氷壁

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:井上靖
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:伊福部昭
出演:菅原謙二、山本富士子、野添ひとみ、川崎敬三、山茶花究

 サラリーマンの魚津は休暇といえば山に登る。今度の休みも山に登り、帰りに立ち寄った行きつけの料理屋で登山仲間の小坂が来たと聞き、小坂を追って喫茶店に行く。そこで魚津は小坂と小坂が思いを寄せる八代夫人との関係に巻き込まれた。魚津は小坂に夫人をあきらめさせ、思いを吹っ切るため冬の穂高へ向かった。
 井上靖原作、新藤兼人脚本というかなり骨太のドラマ。初期の増村のシリアスな作品は脚本に恵まれていると思う。

 やはり増村といえども脚本がよくなければどうにもならないのかもしれない。そんなことを思います。新藤兼人が脚本した増村の作品はこの他に「不敵な男」「」「卍」「清作の妻」「刺青」「妻二人」「華岡青洲の妻」「千羽鶴」とあります。こう見るとどれも非常に見応えのあるドラマです。
 この映画でいうと、基本的に山本富士子演じる八代夫人のなんともいえない煮え切らなさが物語の核となるわけですが、ここまで徹底的に煮え切らないというかわがままというか、そういう人を描いてしまうところがすごい。要するにみんなに好かれたいけれど体面も保ちたいという徹底的なわがままなわけで、そんな身勝手なという気がしてしまいますが、そんな人に振り回される人を描くことでドラマは深まってゆくのだからわからないもの。やはり現代とは違う感覚がそこにあるのかもしれません。それとも、むかつく女だと思ってしまうのは私だけ?
 人をいらだたせたり、怒らせたりすることができるのも映画に(あるいは脚本に)力があるということなので、やはりこの作品には力があるのでしょう。うーん、しかし山本富士子は… 俺だったら1も2もなく野添ひとみを選ぶけどな… 今回はトピックがこまごまになっていますが、もう一つ。山茶花究がいい。昨日の「恋にいのちを」でもかなりよかったけれど、今回はさらにいい。増村作品にはよく出てきますが、この作品はかなり主役級で使われています。そして物語の一つの鍵にもなっている。まさに味のある脇役。川島雄三作品にもかなり出ています。

恋にいのちを

1961年,日本,93分
監督:増村保造
原作:川内康範
脚本:川内康範、下村菊雄
撮影:小原譲治
音楽:西山登
出演:藤巻潤、江波杏子、富士真奈美、山茶花究、高松英郎

 胸を病んでいた美琴は医者からもう全開といわれる。その医者のところに訪ねてきた雑誌記者の加納は行方不明となった父親を捜し、父の戦友だったその医者を訪ねてきたのだった。実はその加納は美琴の実家の料亭の得意で美琴を家まで送っていく。この二人を中心として恋愛と陰謀とが絡んだドラマが展開されてゆく。
 若尾文子や川口浩といったスターを起用せず、地味な配役で臨んだ正統派ドラマ。ドラマの練り方はさすがだがやはり全体に地味かも。

 増村にしては普通かな。ドラマとしてはドロドロ系で、いい感じですが、やはり藤巻潤と江波杏子ではパンチが弱い。野添ひとみや若尾文子とはちょっと違う。江波杏子は好きですが、脇役にいてこそ映える女優という気がします。藤巻潤もしかり。ドンと田宮二郎あたりが主役に座っていたらずいぶん違う印象の映画になったんだろうなぁ、などと思ってしまいます。
 そしてカメラマンはベテラン小原譲治。増村とは監督第1作の「くちづけ」で組んでいます。豆知識としてはこのカメラマンは川口松太郎(「くちづけ」の原作者、川口浩の父)の監督作品のカメラマンを勤めていたりしています。そんな小原譲治の画はそつがないという感想です。藤巻潤がアパートの階段を上っていく場面でのパンの仕方などがとてもスムーズで、人間の視線のようにカメラを使います。1箇所藤巻潤が社長と人悶着起こす場面でかなり細かな切り返しがあり、その部分はかなり新しい感じはありましたが、他の部分ではそれほどすごいと感じるところはありませんでした。
 ということで、全体的に地味な作品ではありますが、こういうのもありかなとは思います。こういうシンプルなドラマを見るたびに、当時の映画が1番の娯楽だった時代を思います(というか想像します)。いまならテレビで見て済ませてしまうような単純なドラマを映画館まで見に行く時代。そんな時代の有象無象のドラマの中にたくさんの名作が含まれていたということです。増村もまたそんなドラマを大量に作らなければならない職人監督の一人だったわけで、どの作品も豪華スターを使って全力投球というわけには行かなかったでしょう。この作品が撮られた60年代前半増村は毎年およそ4本の作品を監督しています。いまからでは考えられないペース。そんな中で撮られた作品なんだということが頭をよぎります。

ウェイクアップ!ネッド

Waking Ned Divine
1998年,イギリス,92分
監督:カーク・ジョーンズ
脚本:カーク・ジョーンズ
撮影:ヘンリー・ブラハム
音楽:ショーン・デイヴィ
出演:イアン・バネン、デヴィッド・ケリー、スーザン・リンチ

 アイルランドの田舎にある村に住む老人達はジャッキーをはじめ、みんな宝くじを楽しみにしていた。そんなある日ジャッキーは新聞の記事から宝くじの1等の当選者が村の中にいることを突き止める。わずか60人足らずの村で誰が当選者なのか? ジャッキーは親友のマイケルと共に当選者探しをはじめるのだが…
 アイルランド製じいちゃんコメディ。ブラックなギャグも織り交ぜながらとにかく何も考えずに笑えるコメディ映画。

 こんな映画が好き。まず老人ものが好き、特にコメディは。そして意味深げなものよりも画面のインパクトとか、くだらない一発ギャグで勝負するようなあっけらかんとしたコメディが好き。そして落ちが面白くないといけない。この映画はなんといっても爺さんライダーがよくって、それはもう画面のインパクトだけで勝負という感じがいい。他にもネッドの顔をいじるところや、落ちのところも捨てがたいが、やはり爺さんバイクに乗るというところでしょうか。
 それにしても、最近はアメリカのコメディよりヨーロッパのコメディの方が面白い気がする。昔はコメディといえばハリウッドの脳天気なのというイメージが強かったけれど、最近のハリウッドコメディはスターに頼ってみたり、ヒューマンドラマなんだかコメディなんだかわからないヒューマンコメディとか言うものだったりして勢いがない。最近のもので面白かったものといえば、「親指」がダントツにしてもあとは「マルコビッチの穴」と「メリーに首ったけ」くらいでしょうか。しかし「マルコビッチ」は純粋なコメディとはちょっと違うし、「メリー」は基本的に下ネタの世界なので、ちょっと違う。下ネタに走ったものではかなり吹っ切れたものもありますが、ちょっと卑怯という感は否めないのでした。

足にさわった女

1960年,日本,85分
監督:増村保造
原作:沢田撫松
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:京マチ子、ハナ肇、船越英二、大辻伺郎、ジェリー藤尾、田宮二郎、杉村春子

 東海道線の特急の中、小説を一心に読む少年と隣の席に座った学生。少年が食堂車にいくとそこにはその小説の作者である五無と雑誌社の編集者、それに大阪の刑事がいた。彼らとその電車に乗り合わせた美人スリさやとが繰り広げるドタバタ喜劇。
 沢田撫松の原作の3度目の映画化。2度目の映画化の際に監督をした市川崑が企画と脚本に名を連ねている。増村はクレイジーキャッツを起用することでこの作品をコメディ映画に仕上げた。

 軽快です。映画全体に非常に心地よいリズムがあって、そのリズムを崩さずに映画が進んでいく感じ。ある意味では先の展開が読めるということでもありますが、期待したとおりのことが期待したとおり起こるというのはなかなか気持ちのいいものです。そのリズムが唯一崩れるのは、厚木の飛行機を写した長いインサートですが、これはこれで物語のちょうど中間あたりにひとつの間を取るという意味でリズムを崩すというよりはひとつの間を与える。このあと少しテンポアップするので、あとから見ればいい間だったということです。
 後は、時代性ですかね。増村の作品で、主に若者を描いた作品ではことさらに「時代」というものが色濃く出ているものがありますが、それは当時のリアルタイムを今になってみているというもので、今になってみると少し押し付けがましさを感じます。それに比べるとこの作品が感じさせる時代性というものはもっとさりげないもので、今になってみるとよりリアルに感じられる。
 街角に貼られた映画のポスターや街そのもの、特急というものの新しさ(増村には「黒い超特急」というのもありました。あれも新幹線の時代性というものを感じさせてた)などなど。これはこの映画には昔を振り返るという面があるからこそ出てきた特徴でしょう。前の時代を振り返ることによって振り返った時点の時代性が浮き彫りになってくる。ただ現在を映しただけでは出てこない深みが出てきます。
 ところで、この映画のカメラは村井博さんですが、増村作品でカメラを多く握っている人の一人です。私はこの村井博という人より小林節夫が撮影を担当した作品のほうが好みです(中川一夫は別格として)。少々分析すると、村井博の映像はすっきりとしていて増村自身の意図がストレートに出てきている気がします。この作品のような軽快な作品ではこういうさりげない映像というのがとても効果的ではあります。これに対してこ小林節夫の映像は構図が非常に凝っていて、画面にインパクトがあります。だから画面自体が語ってしまい、その奥にあるドラマが薄められてしまうという感はありますが、増村の濃厚なドラマにはそれぐらい強い画面のほうがいい。濃厚なドラマと強い画面がぶつかり合う雰囲気がたまらなくいい。
 今度は小林節夫を見に行こう。

フォーエバー・フィーバー

Forever Fever
1998年,シンガポール,95分
監督:グレン・ゴーイ
脚本:グレン・ゴーイ
撮影:ブライアン・ブレニー
音楽:ガイ・クロス
出演:エイドリアン・バン、マデリン・タン、アナベル・フランシス

 1970年代のシンガポール、スーパーマーケットで働くホックはブルース・リーとバイクに夢中。毎日遅刻しながらも地道に働き、3000ドルのバイクをいつか買うことを夢見ていた。しかしある日たまたま見に行った映画「フィーバー」に出ていたトラボルタに見せられ、ダンスに夢中になってしまった。
 とにかく何でも詰め込んだB級娯楽映画。この安っぽさがたまらない。

 面白いような面白くないような。しかし、これは面白いのだとしておきましょう。とにかく安く面白く映画を作る。これがすべてといっていい。「サタデー・ナイトフィーバー」と思われる映画に出ているジョン・トラボルタと思われる人がトラボルタにちっとも似ていないことはともかくとして、すべてが安っぽすぎる。そして物語が陳腐すぎる。それでもこの映画を面白くしているのはその安っぽいB級テイストに加えて、とにかくいろいろな要素が詰め込まれていること。
 それはもう、とにかくなんでもかんでも詰め込んでやれという意気込み。そもそもブルース・リーとサタデーナイト・フィーバーを組み合わせようという発想自体無理がある上に、家族の話や恋の話やなにやら詰め込めるものなら何でも詰め込んじまえという感じ。さらに、それだけ詰め込んだにもかかわらず全く複雑にならないプロット。おそろしい…
 安っぽさでいえば、車で当てただけでじてんしゃがばらばらになるとか、殴り合いのシーンで明らかに当たってないとか、そもそも出てくる人みんなの衣装が安っぽすぎるとか、いろいろあります。しかし一番すごいのは舞台装置の少なさ。同じ場所で撮ってばかりいます。おそらく撮影期間も短かったのでしょう。同じ場所のシーンは同じ時に撮ってしまえという発想が感じられます。主人公が3時間かけてパーマをかけ、ディスコに行った次の日にスーパーに働きに出るときにはすっかりと髪型が戻っていたりもします。怪奇現象だ… こういう単純なミス(おそらくスクリプトのミス)が起こってしまうのが本当のB級映画なのです。狙って作ったB級映画は実際はちゃんと作っているのでこういうミスはあまりありません。だからこの映画は真正のB級映画ということです。すごい!

満月の夜

Les Nuit de la Plene Lune
1984年,フランス,102分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー
音楽:エリ&ジャクノ
出演:パスカル・オジェ、チェッキー・カリョ、ファブリス・ルキーニ、クリスチャン・ヴァディム

 パリ郊外の家、ルイーズは恋人のレミと暮らしているが、その夜の外出のことで意見が合わない。パーティーに行きたくないレミと、朝まで遊んでいたいルイーズ、ルイーズは来なくていいというが、レミはいっしょに外出するといってきかない。話がつかないままルイーズは出かけ、友人のオクターヴとパリの「別宅」に行く。その夜レミはパーティに来るが、つまらなそうにしてすぐに帰ってしまう。
 序盤から議論が飛び出すロメール流の理屈っぽい恋愛映画。最初にエピグラフとしてでる「二つの女を持つものは魂を失い、二つの家を持つものは理性を失う」という格言が非常に示唆的だ。

 ロメール映画の登場人物たちは極端へとは行かず、常に常識の範囲にとどまり、その中で揺れ動く。だからとても現実味があり、身近なものと感じられるのだけれど、それは逆に劇的さとは縁がないということでもある。だから、どの映画を見てもなんだか似た印象を受けるわけだが、それでもその中に秀逸な映画もある。
 しかし、この映画はというと、ロメール映画の中では並。もちろん映画としての質はよいが、ロメールを見慣れてしまうと、いつものことという感じで新鮮な驚きはなくなってしまう。主人公のルイーズの顔は非常に印象的だが、他の登場人物たちは今ひとつ魅力的でなく、あまりに日常的過ぎるという印象がある。そして、冒頭のエピグラフがあまりにうまく映画を表現しきってしまっているので、映画はただそれを映像によって表現しているだけになってしまっているような印象も受ける。それでも登場人物たちの心理の機微というようなものはさすがロメールの描写力という感じがするが、なんだか全体に冷たい印象を受けるのは、レナート・ベルタのカメラのせいだろうか。

 とにかくそれは想像できるロメールの域を出ず、あるいはあまり予想通りに映画が展開していく。それが劇的さのないロメール映画の弱点ではあるのだが、それは新聞の4コマ漫画とか、週刊誌の連載コラムとか、そのようなものに似て、それ自体が日常になりうるものという気もする。
 もちろん、ロメールの映画が日常と呼べるほどロメールの映画を見ているわけではないのだが、しばらく時間をあけてみてみても、それはなんだかなじみの風景というか、いつもの経験という感じがする。そのあたりがロメールの魔術というか、うまさということでしょう。
 それはまた、似た映画の無数のバリエーションを展開しているということでもあり、それはつまり見る人によって好みは別れるということでもある。好みが分かれるということは、無数にあるどれもが質がいいからこそ可能なことで、しかもロメールの映画を見てきた文脈によって映画の受け取り方もかわる。ロメールの作品とはロメールのほかの作品を想起せずには見ることのできない映画で、ということは、見ている人がそれまでにどのロメールの映画を見てきたのかということが映画を味わう上で重要なポイントになってくるということである。だから、前に見た作品も重ねてみてみると、その味わいは変わって、好みも変わってくる。
 それはつまり、いつまでも映画(群)を見続けることができるということで、この映画が今のわたしにとってはそれほどヒットしてこないものであったとしても、エリック・ロメールの偉大さはいくらも損なわれないということだ。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

1988年,日本,126分
監督:富野由悠季
脚本:富野由悠季
撮影:古林一太、奥井敦
音楽:三枝成章
出演:古谷徹、池田修一、鈴置洋孝、榊原良子

 かつてジオン公国で軍を率い、その後地球連邦軍に参加したシャア・アズナブル。そのシャアが巨大な隕石を地球にぶつけ、地球に「核の冬」をもたらそうと計画した。ブライト館長のもとアムロらゴンドベル艦隊の面々はシャアの目論見を破ろうと奮戦する。
 ガンダム―Zガンダム―ZZと続いたオリジナルシリーズの一つの締めくくりとなる作品。シャアとアムロというライバルの戦いの最終章。

 やはりガンダムはガンダム。アムロやシャア、ブライト、ミライというおなじみの人たちが出てくるとそれだけで面白い。そして宇宙でのモビルスーツ戦の映像はまさにモビルスーツ系のアニメの原点です。元祖ガンダムからせい昨年としては10年近くのときが流れ、ガンダムのようなアニメが大量に生産された後でもやはりガンダムはガンダム。他のものとは違う何かを感じます。宇宙空間での戦いのスピード感と、にもかかわらずどのモビルスーツを誰が動かしているのかがすぐにわかるような設定。
 しかし、物語としてはネタが尽きてきたという感じでしょうか。シャアとアムロを中心とする展開だとどうしてもオリジナルのガンダムの物語に引きずられ、似たような話になってしまう。だからこの単発の映画でそれを終わらせたのは正解でしょう。シリーズとして繰り返すとどうしてもマンネリになってしまいますからね。
 ガンダムは面白い。結論はそういうことです。果たしてこれが子供の頃ガンダムを見ていなかった人に当てはまるのかどうかはわかりませんが、私にとってはそういうことなのです。

からっ風野郎

1960年,日本,96分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、安藤日出男
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:三島由紀夫、若尾文子、船越英二、志村喬、川崎敬三、水谷良重

 東京刑務所、今日出所予定の111番の男に面会が告げられた。しかしその111番はバレーボールの最中で仲間に代理を頼む。代理の男が面会室に行くと、そこにいた妖しげな男は相手の名前を確認して銃を発射した。実は111番の男は朝比奈組の二代目で別の組に命を狙われていたのだった。
 作家の三島由紀夫を主演に起用したかなり型破りな作品。内容もただのやくざものではなく、増村らしい人情劇という感じ。

 なんといっても三島由紀夫の存在感はすごい。いきなり上半身裸でマッチョぶりを見せつけ、その後も棒読みのセリフとお世辞にもうまいとはいえない演技ながら、それを個性としてしまうほどの存在感を示す。増村さえも食ってしまったという印象すらあるが、私はこれは増村の戦略だと思う。増村映画レギュラーの名優達に志村喬を加えた豪華脇役陣を使って三島の個性を引き出す、そんな戦略。
 それが感じられるのは、この映画では三島が前景に出る場面が多いということなどからである。たとえば若尾文子と二人でいる場面で、若尾文子が話している場合でも、前景に三島を置いて、奥の若尾文子にピントを合わせるシーンなどがある。他のシーンでもこのような場面がいくつか見られた。主役ということもあるかもしれないが、増村のほかの作品と比べても主役が画面に閉める延べ面積が大きかったように思える(延べ面積で計算することもないんですが…)。だから逆に三島がいない画面はどことなく寂しく感じられるのだろう。
 だからこれは単純に三島由紀夫の個性の問題ではなくて、増村保造の撮り方のけれど、役者でもなんでもない人を堂々と主役に据えてとるんだからそれくらいの事は仕方ない。そして、役者でもなんでもない人を使い、その個性を前面に押し出したからことで切るラストシーン。このいい画を取るために常識も何も捨ててしまったラストシーンを見れば、増村がいかに三島由紀夫の個性を買っていたかが分かる。
 そういえば、増村も三島も(精神的に)マッチョな感じで近しいところがあるのかもしれない。増村は「女なんて力でねじ伏せちまえば…」的な描写がこの映画にも出てきたし、他の映画でもたまに見られるようにかなりマッチョな性格なようです。見た目はそうでもなさそうなのに。三島由紀夫は言わずもがな。まあ、時代性もあるとは思いますが、いま見ると「そんな…」と思ったりもします。

苺とチョコレート

Fresa y Chocolate
1993年,キューバ=メキシコ=スペイン,110分
監督:トマス・グティエレス・アレア、ホアン・カルロス・タビオ
原作:セネル・パス
脚本:セネル・パス
撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ホルヘ・ペルゴリア、ウラディミール・クルス、ミルタ・イバラ、フランシスコ・ガットルノ、ヨエル・アンヘリノ

 同性愛者が反革命分子として迫害されていたキューバ。結婚するつもりだった彼女が別の男と結婚したことに心を痛めていたダビドは、ある日カフェテリアでチョコレート・アイスクリームを食べていた。すると、彼の前にゲイで芸術家のディエゴがストロベリー・アイスクリームを食べながら現れた。
 当時のキューバの状況を考え、この映画がキューバ政府の検閲を通り抜けてきたということを考えると、いろいろな見え方がしてくると思う。

 何年か前にはじめてみたときは、素直にキューバのゲイというものの現状を表しているようで面白くもあり、映画としても独特の質感があって面白いと思いました。冷蔵庫のロッカもとても印象的。人工的なライティングではない自然光のもつ色合いを初めとした「自然さ」がその質感を作り出しているんだと今回見て思いました。そして面白かったという最初の感想は裏切られることなく、とてもいい作品でした。ちょっとソープドラマくさいところもありましたが…
 しかし、こういう書き方をすると言うことは含みがあるわけで、キューバのゲイの現状という意味ではどうなのかという疑問も浮かんでくるわけです。プレビューにも書いたとおり、当時のキューバは映画に対する検閲を行っており、そもそも政府お墨付きの監督の映画しかキューバから堂々と出ることはできなかったわけです。この映画がキューバ映画として外国で配給されたということはつまり、この映画の監督が政府に認められており、またこの映画は検閲をとおったということです。
 ということを考えると、つまりこの映画に描かれるキューバは外国人がみるキューバの見方として政府が公認したものであるということです。ちょっと前にお届けしたドキュメンタリー「猥褻行為」や今度公開される「夜になる前に」もキューバにおけるゲイへの迫害を描いているわけで(「夜になる前に」はまだ映画は見ていないので、原作の話になりますが)、それと比較することが可能です。この映画でもゲイが迫害されていることは描かれています。そしてその迫害を非難するような態度を見せています。しかし、この映画で問題となるのはその迫害に対する非難がゲイ全体への迫害への非難ではなく、ディエゴ個人への迫害の非難なのです。そして、ディエゴは自らも主張するように決定的に反革命的であるわけではない。むしろ国を愛し、国にとどまりたいと考えている。この点は「夜になる前に」の作者であるレイナルド・アレナスも同様です。彼はキューバが嫌いなのではなく、キューバにいることが不可能であるから亡命する。
 この「国や革命を批判するわけではないが、自分にとってはいづらい環境である」という考え方がそこにはあるわけです。このように集団ではなく個人を扱うことによって問題は曖昧になります。だからこの映画は検閲を通ったのでしょう。
 だからこの映画が本当に何を主張しようとしているのかを探るのは相当難しいことだと思います。私は個人的にはこの映画自体は体制を批判するつもりは毛頭なく、むしろ外国にキューバの寛容さをアピールするものだと思いますが。

イン&アウト

In & Out
1997年,アメリカ,90分
監督:フランク・オズ
脚本:ポール・ラドニック
撮影:ロブ・ハーン
音楽:マーク・シェイマン
出演:ケヴィン・クライン、ジョーン・キューザック、マット・ディロン、トム・セレック、デビー・レイノルズ

 教え子にアカデミー賞授賞式で「ゲイだ」といわれてしまった高校教師ブラケット。結婚まで決まっている彼は事態の収拾に乗り出すが…
 いわゆるゲイ・コメディだが、純粋にコメディとしてみても面白い。アカデミー授賞式のノミネート作品とか、「男らしさ」講座のテープとか。プロットもよくよく見ると意外と凝っていて最後まで楽しめる。

 脚本家のポール・ラドニック自身がカミングアウトしたゲイであるので、ゲイを馬鹿にして笑い飛ばすという姿勢はとらないが、ゲイであることを隠そうとする人を利用することでゲイを毛嫌いする人々(ホモフォビア)を笑い飛ばす。アメリカはゲイに対する偏見が少ないというけれど、それはあくまで都市部の話で、田舎のほうでは同性愛者に対する意識なんてこの低だのものだろう。記者のラドニックは都市の洗練されたゲイとして田舎のホモフォビアたちのバカらしさを明らかにする。 という物語なわけですが、結局自分がゲイであることを認めないようとするブラケットの振る舞いがいかにゲイ的であるかということが笑いの焦点なわけで、そこを笑えないとつらいかもしれません。
 そういえば、この映画はどこかの映画賞で「ベストキス賞」という賞をとったそうです。なるほどね。