議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。

アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。

クアトロ・ディアス

O Que e Isso, Companheiro ?
1997年,ブラジル,110分
監督:ブルーノ・バレット
原作:フェルナンド・ガベイラ
脚本:レオポルド・セラン
撮影:フェリックス・モンティ
音楽:スチュアート・コープランド
出演:ペドロ・カルドーゾ、フェルナンダ・トーレス、アラン・アーキン

 1969年、軍事政権下のブラジルで理想に燃える学生フェルディナンドは現状を打破すべくテロリスト組織に加わることを決意する。名を捨て、家族を捨て、友人を捨て、テロリスト組織MR8に加わったフェルディナンドはパウロと名を変え、仲間とともに銀行強盗に成功。パウロは彼らの存在をアピールするため、アメリカ大使を誘拐することを仲間に提案する。
 実際にあったアメリカ大使誘拐事件を再現し、映画化。政治的映画としてみることも出来るし、単純にドラマとしてみても十分に面白い。

 まず、この作品の原作は当時の犯人のひとり(おそらく主人公のフェルディナンド)が書いたものなので、かなり忠実に事件の内実を描いている上に、政治的な主張もストレートに盛り込まれている。
 まず、映画としてみてみると、うまく複線が仕込まれ、興味をつなぎながら追えるようになっているところがうまい。少し分かり安すぎる気もしないではないが、観客が気づくように、しかし気づき過ぎないように複線を入れ込むのはなかなか難しいことだと思うので、その点ではかなり優秀な映画でしょう。映画の撮り方としてはまったくアメリカ映画のようで、ポルトガル語を聞かない限りでは、ブラジル映画とは気づかないくらいだった。
 と、映画としてはかなり面白く、さらにはブラジルの政治情勢を映画として描いたというのも、かなり意義のあることだとは思うけれど、実際のところちょっと生っちょろい。
 例えばウカマウの映画と比較してみると、その生っちょろさは一目瞭然。まず、主人公がブルジョワ青年であるという点からして、気に入らない。事実だから仕方がないとはいえ、MR8のメンバーは全員が白人である。果たしてブラジルの人口の何パーセントが白人だというのか? この映画では彼らはヒーローとして描かれているけれど、果たして彼らの理想というものはブラジルの人々の理想と乖離していないといえるのか? さらには、アメリカに対する嫌悪感が彼らの原動力のひとつであるにもかかわらず、ハリウッド映画そのもののような形式で撮るのはなぜか? そのあたりの自己省察が足りないのではないかという気がしてしまう。
 日本にいる我々や、アメリカ(USA)の人たちは、これを見てブラジルに共感する。それはそれでいいだろう。しかし、果たしてブラジルの人々にとってはどうなのか? それを考えずにいられない。
 とはいっても、映画として十分に面白く、メッセージにもそれなりの正当性があり、しかも事実に根ざしたものであるので、見るべき映画だし、見る価値があるくらいに面白い映画ではあります。ポイントはこの映画が送るメッセージがひとつのイデオロギーでしかないことを忘れてはいけないということだけです。

エリン・ブロコビッチ

Erin Brockovich
2000年,アメリカ,131分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:スザンナ・グラント
撮影:エド・ラッハマン
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ジュリア・ロバーツ、アルバート・フィニー、アーロン・エッカート、マージ・ヘルゲンバーガー

 3人の子どもを抱え、仕事を探すエリンはまたも仕事に断られて変える途中、交通事故に遭うが、裁判で負けて賠償金も貰えない。そんな彼女は裁判に負けた弁護士の事務所に押しかけ、無理やり仕事を貰う。その事務所で見つけた不動産書類に疑問を覚えたエリンは独自に調査をはじめ、その裏にある水質汚染の実態を知った。
 史上最高額の賠償金を勝ち取った実在の女性エリン・ブロコビッチを描いたヒューマンドラマ。なんといってもジュリア・ロバーツがはまり役。ソダーバーグの演出もうまい。本物のエリン・ブロコビッチもエリンの家の近所のファミレスのウェイトレス役で出演。

 やっぱりソダーバーグは画面の構成の仕方がかっこいい。最初のエピソードのあと入るタイトル・クレジットも相当かっこいいが、そのイメージを引きずっていると突然交通事故、車2回転みたいな展開もすごくうまい。この人は無駄がないね。2時間を越える映画は多いけれど、その大部分は無駄に時間を引き延ばしているだけ。それと比べるとソダーバーグの時間には無駄がない。「削れば30分短くなるよ」という不満がない。この映画でも、観客は「訴訟に勝つ」という結果をおそらく知っているということを前提に映画が作られているから、いちいち裁判の細かい結果で気を持たせたりはしない。やっぱりソダーバーグはいい監督だ。
 細かい部分のつなぎ方もいい。例えば、エリンがどこかの家をたずねるシーンで、1カット目、ドアに近づくエリンを後ろから撮り、前方にドア。2、3歩あるいて、ドアに着く前にカット、画面が暗くなってノックの音、ちょっと間があってドアが開いて向こう側にエリン。言葉で説明すると何の変哲もないつなぎですが、この流れがすごく滑らか。普通は、ドアまで行ってノックでカット、家の中の人を映してパンでドアまで追ってカット、ドアを正面から撮ってやっと開くという感じ。そういう細かいところも繊細です。おまけにいうと、最後のキャプションというか、事実の部分を述べるところの構成もかっこいいです。
 でも名作ではないですね。1年のスパンで見ると、見るべき映画の一本ということになりますが、名作ではない。頑張れソダーバーグ!
 お話の部分が漏れてしまいました。基本的にはエリン/ジュリア・ロバーツのキャラクター勝ちです。下品で無学で派手な元ミスといういかにも女性に反感を買いそうなキャラクターなのに、非常に母性愛が強くて、正義感も強いという、キャラクター設定(設定ではないのかな?)がすべて。あとはボスのエドさんの気弱そうなところもよし。つまり、ストーリー展開うんぬんよりもキャラで押す。そんなお話だったと思います。

ここから出ていけ!

Fuera de Aqui !
1977年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団
撮影:ホルヘ・ビグナッティ、ロベルト・シソ
音楽:マルセル・ミラン、フレディ・シソ
出演:アンデスの農民たち

 アンデスにあるカラカラ村は姑息な政治屋にだまされないきちんとした意志をもった人々が住む村であったが、羊の皮をかぶった狼には抵抗出来なかった。カラカラ村にやってきた北アメリカの宣教師の一団は無料診療所を作って村人の信頼を勝ち取り、一部の村人を信仰に引き込むが、実際彼らがやっていたのは村人の不妊かと周囲の地質調査だった。
 味方の顔をして村に入り込み、利益をむさぼる北アメリカの帝国主義の実情を事実に基づいて描いた最後のいわゆる「ウカマウ」的作品。

 いままでウカマウが一貫して描いてきたハンヤンキー帝国主義というテーマを再び声高に訴える。扱う対象も『コンドルの血』で扱った平和部隊と重なるものであり、新しさはないし、結末も農民たちが年の労働者との団結を訴えて終わるという予想通りの展開で、ウカマウの映画を何本も見てから見ると、映画としての面白みには欠けるかもしれない。
 まあ、しかしウカマウ映画の本来の目的である反帝国主義という意識の喚起はこの映画でも実現されているのでよいのだろう。
 しかし、ウカマウはこの作品の次には『ただひとつの拳のごとく』というドキュメンタリーを撮り、あるひとつの新たな試みを行う。そしてさらにその次の作品は『地下の民』というよりフィクション性を強めた作品だ。それはこのころからウカマウにとってのひとつの役割が終わりつつあったということだろう。

人民の勇気

El Coraje del Pueblo
1971年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネスとウカマウ
撮影:アントニオ・エギノ
音楽:アベラルド・クッシェニル
出演:シグロ・ベインテの住人たち

 行進するデモ隊、それを待ち受ける軍隊。映画は1942年ボリビアで400人以上の死者を出したカタビの虐殺の再現で始まる。そこからいくつもの虐殺の事実が列挙され、その責任者の名が声高に叫ばれる。映画の中心は1967年にシグロ・ベインテの錫高山で起こった虐殺事件を再現することに当てられる。実際にその虐殺を経験し、生き延びた人々が自らの経験を再現し、演じる。それは見ているものの心をも怒りで震わせる。
 この映画が作られた3年前の1968年、ボリビアでは革命政府が成立し、このような映画を発表することが可能になった。しかし革命政府は脆弱で、アメリカ帝国主義の軛から脱し切れてるとはいえない状態だった。そのような状態でウカマウは革命の継続を訴え、人民を更なる行進へといざなうためにこのような映画を作ったのだろう。

 この作品はウカマウの作品の中でもメッセージがはっきりし、描く題材も具体的でわかりやすい。この映画にこめられているのは、「軍事独裁の時代を忘れない」というメッセージあり、「反米帝国主義路線を歩きつづけよう!」という政治宣伝である。
 そして、その目的を非常によく果たしている。見たものはアメリカと軍事独裁政権の悪行に怒り、震え、拳を突き上げるだろう。そうさせる要因は何なのかといえば、それが事実であるのはもちろんだが、なんといっても音響の使い方にあるだろう。まさに虐殺が起こっているときに鳴り響きつづけるサイレンの音が見ているものの神経を逆撫で、苛立ちを募らせる。それは拷問を受けながらも、殺されることがわかっていながら抵抗出来ない労働者たちの苛立ちに似ている。そんな労働者たちの苛立ちを疑似体験した我々は立ち上がらなくてはならない気分にさせられる。
 とはいえ、私が立ち上がるわけではないですが…
 とにかく、映画にこれだけの力があるということを示すのがウカマウの映画であるということを再認識したのでした。

ウカマウ

Ukamau
1966年,ボリビア,75分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:オスカル・ソリア、ホルヘ・サンヒネス、ヘスス・ウルサガス
撮影:ウーゴ・ロンカル、ヘナロ・サンヒネス
音楽:アルベルト・ビヤルパンド
出演:ネストル・ペレド、ベネディクタ・メンドサ、太陽の島に生活する農民

 インカの民の発祥の地であるチチカカ湖の太陽の島。ここで暮らす農民のマイタは畑で出来た作物を売りに舟で町の市場に出かけた。マイタの妻サビナはマイタの留守中も畑に出て働いていた。サビナが畑から家に戻ると、そこにはマイタをたずねて来た仲買人のラモスがいた。ラモスはサビナを強姦し、ついには殺してしまう…
 ウカマウ集団が「ウカマウ」と名付けられる元になった長編第一作。ボリビアの映画史上でも初の長編映画で、ボリビア大衆に熱狂的に迎えられた。素人であるインディオたちが自分の言葉でしゃべるというスタンスはこのころから現在まで変わることはない。

 ウカマウにとってもボリビアにとっても初めての長編映画。ボリビアという国で初の長編映画というのはかなりすごいことである気もするが、それはやはり、映画という産業がアメリカを中心とする先進国に握られてきたものだということを意味するのだろう。そんな、先進国特にアメリカ(「第一の敵」)のものである映画という手段を自分の側に取り込むこと。このことには大きな意味があったのだろう。彼らが一貫して問いかけ続ける反帝国主義、反アメリカというものが姿勢としてあるのだろう。
 しかし、この映画自体は、白人領主(つまり植民者=コロナイザー)の暴虐を描いたもので、ボリビア国内の問題として描いている。そして、インディオが住む土地がインカ発祥の地であり、インカの聖地である太陽の島だということがわかりやすく、西洋文明と土着の文明の対立構造を浮き彫りにする。
 はっきりいってしまえば、単純な抵抗映画。題材自体は映画に限らず小説などでも繰り返し描かれてきたことであり、それほど真新しいものではない。映画としても画期的な手法が取り入れられているわけではない。むしろ、最近のウカマウの映画と比べると西洋の模倣や稚拙な面が目に付く。
 しかし、それでも、この映画は見る機会があったら必ず見なければならない映画でもあるのだ。ひとつの国で映画が生まれた瞬間。その瞬間を刻んだ映画なのです。

月はどっちに出ている

1993年,日本,109分
監督:崔洋一
原作:梁石日
脚本:崔洋一、鄭義信
撮影:藤澤順一
音楽:佐久間正英
出演:岸谷五朗、ルビー・モレノ、絵沢萠子、小木茂光、磨赤児、萩原聖人

 在日朝鮮人の姜忠夫は同級生の金田が経営するタクシー会社で働いている。二人は友人の結婚式に出席、忠夫はそこで女に声をかけ、金田は同級生の新井と商売の話をする。そんなある日、忠夫はいつものように母の店で働くフィリピン人を店に送っていくが、そこに新しくチーママとして入ったコニーがいた。
 忠夫とコニーの恋愛を中心として、在日朝鮮人の姿を描いた。梁石日の小説「タクシー狂躁曲」を崔洋一が映画化したこの作品はある程度まで事実に基づいているという。全体としてかなり完成度の高いドラマ。

 「在日」というのは身近にあるようでなかなか考えない問題ですから、こういう映画がメジャーなものとしてるというのは非常にいいことなのでしょう。この映画の中に出てくる萩原聖人のようなスタンスが(誇張されて入るけれど)日本人の基本的なスタンスなのかもしれません。差別はしていない、けれど、無意識に差異化してはしまっている。普通に接していれば気がつかないけれど、名前とか、出身校とかそういったことから気づいてしまうと、なんとなく意識してしまうようなもの。
 ここまでは日本人である私の率直な感じ方として書きましたが、しかし、この文章にも在日の人たちがいるかもしれない、というよりむしろいるだろうということも意識せずにいられません。それはつまり、「差異」に対する意識というものが常に差別の培養土となりうるものであり、差異化される側がマイノリティである場合には特にそうであるということを意識しながら、慎重に話を進めてしまうということです。
 そのような(自分の)意識に気づきながらこの映画を振り返ってみると、まずこの映画は誰に語っているのか? ということ。もちろん映画というのは全世界に向けて語りかけられているものであるからには、世界中の人々に向けてということになるのだけれど、第一義的には誰に向けてかということで言えば、日本のマーケットに向けられた日本語のこの映画はまず「日本に住む日本語をしゃべる人々」に向けられているわけです。そこにはもちろん在日の人たちも含まれるわけですが、「日本人」と呼ばれる人に見られることを意識して作られたと考えるのが自然なわけです。
 話が回りくどくなってしまいましたが、そのようなものとしてこの映画を受け入れた上で私が感じることは、「差別を茶化すことによってその差別を回避しようとする姿勢」ですね。これは差別に対応する古典的な手法で、極端な例ではドラァグ・クイーンのようなものがありますが、この映画では、最後に忠夫が、コニーを乗せたときに、「運転手の姜(が)です」といったところがそれを象徴的に表しています。萩原聖人の差異化と無意識の差別をここで茶化し、笑い飛ばすことによって無意味化した。そのようなスタンスで撮られた映画だと私は思いました。
 どうですか? 

鳥の歌

Para Recibir el Canto de los Pajaros
1995年,ボリビア,104分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス
撮影:ラウル・ロドリゲス、レルモ・ルイス、セサル・ペレス
音楽:セルヒオ・プルデンシオ
出演:ジェラルディーン・チャップリン、ホルヘ・オルティス、ギド・アルセリ、ネス・エルバス

 ボリビアのある映画製作集団が16世紀のスペイン人の征服を批判的にとらえなおす映画を撮影する。そのため映画製作集団は山奥の村の村長に約束のとりつけ、取材のために村へと入ってゆくのだが、村人たちは非協力的で撮影に協力しようとしない。一方村では祭りの準備が進み、撮影隊はその祭りを撮影したいという希望を持つのだが…
 ウカマウ自身が『コンドルの血』を撮影する際に出会った障害をもとにして、街に住む白人たちと農村に住む先住民たちの価値観の違いを描いた作品。さまざまな「偏見」がモチーフとなっている。
 全体に映像が非常に美しく、詩的な作品に仕上がっている。

 サンヒネス監督はこの作品について、さまざまな人がさまざまな「偏見」を持っているさまを描いたといっていたがまさにその通り。先住民たちのために映画を撮っているという自負を持っている撮影隊が実は先住民たちに対してさまざまな「偏見」あるいは「差別」を持っているということ、それはボリビア社会が抱える大きな問題なのだろう。その中でもさまざまな「偏見」の形があり、例えばプロデューサーは最初から明らかに差別的な態度をとり、監督はかなり理解を示しているように見えるが、実際はなにも理解しておらず、先住民たちに取り囲まれた時についにその差別意識を露呈する。外見的には先住民であるクルーのひとりは「インディオ」と呼ばれたことを侮辱と感じる。
 そのような偏見や差別のいくらかかが解きほぐされ、なくなりはしないけれど和らいでゆく過程。そのクライマックスとしてのインディオからの贈り物の場面。この場面は感動的だ。ヤギや鶏やさまざまな贈り物をもらって喜びとも当惑ともつかない表情をするクルーたち。しかし彼らは贈り物をしっかりと抱いて坂を登ってゆく。最初から最も偏見が少なかったといえるフェルナンドが鳥の歌(先住民の声のメタファーだと思われる)が聞こえるお守りをもらうのは非常に象徴的だ。
 イデオロギー的な面を離れていると、この映画は素晴らしい色彩に溢れている。ウカマウとしては3作目のカラー作品だが、前作の「地下の民」の色彩より更に研ぎ澄まされた色彩感覚が見られる。「地下の民」の仮面のはっとさせられるような色合いが広げられ、全編に塗り込められたようなそんな色彩感。特に祭りに使う鳥の張りぼての色彩は心に残る。そしてやはりアンデスの山麓の村の風景は非常に美しい。おそらく標高4000メートルを越える場所にある村の澄んだ空気感までが伝わってきそうな映像だった。
 そう言えば、中の映画でインディオたちの家を焼き討ちする場面、インディオたちの家が草で出来ていたこともかなり不思議だったが、そこのインディオたちが裸だったのには度肝を抜かれた。あんなとこで裸で暮らしたら凍死するぞ。てなもんだ。このエピソードは映画クルーたちの偏見あるいは無知を象徴するエピソードのひとつなのだろうけれど、かなり不思議なところだった。

コンドルの血

Sangre de Condor
1969年,ボリビア,82分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、オスカル・ソリア
撮影:アントニオ・エギノ
出演:ウカマウ集団、ボリビアの農民たち

 3人の子供を亡くし、それ以後子供も生れなくなってしまったアンデス地方の先住民の村長のイグナシオは、多くの子供が死に、多くの村の女に子供が出来なくなってしまった自体を危ぶみ、周りの村にも調査をする。そこで浮き上がってきたのは、すべての不幸は北米人の診療所ができて以降に起こってきたということだった。
 ボリビアにやってきた北米の「平和部隊」と呼ばれる人々が秘密裏に行っていた不妊手術を告発するウカマウの長編第2作。いたって素朴な映画だが、先住民の共同体の内部が描かれていて非常に興味深い。物語の構成も時間軸に沿っていくのではなく、複雑に入り組み、物事の全貌を明らかにしていく上で非常に巧妙に練られたものであるといえよう。

 まず、イデオロギー的にこれが反米帝国主義映画であることは間違いない。我々がこの映画によって知ることになったこのような事実はもちろん重要なことだが、それだけでは今の我々がこの映画を見る十分な理由にはならないだろう。
 この映画はウカマウの映画の中でもかなりドラマトゥルギーがしっかりとした映画だ。主人公であるイグナシオが撃たれてしまう事件を発端に、それまでの事件の推移と撃たれて以後のイグナシオに起きる事件を平行させて描く。その2つの出来事の推移によって語られることは同じことであり、それはもちろん権力とその奥に潜むアメリカ帝国主義の不正の告発である。
 そしてなによりも、最後にイグナシオの弟パラシオス(村を出て都市化したインディオ、つまり旧来の伝統的文化・共同体的価値観から切り離されて生きているインディオ)が共同体に戻ってたち上がる。このエピソードこそがウカマウが映画を作った動機であり、それはつまり、この映画を見た都市にすむ先住民たちに、「君たちも共同体に帰ってたち上がるんだ!」というメッセージを送っているのだ。
 このメッセージの受け手ではない我々は、この映画がこれだけ力強くメッセージを伝えていることに驚嘆する。そして物語にひき込まれ、そのメッセージに共感している自分を見つめて納得する。映画にはこれだけの力があるんだと。
 映画の持つ「力」、それは『第一の敵』を見た時にも感じたものだが、この映画のほうがより直接的に人々を動員しうる「力」に溢れている。そのような「力」を映画から感じることが出来る。それだけでもこの映画を見る価値があると思う。