美少年の恋

Bishonen…
1998年,香港,100分
監督:ヨン・ファン
脚本:ヨン・ファン
撮影:ヘンリー・チャン
音楽:クリス・バビダ
出演:スティーヴン・フォンダ、ニエル・ウー、ジェイソン・ツァン、テレンス・イン、スー・チー

 香港の街で目をひく美少年ジェットは実は男娼。彼はある日、有名議員のJPを引っ掛けたあと、街中で女の子と歩いていた美少年に一目惚れしてしまう。そして偶然した2人は急速に親しくなっていくが…
 二人の関係に、ジェットの同居人で同業者のアチン、人気歌手のKSが絡み合い、複雑な恋愛模様を繰り広げる、いわゆる耽美系のゲイ・ムーヴィー。

 物語としては悪くない。美少年たちは本当に美少年で、『モーリス』や『ビューティフル・ランドレッド』よりも美しいといっていいくらいだ。
 しかし、純粋に映画的に見るといまひとつかな。それも音楽とナレーションに難ありというところ。ラブシーンで流れる妙に荘厳な音楽は最初は狙いかと思ったほどわざとらしく聞こえる。それに、ナレーションは余計。いったい誰なのかわからないし、いっていることも、そんなこと見てればわかるというようなことしかいわない。ナレーションなし、音楽なしなら結構好みの映画だったのにな。
 まあ、でもこれは好みの問題という気もします。映像自体は美少年たちに限らず非常に美しく、特に色使いがすごくいい。サムの家とかすごくヴィヴィッドな色をうまく使って美しい構成です。だから音楽とナレーションが…

ダンサー・イン・ザ・ダーク

Dancer in the Dark
2000年,デンマーク,140分
監督:ラース・フォン・トリアー
脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ビョーク
出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア

 60 年代のマメリカの田舎町、チェコから移住してきたセルマは工場で働きながらひとりで息子を育てていた。つらい中でも、大好きなミュージカルをすることさえできる充実した生活を送っていた。しかし実は彼女は遺伝的な病気で失明しつつあり、息子のジーンもまたその運命になるのだ。セルマは息子に手術を受けさせるために必死で働いていたのだった。しかし…
 カンヌの常連、デンマークの名監督ラース・フォン・トリアーがビョークを主演に迎えて撮ったミュージカル映画。とはいっても、今までのミュージカルの概念を突き崩すという意味で革命的な名作。『奇跡の海』に続いてカメラを担当したロビー・ミューラーの映像もさすがに素晴らしい。

 いきなり3分30秒の黒い画面から始まる映画。もちろん暗い映画館で黒い画面を眺めさせることは盲目の疑似体験だろう。この映画の主人公が視力を失いつつあるという予備知識をもって映画館に入れば、その事実は容易に受け入れられる。しかし、そんな予備知識は追いやって画面に見入るほうがいい。そこでは自分の位置間隔が失われたような感覚に襲われるはずだから。
 そして、映像は手持ちカメラのドキュメンタリー風映像に切り替わる。執拗なクロース・アップと手持ちカメラの移動撮影。短いピントが用いられるときにはそれはセルマの視野を象徴しているのだろう。しかし、執拗な手持ちの映像。さすがのロビー・ミューラーの映像でも飽きが来はじめた頃、カメラが止まる。工場で最初のミュージカルシーンが始まり、フィックスのカメラの短カット(そんな言葉はありませんが)の映像に切り替わる。その変化の激しさを色合いの変化がさらに強調する。
 私はこの瞬間にこの映画に捕えられてしまいました。そこから先はリズムに乗って、手持ちと固定が繰り返される。そこから先はカメラは意識から遠のいて、映画のないようにすっと入り込めた。
 もちろん、周到に計算された設定がこの映画を成功に導いている。観客は他のよりよい方法をそれこそ必死で探そうとするけれど、セルマの選ぶ道に同意せざるを得ないことに気がつく。そのストーリーテリングの巧妙さも注目に値する。 しかし、結局のところこの映画はカメラとビョークに主役の座を譲る。つまり映像と音に。
 しかし、あえて難をいうとするならその映像かな。中盤あたりはもっといじってもよかったかなという気もします。具体的にいうと、セルマが視力を失ったということを実感できるような映像的工夫がひとつ欲しかった。焦点の短さがセルマの視野狭窄を象徴しているならば、セルマが視力を失ったということを象徴するようなシーンが、あってもよかったなという感じです。
 でも、ラストのクライマックスはすごくよかった。最後のシーンは現実とミュージカル(あくまで便宜的区別ですが)を融合させるシーンであるわけだから。色合いは現実でカメラはフィックス(つまりミュージカル)。よいです、非常に。

さよならS

Le Petit Vouleur
1998年,フランス,63分
監督:エリック・ゾンカ
脚本:エリック・ゾンカ、ヴィルジニー・ヴァゴン
撮影:ピエール・ミロン
音楽:ジャン=ジャック・フェラン
出演:ニコラ・デュヴォシェル、エミリー・ラファルジェ、ジャン=ジェローム・エスポジト、ジョー・プレスティア

 オルレアンのパン屋で働く18歳のSは代わり映えのしない日常に苛立ちを募らせ、遅刻を繰り返したためにパン屋をクビになる。その夜恋人のアパートに泊まったSは恋人の給料を盗み、マルセイユへ向かった。そこでボクシングジムを経営するギャングの仲間になり悪事に手を染めていった。
 「天使が見た夢」が話題を呼んだエリック・ゾンカの監督第2作。いわゆるギャング映画ではなく、少しノワールな青春映画。

 誰もが感じるある種の閉塞感を映像化したというイメージの作品。Sがいらだち、いきがっているだけだということが最初のあたりで何とはなしに明らかにされる。これがこの監督のやさしさか。実際のところSはかなり卑怯なことをし、悪事をやることにそれほど躊躇を覚えないようなのだが、それがSの本質ではないことは最初の設定でわかっているから、安心してみていられる。
 だから全体としては暖かな雰囲気の映画で、ギャングを扱った映画だという緊迫感は皆無。この映画はギャング映画ではなくて青春映画だからそれでいいのだけれど。
 だからかどうかはわかりませんが、画面も全体に明るい。
 いい映画なんですが、なんとなくどっちつかずというか、とらえどころがないというか、漠然としていて明確な何かがないという感じはしました。でもそれは複雑なもの(言ってしまえばSの「心」)を複雑なまま包み込んでいると解釈することも出来るので、それが一概に「浅い」ということも出来ないのでもありますが…

カノン

Seul Contre Tous
1998年,フランス,95分
監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ギャスパー・ノエ
出演:フィリップ・ナオン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・パイン

 前作「カルネ」の物語が最初プロローグ的に挿入され物語は始まる。カフェの元女主人と田舎に引っ込んだ元馬肉売りの男は女が約束の店を借りてくれないことに不満を募らせる。男は夜警の仕事をはじめるが、ある日その不満がついに爆発し男は家を飛び出した。
 前作とほとんど同じ映画の構成で、相変わらず斬新で暴力的な映画。特に独特の音響がショッキング。前作より長くなったせいか、一つ一つの構図のこだわりが弱くなったような気がしてしまうのが残念。

 ドラのような音でリズムを作ってカットを割っていく最初のほうの構成は前作とほぼ同じで最初のあたりはかなりいい感じ。しかし、そのドラのような音が銃声に変わり、観客を驚かせる。それはそれでいい。しかし、それが度重なると、暴力的でただ過剰な騒音になりかねない。個人の感性にもよるが、私にはちょっと過剰で耳障りに感じられてしまった。そんなことをしなくても出来ただろうにと思ってしまう。というのも、元馬肉売りの男が田舎からパリへと向かうトラックの中の大音響の音楽は決して耳障りではなかったから。
 そのあたりでちょっと映画への没入をそがれたものの、全体として悪くない。クライマックスのホテルの場面なんかはものすごい緊張感で圧倒された。この監督の緊迫感を作り出す力はすごい。
 さてそのあたりは置いておいて物語に話を移すと、ほぼすべてが男のモノローグで展開されるこの物語はとにかく暗い。「モラル」というものをテーマにし、それを徹底的に否定的にとらえ、「モラル」とは金持ちを助ける価値観でしかないと断罪する。あまりにそれを徹底しすぎているがゆえに、もと馬肉売りの男の行動は嫌悪感さえ催させる醜悪さを露呈するが、それはある程度の真理を語ってはいるのかもしれない。映画の冒頭ですべての「モラル」に挑戦すると宣言したギャスパー・のえの言葉は決して嘘ではなかった。我々が男の行動に嫌悪感を催すということは、我々もまた腐った「モラル」に浸りきったブルジョワでしかないということを意味するのかもしれない。
 この映画の居心地の悪さにはそのような罠が隠されているのだと私は思う。だから見ることの苦痛を覚悟しながらも、この映画を見ることには意味があると私は言いたい。

陸軍中野学校

1966年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:星川清司
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、早川雄三、E・H・エリック

 会田次郎は陸軍士官学校を卒業し、婚約者に送られた軍服を着て晴れて中尉として入隊を果たした。しかし会田が配属された連帯の草薙中佐におかしな質問を受け、いく日か経ったある日出張を命じられた。しかし、行ってみるとそこには士官候補生ばかりが18人集められ、スパイになるための教育を受けることを命じられたのだった。そして彼らはスパイになるため名も捨て、家族も捨て、将来も捨てた。
 勢いがあってクレイジーなストーリーがなんといってもすごい。人気シリーズとなりその後何本か続編が作られたが、増村保造は監督はしていない。

 本当にものすごい話。本当の話かどうかはわからないが、映画を見る限りでは戦争当時語られた話を基に作られたようだ。とにかく圧倒されてしまったが、とにかくクレイジー。それも挙国一致の軍国主義的なクレイジーさではないところがすごい。そしてその徹底振りがすごい。まったく人間性の入り込む隙間がないという感じであるのに、じつは中心にいる草薙中佐はひどく人情深い人間であるということ。決して人を人とも思わない非情さではない非情さであるところがすごい。
 む、このレビューはまとまらない予感がします。なので、とにかく思いついたことを羅列。
 草薙中佐の話し方が早い。初期の作品を思い出させるような早い台詞回し。それもまたクレイジーさあるいはストイックさを強調する。
 増村の映画には時折非常に無表情な登場人物が出てくるが、この映画の市川雷蔵もそのひとり。もちろんスパイという役柄だからだろうが、とにかくまったく表情がない。あるとすればかすかに眉間にしわが寄るくらい。しかしそこには常に緊迫感が漂い、迫力がある。
 草薙中佐のコンセプトがすごい。しかし、よく考えてみると、陸軍そのものをひっくり返すとか、植民地を解放するとか、今から考えればすごい説得力のあることだけれど、当時はひどく突飛というか、ある種、反逆的な発想だったんじゃないかと思う。それなのに生徒たちがついてきてしまうというのは、物語としておかしいの?でも、見ている時点ではまったくそんな疑問は浮かばなかった。

はつ恋

2000年,日本,115分
監督:篠原哲雄
脚本:長澤雅彦
撮影:藤澤順一
音楽:久石譲
出演:田中麗奈、原田美枝子、真田広之、平田満、佐藤充

 予備校に通う聡夏(サトカ)は突然母が入院することを知らされる。一時退院したとき、母が戸棚の奥から取り出したオルゴール。鍵がなくなってあかなくなってしまったそのオルゴールを残し再入院した母。サトカはそのオルゴールをこじ開けた。その中には母がそのむかし藤木真一路という人に出せなかったラブレターが入っていた。サトカはその人を探しに母の郷里へ向かった。
 田中麗奈が主演、篠原哲雄が監督と話題性は十分のハートウォーミング・ストーリー。ゆったりと、しかし退屈せずに見られる佳作です。

 特に苦言を呈するべきこともございませんが、ちょっと細部がずさんかなと。ペースはゆったりとしていて、日本映画らしい日本映画なんですが、小津のような(小津までやれといっているわけではありませんが)繊細さが足りない。例えば25年前の手紙があんなにきれいなはずないとか、そういうことです。要するに「汚し」が足りないということです。
 しかし、それはこういったゆっくりとした「見せる」映画にはつき物のことです。アクション映画とか勢いで見せる映画は1カットも短いし、そんな細部に目をやる暇はないけれど、この映画のように長回しを使ったりすると、そんな細部がどうしても目に入ってきてしまう。だから小津のように、徹底的に「汚さ」ないといけないわけです。
 そういう細部を置いておけばこの映画かなりいい。はっとさせられる美しいショットがあったり(桜とか、田中麗奈が雨の中走っていくとことか)、なるほどと思わせるエピソードがあったり(ダムに沈んでることや、友達を母の身代わりにすることとか)、カメラの使い方にも工夫があったり(真田広之が病院に行くところが主観ショットになっているとか)、うまい作りです。

100万回のウィンク

Home Fries
1998年,アメリカ,94分
監督:ディーン・パリソット
脚本:ヴィンス・ギリガン
撮影:ジャージー・ジーリンスキー
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ドリュー・バリモア、ルーク・ウィルソン、キャサリン・オハラ、ジェイク・ビューシイ

 ハンバーガーショップに勤めるサリーは妊娠しているが、父親の男にじつは妻がいることがわかり、別れを告げる。ドライブする-でそれを告げられて男は仕方なく家へと向かうのだが、その途中で突然武装ヘリに襲われ、命を落としてしまう。そのヘリとバーガーショップの無線が混線し、さらにそのヘリに乗っていたのはじつは…
 というストーリーからは想像出来ないけれど、これはコメディ(だと思う)。わけのわからないはちゃめちゃな展開も監督のディーン・パリソットが「ギャラクシー・クエスト」の監督と聞いて納得。

 まず、最初に感じたのはおかしくしようとしているのはわかるけれど思い切りが足りない、ということ。死体を発見した保安官が、妙な歩き方をしながら去っていくあたりから「おかしいな」と思い、どんどんおかしくなっていく。「サスペンスかな」と思わせるんだけれど、事件がおきればそのままほって置かれ、謎解きは行われない。
 でも、けっこう面白い。不思議な映像が時々美しい映像を生み、センスが感じられたりする。たとえば、サリーがタンクの前を歩く場面や、ドリアンがサリーの家に行ってドア越しに話し掛ける場面、サリーの弟が画面の右側に座っていたりしてなんだか絵画的。
 そして、最後の展開も意外な感じ。しかし、もう一歩。サリーの家を爆破しちゃうとか、車の中で子供が生まれちゃうとか、バズーカを取り出して地球を破壊するとか(あ、それは違う映画か!)、そんなのがあってひとつ壁を乗り越えればDOA並とは行かないまでも、それに近いレベルにはいったかもしれないのに、惜しいことをした。

美貌に罪あり

1959年,日本,87分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:田中澄江
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:杉村春子、山本富士子、若尾文子、川口浩、野添ひとみ、川崎敬三、勝新太郎

 東京近郊で花の栽培をしている吉野家に東京で踊りをやっている長女菊枝が踊りの師匠を連れてたずねてくるところから映画は始まる。物語は次女敬子、使用人の忠夫と周作、忠夫の妹かおる、などなど山ほどの登場人物が出きて、さまざまな恋愛模様を展開する。
 増村には珍しい群像劇でヒューマンドラマ。あまり増村的ではなく、大映的でもないように見えるのは杉村春子の存在感か。しかし、増村をはじめてみるという人には気軽に見れる一作かもしれない。

 いまから見ると本当に「増村らしからぬ」と見えてしまう。お涙頂戴のヒューマンドラマ、誰が主人公ともわからない群像劇、ゆったりとしたテンポの物語、そしてハッピーエンド。
 しかし、面白くないかといえばそんなことはない。これだけいい役者がそろって、とてもいい話。映像も自然で映画の世界にすっと入り込める。
 しかししかし、増村を見に行った私には物足りない。もっとすごいもの、もっとすさまじいものを期待して来ているのだから。だからあえて言えば、これは増村にとって初期から中期への過渡期の作品なのだと。初期の「超ハイテンポ日常活劇」から、中期の「男を狂わす女の映画」への。そう思わせるところはいくつかある。
 ひとつはこの映画の主人公ともいえる3人の女性のキャラクター、山本富士子・若尾文子・野添ひとみ、だれもが自分の信念は曲げない強さを持ち、最後には男を自分のものにする女性。しかし、男に頼らずに入られない弱さも併せ持つ女性。それは中期の「男を狂わす女たち」へつながら女性像。
 もうひとつは、フレーミング。川口浩と若尾文子が盆踊りを見ているシーン、川口浩がほぼ真中にいて、画面の右端に若尾文子、川口浩は後ろ向きで立ち、若尾文子はこっち向きでしゃがんでいる。そして主にしゃべっているのは若尾文子このしゃべり手が画面の端にいるというフレーミングはこの頃から以後の増村保造に特徴的なフレーミングである。
 そんなこんなで、(大映時代の)初期から中期への過渡期の作品と勝手に位置付けてみました。

カルネ

Carne
1994年,フランス,40分
監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ドミニク・コラン
出演:フィリップ・ナオン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・バン

 馬肉の店を経営する男。妻は娘を置いて家を出た。それ以来ひとりで娘を育て、男は娘を溺愛した。娘は非常に無口だった。
 最初からテキストから始まり、馬の屠殺シーンが続く。冒頭から普通の映画ではないことを主張するこの映画は、どこかゴダールのような雰囲気があり、しかし明らかにそれとは違うオリジナルなリズムを持っている。実験的ではあるけれど、決してわけがわからないわけではなく、物語自体にも十分魅力がある。40分という時間に凝縮された世界はかなりすごい。

 最初のうちは文字画面がけっこう使われて、そこに効果音があってゴダールっぽい(特に娘の成長を追って月日が経って行くところ)。しかし、全体的な雰囲気はゴダールのポップ(といっていいのかな?)な雰囲気とは違い薄暗い感じ。 それでもかなり傾向として似ているのかなという感じを受けるのは、構図へのこだわり。この作品で何はともあれ最も気になるのは顔のない構図。あるいは顔の下半分の構図。会話の切り返しなんかでも、鼻から下だけを映して切り返しをしたりする。それは非常に目に付く。始まってからしばらくはまったく顔が映らないということもあるし。
 そのあたりはかなり面白い。そして、それで明白な何かを伝えようとするよりはなんとなく不思議な感じを与える、ほの暗い感じを与える効果を生む。それは奥行きの表現の仕方にもいえる。普通、奥行きというのは画面の真中の線を基準に表現されるのだけれど、この映画では斜めに奥行きがよく使われる。簡単に言えば、道が画面の左下から右上に伸びているような画面。素直な表現だと道は画面の左右か上下に伸びるものだが、この映画では斜めであることが多い。ここにもひとつの作為が感じられる。この構図の感じは… 行き詰まっている感じかな。 どうも、「感じ」という表現が多くなってしまいましたが、それはこの映画が感性のというか抽象的な映画であるから。それは何かを説明しようというのではなく、感知させようとする映画であるから。言葉や人間の行動で人間の感情や心理を表現するのではなく、構図やつなぎで表現する映画であるからです。だから娘はしゃべる必要はない。

KAFKA/迷宮の悪夢

Kafka
1991年,アメリカ,99分
監督:スティーブン・ソダーバーグ
脚本:レム・ドブス
撮影:ウォルト・ロイド
音楽:クリフ・マルティネス
出演:ジェレミー・アイアンズ、テレサ・ラッセル、アレック・ギネス、イアン・ホルム

 何者かにおわれる男。男は甲高い笑い声を上げる異様な男に殺されてしまう。その男エドゥアルドは保険局に勤めるカフカの同僚で友人だった。役所に姿を見せないエドゥアルドを心配に思ったカフカは彼の友人に尋ねたり、彼の家に行ってみたりするのだが、彼の行方はつかめない。そんな時、カフカは警察に連れて行かれる。そこにはエドゥアルドの死体があった。
 フランツ・カフカを彼自らの作品世界に入り込ませるような形でフィクション化した作品。カフカの作品世界や実人生のエッセンスがそこここにちりばめられているが、まったく実人生とは関係ないサスペンス映画。

 全体のイメージは明らかにカフカの『城』をモチーフにしているのだが、必ずしもカフカの物語世界を映画として表現しようとしたわけではない。この映画にはカフカの作品が落ち込むような迷宮は存在していない。あるいは存在しないものとされている。ソダーバーグはカフカを利用してどのようなメッセージを伝えようとしているのだろうか? 明らかにソダーバーグはカフカが好きだろう。それはカフカの作品やカフカの人生に関するエピソードがそこここにちりばめられていることからもわかるし、ムルナウ博士がカフカに「君こそが新しい時代だ」みたいなことを言ったところなんかで示唆されているように見える。
 しかし、ソダーバーグとしてはかなりの苦悩があったように見受けられるのも確かだ。この映画は決してカフカ的世界を描いてはいない。カフカ的世界の象徴的な存在である「城」が登場しはするが、それはカフカ的な意味での「城」では決してない。すべての悪夢の源泉であり、しかし決して近づくことが出来ないようなものとしての城ではない。
 そこがこの映画の微妙なところで、「城」をどのように解釈するのかということが問題になる。端的に言ってしまえば、カフカの夢なのか、それとも現実なのか? ということ。つまり「城」は悪夢の源泉であるのか、それとも悪夢そのものなのか? ということ。それを解く鍵は白黒とカラーという対比にあるのだろうと思うが、夢と現実、果たしてどちらがカラーなのか? と考えると、それは必ずしも説く必要のない問いであるように思われてくる。