ノストラダムス

Nostradamus
1994年,アメリカ=イギリス=ドイツ,118分
監督:ロジャー・クリスチャン
脚本:ナット・ボーサー
撮影:デニス・クロッサン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:チャッキー・カリョ、アマンダ・プラマー、ジュリア・オーモンド、ルドガー・ハウアー

 大地が口をあけ、巨大都市を飲み込む。少年ミシェル・ド・ノストラダムスが見た夢は果たして単なる悪夢だったのか… 成長し医師として頭角をあらわすミシェル。ペストがとどまることなく流行していた時代、それは狂信的な異端弾圧の時代でもあった。
 という、ノストラダムスの生涯を伝記映画化した作品。

 結局のところ、焦点が定まっていないというか、なんというか… 中立の立場をとって人間としてのノストラダムスを描こうという意図はわかるのだけれど、その割には人間ドラマにしてしまうのでもない。そのあたりの中途半端さがどうも納得いかず。
 映画のつくりとしては、ノストラダムスが最初に身を寄せる家が妙に不自然だったことをのぞけば、非常にオーソドックスな中世映画という趣で、文句はないけれど、特に誉めるべきところもない。無理からいうとしたら文句のほうで、ちょっと安っぽいかなという感じ。どこのシーンでもショットのアングルが限られていて、映像に変化が乏しい。予算の関係上セットにお金がかけられないのかもしれませんが、こうなるとなんかテレビドラマじみていて、ちゃちい印象になってしまうことは避けられないのです。
 それに反して、役者達はなかなかいい演技を見せていて、フランスが舞台なのに全員が英語を話すというハリウッド映画っぽい問題点をのぞいては、自然でいい。

曽根崎心中

1978年,日本,112分
監督:増村保造
原作:近松門左衛門
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:宇崎竜童
出演:梶芽衣子、宇崎竜童、井川比佐志、左幸子、橋本功

 心中しようと夜中に二人よりそい、坂道を登るお初と徳兵衛。お初は天満屋の女郎、徳兵衛は平野屋の手代。好きあった二人がいかにして心中まで追い込まれたのか?
 惚れたはれた、死ぬ死なない、というドロドロとした感情を描かせればやはり増村。近松門左衛門の名作を見事に映画化。徳兵衛役に俳優未経験の宇崎竜童を起用し、音楽も依頼。ATGの製作らしい斬新な時代劇に仕上がっている。

 いきなり頭から、時代劇にギターの音色というのがかなりドカンと来る。その後もエレキ有り、シンセ有りと時代劇とは思わない音楽のつけ方がすごい。近代文学の名作も素直に作らず、そこに独特の感性を埋め込んでしまうところが増村らしい。物語りも人情劇というよりは非情劇という感じで、微妙な感情の機微などはばっさり切り捨て、激しい感情のぶつかり合いをドカンとメインに据えてしまうという余りの増村らしさ。
 全体的にちょっとセリフがまどろっこしく、物語としてのスピード感に欠けたところがあるが、それはおそらく余りに初期の増村を見すぎたせい。普通の映画はこれくらいのスピードで進むはず。見ている側をじりじりさせるというのも映画(特にサスペンス)の心理効果としては必要なこと。とはいっても、やはりあのスピード感のほうが心地よいことも確か。スピードを緩めて全体をアートっぽく仕上げてしまったのはどうなのか…
 というスピードのあたりにかなり私の不満は集中しますが、全体としてはかなり面白い。梶芽衣子もいいね。

あなたと私の合言葉 さよなら、今日は

1959年,日本,87分
監督:市川崑
原作:九里子亭
脚本:九里子亭、舟橋和郎
撮影:小林節雄
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、佐分利信、野添ひとみ、京マチ子、川口浩、船越英二、菅原謙二

 自動車会社の技術部に勤めるやり手のビジネスガール和子は大阪に住む大学時代の先輩梅子と結婚なんかしないと決めていた。その梅子が東京にやってきた折、急に和子が相談があると言い出した…
 市川崑が若尾文子や川口浩といった大映のスター達を豪華に使って作り出した群像劇。テンポの速い展開と独特な演出術が見どころです。

 無表情に棒読みという独特な演出が目に付き、こまごまにきられたカットもかなり頻繁に現れる。特に会話の場面での切り返しが異常に速かったりする。そのあたりの効果のほどは計りかねるものの、全体的にはその妙なテンポが面白い。計算はされているけれど、あえてそれをはずしてゆくという感じ。
 役者さんが共通していて、同時期で、同じカメラマンとなるとどうしても増村と比較してしまうけれど、そもそも増村は市川作品の助監督なんかもやっていたので、かなり共通点はあるはず。しかし、増村ファンとしてはこの作品の物語の淡白さがなんとも物足りなく、若尾文子に魅力が足りなく感じてしまう。映像的にはかなり似通っていて、これはやはりカメラマンによるところが多いのでしょう。小林節雄はデビュー作が市川崑監督の名作「穴」というかなりすごいカメラマン。やはりフレーミングというのはある程度カメラマンのセンスによるのだということが小林節雄撮影の作品を見ていると分かります。この人の作品は画面の一部分を殺してしまうことが多い。壁やふすまや扉で画面の半分くらいを使えない空間にしていしまう構図ですね。増村作品に特に目立ちますが、この映画でも2回くらい使われていたはず。
 などなど、たまにはカメラマンに注目して作品を見てみたいものですが、これはなかなか難しい。相当の数の映画を見ていかないと、カメラマンが出す特徴というのは見えてこないような気がします。うーん、なかなか難しい。

丹下左膳余話 百万両の壺

小さな笑いが重なって大きな幸せを生む、幸福な伝説の名作。

1935年,日本,91分
監督:山中貞雄
原作:林不忘
脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳
音楽:西梧郎
出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎

 柳生藩の殿様は、自分の家の壺に百万両のありかが塗りこめられていること知る。しかし、見た目二束三文のその壺は弟が江戸へ婿養子に行くときにくれてやってしまっていた。藩主は使いをやってその壺を取り戻そうとするが、そうそううまくはいかない。
 時代劇でありながら、コメディ映画。しかもハリウッドのスラップスティックコメディを思わせるような軽快なテンポに驚かされる。

 70年近く前の映画なのにこれだけ笑えるというのはすごい。原作は丹下左膳なわけだけれど、どこか落語的な味わいを感じさせるシナリオでもある。そしてまた、コメディとして完成されているというのがこの映画のすごいところだ。しっかりとした構図、画面の内外で動き回る役者の動き、それは本当にうまい。

 そしてさらにすごいと思ったのは映画全体の躍動感、一つ一つのネタにはそれほど意外性があるわけではない。しかしそれを映画という手段によって笑いにもっていく。具体的にいえば、オチの前倒しというか、ネタを転がす部分を省くところ。一例をあげると、安坊が竹馬を欲しい欲しいと言って駄々をこねる場面で、女将さんは「駄目」といっているのに、カットが変わっていきなり安坊が竹馬に乗っている。言葉で説明すればただそれだけのことなのだけれど、このようにして観る者を「えっ」と一瞬驚かせるそんな瞬間が輝いているのだ。

 だから、ずーっとこの作品を見ているとどんどん楽しい気分になってくる。笑える作品を見たというよりは幸せになれる作品を見た、そんな感想がピタリと来る。やはり名作は名作といわれるだけのことはあるのだと改めて実感させられた。

 この作品が作られた1935年というと、チャップリンが『モダン・タイムス』を発表する前年、アメリカではマルクス兄弟やアステア&ロジャースが活躍していた。日本では戦争の匂いが漂い決して世の中は明るくなかった。この作品はそんな世の中を少しは元気付けたのかもしれない。

 そんな人々を明るくする作品を作り上げた山中貞雄は小津をも凌ぐ天才と言われながらわずかな作品を残して(完全な形で残っているのはわずか3本)戦争の犠牲となってしまった。この不朽の名作を見れば映画のすばらしさを感じることができるが、同時に戦争の悲しさ、虚しさをも感じてしまう。

 映画というのはただ見て楽しむことができればそれでいいのだが、私にとって山中貞雄の作品だけはどうしてもそうは行かない映画だ。面白ければ面白いほど哀しみが付きまとう、そんな作品なのだ。

ラヴァ-ズ

overs
1999年,フランス,101分
監督:ジャン=マルク・バール
脚本:パスカル・アーノルド、ジャン=マルク・バール
撮影:ジャン=マルク・バール
音楽:ヴァレリ・アルベール
出演:エロディー・ブーシェ、セルゲイ・トリヒュノヴィッチ、ジュヌヴィエーヴ・パージュ

 美術書専門の書店で働くジャンヌのところにある日、たどたどしいフランス語を話す青年ドラガンが訪ねてきた。不安げなドラガンをジャンヌはデートに誘い、彼がユーゴスラヴィア人であることを知る。そして2人はそのままジャンヌのアパートで一夜を過ごした…
 パリジェンヌとユーゴスラヴィアから来た貧乏画家が繰り広げるラヴ・ストーリー。「グラン・ブルー」でジャック・マイヨールを演じたジャン=マルク・バールの初監督作品。

 最近よく見るいわゆる「ドキュメンタリー・タッチ」の作品。しかも監督がカメラも持ち、ほとんどが手持ち撮影。こんな形式の作品は最近結構多い。「トラフィック」も形式としてはかなり近いものがあるし、マイケル・ウィンターボトムの「ひかりのまち」などもその部類。
 この映画はフランスで「ドグマ」というシリーズの第5作目ということらしいですが、そのシリーズがどのようなものなのかは分かりません。
 映画としては、ドラガンがなかなかいい味。冒頭からのなんともオドオドした感じがいいし、しかもあとから見ればなるほど納得というのもいい。しかし、全体を見ると前半で相当盛り上がっていくだけに、後半部分はなんとなく物語りの焦点がぼやけてしまった感があり、残念ではある。見方を変えると、当たり前ではない状況を当たり前に過ごす人々をごく自然に描いたという意味ではいいものであるとも言える。
 でも、個人的に普通の人の生活をドキュメンタリー風に作った映画というのはどうも最近食傷気味なので、いまひとつしっくり来ず。
 ただ、最後の最後にやってくる長回しはなかなかいいのではないかと思います。

大悪党

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、緑魔子、佐藤慶、倉石功

 洋裁学校に通う芳子はボーイ・フレンドに別れを告げた。そのとたん声をかけてきた男・安井は芳子に酒を飲ませ、マンションに連れ込んだ。翌朝目を覚ました芳子はほうほうの体で家に帰るが、そこに芳子のヌード写真を持った安井が現れる…
 「妻は告白する」につづき、円山雅也の小説を映画化。緑魔子が妖しい魅力を発散し、田宮二郎も魅力全開。増村らしい非常にウェットな映画。騙し騙され誰が本当の「大悪党」か?

 これはドロドロ。相当ドロドロ。プロットについては言うことなしです。人間の暗部をぐさりとえぐる増村らしい辛辣な物語。きれいに複線を張って物語を二転三転させる。しかも見ている側の神経を逆撫でするような残酷な物語展開がすごい。冷酷非常なプロットに怒りさえ覚えてきてしまいます。これは我々が勧善懲悪な映画を見すぎているせいなのか、それとも増村がサディスティックなのか?この映画を見て思ったのは、我々がいつも見ている映画というのがいかに平和かということ。結局我々は「正義が勝つ」と思って映画を見ている。この映画も結局正義が勝つのだからその思いは間違っていないのだけれど、それでも一度は「もしかしたらその期待は裏切られるかもしれない」という思いを抱かせるのがこの映画の力。やはりそれは田宮二郎の顔半分笑いとギラギラした目に潜んでいるのか?
 なんだか謎めいた書き方になってしまいましたが、この映画が提示する「悪」の概念というのは相当興味深いのです。結局のところ誰が「大悪党」なのか?ある意味では全員が。あるいは3人のうちの誰でもいい1人が。それは「悪」というものの取りかた次第。漫然と見ると我々は緑魔子演じる芳子に自己を同一化させていくので、安井こそが「悪党」であり、得田は味方。しかし、芳子の立場に立ったとしても人殺しをさせた得田は安井を上回るほどの「大悪党」でありうるし、むしろ自分こそが本当の「大悪党」であると胸を張ることさえ出来るかもしれない。

パリの確率

Peut – etre
1999年,フランス,109分
監督:セドリック・クラピッシュ
脚本:サンチャゴ・アミゴレーナ、アレクシス・ガーモ、セドリック・クラピッシュ
撮影:フィリップ・ルソード
音楽:ロイッチ・デューリー
出演:ロマン・デュリス、ジャン=ポール・ベルモンド、ジュラルディン・ペラス

 1999年の大晦日、アーサーは友人のマチューとともにSF仮装パーティーに出かける。アーサーの恋人リューシーも友達2人とそのパーティーへ。リューシーはその夜子供を作ると決めていた。リューシーの計画どおりトイレとしけこんだ2人だったが、アーサーは子供を作ることに躊躇する。なんとなく気まずいムードの中、アーサーはトイレの天井に別の部屋への入り口があることを発見する。そして建物の外へと出てみると、そこは砂に覆われた見たこともない世界だった。
 『猫が行方不明』のセドリック・クラピッシュ監督が『ガッジョ・ディーロ』のロマン・デュリス主演で撮ったおかしなSF作品。全体に漂うばかばかしさがたまらなくいい。

 このばかばかしさはすごく好き。ちょっと考えると「そんなわけね-よ」ということをさらりとやってしまう。タイム・パラドックスとかいうことを深く考えたりもしない。面白ければいいんだという分かりやすい姿勢が素晴らしい。
 映像も、特に斬新ということもないんだけれど、さらりといい映像という感じ。やはり砂漠というのは絵になるもので、何もない砂漠の上に人がいるというだけで映像としては十分成立する。砂漠の場面で一番印象に残っているのはけんかをしたアコとアーサーが座り込む場面。画面の端と端に座り、右端のアーサーがアコの方へと歩いていくのをカメラが追う。ただそれだけ。だけどいい。
 それに本筋とは関係ない部分もなかなか面白い。女三人組で一番きれい(だと思う)ジュリエット(だったと思う)が最後一人寂しく帰る場面をしっかり撮ってみたりするのも、「わびさび」ではないけれど、気が利いているし、ユリース(ひ孫)が結局どうなったのかまったく触れないところもいい。(何がいいのかと聞かれると困りますが、こういう投げっぱなしのエピソードがあるという未完成っぽさが好き)
 などなど、取るに足らないことばかりですが、その積み重ねでいい映画になったという作品だということ。

 まあ、この映画は基本的にはSFなわけで、普通に考えればありえない話しなわけですが、それがありえそうに描けてしまうのがクラピッシュらしさにつながるのかもしれません。未来を描く場合、普通は(ハリウッドはと言い換えてもいい)いまよりもテクノロジー的に進んだ社会を描く。それがわれわれにいい社会なのか悪い社会なのかは別にして、とにかくテクノロジー的には「進歩」した社会を描く。それはまさしく近代的な発展的歴史観というか、社会というのは日々進歩していくのだという素朴な考えの表れであるような気がする。SFというのは映画に限らず小説でもいまより科学技術が進んでどんどんすごいことができるようになったらどうなるんだろうという、夢の世界を描くものだった。しかし、果たして科学技術がどんどん進んでいくことが本当にわれわれ(人類のとは言わない)のためになるのかどうかということも、原子力の例を上げるまでもなく疑問に付されてきているし、その中で技術の発展が不幸を呼ぶようなものも数々作られているわけだけれど、この映画のようにある意味で退歩した未来を描くというのはあまりない。
 そんな意味でもこの映画は面白い。基本的には退歩しているけれど、しかしその未来に対して最後にはアーサーが期待というか希望を持つというのも示唆的なのかもしれない。
 クラピッシュの作品をいろいろ見て、この人の現代に対する感覚というのがすごくよくわかる気がした。それは心地よいというわけではないのだけれど、私がいまという時代に対して感じる感覚と何か近しいものを感じる。
 クラピッシュは映画というものに対して何か行き詰まりのようなものを感じていて、しかしそれを斬新さで突き破ろうとするのではなく、もっと自分自身の身近なところに引き戻すことで新しい生々しさを生み出そうとしているような気がする。未来の描き方も『マトリックス』のような圧倒的な世界ではなくて、身の丈にあった自分に関わるミクロの未来だけを描く。
 それはとてもとても大切なことなんじゃないかと思う。

妻二人

1967年,日本,94分
監督:増村保造
原作:パトリック・クェンティン
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:山内正
出演:若尾文子、岡田茉莉子、高橋幸治、伊藤孝雄、江波杏子

 雑誌社に勤める柴田健三はタクシーの故障で立ち往生し、近くのスナックに立ち寄った。そしてそこでかつての恋人順子と出会う。昔小説家志望だった健三は順子の紹介で原稿を持ち込んだ雑誌社の社長令嬢に見込まれ、社員となり、さらにはその令嬢と結婚したのだった。それから幾年かの月日が流れていた…
 ミステリーとしての要素と男女の愛憎劇としての要素が共存する増村らしいドラマ。ミステリーとしての要素が強いが、なんといってもすばらしいのは若尾文子と岡田茉莉子の二人。

 もっとどろどろとした愛憎劇が繰り広げられるのかと思いきや、むしろミステリーとしての要素のほうが強い。これは若尾文子演じる道子のキャラクターが増ターらしい強さと激しさを持っているのだけれど、表面に出てくる部分では非常に理知的である。だからあまりドロドロとしない。
 しかし、ミステリーとしてはなかなか優秀で、バランスが取れた作品ということが出来るのだろう。しかし、増村ファンとしてはもっと壊れた、何か奇妙なものが見たいので逆に不満感がたまる。
 さらにしかし、この映画の二人の女性はすごくいい。若尾文子はもちろんいいけれど、岡田茉莉子がそれほど多くない出番でものすごい存在感をみせつける。これに対比される二人の男があまりにさえないというのも二人を引き立てる要素となっているのだろうけれど、それにしても二人がすごい。決して表面的に対立・対決することはないのだけれど、その穏やかな対面のシーンでいろいろなことが頭をよぎる。若尾文子の凛とした表情と岡田茉莉子のはにかんだような微笑。この対面の瞬間にこの映画の魅力は凝縮している。

 それにしても、二人の男がさえないのは増村の計算だろうか? 最初、高橋幸治が棒読みセリフで登場したとき「絶対この人は主人公じゃない!」と思ったが、まんまと主人公で、最後まで棒読みで通し切ってしまった。私はこれは増村の計算だと思う。この役者さんは馴染みがないのでわからないけれど、増村作品によく出てくる人では川津祐介あたりが棒読み系。

SAFE

Safe
1995年,アメリカ,119分
監督:トッド・ヘインズ
脚本:トッド・ヘインズ
撮影:アレックス・ネポンニアシー
音楽:エド・トムニー
出演:ジュリアン・ムーア、ザンダー・バークレイ、ピーター・フリードマン

 新興住宅地のメイドのいる大きな家に住み、不自由なく生活しているように見えるキャロルだったが、体調不良と疲労感に苛まれていた。夫も心配し医者に行くように勧めるが、医者でも異常なしといわれる。しかし、キャロルの症状は徐々に悪化していく。果たして何が原因なのか…
 現代人が抱える精神や周囲の環境といった問題を取りあげた映画。淡々とした内容ではあるが、映像や演出にはかなり細かい神経が行き届いている作品。

 これだけドラマがない映画はなかなか難しい。映画のプロットにドラマチックさがかけていると、どうしても映画自体が単調になってしまい、飽きがきて、眠気を誘う。
 しかし、この映画は意外と飽きない。特に前半部分はなんとなく不安と好奇心を抱かせる。それは表面に出てくる物語の問題ではなくて、映画自体の作り方から来るのだろう。この映画の前半部分の映像の作り方はかなり変わっている。普通にドラマチックさを表現する場合のつくりからすると不自然なつくりになっている。
 具体的には、クロースアップの使われ方がおかしい。普通クロースアップは重要な部分を拡大することによって劇的な効果を生むものだが、この映画ではパーマをかけている頭がクロースアップされたりする。にもかかわらず、映画として重要そうな夫婦の会話などの場面は引きで固定カメラで撮られてしまったりする。このあたりの齟齬感が見ている側の好奇心をそそる。このあたりの映画のつくりがかなりうまいということ。
 これらはもちろん化学物質過敏症という原因が明らかになってゆくにつれ謎が解き明かされてゆくので後になってみれば納得がいくのだが、それを知らずに見た時点ではかなり不思議。
 というように、前半から中盤にかけてはかなり面白く、映画に引き込まれていくが、終盤になると映画の単調さが少々飽きにつながってくるのが難。結末も決して悪くないので、そのあたりをちょっと絞ってあればかなり面白い映画になったと思います。

ツバル

Tuvalu
1999年,ドイツ,92分
監督:ファイト・ヘルマー
脚本:ファイト・ヘルマー、ミヒャエラ・べック
撮影:エミール・クリストフ
音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ、ユルゲン・クナイパー
出演:ドニ・ラヴァン、チュルバン・ハマートヴァ、テレンス・ギレスピー

 ある見捨てられた港町にある一戸建てプールに年老いた父と住むアントンはその建物からでたことがない。そんなある日、プールにやってきた娘エヴァにアントンは一目ぼれする。
 セリフはほとんどなく、そのセリフも一つの既存の言語ではないので、字幕は付されないという異色の作品。実験的な短編作品で有名なヘルマー監督がカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァンを主演に撮った作品。ヒロイン役のチュルバン・ハマートヴァは「ルナ・パパ」の少女(製作はこっちの作品のほうが先)。

 「セリフ」というものに非常に意識が行きがちで、監督としてもうやはりそれは相当に意識していることなのだろうけれど、この映画は言語を廃したというよりは言語をより単純なほかのものに置き換えたものというイメージ。したがってそれほど斬新さは感じない。様々な言語で共通しそうな言葉(たとえばノー)を使ったり、身振りで表現したりすることはサイレント映画のちょっとした応用という気もしてしまい、新鮮味にはかける。
 それよりもこの映画でいいと思ったのは色調。全体にモノクロの映像なのだけれど、それぞれのシーンでその色調が違う。最初の場面はブルーで、「最近はやりのブルーフィルターか」と思ったらそうでもなく、決してカラーにはならない。ブルーのモノクロ、グリーンのモノクロ、ブラウンのモノクロなどなど様々な色のモノクロが現れ、モノクロだけでもこれだけのバリエーションがあるということを気づかせてくれる。ここがこの映画で一番よかったところ。
 あとは、不思議さ満載の細部は個人的には好み。最初に出て来た明らかに作り物の鳥なんかはかなりツボ。そういったB級的な要素とアート的な要素がうまく融合している、といいたいところだけれど、実際はあと一歩というところ。両方の要素が入ってはいるけれど、融合というにはちょと足りない。老人達が屋根の上でかさをさしているシーンなんかはかなりその融合が達成されているのかな、という感じはします。