生きるべきか死ぬべきか

To be or Not to be
1942年,アメリカ,99分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:エドウィン・ジャスタス・メイヤー
撮影:ルドルフ・マテ
音楽:ウェルナー・ハイマン
出演:キャロル・ロンハード、ジャック・ベニー、ロバート・スタック、ライオネル・アトウィル

 第二次大戦前夜のワルシャワ、街にヒトラーが現れた。それは実は、ヒトラーとナチスを描いた舞台を上映しようとしていた劇団の俳優だったが、ナチスによってその公演は中止に、そして戦争がはじまる…
 エルンスト・ルビッチが大戦中にナチスをおちょくるような映画を撮った。なんといってもプロットのつなぎ方が素晴らしい。コメディといってしまうのはもったい最高のコメディ映画。

 まず、出来事があって、その謎を解く。ひとつのプロットの進め方としてはオーソドックスなものではあるけれど、それを2つの芝居と戦争というものを巧みに絡めることで非常にスピーディーで展開力のある物語にする。そんな魅力的な前半から後半は一気に先へ先へと物語が突き進む先の見えない物語へと変わる。そのストーリー展開はまさに圧巻。
 そしてこれが大戦中にとられたということに驚く。当時のハリウッドにはそれほどの勢いがあった。ヒトラーが何ぼのもんじゃ!という感じ。しかし、一応コメディという形をとることで、少々表現を和らげたのかもしれない。ストレートに「打倒ヒトラー!」というよりは、やわらかい。しかしその実は逆に辛辣。戦争が終わり、ナチスを批判する映画はたくさん作られ、歯に衣着せぬ言葉が吐き出され、数々の俳優がヒトラーを演じたけれど、この作品とチャップリンの「独裁者」とをみていると、どれもかすんで見えてくる。「シンドラーのリスト」はヒトラーを直接的に描かないで成功したけれども、そこにはどう描こうとも決して越えられない2つの映画が存在していたのではないか?
 そんなことを考えながら、60年前の名作を見ていました。やっぱルビッチってすごいな。ちなみに、主演のキャロル・ロンハードはこの作品が最後の出演となっています。きれいなひとだ…

真田風雲録

1963年,日本,90分
監督:加藤泰
原作:福田善之
脚本:福田善之、小野竜之助、神波史男
撮影:古谷伸
音楽:林光
出演:中村錦之助、渡辺美佐子、ジェリー藤尾、ミッキー・カーチス

 関が原の戦いのとき、みなし子たちの一団が死んだ侍の持ち物を盗んで歩く。そこで出会った一人の若いお侍、そして忍術を使う謎の少年佐助。そして10数年後、そのみなし子たちと佐助は再会し世に名高い真田十勇士となるのだった。
 時代劇とやくざもので名高い加藤泰監督のかなり強烈な作品。物語の設定もかなり独特ならば、映画の作りも相当独特。かなり笑えます。

 何がすごいといって、このでたらめさ加減がものすごい。映画というのは現実に似せることによって進歩してきた。というまことしやかに聞こえる誤謬を思い切り暴き、映画とは決して現実に近づきはしないということを朗々と謳い上げる。といってしまっては仰々しすぎるけれど、この映画のでたらめさはまさにそういうこと。 一番すきなのは、大阪城で兵たちがドンちゃん騒ぎするシーンでのスポットライト。確かに時代劇でもスポットライトは使われているし、現代的な照明が焚かれているのだけれど、フレームにうつるのはたいまつや焚き火だけ。しかし、この映画はしっかりとスポットライトそのものがうつり、それはしっかりとスポットライトとしての役割を果たす。
 映画の誤謬を暴くといっても難しいことではなく、そんなでたらめなことであるということ。しかし、決してすべてがでたらめというわけではないのが加藤泰。画面の構成の仕方などをみていると、そこはしっかりと考えて作りこんでいる。ひとつ気になったのは真田のところにはじめて集まった場面で、佐助が画面の手前に横たわり、奥に他の仲間がいるというシーンがあったが、このシーンはかなりローアングルというか、異常にローアングルで、視点は地中にあるとしか思えない。
 ほかにも、無数にすごいところがあります。それはもうあげきれない。しかし最後に1つ。誰もが気になる字幕について。主要人物が出てくると下に名前が表示されるというのは「シベ超」でもやっていた手ですが、なんか日曜洋画劇場のようで気に入らない。しかし、それは別にすればこの映画の字幕は本当に面白い。セリフで言えばいいところをわざわざ字幕にしたりする。この感性は何なのだろう?

スター・ウォーズ

Star Wars : Special Edition
1977年,アメリカ,129分
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:ジョン・ウィリアムス
出演:マーク・ハミル、ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、アレック・ギネス

 反乱軍のリーダー、レイア姫の乗る船がダース・ベイダーの率いる帝国の船に捕らえられる。あえなく捕虜となってしまったレイア姫だったが、ロボットR2D2とC3POにメッセージを託して宇宙空間に送り出した。その2体のロボットは砂漠の惑星で、ルーク・スカイウォーカーに出会う…
 1977年の公開から20周年を記念して作られた特別編は画質・音質がアップした上に、細部に様々なデジタル処理が施されている。
 「スター・ウォーズ」を見たことがないという人がいたら、ひとにばれる前にこっそり見ておいたほうがいいですよ。

 スター・ウォーズの物語について今さらあれこれ言うことはしません。ほとんど覚えているので、誰かと見ているといつのまにか次のシーン当てクイズみたいになってしまう。
 この特別編は細かい画像処理だけではなく、オリジナルにはいなかった要素が結構付け加えられているらしく、私の記憶が正しければ、オリジナルでは登場していなかったジャバ・ザ・ハットがでてくる。ついでにハン・ソロと絡んでいる。ここはいまひとつオリジナルを覚えてないですが、ジャバ・ザ・ハットがオールCGなのは明らかで、逆にその周囲のアナログさかげんがよくわかる。ほかにも、CGキャラクターがそこここに加えられている。
 で、全体的にどうなのかというと、オリジナルのほうが好き。特別編もILMの技術力の高さは感じるし、それによって臨場感がますような部分もあるのだけれど、そこは、天下のジョージ・ルーカスとILM。やるならもっと徹底してやって欲しかったという気持ち。宇宙船内が明らかにちゃちいとか、デススターの表面が明らかに模型とか、その辺りまですべてリマスターしてエピソード1と同じレベルまで持ってきて欲しい。それができないというのなら、今見るとすべてが少々古臭くってもオリジナルのほうを選びます。

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

Star Wars : Episode 1 – The Phantom Menace
1999年,アメリカ,133分
監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:リーアム・ニーソン、ユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、ジェイク・ロイド、テレンス・スタンプ、サミュエル・L・ジャクソン

 「スター・ウォーズ」の時代からさかのぼること30年。共和国から通商連合の調査のためにナブーへと派遣された二人のジェダイの騎士はその裏に惑星ナブーを占領しようという陰謀があるを知る。それを共和国政府に伝えるため、女王を救い出したのだが…
 後にダース・ベイダーとなるアナキン・スカイウォーカーの少年時代、帝国が出現する以前の時代を描いた。CGを駆使して戦闘シーンからキャラクターまで非常に精密な映像を作り出した。

 やはり、ILMの特撮技術はすごく、どこからがCGなのかなかなか判断がつきにくいくらいではある。特にポッドレースのシーンがなんといっても秀逸。それに、なかなか地味なところではシールドというのがあって、CGというのは半透明なものを表現するのがすごく難しいらしく、その技術が開発されたのがようやく数年前だったらしい(映画でいうと、たしか「アンツ」だったか「バグズ・ライフ」が本格的にCGの半透明表現を取り入れたものだったはず)ので、これだけきれいにそれを表現するのは想像を絶する難しさだったはずです。
 しかし、映画としてはやはりシリーズの第一作という感じで、全体がプロローグっぽく作られているのが不満。これからどうなるかに期待をもたせるには十分だけれど、1つの物語としてはちょっとね。
 だがしかし、面白いことは面白い。それもすべては映像のおかげというしかないけれど、特撮の辺りは置いておいても、色彩の使い方や画面構成はやはり秀逸。美術班が優秀なのでしょうこの映画は。そこは絶対にはずさないところが「スター・ウォーズ」のすごいところなわけです。

団地妻 不倫でラブラブ

2000年,日本,68分
監督:サトウトシキ
脚本:小林政広
撮影:広中康人
音楽:山田勲生
出演:林由美香、横浜ゆき、伊藤猛、本田菊雄

 団地の隣同士に住む二組の夫婦。ある朝、両方の家の妻がいなくなり、途方にくれる二人の夫。実は一方の家の夫が隣の夫に片思いをしていることを知った妻がそれに腹を立て、隣の妻と連れ立って温泉旅行に出かけることにしたのだった。温泉に行った二人と残された二人は果たして…
 監督はピンク映画四天王の1人サトウトシキ。音楽は青山真治作品でもお馴染みの山田勲生。かなり不思議な可笑しさ漂う映像もなかなか。

 まあ、妻同士・夫同士が結ばれるという展開のひねり方はそれほど目新しいものではなく、プロットとしてはむしろ、温泉旅館で出会うカップル(アベックって言ってた。映画の中では)のわけのわからなさのほうが面白みがあった。 台詞回しの棒読みさ加減はピンク映画にしても棒読みすぎというところで、「狙いかな」と思わせるものがある。それは映像もひっくるめてわざとらしさがかもし出すおかしさを演出するのに一役買っている。
 その映像はというと、稚拙というか安っぽい部分は多いものの、瞬間の不思議なおかしみというのを引き出すのがうまいとは感じた。男が2人裸で座っているだけでなんとなく可笑しい映像になるというところや、ピンポイントで入る脈略のわからない映像(服のまま平泳ぎとか、のどかな温泉街の朝の風景とか)がいい。
 話の展開としてはもう少し曖昧に終わったほうが面白かったとは思いますが、まっいいか、という感じです。一般映画としても十分見るに耐える感じ。かな。

僕たちのアナ・バナナ

Keeping the Faith
2000年,アメリカ,129分
監督:エドワード・ノートン
脚本:スチュアート・ブルムバーグ
撮影:アナスタス・N・ミコス
音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:ベン・スティラー、エドワード・ノートン、ジェナ・エルフマン、アン・バンクロフト、ミロシュ・フォアマン

 飲んだくれて酔っ払い、一見のバーにたどり着いたひとりの男。男は実は神父だった。おもむろに彼が語りだした身の上話は、幼馴染の男2人・女1人の物語だった。
 「ファイト・クラブ」などで売れっ子になった俳優エドワード・ノートンの初監督作品。映画自体はわかりやすいラブ・コメというところだが、なかなかひねりが聞いていて見がいはある映画に仕上がっている。と思うけど、気に入らない人もいると思う。

 さらっと見ると普通のラブ・コメ。しかし、実のところかなり微妙な作品。かなりの部分は陳腐な作りなのだけれど、ひとくちに陳腐といってしまっていいのかという気もするところ。
 いきなり、ポケットからスキットボトルを取り出しあおる。しかもシルエット。そして千鳥足、通行人とぶつかりごみ溜めに倒れこむ。ここまであほのように分かりやすくありきたりに自棄酒を飲んだ酔っ払いを描いてしまう。のっけから鼻白い感じがするが、どこかで「狙い?」という疑問がちらりと横切る。
 しかし、その酔っ払いが神父で、その友達がレヴァイという設定に出会って脚本への期待が膨らむ。それから、2人の少年が十字を切るシーンに出くわし、「このギャグのセンスはなかなかどうして」と思ったりする。
 しかししかし、この映画はかたくなに陳腐。型にはまったキャラクター達が型どおりの行動をし、それをオーソドックスにとりつづける。「レインマン」のような映画ネタがたくさんでてくるところを見て、結局のところ映画好きがついつい自分でも撮ってしまった映画なのね… と思う。
 しかし、この陳腐さ・この外し方が狙いなのだとしたらすごいのかもしれない。本当はすごく才能がある監督なのかもしれない。陳腐陳腐と思っていながら、ついつい感動してしまったし…
 次回作を期待しないで待つことにします。

ハート・オブ・ウーマン

What Woman Want
2000年,アメリカ,127分
監督:ナンシー・マイヤーズ
脚本:ジョルジュ・ゴールドスミス、キャシー・ユスパ
撮影:ディーン・カンディ
音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:メル・ギブソン、ヘレン・ハント、マリサ・トメイ、アシュレイ・ジョンソン、ベット・ミドラー

 大手広告代理店に勤めるニックは「男」抜けの広告で数々のヒットを飛ばしてきた広告マン。私生活ではバツイチで娘もいるけれど、女をたらしこむのは大の得意。そんな彼のところにライバル会社から引き抜かれたダーシーがやってきた。彼女の打ち出した「女性路線」に困惑する彼だったが、ある事故をきっかけに女性の考えが聞こえるようになってしまい…
 「花嫁のパパ」などのコメディーライターとして活躍するナンシー・マイヤーズの監督第2作。メル・ギブソンファンなら見て損はなし。マリサ・トメイやベット・ミドラーといった渋いキャスティングもなかなか。

 すべてが並、というか普通、というか可もなく不可もなくというか、設定としてもそれほどものめずらしいものでもないし、映像にこっているわけでもない。面白くないわけじゃないけれど、特に面白いわけでもない。
 秀逸だったといえるのは、何度かあったプロットとは余り関係ないロングショット。街中のメル・ギブソンを俯瞰で撮った画や、バルコニーから火花が飛び散るところを取った画。すべてがオーソドックスな中に不意にはさまれるイレギュラーな感じが印象的。
 監督さんは女性ですが、この男が見るとうらやましいような気恥ずかしいような内容をどんな思いで撮ったのかしらなどと思ったりする。

コインを投げろ

Tire die
1960年,アルゼンチン,33分
監督:フェルナンド・ビリ
脚本:フェルナンド・ビリ、フアン・カルロス・カベージョ
撮影:オスカル・コップ、エンリケ・ウルテガ
出演:サンタ・フェの子供達

 サンタ・フェの街をグルっと映す空撮で始まり、子供のアップに切り替わる。サンタ・フェのスラムに暮らす子供達は列車を待っている。列車がやってくると彼らは列車の横を走り、“Tire die !”(コインを投げて!)と叫ぶ。
 アルゼンチンの監督フェルナンド・ベリが1960年に撮った作品。「シネマ・ノーヴォ」と呼ばれる作品群の一つに数えられる。

 レビューを書くほど見れていませんが(いかんせん、スペイン語が聞き取れない)、ドキュメンタリーというにはかなり違和感のある映像の作りではありました。かなり作りこまれているということ。子供達がコインをねだるところでも、子供の側からの視点と列車の側からの視点の両方を混ぜ込みながら映像化している。ドキュメンタリーというよりはドラマ的。フィクションというわけではないけれど、映画として作りこむために相当に意図的に作られた場面という印象です。
 しかし、この映画の意義は、スラムの子供達に目を向けたということにあり、それ以上でも以下でもないという感じ。「こんな現実があるんだよ」ということを斬新な映像技法で描いてみた。そんな感じです。ある意味では、ウカマウなんかと通じるところがあるのですが、アルゼンチンとボリビアでは相当事情が違うということもあって、なかなか論評することは難しいようです。
 とにかく、かなり貴重な映画であることは確かなので、どこかで見かけたら「おっ」と思って足を止めてみてください。

NYPD15分署

The Corruptor
1999年,アメリカ,111分
監督:ジェームズ・フォーリー
脚本:ロバート・プッチ
撮影:ファン・ルイス=アンシア
音楽:カーター・バーウェル
出演:チョウ・ユンファ、マーク・ウォールバーグ、リック・ヤン、ポール・ベン=ヴィクター

 チャイナ・タウンを管轄に持つニューヨーク市警の15分署。そこのやり手の刑事チェンの部署に若い白人の刑事が配属された。娼婦の連続殺人事件にマフィアの抗争と血なまぐさい事件が続発するチャイナタウンで白人の青二才がやっていけるとは思いもしないチェンだったが…
 ハリウッドで売れっ子になりつつあるチョウ・ユンファ渾身のアクション。やはり香港スターはアクション出て何ぼやね。

 これは意外な掘り出し物。まったく期待しないで見た割には結構楽しめた。とはいってもプロットがすごくこっていたとか、アクションがド迫力だったというわけではない。プロットもそこそこ、アクションもまあまあというところ。
 まずこの映画でよかったのは音楽。プロットとは余り関係なく挿入される様々な種類の音楽が非常に印象的。アクション一点張りで単調になるのを防ぎ、映画にリズムを与えている。などと思っていたら、なんと音楽はカーター・バーウェル。コーエン組の音楽監督として有名です。ちょっと前に紹介した「ミラーズ・クロッシング」の音楽もよかったー、というカーター・バーウェル。なるほどね。 もう一つよかったのは、これはかなり個人的ですが、アメリカの警察ものファンにはたまらない設定であること。アメリカの警察組織っていうのは複雑らしく、まあ市警だFBIだの何だのとなっていますが、ハリウッド映画とかアメリカのドラマなんかを見ているうちになんとなく分かってきてしまうもの。そしてその複雑さが映画にもいい複雑さを与えるというもの。警察ものファンならきっとうなる「あ、なるほど、ウォレスが…、あれね」(ネタばれ防止)。
 という少々マニアめな楽しみ方をしてみました。こういう映画もアリかな。意外とどんな人でもそこそこ楽しめるいい映画ではないかと思います。

議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。