東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

北ホテル

Hotel du Nord
1938年,フランス,110分
監督:マルセル・カルネ
原作:ウージェーヌ・ダビ
脚本:マルセル・カルネ
撮影:アルマン・ティラール
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:ジャン=ピエール・オーモン、アナベラルイ・ジューヴェ、アルレッティ

 パリのとある安宿北ホテル。ある日、若いピエールとルネのカップルが心中を図ろうと逗留した。約束通りルネを撃ったピエールだったが自分に銃口を向けることができない。そして、銃声を聞きつけて部屋へ来た隣室のエドモンに促されホテルを逃げ出す。しかし翌日には自首、ルネも息を吹き返す。
 絶世の美女ルネを中心とした北ホテルの人々の物語。ルネとピエールよりも取り巻く人々の個性が面白い。 

 一言でいうならば、激情型の美女ルネの自分勝手なメロドラマ。プロットなどかなりめちゃくちゃ。孤児院出身という設定もかなりしっくりこない。台詞まわしは非常にゆうがだが、少々理屈っぽいか。マルセル・カルネがアナベラの美しさを引き出した作品と考えれば、それはそれで素晴らしい。周りを囲む脇役たちのキャラクターが絶品。エドモンはかなりいい。最後に昔裏切った仲間に進んで殺されることの必然性はよくわからないが、ダンディズムなのか、それともルネという存在の大きさを表現しているのか。 

ローラとビリー・ザ・キッド

Lola + Bilidikid
1998年,ドイツ,90分
監督:クトラグ・アタマン
脚本:クトラグ・アタマン
撮影:クリス・スキレス
音楽:アルパッド・ボンディ
出演:ガンディ・ムクリ、バキ・ダヴラク、エルダル・イルディス、インゲ・ケレール

 ベルリンに住むゲイのトルコ人少年ムラートは、家父長であり高圧的に振舞う兄とその兄に従順な母との暮らしに息苦しさを感じていた。そんなある日、彼はゲイであることを理由に勘当されたもう一人の兄がいることを知る。物語はムラートと兄のローラ、その恋人ビリーを中心に展開してゆくが、長兄のオスマン、ローラの仲間たち、ドイツ人のゲイの中年男などが登場し物語に深みを与える。
 ドイツにおけるトルコ人の立場、ゲイの立場というものをひとつの事件を舞台として展開させてゆく監督の手腕はなかなか。登場人物一人一人に個性、内面がうまく描かれていたと思う。 

 この映画でまず目に付くのは、ドイツ人のホモフォビア(同性愛者嫌悪)とトルコ人に対する民族差別である。二重に(あるいは三重に)虐げられる存在としてのローラ。彼女(彼)が殺される。しかし彼女=彼が殺される理由はいくらでもあるのだ。ホモ嫌いのドイツ人、トルコ人嫌いのドイツ人、ホモ嫌いのトルコ人、などなど。
 このことがはらんでいるのは、トルコ人という被植民者の「女性化」(ここでは「ゲイ化」)である。ドイツ人=植民者=マチョ=家父長/トルコ人=被植民者=女性的=ゲイというちょっとひねったコロニアリズムが垣間見える。これによってトルコ人のゲイの不遇を描くというのならそれでいい。しかし、この作品が素晴らしいのは、そのように描かなかったこと。より複雑な要素としての家族や様々な愛情をそこに織り込んでいったこと。オスマンにローラを殺された衝動はなんだったのか?それは、オスマンとビリーに共通する要素、ドイツでトルコ人としていきながら、ゲイでありかつマチョとして生きようとすること、その矛盾がオスマンを殺人にまで駆り立てた。社会の歪みを引き受けた存在としてのオスマンとビリーを描くことで、ドイツ社会の抱える矛盾を明らかにしたといえるのではないだろうか?

マーキュリー・ライジング

Mercury Rising
1998年,アメリカ,112分
監督:ハロルド・ベッカー
原作:ライン・ダグラス・ピアソン
脚本:ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ジョン・バリー
出演:ブルース・ウィリス、アレック・ボールドウィン、ミコ・ヒューズ、チー・マクブライド、キム・ディケンズ

 9歳の自閉症の少年が政府の情報局の暗号を解読してしまった。少年は命を狙われ、陰謀に気づいてしまったジェフリーズ捜査官(ブルース・ウィリス)は少年を守ろうと孤軍奮闘する。
 自閉症の少年が特殊能力を持っていてそれのせいで命を狙われるというのは、「シックス・センス」を少し思い出させる。この映画は要するに「ダイ・ハード」。ブルース・ウィリスが戦っていればそれでいい。

 ちょっと、この映画はひどいね。設定も無理があるし(とりあえず、パズル雑誌に国家機密の暗号を載せたりしない)、サイモンに解読できたんだから、ほかにも解読できる人がいるはずだし、それならサイモンを殺すより、暗号を作り直したほうが安全。
 殺し屋がしょぼすぎる。あんな素人みたいな失敗ばかり繰り返す殺し屋(しかも一人)じゃうまくいくもんもうまくいかない。むだな人ばかり殺してる。
 おかしいところを上げていけばきりがないですが、ハリウッド映画なんてこんなもの、という感じがします。ちゃんと作ってある映画も多いけれど、ぽんとブルース・ウィリス出して、なんかちょっとひねったシナリオつくっときゃいいかなっていう安易な作品も多い。

TATARI

House on Haunted Hill
1999年,アメリカ,92分
監督:ウィリアム・マローン
脚本:ディック・ビーブ
撮影:リック・ボッタ
音楽:ドン・デイビス
出演:ジェフリー・ラッシュ、ファムケ・ヤンセン、テイ・ディグス、アリ・ターラー、ブリジット・ウィルソン

 1931年、精神病の犯罪者を収容した病院の火事で、その病院のバナカット医師による人体実験の事実が判明した。それを扱ったテレビ番組をみた大富豪でテーマパークのプロデューサーであるスティーブン・プライス(ジェフリー・ラッシュ)の妻エブリン(ファムケ・ヤンセン)は、自分の誕生日パーティーの場所をその病院にしようと提案する。スティーブは数々の仕掛けを用意し、「一晩生き残ったら100万ドル差し上げます」というメッセージを送ったが、当日やってきたのは、招待した覚えのない人たちだった。

 流行のサイコスリラーなどではなく、純然としたホラー。とにかく怖い仕掛けを五月雨式に繰り出して、ジェットコースターのような勢いがある。リアルさにはかけるが、音響効果など恐怖感を与えるには充分の仕掛けがある。テーマパークに行くような気分でみれば、すっきりして帰れるかも。 

踊るのよ! フランチェスカ

Franchesca Page
1997年,アメリカ,106分
監督:ケリー・セーン
脚本:ケリー・セーン
撮影:クリス・ノー
出演:モーリーン・グリフィン、バーラ・ジーン・マーマン、ロッシ・ディ・パルマ、タラ・レオン、ロンダ・ロス・ケンドリック

 昔ショー・ガールをしていたリタ・ペイジは自分の果たせなかったブロウドウェイの夢を娘のフランチェスカに託し、オーディションに送り込む。しかし、フランチェスカは音痴に運痴、オーディションも大失敗。しかし、あきらめていた二人のもとに合格の通知が…
 「アタメ!」や「キカ」などのアルモドバル作品で知られる怪女優ロッシ・ディ・パルマが悪徳プロデューサー役を熱演。ジャンルとしてはミュージカルとされているが、実際はミュージカル映画をパロディ化し、映画というものをもパロディ化した作品。リタ・ペイジ役のバーラ・ジーン・マーマンやその友人役(名前わからず)の二人が歌って踊るのが本当に笑える。バーラ・ジーン・マーマンはニューヨークでは有名なドラァグ・クィーンらしいので、その素晴らしくそして笑える身のこなしにも納得。

 ドラァグ・クィーンであるバーラ・ジーン・マーマンが普通に女性役として登場するところがこの映画のすごいところ。ドラァグ・クィーンの映画というと、「プリシラ」のようにドラァグ・クリーンの役として登場するのが一般的だし、それを演じる役者が本当にドラァグ・クィーンであることは少ない。そのような意味ではかなり考える材料になる映画でもある。
 よく考えてみれば、フランチェスカはリタの子供で、お父さんはサミー・デービス・ジュニア(笑)という設定になっていて、そのこと自体がパロディ化された親子関係とみることもできる。フランチェスカは本当にリタが産んだ子供という設定なのか? 映画の中でリタは完全に女性として納得されているけれど、なかなか微妙な設定だ。このようなどうとでも解釈できる設定こそがレズビアン&ゲイ映画祭のコンセプトにあっていたということなのかもしれない。ことさらにホモフォビアや偏見を強調するよりも、このような笑いの中に隠されたいかようにも解釈できる現実という要素のほうがむしろ心に訴えかけてくるのかもしれない。それはドラァグ・クィーンの心に通じるのだろう。 

さすらい

Im Lauf Der Zeit
1975年,西ドイツ,176分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、マルチン・シェイファー
音楽:インプルーブド・サウンド
出演:リュティガー・フォグラー、ハンス・ツィッシュラー、リサ・クロイウァー、ルドルフ・シュントラー

 映画館を巡回して、映写機を修理し、フィルムを貸して回る男ブルーノ(リュディガー・フォグラー)がある朝トラックでひげを剃っていると、目の前をものすごい速度で飛ばすビートルが通り過ぎ、川に突っ込んで沈んでいった。その車から現れた男ロベルト(ハンス・ツィッシュラー)は妻と別れて放浪生活をしていた。二人はほとんど言葉を交わすこともなく一緒に旅をはじめる。
 ロードムーヴィー三部作の三作目とされるこの作品はヴェンダースのロードムーヴィーの一つの到達点を示しているのかもしれない。もともと精緻なシナリオがなく撮りはじめたため、まさに旅をしながら物語が生まれてくるという感じになったのだろう。二人の男の人物設定が会って、その二人が旅をするとどのような関係が生まれていくのか?それを決してドラマチックに使用などと考えずに淡々と描いてゆくリアルな物語はまさしくロードムーヴィというにふさわしい。
 この映画で目を引くのは、動いてゆく風景。単に背景としてではなく、ミラーに映ったり、フロントガラスに映り込んだりとあらゆるところに背景が入り込み、それが過ぎ去ってゆく。 

 この映画のこの二人の男は決して前には進まない。いつも進んではいるのだけれど、彼らの旅は何かに向って進む旅ではない。それを象徴するのは最初と最後の移動の場面。最初の移動の場面。トラックに乗り込んだ二人をカメラは脇の窓から捕らえる(はず)。その反対側の窓の向こうにあるバックミラーは過ぎ去ってゆく土地をえんえんと映している(この場面はかなり不思議で、人物にも、窓の外の風景にも、バックミラーの風景にもピントが合っている)。最後の移動の場面、電車に乗り込んだロベルトは進行方向と逆に向かって座る。彼から見えるのは過ぎ去ってゆく景色だけだ。こうして二人の男は前には進まず、停滞し、時だけが流れ去る。彼らのそのような行動が何を意味しているのかを語ることをこの映画は巧みに避ける。彼らは最後、国境の米軍の東屋でわずかながら考えをぶつけ合うけれども、それがゆえに二人はわかれ、別々の方向へと進み始める。
 やっぱりこの作品も語るのは難しかった。黒沢清がどこかで言っていたけれど、ヴェンダースの映画(80年代以前)は「お話がどうも確実にあるようなんだが、それをひとことで言えといわれるとそう簡単には言えないような映画」なのだろう。だからどう書いていいのかわからない。みればわかる、みればわかる。と繰り返すだけ。
 本当にみればわかる。この映画、個人的にはヴェンダース作品の中でいちばん好きかもしれない。 

時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース

Faraway, So Close !
1993年,ドイツ,147分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー
撮影:ユルゲン・ユルゲス
音楽:ローラン・プティガン
出演:オットー・ザンダー、ピーター・フォーク、ナスターシャ・キンスキー、ホルスト・ブッフホルツ、ブルーノ・ガンツ

 『ベルリン・天使の詩』の続編。前作で人間になった親友ダミエルを見守る天使ミカエルは東西統一がなされたベルリンの街を眺めながら、自分もまた人間世界にあこがれ始めていることに気づく。そして、ついにバルコニーから落ちた少女を助けたことによって(人間界への介入)、人間界へと落とされたミカエルの冒険が始まる。
 前作の恋愛物語とは一転、堕天使ニミットを登場させることで活劇的な内容になっている。前作のロマンティックさと比べると、よりリアルに人間世界を描いたということか。ヴェンダースにとっての大きな転換点といえる『夢の涯てまでも』につづいて作られた作品だけに、それ以前のものとは大きく様子をことにし、ヴェンダースの新たな方向性の模索が感じられる。 

 カシエルはダミエルのように明確な目標を持って人間界へとやってきたわけではなかった。それがカシエルの何かが欠落しているという印象を作り、堕天使ニミットに付け入る隙を与えてしまうのだろう。しかし、果たしてこのことはどのような意味を持っているのか?明確なドラマを欠いた主人公カシエルは、しかし表面的には前作よりドラマティックな展開に引き込まれてゆく。『ベルリン・天使の詩』は明確なドラマを持っているという点で80年代以前のヴェンダース作品の中で異彩を放っているのだけれど、それと比べてもこの『時の翼にのって』は違ったスタイルの物語だ。
 この変化を理解するのは難しい。ヴェンダースは『夢の涯てまでも』以降、大きく作風を変えていくわけだけれど、その変化の方向性がまだ見えてこないという感じがする。『夢の涯てまでも』でロード・ムーヴィーにある意味で別れを告げたヴェンダースがいったいどこへ向っているのか、この作品は明らかにしてはくれない。『愛のめぐりあい』をはさんで『リスボン物語』にいたり、ロードムーヴィーに回帰しているように見えるヴェンダースだが、果たしてそうなのか?この作品は「とまった」ヴェンダースが何を語ろうとしているのかを示唆する作品であることは確かだが、何を語ろうとしているのかを理解することは難しい。カオスか?人間か?アメリカか? 

まわり道

Falsche Bewegung
1974年,西ドイツ,100分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ペーター・ハントケ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:リュディガー・フォグラー、ハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキー、H・C・ブレッヒ

 我々は冒頭の街の俯瞰ショットで期待に胸を膨らませる。そして、主人公のヴィルヘルムが拳で部屋の窓ガラスを割るシーンにハッとする。苛立ちと不満感にさいなまれる小説家志望のヴィルヘルムは母に勧められるまま旅に出る。ドイツを縦断するように旅する彼は何かを見つけ出すことができたのだろうか?
 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を底本として書かれたペーター・ハントケの小説の映画化。ヴェンダースのロード・ムーヴィー三部作の2作目に位置付けられる。希望に満ちた若者の旅というよりは、寂寥感や静謐さを感じさせる。これが映画デビュー作のナスターシャ・キンスキーも強い印象を残す。 

 この作品は「ゴールキーパーの不安」と似通ったところが多い。物語の転換のきっかけとして「死」があること。「ゴールキーパー」ではそれが殺人であり、「まわり道」では自殺であるという違いはあるものの、そこで物語が固着するという点は同じだ。そしてヴェンダースが本当に描きたかったのはそれらの「死」の後の話だという点も。単調で退屈に見える、「動き」を奪われてしまったその後の展開は、結局何も始まりも終わりもしなかったたびを象徴するものとしてそこにある。ヴィルヘルムは、最後には山の頂きに立ちはするが、何も生み出さず、何も得られず、何も見つけられなかった。
 ただ、これはヴェンダースが何かを否定していることは意味しない。ヴェンダースはただこれを提示しただけ。ひとつの物語として我々に示しただけだ。彼が私たちに見せたかったのは、「世界」であって教訓ではない。
 この作品が「ゴールキーパー」と違うのは主人公のモノローグ。「ゴールキーパー」では主人公に同化しにくいが、この「まわり道」では我々は主人公の視点でものを見させられる。主人公がモノローグを語りだすと見る側は、彼を観察することをやめ、自分がそのモノローグを語っているかのように錯覚し始める。そして主人公の視点に立ち始めるのだ。
 個人的にはそのように主人公の視点に捉えられてしまうことは非常に居心地が悪かったが、「むなしさ」を強く感じることができたことも確かだ。一般的に言えば感動を誘うはずのラストシーンの雄大な山の景色も、ただ白々しいだけのものに見えた。それは私がある程度ヴィルヘルムの気分を共有していたからだろう。物語の後半が退屈に感じられるのも、ヴィルヘルムもまた退屈しているからだろう。映画が退屈であるというこの事実にヴェンダースの力量を感じた。 

12モンキーズ

Twelve Monkeys
1995年,アメリカ,130分
監督:テリー・ギリアム
脚本:デヴィッド・ピープルズ、ジャネット・ピープルズ
撮影:ロジャー・プラット
音楽:ポール・バックマスター
出演:ブルース・ウィリス、マデリーン・ストー、ブラッド・ピット、クリストファー・プラマー

 2035年、1996年に発生した謎のウィルスによって地球の人口は1パーセントにまで減少し、地上に人は住めなくなっていた。科学者たちはそのウィルスの発生に関係すると思われる「12モンキース」について調べるため、囚人のジェームズ(ブルース・ウィリス)を過去へと送り出すだが、彼が着いたのは1990年だった。ジェームズはそこで精神異常者と見なされ、病院送りになるが、そこで謎の男ジェフリー(ブラッド・ピット)と出会う。
 さすがテリー・ギリアムと思わせる映像、ディテイルの凝りようが素晴らしい。この映画でもうひとつ素晴らしいのはブラッド・ピット。見た後に残るのは「これはブラッド・ピットの映画だった」というイメージかもしれない。 

 ストーリー自体にそれほど新しさはなく、タイムトリップものと終末論ものをうまくミックスしたという感じ。この映画の展開にハリを持たせているのはなんといっても2035年の世界だろう。まさにテリー・ギリアムが好き放題やっという感じの世界像が圧巻。くり返しでてくるのがうれしい。ただ、少し話の展開がゆっくり過ぎる感じもする。物語が展開してゆく中で次の細かい展開がかなり読めてしまうので、「早く進めよ」という気分になる。
 あとはブラッド・ピット。それほど出演している時間は多くないはずなのに、その存在感は他を圧倒。ブルース・ウィリスも決して悪い演技をしているわけではないのだけれど、ブラッド・ピットの本物さ加減にはかなわないだろう。顔の表情、特に目の動きが本当におかしい。