ゴールキーパーの不安

Die Angst des Tormanns Bein Elfmerter
1971年,西ドイツ,101分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:アルトゥール・ブラウス、カイ・フィッシャー、エリカ・プルハール、リプガルト・シュヴァルツ

 プロのゴールキーパーのヨーゼフは試合中に審判に暴言を吐き退場処分に。スタジアムから出た彼は街をさまよい、安ホテルに宿を取って目的もなく街をぶらぶらと歩く。そして映画館の受付譲と仲良くなって、彼女の家で一夜をともにしたが…
 この作品は長編としては2作目だが、すでにヴェンダースのスタイルが確立されている。ロビー・ミューラーのカメラは色彩の鮮やかさこそまだ発揮されていないが、構図の作り方は秀逸、クローズアップでの切り返しも鮮やか。ヴェンダースの特徴のひとつである画面のフェイドアウトも効果的に使われている。 

 「不安」という言葉がこの作品をまとめている。この作品は、最終終的にどこかへ向うわけでも、何かが解決するわけでもないことが多いヴェンダースの作品の中でも特に行き先の見えない話だ。ヨーゼフがなぜそれぞれの行動をとったのかはまったく説明されないまま、そしてヨーゼフがいったい何を考えているのかも示唆されないまま、物語は淡々と進んでゆく。主人公への没入を拒否する姿勢。映画に対して第三者でい続けさせられる不安感。観客はその不安感を抱きながら、ヨーゼフの不安を見つめる。この微妙な関係性を作り出すのがヴェンダースの力量なのだろう。観客が安易に主人公に同調して物語世界に入り込んでしまわないように、しかし映画の世界には惹きつけられるようにするという微妙な作業。そのための緻密な計算がこった映像を作らせるのだと感じた。
 この作品は長編第2作目だけあって、その緊張感が緩む場面がたびたびあったが、それによってむしろヴェンダースのやらんとしていることを感じ取れたような気がする。いまだ完成されていないスタイルの魅力にあふれた一作。 

パリ、テキサス

Paris, Texas 
1984年,西ドイツ=フランス,146分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:サム・シェパード、L・M・キット・カーソン
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ライ・クーダー
出演:ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ハンター・カーソン、ディーン・ストックウェル、オーロール・クレマン

 テキサス、砂漠をさまよう男がバーで倒れ、病院に担ぎ込まれる。しかし、男は黙ったまま。男の持っていた名刺からわかったロサンゼルスに住む弟が駆けつける。弟のウォルトは4年間音信不通だった兄トラヴィスをとりあえずロサンゼルスへと連れて行くのだが…
 ロビー・ミューラーの映像は相変わらず研ぎ澄まされており、プロットの作り方も申し分ない。2時間半という長さもまったく苦にならない。ライ・クーダーの音楽が加わることで、画像からなんともいえない哀愁が漂う。
 映画史上最高のロード・ムーヴィーと私は呼びたい。何度見ても飽きません。

 この映画はヴェンダースの積み上げてきた美しい映像世界に、いい脚本が乗っかって成立した。サム・シェパードといえば、「赤ちゃんはトップレディがお好き」とか「マグノリアの花たち」とか、最近では「ヒマラヤ杉に降る雪」などで知られる脚本家。彼にシナリオによって、今まで単調すぎるきらいがあったヴェンダース作品にかなりのアクセントが加わったと言えるだろう。個人的にはヴェンダースの淡々とした作風は好きだが、この作品に限って言えば、シナリオと映像は非常に幸せな出会いをしたといえるだろう。
 映像のほうに話を移すと、ロビー・ミューラーの映像は特に色彩感覚において秀逸なものがある。ローアングルで車の中から見える青空とか、そう、この作品では「空」が非常に美しかった。青空、夕焼け、くもり空、重い雲と明るい空とが微妙に混ざり合った空などなど。あとは、やはりロードムーヴィーだけあって、車の映し方。いちばん面白かったのはトラヴィスとハンターがジェーンの車を追って駐車場に入る場面、赤いジェーンの車が入るときにはかなり近くからローアングルで撮り、車はドアの部分しか写らないまま画面の左へと切れてゆく。それからトラヴィスたちの車が来る間に、カメラはゆっくりと移動して今度は上から映す。彼らの車は画面の左下のほうへと切れてゆく。言葉で説明してしまうとなんということはないのだけれど、そのカメラの微妙な動きがなんともいいんですよ。
 誉めてばかりですが、たまにはこういうのもいいでしょう。 

 今回見ていて気づいたのは、ヴェンダースの仕事の丁寧さ。さすがに小津好きというだけあって、映像の作りこみようはすごい。まず気づいたのは、冒頭、テキサスのスタンドで、卒倒したトラヴィスが、次のシーンでは病院のベットに寝かせれている場面、トラヴィスの額にしっかり瘤が!すごいぞヴェンダース。こだわってるぞヴェンダース。他に気になったのは音のタイミング、電車が来るタイミング、汽笛のなるタイミング、飛行機の爆音の聞こえるタイミング、撮る側にはどうすることも出来ないはずの音が見事なタイミングではいる。これはヴェンダースの根気なのだろうか?
 今回映像的に気に入ったのは、モーテルから逃げ出したトラヴィスが砂漠を歩いて、道路を渡り、フレームから出たタイミングでウォルトの車が画面の端に入ってくる来るところ。今回はかなり「タイミング」に気を撮られたらしい。しかし、この場面のフレーミングは見事な美しさだと思います。

夢の涯てまでも

Until the End of the World
1991年,アメリカ,158分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ピーター・キャリー、ソルベイグ・ドマーティン、ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:グラエム・レヴェル
出演:ソルベイグ・ドマーティン、ピエトロ・ファルコン、エンゾ・チューリン、チック・オルテガ

 1999年、インドの核衛星が軌道をはずれ地球に降ってくることがわかった。フランス人のクレアは渋滞を避けてわき道に入ったところで、銀行強盗の二人組みに出会い、彼らの運び屋をすることになる。そして金を運びながらパリへと帰る途中、追われる男トレヴァーに出逢うが…
 近未来の世界を飛び回る、ロードムーヴィーといってもいいかもしれない映画。映像へのこだわり、移動するということへのこだわりはいかにもヴェンダースらしいが、映像に新しい技術を用いたことの効果は疑問、個人的には幻想的で好きなタイプの映画だが、いわゆる「ヴェンダースらしさ」からは少しはずれている。 

 この映画には280分のディレクターズ・カット版があるらしい。
 と、聞いて大体の反応は「え?耐えられない」と来るだろう。しかし、私は個人的にはみてみたい。なぜなら、予想するに、そのときには旅をして映像を撮影して歩く部分が増えるだろうと予想できるから。150分のバージョンでは、世界中を鬼ごっこのように飛び回る部分と、実験室の部分の長さのバランスがどうもしっくりこなかった。前半をもっと長くするか、後半をもっとコンパクトにするか、そうしないとどうも落ち着きが悪い。
 ヴェンダースがこの映画で問うているのは、移動手段がこのように高速になってゆく世界で従来の「ロードムーヴィー」は可能なのか?という問いではないだろうか?そして、従来のロードムービーへのオマージュとしてあるいは、ロードムービーを捉えなおす手段としてこのような映画を作ったのではないだろうか?
 私はこの映画の理解しがたい冗長さをそう捉えた。だから、むしろこれでいいのだ。もっともっと冗長で退屈な映画になったほうがよかった。280分のほうがよかった。映画であることを拒否するような映画にして欲しかった。というのが個人的な感想である。 

都会のアリス

Alice in den Stadten
1973年,西ドイツ,111分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ファイト・フォン・フェルステンベルク
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:CAN
出演:リュディガー・フォグラー、イエラ・ロットレンダー、リサ・クロイツァー、エッダ・ケッヒェル

 ポラロイドで写真を撮りながら、アメリカを放浪していたドイツ人作家フィリップは持ち金も底をつき、ドイツに帰って旅行記を執筆することにした。しかし、おりしもドイツでは空港がスト、アムステルダム経由で帰ることにするのだが、そのとき空港で出会った女性に娘のアリスをアムステルダムまで連れて行ってくれと頼まれる。
 いわゆるロード・ムーヴィー三部作の1作目。白黒の画面は淡々として余計な説明が一切ない。表情と風景がすべてを物語る。説明がなく、しかも劇的なプロットがあるわけでもないので、その静寂の奥にこめられた意味を探ってしまう。 

 「移動する」ということによって物語りは活気を帯びる。そしてフィリップとアリスの関係も変化してゆく。二人は互いに語ることはほとんどないのだけれど、そこで交わされる言葉にならない交流がこの映画の最大の魅力だろう。言葉にならないのだから、ここで文章で表現するのは難しいのだけど、誤解を恐れず単純化してしまえば、結局のところ焦点となっているのはフィリップの「癒し」なのかもしれない。アリスももちろん主体的に成長する存在として描かれているのだけれど、映画にとっては「従」の存在でしかないのかもしれない。
 という気がしました。しかしこの見方にはきっと異論があることでしょう。異論反論はどしどしお寄せください。 
 あとはやはり映像ですね。ヴェンダースは映像作家といわれ、映像の美しさには定評があるので、ここでことさら語ることはしませんが、彼の「絵」の最大の魅力は「隙」だと思います。何もない部分、何かがあることによって強調される何もない部分(たとえば白く塗りつぶされたようなくもり空)の存在感がなんともいい味を出しています。 

レスキュアーズ~戦火に燃えた勇気/二人の女性

Rescures: Stories of Courage: Two Women
1997年,アメリカ,107分
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
脚本:カイ・ブロック、マーク・ドラッカー
撮影:ミロスラフ・バスザック
音楽:ヒュミー・マン
出演:エリザベス・パーキンス、アル・ワックスマン、セーラ・ウォード、アン・ジャクソン

 ポーランドとフランスにおいてユダヤ人を救った二人の女性を描いた二つの物語。第1話「マムーシャ」は雇い主の息子を救った家庭教師の物語、第2話「自転車に乗った婦人」は南フランスで司教を助けて多くのユダヤ人をかくまった司教秘書の物語。おそらくともに実話に基づいていると思われる。 もともとはアメリカでテレビ用に作られたシリーズもので、他にも「二組のカップル」「二つの家族」というシリーズがある。
 さすがにテレビ映画だけあって、凝った作りにはなっていないが、女性に焦点を当てた辺りがアイデア。「シンドラーのリスト」のような衝撃はないが、淡々と事実を伝えているという感じがして好感は持てる。 

 映画としてはどうということもないが、少し考えさせられることがあった。ひとつは映画として、ドイツ人はドイツ語をしゃべるのに主人公たち(ポーランド人またはフランス人)は英語を(しかも流暢に)しゃべるというのはかなりの違和感があった。アメリカ人はこれに疑問を感じないのだろうか?確かにアメリカの映画の登場人物たちはみな英語をしゃべる。外国映画も吹き替えにしてしまう。だからポーランド人が英語をしゃべるのも当然なのか?これはまあ、だからどうしたという感じの疑問。しかし「映画産業」ということを考えると意外と問題なのかもしれない部分。
 もうひとつは映画からはなれて、この物語の構造が「ドイツ=男性」「ユダヤ=女性」という構図にのっかているように見えること。もっとも象徴的なのはゲートルードと彼女に言い寄る大家の甥の関係。大家の甥はナチスの協力者であって、ゲートルードを強引に口説こうとする男性的な人物。ゲートルードは彼を拒否するものの、被抑圧者でありつづけなくてはいけない。彼女がなしえたのはひそやかな抵抗。ユダヤ人たちがなしえたのは自らを解放することではなく、他者によって解放されること。第2話でも「女性は鍋をかき混ぜているのがいい」というセリフが出てくる。彼女たちはナチスに抵抗したのだから、女性のほうを賛美しているようにも見えるが、それはあくまで賛美であって、その母性の賛美であり、人道的立場からの肯定でしかなく、彼女たち=ユダヤ人たちを主体的な存在として描いているわけでは決してない。もっと言うならば、「ナチス=ロシア=ヴィシー=ドゴール=男性」であり、「ユダヤ=女性」である。「ユダヤ=女性」はたくさんの主体(=男性)に翻弄される、受動的な存在でしかないのである。
 などということを考えながら、映画を見てみました。映画を見てなんだかいろいろなことを考えてみるものいいものですね。 

ドクター・ドリトル

Dr. Dolittle
1998年,アメリカ,84分
監督:ベティ・トーマス
原作:ヒュー・ロフティング
脚本:ナット・モールディン、ラリー・レヴィン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:リチャード・ギブス
出演:エディ・マーフィ、オシー・デイヴィス、オリヴァー・プラット、ピーター・ボイル、リチャード・シフ

 子供のころ、飼っている犬と会話をしているところを父に咎められ、犬と引き離されてしまった経験を持つジョン・ドリトルは優秀な医師となっていた。友人と共同経営する委員の合併問題が持ち上がるころ、家庭では娘のマヤが動物に非常な興味を持つようになっていた。そんな時、ジョンは動物の言っていることを理解する能力を取り戻すのだが…
 1967年にも映画化されたことのある名作児童小説の映画化。今回はストーリーも大きく変えて、舞台は現代にして、コメディ映画に仕上げた。しかし、家族というテーマをかなり大きく出している。
 とりあえず、動物たちとドクター・ドリトルのやりとりが面白い。ファミリー向けには非常にいい映画でしょう。子供の頃、原作の小説が大好きだったんですが、そのイメージを壊すこともなく、しかしまったく違う話として作っているので、好感がもてました。 

 一言で言えば、面白いが、新鮮味はない。エディ・マーフィーでなくても別に良かった。動物が喋っているところ(CG)はかなりうまくできているが、ベイブに先を越されている。と、誉めているようには聞こえませんが、ファミリー向け映画としてみるなら、これでいいでしょう。
 映画を娯楽としてみるならば、ある程度対象を絞ってゆくことが必要であって、必ずしも一般論で映画をきってしまうことがいいとは言えないということでしょう。この映画はいわゆる(芸術としての)映画的な価値から言えば、ほとんど価値がない。なぜなら、新しいところがどこにもないから。何か新しいことを表現しているわけではないから。
 この映画が表現しようとしているのは家族(特に父と子)の問題や、動物や命の大切さ、拝金主義の否定などでしょう。このようなメッセージをコメディという形にくるんで提示すること。今まで幾度となく繰り返されてきたことですが、これはこれでいいということでしょう。 

金星怪人ゾンターの襲撃

Zontar, The Thing from Venus
1966年,アメリカ,80分
監督:ラリー・ブキャナン
脚本:ラリー・ブキャナン、H・テイラー
撮影:ロバート・B・オルコット
出演:ジョン・エイガー、スーザン・ビューマン、アンソニー・ヒューストン、パトリシア・デラニー

 金星人との交信に成功した科学者のキースは、友人の科学者カートが打ち上げた衛星を利用して、金星人を地球に招く。金星人は進んだ科学力を生かして人間たちを操ろうとするのだが…
 50年代のSF「金星人地球を征服」(ロジャー・コーマン監督)のリメイク。いわゆるB級SFで、セットもちゃちい、役者もへたくそ、ストーリーもよめよめ、という感じですが、60年代のSFってこんなもんかということはわかる。 

 私はB級SFはかなり好きですが、これはかなりすごい。何がすごいって、セットが見るからに張りぼて、金星人が人間を襲わせる鳥みたいのが異常にちゃちい。役者がショボイ。あの将軍が死ぬシーンとか爆笑してしまいました。そして金星人の着ぐるみ加減。登場を引き伸ばすから、どんなのがでてくるのかと思えば、仮面ライダーの敵役よりひどい着ぐるみ具合。あー、脱力、苦笑。
 これを裏返して楽しめるほど、私の懐は深くなかったようですが、これでも楽しめてしまうあなたはきっとB級SFの達人。
 という感じですが、この映画を見て感じたのは、「デジタル」という発想の欠如。サンダーバードを見ているときも思ったんですが、60年代というのは、デジタルという発想がなくて、すべてがアナログです。あんなに高性能なロケットがあるのに、発射の秒読みをする時計はアナログ。「あー、そうなんだー、そうだよね」と妙に感心することしきりでした。 

ナビィの恋

1999年,日本,92分
監督:中江裕司
脚本:中江素子
撮影:高間賢治
音楽:磯田健一郎
出演:西田尚美、村上淳、平良とみ、登川誠仁、平良進

 しばらく東京で働いていた奈々子(西田尚美)は、祖父恵達と祖母ナビィの暮らす島へと帰ってきた。奈々子と同じ船で島にやってきた老紳士(平良進)は戦前に祖母ナビィの恋人であったサンラーであった。
 果たしてサンラーとナビィと恵達の間にはどんな物語があったのか?そして、奈々子と同じ船でやってきた大和人(ヤマトンチュ)福之介と奈々子、奈々子の幼馴染のケンジとの関係はどうなるのか?
 沖縄の風景をうまく生かした映像と、アレンジされた沖縄音楽が映画の完成度を高めている。平良進、嘉手苅林昌、大城美佐子ら沖縄の名優・大歌手が脇を固め、味わいのある演技を見せている。 

 大満足。いい画がたくさんあった。たとえば奈々子が自転車でおばを追いかけてゆくところ、ナビィがサンラーの腕をつかんだところで海へパン、何とか商店(名前忘れた)の黄色い建物をローアングルでとって空を抜いたところ、などなど。挿入されるサイレンとも、映画にアクセントを加えるという意味では非常に効果的。そこにつけられた恵達のナレーションも面白い。
 物語で言えば、ナビィと恵達の間の心の動きが穏やかながらも味があり、それを映画的に消化できているので良かった。
 疑問が残るのは、ひとつは恵達の英語まじりの話し方。あれは役者の登川誠仁さんがもともとあういうしゃべり方だから必然的にそうなったらしいが、沖縄の人たちにとって、あのような喋り方がどういう意味を持つのかが少し気になった。
 あとは、ユタが完全に無視されてしまっていること。ユタの言ったことにナビィと奈々子はことごとく歯向かったのだけれど、結局奈々子は子宝に恵まれ、家が滅んでいるようには見えない。これはユタを否定してしまっているということなのだろうか?奈々子が「あの、インチキユタ!」と言う場面があったが、そんなに簡単にユタの聖性を否定してしまっていいのかは疑問が残る。
 と、映画的というよりは社会的(政治的)な疑問を呈してみたわけですが、純粋に映画としては文句なし。恵達の「ゲンキ」Tシャツが欲しい。どっかで手に入るのかなぁ? 

 登川誠仁さんは「沖縄のジミ・ヘン」と呼ばれる三線(サンシン)の名手で、普段から映画どおりの不思議なしゃべり方をするそうです。
 今回見て気づいたのは、夕暮れの美しさですね。それもいわゆる夕暮れのオレンジ色の光というのではなくて、単純に昼間が暗くなった感じの光加減。しかし、もともとの色合いがあまりに鮮やかであるために夕暮れ時の少しくすんだ色のほうが魅力的に見えるというような意味での夕暮れの美しさ。空がスチールブルーになり、人や物の輪郭がぼやけるその時間帯がこの映画の最も美しい時間帯。だからこそ奈々子と福の助のラブ・シーンもこの時間に持ってきたのでしょう。
 それから、今日WOWOWで見ている限りでは「ゲンキ」Tシャツに気づかなかったのだけれど、それは私が単に見落としただけなのだろうね。オリオンビールTシャツばかりが目に付いてしまった。そんな微妙な編集はしないだろうけれど、もしかしたら著作権関係で編集?などと考えてしまいました。きっと考えすぎ。

路(みち)

Yol 
1982年,トルコ=スイス,115分
監督:ユルマズ・ギュネイ
演出:シェリフ・ギョレン
脚本:ユルマズ・ギュネイ
撮影:エルドーアン・エンギン
音楽:セバスチャン・アルゴンケンダイ
出演:タルク・アカン、シェリフ・セゼル、ハリル・エルギュン

 トルコのイムラル島にある刑務所から、ようやく仮出所することができた男たちが家族のいる故郷へと向かう。しかし彼らを待っていたのは必ずしも幸せな家族との再会ではなかった。
 当時トルコは軍政下、いたるところで戒厳令が引かれ、クルド地方ではゲリラの鎮圧が頻繁に行われていた。そのような社会状況の中で生きる人々の苦悩。
 監督のユルマズ・ギュネイは当時刑務所に入っていたため、シェリフ・ギョレンが現場の演出を受け持った。軍政に対する批判的なまなざしと、故郷の自然に対する憧憬。クルド地方の草原、山岳地方の雪山など変化に富んだトルコの自然風景の美しさに満ちた作品。 

 トルコがこんなに気候の変化に富んだ国だとは知らなかった。初夏のような草原、砂漠のような砂地、完全に雪で閉ざされた山岳地。これらの風景の対比が非常に美しい。特に、クルド地方の緑の草原と青い空、茶色い土の家の対比はえもいわれぬ美しさだ。特に、ラストシーン、家のうえに女性が一人たたずんでいるシーンは強烈に印象に残った。
 トルコが抱える社会的な背景は良くわからないが、この社会の不寛容さは悲劇的だ。非道徳的な行動には死をもって報いるという発想。うーん、なんとも。しかし、これを後進的だとか、前近代的だといって片付けてしまってはいけない。むしろそれをトルコというアラブとヨーロッパが衝突する場からのまなざしとして受け止めることによって、様々な問題が浮かび上がってきそうだ。 

ポケットモンスター 幻のポケモンルギア爆誕

1999年,日本,90分
監督:湯山邦彦
原案:田尻智
脚本:首藤剛志
作画監督:一石小百合
音楽:宮崎慎二、たなかひろかず
出演:松本梨香、大谷育江、飯塚雅弓、山寺宏一、鹿賀丈史

 ポケモンの映画版第二弾。今回は、南の島を舞台に守り神のポケモンを捕獲する悪役(声は鹿賀丈史)とサトシたちが戦うというもの。舞台となる島の言い伝えが物語りの鍵となる。
 これが公開されていた去年の夏、イラン映画祭に行くためキネカ大森に行ったところ、親子連れの集団が。「お、キアロスタミは子供にも大人気か!?そんなわけねーな」と思っていたら、スクリーンのひとつでポケモンをやっていました。そのとき改めてポケモン人気を実感したわけですが、この映画、かなり作りがうまくて、いわゆる「子供のアニメ」とはいいきれないものを感じました。
 しかし逆に、いつものポケモンたちの活躍度が低く、「ポケモン」としてはいまいちのような気もしました。 

 冒頭で悪役が乗っているマシンがCGというところでいきなり度肝を抜かれましたが、ほかにはかなり音響に凝っている(音源がいい)、キャラクター設定がしっかりしている。など決して子供のものとはいえないできでした。
 いわゆる「子供のアニメ」(ポケもんとかドラえもんとか東映マンガ祭りとか)と「大人にも向けたアニメ」(宮崎駿とか大友克洋とか)の差が小さくなっているということでしょうか。しかし、この映画は宮崎駿っぽさも目に付き気になりました(たとえば、ラストのエンドロールはまさに「ナウシカ」)。
 日本のアニメ(中でもヒットするもの)は少なからず「ナウシカ」か「アキラ」の影響を受けているような気がしますが、これもその一例でした。