愛しのタチアナ

Pida Huivista Kiinni, Tatjana
1994年,フィンランド,62分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:サッケ・ジャルヴァンバ、アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ヴェイッコ・トゥオミ
出演:カティ・オウティネン、マティ・ペロンパー、マト・ヴァルトネン、キルシ・テュッキュライネン

 ヴァルトは母親のところでミシンを踏んでいるが、コーヒーが切れたといって家を出る。その足で車を修理に出していたレイノの所に向かう。車の修理は終わっていて、2人で試運転に出かけるが、その途中でよったバーでバスが故障して立ち往生していた二人の女性を港まで乗せていくことになった。
 カウリスマキはいつでもカウリスマキだ。本当に不思議な空間を彼は作る。フィンランドがそうなのか、それともカウリスマキが変なのか…

 コーヒーとウォッカはほとんどしゃべらず始終ブスリとしているけれど、2人の間には何か通じるものがあるらしい。それにしてもあまりにしゃべらない。この映画はおそらく台詞の量では世界で指折りの少なさを誇る映画だろう。ひとつの台詞から次の台詞までの間は果てしなく長い。その間に文脈というものはなくなる。ただひとつ文脈のある台詞はロシア人の女の「あなたたちって本当に話好きね」という台詞だけだ。
 この台詞と台詞の長い間は物語の断絶も意味する。ロシア人の女が宿屋の女主人に「イヤリングありがとう」というけれど、そのイヤリングは映画には登場しない。そのように物語りはばっさりと断たれ、夜から昼、昼から夜と時間ばかりが流れていく。その時間の流れの中で台詞を使わずに、登場人物たちの心理を着実に描いていくのがカウリスマキの真骨頂。この映画でもそれは健在。
 カウリスマキ映画のもうひとつの特徴(?)といえば、主人公たちがさえないこと。それは冒頭2つ目のカットでバイクに乗る4人を見た時点で明らかになる。このカット、物語と何の関係があるのか最初はよくわかりませんが全部見終わって振り返ると、なるほどね、というカットです。

!!ここからややネタばれ目!!

 この2番目のカットに現れた4人は誰だったろうか? どうにも思い出せないが、旅に出た4人と同じだった気がする。それならば、すべての謎は明らかに。みながらずっと思っていたのは「お母さんは!?」という疑問。こんな何日も閉じ込めて置いたら死んじまうよ。このまま旅を続けて帰ってみたらお母さん餓死っていうオチだったらそれはそれですごい映画だと思いながら見ていましたが、こういうオチなら、それはそれでなるほどねという感じ。「夢」のこういう使い方もあるというか、こういう使い方が本当はいいんだと思います。
 『シックス・センス』以来、何本も同じような映画が作られている中、『ビューティフル・マインド』なんて映画も現れましたが、そんな映画作る前にこの映画を見ろ!! といいたい。人間すべてがアメリカ人みたいに単純だと思ったら大間違いだぞ!! といいたい。この映画のラストシーンの淡白さをロン・ハワードに見習ってもらいたいですね。

まらそん侍

1956年,日本,90分
監督:森一生
原作:伊場春部
脚本:八木隆一郎
撮影:本多省三
音楽:鈴木静一
出演:勝新太郎、夏目俊二、大泉滉、嵯峨三智子、トニー谷

 安中藩はでは年に一度「遠足(とおあし)」という今で言うまらそん大会が開かれる。その大会の各部門で優勝したものには藩の宝である純金の煙管で煙草を賜ることができた。ある年の優勝者に名を連ねた和馬と一之輔は親友でライバル。藩校に入学した2人は、東京から帰ってきた筆頭家老の娘千鶴に恋をする。
 スター勝新太郎がまだ若いころ主演したコメディ映画。脇にはトニー谷らコメディアンが並び、わかりやすい娯楽作品にしている。

 なんですかねえ、勝新がこんな映画に出ているのはなかなか見れない。結局のところこれは時代劇でもなんでもなく、普通のコメディ映画にちょんまげをかぶせただけでしょう。トニー谷がそろばんはじいているのは愛嬌にしても、トニー谷も大泉滉も動きが面白い。特にマラソンシーンの大泉滉のふざけ方はどうなんだろう? あんなへろへろ走って一位になれるはずがない。とは思いますが、その辺の厳密さをまったく求めていないところがまたいいとところ。かなりいい加減な映画です。いい加減なところを上げていくと本当にキリがなくなるのでやめますが、たとえば五貫目(約20キロ)あるキセルをひょいと持ち上げるお嬢さんなんかいやしない。
 まあまあ、コメディとしては面白いです。トニー谷と盗賊の姉御が掛け合いで唄を歌うところなんかは当時のコメディならではの味がある笑いだと思います。今では絶対に作れない。謡曲風で今見ると違和感はありますが、それはそれで結構面白いもの。トニー谷というひとはかなり芸達者だったのだと思ったりもします。
 コメディというのはやはり昔から軽く見られていたのでしょう。たくさん作られていたはずなのに、今見られるものは非常に少ない。フィルムは結構残っていますが、ビデオなんかになって簡単に借りられるものはあまりないと思います。そんな中この作品は勝新が主演だというせいではありますが、ちゃんとビデオになっている希少な作品です。
 昭和30年代の日本映画黄金時代を見るならば、見ておいて損はない作品かと思います。これだけ低予算な映画というのもなかなか見られません。それは勝新がまだ若かったころだから。立ち回りもなんだか勢いがなく、肝心の純金の煙管も白黒で見ても明らかにしょぼい。こう安いと衣装なんかも他の映画の使いまわしなんじゃないかと考えてしまいます。まあ、それはそれでいいのです。

マップ・オブ・ザ・ワールド

A Map of the World
1999年,アメリカ,126分
監督:スコット・エリオット
原作:ジェーン・ハミルトン
脚本:ピーター・ヘッジズ、ポリー・プラット
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:パット・メセニー
出演:シガーニー・ウィーヴァー、ジュリアン・ムーア、デヴィッド・ストラザーン、クロエ・セヴィニー

 アメリカのごく普通の田舎町で牧場を営むハワードのところに嫁に来たアリス。地域の学校で保険の教師をやりながら夫と二人の娘とごく普通の生活を送っていた。夏休みに入り、それまで迷惑をかけっぱなしだった親友のテレサの二人の子を預かったアリスだったが、ちょっと目を話した隙に下の子リジーがいなくなってしまった…
 誰にでも起こりうるような出来事を描いてベストセラーとなった小説の映画化。監督のエリオットはこれが初監督作品。

 話としてはよくわかるのだけれど、脚本というかプロットの組み立て方がなんとなく違和感がある。それは確実なひとつの物語があるにもかかわらず、それを組み立てるそれそれのエピソードがどうも散漫だから。エピソード自体を見せるような映画ならば散漫でも一向に構わないのだけれど、この映画のようにすっと筋が通ったメッセージ色の強い映画の場合、散漫な印象派物語全体をぼやかしてしまう恐れがある。
 それぞれのエピソードが散漫な印象になるのは、それが全体のプロットの中でどのような役割を果たすものなのかが判然としないからだろう。たとえば刑務所でのけんかのエピソードなどは、いったいなんでこんなものが挿入されたのかよくわからない。
 しかもそれぞれのエピソードが同じようなバランスで描かれていて、重点が見えてこないというのもある。一つ一つの舞台の話が同じくらいの分量であるので、どれが重要なのかわからなくなってしまう。
 考えてみると、これはベストセラーを原作に持つ映画にありがちなことであるような気もする。ベストセラーを映画化するとなると、あまり原作から離れすぎてもいけない。しかし、忠実に再現するには映画の2時間という時間は短かすぎる。そこで多くの場合、重要なあるいは面白いエピソードだけをピックアップして、それをつなげることで、全体のトーンは原作のままを維持しながらコンパクトにまとめるという方法が取られる。この映画はそんなやり方が今ひとつうまくいかなかった例だろう。
 メッセージとか、問題意識とかは今のアメリカの社会ではとても重要なことで、しかも世間の風潮に流されずに強く生きるという点で啓蒙的ではあるけれど、それと映画の面白さは別ということですかね。やはり。

ビューティフル・マインド

A Beautiful Mind
2001年,アメリカ,134分
監督:ロン・ハワード
原作:シルヴィア・ネイサー
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ラッセル・クロウ、エド・ハリス、ジェニファー・コネリー、アダム・ゴールドバーグ

 プリンストン大学に入学した天才数学者のジョン・ナッシュ。人付き合いの苦手な彼はルームメートのチャールズを最初は避けるが、チャールズの人柄もあって徐々に打ち解けてゆく。しかし彼の頭の中にあるのは「独特な、斬新な、この世のすべてを支配する心理」を見つけることだった。しかし、彼の奇異な行動は人々の笑いの種になり…
 実在の高名な数学者ジョン・ナッシュを描いた伝記小説の映画化。ドリームワークスの中ではちょっと毛色の変わった作品を撮るロン・ハワードらしい作品といっていいだろう。

 予備知識なしに、1回見れば非常に面白い。しかし、2度目に見たらどうなのかという気はする。物語のからくりと、ジョン・ナッシュという人間の面白さがこの映画の眼目だから、からくりがわかってしまった2度目には1度目ほどの面白さは味わえないと思う。まあ、でも2度目はいけるかな。からくりを知った上で見る2度目はまだ面白いかもしれません。いかにうまくからくりが隠されているかを観察するのが面白いかもしれない。見てない人には何のことやらさっぱりわからないと思いますが、ネタばれ厳禁なのでそのまま押し切ります。
 これはつまり、この映画の面白さはあくまで物語にあるということ。一つ一つしっかりと組み立てられた物語であるだけに、2時間長に時間も一気に見せてしまう面白さがあります。この辺はドリームワークス作品に共通して見られる要素かもしれない。それは徹底的なエンターテインメント。ハートウォーミングな感動作でも、そこにあるのは哲学ではなく、娯楽。2時間、あるいは2時間超の時間、観客を別世界に引き込むことができる力。それは「ドリーム・ワークス」という社名にも現れていること。
 そんなことを考えていると、この物語自体、かなりドリーム・ワークス的なものかも知れない。現実の生活に「夢」を埋め込む作業、それがドリーム・ワークスの仕事だとするならば、このジョン・ナッシュは…(ネタばれ防止)
 確かに、これがアカデミー賞? という気はしますが、振り返ってみればアカデミー賞とは芸術的な映画やメッセージ性の強い映画ではなく感動できる娯楽作品に贈られてきたもの。だから、この映画はまさにアカデミー賞にふさわしい。「名作」といえる作品ではないけれど、今のハリウッドに典型的な作品といっていいでしょう。もちろんこの映画から何らかの「哲学」を読み取ることはできます。しかし、それはあくまで可能だというだけで、作り手としては映画を見ている間、その世界に没頭してくれればいいという考えで映画を作っているような気がします。そこから自分の現実にひきつけて哲学したい人はご自由にどうぞという感じ。
 私はちょっと考えてみました。ジョンが暗号を解読するシーンで。CGを使って浮き上がってくる文字を見ながら、確かにアイデアが浮かぶ時ってこうだよな。と。視覚というのは非常に選択的で、すぐ隣にあるものでも見たくないときには見ないでいることができる。特に物語に集中しているときはそうだなと。それは、いわゆる現実とは違っている。つまり、すべてのものが平等にものである世界とは違う選択的な世界である。何が現実で、何が非現実であるかなんてそんな程度の問題だと私は思います。そこに線を引くことすらナンセンスだと。

嘆きの天使

Der Blaue Engel
1930年,ドイツ,107分
監督:ジョセフ・フォン・スタインバーグ
原作:ハインリッヒ・マン
脚本:ロベルト・リーブマン
撮影:ギュンター・リター
音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ、クルト・ゲロン、ハンス・アルベルス

 生徒に馬鹿にされる高校の英語教師ラート教授。彼は授業中に生徒が眺めていたブロマイドを取り上げる。放課後、同じブロマイドを持っていた優等生を問い詰めると、そのブロマイドに写っているのは“嘆きの天使”というキャバレーの踊り子だという。教授はその夜、”嘆きの天使”に向かうが…
 ディートリヒとスタンバーグという黄金コンビの最初の作品。ディートリッヒがアメリカでブレイクした作品でもある。

 この映画が語られるとき、常にいわれるのはディートリッヒの脚線美ということだ。ドイツで端役をやっていたディートリッヒを見出し、主役に抜擢し、アメリカに売り込んだスタンバーグ監督が、そのとき売りにした脚線美。それはもう本当に美しく、白黒の画面でもその美しさは伝わってくる。
 しかし、この作品が成功したのは単純に脚線美だけではなく、その脚線美が生み出すドラマのせつなさ。抗いがたい魅力を持つ脚線美という土台の上に気づかれた物語がまた心をつかむ。前半はコメディタッチでテンポよく進んでいくのだけれど、後半それが一転、ドラマチックな展開になっていくその変わり方も見事だし、終盤のドラマの見ごたえがすごい。
 なんといっても最後の最後、ロラロラと教授の間で交わされる言葉にならない言葉。ロラロラの考えていることが教授に伝わらないもどかしさ。あるいは伝わっているのかもしれないけれど、それを素直に受け入れられない教授のプライド。それはもう切ないのです。その切なさをしっかりと表現できるディートリッヒとそしてエミール・ヤニングス。ヤニングスといえば、ムルナウの『最後の人』なんかに出ていた名優ですから、その名優の向こうを張ってがっちりと演じきってしまうディートリッヒにはやはり脚線美という売りを超えた才能があったということでしょう。そう、その二人が舞台と舞台袖で視線を交わし、無言で語らいあう。ロラロラのほうは教授の考えていることがわかっているのだろうけれど、教授のほうはロラロラの考えていることがよくわからない。とらえられない。そのディートエイッヒの視線はどのようにも解釈できる視線。私は彼女はいまだ教授を愛していて、彼をある意味では励まそうという視線を送っているように見えた。教授はそれを受け入れることができない。そのあたりがもう切ない。
 それから、ディートリッヒは歌も見事。何でも、スタンバーグは舞台に出て歌っていたディートリッヒを見て、主役に抜擢することに決めたということなので、歌がうまいのも当たり前です。この歌を聴いて、観客は「これがトーキーのすばらしさか」と納得したことだろうと想像します。ひとつの完成形となっていたサイレントからトーキーに移行するには、このようなトーキーでなくては作れない名作の出現が重要だったのだろうと想像します。映画史的に見れば、そういった意味で重要な作品だったんじゃないかということです。

祇園囃子

1953年,日本,85分
監督:溝口健二
原作:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤一郎
出演:木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、斎藤英太郎、浪速千栄子

 芸者の娘栄子は、母を亡くし、叔父に邪険にされ、零落した父親を頼ることもできず、母の昔の仲間を頼って祇園にやってきた。一軒の館を構える芸者美代春は保証人のなり手もない栄子を芸者として仕込むことに決めた。一年あまりの稽古を終え、美代春の妹美代栄としてはれて舞妓になった栄子だったが、その世界ははたから見るほどきれいなものではなかった…
 溝口、宮川に脂の乗り切った木暮美千代、そして出演2作目で若々しい若尾文子と役者はすっかりそろい、駄作が生まれるはずもない。

 溝口の「間」。この映画の前半、溝口はふんだんに「間」をとる。ひとつのシーンの始まりや終わりで、シーン自体とは無関係なものや人を映す。わかりやすいのはシーン頭に何度かあるカメラの前を通過する人々だろう。最初のシーンでもまず目を引くのは物売りの女。しかしこの女は物語とは関係がない。その後シーンの頭でカメラの前を人や自転車が通過する。その後本来の登場人物がフレームに入ってくるという構成がとられる。この「間」がゆったりとした映画の流れを作る。しかし映画の後半になるとこの「間」ははぶかれ、物語はテンポを持って展開してゆくようになる。シーンとシーンの間に挟まれるのはせいぜいフェードアウト程度だ。
 話を戻して、この「間」を作り出しているのは、完全な固定カメラの映像。舞台に登場人物が入ってくることからシーンが始まることが多い演出。この固定カメラというのは、もちろん宮川一夫の得意の範疇だ。低目から固定カメラで丹念にひとつのカットを作り上げる。舞台の奥で展開される主な物語に対して前景で演じられる遊び。美代春が生活に困窮しているあたりの場面で、薄暗い屋敷の中で、しかし前景の右端に大きく過敏に生けられた花が写っていた場面が非常に印象的でった。いくら困窮していても芸者であるからには華やかさを失ってはいけないという気持ち。その奥で起こっている出来事はその華やかさとは無縁のつらい物語なのだけれど、その花があるだけでそのシーンの印象は大きく変わった。
 溝口としては、戦後の様変わりした日本で、彼が愛した(と思う)祇園の町がどう変わっていくのかを描きたかったのだろう。完全に古い風習の上に立っている町と新しい日本とのかかわり方は確かに面白い話だ。復興に頭を取られる人たちは祇園のことなど忘れ、それが廃れようとどうしようとかまいはしないだろうけれど、依然そこには生きている人たちがいて、生きている風習がある。そのことを溝口は忘れずに考えていた。祇園のお茶の先生の「外国人はフジヤマ、ゲイシャとばかり言う」という台詞は今も生きている。そして、祇園は多くの外国人が訪れる観光地になる。祇園が祇園であり続ける姿をとろうと考えた溝口は懐古趣味のようでいて、実は先見の明があったのかもしれない。

ヴァージン・スーサイズ

The Virgin Sucides
1999年,アメリカ,98分
監督:ソフィア・コッポラ
原作:ジェフリー・ユージェニデス
脚本:ソフィア・コッポラ
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:エア
出演:キルステン・ダンスト、ジェームズ・ウッズ、キャスリン・ターナー、ジョナサン・タッカー、ジョシュ・ハーネット、マイケル・パレ

 70年代、アメリカ。美女ばかりがそろったリスボン家の5人姉妹。その姉妹に異変が起きたのは末娘のセシリアの自殺未遂からだった。かみそりで腕を切ったシシリアは一命を取り留めるが、リスボン家には不穏な空気が流れる。もともとしつけに厳しかった両親は、娘たちをあまり外に出さなくなり、秘密めいた雰囲気が流れた。
 フランシス・フォード・コッポラの娘ソフィア・コッポラの監督デビュー作。役者としてはいまいちだったソフィアも、監督としてはなかなか。コッポラファミリーは生まれながらに映画に対する感性を持っているのかもしれない。

 なんとなくいい。未熟な断片が折り重なって、そこに秘められたメッセージも、見え隠れするプロットも、思わせぶりなだけで何かそこに確実なものがあるわけではないとわかっていながら、そこに何かある気がしてしまう。
 たとえば、ユニコーン。ほんの1カット、1秒あるかないかのカットに映ったユニコーンが抱えるメッセージは何なのか? そこでユニコーンが映ることによって生まれる解釈はそれが現実ではない夢物語であるということ。
 姉妹と時をすごしたかつての少年が回想する姉妹の物語、同じときを過ごした当時から空想を重ねた少年の記憶は、主観性を失う。ひとりの少年の視点から一貫して語られるのではなく、さまざまな視点が混在するのはおかしい。
 現実と空想が、正気と狂気が入り混じる空間で語られたことは何一つとして確実ではない。だからこの映画にはとらえどころがなく、しかし空想や狂気の世界とは、甘美そのものであるから、この映画は甘美である。
 テレビ・レポーターという現実世界の陳腐な表象。この陳腐さはそれが現実ではないことを立証しているかのようである。唐突に現れ、繰り返し現れるというのもなんだか現実感がない。
 振り返ってみるとこの映画のすべてが現実感を持っていない。
 死とは甘美なものかもしれない。
 この映画の映像の断片やひとつの台詞や一片の音楽が心に引っかかってくるのはその一つ一つが甘美なものだからだろう。一人一人の人間が持つ甘美な空想世界。その空想世界と重なり合う世界がこの映画の中に断片として含まれている。だからその断片に出会ったとき、その甘美さが心に引っかかる。
 13歳の女の子ではなくっても、13歳の女の子と甘美さの一片を共有することはできる。それがこの映画が成功した秘密だと思う。そしてソフィア・コッポラにはそのように断片を積み重ねることができるセンスがあるということ。

ウォーターボーイズ

2001年,日本,91分
監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:長田勇市
音楽:松田岳二、冷水ひとみ、田尻光隆
出演:妻夫木聡、玉木宏、平山綾、真鍋かをり、竹中直人

 唯野高校水泳部の唯一の部員鈴木は最後の大会でも成績を出すことができなかった。そこに新しく若くて美人の教師佐久間が赴任してきて、水泳部の顧問をやることになったため、急に部員が集まった。しかし、その先生は学生時代シンクロをやっていて、生徒たちに「シンクロをやろう」と言い出した…
 実際に男子校でシンクロをやっているという話から矢口史靖が作ったお話。発想の面白さが目を引く。実際のシンクロのシーンはかなり見ごたえがあってよい。

 一番面白かったのはなんといってもシンクロの場面。そこに至る過程よりもシンクロそのものが映画のメインになっているので、その場面が面白いというのはいいことだ。そのかわり、そこいいたるまでの展開は映画が始まって早々にほとんどわかってしまうので、はらはらどきどきということにはならず、気を持たせようという努力も、ただ間延びしてしまうだけであまり効果的ではない。
 この映画で一番気になったのは登場人物たちがあまりに型にはまっていること。見た目とキャラクターが待ったくずれることなく、あまりに一致しすぎているというあまりに漫画的なキャラクターの作り方。ここまで型にはまっていると、何か裏があるんじゃないかとかんぐってしまうが、特に何かあるわけでもなさそう。この映画はすべてが漫画的なつくり。ちょっと懐かしいところで「奇面組」のようなお決まりのギャグ漫画のような雰囲気と駄洒落的な要素を持つ。まず高校が「ただの」高校というのもわかりやすい。そして、主人公は鈴木と佐藤。ゲイの男の子は早乙女、イルカの調教師は磯村、学園祭の実行委員はみんなメガネ、などなどなどなど。
 矢口監督の作品はどれもこのような漫画的な要素を持っていて、それはそれでいいのだけれど、それを突き破れないのが問題である。『ひみつの花園』では見事にそれを突き破っていたのに、それ以後の作品はその漫画的空間の中に漫画的なままでとどまってしまっている。この作品名アイデアの面白さに救われて入るけれど、結局のところ「漫画」でしかない。これは別に漫画やアニメ一般を卑下しているわけではない。それよりむしろ、いわゆる漫画的なものを超えた漫画やアニメと比べて、この作品がいわゆる漫画的なもの(乱暴な言葉で言い換えるなら、子供だましのもの)でしかないということだ。
 この作品は決してつまらないわけではなく、さらりと見れば十分に面白い。2年目のジンクスではないけれど、最初に面白いものを作ってしまうと、ついつい過剰に期待してしまって、普通に面白い作品では満足がいかなくなってしまう。ので、そのあたりが大変。この作品のよさは第一は題材選びだが、その次は音楽の使い方かもしれない。誰もが聞いたことのある、少し昔の、しかも楽しげな曲。今いるアーティストとタイアップして、話題やら動員やらを狙う選択肢もあっただろうけれど、このような選択をして正解だったと思う。この音楽を聴けば、映画を見ている人たちも、プールサイドの観客同様盛り上がること間違いなし。

ゴーストワールド

Ghoat World
2001年,アメリカ,111分
監督:テリー・ズウィコフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚本:ダニエル・クロウズ、テリー・ズウィコフ
撮影:アフォンソ・ビアト
音楽:デヴィッド・キティ
出演:ゾーラ・バーチ、スカーレット・ヨハンソン、スティーヴ・ブシェミ、ブラッド・レンフロ

 イーニドとレベッカの仲良し二人も高校を卒業。しかし、他の仲間とはなじめない変わりものの二人組みは。卒業した後も変わらずふらふらしていた。そんななか、レベッカはコーヒーショップに勤め、まともな道を歩み始めるが、イーニドはいたずらで引っ掛けた男イーモアのことが気になってしまう…
 アメリカで人気のコミックの映画化。他のティーンズ・ムーヴィーとは一線を画した独特の雰囲気がとてもいい。スティーヴ・ブシェミを起用したのもかなり効果的。

 このビジョンはとてもいい。イーニドはとてもいい。これがアメリカの10代の女の子に受けるというのがどういうことが考えてみる。アメリカのティーンズといえば典型的に言えば「ビバヒル」の世界に憧れるというイメージがある。それは他のいわゆるティーンズ・ムーヴィーを見てもそう。しかし、もちろん実態はそんな華やかなものではなく、憧れは憧れだ。しかししかし、もちろんみんながみんなそれに憧れているわけではない。それには気づくのだけれど、映画の世界では真面目少女のように例外として描かれていても、本当はみんなと同じ憧れを持っているという描かれ方をすることも多い。
 そんな映画的環境の中で、完全に例外であるイーニドはとても魅力的だ。型どおりのティーンズたちから見ればクィアなやつに過ぎないけれど、そのものの見方には非常な強さがあり、ゆるぎない自己というか、揺らぎはするけれども決してプライドと自信は失わないという力を持っている。
 男は誰もがレベッカのほうに声をかけるということ。イーニドがシーモアの魅力に気づき、彼を想うようになること。この対比がイーニドと他の世界との隔絶を表しているのだろう。その壁を壊すのか、越えるのか、それとも壁のこちら側にとどまるのか。壁を壊すには自分の中のさまざまなことを犠牲にしなければならず、壁を越えようとすれば、向こう側にはそれを邪魔する人たちがいる。一緒に壁のこちら側にとどまってくれる仲間を求めても、それはなかなか見つからない。いたずらやとっぴな行動で時々壁に小さな穴を穿つだけ。
 そのように描かれるイーニドは私にはすごく魅力的なキャラクターにうつる。イーニドにとってシーモアがヒーローであるように、イーニドを尊敬できるヒロインと見よう。
 映画はといえば、細部へのこだわりが非常に伝わってくる。それはキャラクターと映画空間のつくりへの気の使い方の表れなのだろう。イーニドの部屋の一つ一つの小物と、とても病院とは思えないつくりの「Hospital」と書かれた病院。それら、違和感を生じさせるものどもがこの世界を形作る不可欠な要素である。そのひとつひとつのものへのこだわりがとてもよい。

反則王

THE FOUL KING
2000年,韓国,112分
監督:キム・ジウン
脚本:キム・ジウン
撮影:ホン・ギョンピョ
出演:ソン・ガンホ、チャン・ジニョン、パク・サンミョン、チャン・ハンソン

 銀行に勤めるデホは今日も朝礼に遅刻し、しかも契約を一つも取れないことを副支店長にどやされる。その日、デホはトイレで出会った副支店長にいつものようにヘッドロックをかけられた。その夜、デホはたまたま通りかかったプロレス団体にヘッドロックのはず仕方を教えてもらおうと尋ねてみた。
 シリアスな役の多いソン・ガンホがコメディに主演。覆面レスラーというアイデアとソン・ガンホだけで持っているといっていいかもしれない映画。でも、結構ドツボにはまる人もいるかもしれないと思う。

 まあ、とにかくマスクをつけた男というビジュアルありきの映画でしょうか。街中でスーツにマスク。このミスマッチ感はとてもいい。しかし、その割には、マスクの画が多用されるわけでもない。映画の内容としては可もなく不可もなく。言いたいことはわかるし、織り込みたいネタのふりもなかなかなのだけれど、物語の重点というか、プロットの核のようなものがない。ソン・ガンホが演じるデホという男が中心となるものの、そこから出てくる物語はあまりに散漫。いろいろな物語が混在すること事態は悪くないけれど、そのそれぞれの物語の間のつながりがあまりに希薄。それが映画全体の冗長さを生んでしまったのではないかと思われます。コメディ映画はやはりテンポが命。テンポよくやってくれないとネタも生きないということで。
 それを補うのはソン・ガンホ。この人はかなりいい役者らしい。「どこが?」といわれると困りますが、キャラクターの作り方が自然。この映画のデホはどうにも情けない男なのだけれど、その情けなさをしっかりと出しながら、決して暗くはならない。そのあたりがうまいといっていいのではないでしょうか?
 あと、『アタック・ザ・ガス・ステーション』を見たときにも思ったことですが、韓国映画の音楽はかなりいい。いわゆる洋楽の要素を取り入れながら、しかし今の日本の音楽とも違う太い感じの曲を作る。映画はどうにもならなかった『LIES』ですら、音楽はなかなかのものでした。ただ耳新しいというだけのことかもしれませんが、予告編に流れる音楽を聴いて、なんとなく見に行ってみたくなるのでした。