットは忠実になぞる。その描き方が絶妙です。
 ということなので、そもそも好きな要素が好きなように盛り込まれているので、気に入らないわけがない。そしてこの映画は面白い。カウリスマキと言うと、『レニングラード・カウボーイズ』の楽しさと『ラヴィ・ド・ボエーム』のような作品の淡々として雰囲気の両極端という感じですが、この作品は基本的には淡々としたものながら、サスペンス色が強いということや、音楽の使い方なので全体的な雰囲気はドラマチックなものになっている。そのあたりが処女作ということなのだろうか? しかし、この作品の完成度はかなり高く、逆にそれ以降の作品がこの作品に追いつけてないのかもしれないと思うくらいである。この処女作が到達した高みに再び上り、それを超えるために試行錯誤を繰り返しているという見方すらしてしまう。

恋の秋

Conte d’Automne
1998年,フランス,112分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
出演:マリー・リヴィエール、ベアトリス・ロマン、アラン・リボル、ディディエ・サンドル、ステファン・ダルモン

 マガリは夫と死に別れ、二人の子供も独立し、一人で親から引き継いだブドウ畑でワインを造っていた。親友のイザベルがある日マガリをたずねると、マガリは息子レオの恋人のロジーヌと一緒にいた。そのロジーヌは哲学の先生のエティエンヌと分かれてレオと付き合い始めたばかりだった。孤独に暮らすマガリに男の人を世話しようとイザベルとロジーヌはそれぞれ考えを持っていて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の最後の作品。主人公の年齢が高いのは人生の「秋」という意味なのだろうか。

 最初のシーンで遠くのほうに移る工場の煙突。田舎の風景の中でなんとなく浮いているその煙突は物語が進んでから人々の話題にのぼる。映画というのは、そういう細かい部分の「気づき」が結構重要だと思う。もちろん映画自体のプロットとか、登場人物のキャラクターとか、メインとなるものはもちろん重要なのだけれど、それだけではただの物語としての面白さ、ドラマとしての面白さになってしまう。それは、映画としての面白さと完全に一致するものではないような気がする。本当に面白い映画とは、一度見ただけではすべてを見切れない映画であるような気がする。1時間半や2時間という時間で捉えきれないほどの情報をそこに詰め込む。
 この映画はそれほど情報量が多いわけではないけれど、その煙突のようなものがメインとなるドラマの周りに点々とある。その点は映画的な魅力となりうるものだと思う。たとえば、イザベルとジェラルドが初めて会ったとき、出されたワインのラベルが画面にしっかりと映る。こういうのを見ると「ん?後々なんか関係してくるのかしら?」と思う。具体的にいえば、「マガリの作ったワインかしら?」などと思う。実際、このラベルは後々の話とはまったく関係なかったけれど、そういう周囲のものにも注意を向けさせる撮り方というのは映画にとって重要なんじゃないかと思ったりする。
 さて、これは「四季の物語」最後の作品で、4本撮るのに10年もかかってしまったのですが、全部見てみると、結局のところどれも恋の話で、結局いくつになっても恋は恋。ジェラルドが言った「18歳のときのように怖い」というセリフがこのシリーズをまとめているかと思われます。最後の作品で少し年齢層が高めの物語を持ってきたというのは、ロメールなりのそういったメッセージの送り方なんじゃないかと思ったりもしました。

オリーブの林をぬけて

Zir-e Derakhatan-e Zeyton
1994年,イラン,103分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホセイン・ジャファリアン、ファルハッド・サバ
出演:ホセイン・レザイ、モハマッド・アリ・シャハーズ、タヘレ・ラダニアン

 この映画は「映画監督役をする」という俳優のセリフから始まる。そして彼以外の出演者はみな素人であると宣言され、出演する女性を探すシーンで映画がスタートする。その後も映画の撮影そのものとそれにまつわる出演者たちのエピソードで映画は展開されていく。
 どの出演者も実名で登場することもあって、どこまでがフィクショナルな部分なのかはまったく判別がつかない。しかし、キアロスタミ本人は登場しないことから、全体としてはひとつのフィクションとして作られているということなのだろう。

 これはとても不思議な映画だ。おそらく多くの部分は素人の出演者たちの生な部分なのだろう。演じるように指示されたものかもしれないが、それは事実に基づく物語であるように思える。とはいえ、ここではどこまでが事実でどこからがフィクションであるのかの線引きをすることはまったく重要ではない。重要なのはこれがフィクションであるにしろ、イランの現実を反映しているということだ。「友だちのうちはどこ?」の撮影で訪れた土地が地震に襲われ、多くの死者が出たことから紡がれることとなった2つの物語。それは「そして人生はつづく」とこの「オリーブの林をぬけて」だが、その二つの物語に登場する人々はまったくの現地の人たちであり、たとえばホセインは映画の中で述べているように25人の親戚を地震で失ったのだろう。
 そのように非常に事実であるにもかかわらず、全体はフィクションであり、しかも映画の撮影を撮った映画であるという複雑さが全体を不思議な雰囲気にしているといえる。そして素人たちが映画作りに加わることから生じるさまざまな事態も不思議な雰囲気を醸し出す一因だ。これは推測だが、この素人が加わることによって生じる事態というのはキアロスタミ自身が前2作を撮るときに感じたものをそのまま映画に表現したものなのだろう。映画の中での監督が、どうしても「ホセインさん」といわないタヘレに怒りを爆発させそうになるが、相手役のホセインに「最近は夫にさんなんてつけない」とたしなめられて、自分の主張を引っ込める。これなどはキアロスタミが実際に経験したことなのだろうと思える。そのような事態はプロの役者を使ったら絶対に起こらないことだろう。
 このようなことが起きることでキアロスタミは映画のすべてをコントロールすることはできないと気づいたかもしれない。そしてそれを表現するべくこの映画を撮ったのかもしれないと思う。そう思うのはこの作品以後もキアロスタミが素人の役者たちを使い、それによって起こる予想外の事態を積極的に映画に取り入れているように見えるからだ。このような傾向はキアロスタミにとどまらず、イランの監督たち一般に言える傾向である。この監督に統御しきれないところから生まれた要素というのが私にとってのイラン映画の魅力のひとつである。
 しかし、キアロスタミはしっかりと自分の仕事もし、自己を強烈に主張する。それは、ラストシーンである。それまでまったく使わなかった音楽を使い、そしてあの圧倒的なロングショット。誰もがただの白い点になってしまった人物の一挙手一投足を目を細めてみてしまうだろう。それはもちろんこのラストシーンに至るまでの二人の物語にわれわれが入り込んでしまったからこそなのだろう。そんな非常に魅力的なラストシーンはキアロスタミの映画の中でも最上の5分間だと思う。そして映画史上においても屈指のものだと思う。

キプールの記憶

Kippur
2000年,イスラエル=フランス=イタリア,127分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
撮影:レナート・ベルタ
出演:リオン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クラズネル、ヨラム・ハタブ

 ヨム・キプール戦争の勃発とともに、部隊から呼び出された予備役兵のワインローブとルソ。しかし、国境地帯はすでに交戦中で、自分たちの部隊にたどり着くことができない。どうしようかと思いあぐねていたとき、車が故障して困っていた軍医に出会い、彼を連れて行った救急部隊に入った。
 ギタイ監督に実体験をもとに撮ったというだけあって、とにかく戦場から負傷者をヘリで運び出す彼らの姿は非常にリアル。

 ギタイ映画はサウンドがとても印象深い。この映画の冒頭も、町中に響く祈りの声が閑散とした街の中にこだまするさまがとても美しい。そして、全般にわたって耳にとどろくヘリコプターの音。それはとにかくうるさい。まさにセリフをかき消す音。しかし、それはその音がやんだとき、あるいはその音にならされてしまったとき、不意に襲ってくる何かのための伏線か? 
 それにしても、負傷者や爆撃がこれほどリアルに描かれているということは、相当予算もかかっているはずで、それはつまりアモス・ギタイが世界的に認められてきたということだろう。それはさておき、このリアルさにもかかわらず、この映画には敵の姿が一度も現れないというのがとても興味深い。戦争映画というと、必ず敵が存在しているはずで、この映画でもシリアという具体的な敵が存在して入るのだけれど、それが具体的な像として映画に現れることは一度もない。現れるのはシリア軍が打ち込んでくる砲弾だけ。この敵の不在にはいったいどのようなメッセージがこめられているのか? 戦争において敵の存在とはいったいなんであるのか? 当たり前のように敵の兵士が登場する場合よりも、この方が敵というものについて考えさせられる。シリアとその背後にあるソ連という漠然とした敵は存在し、そこに兵士が存在していることは明らかなのだけれど、そのシリアの兵士たちと、イスラエルの兵士たちの間にどれくらいの違いがあるのか?シリアのワインローブたちも砲弾の下をくぐって負傷兵たちを運んでいるのだろう。
 そのように考えると、どんどんわからなさは増すばかり。日常からすぐに戦場へと赴き、戦場からすぐに日常へと復帰したワインローブにとって戦争といったいなんだったのか? 人を狂気に追いやりすらするほどの恐怖を伴う戦闘をどのように受け入れているのか?

しとやかな獣

1962年,日本,96分
監督:川島雄三
原作:新藤兼人
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:池野成
出演:若尾文子、川畑愛光、伊藤雄之助、山岡久乃、浜田ゆう子、高松英郎、船越英二

 息子が会社の金を着服し、娘は作家の妾に納まって優雅な生活を送っている岡田家。息子の会社の社長が殴りこんでくるというので、普段の豪勢な内装をみすぼらしいものにかえ、そ知らぬ顔で社長を迎える。そこには会計係の美しい女がついてきたが、実は彼女こそが…
 川島雄三がアパートの一室を舞台に、作り上げた一風変わったドラマ。サスペンスというかなんというか、とにかく川島雄三の天分と自由さがいかんなく発揮された作品。登場する人たちもはまり役ばかり。特に若尾文子はすごいですね。

 川島雄三は自由である。その自由が許されるのはやはり才能ゆえなのであろう。ゴダールも自由だが、彼もまた天才であるからこそ自由でありえる。
 最初のシーンから、窓から2つの部屋を同時に見るというショットである。2つの部屋を同時に撮ること自体はそれほど新しいことではない。しかし、この仕掛けが映画を通して繰り返され、窓からにとどまらず、上から下からのぞき穴から、区切られた二つの空間をさまざまな形で同時に移しているのを見ると、この監督がいかに空間というものから自由であるかがわかる。ひとつの部屋をひとつの空間としてとらえることは容易だけれど、複数の部屋をひとつの空間と考えて、それが作り出すさまざまな空間構成を操作することは難しい。そこに必要なのは自由な発想である。天井があるはずのところにカメラをおく、ありえないようなのぞき窓を作ってしまう。そのようなことができる自由さが保障されるのは、やはりそこから出来上がるものがあってこそ。それが自由と才能を結びつけるものだと思う。
 しかし、天才というのは理解できないからこそ天才であるという面もある。この川島雄三の映画も、そんな空間の扱い方にとどまらず、やたらと画面の中に人物を詰め込むやり方などを見ても、「すごい」とは思うけれど、そのそれぞれにどのような意味や効果がこめられているのかを理解することは(私には)できない。それらのつながりが見えてこず、ばらばらな印象を受けることもある。だから手放しにその才能を賛美することはできないが、どの作品を見ても感じられる自由な感覚には酔うことができる。
 川島雄三はすごい画面を作り、なかなか理解しがたい仕掛けを映画に仕込む。それは天才であるということかもしれないし、人とは違う感性を持った理解できない人間であるだけかもしれない。重要なのはそのどちらであるのかという判断は、川島雄三という映画監督にかかわることに過ぎず、それが個々の映画の見方を縛るわけではないということだ。川島雄三という名に固執して映画を見ること彼が最も重要視していたと推測できる「自由」に反することだ。川島雄三が撮った自由な映画を見るとき、見る側もまた自由でなければならないと思う。この映画で言えば、すべてのドラマが展開されるアパートの一室を中空に浮いたひとつの透明な箱ととらえたい。見るものはその透明な箱の周りを自由に飛び回ることのできる翼を持った存在だ。そのような自由な存在にわれわれをしてくれるのが川島雄三だ。
 川島雄三はこのように、閉じられた空間をとらえることによって自由な感覚を生み出したけれど、それができたのは、彼が誰にもまして自由だったからだろう。

黒の切り札

1964年,日本,92分
監督:井上梅次
脚本:長谷川公之
撮影:渡辺徹
音楽:秋満義孝
出演:田宮二郎、宇津井健、藤由紀子、万里昌代

 同じ難波田という男に組をつぶされたやくざ者と父親を自殺に追いやられた社長の息子。この二人が難波田に復讐をしようと組んだのは難波田の経営するナイトクラブでサックスを吹く謎の男・根来。三人はある夜、極東信用金庫に盗みに入った…
 「黒」シリーズの10作目はシリーズでともに主役を張る田宮二郎と宇津井健が共演。いつものヒロイン藤由紀子も出演し、シリーズとしても「切り札」を切ったという感じ。

 田宮二郎はかっこよく、「黒」シリーズは面白い。それがどのように面白いのか考えてみる。たとえば「火曜サスペンス」とどのあたりが違うのかを考える。
 一番違うのは画面の作り方だろう。テレビで見られることを主眼としたテレビドラマとスクリーンでかけられることを前提とした映画の違い。もちろんシネマスコープサイズというのもあるけれど、ものの配置の仕方が違う。そして、カメラの動き方が違う。多くのテレビドラマはカメラ動きすぎる。ズームアップしたり、走っている人を追ってみたり、それは緊迫感を高めるひとつの技術ではあるけれど、カメラが動きすぎることによって失われるものもある。
 テレビドラマの中にも面白いものはあるので一概には言えないのですが、傾向としてはそういう感じだということです。結局のところ、このあたりのシリーズものの娯楽映画がテレビドラマの源流のひとつとなっているので、根本的な違いはそれほどないはず。もっとも大きな違いといえば、スポンサーからお金をもらってただで放映するのか、それともお客さんからお金を取って上映するのかという違いでしょう。
 お金をとってお客さんを呼ぶ以上、お客さんの興味を引くような映画でなければならない。その意味でこの映画はヒットシリーズもので、二人のスターが出演しているから、お客さんの興味を引くことは確か。しかし、内容はといえば… 今のテレビドラマと特に違いはないくらいの質でしょう。何百本もの映画が作られていたこのころ、映画の質はピンキリということですね。そんな中では中くらいの出来だと思います。
 今日は話がばらばらになってしまいました。結論としては「火曜サスペンス」と根本的には違わないけれど、田宮二郎とシネスコと映画の質が違うということです。後はメディアが違うということも結構影響があるでしょう。
 そして田宮二郎はやはりいいということ。

放浪記

1962年,日本,123分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井手俊郎、田中澄江
撮影:安本淳
音楽:古関裕而
出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子

 両親と行商をしながら全国を転々として少女時代を暮らしたふみ子は本が大好きでいつも本ばかり読んでいる。女学校を卒業し、母と二人東京に落ち着いたが、母は九州にいる父を助けに九州へといってしまう。一人暮らしをはじめたふみ子だったが仕事はなかなか見つからず、貧しい生活を送っていた…
 林芙美子のデビューのきっかけとなった自伝小説の映画化。成瀬が映画化した林芙美子の作品としては最後の作品となった。林芙美子自身の文章をキャプションに使い、かなり原作を反映させた作品となっている。

 冒頭から何度も入る。文字によるキャプション「○月×日 …」。この言葉はすごく美しく、ぐっと心に響いてくる。もちろん原作ままの文章をキャプションとし、それを高峰秀子が読むという形なのだけれど、原作ではおそらく無数にあるであろうその文章の中から本当に心に響く言葉を選び出し、効果的な配することができるのは映画の力だ。原作者-脚本家-監督の絶妙のコラボレーション。ただ、この文章も映画の終盤になるとその威力を弱める。映画の中でも言われている「貧乏を売り物にしているのが鼻につく」ということだろうか?それとも単純にその言葉に慣れてしまうからだろうか? あるいは映画のテンポにあまりに変化がなさ過ぎるからか?
 基本的にこの映画はドラマが最大の魅力であると思う。ふみ子のまさにドラマティックな人生。そのドラマにこそ観客は入り込み、ふみ子に自己を投影する。あるいはふみ子を影から見つめている保護者のような立場に自分を置く。だから福地が登場すると「こんな男にはだまされるなよ」などと思ってしまう。ふみ子の味方として映画の中の世界の隣に佇む。そんな立場で映画を見ることができるのはすばらしい。それはもちろん成瀬のさりげない演出、子供のころふみ子が画面の奥でいつも本を読んでいるとか、本郷の下宿の建物が微妙に傾いているとかいうことも重要だし、高峰秀子の非常にうまい役作り、しゃべり方や表情も重要なのだろう。しかし、これも終盤になると弱まってしまう。なんとなくふみ子にわずかに反感を覚えてしまったりもする。感覚としては映画の中の世界からぽんと外に放り出されてしまったような感じ。ふみ子という存在がすっと遠くに行ってしまったような感覚を覚える。これも成瀬流の演出なのか? 最後にクライマックスを持ってきて感動の涙を流させようとするいやらしいハリウッド映画とは違う成瀬の「いき」なのかとも思う。
 ある意味では絶妙な終わり方。パーティーでの福地のぶった演説はすごく感動的だった。しかしそれはふみ子の敵であったはずの福地の呼んだ感動であり、単純な勧善懲悪のドラマの裏切りである。一人の立場に入り込んで映画を見ると、ほかの人を善悪に二分しがちで、この映画もその例外ではないのだけれど、しかし、福地の演説に限らず終盤でこの二分論を裏切ることで映画全体を複雑で味わい深いものにしているのも事実である。この関係性の転換というか書き換えがシンプルなドラマとしてとらえた映画にとっては違和感になってはいるけれど、逆に深みを出してもいるといえるのではないだろうか?

バロウズの妻

Beat
2000年,アメリカ,93分
監督:ゲイリー・ウォルコウ
脚本:ゲイリー・ウォルコウ
撮影:サイロ・カペーロ
音楽:アーネスト・トルースト
出演:コートニー・ラヴ、キファー・サザーランド、ノーマン・リーダス、ロン・リヴィングストン

 1944年ニューヨーク、後に「ビートニック」と呼ばれることになる若者たちが集まり、飲んで騒いでいた。そこには後にウィリアム・バロウズの妻となるジョーンもいた。そんな中、同性愛者のダヴィドは仲間の一人ルシアンに想いを寄せ、行動を起こそうとしていた。そんなルシアンにダヴィドとの関係を何とかするように警告するが…
 ビートニックの父ウィリアム・バロウズが小説家となる以前にビートニックの若者たちとどう関係していたのか、妻ジョーンとはどのような存在だったのかということを事実をもとに描いた作品。

 バロウズといえば思い出すのはやはり、クローネンバーグが監督した「裸のランチ」でしょうか。それを含めた彼の作品群からしてかなり「狂気」に近い作家というイメージがあります。いわゆるビートニックといわれる、ギンズバーグやケルアックとは年齢的にも違いがあるし、作品にも違いがある。それでも彼とビートニックとのかかわりが強調されるのは、この映画に描かれたような話を含めた日常的な関係の話からなのでしょう。
 この映画の難点は、結局のところジョーンという一人の女をめぐる物語となってしまっていて、そういう男同士の関係性が表現し切れなかったことではないかと思う。映画が終わった後のやたらに長い文字説明を見る限り、そんなビートニックたちについて書きたかったのだろうし、題名からしてそのものだし。ジャック・ケルアックなんて最初のほうに出てきたっきりだし。
 ファーストシーンからコートニー・ラヴが非常に印象的で、魅力的なだけにさらにそのビートニックたちの印象が弱まる。
 それにしてもこの映画のコートニー・ラヴはいいです。ものすごい美人というわけではないけれど、どこか不安定なものもありながらしかしどこか冷静で落ち着いているという感じ。その感じがとてもいい。それをうまく表現するコートニー・ラヴはすばらしい。それと比べると、非常に魅力的な人物として描かれているルシアンはちょっとなさけない。あまり魅力的には見えない。
 コートニー・ラヴを見よ! ということです。

歌う女・歌わない女

L’une Chante, L’autre pas
1977年,フランス=ベルギー,107分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:シャルリー・ヴァン・ダム、ヌリート・アヴィヴ
音楽:フランソワ・ヴェルテメール
出演:テレーズ・リオタール、ヴァレリー・メレッス、ロベール・ダディエス

 1962年、歌手を志す高校生のポリーヌは町の写真屋で昔隣人だった友人が子供と一緒にの写真を眼にする。そして彼女がその写真屋と同棲し、子供までもうけたと知る。後日彼女を訪ねたポリーヌは、彼女が貧しさに苦しみながらもう一人子供を身ごもっていることを知る。
 二人の女性はまったく異なった立場ではあるが、どこかにつながりを感じ、ひとつの物語を織り成してゆく。

 昨日は、シュールリアリスティックなヴァルダの世界感について書きましたが、それと比べるとこの映画は非常にオーソドックスな空間を構成しています。まったくの日常の風景。
 この映画にあるのは徹底的なアンチクライマックス。物語をひとつあるいはいくつかのクライマックスに向けて作ろうという姿勢ではなく、ほとんど平坦なストーリーテリングをしようという姿勢。この物語り方は非常に現実的である気がする。大きな節目である自殺の場面を経ても、二人の関係は劇的に変わらない。そもそもその自殺の場面も劇的に演出されない。
 ヴァルダは普段は非常に近くに人物をとらえる。多くの場合、画面からはみ出しさえする。そんなヴァルダが自殺に続くスザンヌの田舎暮らしの場面で徹底して遠くから被写体をとらえるのはなぜなのか? その画面が伝えるのは決してスザンヌの悲惨さというものではない。両親に冷たく当たられながらもスザンヌの顔には笑みがあふれ、子供たちも決して不幸せそうではない。しかしそう幸福そうでもない。
 つまり、この場面は遠くからとらえることで悲惨さやあるいは幸福さが薄められている。それは自殺という劇的な事件を機に大きくドラマが波打つのを防ぐ。
 これらによって作り出されるアンチクライマックスは映画の重心をドラマからそらせる。映画のドラマ以外の部分。それこそが常にヴァルダが観客にプレゼントしたいものなのだと思う。