タクシー・ブルース

Taxi Blues
1990年,ソ連=フランス,110分
監督:パーヴェル・ルンギン
脚本:パーヴェル・ルンギン
撮影:デニス・エフスチグニェーエフ
音楽:ウラジミール・チェカシン
出演:ピョートル・マモノフ、ピョートル・ザイチェンコ、ヴラジミール・カシュプル、エレナ・ソフォノヴァ

 タクシー運転手のシュリコフはある夜騒がしい若者の団体を乗せ、最後の一人まで送り届けた。しかし、金を取ってくるといって去った若者は帰ってこなかった。翌日その若者を訪ねて彼が出演しているライブハウスへ。借金のかたに彼のサックスを預かった。
 ソ連映画といっても崩壊寸前のペレストロイカ全盛の時期を舞台にしている。それは価値観の衝突する時期であり、地道に働くタクシー運転手と自由に生きるミュージシャンという二人を中心に据えることでその対照を際立たせた。
 と、図式的に言ってしまうこともできるが、この映画の魅力はそんな思想的な点ではないし、映画自体もそのような政治的な主題を前面に押し出さない。「人間」というものを巧妙に描いた映画。

 非常にハードボイルドな、それでいて人間の内面をえぐるような不思議な映画。ほとんど感情というものが廃され、登場人物たちは感情をあまり表さず、もちろんそれが語られることもない。特にシュリコフは何を考えているのかわからない無表情な人間で、彼が笑うときは常にシニカルな笑いだ。  もちろんリョーシャはそれとは対照的によく笑い、怒るのだけれど、彼の感情は酒の助けを借りたものだ。
 だから二人が互いにどんな感情を持ち合っているのかを我々は知ることはできない。もちろん二人も互いの感情がわからない。二人が互いに影響を与え合っていることは確かなのだけれど、それぞれの内面での話であって、それが相互理解につながるわけではない。
 まあ、それが表に現れないからこそこの映画は面白いのであって、二人の内面の感情の変化が手にとるようにわかってしまったら、それはできそこないのハリウッド映画になってしまう。そこに陥らなかったのがこの映画のよいところ。
 しかし、リョーシャが黒人のサックスプレイヤーとサックスの演奏で意気投合するというところは少々ロマンチストすぎたかな、という感があった。
 しかししかし、この映画は結局収束せず、物語は拡散していくのだけれど(最後に出てくる後日談も映画の延長にはちっともなく、なんだか唐突な感じがする)、それがこの映画の非常に現実的なところ。二人はただすれ違うだけ。あれだけ様々な出来事が起きたのに、結局は街角ですれ違った人と大差はない。そこに程度の差こそあれ、根本的には何も変わらない。
 この文章もかなり拡散していっているけれど、あるひとつの現実の切り口として、あるひとつの人間ドラマとして、歴史的に大きな意味を持つ場所と時期に関するひとつの語りとして、この映画に描かれているものは非常に興味深い。

でんきくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:遠山雅之
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:渥美マリ、川津祐介、永井智雄、玉川良一、西村晃

 水商売で暮らす母と母の男とともに暮らしながら洋裁学校に通う由美だったが、ある日母の男に強姦される。それを母に告げると、母は男を刺し殺してしまった。刑務所に入った母のためにも水商売の世界に入った由美はその美貌と体を生かしてのし上がっていく。
 瞬く間にスターダムにのし上がり、まもなく消えていった渥美マリの代表作。その魅力で男をとりこにする女という増村が好むテーマ。しかし、この映画の場合、男をもてあぞぶ悪女というイメージでは必ずしもない。

 男をとりこにし、破滅させるというのは『刺青』や『痴人の愛』に通じるテーマだが、この3つの作品はそれぞれかなり異なっている。『刺青』は男を破滅させ、最後に自分も破滅してしまう。『痴人の愛』は一度は二人とも破滅するが、最終的にはある種のハッピーエンド。『でんきくらげ』は最初のうちは他の2作より男が優遇されているが、最後に破滅するのは男だけである。だからこそ電気くらげなのだろうが、終わってみれば一番たちが悪いのがこの由美だったりする。
 しかし、見ている我々は悪いのは由美ではなく男なんだと思う。そこが増村のすごいところ。この人はフェミニストなんじゃないかと思ってしまうくらい、女が勝つことが多い。まあ、勝ち負けの問題ではないのだけれど、概して女が強く男は弱い。その典型的な映画がこの『でんきくらげ』なのかもしれない。
 この映画を見てひとつ思ったのは、由美が野沢とともに母親に面会に行ったとき、由美が母親と話しているカットで、奥にいる野沢が妙に無表情なこと。脇にいる人が無表情というのは『卍』なんかでも思い当たる節があるんですが、かなり不思議な感じです。
 それから、この映画はワイドスクリーンなんだけれど、画面の焦点が中心にない。大概、話している人物が画面のどちらかによっている。これまたかなり不思議な映像で、巧妙なというか奇妙なフレーム使いでかなり気になりました。どういうことかといえば、普通ワイドスクリーンの場合、画面の中心に焦点を当てる人物がいて横の広いスペースに均等に小物を置く。しかしこの映画は、話している人が右側にいたら左側の画面が大きく開いている。しかもそこに何かがあるわけでもない(ことが多い)。普通こういうことをすると画面がさびしくなるものなのだけれど、この映画はまったくそういうことがない。なぜなんだろう? そのなぞは解けません。
 これは余談ですが、『グループ魂のでんきまむし』の「でんきまむし」はこの映画からとられたそうです(監督談)。どんな意味がこめられているのかはいまいちわかりませんが、人々をしびれさせる(笑いで)ということでしょうかね。

大地の子守歌

1976年,日本,111分
監督:増村保造
原作:素九鬼子
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:中川芳久
音楽:竹村次郎
出演:原田美枝子、佐藤祐介、岡田英次、梶芽衣子、田中絹代

 山奥の山村で「ババ」と暮らす13歳の少女りん。いつものように猟から帰ってくるとババが冷たくなっていた。りんはババの死を隠そうとするが村人にばれ、しばらくしてやってきた人買いにだまされ瀬戸内海の島の女郎家に売られてしまう。そんなりんのこれまでの生をお遍路参りをするりんの姿を挟みながら展開させる。
 やはり焦点を当てられるのは女性。といっても少女。増村と少女、男を惑わす妖艶な女性とは違った女性像を増村が描く。

 なんといっても原田美枝子が素晴らしい。暴れまわるシーンにスカッとしたり、ヌードのシーンにドキッとしたり、いかにりんを魅力的に描くかというのがこの映画の最大の焦点なのだろう。自由奔放で純粋、勝気で芯が強い。しかし不安定で、わがままで弱い。そんなりんに感情移入せずに入られない。
 物語として完全にりんに焦点を絞っているのもいい。りんの周りの人々はりんと関わるところ意外はばっさりと切ってしまっている。りんがはじめて恋をする漁師の息子なんかはもう少し引っ張りたくなるのが心情というものだけれど、あっさりと映画から立ち去る。そういう意味では人買い(名前忘れた)が死ぬエピソードが挿入されたのはちょっと納得が行かなかった。それもバサリと関係ないものとして、切り捨ててほしかったというのが正直なところ。
 りんのキャラクターに比べて映画全体のトーンはそれほど荒々しいものではなく、映像的にも落ち着いている。最後の最後で幻想的なシーンが出てくる以外は、意外と普通に撮っている。なぜ?と考えると、画面の中でりんが動き回っているわりにはカメラはどっしり構えている、あるいはりんが動き回るからカメラは動かす必要がない。からでしょう。思い返してみれば、移動カメラを使ったシーンというのはひとつもなかった気がする(多分あると思うけど)。それくらいどっしりとカメラが構え、りんがフレームアウトするとカメラを切り替えるという場面構成になっていたような気がする。やはりこういう強弱が映画には重要。人も動けばカメラも動くじゃ、メリハリがなくっていけねえ。
 頭に残るのは音楽。映画全体を通して流れるテーマ曲が耳に残り、エンドロールで少しだけ歌詞つきのが流れるのにはつい笑ってしまった。ギターの音なのに妙に和風。不思議。

バーディ

Birdy
1984年,アメリカ,120分
監督:アラン・パーカー
原作:ウィリアム・ワートン
脚本:サンディ・クルーフ、ジャック・ベアー
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ピーター・ガブリエル
出演:マシュー・モディーン、ニコラス・ケイジ、ジョン・ハーキンス、サンディ・バロン

 バーディとアルは子供のころからの親友。空を飛ぶことを夢見、鳥にあこがれるバーディと女のこの尻を追っかけまわしレスリングをするアル。二人はベトナム戦争に参加し、ともに負傷して帰ってくるのだが、バーディは言葉をしゃべらず、感情もし表さなくなってしまった。
 精神病院に収監されたバーディのもとを訪れるアルが昔を回想する形で物語は進む。プロットもよく練られていて、映像も整っているかなり完成度の高い作品。

 何かが飛びぬけていいというわけではない。強いて言うならば、バーディとアルのキャラクター。二人の性格がきっちりとしていて、しかもまったく水と油というよりは二人とも強いところもあり弱いところもあるという設定。二人は互いを理解しているようでしていないのかもしれないという関係。他人を完全に理解することなど無理なのだからあたりまえなのだけれど、それが理解できてしまうような幻想を人間は抱く。
 バーディは言う「おまえならわかってくれると思ったのに」。それは幻想に過ぎない。しかし、この二人の関係はそこにとどまらない。そのときには理解できなかった感情も時が立てば理解できる。
 アルは言う「おまえには付き合いきれないよ」。それはそのとおり。他人のやることすべてに同調することなんてできっこない。しかし、いつの日か付き合ってやればよかったと思う。
 言ってしまえば、終盤のヒューマニックなところはどうでもよく、二人が社会に復帰できようと、一生精神病院に閉じ込められようと、どちらでもいい。重要なのは二人が同じ過去を持ち、それを同じく受け入れているということ。
 話は変わって、映像的な面では、鳥の話だけあってかなりアングルにこっていた。上からの視線としたからの視点を巧みに使い分ける。精神病院の場面では下からのアングルが多用される。ローアングルというのはかなり面白い画がえられるもので、ここではバーディが「鳥っぽく」見えるという効果を生んでいるのだろう。と言ってしまってはつまらないが、あれが人間の視線と同じアングルではちっとも面白くない画になってしまっていただろうということはいえる。

アンゴウ

2000年,日本,74分
監督:古本恭一
原作:坂口安吾
脚本:古本恭一
撮影:三本木久城
音楽:野口真紀
出演:古本恭一、高井純子、平出龍男、小林康雄

 タクシードライバーの矢島は、妻の交通事故で二人の娘を失い、妻自身も入院してしまった。妻の退院が間近というある日、妻が延滞していた図書館の本から数字が書かれたメモのようなものが出てきた。
 カラーとモノクロの映像が混在し、中心となる物語に、ラジオから流れてくる原発事故のニュースが挟み込まれる。淡々とした展開ながら、様々な要素が織り込まれ、見ごたえのある作品になっている。
 2000年ぴあフィルムフェスティバル審査員特別賞を受賞した自主制作映画。

 まず、プロットがとてもよく、映画に入り込むことができた。とにかく、自主制作映画と思ってみているから、どうしても見下すというか、批評してやろうという気になってみてしまうけれど、ストーリーテリングが巧妙でそんな者に構えた態度を払拭してくれるくらいの力があった。
 モノクロとカラーの映像の混在も、特にどういう意味があるというわけではないのだけれど、静と動、緩急つけるという効果はあったと思う。出演している役者たちもなかなか達者で、「十分いけるじゃん」という感想でした。
 ひとつ難点を挙げるなら、音楽や音響効果が単調になってしまったこと。映像やプロットにはかなり強弱があり、緩急がついているのに、使われている音楽が全体に似たトーンで(一度だけ、図書館でロック系の音楽が使われてはいるが)ちょっとだれるというか間延びするというか、そんな感じになってしまったような印象。
 しかし、全体的にはかなりいいです。

陽炎座

1981年,日本,139分
監督:鈴木清順
原作:泉鏡花
脚本:田中陽造
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:松田優作、大楠道代、加賀まり子、楠田枝里子、磨赤児

 劇作家の松崎は一人の女と不思議な出会いをする。そのことをパトロンの玉脇に話すが、実はそれは玉脇の妻だった。玉脇には二人の妻がおり、一人目の妻は実はドイツ人なのに、日本人の格好をさせているという。
 ストーリーを説明しようにも、なんだかわけのわからない清順ワールド。しかし、小気味よいカットの切り方や、フレームの美しさについつい見入ってしまう。出ている役者も超個性的で、妙に味がある不思議な味わいの作品。

 昨日の『巨人と玩具』とはうって変わって映画の流れは非常に緩やかな映画。しかし、部分部分を取ってみると、妙なスピード感がある。とくに、異常に短いカットのつなぎや、異常に速いズームアウトが目に付く。普通、人の顔の切り返しというのは会話のときに、それぞれのセリフをアップで撮るために使うのだけれど、この映画ではセリフがないのにやたらと切り返す場面がある。しかも、ワンカットは1秒にも満たない短さ。なんだかわけのわからないおかしさ。
 異常に速いズームアウトというのはかなり目に付くが、しかもそれが微妙にぶれる。これまた不思議な感じ。しかも、不気味な不思議さではなく、なんとなくおかしい不思議さ。全体としては非常にまじめに映画が作られているのだけれど、部分を見ると妙におかしい。わけがわからない。しょっぱなから出てくる人たちが誰なのかまったくわからないし、「病院」と言われているところはちっとも病院に見えないし、誰も人もいないし、しかも妙にきれいで作りたてのセットであることがばればれ(反小津)。
 何の事やらさっぱりわからん。何で品子は心中するのにたらいに乗ってんじゃ?とかね。「狂気」というてんで増村との共通項を見出しました(別に見出さなくてもいいんですが…)。あと共通するのは場面転換の早さかな。
 鈴木清順ってのは本当に不思議な監督だ。発想がとっぴなところがちょっとレオス・カラックスに似てるかも。などとこちらもわけのわからないことを考え始めてしまいました。

巨人と玩具

1958年,日本,96分
監督:増村保造
原作:開高健
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、高松英郎、小野道子、伊藤雄之助

 ワールド・キャラメルの宣伝部に勤める新入社員の西は課長の合田に誘われて会社の喫茶室でお茶を飲んでいた。そこで見かけた娘に合田課長は目をつけ、会社のマスコットキャラクターにしようと考えた。そのためにその娘・京子の住所を聞き出し、西をその世話役につけた。
 スターダムにのし上がるどこにでもいる少女、企業の非人間的な活動、などなどあまりにたくさんの要素が盛り込まれ、それがものすごいスピードで展開されてゆく。モダニスト増村の真骨頂といわれるこの作品は気持ち悪くなるほど、盛りだくさんでめまぐるしい。

 すさまじいスピード。阿部和重はこの映画を「日本映画史上最速の映画」と呼んだ。最速かどうかはわからないが、とにかく速い。何が速いって、セリフも速いが、セリフに間がない。動きも速いがシーンからシーンへの展開の飛び方が速い。あれよあれよと言う間に京子はスターになってしまい、あれよあれよと言う間に西はアポロの女と付き合ってしまい、あれよあれよと言う間にみんながみんな人間が変わってしまう。これが本当のジェットコースタームービー。わたしは、なんだか乗り物酔いのように気持ち悪くなってしまいました。うーん、おなかいっ ぱい。  
  この間3本見たときにはしつこいほど感じられた「狂気」と言うものはそれほど感じられなかったし、「女に振り回される男」という感じもなかった。「狂気」と言うと、誰かがと言うよりは社会全体が「狂気」に陥っていると主張しているようにも思える。最初、カメラのほうに向かってくる人の波で始まり、さいご、カメラから去っていく人の波で終わるということが、後ろを振り返ることのない社会の歪みを象徴しているのかもしれない。主人公の西はその歪みを認識していて、それを拒否しようとするのだけれど、彼がそれを拒否し切れなかったのはかなり意味深い。血を吐きながらも働こうとする合田に代わって夜中に宇宙服を着て町を歩く西は何を拒否し何を受け入れたのか? どうして彼は笑うことができたのか?  
  この映画は初期の作品なので、増村らしいとされる「なまめかしさ」はない。それは『青空娘』にも共通している特徴だ。そして映画がまじめだ。別に後期(というか中期)の作品が不真面目だというわけではないが、初期の作品はメッセージがストレートだ。この作品は特にそう。社会に対する増村の目というものがかなりしっかりとあらわれていて興味深かった。  これは野添ひとみと若尾文子の差でもあるのかもしれない。初期増村は野添ひとみを好んで使い、特に川口浩との共演が多かった。しかし『最高殊勲夫人』以降は若尾文子を好んで使った。野添ひとみは自由奔放で楽しいイメージ、若尾文子はなまめかしく男を狂わせるイメージだ。個人的には若尾文子のほうが好きですけどね。
 なんとも取り留めなくなってしまいましたが、初期の増村映画について少し考えてみました。

SARA

SARA
1997年,ポーランド,112分
監督:マチェイ・シレシツキ
脚本:マチェイ・シレシツキ
撮影:アンジェイ・ラムラウ
音楽:マレク・ステファニケウィック
出演:ボグスワフ・リンダ、アグニェシュカ・ヴォタルチック、チェザーリ・パズラ

 特殊部隊の任務を終え、帰宅したレオンは自らの不注意で娘を死なせてしまう。それ以後酒びたりの日々を送っていたレオンに、マフィアから娘サラのボディガードの依頼がきた。
 ポーランド版「レオン」と呼ばれるこの作品は、確かに主人公の名前もレオン、マフィアの家には「レオン」のポスターと、「レオン」を意識して作られていることは確かだが、映画としてはまったく別物。レオンほどかっこよくはないが、なんだか温かみのある映画に仕上がっている。

 マフィアそして殺し屋、銃弾がバンバン飛んで、人がドンドン死ぬのに、なんとなく温かみのある映画。緊迫する場面よりもなんだか微笑んでしまう場面のほうが多い不思議な映画。なんとなくまとまりはないのだけれど、とにかく監督の映画への愛情が感じられる。
 まず、いろいろな映画が映画の中に登場するのがいい。家にはレオンのポスター、食事時にゴットファーザーがテレビで流れていて、それ以外のときでもいつもマフィア映画を見ている。このマフィアがいつもマフィア映画を見ているというシチュエーションも何かの映画で見た気がするけれど、思い出せないなぁ。で、サラとレオンが中華料理屋で踊りだすシーン、あれはおそらく「パルプフィクション」。フレームが一緒だったもの。
 こんなものがちらちら出てくるたびににやりとしてしまうのだけれど、他にもニヤリとしてしまうところがかなりある。サラを中絶させようとしているとき、サラの父親が「麻酔は心臓に悪いから」と言う。「そんなばかなぁ」と思うけど、案外、こんな対応のほうが現実なのかもしれないとも思ってしまう。 こんなちょっと間抜けなエピソードのどれもが、いわゆるマフィア映画よりも現実に見えてしまうと言うのがこの映画のすごいところ。だから、普通にマフィア映画のようでいて、ちっともドキドキしないし、けれどもすごく面白い。
 ものすごーくヒットしなそうな映画(実際ヒットしなかった)だけれど、私はこういうの非常に好きです。

キラー・クロコダイル 怒りの逆襲

Killer Crocodile 2
1990年,イタリア,87分
監督:ジアネット・デロッシ
脚本:ジアネット・デロッシ
撮影:ジョバンニ・バーガーミニ
音楽:リズ・オルトラーニ
出演:デブラ・カー、アンソニー・クレンナ、トーマス・ムーア

 密林に現れた巨大ワニ(クロコダイル)を退治する二人の男を描いた前作から数年後、再びやつが現れた。  
いわゆるジョーズ系パニック映画のバリエーション。驚きなのはイタリア映画ということ。しかし、セリフは英語、出てくる人もドウみてもアメリカ人。ワニは手の込んだ張りぼて。このあたりがB級映画らしくて非常にいい。B級映画好きの人にはお勧め。普通の映画好きの人には薦めません。

 すべての仕掛けがわかりやすいところが非常にB級映画らしくていい。川を泳いでいるワニが丸太のように微動だにしなかったり、アングルによって明らかにワニの大きさが違っていたり、これぞB級!というつくりです。
 そして、もうひとつB級なところは映画のつくり。特に登場人物の感情を表すときに使われるのがほとんど顔のアップという非常にわかりやすい構成。黒人の船頭が欲情するときに顔のアップと、視線の先にある尻のアップを交互に見せるところなんかがその典型。
 「映画にA級もB級もない」などといわれますが、こういう映画を見ると、普通の映画の駄作といわゆる「B級映画」との違いがわかります。

ビーン

Bean
1997年,イギリス,89分
監督:メル・スミス
脚本:リチャード・カーチス、ロビン・ドリスコール
撮影:フランシス・ケニー
音楽:ハワード・グッドール
出演:ローワン・アトキンソン、ピーター・マックニコル、パメラ・リード、ハリス・ユーリン

 王立美術館に勤めるミスター・ビーンはいつものように遅刻。いつものように解雇されそうになるが、会長の鶴の一声で今日も首の皮一枚つながった。そんなとき、アメリカ絵画の傑作、ホイッスラーの「母の肖像」を5000万ドルで購入したロス・アンジェルスの美術館から、権威づけのための学者の派遣が要請された。そして、なぜかミスター・ビーンが派遣されることに!
 イギリスから世界的な大ヒットとなったホームドラマ「ミスター・ビーン」の映画版。ドラマのほうを見慣れていると、まず笑い声が入っていないのが違和感。ミスター・ビーンのキャラクターもちょっと違っていて違和感。ネタ的にはあまり変わらないので、楽しめることは楽しめますが。

 これならドラマを見ているほうがいいかも。場面と場面のつなぎ方なんかはまったくドラマのままで映画にしてしまっているから本当に違和感がある。ドラマを見たことがない人が見たらどうなのかはわからないが、一度でもドラマを見たことがあれば違和感を感じることでしょう。  具体的には、ホームドラマのつなぎで多用される画面のフェードアウトが映画でも多用されていること。フェードアウトというのは、次のシーンに映るときに、音がフェードアウトし、画面が徐々に暗転し、暗くなったところで次のシーンが始まるという手法のことを言ってるのだけれど、ホームドラマの場合、ひとつの落ちがあったところでこのフェードアウトによる場面転換があり、そのフェードアウトの間はたいてい笑い声が響いている。しかし、映画だとその笑い声がない。普段ホームドラマを見ていると、笑い声は邪魔な気がするのだけれど、この映画を見て、意外とあの笑い声ってのは重要なんだなと思いました。