くまちゃん

1992年,日本,98分
監督:小中和哉
脚本:小中千昭
撮影:志賀葉一
音楽:うさうさ
出演:草刈正雄、川合千春、冨永みーな(声)、風祭ゆき、大杉漣

 彫刻家の石室昭雄は妻と別れて10年、今は20歳も年下の舞台女優の卵、中尾桂と恋愛中。今日もアトリエで制作に没頭していた。そこに突然屋根を突き破って卵形の物体が! その物体は制作中の作品を壊してしまった。そして翌朝起きると、その物体は割れており、部屋にはしゃべるくまのぬいぐるみがいた。
 宇宙からやってきた「くまちゃん」が巻き起こす騒動を描いたラブ・ストーリー。小中和哉監督は、「ブラックジャック」シリーズなどのVシネマに加え、最近では「ウルトラマン・ティガ」を手がける異色の監督。

 異常にくさいセリフとスタイリッシュといっていい映像にはさまれるくまのぬいぐるみのバランスが奇妙でおかしい。序盤は相当映像にこっていて、ズームイン・ズームアウトを多用するほか、つなぎ方に工夫してみたりいろいろいじっている。しかし、その間には必ずくまちゃんがはさまれ、それを見るとついにやっとしてしまう。
 この映画は相当すごいと思う。面白いかどうかは置いておいて、発想がすごい。なぜ宇宙人がくまのぬいぐるみなのか? どうして誰もくまちゃんがやってきた目的を聞かないのか? など疑問は尽きないが、この構成はすごい。映画の画面の中でどうしても異物(あるいは浮いた存在)であるくまちゃんが主役。それに、コメディであるようでコメディでないようでもある不思議な雰囲気。妙に凝った映像。くまちゃんがおもちゃの車に乗ってアーケードを疾走するところなんて相当すごい。
 まあ、だからといって話として面白いかといえばそうでもなく、川合千春の演技は拙く、みんながみんなセリフがくさい。そのあたりが普通に映画としてみることの出来ない原因かと思いますが、映画としては相当面白いですね。

イグジステンズ

eXistenZ
1999年,カナダ=イギリス,97分
監督:デヴィッド・クローネンバーグ
脚本:デヴィッド・クローネンバーグ
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:ハワード・ショア
出演:ジェニファー・ジェイソン・リー、ジュード・ロウ、イアン・ホルム、ウィレム・デフォー

 ゲームポッドという人体に直接接続するゲームがあたりまえの時代。天才ゲームデザイナーのアレグラ・ゲラーは画期的なゲーム「イグジステンズ」を開発した。そのはじめての試用会の席でゲラーは奇妙な銃で少年に狙撃される。ゲラーは会場整理をしていたテッドと逃げるが、ゲームに損傷があるかもしれないと言い、テッドに一緒にゲームの中に入ってくれと頼んだ。
 クローネンバーグが相変わらずの独創的な世界観でバーチャルリアリティゲームの世界を描いた近未来SF。クローネンバーグはクローネンバーグだが、ストーリーといいモチーフといいキャスティングといい、クローネンバーグ初心者でもそれほど抵抗なく入っていける作品になっている。逆にコアなクローネンバーグファンには物足りないかもしれない。

 グログロのところはクローネンバーグらしさ万点だけれど、結構入りやすいストーリーとコンセプトがクローネンバーグらしくない。「Mバタフライ」に次ぐくらい一般受けしそうな作品。ジュード・ロウが出ているというのも大きいけれどね。
 しかし、小道具はクローネンバーグらしくていい。こんな世界を描いたので印象的だったのは「裸のランチ」。この映画は原作がバロウズということでストーリーなんてのはないも同然、ただ猥雑で混乱した世界が延々と続くというまさにクローネンバーグの真骨頂という感じだった。それと比べると非常におとなしい。それに、CGと分かってしまうCGを使ってしまったクローネンバーグはいかがなものかと思ってしまう。
 ここまでのところではあまり評価していないように聞こえますが、実のところすごく好き。クローネンバーグにしては分かりやすいといっても、複雑は複雑で、その複雑さが恐怖をあおり、それが映画だけにとどまるのではなくて実際の現実にまで及んできそうな恐怖である。そこがいいところ。実際そんなゲームを体験してしまったら、現実を現実として信じられなくなるのはあたりまえのことかもしれない。そしてゲームの中ではまだ自分がゲームの中にいるのかどうか信じられなくなるということも。この虚構と現実という普遍的な対立をゲームというメディアを使ってうまく消化し、しかも非常にこなれたストーリーで描いた作品といえる。
 だから、この映画はコンセプトとストーリーテリングが非常に優秀で、クローネンバーグ的な部分をうまく覆っている。だからそれなりにクローネンバーグらしさを発揮しながらもちゃんとしたエンターテイメント作品に仕上がっているわけだ。この辺は微妙なところで商業主義に走ってクローネンバーグらしさを失ってしまったと見ることも出来るが、私はストーリーテラーとしてのクローネンバーグとカルトな映像作家としてのクローネンバーグがうまく融合したものと考えたい。

かさぶた

Le Gale
1987年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:アタオラフ・ハヤティ
出演:メヒディ・アサディ、アスガル・ゴルモハマッディ、ホセイン・マルミ

 新聞配達の少年ハメッドは反政府的なチラシを所持していたとして裁判を待つ間少年院に送られる。そこには室長と呼ばれる威張りくさった少年をはじめ、いろいろな少年が収監されていた。
 少年院という閉じられた空間、虐げられた状況の中での少年たちの関係を描いた作品。物語というほどの物語はなく、映画は淡々と進んでいくが、映像は最初のシーンから素晴らしい。

 物語としては、奥歯に物の挟まったような感じ。それは監督の意図なのか、それとも規制の中での苦心の末なのかはわからないが、核心に行こうとすると話がそれていってしまう気がする。だからどうしても展開が単調になるし、先の展開を求めることで映画に入り込んでいくということも出来にくくなる。
 なので、この映画を見るなら映像に注目しよう。何せ、最初の街(テヘランかな?)のうえからの画。画面の上下にまっすぐ道が走っていて、その周囲はごちゃごちゃと建物が立てこんでいる。その画がそもそも美しいうえ、その画面のちょうど真中に妙に浮いた感じで高速道路らしきものが映っている。そして次のカットは橋らしきものを下から見た画面。そしてその橋からビラのようなものがどさっと降ってくる。これだけでかなりいい。
 その後も映像は面白く、ヨーロッパやアメリカの映画とは明らかに違う映像でしかも美しかったりする。一列に座った少年たちが必死に頭をかきむしるのを左から右にずーーーっとパンして映してみたり。
 あとは、この映画は非常に反復が多い。シャベルで土をすくうところとか、プールに飛び込むところとか、それはそれで映像としてなかなか面白くていいのだが、一番気になるのは少年たちの嬌声。最初は少年たちがまだ子どもであるということを意識させてくれていいかなとも思ったが、本当に繰り返し繰り返しでてくると、だんだん耳についてくる。このあたりは狙いなのかどうなのか。狙いだとしたらそれは苛立ちの表現なのか。苛立ちならば、それは映画に対する規制の中で思うように表現出来ないことに対する苛立ちなのか。等々等々などと勝手な推理が進んでいきます。

クアトロ・ディアス

O Que e Isso, Companheiro ?
1997年,ブラジル,110分
監督:ブルーノ・バレット
原作:フェルナンド・ガベイラ
脚本:レオポルド・セラン
撮影:フェリックス・モンティ
音楽:スチュアート・コープランド
出演:ペドロ・カルドーゾ、フェルナンダ・トーレス、アラン・アーキン

 1969年、軍事政権下のブラジルで理想に燃える学生フェルディナンドは現状を打破すべくテロリスト組織に加わることを決意する。名を捨て、家族を捨て、友人を捨て、テロリスト組織MR8に加わったフェルディナンドはパウロと名を変え、仲間とともに銀行強盗に成功。パウロは彼らの存在をアピールするため、アメリカ大使を誘拐することを仲間に提案する。
 実際にあったアメリカ大使誘拐事件を再現し、映画化。政治的映画としてみることも出来るし、単純にドラマとしてみても十分に面白い。

 まず、この作品の原作は当時の犯人のひとり(おそらく主人公のフェルディナンド)が書いたものなので、かなり忠実に事件の内実を描いている上に、政治的な主張もストレートに盛り込まれている。
 まず、映画としてみてみると、うまく複線が仕込まれ、興味をつなぎながら追えるようになっているところがうまい。少し分かり安すぎる気もしないではないが、観客が気づくように、しかし気づき過ぎないように複線を入れ込むのはなかなか難しいことだと思うので、その点ではかなり優秀な映画でしょう。映画の撮り方としてはまったくアメリカ映画のようで、ポルトガル語を聞かない限りでは、ブラジル映画とは気づかないくらいだった。
 と、映画としてはかなり面白く、さらにはブラジルの政治情勢を映画として描いたというのも、かなり意義のあることだとは思うけれど、実際のところちょっと生っちょろい。
 例えばウカマウの映画と比較してみると、その生っちょろさは一目瞭然。まず、主人公がブルジョワ青年であるという点からして、気に入らない。事実だから仕方がないとはいえ、MR8のメンバーは全員が白人である。果たしてブラジルの人口の何パーセントが白人だというのか? この映画では彼らはヒーローとして描かれているけれど、果たして彼らの理想というものはブラジルの人々の理想と乖離していないといえるのか? さらには、アメリカに対する嫌悪感が彼らの原動力のひとつであるにもかかわらず、ハリウッド映画そのもののような形式で撮るのはなぜか? そのあたりの自己省察が足りないのではないかという気がしてしまう。
 日本にいる我々や、アメリカ(USA)の人たちは、これを見てブラジルに共感する。それはそれでいいだろう。しかし、果たしてブラジルの人々にとってはどうなのか? それを考えずにいられない。
 とはいっても、映画として十分に面白く、メッセージにもそれなりの正当性があり、しかも事実に根ざしたものであるので、見るべき映画だし、見る価値があるくらいに面白い映画ではあります。ポイントはこの映画が送るメッセージがひとつのイデオロギーでしかないことを忘れてはいけないということだけです。

エリン・ブロコビッチ

Erin Brockovich
2000年,アメリカ,131分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:スザンナ・グラント
撮影:エド・ラッハマン
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ジュリア・ロバーツ、アルバート・フィニー、アーロン・エッカート、マージ・ヘルゲンバーガー

 3人の子どもを抱え、仕事を探すエリンはまたも仕事に断られて変える途中、交通事故に遭うが、裁判で負けて賠償金も貰えない。そんな彼女は裁判に負けた弁護士の事務所に押しかけ、無理やり仕事を貰う。その事務所で見つけた不動産書類に疑問を覚えたエリンは独自に調査をはじめ、その裏にある水質汚染の実態を知った。
 史上最高額の賠償金を勝ち取った実在の女性エリン・ブロコビッチを描いたヒューマンドラマ。なんといってもジュリア・ロバーツがはまり役。ソダーバーグの演出もうまい。本物のエリン・ブロコビッチもエリンの家の近所のファミレスのウェイトレス役で出演。

 やっぱりソダーバーグは画面の構成の仕方がかっこいい。最初のエピソードのあと入るタイトル・クレジットも相当かっこいいが、そのイメージを引きずっていると突然交通事故、車2回転みたいな展開もすごくうまい。この人は無駄がないね。2時間を越える映画は多いけれど、その大部分は無駄に時間を引き延ばしているだけ。それと比べるとソダーバーグの時間には無駄がない。「削れば30分短くなるよ」という不満がない。この映画でも、観客は「訴訟に勝つ」という結果をおそらく知っているということを前提に映画が作られているから、いちいち裁判の細かい結果で気を持たせたりはしない。やっぱりソダーバーグはいい監督だ。
 細かい部分のつなぎ方もいい。例えば、エリンがどこかの家をたずねるシーンで、1カット目、ドアに近づくエリンを後ろから撮り、前方にドア。2、3歩あるいて、ドアに着く前にカット、画面が暗くなってノックの音、ちょっと間があってドアが開いて向こう側にエリン。言葉で説明すると何の変哲もないつなぎですが、この流れがすごく滑らか。普通は、ドアまで行ってノックでカット、家の中の人を映してパンでドアまで追ってカット、ドアを正面から撮ってやっと開くという感じ。そういう細かいところも繊細です。おまけにいうと、最後のキャプションというか、事実の部分を述べるところの構成もかっこいいです。
 でも名作ではないですね。1年のスパンで見ると、見るべき映画の一本ということになりますが、名作ではない。頑張れソダーバーグ!
 お話の部分が漏れてしまいました。基本的にはエリン/ジュリア・ロバーツのキャラクター勝ちです。下品で無学で派手な元ミスといういかにも女性に反感を買いそうなキャラクターなのに、非常に母性愛が強くて、正義感も強いという、キャラクター設定(設定ではないのかな?)がすべて。あとはボスのエドさんの気弱そうなところもよし。つまり、ストーリー展開うんぬんよりもキャラで押す。そんなお話だったと思います。

ホーリーマン エディ・マーフィはカリスマ救世主

Holy Man
1998年,アメリカ,114分
監督:スティーヴン・ヘレク
脚本:トム・シュルマン
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:エディ・マーフィ、ジェフ・ゴールドブラム、ケリー・ブレストン、ロバート・ロジア

 ショッピング専門チャンネルのプランナーをやっているリッチーは新社長に売上を増やさなければクビだと宣告される。社長とともに会社にやってきたやり手の美女ケイトと取引先へと向かう途中、車がパンク、そこに変な格好をした“G”と名乗る旅の僧らしい男が現れた。誤って車をバックさせ、Gを卒倒させてしまったリッチーはGを病院に連れて行く羽目に…
 エディ・マーフィには珍しい落ち着いたキャラクター。ジェフ・ゴールドブラムもいつもとは違う情けなさげな男。意外性がなかなか面白い、けっこう笑えるのに未公開。もったいないな。

 結構笑える。予想はつくけど、予想通りのオチというのもそれはそれでよいもの。人間の善悪がはっきりしているのもわかりやすくてよろしい。エディ・マーフィはでしゃばりすぎて失敗している例がこのところ多い(「ブーメラン」や「ヴァンパイア・イン・ブルックリン」)ので、これくらい控えめにでてくれるとうまくいくのかもしれない。コメディアンとしては一流だけれど、プロデューサーとしての才能には疑問というところなんでしょうね。
 それにしても、この映画で事実上主役を張っているジェフ・ゴールドブラム。「ザ・フライ」や「ジュラシック・パーク」や「iMac」でおなじみなだけに、主役を張ること自体には疑問はないのだけれど、こてこてコメディというところがかなり意外。なんとなく眉間にしわを寄せた役どころがイメージなのに。
 こういう「並」なコメディ映画はすばらしいですね。何はともあれ、2時間の間はケタケタと笑えてすごせる。爆笑はしないけれど、何度か笑って、終わってしまえばさっと忘れる。そんな作品がどれくらいあるでしょう。ストックしときましょう。

溺れゆく女

Alice et Martin
1998年,フランス,124分
監督:アンドレ・テシネ
脚本:アンドレ・テシネ
撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ
音楽:フィリップ・サルド
出演:ジュリエット・ビノシュ、アレクシス・ロレ、カルメン・マウラ、ジャン=ピエール・ロリ

 美容院を経営する母親と幸せに暮らしていたマルタンだったが、10歳のとき、母に言われ、会ったこともない父のところで暮らすことになった。20歳になったマルタンは突然家を飛び出し、着の身着のままで盗みまでしながら3週間放浪を続けた。一度警察にまでつかまったあと、転がり込んだ義兄の家で、義兄の同居人アリスに出会った。
 知る人ぞ知るという感じのフランスの監督アンドレ・テシネ。ビノシュとのコンビは「ランデブー」以来十数年ぶり。全体的には濃い感じのラブ・ストーリーだけれど、なかなか物語に深みがあり味わい深い。

 マルタンが父親を殺してしまったのだろうということは映画の中盤くらいまでくれば容易に想像できるが、その背景にあるものがなかなか見えてこないし、その結果、自体がどのようになったのかも予測がつかない。それが明らかになった時にこの映画はなかなかすごいと思わせる。その謎解きの展開や描き方は決して秀逸とはいえないけれど、その物語自体に味がある。人間の心理っていうのはかくも複雑なものなんだと改めて実感させられる。
 あと、この映画で気になったのは、ひとつはピントの効果を非常にうまく使っていること。フレームの中に2人の人がいて会話しているときに、カメラに対して距離が異なるというのはよくあることだが、この映画ではそのシーンで大概片方の人にしかピントを合わせない。そして、そのピントを1カットの中で変えることが多い。しかも、必ずしも話している人にピントが合っているわけではない。これはディープフォーカスで2人ともがはっきりと見えてしまうシーンとは明らかに違う。注目してみるべき表情がひとりに絞られるので、メッセージが伝わりやすい。この方法自体は特に珍しいものでもないですが、結構頻繁に使われていたので、気になったわけです。そしてこの映画ではかなり効果的。
 もうひとつは、移動する人を映すときに、カメラとの間に遮蔽物が入ることが多い。柱とか柵とか壁とかそういったものですが、そういうものにさえぎられて被写体がカメラから度々隠れるというシーンがかなり多かった。この場合は具体的な効果というよりは画面に動きをつける工夫だと思いますが、これもうまく使えば目先が変わっていいのでしょう。これも珍しい手法ではありませんが、なかなかよかったです。

ハピネス

Happiness
1998年,アメリカ,134分
監督:トッド・ソロンズ
脚本:トッド・ソロンズ
撮影:マリス・アルベルチ
音楽:ロビー・コンダー
出演:ジェーン・アダムス、ララ・フリン・ボイル、シンシア・スティーヴンソン、ディラン・ベイカー

 ジョイ、ジョーダン家の三女、なにをやってもうまくいかず、作曲をやっても芽が出ずに30歳。次女ヘレン、不自由なく幸せな生活を送っているはずの売れっ子作家。長女トリッシュ、やさしい夫と幸せな生活を送っているはずの3児の母。
 このジョーダン家の三姉妹と、周囲の奇妙な人々が繰り広げる不思議なファミリードラマ。ひとつひとつのエピソードにはブラックなユーモアがちりばめられ、不思議なリズムで奇妙に全体をまとめた映画。

 個人的な好みで言うと、もっと複雑に絡まっていた方が好きだった。ひとつひとつのエピソードとかセリフなんかは奇妙なユーモアがあってよかったけれど、見ている側には全体像がすっきりと分かってしまうところに少々不満を覚えました。
 でも、ひとつひとつのシーンというかエピソードはなかなかよくて、セリフもすごく面白い。笑えるというのではないけれど、普通とは違うセリフの使い方がとてもいい。普通、息子に「イクってどういうこと?」と聞かれて「やって見せようか」という父親はいない。しかも、そのセリフもただそれだけの面白さを狙ったのではなくて、ちゃんと意味付けがあって使われているというのが非常にいいですね。
 などという細かなところがかなり面白いです。間のとりかたも他の映画にはない感じだしね。このリズムと感性にぴたりと合う人には面白くて仕方のない映画になるだろうということは予想出来ます。

オーロラの彼方へ

Frequency
2000年,アメリカ,117分
監督:グレゴリー・ホブリット
脚本:トビー・エメリッヒ
撮影:アラー・キヴィロ
音楽:マイケル・ケイメン
出演:デニス・クエイド、ジム・カヴィーゼル、ショーン・ドイル、エリザベス・ミッチェル

 1969年、ニューヨークには80年ぶりに見事なオーロラが出現した。その日消防士のフランクはタンクローリーが横転するという事故に遭遇し、間一髪で閉じ込められた人々を救っていた。30年後、ニューヨークには再びオーロラが出現した。警察官となったフランクの息子ジムは偶然見つけた父が愛用した無線機をつけてみた。そこから聞こえてきたのは、30年前に死んだはずの父の声だった…
 親子の変わらぬ関係を描いた感動作。かと思いきや、その交信がもとで起きてしまう様々な事件が物語りの確信となっていく…
 感動作かと思っていくと拍子抜け。でも、意外と面白いですよ、これ。

 やっぱり問題は邦題かな。ある意味ではいい題名なんだけれど、本来の客層を逃してしまったかもしれない。最初のタンクローリーのシーンを見れば、これが感動狙いのヒューマンドラマではないことは一目瞭然なんだけどね。
 そんなことは置いておいて、30年の時を隔てた親子の交信というなんとなく心温まりそうな話も冷静に考えてみれば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を出すでもなく、未来(つまり現在)を変えてしまう危険性を孕んでいることは明らか。「ナイチンゲール事件」もしっかりと69年の時点で複線として出てきていたし。そのあたりの映画の雰囲気の転換がこの映画のすべてといっても過言ではない。あとは映画としてはそれほどすごいものではないし、今までの映画でどこかで見たことがあるようなシーンの連続という感じ。
 だからといってパクリと言う気はありません。しっかりとした映画として作られているし、全体はうまくまとまっているし、火事のシーンには相当迫力がある。ただ目新しさがないというだけ。

ブラッド・シンプル/ザ・スリラー

Blood Simple
1983年,アメリカ,95分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
撮影:バリー・ソネンフェルド
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジョン・ゲッツ、フランシス・マクドーマンド、ダン・ヘダヤ、サム=アート・ウィリアムズ

 真夜中の一本道を走る車の中、酒場で働くレイはボスの妻であるアビーに好きだという気持ちを打ち明けた。そして2人はそのままモーテルへと向かった。しかし翌朝、モーテルの部屋の電話が鳴る。それはアビーの夫マーティだった。
 アビーの浮気を発端にドミノ倒し的に展開されてゆく事件、また事件。デビュー作ながらすでにスタイルを確立させていたことが感じさせる、言い知れぬ怖さと不気味なユーモアにあふれた作品。いまや売れっ子のバリー・ソネンフェルドもカーター・バーウェルもこれがデビュー作とは驚かされる。

 最初の車のシーンから非常にこった作りで、やはりコーエン兄弟は映像的工夫無くしては語れないということを実感。コーエン兄弟の何たるかを知っている今となってはあまりにコーエン兄弟らしい作品に驚かざるを得ない。
 最もコーエン兄弟らしいと感じるのはストーリー。登場人物たちは自らの意志で動いてはいるのだけれど、なんとなく不思議な力に突き動かされてしまうような感覚。しかもそれが悪い方へ悪い方へと進んでいる慣性を持っているのが常。この映画でも「ファーゴ」の誘拐犯たちのように、みながみなはまらなくてもいいはずの深みにはまっていってしまう。なぜそうなってしまうのかはわからないけれど、どうしてもそうなってしまう。その辺の分からなさがやはりコーエン兄弟らしさなのでしょう。そして面白いところ。
 本当は、しっかりとどこがどう面白いのか分析しなければならないのでしょうが、私にはわかりません。分からなさがいいとしかいいようがない。分かってしまう人もいるのだろうけれど、私はわからなくていいです。分からないまま見るからますます分からなくなっていくそんな悪循環?