ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

赤ちゃん教育

Bringing Up Baby
1938年,アメリカ,102分
監督:ハワード・ホークス
脚本:ダドリー・ニコルズ、ヘイジャー・ワイルド
撮影:ラッセル・メティ
音楽:ロイ・ウェッブ
出演:ケイリー・グラント、キャサリン・ヘップバーン、チャーリー・ラグルス、メイ・ロブソン

 恐竜学者のデヴィッド・ハクスリーは研究仲間のアリスと明日結婚する予定だった。デヴィッドは研究所の資金集めのため接待ゴルフに出かけるが、そこで人の球を勝手に打ち、人の車に勝手に乗るスーザンに出会う。デヴィッドは彼女のおかげで接待をめちゃくちゃにされてしまった…
 ハワード・ホークス、ケーリー・グラント、キャサリン・ヘップバーンというハイウッド黄金期に輝くスターがそろったスクリューボールコメディの名作。次から次へと繰り出される展開に圧倒される。今から見れば、定番の笑いの形の連続だが、それは逆にいえば、このころのコメディが現在のコメディの原型になっているということ。

 今見ると、爆笑ということはない。大体次の笑いの展開は読めるし、オチも読める。そして見終わって、「何かどリフみたいだな。」と思ったりする。それは、この映画の笑いのパターンが今もどこかで使われているということ。何もこの映画が原点というわけではないが、ひとつのコメディの型となったいわゆる「スクリューボールコメディ」の名作のひとつではある。
 笑いの構造を分析していけば、そのことは明らかで、たとえば留置所の場面で最初に二人が捕まえられ、電話をかけ、もう二人捕まえ、また電話をかけるというくり返し、そこにまた現れる二人…。しかしその二人はつかまらず、逆に無実を証明する。そこにまたやってくる二人、今度は新たな厄介をしょって…。このような繰り返しによる笑いのパターン。
 などといってみましたが、笑いを分析するほどつまらないことはない。のでやめましょう。
 しかし(と、またごたくを並べる)、「こんな笑えないコメディ見て楽しいのかよ」といわれると悔しいので、この映画を見ることを正当化したい欲求に駆られただけです。結構面白いですよね、こういうのも。

サイレンス

Le Silence
1998年,イラン=フランス=タジキスタン,76分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
音楽:マジッド・エンテザミ
出演:タハミネー・ノルマトワ、ナデレー・アブデラーイェワ、ゴルビビ・ジアドラーイェワ

 ノックの音、スカーフ、3つ編みの後姿、目を閉じた少年の横顔、この最初のイメージだけで、完全に引き込まれてしまう映像マジック。
 目の見えない少年コルシッドは興味を引く音が聞こえるとついついそっちについていってしまう癖があった。そのため、楽器の調律の仕事にもいつも遅刻して ばかり。果たして少年はどうなるのか…
 ストーリーはそれほど重要ではなくて、氾濫するイメージと不思議な世界観が この映画の中心。「目が見えない」ということがテーマのようで、それほど重きを置かれていないような気もする、まったく不思議な映画。

 マフマルバフの映画はどれも不思議だが、この映画の不思議さはかなりすごい。難解というのではないんだけれど、なんだかよくわからない。コルシッドが「目が見えない」ことはすごく重要なんだけど、映画の中で格別問題にされるわけではない。周りの人も「目が見えない」ということを普通に受け入れ、しかしそれは障害者を大事にとか、そういった視点ではなくて、「彼は目が見えないんだって」「へー、そう」みたいな感じで捉えている。
 とにかく言葉にするのは難しい。マフマルバフの映画を見ていつも思うのは、「言葉に出来ないことを映像にする」という映像の本質を常に実現しているということ。だから、言葉にするのは難しい。表現しようとすると、断片的なことか、抽象的なことしかいえなくなってしまう。
 断片的にいえば、この映画にあるのはある種の反復「運命」がきっかけとなる反復の構造。マフマルバフはこの反復あるいは円還の構造をよく使う。音で言えば、はちの羽音、水の音、耳をふさぐと水の音、そして「雨みたいな音を出す楽士」をコルシッドは探す。クローズアップのときに背景が完全にぼやけているというのも、マフマルバフがよく使う手法。この映画では、市場のシーンで、目をつぶったコルシッドと、親方のところ女の子が歩くシーンで使われていたのが印象的、ここでは、画面の半分がアップの顔、進行方向に半分が空白で、ぼやけた背景の色合いだけが見える。
 抽象的にいえば、この映画の本質は「迷う」こと。しかも、目的があってそれを見失ったというよりはむしろ、目的がない、方向がない迷い方。自分がどこにいてどこに行くのか、それがまったくわからない迷い方。「それが人生」とはいわないけれど、迷ってばかりだ。

最高殊勲夫人

1959年,日本,95分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、川口浩、船越英二、丹阿弥谷津子、宮口清二

 結婚式の披露宴、新郎新婦は三原家の次男二郎と野々宮家の次女梨子。兄一郎と姉桃子も結婚しているため、みなは三男三郎と三女杏子も予想していた。そしてその通り事を運ぼうとたくらむ長女の桃子。桃子は三原商事社長の一郎をすっかり押さえ込み、自分の思うように事を運んでいた。
 増村らしいハイテンポの恋愛ドラマ。比較的初期(8作目)の作品だけあって、後期のどろどろとした感じよりも、爽やかなコメディタッチの作品に仕上がっている。

 若尾文子主演はこれが二作目で前作は「青空娘」。実はこの「最高主君夫人」と「青空娘」は原作者も同じ源氏鶏太ということで、かなり似た感じの作品になっている。しかし、この作品は川口浩、船越英二といった増村作品おなじみの顔ぶれがずらりと顔を並べ、増村的世界がより完成されている。しかし、ハイテンポは相変わらずで、セリフも早いし、セリフの継ぎ目はないし、プロポーズしてから結果を告げるまでもあっという間だし、振られてあきらめるのも早いというわけ。とにかく展開の早さにはついていくのが大変。一番おかしかったのは、杏子に野内がプロポーズしたと知って、桃子が「転勤させてしまいなさいよ」というところ。そりゃねーよ、いくらなんでも、話が手っ取り早すぎりゃぁ、と口調も江戸っ子になっちまうくらい。
 そんな感じですので、こちらも展開を早く。とにかく気になったことをずらずら羅列。
 杏子と三郎の二人が映っているシーンの構図が素敵。二度目に二人でバーで会った場面、三郎の背中・杏子の横顔・バーテンの立ち姿が微妙な配置で美しい。ロカビリーのところ、少しはなれてカウンターに座っている二人の位置取りが美しい。一郎の家で、一郎と桃子をはさんで、画面の両端に三郎と杏子がいるシーン、むしろ端にいる二人が中心なんじゃないかと思わせる素晴らしさ。
 なんといっても面白いのはわけのわからぬうちに進んでしまう展開だけれど、たとえば、杏子が岩崎と宇野をくっつけてしまうところなんかは、なんのこっちゃといううちに、すっかり話がまとまってビール6本飲まされて、結婚がまとまって、みんなめでたそうな顔をしている。いいのかそんなテキトーで?と思うけれど、そのテキトーさがむしろ正しくて、自然なものなのかもしれないと思えてくる。内面の葛藤がー、とか、三角関係のギクシャクとか、そんなことは笑い飛ばせよ、そんなことしてる暇はねーよといわれている気がして、なんとなくスカッとしました。別に内面の葛藤があるわけではないですけどね。

デッドマンズ・カーブ

The Curve
1998年,アメリカ,90分
監督:ダン・ローゼン
脚本:ダン・ローゼン
撮影:ジョーイ・フォーサイト
音楽:シャーク
出演:マシュー・リラード、マイケル・ヴァルタン、ランドール・バティンコフ、ケリー・ラッセル

 「ルームメイトが自殺したら、その学期の成績は自動的にオールA」という噂を信じて、ルームメイトを殺そうとたくらむテッドとクリス。二人はルームメイトのランドを酔わせ、偽の遺書を作って、崖から突き落とす計画を立てた。
 大学を舞台にしたサスペンス。とてもシンプルなつくりだが、非常によく練った脚本で最後の最後まで目を離せない展開がいい。

 そんな話が本当にあるのか知らないけれど、設定自体が非常にうまい。サスペンスというには犯罪のアイデアと犯人探しの道筋で話の面白さが決まってしまうが、この話は非常に巧妙。古典的な犯人探しの物語ではなく、事件自体が…(みた人にはわかると思うので、書かないようにします)
 ということで、かなりいいシナリオなのです。監督も役者もカメラマンもみんな知らない人ですが、これからじわじわと出てくるのではないかと期待させる人たちだと思います。特にティム役のマシュー・リラードの切れ具合がかなりよかった。どこか狂った役を演じられる役者を私は買いますが、この役はまさにそう。(正確には狂った役を演じる役を演じているのですが…、あ!これ以上は…)
  そんないい感じの若手の役者たちの爽やかな、しかし内容的には爽やかとはいえない映画。なんとなく歪んだところが好きですね。

アンツ

Antz
1998年,アメリカ,83分
監督:エリック・ダーネル
脚本:トッド・アルコット、クリス・ウェイツ、ポール・ウェイツ
映像:ケン・ビエレンバーグ
音楽:ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ、ジェフ・ザネッリ
出演:ウッディ・アレン、シャロン・ストーン、ジーン・ハックマン、クリストファー・ウォーケン、ジェニファー・ロペス

 地中に広がるアリの王国。働きアリのZ(ジー)はいっしょに働くアステカにも馬鹿にされるほど役立たずの働きアリだった。そんなアリの王国の将軍マンディブルは新たな王国のためのプロジェクトとして働きアリたちに苛酷な労働を課していた。そんなある日、ジーは庶民のバーにもぐりこんだ王女のバーラに出会う。  ドリームワークスが作り上げたフルCGアニメ。ディズニーのCGとは確かに違う。結局は子供向きアニメの発展版という感じだけれど、主役の声がウッディ・アレンというのが非常にナイス。

 どうも昔からディズニー・アニメっていうのが肌に合わなくて、それはCGになってからなおさらで、「トイ・ストーリー」なんかも、話がなかなか面白いのはわかるけれど、どうもだめ。という感じ。それと比べるとこの「アンツ」は抵抗感が少ない。やはりディズニーと違って画面に偽りの現実感がないからでしょうかね。ディズニーのアニメって言うのはなんだかいつも中途半端に現実的で気に入らない。人間なんかを妙にリアルに表現しようとしている。それと比べるとドリームワークスはアニメとしてのリアルさを求めているような気がしていい。たとえば、この映画で出てくる子供の足なんかは、明らかに漫画チックな足で、リアルではないんだけれど、アリの視点からすれば、それでいい。それがディズニーになると、その足のリアルさにこだわって、妙な感じになってしまう(ようなきがする)。
 まあ、あくまで偏見ですけどね。

エンド・オブ・デイズ

End of Days
1999年,アメリカ,122分
監督:ピーター・ハイアムズ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ピーター・ハイアムズ
音楽:ジョン・デブニー
出演:アーノルド・シュワルツネッガー、ガブリエル・バーン、ロビン・タネイ、ウド・キア

 1979年、ニューヨークに悪魔の子を孕むべき娘が生まれた。悪魔の降臨は千年紀の終わり1999年の大晦日。その1999年、彼女に子供も産ませ、世界を我が物とするため、悪魔が地上に降りてきた。
 一方、元刑事で今は用心警護をしているジェリコは世捨て人のような生活を送っている。12月末のある日警護していた保険会社の役員が浮浪者のような男に狙撃される。
 悪魔と戦うシュワルツネッガーというかなり無理のある物語りながら、結構うまく作り、何とか見れる作品に仕上がっている。

 悪魔がどうしてもクリスティーんに子供を産ませなければならず、かつ宿るべき男も決まっていたという設定によって、ジェリコは悪魔と戦うことが可能になった。そして悪魔が死なないものの、とりあえず撃たれれば怪我をする(すぐ直る)という設定もその意味では重要。
 かなり多用されるCGも、まあ効果はあるかなという感じ、しかし、必ずしもなくても映画としてはあまり変わらないと思う。
 という程度の映画で、特に書くべきこともなさそうなので、ちょっと監督について調べてみました。かなりキャリアは長く、15本の作品を監督、特に代表作はないが、最近では、「レリック」とか「サドン・デス」とか「プレシディオの男たち」といったを撮っている。撮影を兼ねるというスタイルはハリウッドではかなり珍しいスタイルだが、別に、もともとカメラマンというわけではないようなので、なかなか不思議。以外に興味をそそる監督ではある。
 それにしても、個人的には、最後のオチが「惜しい!」という感じ。悪魔が本格的に出てくるところで「うぉっ!やった!」と思ったし、その後の破壊しまくるシーンも、「いいぞ!」と思ったんだけど、結局は、ジェリコの体に入って、しかも、失敗するというわかりやすく、かつハリウッド的な終わり方。
 うーん、俺が撮るなら… もうちょっと早めにジェリコに入り込んで、クリスティーナをだましとおして、ベットシーンで新年を迎えて、「え!どうなったの?」というままエンドロールに突入させたいかな。
 まあ、言うのは勝手ね。

月はどっちに出ている

1993年,日本,109分
監督:崔洋一
原作:梁石日
脚本:崔洋一、鄭義信
撮影:藤澤順一
音楽:佐久間正英
出演:岸谷五朗、ルビー・モレノ、絵沢萠子、小木茂光、磨赤児、萩原聖人

 在日朝鮮人の姜忠夫は同級生の金田が経営するタクシー会社で働いている。二人は友人の結婚式に出席、忠夫はそこで女に声をかけ、金田は同級生の新井と商売の話をする。そんなある日、忠夫はいつものように母の店で働くフィリピン人を店に送っていくが、そこに新しくチーママとして入ったコニーがいた。
 忠夫とコニーの恋愛を中心として、在日朝鮮人の姿を描いた。梁石日の小説「タクシー狂躁曲」を崔洋一が映画化したこの作品はある程度まで事実に基づいているという。全体としてかなり完成度の高いドラマ。

 「在日」というのは身近にあるようでなかなか考えない問題ですから、こういう映画がメジャーなものとしてるというのは非常にいいことなのでしょう。この映画の中に出てくる萩原聖人のようなスタンスが(誇張されて入るけれど)日本人の基本的なスタンスなのかもしれません。差別はしていない、けれど、無意識に差異化してはしまっている。普通に接していれば気がつかないけれど、名前とか、出身校とかそういったことから気づいてしまうと、なんとなく意識してしまうようなもの。
 ここまでは日本人である私の率直な感じ方として書きましたが、しかし、この文章にも在日の人たちがいるかもしれない、というよりむしろいるだろうということも意識せずにいられません。それはつまり、「差異」に対する意識というものが常に差別の培養土となりうるものであり、差異化される側がマイノリティである場合には特にそうであるということを意識しながら、慎重に話を進めてしまうということです。
 そのような(自分の)意識に気づきながらこの映画を振り返ってみると、まずこの映画は誰に語っているのか? ということ。もちろん映画というのは全世界に向けて語りかけられているものであるからには、世界中の人々に向けてということになるのだけれど、第一義的には誰に向けてかということで言えば、日本のマーケットに向けられた日本語のこの映画はまず「日本に住む日本語をしゃべる人々」に向けられているわけです。そこにはもちろん在日の人たちも含まれるわけですが、「日本人」と呼ばれる人に見られることを意識して作られたと考えるのが自然なわけです。
 話が回りくどくなってしまいましたが、そのようなものとしてこの映画を受け入れた上で私が感じることは、「差別を茶化すことによってその差別を回避しようとする姿勢」ですね。これは差別に対応する古典的な手法で、極端な例ではドラァグ・クイーンのようなものがありますが、この映画では、最後に忠夫が、コニーを乗せたときに、「運転手の姜(が)です」といったところがそれを象徴的に表しています。萩原聖人の差異化と無意識の差別をここで茶化し、笑い飛ばすことによって無意味化した。そのようなスタンスで撮られた映画だと私は思いました。
 どうですか? 

タクシー

Taxi
1996年,スペイン=フランス,114分
監督:カルロス・サウラ
脚本:サンティアゴ・タベルネロ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジプシー・キングス、マノ・ネグラ
出演:イングリッド・ルビオ、アガタ・リス、エウサビオ・ラサロ、カルロス・フエンテス

 タクシー・ドライバーのレメはある夜、ある薬注の女性を拾う。女性が寝入ってしまうと、彼女は運転手の仲間“ファミリア”に連絡し、彼らは橋の上で落ち合った。彼らは女性を車から引きずり出し、橋から投げ落とした。
 一方、タクシー・ドライバーのべラスこの娘パスは大学の入学試験に不合格、自暴自棄になって髪の毛をスキンヘッドにしてしまう。その娘を見た父は彼女をタクシーに乗せようと考えた。
 スペインで良質の作品を撮りつづけるサウラ監督が、移民・差別・ネオナチと言った社会問題を、タクシー・ドライバーというユニークな視点から、サスペンス調で描いた映画。まじめです。

 社会問題を映画で取り上げるというのは難しいことなのだけれど、この映画はタクシー・ドライバーをその中心に据えたことでかなり成功している。まさしく発想勝ちなのだろうか。
 しかし、脚本がどうも今ひとつ。パスとダニがはじめてキスをする場面、二人は星がどうだのという話をしたりするが、あまりにあんまりだ(なんのこっちゃ)陳腐というか、何というか、ねらいだとしたら外れているし、本当にあのセリフがしゃれていると思っているなら、もっと映画見ろ!という感じ。
 そんな脚本のつたなさに邪魔されながらも鋭敏な映像はカルロス・サウラの本領発揮。特に印象に残ったのは、フレームの右隅にテレビの画面があって、奥でパスがご飯を食べているシーンと、寝ているパス(目は開けている)が暗闇から徐々に浮かび上がり、カメラも徐々によっていくシーン。最後の、カレロが死んでいるシーンもなかなか。全体的に言っても、構図がきれいで、タクシーに拘泥するならば窓ガラスへの映り込みを非常にうまく使っていて、トーンは暗いけれど、美しい画面でした。
 という感じです。発想はよし、映像もよし。しかし脚本がちょっと…

893タクシー

1994年,日本,79分
監督:黒沢清
脚本:釜田千秋、黒沢清
撮影:喜久村徳章
音楽:岡村みどり、岸野雄一
出演:豊原功補、森崎めぐみ、大森嘉之、大杉漣、寺島進

 悪徳金融業者に手形を盗まれ、多額の借金を抱えてしまった田中タクシーの社長を助けようと幼馴染のヤクザの親分が自分の組・猪鹿組の子分たちをタクシー運転手に仕立てた。ヤクザたちはかたぎの仕事に戸惑いながらも、一人残った運転手木村の指導のもと徐々に運転手らしくなっていくが…
 黒沢清が主にVシネマで活躍した時期、「地獄の警備員」と「勝手にしやがれシリーズ」の間に作られた作品。作品自体は非常にオーソドックスで派手さはない。しかし、画面画面に映像へのこだわりが感じられる作品。
 ちなみに、青山真治が助監督で参加している。

 いい意味で、普通な作品。ヤクザ映画だけれど、基本的にはヒューマンコメディで、派手なアクションシーンがあるわけではない。まあ、Vシネマなので、それほどお金をかけられないということもあるんだろうけれど。
 それにしても、撮り方は決してオーソドックスではない。この映画では特に「引き」の画が多い。タクシー会社でも、がらんとしたガレージの上から取ってみたり、近くにいる人をなめて、奥の人にピントを合わせたりと画面の奥行きを使って人物と人物の距離感を表現しているような気がした。やはりその辺の画面へのこだわりがテレビドラマとは一線を画している理由といったところでしょうか。
 あとは、枝葉のところがとてもいい。タクシーの中でいちゃつく男で出てくる大杉漣が面白い。刑務所から出てくるとき2度とも、まったく同じカット割だったのもよかった。あとは、ユウジ(だったっけ?豊原功補)が二人のチンピラに絡まれて、次のカットで叩きのめされた二人を置いて車で去るシーン、あのシーンはいかにも最近の日本映画らしいシーンという感じ。