ドリアン ドリアン

榴漣瓢瓢
Durian Durian
2000年,香港,117分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ティン・サムファ
音楽:ラム・ワーチュン、チュー・ヒンチョン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミンヤン・メイカム

 シンセンに住むファンはシンセンと香港とを往復して商売をするおとうさんと共に香港に移り住んだ。シンセンの広い家からうって変わって狭いアパート暮らし。しかも、お母さんと一緒に皿洗いをしながら何とか生活していた。その皿洗いをする裏道をチンピラの男と若い女がいつも通っていた。女はイェン、本土から香港にやってきて、娼婦をしていた。
 「メイド・イン・ホンコン」、「リトル・チュン」のフルーツ・チャン監督が香港返還三部作から新たな展開へと踏み出した作品。

 じわっとくる。ホンコン、そこはたくさんの人であふれ、誰が誰と持つかない大都会、そこではドラマも人ごみに埋もれ曖昧なものになってしまう。イェンの存在も大陸から来た一人の娼婦という存在でしかない。娼婦仲間とポン引きにしか知られない存在。通り過ぎていく客達はその記憶の襞に一瞬引っかかるだけ。そんな中、もうひとり彼女のことを認識した存在が少女フェン。同じく大陸からやってきた彼女の眼差しはイェンに届いているかのようだけれど、結局香港の人ごみに飲まれ、そのドラマも曖昧なものとなってしまう。
 その曖昧さがこの映画を一貫するひとつのスタンスである。香港から帰ってきたイェンを迎える家族たちのイェンに対する態度も非常に曖昧だ。そして友人の態度も。
 果たして家族はイェンが娼婦をしていたことを知っているのか、知らないのか?それは観客には明かされないままイェンの曖昧な生活が続く。その曖昧さが晴れる瞬間、ドット感動が溢れ出す。イェンの感じた孤独と一種の解放感を共に感じ、京劇の濃い化粧の奥にその表情を隠しながら一心に踊るイェンの姿がすっとこころに入ってくるのだ。自分達の苦境を乗り切るために娘に体を売らせたという負い目、そしてそんな娘を疎んじる気持ち。この2つの相反する気持ちを抱える家族がもう一人娘をそんな環境に送り出すとき、イェンが感じることはどんなことだろう? イェンの感じる自由と孤独はがんじがらめの枠にはめられた中国から香港へとわたったイェンだけが感じることのできる感覚だろう。「自由」といわれている世界の人たち皆が感じるひとつの感覚なんだろうとも思う。

うるさい妹たち

1961年,日本,98分
監督:増村保造
原作:五味康祐
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:川口浩、仲宗根美樹、江波杏子、岩崎加根子、永井智雄

 大会社の副社長である山村は夜中1人車を走らせていた。するとそこに1人の少女が。乗せてくれと迫る少女に山村は思わず首を縦に振ってしまう。すると暗がりから何人もの若者が現れた。これをきっかけに、その少女達と山村に加え、山村の娘と秘書が絡み合う物語が始まる。
 60年代当時「六本木族」と呼ばれた若者達を描いたスピード感のある作品。都市の若者を描いたという意味で同時代のヌーヴェルバーグと対比されることの多い作品でもある。

 映画は物語ではない。映画は何かをかたるものでは必ずしもない。それはヌーヴェルバーグのメッセージであり、新しい映画が出発する原点となったものだろう。映画を見て「結局何なんだ」と問うてはならない。いや違う。問うのは自由だけれど、答えを作り手に求めてはいけない。解釈は見る側がするべきものであって、あらかじめ答えは用意されていない。
 そんな映画の意味合いがこの映画の観後感(読後感みたいなものね)にはある。「だから何なんだ」と問いたいけれど、問うてはいけないといわれているような感じ。それはこの映画が新しくはあるけれど圧倒的ではないからだろう。ゴダールやトリュフォーの秀作や、増村の「青空娘」や「最高殊勲夫人」を見て、「だから何なんだ」と問おうとは思わない。それはこれらの映画が何かを語ってはいないにもかかわらず、見るものを圧倒する何かがあるからだ。
 それに対してこの映画はなにも語らず、観客を圧倒もしない。なんといっても白黒に限る江波杏子の居ずまいや当時の若者の者の捉え方(とその描き方)は観客を魅了しはするけれど、圧倒しはしない。理解を越えはしない。
 そう思うのは増村に対して高望みをしてしまうからだろう。しかし、この映画にはそんな解釈を促させる何かがあるのかもしれない。それは映画のどの要素も平均的に合格点という感じの映画だからかもしれない。心地よいスピード感、適度に絡み合ったプロット、うまく練られた映像。そのそれぞれを取れば十分に見事な作品なのだけれど、私が増村の映画に求めるひとつの突出した個性がない。それは一人の役者でも、映像でも、音楽でも、演出でも何でもいいのだけれど、何かひとつ目をひきつけて離さないものがあるといい。
 この映画を見ながら、他の小林節雄や他の川口浩と比べてしまう。すると、「卍」や「闇を横切れ」が頭に浮かんでしまう。でも、江波杏子はこれが一番かもしれないと思った。

女体

1969年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:浅丘ルリ子、岡田英次、岸田今日子、梓英子、川津祐介

 大学の理事長のところに1人の派手な女が訪れる。その女・浜ミチは理事長の秘書で娘婿の石堂に理事長の息子に強姦されたといい、200万円の金を要求した。理事長と石堂、その妻晶江の間の話し合いで、金で解決することに決まり、石堂がその金を渡しに行くのだが…
 増村得意の男を狂わす魔性の女もの。その中でもかなり強烈な一作。浅丘ルリ子はまさにはまり役。

 いきなり紺地にオレンジの水玉のワンピースというカットで始まるこの映画は非常に鮮やかな色彩の映画で、色彩という面ではそれほど冒険してこなかった増村にとってひとつの挑戦だっただろう。しかし色彩といっても、この色彩の多彩さはただただ浅丘ルリ子の衣装に収斂する。風景や車はいつもの増村らしい地味なトーンで統一され、その中で浜ミチの纏う洋服だけが鮮やかに映る。
 この浜ミチの色彩的な突出は映画における(あるいは社会における)そのキャラクターの突出とリンクしているのかもしれない。周囲の風景に溶け込まない彼女の被服は、社会に溶け込まない彼女の性質を示し、その不整合は苛立ちを生む。全くひとつの画面として溶け合おうとしない強烈に対立しあう図と地の関係は、全く根本的にコミュニケーションが成り立たない浜ミチと周囲との関係に似ている。このディスコミュニケーションが彼女を見ているわれわれのうちに生じる苛立ちの原因だろう。
 浜ミチと周囲の人々は話し合っているようで全くコミュニケーションはできていない。それはもちろん浜ミチが聞く耳を持たないからだが、それはそもそも彼女にはコミュニケーションをしようという意思がないからで、コミュニケーションをとろうと思っている周囲の人たちとかみ合うわけはないのだ。
 しかし、われわれは会話とはコミュニケーションであり、互いに相手の言うことを聞いていると思いながら映画を見る。したがって浜ミチよりはその周りの人たちのほうに同一化しやすいだろいう。その同一化の中で見つめる浜道は非常にいらだたしく、厄介な存在だ。「魅力的である」という価値観を共有できない限り、全くもってただただいらだたしいだけの存在だ。
 しかし、誰に同一化するかは見る人によって、あるいは見るたびに変化するものだから、この映画が端的に「いらだたしい」映画だと断言することはできない。同じ魔性の女もの「でんきくらげ」を見たときは、すっかり渥美マリの側に自分を置いてしまったので苛立ちはむしろ周りの人のほうに感じた。この違いは何なのか? 映画の側の違いなのか、それとも私の中の何かの問題なのか? 

シックス・センス

The Sixth Sense
1999年,アメリカ,107分
監督:M・ナイト・シャラマン
脚本:M・ナイト・シャラマン
撮影:タク・フジモト
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ブルース・ウィリス、ヘイリー・ジョエル・オズメント、トニー・コレット、オリヴィア・ウィリアムズ

 優秀な児童心理学者のマルコムは市長から賞状をもらい、妻とそれを祝っていた。二人がワインを片手にベッド・ルームへと行くと、そこには侵入者の気配が。その侵入者はマルコムが依然見た患者の1人だった。その男はマルコムを「救えなかった」と責めた挙句に、マルコムに銃を発射した。
 少しホラータッチのヒューマンドラマ。M・ナイト・シャラマンとオズメント君がブレイクした作品。

 M・ナイト・シャラマンという監督も、オズメント君もいまひとつ気に入らなくて、こんな映画面白いはずがないと思いながら、なんとなく見ないで来てしまったこの映画ですが、見ればなるほど面白い。しかし、重要なのはこの映画の面白さは監督術にあるのでもなく、役者の演技にあるのでもなく、脚本にあるのだということ。結局のところ、私のシャラマンとオズメント君への偏見は変わらず残ったのでした。
 ということで、脚本が素晴らしいということをいっておいて、ネタばれ防止の意味も含め、内容には触れずに過ごしましょう。でも、細かく見ていくとかなり不具合があります。つながらない矛盾したところが。それを驚きとか感動とかいった要素で覆い隠している。これもひとつの手法であって、うまく隠してしまっているので、よしということなのでしょう。
 で、ストーリーを別にすると、映画の中で非常に印象的なのは赤の色彩。教会、学校、オズモント君の隠れ家?などなど。この「赤」に何らかの意味があるのだろうと思いながら映画を見ていたのですが、終わってみて考えてみても、特段意味は見つかりません。赤という色彩はパッと目を引くので、カットの代わりばなの画面に赤いものが含まれていると(他のトーンが地味ならば)そこに目が行きます。だから画面に赤を配置することそれ自体で効果的ではあるのですが、それが繰り返されると、そこに何らかの意味付けがあるのだろうと推測してしまうのが人間。ということは、そういう方法をとる以上、何らかの意味付けか、意味付けがないことの正当な理由がなければいけないと思います。単なる構図上の美しさとかその程度のことでもいいのですが、何らかの統一性がそこにないと、落ち着かないわけです。落ち着かない…
 この映画の赤は時に画面のアクセントであって、時に画面を支配する色であって、それでそれぞれの赤いものが持つ意味合いも違っていて、赤が支配する画面の意味もばらばらで、いたずらに流れを混乱させるだけの存在になってしまっています。あなたはいくつ赤いものを思い出せますか? オスメント君のセーターとか。

ゴッド・ギャンブラー/賭神伝説

賭神3之少年賭神
God of Gamblers 3 : The Early Stage
1997年,香港,110分
監督:バリー・ウォン
脚本:バリー・ウォン
音楽:カム・プイ・タット、ラオ・ジョー・タク
出演:レオン・ライ、アニタ・ユン、フランシス・ン、チョウ・ヨンファ

 ギャンブラーとしての才能を開花させたコウ・チャンはボスのもとで着実に勝てるようになっていく。その賭け事のいかさまや脅しや暴力が横行する世界で、コウ・チャンは確実に地位を気づきつつあるように見えた。そんななか「賭神」を決める大会がマカオで開催されることになった。
 チョウ・ヨンファ主演のシリーズ「ゴッド・ギャンブラー」の主役コウ・チャンの若かりし日々を描いた作品。

 最後、「どうしてチョウ・ヨンファ?」と思ったら、続編だったのね。続編というか、回顧篇という感じですが。とりあえず、このシリーズは1989年に撮られた「ゴッド・ギャンブラー」というやつだそうです。それから「ゴッド・ギャンブラー2」、「ゴッド・ギャンブラー完結編」と来て、4作目だけど「3」。なぜ?
 まあ、そんなことはいいとして映画ですが、予想外に展開力のあるストーリーで、けっこう先の展開が気になったりしました。全体的にはやはり安めのつくりで、特にアクションシーンなんかは香港映画とは思えない安っぽさ。キックの半分以上は明らかにあたっていないと分かってしまう。だから、アクションシーンは見どころではない。
 そして、安さでいえば、いくらでもけちをつけるところはあります。しかし、それは見てのお楽しみ、「世界選手権」というあたりがなかなか素敵。地域的な偏りとか、公正を期するといいながら、怪しげな人がするする入っていってたりとか、いろいろです。

 B級な映画はかなり取り上げていることもあり、最近どうも手抜きっぽい感じもあり、なかなか書くこともありませんが、こういう安映画はさっと見て、さっと楽しんで、さっと忘れるのが一番。現に、見てまだ半日も経っていませんが、だいぶ忘れてきています。でも、そうすると、もう1回見てもまるで初めてのように楽しめるという利点もあります。
 うーん、なんだかシリーズのほかのも見たくなってきたなぁ…

ハリウッド・ミューズ

The Muse
1999年,アメリカ,97分
監督:アルバート・ブルックス
脚本:アルバート・ブルックス
撮影:トーマス・アッカーマン
音楽:エルトン・ジョン
出演:シャロン・ストーン、アルバート・ブルックス、アンディ・マクダウェル、ジェフ・ブリッジス、ロブ・ライナー

 脚本家のスティーブンはスランプに陥り、全くシナリオが書けなくなってしまった。そんなスティーヴンに親友のジャックが紹介したのは芸術と想像の女神ミューズ。彼女は脚本家にインスピレーションを与えるという。スティーヴンはそんなことはありえないと信じようとしないが…
 シャロン・ストーンのコメディ初主演作。長年コメディのライターをやっているアルバート・ブルックスの作品だけに説得力がある?

 今日は多分当たり前のことしか書けません。それはこの映画が当たり前な映画だから。つまらなくはないけれど特別面白くもない映画。変わっているといえば、シャロン・ストーンくらい。しかし、シャロン・ストーンはやはりあまりコメディには向いていないと思う… いくらコメディエンヌらしく振舞ってもどうにも冷たい印象がぬぐえないのは、これまで演じてきた役柄のせいだろうか、それともあの目? 必ずしも整った顔をしている人がコメディエンヌに向いていないというわけではなく、むしろ整った顔で真面目に面白いことを言うほうがいかにもコメディエンヌという人がおどけていうよりも面白いことはある。でも、シャロン・ストーンはね… だから、今までコメディに出なかったんでしょう。「クイック・アンド・デッド」はある意味コメディでしたが…
 なんだか、シャロン・ストーンがいかにだめかを説明することになってしまいましたが、怒らないでねシャロン・ストーンファンの人がいても。

千羽鶴

1969年,日本,96分
監督:増村保造
原作:川端康成
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、平幹二郎、京マチ子、梓英子、船越英二

 とある茶室で開かれた茶会。その茶会を主催する栗本ちか子は、そのちか子を訪ねてきた青年菊治の父親の愛人だった。そしてそこには、菊治の父親のもう一人の愛人・太田夫人も娘を連れてやって来ていた。ちか子の狙いは菊治に見合いをさせようという魂胆だったが、菊治はその帰り菊治を待っていた太田夫人に出会う。
 これが増村作品最後の出演となった若尾文子の熱演がまぶたに焼きつく。川端康成の原作も、新藤兼人の脚本も小林節夫のカメラも素晴らしいのだけれど、頭に残るのは若尾文子の吐息。

 若尾文子の圧倒的な存在感。一番最初のセリフからそのキャラクターをしっかり示す息遣い。不自然なほどにまで誇張されたそのぜーぜーと音を立てる息遣いと、くねりくねりと作る「しな」。物語がどうの映像がどうのいうよりも、その若尾文子の尽きる作品。京マチ子演じるちか子は若尾文子演じる太田夫人を「魔性の女」と呼び、しかし映画は全体を通してむしろそのちか子こそが「魔性」であるのだと説得しているように見える。そして最後には菊治がちさ子に対して、「お前の方が魔性の女だ」というのだけれど、見終わって考えてみると、本当に魔性なのは太田夫人の方で、映画の舞台から去ってしまった後までもその呪縛が続き、存在は薄れない。いくら茶碗を割ってみたことで破片は残り、それは逆に存在を広げてしまうことになるのだろう。菊治は最後に吹っ切れたようなことを言うけれど、本当にその呪縛から逃れられたとは思えない。決して不愉快な呪縛ではないのかもしれないけれど、逃れることはできないのだろう。
 そんな若尾文子の存在感を支えるのはその物語と映像なのだけれど、脚本が新藤兼人で、カメラマンが小林節雄であるということを考えると、ことさらつらつら書くまでもないことなのかもしれない。小林節雄のフレーミングはいつ見ても秀逸なアンバランスさで、見事にフレームの中心と画像の重心をずらしている。この映画でも他の映画と同じく、人物を片側に寄せる場面、違和感のある切り返し、斜め方向へのものの配置という要素が多分に出てくる。
 でもやっぱり若尾文子。これで最後と思うと名残惜しい。これまでの増村との関係をすべてぶつけたような迫真の演技。これぞ女優魂というものを感じました。

ミラクル・ペティント

El Milagro de P.Tinto
1998年,スペイン,106分
監督:ハヴィエル・フェセル
脚本:ヘヴィエル・フェセル、ギジェルモ・フェセル
出演:ルイス・シヘス、シルヴィア・カサノヴァ、パブロ・ピネド

 スペインの片田舎に住むペティントが宇宙服を着た息子を見送る。子供の頃から大家族の父親になることを夢見ていたペティントは、盲目の少女オリヴィアと知り合う。10数年後見事に結婚したものの、二人は子宝に恵まれず、時ばかりがすぎていった…
 あらすじを話すのもなかなか難しいスペインらしいわけのわからなさを持つファンタジー映画。とにかくシュールというか、わけのわからない笑いを求めている人にはぴったり。

 面白いとえいば面白いのだけれど、わけがわからなすぎるという面もある。映像へのこだわりは感じられる(といっても、斬新なというよりはきれいな映像を求めている)。
 一番いいと思ったのは、25年に一度通るという電車ですね。しかも、その25年が異常に早くすぎる。ペティントさん(そして神父さん)一体いくつなんだあんた! という感じです。うーん、わけがわからないなあ。まあ、でもスペイン(とスペイン語圏)のこのわけのわからなさは好きです。わざとわけがわからなくしているように見えるけど、彼らにしてみれば現実とは本当にこういうものなのかもしれないとも思います。パンチョが本当に黒人だっていいじゃないか。皆が自分の見ているものが現実で、みんなが同じように見ていると信じているけれど、本当にそうなのか? 本当はみんなまったく違う現実を見ているんじゃないだろうか? そんなことを思ってしまいました。

夜になるまえに

Before Night Falls
2000年,アメリカ,133分
監督:ジュリアン・シュナーベル
原作:レイナルド・アレナス
脚本:カニンガム・オキーフ、ラサロ・ゴメス・カリレス、ジュリアン・シュナーベル
撮影:ハヴィエル・ペレス・グロベット、ギレルモ・ロサス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ハヴィエル・バルデム、オリエヴィエ・マルティネス、アンドレア・ディ・ステファノ、ジョニー・デップ、ジョーン・ペン

 キューバの作家レイナルド・アレナスはキューバの田舎の小さな村に生まれた。自分の同性愛的性向と作家の才能に早くから気づいた彼の人生は少年の頃に起きたキューバ革命によって大きく変化した。
 同性愛が迫害されるキューバにあって、生きつづけ、書きつづけた作家レイナルド・アレナスの自伝を「バスキア」のジュリアン・シュナーベルが映画化。

 原作との比較は常に頭にあるのですが、あくまで映画について語るためにそれはなるべく置いておいて(多分後に進むに連れ比較せずに入られなくなると思いますが…)、映画の話をしましょう。
 映画としてこのプロットは非常に平板で、単調な気もします。クライマックスがなくて、1人の男が生まれて死んでいくまでを淡々と語った感じ。このアンチクライマックスの語りが吉と出るか凶と出るかということでしょう。劇場であたりを見回したところ寝ている人もポツポツいたりしたので、単調ではあったのでしょう。それから物語の背景となるキューバに関することがらが余りに語られなさすぎるので、多少の知識がないと物語が理解できないという恐れもあります。
 ということで、ここは私がちょっと詳しい程度のキューバの知識を持って原作を知らずに映画を見たと仮定して映画を振り返って見ましょう。長くなりそうだ。
 モノローグの映画なのにモノローグを使わない。映画全体が自伝であり、モノローグとして機能しているのに、主人公自身の言葉でモノローグがなされるのは3度だけ。どれも長めのモノローグで、歌のように響く。その言葉自体の意味はわからないけれど、その言葉は軽やかに韻を踏み、詩であるかのように聞こえるし、実際一つの散文詩であるのだろう。その効果的なモノローグに挟まれる形である2つの断章。一つ目のほうが極端に長く、その激しい物語展開とは裏腹に非常に淡々と語られる。イメージの氾濫。言葉ではなく映像で語ろうとする映画という言説。少年が兵士であふれたトラックに乗ることの意味や、教壇に立つロシア語をしゃべる赤い本を持った男の意味や、焼き払われるさとうきび畑の意味がイメージとして語られる。
 この文章もだんだんイメージに引っ張られて断片化してきました。
 結局原作と比べることになりますが、原作が伝える恐怖感が欠如している。どうしようもない焦燥感と恐怖感、それが伝わっていないのが非常に残念だとおもいました。原作は100倍面白い。書店で見かけたらぜひ買って下さい。
 全編一気に映画にしてしまうのではなく、いくつかの断章を拾い集めて再構築したほうが面白い映画になったような気もします。

黒の試作車

1962年,日本,95分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:舟橋和郎、石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:田宮二郎、高松英郎、叶順子、船越英二、菅井一郎

 タイガー自動車は開発中の新車のテストを行っていたが、そのテストカーが事故を起こし、その事故の事実が産業スパイによって新聞社に売られてしまった。それをライバルヤマト自動車の馬渡の仕業だと考えたタイガー自動車の小野田は部下の朝比奈を片腕として激しいスパイ合戦をはじめる決意をする。
 ビジネスの世界を舞台としたハードボイルドな物語。田宮二郎を主役として3年間で11作が作られたサスペンス「黒」シリーズの第1作。

 増村のサスペンス物は面白い。やはり若尾文子とものとか渥美マリの「軟体動物シリーズ」などに注目が集まりがちだが、このサスペンスというジャンルは増村は得意らしい。特にスパイものは。「陸軍中野学校」は何といってもヒットシリーズだし、この「黒」シリーズもそう。ほかには川口浩主演の「闇を横切れ」もかなり面白かった。サスペンスというと謎解きの面白さでプロットが面白さの大部分を占めると考えられがちだけれど、私は必ずしもそうではないと思う。文字で読むのとは違う映像ならではの謎解きというものが存在し、犯人を明かすも殺すも監督の演出力次第という感じがする。この作品はちょっと犯人がわかりやすかったけれど、それでも確信をもてるまではいかない隠しかたはされていた。
 増村のサスペンスが面白いのはそれだけではなく、結局サスペンスに終始しないというところ。「恋にいのちを」も一種のサスペンスだったけれど、人情とか恋愛とかそういう人間的な要素が大きな部分を占める。この作品でも結局のところスパイ合戦よりも主人公の田宮二郎のこころの動きというものが本当の物語の核であるような気がする。時代性を考えれば高度成長期を突き進む日本の企業戦士への警鐘なのかも知れない。
 またサスペンスでは増村のマッチョさが浮き立たされてそれが面白いというのもある。基本的に男の正解を描く増村のサスペンスでは登場する男達がみんな(精神的に)マッチョでそれは増村自身のキャラクターを反映しているような気がする。そのマッチョさを現代にも通じるものとして肯定することは到底できないけれど、一つのパターンとして考えるのはとても楽しい。女性をあんなに魅力的に描ける監督がどうしてこんなマッチョな面を合わせ持つことができるのか?ヨーロッパ的な騎士道精神かな? イタリア留学してたくらいだから、イタリア的なのかもしれません。
 今日のテーマは増村とサスペンスとマチスモとイタリアということでした(後付け)。