こわれゆく女

A Woman under the Influence
1974年,アメリカ,145分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:マイク・フェリス、デヴィッド・ノウェル
音楽:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ピーター・フォーク、マチュー・カッセル、ニック・カサヴェテス

 ニックは労働者仲間のリーダー格だが、神経症気味の妻メイベルを持て余し気味。しかし、妻を愛していることに疑いはない。そんな2人がゆっくりと過ごそうと三人の子どもを母親に預けた日、突然の落盤事故でニックは帰れなくなってしまった。神経が高ぶったメイベルは徐々に様子がおかしくなり、バーで出会った男を家に連れ込んでしまう…
 いかにもカサヴェテスらしい、落ち着きのない物語。愛と狂気というテーマをそのままフィルムに焼き付けたという感じの生々しい映画である。ピーター・フォークとジーナ・ローランズがなんといっても素晴らしい。

 カサヴェテスが描くのは、自己と周囲との齟齬感であるのかもしれないとこの映画を見てふと思う。あらゆるものから疎外されている感覚がそこにはある。メイベルはもちろんのこと、登場するすべての人物が疎外感を感じている。子ども達でさえもそう。だから、あの海への旅があれほどぎこちないものになってしまう。メイベルの狂気とは、そんなすべての人が感じている疎外感・齟齬感の鏡として存在している。だから、みながメイベルを見て不安になり、他方でメイベルに愛情を感じる。それを最も端的に表しているのはニックの母であり、彼女はある意味でメイベルの対極にあるのだろう。彼女の無神経なころころと変わる態度は、その疎外感や齟齬感を自己の中で解決しようとするのではなく、他人になすりつけることから来るのだろう。
 カサヴェテスの映画はそういったことが(直接にはいわれていないにもかかわらず)伝わってくる映画だ。
 そしてカサヴェテスの映画はそんな物語に引っ張られて、画面を冷静に見ることが出来ない映画でもある。面白いフレームがたくさんあって、「あ、カサヴェテス!」という映像があるのだけれど、いざ冷静に見てやろうと思っても、結局物語のほうに引き込まれてしまって、見ることが出来ない。今回、一番頭に残っているのは、ピーター・フォークがフレームの左側にいて、背中と右手だけが映っていて、奥のほうにジーナ・ローランズとその父がいる場面。そのフレームの配置はすごくよい。ピーター・フォークの手もすごくよい。

愛の奇跡

A Child is Waiting
1963年,アメリカ,102分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:アビー・マン
撮影:ジョー・ラシェル
音楽:アーネスト・ゴールド
出演:バート・ランカスター、ジュディ・ガーランド、ジーナ・ローランズ、スティーヴン・ヒル

 知恵遅れのための施設に連れてこられた一人の少年ルーベン。その施設はクラーク博士のもと新しい試みを行っていた。そこに新任の音楽教師ジーン・ハンセンがやってくる。ジーンはルーベンには2年間面会が来たことがないと聞き、徐々に彼に愛情を注ぐようになるが…
 「手錠のまゝの脱獄」などで知られるスタンリー・クレイマーのプロデュースによって、カサヴェテスが監督した作品。前作の「アメリカの影」とはうって変わって非常にオーソドックスなつくりになっているのは、カサヴェテスの思い通りには撮れなかったことを意味しているのだろう。

 時代もあるのだろうけれど、差別意識というか、精神病者や知恵遅れに対する意識の違いというものを感じる。だからというわけではないですが、映画そのものにあまり入り込めない。こういうなんだか行き先のはっきりしているストーリーだとカサヴェテスのよさが消されてしまうというか、カサヴェテスの荒っぽさが逆にあらに見えてしまって、ただ退屈になってしまう。時折カサヴェテスらしいカットがあったりするのだけれど、なんとなく退屈な感じです。
 なかなか表現するのは難しいですが、カサヴェテスの緊迫感が全体的に緩められてしかも単調になったという感じ。

アタック・ナンバーハーフ

Satree Lex
2000年,タイ,104分
監督:ヨンユット・トンコントーン
脚本:ビスッティチャイ・ブンヤカランジャナ、ジラ・マリゴール、ヨンユット・トンコントーン
撮影:ジラ・マリゴール
音楽:ワイルド・アット・ハート
出演:チャイチャーン・ニムプーンサワット、サハーバーブ・ウィーラカーミン、ゴッゴーン・ベンジャーティグーン

 またもバレーボールチームの選考におちてしまったオカマのモン。実力は十分なのにオカマであるがゆえにはずされてしまう。悔しさを抱えながらモンは親友のジュンとバンコクに行くことにした。しかし出発直前、県選抜チームが選手を募集しているというので行ってみると、そこにはオナベの監督が。見事選考に通ったジュンとモンだったが彼らが入ったことで選手たちは辞めてしまい、ジュンとモンは昔の仲間に頼みに行くことにする。
 1996年、タイで実際にあったオカマのバレーボールチームを映画いたコメディ。スタンスとしては「クール・ランニング」ですね。かなり笑える。問題もちゃんと捕まえている。B級テイストも盛り込まれ、「これは見なきゃ!」といえる作品。

 ちょっと物語の進行がまどろっこしい感がある前半がなければ素晴らしかった。前半の何が悪いのかというと、いまひとつ的が絞りきれていないところ。観客としては彼ら(オカマたち)をどう見ていいのかちょっとわからない。主人公なのだから、そこの肩入れしてみるのが普通なのだけれど、この映画のつくりとしては、彼らは反感をもたれる存在として描かれている。それはおそらくオカマに反感を持つ観衆を想定しての描き方なのだろう。
 だから、最初から彼らに肩入れしてみると、彼らへの反感を取り除いていく過程の部分がまどろっこしい。それを回避するためには登場人物の一人を反感をもつ人間の代表としていれて、その登場人物が彼らにシンパシーを感じていくという過程を描くのが最もらくな方法で、この映画ではチャイがその役回りとして使われているのだと思うけれど、彼は最初からオカマをそれほど毛嫌いしていないので、いまひとつね。
 というところが少々難点ですが、そんな過程を越えて、サトリーレックを応援するところまで行ってしまえば、ただただ笑うだけです。偏見を持つ人のほうを逆に笑い飛ばすという方法も非常に効果的です。そして最後の最後に来て映画の面白さは一気に加速。映画の最後の15分くらいからエンドクレジットまではひと時も目が離せない。謎のB級特撮あり、エピローグも、エンドロールも最高です。

キャラバン

Himalaya – l’enfance d’un chef
1999年,フランス=ネパール=スイス=イギリス,108分
監督:エリック・ヴァリ
脚本:ナタリー・アズーレ、オリヴィエ・デイザ、ルイ・ガルデル、ジャン=クロード・ギルボー
撮影:エリック・ギシャール、ジャン=ポール・ムリス
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ツェリン・ロンドゥップ、カルマ・ワンギャル、グルゴン・キヤップ

 ネパールのある村、黄金色に輝く麦畑、そこに村のキャラバンが帰ってきた。しかし、先頭のヤクの上には一つの死体が、それは今の頭領で主人公の少年ツェリンの父であった。次の頭領は最も有能な若者カルマにすんなり決まるかと思われたが、長老でツェリンの祖父であるティンレが一人反対する。彼はカルマを息子の仇と見ていたのだった。
 壮大な自然の風景をオールヒマラヤロケで映像化したアドヴェンチャー・ドラマ。本当に映像は美しく、圧倒的な自然の力が迫ってくるようだが、ドラマとしては普通の出来かもしれない。

 結局のところ、舞台がヒマラヤになったというだけで、権力争いのドラマをそのまま移植しただけという気がしてしまう。占いだとか、僧院だとかという要素が出てきて、それが実際のネパールでは非常に重要な要素であるということはわかるのだが、ここではある種オリエンタリズム的なエキゾチックな要素として取り上げられてしまっているような気がして気に入らない。そこにどうにも胡散臭さを感じてしまう。
 実際のネパールの状態はわからないが、あれだけ厳しい自然と対立している世界で一人の人間があれほど大きな権力を握るというのはありえないような気がする。もっと民主的な指導体制があると考えるほうが自然なような気がする。そのあたりがかなり疑問。
 しかし、映像はすごいですね。最初のヤクを下から撮った映像からかなりすごいし、続く麦の黄金色の輝きとか、美しいの一言に尽きるという感じ。空も、湖も青く、ヤクが湖に落ちていくところとかもすごくいいのです。なんとなく空気の透明感が伝わってくるような感覚。それだけ、といっては失礼ですが、最大の見所が映像であることは間違いない。

女の勲章

1961年,日本,110分
監督:吉村公三郎
脚本:新藤兼人
撮影:小原譲治
音楽:池野成
出演:京マチ子、若尾文子、中村玉緒、叶順子、田宮二郎、船越英二

 新設の洋裁学校に入り込んだ胡散臭い実業家銀四郎は実務では手腕を発揮して、学校をどんどん拡大していく。胡散臭いと思いながらも銀四郎のペースに巻き込まれていってしまう院長と一番弟子たちを描いた、濃い目のドラマ。
 昨年11月にこの世を去った吉村監督の作品の中でも、比較的マイナーな作品だが、出演者陣は豪華。ドラマが濃密で、いやむしろ濃密過ぎて110分という時間がかなり長く感じられる、充実した作品。

 吉村公三郎は光の作家であるとこの映画を見て思った。冒頭のシーンからずっと後姿だった銀四郎が振り返っても、彼の顔に光は当たらず、逆行の中去ってゆく。
 しかし、最初のうちはそんな光加減よりも、セリフの多さに圧倒され、物語についていくのに必死である。しばらく経ってそれが落ち着くと見えてくるのは光。特に逆行を使って顔を影にする効果(どことなくヒッチコックを思わせる)はこの映画の最も特徴的機名部分といえるだろう。
 その他にも光を意識させる部分が多くでてくる。たとえば灯りの着いた部屋を暗い廊下側から眺める場面など、壁の部分が完全に黒く、明るい部屋との対比をなしている。この「壁」は増村もよく使う方法だが、増村の場合光を利用するというより、例えば画面の右半分を壁でふさいでしまうなどして構図に工夫をするために使う。吉村の場合は大概部屋は画面の真中にあり、光と影の対比が強調されている。
 もう一つ印象的な光の使い方は、暗い部屋や廊下に差し込む光が顔を照らすというもの。ある意味では陳腐な方法だが、スポットのように照らされた顔に浮かぶ表情はやはり非常に印象的である。他にも夜には窓の外に必ずネオンサインがあったり、「光」を使った演出が非常に多く、しかも巧みである。

フェイシズ

Faces
1968年,アメリカ,128分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:アル・ルーバン
音楽:ジャック・アッカーマン
出演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセル、リン・カーリン

 ある会社のオフィス、社長が幾人かの客を出迎えて、映画を見せる。その映画が「FACES」。映画はこの劇中劇として進むが、映画を見せる社長自身が主人公リチャードである。
 リチャードは友人と娼婦ジェニーの三人でのんだくれ、楽しい一夜を過ごす。その日は何もせずに帰ったリチャードだったが、ジェニーに惚れ込み、次の日には妻につい「離婚しよう」と言ってしまう…
 カサヴェテスが家を抵当に入れ、俳優業で稼いだ資金をすべてつぎ込み、ボランティアのスタッフに頼り、完全独立資本で作成したインディペンデント・フィルム。この映画を見ると、映画というものが一回性のものでもう二度と同じ物は撮れないのだということを実感させられる。

 「フェイシズ」という題名の通り、執拗に映し出されるのは顔・顔・顔、しかも周到に用意された空虚な笑い、その笑いがクロースアップで繰り返し々映し出される様はいらだたしい。しかし、そのいらだたしさは、快感へ向けた茨の道。「アメリカの影」でも述べたように、カサヴェテスのフィルムの魅力の一つは前半の苛立ち・焦燥感にあると私は思う。だからその焦燥感が映画の3分の2、下手すると4分の3にわたっても決して苦痛ではない。
 そして、ようやく快感がやってきたのはリチャードがジェニーと二人っきりになれた場面。そして、納得がいったのはその次の朝、リチャードが「普段の君を見せてくれ」と言い、「真面目なんだ」とそれこそ真面目な顔でつぶやくシーン。その瞬間私の頭の中ではそれまでのシーンが一気にフラッシュバックされ、あらゆる笑い顔の奥の真の意味に気づく。「フェイシズ」の複数は、いろいろな人々の顔ではなく一人の人間の複数の顔を意味している。彼らの笑い顔のあけすけな空虚さはこのときのために周到にしつこいまでに繰り返されたのだということ。
 つづく妻のエピソードはそんな考えを強化する。妻のマリアだけが複数の顔を持たない。夫にもチェットにも同じ顔で接する。そしてチェットは複数の顔を持つ男。このシーモア・カッセルはかなりいい。顔を歪ませるような笑顔がなんともいえない。

オール・アバウト・マイ・マザー

Todo sobre mi Madore
1998年,スペイン,101分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、アントニア・サン・ファン、マリア・パレデス、ペネロペ・クルス

 マドリードで最愛の息子エステバンと2人で暮らすマヌエルは息子の17歳の誕生日に、芝居を見に行く。エステバンは大好きな女優ウマ・ロッホのサインを貰おうと土砂降りの中楽屋口で待っていた。そんな息子に、秘密にしていた父親の秘密を話そうとしたとき、楽屋口からウマが出てきて、タクシーに乗る、そのタクシーを追ったエステバンの後ろから一台の車が…
 カルト映画の巨匠として活躍してきたアルモドバルがついに放ったメガヒット。決して商業主義に走ったわけではなく、一皮向けたアルモドバルの映画がそこにはある。基本的には感動物語という感じだが、それだけではとどまらない深みをもった映画。

 この映画の切り口はたくさんありそうだ、一番よく言われるのは「女性」ということ。もちろんアルモドバルは映画の最後ですべての女性たちに献辞を捧げたのだから、これが「女性」の映画であることは確かである。しかしそれは必ず「女性」(カッコつきの女性)でなくてはならない、あるいは「本物の女性」でなくてはならない。アグラーダが舞台の上で言った「本物の女性」。そんな「本物の女性」のための映画なのだ。私がその「本物の女性」のイメージにぴたりとくるのは、この映画の中のマリサ・パレデス、そして献辞が捧げられていたひとりであるジーナ・ローランズ。
 おっと、あまり書くつもりじゃなかった「女性」の話にいってしまいましたが、要は同性愛者だとか何だとかそんな意識は捨てちまえということです(飛躍しすぎ)。その同性愛という部分(それはあからさまにはでてこないのだけれど、この映画の登場人物たちはみんながみんな少なからぬ同性愛的セクシャリティを抱えている)が非常に自然に映画の中に取り込まれているのもすごいところです。アルモドバル自身、ホモセクシュアルだという話ですが、だから描けるということはいえないわけで、同性愛に関する何らかのメッセージをあからさまにこめようとすると監督たち(ホモでもヘテロでも)とは明らかに違う力があります。
 さて、この映画は物語だけでなく、映像的にもかなりいいですね。音楽もいいし。映像的に言うと、接写が多い。クロースアップというよりは接写。これはかなり大画面を想定した設定だと思いますが、不思議なものをクロースアップしてみたりする。よくわからないものとかね。あとは構図ですね。特に人の配置が面白い、立っている人と寝ている人とか、立っている人と座っている人といった対比的な配置の仕方をしたり、鏡を使ったりすることで、構図に立体感が出というか、縦横斜めにいろいろな流れが出来る。たとえば、ウマがマヌエルの部屋にやってきた場面で、マヌエルとロサがソファーにいて、ロサがねっころがっている。そうすると、ロサの上には必然的に空白の空間が出来てくるわけで、その人と空白のバランスがとてもいいのですよ。そう、そういうこと。

クッキー・フォーチュン

Cookie’s Fortune
1999年,アメリカ,118分
監督:ロバート・アルトマン
脚本:アン・ラップ
撮影:栗田豊通
音楽:デヴィッド・A・スチュワート
出演:グレン・クローズ、チャールズ・S・ダットン、リヴ・タイラー、ジュリアン・ムーア、クリス・オドネル

 小さな田舎町、もういい年のウィリスは今日も酒場で酒を飲み、小ビンを一本失敬して、窓から家に侵入。戸棚から銃を取り出し… しかし、そこは大の仲良しクッキーの家。クッキーに銃の手入れをすると約束していたのだった。
 そんなのどかな町に一つの事件が…
 アルトマン流サスペンスコメディ。  アルトマンの作品はいつでもどこでも安心してみることが出来る。わかりやすい筋、適度なスピード、好ましいキャラクター設定、どこをとっても平均以上。アルトマンの作品の中でも平均以上。でも、傑作には…

 どうしてこんなに安心してみていられるのか? 最初からのんびりとしたペースで始まり、しかしそれなりに複雑な筋立てが出来ていき、ちょっと緊迫したりするけれど、結局のところそれがちっとも深刻ではない。グレン・クローズはひとり悪役を引き受けることで、全体はすっとまとまり、なんとなく顔に浮かんでくる微笑に満足しながら最後までそっと見守る。そんな映画。
 やはり、チャールズ・S・ダットンとリヴ・タイラーのコンビがいいのでしょうね。もちろんブルースハープとギターの音も効果的だし、カット割とかも巧妙に計算されているし、光の使い方がすごくきれいだし、それはそれでいいのだけれど、結局この2人の存在感とほのぼの感を後押しするものでしかないような気がする。
 しかし、意外とこの映画は好みに左右されるのかもしれない。このアルトマンのペースがまどろっこしいと思う人も多いかもしれない、本筋と関係ない芝居の話や、芝居のせりふが執拗に挿入されるのにもなじめないかもしれない。しかし、その余分なところがアルトマンの映画には重要で、その余白(では必ずしもないのだけれど)が作り出す転調がアルトマン映画の命。
 ところで、カメラマンの栗田豊通さん、私は知らなかったんですが、ハリウッドで何本かカメラを持ち、昨年は御法度のカメラをやったらしい。それほど際立って美しいとか面白い映像を撮っているわけではないですが、映像が澄んでいる感じで、なかなかいいんじゃないでしょうかねぇ?

アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。