ブルワース

Bulworth
1998年,アメリカ,106分
監督:ウォーレン・ビーティ
脚本:ウォーレン・ビーティ、ジェレミー・ピクサー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ウォーレン・ビーティ、ハリー・ベリー、ドン・チードル、オリヴァー・プラット

 上院議員の再選挙を間近に控えたブルワース上院議員は選挙活動そっちのけで毎日テレビばかり見て、何も食べず、眠りもせずにすごしていた。そんな彼が考えたのは自分の暗殺依頼だった。怖いものがなくなった彼は腹の中の本音をぶちまけ始める。
 ウォーレン・ビーティが監督・脚本・主演したコメディ・ドラマ。振り返ってみるとたいした映画ではないけれど、なんとなく見ているぶんには十分楽しい。パート2とかあってもいいくらいの軽妙さです。

 何も考えずに見られるので、なかなかいいです。政治を舞台にして、人種問題なんかを持ち出してはいるものの結局のところサスペンス・コメディなわけで、それ以上の何かではない。ウォーレン・ビーティーのへたくそなラップが少しずつうまくなっていくのはなかなか面白かった。事件全体のからくりもうまく笑いの要素でこねてあって面白かった。
 ちょっと真面目なことを考えると、政治がらみのコメディが黒人を使うことが多いというのは(「ホワイトハウス狂奏曲」とか)、やはり現在は政治の世界がWASPにある程度支配されているということの反映であるような気がする。だから笑いを作り出すには黒人(しかもWASP階級にどうかしていない黒人)をその世界二歩織り込むことが一番わかりやすいということになる。この映画はそれを裏返してWASPの議員が黒人に「なる」という方法を取ったところが少々新しいのでしょう。
 ということで、なかなか目の付け所のよかったコメディ。ウォーレン・ビーティも捨てたもんじゃない。

17歳のカルテ

Girl, Interrupted
1999年,アメリカ,127分
監督:ジェームズ・マンゴールド
原作:スザンナ・ケイセン
脚本:ジェームズ・マンゴールド、リサ・ルーマー、アンナ・ハミルトン=フェラン
撮影:ジャック・グリーン
音楽:マイケル・ダナ
出演:ウィノナ・ライダー、アンジェリーナ・ジョリー、クレア・デュヴァル、ウーピー・ゴールドバーグ

 ハイスクールを卒業したばかりの少女スザンナは自殺未遂を図り、両親の勧めで精神療養施設クレイモーアに入院することになった。その病棟には若い女性を中心に様々な種類の患者が入院している。スザンナもその患者達と打ち解けたり反目したりしながら、自らの悩みと対面していく。
 実体験を元にスザンナ・ケイセンが書いた原作の映画化に際してウィノナ・ライダーが製作・主演を買って出た作品。女性版「カッコーの巣の上で」と言われてしまうのはいたし方がないところだが、この作品でアカデミー賞を受賞したアンジェリーナ・ジョリーの演技は確かに見応えあり。

 いい映画ではあるけれど、どうしても心のそこから同感は出来ない。特にスザンナには。むしろリサのほうに気持ちが行く。それはアンジェリーナ・ジョリーの演技が素晴らしいからだけではなく、そもそものキャラクター設定の問題なのだろう。入院を一つの経験として(嘘にまみれた)実社会に復帰していくスザンナは結局、それだけなのだ。それに対してリサはといえば、その(病院にまで及んでいる)嘘と無関心に対して徹底的に対抗しようとしている。「精神病もまた個性だ」とまではいわないけれど、精神病を病気として徹底的に押さえつけようとする60年代の精神治療に対して批判的態度を示さないと言うのがどうも引っかかった。
 まあしかし、『カッコーの巣の上で』を考えてみると、ジャック・ニコルソンに当たるのはここではリサなわけで、となるとこの映画もむしろリサ中心に見ていったほうがいいのかもしれないし、そうすれば映画全体がすっきりとしてくる。というような見方をすればかなりいい映画という感じです。
 ということなので、原作に忠実にスザンナを主人公にして描いてしまったところが最大の問題なのかもしれない。
 ウィノナ・ライダーも案外いい演技をしているに、結局のところ主役なのに逆にアンジェリーナ・ジョリーの引き立て役になってしまった。その役割を逆にしてみれば二人とも光を放ったのではないかと思う。

コヨーテ・アグリー

Coyote Ugly
2000年,アメリカ,101分
監督:デヴィッド・マクナリー
脚本:ジーナ・ウェンドコス
撮影:アミール・M・モクリ
音楽:トレヴァー・ホーン
出演:パイパー・ペラーボ、マリア・ベロー、アダム・ガルシア、ジョン・グッドマン

 ニュージャージにすむヴァイオレットはソングライターを目指してNYに上京した。早速空き巣に入られ落ち込んでいるヴァイオレットが入ったカフェでたまたま見かけた元気いっぱいの女の子達がバー「コヨーテ・アグリー」で働いていると聞き、翌日店に押しかけてみることに…
 NYの実在のクラブから着想を得た脚本にヒットメイカーのジェリー・ブラッカイマーがのって実現した映画。監督からキャストにいたるまでほとんどがノーネームの人材ながらかなりの完成度で、気軽に楽しく見られる作品。

 こういう種類のアメリカンドリーム話(恋愛付き)はハリウッド映画のお得意だが、数が多いわりに文句なく面白いものはあまりない。となると「プリティ・ウーマン」的な定評のある有名俳優が出演しているものを見てしまいがち。そんな中で有名な役者といえば、ジョン・グッドマンぐらいで、監督も何も聞いたことないというこの映画はかなりの掘り出し物ということになる。
 何がいいのかといえば、おそらくスピード感。ひっきりなしに流れる音楽というのもいいし、ほとんど止まることがないという印象を与える映像もいい。止まることがないというのはカメラが常に動いているというのもあるし(たとえば、ヴァイオレットと父親が会話する最初のほうの場面では、単なる切り返しなのに、カメラは緩やかにズームインしていた)、1カットが短いということもあるでしょう。後はやはり音楽ですか。屋上でキーボード弾いてるところをクレーン撮影で追うところなど、ちょっと前のMTVのミュージッククリップという感じです。映像が音楽のようにリズムに乗っていて見ているものを引き込む。そのもって生き方が非常にうまいと思います。

 そして、こういったアメリカン・ドリーム話というのは果てることがなく、人気も常にある。広大な田舎とほんの少しの都会、そんな社会状況がこういった物語を次々と生み出す。この映画の主人公の出身地はニュージャージーで別に相遠いわけではない。ニューヨークに通おうと思えば通えないわけではない。しかし、世界的に場所場所間の距離が縮まってきている現代では田舎とはそのようなものでしかないということ。日本ではその状況は特に強まり、ニュージャージというと東京に対する栃木・群馬あたりの感覚だろうか。通勤圏だけれど、そこから東京に出てくる人もやはりたくさんいる。そのような都会の夢というのは逆に都会から田舎へと出て行く人が増える中でも生きているのだなぁと思いました。
 すっかり映画とは関係のない話になってしまいましたが、要するにこの映画のニューヨークというのは田舎の人の視点から見たニューヨークで、それはもちろん日本人の見るニューヨークに近い。すさんだ都会ではあるけれど、知り合ってみればいい人ばかり。実際のところはどうかわからないけれど、イメージとしてはそういうものなのではないかしら。「都会は怖い」と言いはすれ、イメージする材料は自分の経験しかないので、尽きるところ田舎の延長でしかない。本当の経験ではもっともっと予想外のものに出会うんじゃないかという気もします。

 本当に映画とは関係のない話になってしまいましたが、この映画を2度見て、単純な娯楽としてみるその奥を見たら何が見えるか考えてみたら、そのようなことを思いつきました。広げれば「中心-周縁」の文化論見たいなものになるかもしれないので、こういうのも無駄ではないのではなかろうか。

弾丸特急ジェット・バス

The Big Bus
1976年,アメリカ,88分
監督:ジェームズ・フローリー
脚本:フレッド・フリーマン、ローレンス・J・コーエン
撮影:ハリー・ストラドリング・Jr
音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ジョセフ・ボローニャス、トッカード・チャニング、ネッド・ビーティ、ルネ・オーベルジョノワ

 キティ・バクスターが設計した初の原子力バス・サイクロプスが運行しようというときキティの父カーツ博士のいるサイクロプスの研究所で爆弾騒ぎがあり、2人の操縦士が負傷してしまう。代わりの操縦士としてカーツ博士はキティの元婚約者ダンを指名した。
 最初のナレーションで、様々なパニック・ムーヴィーの一つとして紹介されるこの映画だが、実際はパニック映画の完全なパロディ。
 つまりこの映画はドタバタB級な笑い連発のアクション・SF・パニック・コメディ(何じゃそのジャンル)

 最初のほうはB級な笑いのセンスがなかなかよくて、「もしかしてこれは!」と思わせるのだけれど、結局そのままだらだらと最後までいってしまうので、並みのB級コメディという感じになってしまった。何より設定の部分がテキトーすぎる。爆弾がことごとく意味がないとか、結局石油王の仲間達は何にもしていないとか、その部分もパロディなのだろうけれど、設定の部分までパロってしまうと、何がなんだか脈絡がなくなってしまう。ある意味では「オースティン・パワーズ」に似た感じの設定の作品だが、こう見ると「オースティン・パワーズ」ってのはなかなか優秀なパロディなんだと思ってしまう。
 意外と面白いところがあったのに、それが全体に生きなかったのが残念。バスのじゃまをする親分みたいな人がもっと表面に出てきて対決構造が明らかになったらよかったのに。字幕にはでてなかったですが、なんかおじいさんがタイタニックを沈めた見たいなことを言っていたので、そのあたりの設定は意外と深そうなだけに残念。

こわれゆく女

A Woman under the Influence
1974年,アメリカ,145分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:マイク・フェリス、デヴィッド・ノウェル
音楽:ボー・ハーウッド
出演:ジーナ・ローランズ、ピーター・フォーク、マチュー・カッセル、ニック・カサヴェテス

 ニックは労働者仲間のリーダー格だが、神経症気味の妻メイベルを持て余し気味。しかし、妻を愛していることに疑いはない。そんな2人がゆっくりと過ごそうと三人の子どもを母親に預けた日、突然の落盤事故でニックは帰れなくなってしまった。神経が高ぶったメイベルは徐々に様子がおかしくなり、バーで出会った男を家に連れ込んでしまう…
 いかにもカサヴェテスらしい、落ち着きのない物語。愛と狂気というテーマをそのままフィルムに焼き付けたという感じの生々しい映画である。ピーター・フォークとジーナ・ローランズがなんといっても素晴らしい。

 カサヴェテスが描くのは、自己と周囲との齟齬感であるのかもしれないとこの映画を見てふと思う。あらゆるものから疎外されている感覚がそこにはある。メイベルはもちろんのこと、登場するすべての人物が疎外感を感じている。子ども達でさえもそう。だから、あの海への旅があれほどぎこちないものになってしまう。メイベルの狂気とは、そんなすべての人が感じている疎外感・齟齬感の鏡として存在している。だから、みながメイベルを見て不安になり、他方でメイベルに愛情を感じる。それを最も端的に表しているのはニックの母であり、彼女はある意味でメイベルの対極にあるのだろう。彼女の無神経なころころと変わる態度は、その疎外感や齟齬感を自己の中で解決しようとするのではなく、他人になすりつけることから来るのだろう。
 カサヴェテスの映画はそういったことが(直接にはいわれていないにもかかわらず)伝わってくる映画だ。
 そしてカサヴェテスの映画はそんな物語に引っ張られて、画面を冷静に見ることが出来ない映画でもある。面白いフレームがたくさんあって、「あ、カサヴェテス!」という映像があるのだけれど、いざ冷静に見てやろうと思っても、結局物語のほうに引き込まれてしまって、見ることが出来ない。今回、一番頭に残っているのは、ピーター・フォークがフレームの左側にいて、背中と右手だけが映っていて、奥のほうにジーナ・ローランズとその父がいる場面。そのフレームの配置はすごくよい。ピーター・フォークの手もすごくよい。

愛の奇跡

A Child is Waiting
1963年,アメリカ,102分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:アビー・マン
撮影:ジョー・ラシェル
音楽:アーネスト・ゴールド
出演:バート・ランカスター、ジュディ・ガーランド、ジーナ・ローランズ、スティーヴン・ヒル

 知恵遅れのための施設に連れてこられた一人の少年ルーベン。その施設はクラーク博士のもと新しい試みを行っていた。そこに新任の音楽教師ジーン・ハンセンがやってくる。ジーンはルーベンには2年間面会が来たことがないと聞き、徐々に彼に愛情を注ぐようになるが…
 「手錠のまゝの脱獄」などで知られるスタンリー・クレイマーのプロデュースによって、カサヴェテスが監督した作品。前作の「アメリカの影」とはうって変わって非常にオーソドックスなつくりになっているのは、カサヴェテスの思い通りには撮れなかったことを意味しているのだろう。

 時代もあるのだろうけれど、差別意識というか、精神病者や知恵遅れに対する意識の違いというものを感じる。だからというわけではないですが、映画そのものにあまり入り込めない。こういうなんだか行き先のはっきりしているストーリーだとカサヴェテスのよさが消されてしまうというか、カサヴェテスの荒っぽさが逆にあらに見えてしまって、ただ退屈になってしまう。時折カサヴェテスらしいカットがあったりするのだけれど、なんとなく退屈な感じです。
 なかなか表現するのは難しいですが、カサヴェテスの緊迫感が全体的に緩められてしかも単調になったという感じ。

フェイシズ

Faces
1968年,アメリカ,128分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:アル・ルーバン
音楽:ジャック・アッカーマン
出演:ジョン・マーレイ、ジーナ・ローランズ、シーモア・カッセル、リン・カーリン

 ある会社のオフィス、社長が幾人かの客を出迎えて、映画を見せる。その映画が「FACES」。映画はこの劇中劇として進むが、映画を見せる社長自身が主人公リチャードである。
 リチャードは友人と娼婦ジェニーの三人でのんだくれ、楽しい一夜を過ごす。その日は何もせずに帰ったリチャードだったが、ジェニーに惚れ込み、次の日には妻につい「離婚しよう」と言ってしまう…
 カサヴェテスが家を抵当に入れ、俳優業で稼いだ資金をすべてつぎ込み、ボランティアのスタッフに頼り、完全独立資本で作成したインディペンデント・フィルム。この映画を見ると、映画というものが一回性のものでもう二度と同じ物は撮れないのだということを実感させられる。

 「フェイシズ」という題名の通り、執拗に映し出されるのは顔・顔・顔、しかも周到に用意された空虚な笑い、その笑いがクロースアップで繰り返し々映し出される様はいらだたしい。しかし、そのいらだたしさは、快感へ向けた茨の道。「アメリカの影」でも述べたように、カサヴェテスのフィルムの魅力の一つは前半の苛立ち・焦燥感にあると私は思う。だからその焦燥感が映画の3分の2、下手すると4分の3にわたっても決して苦痛ではない。
 そして、ようやく快感がやってきたのはリチャードがジェニーと二人っきりになれた場面。そして、納得がいったのはその次の朝、リチャードが「普段の君を見せてくれ」と言い、「真面目なんだ」とそれこそ真面目な顔でつぶやくシーン。その瞬間私の頭の中ではそれまでのシーンが一気にフラッシュバックされ、あらゆる笑い顔の奥の真の意味に気づく。「フェイシズ」の複数は、いろいろな人々の顔ではなく一人の人間の複数の顔を意味している。彼らの笑い顔のあけすけな空虚さはこのときのために周到にしつこいまでに繰り返されたのだということ。
 つづく妻のエピソードはそんな考えを強化する。妻のマリアだけが複数の顔を持たない。夫にもチェットにも同じ顔で接する。そしてチェットは複数の顔を持つ男。このシーモア・カッセルはかなりいい。顔を歪ませるような笑顔がなんともいえない。

クッキー・フォーチュン

Cookie’s Fortune
1999年,アメリカ,118分
監督:ロバート・アルトマン
脚本:アン・ラップ
撮影:栗田豊通
音楽:デヴィッド・A・スチュワート
出演:グレン・クローズ、チャールズ・S・ダットン、リヴ・タイラー、ジュリアン・ムーア、クリス・オドネル

 小さな田舎町、もういい年のウィリスは今日も酒場で酒を飲み、小ビンを一本失敬して、窓から家に侵入。戸棚から銃を取り出し… しかし、そこは大の仲良しクッキーの家。クッキーに銃の手入れをすると約束していたのだった。
 そんなのどかな町に一つの事件が…
 アルトマン流サスペンスコメディ。  アルトマンの作品はいつでもどこでも安心してみることが出来る。わかりやすい筋、適度なスピード、好ましいキャラクター設定、どこをとっても平均以上。アルトマンの作品の中でも平均以上。でも、傑作には…

 どうしてこんなに安心してみていられるのか? 最初からのんびりとしたペースで始まり、しかしそれなりに複雑な筋立てが出来ていき、ちょっと緊迫したりするけれど、結局のところそれがちっとも深刻ではない。グレン・クローズはひとり悪役を引き受けることで、全体はすっとまとまり、なんとなく顔に浮かんでくる微笑に満足しながら最後までそっと見守る。そんな映画。
 やはり、チャールズ・S・ダットンとリヴ・タイラーのコンビがいいのでしょうね。もちろんブルースハープとギターの音も効果的だし、カット割とかも巧妙に計算されているし、光の使い方がすごくきれいだし、それはそれでいいのだけれど、結局この2人の存在感とほのぼの感を後押しするものでしかないような気がする。
 しかし、意外とこの映画は好みに左右されるのかもしれない。このアルトマンのペースがまどろっこしいと思う人も多いかもしれない、本筋と関係ない芝居の話や、芝居のせりふが執拗に挿入されるのにもなじめないかもしれない。しかし、その余分なところがアルトマンの映画には重要で、その余白(では必ずしもないのだけれど)が作り出す転調がアルトマン映画の命。
 ところで、カメラマンの栗田豊通さん、私は知らなかったんですが、ハリウッドで何本かカメラを持ち、昨年は御法度のカメラをやったらしい。それほど際立って美しいとか面白い映像を撮っているわけではないですが、映像が澄んでいる感じで、なかなかいいんじゃないでしょうかねぇ?

イグジステンズ

eXistenZ
1999年,カナダ=イギリス,97分
監督:デヴィッド・クローネンバーグ
脚本:デヴィッド・クローネンバーグ
撮影:ピーター・サシツキー
音楽:ハワード・ショア
出演:ジェニファー・ジェイソン・リー、ジュード・ロウ、イアン・ホルム、ウィレム・デフォー

 ゲームポッドという人体に直接接続するゲームがあたりまえの時代。天才ゲームデザイナーのアレグラ・ゲラーは画期的なゲーム「イグジステンズ」を開発した。そのはじめての試用会の席でゲラーは奇妙な銃で少年に狙撃される。ゲラーは会場整理をしていたテッドと逃げるが、ゲームに損傷があるかもしれないと言い、テッドに一緒にゲームの中に入ってくれと頼んだ。
 クローネンバーグが相変わらずの独創的な世界観でバーチャルリアリティゲームの世界を描いた近未来SF。クローネンバーグはクローネンバーグだが、ストーリーといいモチーフといいキャスティングといい、クローネンバーグ初心者でもそれほど抵抗なく入っていける作品になっている。逆にコアなクローネンバーグファンには物足りないかもしれない。

 グログロのところはクローネンバーグらしさ万点だけれど、結構入りやすいストーリーとコンセプトがクローネンバーグらしくない。「Mバタフライ」に次ぐくらい一般受けしそうな作品。ジュード・ロウが出ているというのも大きいけれどね。
 しかし、小道具はクローネンバーグらしくていい。こんな世界を描いたので印象的だったのは「裸のランチ」。この映画は原作がバロウズということでストーリーなんてのはないも同然、ただ猥雑で混乱した世界が延々と続くというまさにクローネンバーグの真骨頂という感じだった。それと比べると非常におとなしい。それに、CGと分かってしまうCGを使ってしまったクローネンバーグはいかがなものかと思ってしまう。
 ここまでのところではあまり評価していないように聞こえますが、実のところすごく好き。クローネンバーグにしては分かりやすいといっても、複雑は複雑で、その複雑さが恐怖をあおり、それが映画だけにとどまるのではなくて実際の現実にまで及んできそうな恐怖である。そこがいいところ。実際そんなゲームを体験してしまったら、現実を現実として信じられなくなるのはあたりまえのことかもしれない。そしてゲームの中ではまだ自分がゲームの中にいるのかどうか信じられなくなるということも。この虚構と現実という普遍的な対立をゲームというメディアを使ってうまく消化し、しかも非常にこなれたストーリーで描いた作品といえる。
 だから、この映画はコンセプトとストーリーテリングが非常に優秀で、クローネンバーグ的な部分をうまく覆っている。だからそれなりにクローネンバーグらしさを発揮しながらもちゃんとしたエンターテイメント作品に仕上がっているわけだ。この辺は微妙なところで商業主義に走ってクローネンバーグらしさを失ってしまったと見ることも出来るが、私はストーリーテラーとしてのクローネンバーグとカルトな映像作家としてのクローネンバーグがうまく融合したものと考えたい。