スポーン

Spawn
1997年,アメリカ,98分
監督:マーク・A・Z・ディッペ
原作:トッド・マクファーレン
脚本:アラン・マッケルロイ
撮影:ギレルモ・ナヴァロ
音楽:グレーム・レヴェル
出演:マイケル・ジェイ・ホワイト、ジョン・レグイザモ、マーティン・シーン、テレサ・ランドル

 CIAの特殊工作員のアル・シモンズは用心の暗殺に見事に成功。しかし、仕事を辞めると上司に告げた。そして命じられた最後の仕事を遂行するため北朝鮮の生物兵器工場へ行く。しかし、そこで裏切りにあい殺された。5年後、かれは焼け爛れた顔を持つ男として再び現れた。
 スパイダーマン、X-メンなどと同じくアメリカの人気コミックの映画化。SFXを駆使してコミックの世界をうまく映像化している。

 アメリカンコミックものと言うとどうしても子供向けとか、安っぽいと言うイメージが付き纏いますが、私は結構この世界が好きなようです(自己分析)。バットマンはそれほどでもないですが、X-メンは面白かったし、スーパーマンも昔から好き。もともと現実を想定していない分表現が自由でのびのびとしているところがいいのでしょう。この映画でも悪魔の親分(?)の表現がいかにもCGという感じですが、別にそもそも実体のないものなのでリアル感がなくても全く問題ない。スポーンの変身シーンなんかも「かっこいい!」と思って受け入れてしまいます。
 というわけなので、ストーリーとかメッセージとか映像とかサウンドとか、そんなこととは全く関係なく、面白かったのでした。X-メンを見たときも思いましたが、こういうのはやはりシリーズ化してキャラクターに愛着が湧いていくことでもっと面白くなるような気がします。この続きではきっとあえなく死んでしまったCIAの手下の女が強敵となって現れるはず。
 夏休みだから、少年の心に戻って無心で見れば、きっと面白いはず。難しいことを考えてしまうと、面白いはずの映画が面白くなくなってしまうこともある。と言っても、この映画はみんなに受けるとは思えないけど…

ブロンクス/破滅の銃弾

Jumpin’ at the Boneyard
1991年,アメリカ,101分
監督:ジェフ・スタンツラー
脚本:ジェフ・スタンツラー
撮影:ロイド・スティーヴン・ゴールドファイン
音楽:スティーヴ・ポステル
出演:ティム・ロス、アレクシス・アークエット、ダニトラ・ヴァンス、サミュエル・L・ジャクソン

 ブロンクスに住むマニーの家に空き巣が入る。しかしそれは3年間行方がわからなかったヤク中の弟ダニーとそのガールフレンドだった。マニーはダニーをひっつかまえ車に乗せて、墓地に連れて行く。
 ドラッグと人種を絡めた兄弟の物語。題名からはアクションかと思いきや、全く淡々とした物語。

 なにがどうといっても全く盛り上がりどころがないのでなかなか難しい。一種の社会派と言っていいのか、地味な感じでドラッグと人種の問題を持ってきて、貧困がそれにやはり絡んでるぞみたいなスタンスでいいと思う。おそらく設定としてティム・ロスはイタリア系で、昔イタリア系のスラムだったところがいまはアフリカ系のスラムになっているという設定と、そのイタリア系のダニーのガールフレンドがアフリカ系であるという設定なんかを微妙に絡めているのだと思う。しかし、あまりに微妙すぎてどこに焦点があるのかちっとも分からなかった。結局のところ、やっぱり家族だね。っていう話なのかな。
 ブロンクスを舞台にしたイタリアンマフィアものというのは多いし、それとアフリカ系との抗争というものも多い、そこでそれを前提として実際のところそこでは何が起こっていた勝手ことを描きたかったのだろうけれど、伝わらないね。でも、その目の付け所はなかなかよくて、何もドンチャカ打ち合いしているばかりがマフィアではないもので、マフィアからドロップアウトした人とか、マフィアからドラッグを買っているただのヤク中とか、そういった人を描いても面白いものは撮れるのかも知れない。めぐりあったことはないけど。 
 ということに思い至ったりしました。

Maelstrom
2000年,カナダ,86分
監督:デニ・ヴィルヌーヴ
脚本:デニ・ヴィルヌーヴ
撮影:アンドレ・ターピン
音楽:ピエール・デロシュール
出演:マリ=ジョゼ・クローズ、ジャン=ニコラス・ヴェロー、ステファニー・モーゲン・スターン

 カナダでブティックを経営するビビアンは大女優を母に持ち、マスコミにも注目されていた。しかしブティックの経営状態はよくなく、オーナーである兄に店を閉めるように勧告されていた。そんな状態の中で彼女は中絶手術を受ける。自暴自棄になって酒を飲んでかえる途中、男性をはねてしまう…
 カナダの新鋭デニ・ヴィルヌーヴ監督のデビュー作。いわゆるアート系の雰囲気だがシュールな雰囲気と異様な映像美が才能を感じさせる作品。

 毒々しい魚が出てきて語りをはじめる辺り、同じカナダだからと言うわけではないけれど、どことなくクローネンバーグを思い起こさせる。物語の展開も一筋縄では行かない不思議な展開。
 この不思議さは物語のみならず映像・音楽すべてに通じているもので、なかなか分析することは難しい。途中で挿入される字幕もまた一般的な映画の文法を破るという意味では不思議な点かもしれない。
 なんといっても一番異様なのは徹底的なクロースアップ。印象では映画の半分以上がクロースアップでできてたんじゃないかってくらい徹底したクロースアップの連続。これは技術的にもすごいけれど、やってしまう度胸はもっとすごい。何なんでしょう。おそらくここまでアップを続けてしつこくならないのはブルーに統一された色調のせいでしょう。とことんまでに白い肌とブルーの背景という効果が可能にしたクロースアップ。
 果たして問題はそんなすごい映像を作り上げてなにが生まれたのかと言うこと。すごいなーと思いながら見れはするけれど、実際何かが伝わってくるのかというとなかなか難しいところ。解釈の余地はあるけれど、ぐんぐん迫ってくる何かがあると言うわけではない。単なるアート系の映像芸術は越えていると思うけれど、物語である映画としてはどうなのか。映像と物語とは互いが支えあってこそ意味があるのであって、映像だけが遊離してしまったり物語を伝えるだけになってしまってはそれは映画ではない。この映画は映画にはなっているけれど、物語の部分がどうしても弱い。それはいわゆる「アート系」の映画一般にいえることだけれど、この監督はおそらくそんな括弧つきのアート系を乗り越えられるだけの力があると思うので、そんな不満も口をつく。
 でも、楽しみな監督が出てきましたね。と思う。

こころの湯

洗澡
Shower
1999年,中国,92分
監督:チャン・ヤン
脚本:リュウ・フェントウ、チャン・ヤン
撮影:チャン・チェン
音楽:イェ・シャオ・ガン
出演:ズウ・シュイ、ブー・ツンシン、ジャン・ウー

 北京郊外で銭湯を営むリュウ老人のところは近所の人がいつも集まっていた。リュウ老は知的障害のある息子アミンと一緒に楽しく商売をしていた。そんなある日、家を出て南で暮らしている長男のターミンが突然帰って来た。ターミンはアミンから届いた葉書を見て父に何かあったのではと思ったのだが、それは取り越し苦労に終わり、数日後に帰ることに決めたのだが…
 「スパイシー・ラブ・スープ」のチャン・ヤンが名優ズウ・シュイを迎えて撮った感動作。従来の中国映画とは一味違った仕上がり。

 この監督は何かある。「スパイシー・ラブ・スープ」を見ているときにも思った「何かあるんだけれどどこか突き抜けない感じ」、それがこの作品にも引き続きあります。銭湯のシーン(ブルー)から砂漠のシーン(オレンジ)に突然展開したときにはビビッと来ましたが、結局この映画で目に付いたのはその青と赤(オレンジ)との対比くらい。他の部分もうまいとは思うもののグットくるまでは行かない感じなのです。「オー・ソレ・ミオ」とか、かけっことか「なるほどね」とか「やっぱりね」と思うところは多々あるもののそれを超えてきたのは一箇所のみでした。
 しかし、中国映画であると言う点から見れば、やはり斬新なものかもしれない。色使い一つにしたってなんとなく中国映画と言うと自然の色彩をよく言えば生かすような使い方で工夫がないのに対して、この映画は明らかに色に対するこだわりが強い。その辺りをしっかり見たい。
 そして、全体的にはしっかりとまとまっていて、感動ものとしては合格点。親子や兄弟と言った肉親の関係性がしっかりと描かれています。
 「スパイシー」のときにも書きましたが、この監督ならもっと先へ先へといけそうな予感がするのです。いつの日か本当に名作を撮ってくれそうな期待を寄せつつ見守ります。

新しい神様

1999年,日本,99分
監督:土屋豊
脚本:土屋豊
撮影:土屋豊、雨宮処凛、伊藤秀人
音楽:加藤健
出演:雨宮処凛、伊藤秀人、土屋豊

 雨宮処凛、何かを信じたくてすがりたくて民族派と呼ばれる右翼団体に属し、右翼パンクバンドでボーカルを務める。彼女とその同士伊藤秀人がまったく右翼ではない監督土屋豊との共同作業で作り上げた一遍の思想の形。
 映画は雨宮の日記風のビデオ映像を中心にして北朝鮮訪問などの様子が挿入される。素直に時系列に沿って作られているのでその思想の推移や撮る側と撮られる側の関係性の変化などを見られるのがよい。

 彼女あるいは彼女たちのいっていることも言いたい意味もわかるけれど、それはまったく心には突き刺さってこない。それはそのイデオロギーに共感できないからではなく、そこにイデオロギーがないから。彼らが主張しているのはイデオロギーではなくアンチイデオロギーである。今あるすべてのイデオロギーに対して疑問を投げかけるが、そのアンチテーゼとしてのイデオロギーを投げかけることはしない。だから彼らのメッセージは心には入り込んでこない。ただ彼らの逃避と意地と当てのない憤怒のみがそこからは伝わってくる。したがってこれが思想表明を主とした映画であるとしたならば、完全な失敗だと私は思う。そして、ある程度、思想表明と考えている(人もいる)と私は思う。
 しかし、これを異なる立場の人間の関係性の変化を描いた一つのドラマであると考えるならば、そこに十分ドラマは成立していると思う。主人公雨宮と監督でありカメラマンである土屋との関係性の変化は雨宮自身の告白を聞くまでもなく明確に画面に現れる。
 問題はこの映画がこの二つの要素のどちらでもありながらどちらでもないところ。完全なアンチイデオロギーの表明であるなら、もっと方向性の定まった語り方をするべきだし、関係性の変化や思想の揺らぎを描こうとするならその内容の部分を強調しすぎるべきではないと思う。
 私としてはもっとドラマチックに揺らぎを描いたほうが面白かったと思う。それをさせなかったのはこの映画が持つドキュメンタリー性へのこだわりであると思う。そのドキュメンタリー性というまやかしの客観性へのこだわりを捨て、フィクショナルな方向へ足を踏み入れればもっと魅力的な映画になったと思う。

はなればなれに

Bande a Part
1964年,フランス,96分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、ルイーザ・コルペイン

 フランツとアルチュールは車で一軒の家を見にいく。それはフランツが英会話学校で一緒のオディールの叔母の家で、そこに出入りしている男が相当の額の現金を隠し持っているらしい。その後英会話学校に向かった二人はオディールも巻き込んでその現金を盗み出す計画を立てる。
 白黒・スタンダードの画面に3人の若者の組み合わせはジャームッシュを思わせる。もちろん、ジャームッシュが影響を受けたということですが。

 「気狂いピエロ」とはうって変わって白黒・スタンダード、初期のゴダールらしい作品。またこの作品では絶対的な第三者が語り手として存在するのも特徴である。この語りは非常に効果的で、ほとんどが3人の関係性で紡がれていく物語にアクセントを加える。特に3人がカフェで過ごす一連のシーンは絶品。「一分間黙っていよう」というところから、踊るシーンまでの語りと音楽・サウンドの使い方は「うまいねぇ」と嘆息するしかないのです。
 またも天才ゴダールの計り知れなさということになってしまいますが、ここのシーンを見ただけで、並みの監督では想像もできないような作り方ということがわかります。踊りのシーンではいきなり音楽を切って語りを入れるのですが、踊っている音(足音や手拍子)はそのまま使われる。その音楽が「ぷつっ」と切れるタイミングの絶妙さはどうにも説明のしようがありません。
 ゴダールは音の面でもかなり革新的なのですが、この作品もそれを如実に表すものです。今ある映画のかなりのものがゴダールの音の使い方を剽窃(といったら語弊がありますが)しているともいえる。それでもこの踊りのシーンはほかのどんな映画でも見たことがない。「これはやはりまねできないんだろう」と私は解釈しました。

気狂いピエロ

Pierrot le Fou
1965年,フランス,109分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ライオネル・ホワイト
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、グラツィエラ・ガルヴァーニ、サミュエル・フラー

 ジュリアンが妻とパーティに参加する間、友人のフランクの姪が子供たちの面倒を見てくれるという、フランクに姪がいたかといぶかしがる彼だったが、現れた学生風の女性に子供たちを任せてパーティへ向かった。しかし、ジュリアンはパーティを中座し先に帰宅する。実はその姪という女性はジュリアンの元恋人だった。
 天才ゴダールの作品の中でも最も知名度が高いといえる作品。ゴダールらしさを維持しつつも単純なサスペンスとしても楽しめる(と思う)作品。

 ゴダールは初期の作品では白黒の画面にこだわり、カラーの映画は撮ろうとはしなかった。しかし「」で一転、カラーへの取り組みを始めると、カラー作品でもつぎつぎと名作を生み出す。しかも、激しい色使いでほかの映画との違いを見せつけながら。中でもこの「気狂いピエロ」と「中国女」は色使いに抜群の冴えを見せる。「中国女」では徹底的に赤が意識的に使われるのに対して、この映画で使われるのはトリコロール。赤と青と白のコントラストを執拗なまでに使う。マリアンヌと兄(?)の船に掲げられているトリコロールの国旗をみるまでもなく、繰り返し移される青い空と白い雲を考えるまでもなく、その3色のコントラストが頭にこびりつく。
 青い空と白い雲といえば、この映画で多用されるがシーン終わりの風景へのパン。つまり、人物が登場するシーンの終わりに空舞台の(人がいない)風景へとカメラが動く。これが何を意味するのかは天才ゴダールにしかわからないことかもしれないが、単純に感じるのは「いい間」を作るということ。単純にシーンとシーンをつないでいくタイミングとは異なったタイミングを作り出すことができるのではないだろうか? しかも、一ヶ所だけそのパン終わりを裏切るところがあります。人物から風景にパンして終わりかと思ったらまた人が映る。
 となると、このシーンをやりたかったがために繰り返しパン終わりをやったのかとも思えるのです。そこはゴダール、はかり知れません。気づかなかった人は今度見たときに探してください。私もその構成に初めて気づいたので、もしかしたら一ヶ所じゃないかもしれない。
 ゴダールをやるたびに理解できなさをその天才のせいにしてしまうのですが、本当に心からそう思います。

レクイエム・フォー・ドリーム

Requiem for a Dream
2000年,アメリカ,102分
監督:ダーレン・アロノフスキー
原作:ヒューバート・セルビー・Jr
脚本:ヒューバート・セルビー・Jr、ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティーク
音楽:クリント・マンセル
出演:エレン・バースティン、ジャレッド・レトー、ジェニファー・コネリー、マーロン・ウェイアンジュ

 ビリーは今日も母親のテレビを持ち出し、相棒のテリーとともに海辺の道を運んでいく。なじみのおやじに売ってもらった金でドラッグを買う。二人は金儲けのため、ヤクを買って半分を売りさばくという計画を立てた。一方、母親の元にはテレビの出演者に選ばれたという電話がかかってきて、彼女は有頂天になるのだが…
 「π」の 監督の第2作。「ドラッグ」をテーマとし、アヴァンギャルドな映像とサウンドは前作をしっかり踏襲。再び正気を揺さぶるような映画世界を作り出している。

 この監督はすごいと思うのですが、やはり「π」の衝撃と比べるとこちらの免疫効果なのかどうなのか、そのショックは小さくなっています。事前の期待度を差し引いて、冷静に見てみればこの作品も「π」も同程度の狂気をはらんでいると思うのですが、映画もドラッグと同じでより刺激的なものを求めてしまいがちなのでしょう。ましてや同じ監督の作品となれば。
 ということで、途中までは「アー、なるほどね」とかなり予想通りという感じで見ていたし、監督の神経を逆撫でようとする意図を冷静に分析していたのですよ。そしてそのまま最後まで冷静でいたつもりなのです。が、なぜかラスト5分あたりから異様な感動の渦が私を襲いました。この感動はなんなのか? 決して感動を誘うような作品ではないと思いますが、私を襲ったのはまさに感動。じくじくと狂気のジャブが効いていて、それが最後にあふれ出たのか? ともかくなぞの感動を覚え、エンドロールに流れるストリングスの音に妙に鋭敏になったりしました。一種の擬似ドラックなの?
 まあ、とにかく不思議な映画でした。「π」を見たことがない人にはおそらくかなりの衝撃があるでしょう。そして「π」を見たという人も何かを発見できると思う。たぶん。

RUSH!

2001年,日本,97分
監督:瀬々敬久
脚本:瀬々敬久、井土紀州
撮影:林淳一郎
音楽:安川午朗
出演:キム・ユンジン、哀川翔、柳葉敏郎、大杉漣、阿部寛、千原浩史

 横転した車、横に倒れている男と女、さらにかたわらには風にさらわれていく1万円札。
 「焼肉革命」というキャッチフレーズでチェーン展開する焼肉店で働く昌也はやくざ風の男に昔働いていた韓国人の行方を尋ねられ、知らないという。しかし、実はその韓国人たちと社長の娘の狂言誘拐を計画していた。
 昨年、「HYSTERIC」が話題を呼んだ瀬々監督が日本語とハングルをミックスして撮り上げた不思議なサスペンス、そしてラブ・ストーリー。

 なんといってもいいのはテンポ。時間の流れとは関係なく、短い断片をつないでゆくことで非常に軽快なテンポで映画を展開させることができている。そして、もちろん、それぞれがどう絡み合っているのかという謎もうまれる。この手法自体は目新しいものではなく、展開に慣れてゆくにつれ、徐々にスピードダウンしていく感があり、残念残念と思っていたらそうではなかった。最後まできれいに期待を裏切って、微笑みながらエンドロールを見つめてしまう。ネタばれのためいえませんが、この終わり方は絶品でした。
 構図なども非常に考えられてはいるのですが、それはアートとして考えられているのではなく、あくまで映画全体の雰囲気作りというか、空気を描写するためのものであるというところもとてもいい。いわゆるアート系の映画ほどには考えさせず、しかし絵としては非常に美しい、そんな構図が絶妙でした。特に哀川翔とキム・ユンジンの二人のシーンはどれも構図にかなりのこだわりを感じました。
 さらに面白かったのは、車やバイクで移動するシーン(特に前半)の妙な安っぽさ。50年位前なら当たり前のウィンドウに景色はめ込みの映像がこれでもかとばかりに連発される。決して全体的にふざけた感じの映画ではないのに、こんな遊び方をしてしまう。このあたりも非常によかったです。
 もちろん日本語と韓国語のディスコミュニケーションという道具の使い方もよかったのですが、ディスコミュニケーションの状況を伝えながら、両方の話している意味を伝えるというのはなかなか難しかったのではないかと思ってしまいます。この映画では字幕を使って両方の言っていることがわかるように仕向けられているわけですが、それはつまりあくまで傍観者としてその場面を見つめるしかないということでもあります。それはそれでいいのですが、ディスコミュニケーションの感覚は今ひとつ伝わりにくかったとは思います。でも両方を実現するのはやはり無理。ここでの監督の選択は正しかったと私は思います。

プリースト判事

Judge Priest
1934年,アメリカ,79分
監督:ジョン・フォード
原作:アーヴィン・S・コップ
脚本:ダドリー・ニコルズ、ラマー・トロッティ
撮影:ジョージ・シュナイダーマン
音楽:シリル・モックリッジ
出演:ウィル・ロジャース、ハティ・マクダニエル、トム・ブラウン、フランシス・フォード

 時代は19世紀末、南部の町で巡回裁判所の判事をしているプリースト。田舎町に大した事件はなく、彼に対して敵愾心を燃やす上院議員のメイドゥーとの小さな戦いと、ロースクールを卒業したばかりの甥っ子ジェロームの恋の話があるばかりだった。
 まさに古きよきアメリカ。のどかな雰囲気の中に適度な笑いと適度なサスペンスと適度にハートウォーミングがちりばめられた味わい深いヒューマンドラマ。

 こういうのはとてもいいですね。なんとなく自分自身の気分にあったと言うことなのだろうけれど、すごくこころにすっと入ってくる感じ。大体想像はつく物語ではあるのだけれど、なんといってもプリースト判事のキャラクターが秀逸で、会っただけで誰もがほっと肩をなでおろしてしまいそうなあたたかさがにじみ出ているようなのでした。
 ジョン・フォード自身とアメリカの観客もこの雰囲気を気に入ったのか、フォードは南部を舞台に同じウィル・ロジャース主演でさらに2本の映画を撮ったらしい(1本が「周遊する蒸気船」であることは確認。もう一本は未確認)。
 もう一ついいのはプリーストのところにいる二人の黒人。もちろんこれはプリーストが反差別主義であることを示すためのものだけれど(実際はいまから見れば十分に差別的なのだけれど、これが30年代の映画であることを考えると仕方がないといっていいと思う)、この二人がもたらす陽気さと音楽は単純な古きよきアメリカ映画とは違うアクセントになっていていい。とはいえ、基本的にはホームドラマ的な映画なのですがね。
 きのうの「暗黒街の弾痕」の完璧さと比べるとかなりすきだらけの映画ですが、私には(とりあえずいまの私には)、こっちの作品の方がヒットしました。多くの人は「暗黒街」の方に軍配を上げると思いますが… とにかく、ハリウッド黄金期というのはやはり本当に黄金期だったのね、と思うわざるをえない作品のバリエーションがそこにはあります。