私が女になった日

Roozi Khe Zan Shodam
2000年,イラン,78分
監督:マルジエ・メシキニ
脚本:モフセン・マフマルバフ、マルジエ・メシキニ
撮影:モハマド・アフマディ、エブラヒム・ガフォリ
音楽:アフマド・レザ・ダルヴィシ
出演:ファテメフ・チェラグ・アフール、シャブナム・トロウイ、アジゼ・セディギ

 9歳の誕生日を迎えた少女ハブア。彼女は友達のハッサンと遊びたいが、9歳になったらもう男の子とは遊べない。彼女はおばあちゃんに頼んで、生まれた時間の正午までハッサンと遊ぶことを許してもらう。
 このハブアの物語に加え、自転車レースに参加する人妻アフー、ひたすら買い物をする老女フーアを主人公にした3本のオムニバス。これまで描かれることの少なかったイランの女性を描いたメシキニの監督デビュー作。
 マルジエ・メシキニはモフセン・マフマルバフの二人目の妻で、死別した一人目の妻の妹。したがって、サミラの叔母にあたる。モフセンが娘のために作った施設の映画学校でサミラとともに映画作りを学んだマルジエにとって一種の卒業制作的作品。ベネチア映画祭に出品され高い評価をえた。

 ペルシャ湾に浮かぶキシュ島は、一種の自由市で、イランの各地から観光客がおとずれる。そのキシュ等の美しい自然を背景に、素直に映画を作ったという感じ。サミラと比べると、やはり静かな大人の映画を撮るという印象だ。そして、女性というものに対する洞察が深い。
 この映画は要するに、女性の一生を描いたもの。3つの世代を描くことで、女性たちがたどってきた歴史を表現したもの。それはすっかり映画が語っています。少女の時点で社会による束縛を味わい、成長し自立したと思ったら家族という束縛に縛られ、ようやく自由になった老年にはその自由の使い道がない。要約してしまえばそういうこと。
 こう簡単に要約出来てしまうところがこの映画の欠点といえば欠点でしょうか。しかし、メッセージをストレートに伝えるということも時には重要なことですから、必ずしも欠点とはいえないでしょう。
 この映画、かなり構図と色合いにこっているようですが、なんとなくまとまりがない。それぞれの映像はすごく美しいのだけれど、なんとなくそれぞれの映像が思いつき、というか、その場の美しさにとらわれているというか、あくまでなんとなく何ですが、全体としての「映像」像見たいな物が見えてこない。これもまた欠点といえば欠点ですが、その場の最良の瞬間を切り取るというのも映画にとっては重要なことなので、必ずしも欠点とはいえないのです。
 なんだかわからなくなってきましたが、まとめると、ここの瞬間は美しさにあふれ、メッセージもよく伝わるが、完成度にやや難アリというところですかね。

ブラックボード~背負う人

Takhte siah
2000年,イラン,84分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルヴィシ
出演:バフマン・ゴバディ、サイード・モハマディ、ベフナズ・ジャファリ

 黒板を背負って山道を歩く歩く男たちの一団。彼らは、学校がなくなって職を失った教師らしい。時はイラン・イラク戦争の真っ最中、彼らは食べるため、各地の村々を回って子供たちに読み書きや算数を教えて歩いていた。その一団の中の二人の教師サイードとレブアル、それぞれ生徒をさがし、サイードはイラクとの国境に向かう老人の一団を見つけ、レブアルは大きな荷物を運ぶ子供たちの一団を見つけた。
 『りんご』で世界の中目を集めた若干20歳のサミラ・マフマルバフの監督第2作は『りんご』と同じように、ある種ルポ的な色彩を取り入れつつも映像にこだわって映画らしい映画に仕上げた。

 とりあえず、黒板を背負って歩くという発想が面白い。監督いわく、もともとのアイデアは父親のモフセンの発想から得たらしいが、それをうまい具合に映画世界にはめ込んだところがうまい。
 この映画はやはりかなり社会的なメッセージ性の強い映画で、最近の出来事であるイラン・イラク戦争をいまだに問題として残っているクルド人難民の問題と関わらせつつ描き、かつ戦争に対する人々の姿勢を生々しく描こうという野心が感じられる。しかも、子供、老人という二つの世代を対象とし、そこにストーリーテラーとしてのいわゆる大人が入っている構造から行って、全体像を描こうという構想なのだろう。
 したがって、物語そのものは収斂するのではなくむしろ散逸してゆく方向ですすみ、結末もはっきりとしたメッセージを打ち出すわけではない。漠然とした反戦のメッセージ。あるいは「生きる」ということに対する漠とした渇望。
 全体には非常に出来のよい映画ですが、ちょっと手持ちカメラの多用が気になりましたかね。主観ショットのときに手持ちを使うのはとても効果的でいいのですが、主観ではないと思われるところでも手持ちのぶれた画像が使われていたので、その効果が薄れてしまった感じがするし、あまりに手持ちの映像が多い映画は酔うのでちょっと厳しいです。山道の移動撮影で、ぶれない画像を撮るのも難しかろうとは思いますが、それを感じさせないように作るのが映画。映画の世界の外の状況を考えさせてしまってはだめなのです。そこらあたりが減点。

 今回見てみると、いろいろと味わい深い部分があります。メッセージ性などは置いておいて、映っている人々の生き生きとした感じというか、非常に厳しく、本当に生きていくのがやっとという生活(といえるかどうかも怪しい移動の日々)のなかでもいくばくかの喜びがある。あるいはただ苦しみが和らぐだけであってもそれを喜びと感じる。それがこの映画の非常によい味わいであると思います。故郷へと向う一団の中で「黒板さん」と結婚することになる女性。彼女は精神的に参ってしまっているのだけれど、周囲はそれをどうとも思わない。それは一つの不幸ではあるけれど、皆が抱えている不幸と質的に差があるわけではない。そしてその父親は膀胱炎でおしっこが出ない。しかし出さなければならない。おしっこが出た瞬間、彼が感じた幸せはどれほどのものだったか。ズボンへと伝う暖かいおしっこの感触が幸せであるというちょっと笑ってしまうようなこと。それが幸せであるということ。少年レブアルが自分の名前を黒板に書くことができたとき、彼の表情は真剣でありながら喜びに溢れていた。その文字はたどたどしいものであっても彼にとっては無上の喜びを与えてくれるものだった。それを書き上げた瞬間に待ち受ける運命がどのようなものであっても。
 そのような生きる喜び。クルド人の一団が「黒板さん」に導かれてついに故郷にたどり着いたことをしる歌が鳴り響いたとき、彼らの喜びはいかほどのものだっただろうか。故郷に帰っても彼らの運命は悲惨で未来など霞のようなものだということは見ているわれわれにも、旅する彼ら自身にもわかってはいるに違いないのだが、故郷に着いたということの喜びは他には変えがたいほどのものなのだ。そのような悲惨な中にある喜びを無常のものとして描きあげたこの映画はどこを切っても味わい深い。

晩春

1949年,日本,108分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:笠置衆、原節子、月丘夢路、杉村春子、桂木洋子

 北鎌倉に住む、大学教授の父と娘。甲斐甲斐しく父の世話を焼く娘ももう嫁に行かねばならない年頃。しかし娘はそんなそぶりも見せない。そんな娘に叔母が縁談を進め、父にも縁談を持っていくのだが… 結婚をめぐって微妙に変化する父と娘の関係を描いた。
 小津安二郎得意のホームドラマ、笠置衆と原節子というキャストと「東京物語」と並んでこのころの小津の代表的な作品。「東京物語」ほどの完成度はないが、そこに流れる叙情はやはり素晴らしい。

 基本的なスタンスは「東京物語」と同じで、笠置衆はやはり無表情で一本調子。しかし、原節子はかなり表情豊かで、一人体全体で物語を語っているという感がある。そのために、「東京物語」と比べると完成度が低いように見えてしまうのだろうか? 本当は異質なものと捉えればまた違う見方が出来るのだろうけれど、映画のつくりがかなり似通っているのでどうしても、ひとつの視点から比較してしまう。そうすると、「東京物語」のほうがやっぱりすごいということになってしまう。
 しかし、この作品もまた独自なものであると考える努力をしよう。そうするならば、この映画で印象的なのは、人のいない風景のインサートだろう。京都の石庭、嫁に行ってしまったがらんとしたうち、などなど。無表情な人間を取るよりも、完全に無表情な「モノ」を写すこと。そしてその完全に無表情な「モノ」から何かを読み取らせること。それはつまり観客が映画の中の「モノ」に自分の感情を投影させることに他ならない。そのような作業をさせうる映画であること。それが小津の目指したところだったのだろう。
 観客が能動的に映画の中に入っていける映画。それが小津の映画なのかもしれないとこの映画を見て思った。

 ということですが、この「モノ」というのは小津映画の特色であり、小津映画がどこか「変」である最大の要因なんじゃないかと思うわけです。小津映画といえば、「日本!」見たいなイメージ化がされていて、「変」というのと直接的には結びつかないような気がするけれど、よく見ると、あるいは何本も作品を見ていくと、「なんだか変」だということに気づく。もっと細かく分析していけば、その理由のひとつはカットのつながりにあるということもわかってくるのだけれど、もう一つ私が注目したいのは人のいない「モノ」だけのカットの頻出であるように思える。
 映画とは基本的に人物(あるいは擬人化された生き物やモノ)が主人公となって、物語が展開されているわけで、人物以外のものだけが映っている場合には、それは余韻であったり、必要な間として挿入されているものである。しかし、小津の映画では余韻あるいは間というにはあまりに不自然な挿入をされているのである。時には長すぎ、時には妙に短いカットの連続であったりする。
 あるいは、人が映っているのだけれど、物語とはまったく関係なさそうな行動であるようなシーンもある。このあたりはとても「変」で時にはつい笑ってしまったりするのだけれど、それが実は本当の小津映画の面白さであって、いわゆるイメージ化された「日本的なる物」の象徴としての小津なんて、表面的なものでしかないんじゃないかと思えてくる。

東京物語

1953年,日本,136分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:笠置衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、香川京子

 尾道、老境に差し掛かった夫婦が旅支度をしている。彼らは息子たちが住む東京へ旅行に出発し、一人家に残る末娘の京子がそれを見送った。果たして東京に到着した老夫婦はまず長男の家に厄介になり、続いて長女の家に厄介になりながら東京で過ごす。
 東京の子供たちを訪ねる旅を通して、親子の関係をじっくりと描いた歴史的名作。今見てもすごく感動的で、時代や地域を越えてたくさんのファンを持つ映画であることもまったくうなずける本当の名作。見てない人はいますぐビデオ屋へ。いや、ビデオじゃもったいないかも…

 最初、尾道の場面、笠智衆の一本調子の台詞回しと、すさまじいほどの切り返しで映される顔のアップに戸惑い、違和感を感じる。それは東京に行っても続き、出てくる人々はみなが無表情で一本調子、そして会話はほとんどを顔のアップの切り返しで捉える。
  しかし、それも見ているうち徐々に徐々に気づかぬうちに、その違和感は薄れ、その無表情な表情のわずかな変化の奥に隠れた感情を読み取れるようになっていく。それはもう本当に映画の中へ入り込んでいくような感覚。あるいは気づくと映画世界につかりきっている自分に気づく感覚。
  もちろん、笠智衆と東山千栄子と原節子の3人の関係を描くところで特にそれが顕著になるのだけれど、それ以外の部分もすべてが間然に計算され尽くしていたんだなぁ… と自分の心にも余韻が残るような素晴らしさ。

 物語は、小津の定番である父娘というよりは、大きな家族関係の物語になっている。「核家族をはじめて描いた映画」といわれることもあるように、東京に住む人たちの間で家族関係や近所との関係が薄れていく様子が見事に描かれている。近所との関係といえば、尾道での冒頭のシーンで、隣のおばさんと思われる人が軒先から顔を出して、世間話をする場面がある。そして、このおばさんは葬式のシーンにも登場し、最後にも映画を締めくくるように登場する。これは単純に尾道の社会というかご近所さんの関係の緊密さを表しているだけなのだが、この関係性こそが物語を牽引していくエッセンスであるのだ。
  と言うのも、このような尾道の人間関係に対して、長男の幸一と長女の志げの近所の人とのつながりは非常に希薄である。交流があるにはあるのだが、その関係は医者や理容師という職業によるものでしかない。社会の観察者としての鋭い視点を持ち続ける小津は、そのような人間関係の変化を敏感に感じ取り映画に刻み付けた。家族の核家族化とともに、近所のつながりも希薄化し、その多くは商売を通すものになってしまった。
  これとは少し違う形で描かれているのが紀子の住むアパートである。このアパートでは近所との関係が濃い。このアパートは同潤会・平沼町アパートに設定されているらしい。つまり、紀子と近所の関係の濃さはこの同潤会アパートの特色によっているということであり、これもまた時代性を感じさせる味であるといえるのかもしれない。

 とにもかくにも、そのように家族や近所との関係が希薄化していく時代にあって、小津は家族を描くことで何を語ろうとしたのか。小津はその変化をどう思っていたのか。
  それが鋭く現れるのは、映画も終盤になり、原節子がいよいよ東京に帰ろうというときに香川京子にはくセリフである。香川京子演じる次女の京子は、とっとと東京に帰ってしまった兄たちに不満を言い、「親子ってそんなものじゃない」と言う。これにたいして原節子は「年をとるにつれて自分の生活ってものが大事になるのよ」と言う。そして続けて「そうはなりたくないけど、きっと私だってそうなるのよ」と言うのだ。これは、家族を中心とした関係性の希薄化に対する諦念なのではないだろうか。核家族化し、家族の生活が分離していけば、それぞれはそれぞれの生活が大事になり、お互いの関係は薄くなってしまう。それは仕方のないことだと考えているのではないか。
  笠智衆に「東京は人が多すぎる」とも言わせているし、小津にしてみれば拡大していく東京が人間関係を希薄化させるものであることは憂うべき事実であったのだろう。小津は下町生まれの江戸っ子だから、古きよき東京の温かみを知っていたはずで、それが東京からは失われ、田舎に求めるしかないことを寂しがっていたのではないだろうか。
  物語からはそのような社会の観察者としての小津の一面が見えてくる。一貫して「家族」をひとつのテーマとしてきた小津としては、まったく正直でストレートな主題であると思う。

 そのように物語を分析してみるのも面白いが、この映画の面白みは、物語だけにあるのではなく、むしろ細部にこそ本当の味わいがある。それを最初に感じたのは杉村春子演じる志げが夫の中村伸郎に対して「やだよ、豆ばっかり食べて」というセリフである。このセリフは物語とはまったく関係がないが、その場にすごくぴたりと来るし、志げの性格を見事に示す一言になっているのだ。しかもなんだか面白い。このセリフに限らず、志げはたびたび面白いことを言う。キャラクターとしてはあまりいい人の役ではなく、少し強欲ババアという感じもするが、完全な悪役では決してなく、この生きるのもつらいような時代を生き抜いた人には当たり前の生活態度だったのではないかとも思わせる。戦争が終わって10年足らず、その段階ですでに使用人を使って理髪店を経営しているということは、戦争の傷跡が残る中、懸命に働いてきたのではないかと推測される。何もない焼け跡にバラックを建て、細々と再開した理髪店を懸命に大きくして、いっちょまえの店にした。そんな苦労がしのばれるのだ。しかし、その苦労が彼女を変えてしまった。
  両親が映画の後半で「あの子も昔はもう少しやさしかったのに」と言うその言葉からは彼女のそんな10年間が見て取れる。そしてそれは彼女が本来的に強欲ババアのようであったのではなく、時代がそうさせてしまったということを示しているのである。
  そのような志げの性格を小津は映画の序盤のたった一言のセリフで表現してしまう。そのような鋭く暖かい視線がこの映画の細部にはあふれているのだ。

 そのセリフにとどまらず、杉村春子の役柄には様々な含みと面白みがこめられていて、私はこの映画で一番味のあるのは杉村春子なのではないかと思った。笠智衆、東山千栄子、原節子の3人がもちろん物語の主役であり、この映画のエッセンスを伝える人たちであり、映画の中心であるわけだが、彼らを活かすのは杉村春子のキャラクターであり、見ていて面白いのも杉村春子と中村伸郎の夫婦である。主役の3人はいうなれば前時代に生きている。原節子は現代的でもあるのだが、過去に引きずられていることもまた確かだ。しかし、杉村春子夫婦はすごくモダンだ。スピードからして3人とは違い、60年代のモダニズムで描かれるような都市的な人々の先駆けであるように映る。しかし、彼女には温かみもある。最初の話に戻るが、香川京子が東京に帰る原節子に対して「親子ってそんなもんじゃない」というシーンで、彼女は死んですぐ形見分けを求める杉村春子を槍玉に挙げるが、原節子はそれを「悪気があって言った訳じゃない」と言う。それはまさにそうで、杉村春子の生活に流れる時間と、香川京子の生活に流れる時間が違うことで、そのような誤解というか、行き違いが生まれるのだ。杉村春子も彼女なりに母親痛いする愛情を示したはずで、行き違いがその捉え方の部分にあったというだけの話であるはずだ。原節子はその二つの時間の両方を理解していて、二人の行き違いに気づいている。
  このシーンは、尾道に暮らす3人の代表としての香川京子と、大都市に暮らす3人の代表としての杉村春子の衝突/齟齬を原節子がうまくとりなしているシーンなのである。それは田舎と都会という2つの社会の対比であり、なくなり行く社会とこれからやってくる社会との対比である。
  そして、都会/未来の象徴である杉村春子を面白いと感じるのは、彼女がそのように都市的で現代的であるからなのではないだろうか。つまり彼女は現代から見て一番理解しやすい存在であるということだ。映画としては原節子が全体の関係性の中心に来るように設定されているのだが、現代から見るならば杉村春子を中心とすると見やすいのかもしれないし、自然とそのように視点が行く。
  小津が未来を見通してそんな作り方をしたとは思わないが、社会の変化をあるスパンで捉え、それを親-子関係や、都市-地方関係といった様々な形に置き換えて表現したこの映画は、変化してしまった先にある社会から眺めると、また違う相貌を呈し、違った形で面白いものとして見えてくるのだと思う。
  だからこそ、作られて50年がたった今でもわくわくするくらいに面白く、何度見ても涙なしに見終えることができない。名作とは、繰り返し見ることで、それを見る自分の立ち居地の違いを感じ取ることができ、それによって新たな発見をすることができるものなのだという感慨を新たにした。それは映画でも小説でも変わらない「名作」なるものの真実なのではないかと思う。

ソルジャー

Soldier
1998年,アメリカ,98分
監督:ポール・アンダーソン
脚本:デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:ジョエル・マクニーリイ
出演:カート・ラッセル、ジェイソン・スコット・リー、ジェイソン・アイザック、コニー・ニールセン

 1996年、生まれたばかりの赤ん坊を兵士として英才教育するプロジェクトが始まった。戦争を友達と説き、脱落者は容赦なく殺す。そんな教育で育った兵士たちは続く戦乱の世の中で活躍していた。しかし40年後、新たに遺伝子操作によってより優秀なソルジャーが開発された。旧ソルジャーのリーダートッドは新ソルジャーによって殺され、廃棄物の星に捨てられる。しかしトッドは生きており、そこには難破船に乗っていた人々が住んでいた…
 近未来の恐怖を描いたオーソドックスありがちなSF映画。B級映画だと思えば十分見られるくらいの作品。結構いい出来かな?

 まあまあ、筋はとってもわかりやすく、次の展開が読める読めるという感じ。撮り方もかなりオーソドックスで、見せたいシーンはスローモーション。はるかに協力なはずの新ソルジャーは思ったとおり弱いし、すべての複線が何らかの結果に結びつくし… でも、そんなわかりやすさがB級映画らしいよさのなのでしょう。といっても、なかなかわかってもらえないとは思いますが…
 この映画を仮に普通の映画として捉えたとしたら、いいところは一点。徹底してソルジャーが無表情なところ。設定上当然なんだけれど、そこは人情ついついラストシーンくらい人間らしさを取り戻して、笑わせてみたいもの。そこをじっと我慢して、最期までクスリともさせない。そこがよかったですね。
 あとはB級的な楽しみです。しかも並みのB級映画。

忘れられぬ人々

2000年,日本,121分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:鈴木一博
音楽:リトル・クリーチャーズ
出演:三橋達也、大木実、青木富夫、内海桂子、風見章子

 老境を迎えた三人の戦友。飲食店を営む、家族に疎まれながらすごす、一人引きこもる。 それぞれの老後を過ごす3人が「金山」という戦死した戦友の思い出をきっかけに再び誇りのために立ち上がる。
 『おかえり』で多数の国際映画祭で賞を受賞した篠崎誠監督の長編第2作。今年のナント三大陸映画祭で男優賞と女優賞をダブル受賞。

 こういう地味な映画がヒットしないのは仕方のないことだと思いますが、日本映画が好きな人なら、きっと引っかかる隠れた豪華キャスト。三橋達也に大木実に青木富夫、それに風見章子とはね。50年(青木富夫は70年)も映画俳優としてやってきたキャリアは伊達ではありません。小津に成瀬に川島と名だたる監督とともに仕事をしてきた人たち。そんな名優たちが埋もれたままではもったいないということなのだと思います。ということなので、やはり彼らの存在感・キャラクターはこの映画の中でも際立っている。
 なのでもちろん、彼らを中心に映画は展開されていくわけですが、そこから見えてくるものは何か? それは戦争体験の重み、戦争を体験していないものとのギャップ、生きていることの重み、他人というものの捉え方の違い。戦争を体験していない者には本当には理解できないその体験の重み。
 それを映画全体のメッセージと受け止めるのはあくまで私の見方ですが、このように戦争の記憶というものが前面に押し出され、現在との対比がなされると、そのようなことを考えずにいられない。その本当には理解できない体験の重みを、それでもあきらめずに理解しようと感覚を鋭敏にしていなければならないと思わせられたわけです。
 とはいっても映画全体は全く重苦しいものではなく、むしろ明るい感じ。それもまたお年寄りたちの明るさがなせるわざ。劇中で百合子が言っていた「元気をもらう」という言葉、それがまさに画面にあふれている感じ。
 あとは細かいところまで配慮が行き届いていてよかったということ。本筋とは関係なさそうなところまで含めて、何かひっかればいいという意図が感じられます。たとえば、病院の屋上で百合子が後輩の看護婦と話をするところなど、プロットとは無関係ですが、なんとなく意味のあるメッセージがこめられているような気がする。そのようなところが結構ある。ケンの存在もそうだし、店にやってきた2人連れのヨッパライとか、伊藤の家の家族とか、金山が朝鮮人であるらしいこととか、そういったいちいちがなにかメッセージを持っていそうな気がする。
それは人それぞれ引っかかるところが違うということも意味するような気がします。それは同じ人でも見るたびに引っかかるところが違うということも意味するかもしれない。まあ、とにかくいろいろに考えることができるということでしょう。映画は哲学するのですよ、やはり。

セックスチェック 第二の性

1968年,日本,89分
監督:増村保造
原作:寺内大吉
脚本:池田一朗
撮影:喜多崎晃
音楽:山内正
出演:安田道代、緒方拳、小川真由美、滝田裕介

 もと天才スプリンターの宮路はホステスのひもになって落ちぶれた生活を送っていたが、選手時代のライバル峰重に電気会社のコーチの仕事を進められる。しかし、その選手たちを見て宮路はそれを断った。しかし、その帰りバスケット部の練習で見かけた南雲ひろ子に宮路は類まれな素質を見る。そしてひろ子のコーチをはじめた宮路だったが、ひろ子はセックスチェックで半陰陽と診断され、女子選手としての資格が否定されてしまった…
 相変わらずすさまじいテンポで進む増村映画。さらにこの映画は半陰陽というなかなか難しいテーマを使って混乱は増すばかり。増村作品の中では少し典型から外れるかなという気もしますが、それは時代のスタンダードに近いということではなく、逆にさらにいっそう離れているということ。

 かなりすごい。「えー、そうなのー?」という感想がまずわいてくる。そしてやはり人が一人狂ってしまう。果たして、実際擬半陰陽といえるような外性器をもって生まれてくる人はいるだろうし、それを医者が半陰陽と誤診することもあるだろうし、その擬半陰陽の人が初潮が遅いということもあるのだろうという気はするけれど、果たしてそれが毎日セックスすることで早まるのかといわれるとかなり?????という感じ。
 増村は映画的にはかなり先へ先へといっているすごい作家だけれど、思想的な面では、時代より少し先をいっているに過ぎないのかもしれないと思った。この映画から出てくるのは結局は男と女の二分法であって、半陰陽である人の生き様ではない。半陰陽であることを嫌がり、結局女になれた(正確には女であることがわかったということだが、その区別はここでは重要ではない。ひろ子の主観としては、「女になれた」ということであるだろうから)人間の物語でしかない。ここでは半陰陽というものが扱われていながら、いわゆるトランスジェンダーやインターセクシュアルということは問題にならず、単純に「男」と「女」の愛の物語に終始してしまっているわけだ。そのあたりが現在のこの時点から見ると甘いというか、その時代の発想にとらわれているのだと言わざるをえない。
 まあ、それは仕方のないことなのでしょう。ジェンダーなんて思想が日本にやってきたのはたかだか20年位前。この映画が撮られたのは30年前。それを求めるほうが無理というもの。それよりもこの映画の映画的な美点を誉めるべきでしょう。でも、それは、ほかの増村映画の解説の繰り返しになってしまうのでやめておきます。ただひとつ言いたいのは、安田道代の眼差しがすごいということ。増村映画のヒロインは若尾文子も野添ひとみも原田美枝子もみんな眼差しがすごいのだけれど、この映画の安田道代は本当にすごい。見られた人間を後ずさりさせるような鋭さ。小川真由美も狂ってしまうほどの鋭さ。峰重の奥さんが狂ってしまったのは宮路に振られたことよりも、その事実を突きつけたのがひろ子であったから何じゃないかと思ってしまうくらい、重い眼差しをしていたのが非常に印象的でした。

アウト・オブ・サイト

Out of Sight
1998年,アメリカ,123分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
原作:エルモア・レナード
脚本:スコット・フランク
撮影:エリオット・デイヴィス
音楽:クリフ・マルティネス
出演:ジョージ・クルーニー、ジェニファー・ロペス、ヴィング・レームズ、アルバート・ブルックス、キャサリン・キーナー

 200回以上の銀行強盗を重ね、三度目の刑務所に入所中のジャックは脱獄計画を聞きつけ、それに便乗して脱獄をしようと計画する。そして、計画どおり脱獄を実行するジャックだったが、出口にたまたまいた女性捜査官エレンに出くわしてしまう。エレンをトランクに押し込み、逃げ出した。
 『セックスと嘘とビデオテープ』で衝撃的なデビューをしたスティーヴン・ソダーバーグがエルモア・レナードの原作を適度にしゃれていて、適度にスリリングなよく出来たサスペンスに仕上げている。

 全体的にうまく整った作品。原作者のエルモア・レナードはかなりの数の原作・脚本を手がける名手。代表作としては、最近では『ジャッキー・ブラウン』、古いところでは『シノーラ』というところ。『ゲット・ショーティ』(バリー・ソネンフェルド監督)では、今回と同じく脚本家のスコット・フランクとコンビを組んでいる。何が言いたいかといえば、非常にこなれた脚本だということ。物語のプロットが周到に用意されていて、あとは監督がうまく仕上げればいい映画になるという感じ。
 で、監督はなかなかうまく、きれいに、スタイリッシュに仕上げている。シーンとシーンの切れ目でかなり使われたストップモーション(というより静止画)も常套手段のようでいて、やはり効果的。全体の印象をかなり引き締める。ラブシーンでも使われていたのには少々食傷でしたが…  で、キャスティングがまたいい。昨日の『ハイロー・カントリー』とは違ってね。やはり、ジョージ・クルーニーっていうのは善人の顔してないんだよね。どこか悪いやつっぽい。でも本当は心やさしいという顔。ジェニファー・ロペスもかなりはまり役。バディのヴィング・レームズもかなり好き。一応キャスティングはフランシヌ・メイスラーという人だそうです。フィルモグラフィーをみると、最近では、『マン・オン・ザ・ムーン』『ユー・ガット・メール』『ガタカ』なんかを手がけているようです。そういわれてると、いいキャスティングだったような気も…『ガタカ』のジュード・ロウとかね。
 まあ、そんなマニアックな話も織り交ぜつつ、見る価値はあるといいたいだけです。しかも「なんかビデオ見たいなー」というときに見る。

桜桃の味

Ta’m e Guliass
1997年,イラン,98分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホマユン・パイヴァール
出演:ホマユン・エルシャディ、アブドル・ホセイン・バゲリ、アフシン・バクタリ

 荒涼としたイランの大地を走る車。運転している中年男は道行く人に声をかけ、仕事をしないかと誘いをかける。果たして男の言う仕事とは何なのか? イランの荒涼とした土地を車で走る男のまなざしが印象的。
 「ジグザグ三部作」で一躍世界的な監督の仲間入りをしたイランの巨匠キアロスタミがそれらに続いて撮った長編作品。少年を主人公としてきたこれまでの作品とは一転、重厚な大人のドラマに仕上げている。

 キアロスタミの作品は数あれど、どうしても3部作の印象がぬぐいきれないのですが、この作品はそういう意味では半ば観衆を裏切る作品ではある。少年を主人公としたどこかほほえましい作品を取ってきたキアロスタミが「死」をテーマとしたということ。「死」ということ自体はこれまでの作品にも見え隠れしてきてはいたが、それを正面きってテーマとしたところがキアロスタミの挑戦なのだろうか。男の真摯なまなざしとはぐらかすような話し方が神経を逆撫で、たびたび出てくる砂利工場の音がそれに拍車をかける。
 男が死に場所に選んだ一本の木、そして穴。
 相変わらず同じことが反復されているに過ぎないようなストーリー。彼は結局死ぬことは出来ないのだろう。それは明らかだ。最後の最後、長時間完全に黒い画面がスクリーンに映っている間、いろいろなことを考える。考えさせる。でもきっと彼は死なない。自分に土をかけてくれる人を探すという過程の中で彼の中にどんな変化がおきたのか? それを知る由はないけれど、きっと彼は死なない。

ハイロー・カントリー

The Hi-Lo Country
1998年,アメリカ,114分
監督:スティーヴン・フリアーズ
原作:マックス・エヴァンズ
脚本:ウォロン・グリーン
撮影:オリヴァー・ステイプルトン
音楽:カーター・バーウェル
出演:ビリー・クラダップ、ウディ・ハレルソン、サム・エリオット、ペネロペ・クルス、パトリシア・アークエット

 第二次大戦後のアメリカ西部。故郷ハイローへ復員してきたカウボーイの青年ピートはダンス・パーティーでモナに心を奪われる。しかし彼女は戦争中にのし上がり町を支配するジムエドの側近の妻となっていた。一方ピートの親友ビッグ・ボーイも復員してくる。ジムエドに対抗しようとがんばる二人だったが、ビッグ・ボーイがピートに紹介した恋人はモナだった。
 サム・ペキンパーが映画化しようとして果たせなかった作品をマーティン・スコセッシが製作に乗り出し映画化した作品。ヒロイックでスタンダードな西部劇だが、懐古趣味に走るのではなく近代化にゆれるカウボーイを描くことで、現代的な人間ドラマとしても見られる作品になっている。

 終わってみれば、英雄ビッグ・ボーイの生涯という感じの話だが、全体的には深みのある人間ドラマで見ごたえがあった。男と男が砂漠で決闘といういわゆる西部劇のイメージとは少しずれるのだけれど、実際はこれがスタンダードな西部劇だと思う。一人のヒーローがいて、それを取り巻く人々のドラマがある。恋愛があり、男と男の戦いがあり、悲劇の死がある。それを澄み切った淡々とした映像で切り取っていくクールな映画。
 まあ、それ以上言うことはなかったのですが、なぜそれほどこの作品に入れ込めなかったかといえば、パトリシア・アークエット(モナ)より、どう見てもペネロペ・クルス(ジョセファ)のほうがかわいいから。どうもピートの気持ちに入り込めなかったせいですね。「何で?ジョセファにすればいいじゃん」と思ってしまう自分が常にいたせいでね。こう考えると、キャスティングってのは映画にとって非常に重要ですね。でも、世の中の人はモナのほうに心惹かれたのだろうか?