ターミネーター2 特別編

Terminator 2: Judgement Day
1991年,アメリカ,153分
監督:ジェームズ・キャメロン
脚本:ジェームズ・キャメロン、ウィリアム・ウィッシャー
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:ブラッド・フィーデル
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、エドワード・ファーロング、ロバート・エリック、ジョー・モートン

 あのターミネーターが再び現代に現れた。前作でターミネーターと対決したリンダの息子ジョンは里親に預けられ、リンダ自身は精神病院に収容されていた。ジョンを探し出そうとするターミネーターに対し、もう1人未来からやってきた男がいた…
 世界的ヒットとなった「ターミネーター2」の特別編で、1分ほど長いバージョン。いわゆるディレクターズカットで、オリジナルのアクション重視に対して物語的に重要と思われる場面が追加されている。

 何度見たか知れない映画ですが、久しぶりに見ると、この映画の面白さは「笑い」の部分にあるのだと感じます。ターミネーターのおかしさを笑う。その人間として未熟なサイボーグという描き方は、あくまで人間にとってロボットというのは自分より低い位置にあるものでしかないということをいみし、大量殺人を行うことができるターミネーターであっても、自分に従うものであればペットの一種でしかないということになるのでしょう。そこから生じる笑いは子供や動物を使った笑いと同種のもので、それを見た目のごついターミネーターがやるところが面白いということでしょう。
 ほかにもアクションとか書けることは多いはずですが、いまさらというきもするので、話を飛躍しましょう。

突然始まる単発コーナー
 日々是映画の「映画は科学する」第1回 タイムマシーンは戻れない

 ターミネーターの謎は、タイムトラベルというところにある。ターミネーターを生むことになるサイバーネットが存在するのはターミネーターが存在していたからだという「卵が先か鶏が先か」的な議論は絶対的に解明することはできない。それは、ターミネーターが存在しなければターミネーターは存在しないという循環論理を含むからである。
 では、なぜこういうことがおきるのか考えてみた。その鍵は「未来は変化する」という考え方の問題にあるだろう。未来が変化するというのは世界を4次元に切り取った場合に、時間軸上の1点を変化させることで、その時間軸上の先の点が変化するという意味である。つまり、現在(点p)から未来(点q)へと進むはずだったものが、別の未来(点q’)へと進むということである。問題となるのは、このとき点qと点q’は根本的に異なる点であって、qがq’に変化したわけではないということである。4次元空間では1つの時点について点は1点しか存在しないためそれは変化し得ない。それは2次元上の1点が変質できないのと同様である。 したがって、同一時点で何らかの変化が生じる場合は5次元空間を想定する必要が出てくるだろう。それはイメージ化するならば、1つの瞬間(3次元空間)をひとつの点と考え、それに対して時間軸と事象平面を想定するというものである。この事象平面というのは(私の勝手な造語ですが)ある時点においてありうべき事象をプロットした平面である。このような5次元空間を想定するとしたならば、われわれが「時間」と考えているものは、過去の1点から現在の1点、さらに未来の1点を結ぶ直線であると考えられる。
 このときわれわれが「未来」と呼ぶものは過去から現在を結んだ直線をそのベクトルにしたがって延長したものであり、その時点での必然的な未来であるわけだ。しかし、現在に対して何らかの力によって別方向のベクトル力が加えられると、未来に向けたベクトルが変化する。そのような変化が起こると過去から未来へと至る直線は現在で折れ曲がり、別の未来へと向かう新たな直線が現れるのである。
 これをターミネーターに当てはめてみると、ダイソンを説得して、サイバーネットの開発をやめさせたということはひとつのベクトル力であり、それによってそれまで必然的な未来であったターミネーターがやってきた未来にはたどり着かないということになる。
 もし、タイムマシーンが直線的な(4次元的な)時間移動しかできないとしたならば、過去へとやってきたタイムマシーンはそれだけで一種のベクトル力となり、その現在が向かう未来はそのタイムマシーンがやってきた未来とは異なる未来となってしまう。したがって、そのタイムマシーンがやってきた時点へと戻ったとしても、そこに現れるのはそれまでいた未来とは異なる未来でなければならない。
 だから、「タイムマシーンは戻れない」。タイムマシーンが戻るためならば、時間軸と同時に事象平面でも移動できる(5次元的な)時間移動ができなければならない。
 話が長くなってしまいましたが、「ターミネーター」でポイントとなっているひとつの言葉「未来は自分で決めるもだ」というのは100%真実であるということがいえるのである。

黒の報告書

1963年,日本,94分
監督:増村保造
原作:佐賀潜
脚本:石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:宇津井健、叶順子、神山繁、殿山泰司、小沢栄太郎

 社長が自宅で殺されるという殺人事件。この担当になった城戸検事は凶器も判明し、指紋も出て、簡単な事件だと考えた。思い通り簡単に容疑者を捕まえ、尋問を開始するがなかなか自白をしない。そしてそこに現れたのは腕利きとして知られる弁護士山室だった。
 「黒」シリーズ、宇津井健シリーズの最初の作品。増村得意の法廷もので、重厚なドラマ。

 被疑者がいて、いかにも悪徳っぽい弁護士がいてという設定で、どう考えても城戸検事に肩入れせざるを得ない設定の作り方なので、このドラマはとてもいい。映画に対してはなれた視線で見ると、こういうドラマチックなドラマは醒めてしまうし、特に斬新なものがあるわけでもないので耐えがたくなってしまうが、映画の中に簡単に入り込めると、眉間にしわを寄せながら次の展開へと心はあせる。 ということなので、映画の冷静な分析など望むべくもなく、叶順子はきれいだなとか、宇津井健は眉毛つながって見えるなとか、そんな感想しかなく、これが最初からシリーズ化される予定だったとしたならば、「これからどうなるんだ城戸検事」と思わせる終わり方は見事だなということぐらいしか言いようがない。
 ひとつ思ったのは、殿山泰司のすごさ。最近「三文役者」という映画をやっていて、殿山泰司を竹中直人が演じていました。すっかり見逃してしまいましたが、もともと殿山泰司は知っていたもののそれほど思い入れがなかったというのもあります。しかし、この作品の殿山泰司はすごい。映画の中でひとり浮くぐらい味がある。水をいっぱい飲むだけで、「何かある」と思わせる演技をしています。これが名脇役といわれる所以かとはじめて実感したわけです。ほかに増村に出ていたので思い出すのは、「清作の妻」くらいでしょうか。とにかく、ようやく殿山泰司再発見でした。

裸足のピクニック

1993年,日本,92分
監督:矢口史靖
脚本:鈴木卓爾、中川泰伸、矢口史靖
撮影:古澤敏文、鈴木一博
音楽:うの花
出演:芹沢砂織、浅野あかね、あがた森魚、泉谷しげる

 ごく普通の女子高生がキセル乗車を見咎められたことをきっかけに、どうにもならない不幸のどん底へと陥って行く。ただただそれだけの映画。
 しかし、どんどん繰り出されるブラックな笑いの渦に巻き込まれると、どんどん映画に引き込まれて行く。矢口史靖監督の長編デビュー作。

 「アドレナリンドライブ」を見ると、むしろ「裸足のピクニック」のすごさが際立ってくる。これだけお金をかけずに、これだけめちゃめちゃな映画なのに面白い。役者もほぼ無名な人たちばかり。身代わりの人形はあまりにしょぼい。なのに面白い。あるいはそこが面白い。
 この映画を見ると、「映画の面白さっていったい何なんだ」と考える。よくできていて、その世界にすんなりと入り込める映画も面白ければ、この映画みたいに明らかに作り物で、ただそこに変なことをやっている人たちがいる面白さもある。このような映画(いわゆるインディーズ映画)を「いわゆる映画的なものを壊している」という表現でくくってしまっていいのか?と考える。
 分析して行くとますます違うもののように思えてくる、いわゆる「映画」といわゆる「インディーズ映画」が実際は同じ「映画」でしかないことを考えると、こんな区別が果たして意味があるのかという疑問がわいてくる。
 「インディーズ映画」というのは結局のところ「インディーズ=低予算」であるということだ。気をつけなければいけないのは「インディーズ=実験的」では(必ずしも)ないということ。実験的なのではなくて、お金がないがゆえに工夫に富んでいるだけかもしれない。
 そう考えると、徐々に「インディーズ映画」もまた映画であることが納得できて行く。「映画」になるために工夫を凝らされた「映画ではないもの」が本当に「映画」になった瞬間がインディーズ映画であるといえるんじゃないか。(だとすると、PFFのスカラシップっていうのは、まさしくインディーズ映画の工場みたいなもの「映画」を作りたくてうずうずしている若い監督に1000万(多分)という、「映画」を作るには少なすぎるお金を渡して「映画」を作らせる試み。そこから生まれてくるものは常に「インディーズ映画」と呼ぶにふさわしいものなのかもしれない)
 ならば、「裸足のピクニック」という素晴らしいインディーズ映画をとった矢口監督が「映画」を作ろうとして本当に「映画」を作ってしまった「アドレナリンドライブ」がいまいち納得できなかったのもうなずける気がする。

風花

2001年,日本,116分
監督:相米慎二
原作:鳴海章
脚本:森らいみ
撮影:町田博
音楽:大友良英
出演:小泉今日子、浅野忠信、麻生久美子、香山美子、鶴見辰吾

 明け方の桜の木下で目覚めた男女、男は前の晩の事をまったく覚えていなかった。ゆり子はピンサロ嬢、何か考えがあって実家に帰ろうとしている。澤城は官僚、よって万引きまがいの事をしてしまったために停職処分にされている。雪山を見に行こうと約束した二人だったが、しらふに戻った澤城はゆり子を置いて、帰ってしまう…
 相米慎二監督の遺作となった作品。小泉今日子と浅野忠信の二人芝居という感じ。

 口笛というと、うきうきした気分のときに出るものという暗喩がまかり通っているような感じだけれど、実際に口笛が口を突いて出るのは、そんないい気分のときばかりではなく、悲しさを隠したいときや気まずさをごまかしたいときだったりする。小泉今日子演じるゆり子の口笛はそんなごまかしの口笛であり、彼女の笑いもまたそんなごまかしの笑いである。一人になって遠くを、あるいは手元をじっとみつめるときのまなざしに何らかの意味を感じ取れるのは、そのようなごまかしの陽気さとの対比がはっきりしているからだろう。口笛というほんの小さな舞台装置で他の部分に意味を埋め込むことができるというのは素晴らしい。
 この映画のゆったりとしたスピードは、移動するカメラとそれによって実現される1シーン1カットのリズムだ。回想シーンはカット数が多く別のリズムだが、本編の大事なシーンでは1シーン1カットが使われていることが多い。一番印象的なのは頭を怪我した澤城をゆり子が手当てするシーン、ここは(多分)カメラも固定で、縦方向の移動を使って動きを作り出して、1シーンの長さを感じさせない。1シーン1カットという方法は映画の基本といういえるが、1シーンがある程度の長さになると演じるのも難しいだろうし、演出としてもリズムを作るのが難しい。しかし、カットが細切れになると、どうしてもそこにひとつのスピードが生じてしまうので、1シーン1カットがうまく行くと非常にゆったりとしたリズムを作り出すことができるのだろう。
 ちょっと甘っちょろい気もするが、ゆったりとしていて味わい深いヒューマンドラマというところでしょうか。

ベーゼ・モア

2000年,フランス,74分
監督:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
原作:ヴィルジニー・デパント
脚本:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
撮影:ブノワ・シャマイアール、ジュリアン・パマール
音楽:ヴァルー・ジャン
出演:ラファエラ・アンダーソン、カレン・バック、デルフィーヌ・マッカーティー

 フランスのスラムに暮らす女性達。その1人ナディーヌは売春をして生計を立てる。友だちと一緒に住んでいるが、その友だちは口うるさくイライラを募らせる。マニュはドラッグに溺れ、仕事もなくバーをやっている兄に金を無心する。兄はマニュを愛してはいるが、小言も多くマニュはそれにいらだっていた。
 フランスの女流作家デパントが自作を友人でもとポルノ女優のコラリー・トラン・ティと組んで映画化。そのセックスとバイオレンスの過激さでフランスで上映禁止にされたといういわく付きの作品。日本では再編集されて劇場公開されたが、オリジナルに近いバージョンもビデオで発売。

 バイオレンスとセックスの描写という点を見れば、確かに過激ということもできるが、むしろ露骨。ことさら過激にしようというよりは生っぽさを表現しようという意図が感じられる。確かに子供に見せるのは… というくらいではあるけれど、物の分かった大人なら、見ても別にどいうということはないなと思う。逆に殺人やセックスのリアルさが感じさせる監督の緻密さが興味深い。
 冷静でしかしそれが逆に冷淡さにつながるマニュの行動や表情から伝わってくるメッセージはそんな過激さがもたらす悪影響を越えるほどの強い力を持っている。いくらフェミニストが言葉で攻撃を繰り返しても実現できないことを1時間強の映画でやってのける。それはすごいこと。強姦されながらも無表情で悪態をつくマニュの視線は男の弱さ(虚勢)とずるさと身勝手さを貫き通す。物理的な力によって女を支配する男が、物理的な力を逆転されたときに起きること。
 女性にとって権威に反逆することは男に反逆することに常に通じる。いまは片意地を張って男性と並ぶことを誇るような女に反逆することも含むが、やはり権力を持つのは男性であり、男性の借りている権威を攻撃することがどうしても必要だ。もちろん暴力をふるうことでそれが解決するわけではないけれど、この映画は権威に反逆するということを象徴的に表現しているのだろう。
 男が買春をして払う金が意味しているものは、彼女達が男を殺して奪う金が意味するものと違うものなのだろうか?

タブウ

Tabu
1931年,アメリカ,81分
監督:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
原作:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ヒューゴ・リーゼンフェルド
出演:マタヒレリ

 ポリネシアに浮かぶボラボラ島。そこで人々は平和に暮らしていた。島の若者同士の恋物語がある日やってきた大きな帆船によって破られる。
 ドイツの巨匠ムルナウがハリウッドに渡り、ドキュメンタリーの巨匠フラハティの協力で、ポリネシアの現地人を起用して撮った作品。セミ・ドキュメンタリー的な手法も画期的であり、ムルナウらしさも生きているかなりの秀作。

 現地の素人の人たちを出演者として使うという手法はキアロスタミを初めとして、今では数多く見られる方法だが、この時代にそのような方法が試みられたというのはやはりドキュメンタリー映画の父フラハティならではの発想なのだろうか。おそらくこの映画に出演しているポリネシアの人々は映画のことなど何も知らなかっただろう。もしかしたら映画というものを見たことも聞いたこともなかったかもしれない。そのような状況の中で映画を撮ること。それはある意味では現地の人たちの生の表情を撮ることができるということかもしれない。
 サイレント映画というのは自然な演技をしていたのでは自然には写らない。再現できない音を映像によって表現することが必要である。それを非常に巧みに扱うのがドイツ表現主義の作家達であり、それを代表する作家がムルナウである。だから、フラハティとムルナウが組んでこのような作品を撮るというのは理想的な組合せであり、また必然的な出来事であったのかもしれないと思う。この映画が製作されてから70年が経ち、はるか遠い位置からみつめるとそのようなことを考える。しかし、作品の質は現在でも十分に通じるもので、そのドラマは多少、陳腐な語り尽くされたものであるという感は否めないものの、十分魅力的だし、映像の力も強い。ほら貝や波や腰蓑が立てる音が画面から聞こえてくるように思える。
 ムルナウはこの作品の完成直後交通事故で帰らぬ人となってしまった。当時まだ43歳。わずか12本の作品しか残さずに死んでしまった天才を惜しまずにいられない。

恋する天使

大三元
Tri-star
1996年,香港,107分
監督:ツイ・ハーク
脚本:ツイ・ハーク、チェン・チュンタイ
撮影:アーサー・ウォン、クリストファー・ドイル
音楽:クラレンス・ホイ
出演:レスリー・チャン、アニタ・ユン、ラウ・チンワン

 結婚式を執り行う神父のツォン。しかし、その新婦は3ヶ月前恋人に借金を背負わされて借金取りに追われ、たまたまツォンの教会に逃げ込んできた売春婦のバイ。物語は、ツォンとバイ、それに売春組織と間抜けな刑事、ツォンの従妹が絡んで展開される。
 ジャンルとすると、コメディなのか、ラブ・ストーリーなのか、判別つきがたいところですが、多分コメディ。

 昨日の「食神」と同じ香港、同じ製作年。どうしても見劣りしてしまうのは、この映画のテンポのなさ。映画の流れとしてはスムーズに進んでいるようだけれど、コメディとしては笑いを誘うネタの間隔があきすぎていて、コメディを見ているのか普通のラブストーリーを見ているのか分からなくなってしまうほど。ラブストーリーとしてはお粗末すぎるので、ラブコメなのでしょう。
 面白かったところを思い出すと、神父さんが40年前に着ていた衣装。あとは、ひげの刑事周辺は結構面白かった気がするんですが、あの刑事の立場というか位置づけがいまひとつ判然としないので、なかなかすっきりとは笑えずじまい。あとは、従妹ももう少し頑張れば面白くなりそうなのに、あまり生かされずに終わってしまう感じ。ああ、カメラやさんのところは結構面白かったですね。かなりベタな感じのネタ使いがよかった。
 うーん、という感じでしたが、笑いのつぼというのはかなり人によって違うものなので、難しいところです。でも、コメディとかお笑いを見て、どこが面白かった、面白くなかったと人と話すのは楽しいもの。わたしのコメントを見て「えー、センスないなあ」と思うのももちろん自由なのです。そんなことを思うので、私はつまらないと人に言われたコメディもついつい見てしまう。たいがいは面白くないですが、たまに掘り出し物があったりします。めげずに頑張ります。コメディ通への道は険しいのです。

食神

食神(Shi Shen)
The God of Cookery
1996年,香港,92分
監督:リー・リクチー、チャウ・シンチー
脚本:チャウ・シンチー、K・C・ツァン、ロー・マンサン
音楽:クラレンス・ホイ
出演:チャウ・シンチー、ヴィンセント・コク、カレン・モク、ン・マンタ

 香港で「食神」と呼ばれる周はテレビ番組でも人気者、たくさんの店をチェーン展開して優雅な生活を送っていたが、新しい店の開店の日、ライバルの計略によってその地位から転落させられてしまう。
 香港のコメディスター、チャウ・シンチーの監督・主演作、なんともいえない独特のセンスのネタの連発に笑わずに入られない。

 笑いのセンスはとても好き。豊富なベタネタ(女子高生とか)とか、少林寺の十八鉄人(繰り返しは笑いの基本)とか、かなり笑いの壺をついてきます。カレン・モクの不細工さも相当すごい。
 しかし、香港のコメディを見ていつも思うのは物語の単純さ。大体最初の10分で最後までの展開が大体見通せてしまうところ。この作品も(少林寺以外は)読める展開になってしまいました。もっとプロットの魅力で引き込んで行くと、ネタも生きてくると思うのですが… それと、オチの弱さも気になるところです。個人的にコメディ映画の観後感の半分は落ちの強さで決まると思っているので、こう分かりやすく終わってしまうと、なんだか物足りない気がします。そしてエンドロールのNG集もどうだかねという感じ。これだけあいだのネタが面白いと、オチにも期待してしまうのが人情というもの。
 と、なんだかおしい気がするコメディですが、他の作品も見てみようかなと思うくらいに笑いのセンスは体にフィット。本人の監督・脚本じゃない方が面白いのかな… などと思ってしまいます。どうなんだろう。

チューブ・テイルズ

Tube Tales
1999年,イギリス,89分
監督:エイミー・ジェンキンズ、スティーヴン・ホプキンス、メンハジ・フーダ、ボブ・ホスキンス、ユアン・マクレガー、アーマンド・イアヌッチ、ジュード・ロウ、ギャビー・デラル、チャールズ・マクドゥガル
脚本:エド・アレン、ゲイビー・デラル、ポール・フレイザー、アタランタ・グーランドリス、マーク・グレイグ、スティーヴン・ホプキンス、アーマンド・イアヌッチ、エイミー・ジェンキンズ、ハーシャ・パテル、ニック・ペリー
撮影:スー・ギブソン、デヴィッド・ジョンソン、ブライアン・テュファーノ
音楽:サイモン・ボスウェル、マーク・ハミルトン・スチュワート
出演:レイチェル・ワイズ、レイ・ウィンストン、ジェイソン・フレミング、デニス・ヴァン・オーテン、ケリー・マクドナルド

 ロンドンの地下鉄「チューブ」を舞台に9人の監督が9つのエピソードを撮ったオムニバス作品。1本は10分程度なので、完全に短編集という感じだが、どの作品を一筋縄では行かない癖のあるもの。ユアン・マクレガーとジュード・ロウが監督として参加している。

 どれがどうというのは難しいので、ばらばらと行きましょう。
 個人的に好きなのは、2話目の”Mr. Cool”(多分)かな。あの笑いはかなり好き。とてもイギリス的な笑いという感じがしていいです。イギリス的というと、何話目だか忘れましたが、”My Father the Liar”がとてもイギリス映画らしくてよかったですね。あのおとうさんと子供のコンビが画面に映っていたら、0コンマ1秒で「イギリス映画!」と叫んでしまいそう。画面の暗さとかパースの取り方にイギリスっぽさがあるのだなあという感じ。中身もタイトルもなかなかだと思います。
 あとは、”Rosebud”も好みの感じでした。「アリス」ものの変種という感じですが、「ミスターH」と地下通路の独特の感じを使ってとてもいい画になっていたと思います。あの黒人の(アフリカ系の)おばさんはどこかで見たことがある感じがするけど誰だろう。
 あとは、全体的にアフリカ系の人が多く登場しているというのが印象的。われわれから見ると、イギリスというとやはり白人のイメージが強いのだけれど、実際はかなりいろいろな人種がいる国で、「チューブ」はその様々な人種が交差する場であるとこの映画は主張しているかのようです。様々な人種がいて、しかしそれ以前にみんな「個」として存在し、普段は単純にすれ違うだけだけれど、何かの拍子にそこに交流が生まれる。拒否という態度でもいいけれど、ひとつの交流が生まれる。それはチューブという「場」があるからこそ可能なことで、その交流のほとんどは決して気分のいいものではないにしても、その中に何かいいものが隠されている。というところでしょうか。

女の一生

1962年,日本,94分
監督:増村保造
原作:森本薫
脚本:八住利雄
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:京マチ子、田宮二郎、東山千栄子、小沢栄太郎、叶順子

 明治、日露戦争中の東京で町外れのぼろ屋に住むけいは両親をなくし、叔父の家で暮らしていた。しかしそこでけいはこき使われ、ついには家を追い出されてしまった。途方にくれ、座り込んでしまったけいの前の大きな家では、にぎやかな誕生祝が催されていた。
 激動の時代を生きた「女の一生」。増村にしては無難なドラマというところ。

 1時間半の映画で一生を語るというのはなかなか難しいことであるわけで、その焦点をどこに置くのかというのが問題になってくる。「女の」一生と名付けられたこの作品はもちろん、女としての生き方に焦点が当てられるわけだけれど、時の経過とけいの「女」としての生き方の変化を描ききるのは増村でも難しかったのかもしれない。新聞を使ってイメージで時代性を表すのは非常にうまい方法で、その分物語に集中できはした。
 だから、前半、人生がめまぐるしく展開していく部分では非常にスピード感が生まれいいのだけれど、逆に後半の穏やかな流れの中の心理の機微のような部分を描くにはそのスピード感があだになったかもしれない。ひとつの時代、ひとつの単元のその生き方の感触を味わいきる前に次に行ってしまう。そんな印象が残った。しかし、あまりにスピード遅く、深く考える余地を与えてしまうとそれはそれで映画としての勢いがなくなってしまうので面白くない。そのあたりのスピード感の調整というものが難しかったのかもしれない。
 増村の映画は短い時間に膨大な量の情報を詰め込み、観客に考える暇を与えない映画が多い。振り返ってみると、あんなこともこんなこともあったと思うのだけれど、見ている時点ではただ圧倒され、映画が流れ込んでくるに任せるしかない。特に初期の映画にはそういう傾向が強くそれが面白い。これが後期の映画になるとむしろ情報を削って画面に緊張感をもたせるような方法で観客をひきつける映画が出てくる。これは削られた情報のどれもが逃してはいけない情報であるように見せることで、観客に緊張を強いることで考える暇を与えない。
 この2つの方法の狭間にあるのがこの映画なのかもしれない。この2つの方法をひとつの映画の中でうまくスイッチできれば、ものすごい映画になったのかもしれないけれど、まだ熟しきれていない緊張感が映画の後半の印象を弱めてしまったということなのだと思う。