黒の切り札

1964年,日本,92分
監督:井上梅次
脚本:長谷川公之
撮影:渡辺徹
音楽:秋満義孝
出演:田宮二郎、宇津井健、藤由紀子、万里昌代

 同じ難波田という男に組をつぶされたやくざ者と父親を自殺に追いやられた社長の息子。この二人が難波田に復讐をしようと組んだのは難波田の経営するナイトクラブでサックスを吹く謎の男・根来。三人はある夜、極東信用金庫に盗みに入った…
 「黒」シリーズの10作目はシリーズでともに主役を張る田宮二郎と宇津井健が共演。いつものヒロイン藤由紀子も出演し、シリーズとしても「切り札」を切ったという感じ。

 田宮二郎はかっこよく、「黒」シリーズは面白い。それがどのように面白いのか考えてみる。たとえば「火曜サスペンス」とどのあたりが違うのかを考える。
 一番違うのは画面の作り方だろう。テレビで見られることを主眼としたテレビドラマとスクリーンでかけられることを前提とした映画の違い。もちろんシネマスコープサイズというのもあるけれど、ものの配置の仕方が違う。そして、カメラの動き方が違う。多くのテレビドラマはカメラ動きすぎる。ズームアップしたり、走っている人を追ってみたり、それは緊迫感を高めるひとつの技術ではあるけれど、カメラが動きすぎることによって失われるものもある。
 テレビドラマの中にも面白いものはあるので一概には言えないのですが、傾向としてはそういう感じだということです。結局のところ、このあたりのシリーズものの娯楽映画がテレビドラマの源流のひとつとなっているので、根本的な違いはそれほどないはず。もっとも大きな違いといえば、スポンサーからお金をもらってただで放映するのか、それともお客さんからお金を取って上映するのかという違いでしょう。
 お金をとってお客さんを呼ぶ以上、お客さんの興味を引くような映画でなければならない。その意味でこの映画はヒットシリーズもので、二人のスターが出演しているから、お客さんの興味を引くことは確か。しかし、内容はといえば… 今のテレビドラマと特に違いはないくらいの質でしょう。何百本もの映画が作られていたこのころ、映画の質はピンキリということですね。そんな中では中くらいの出来だと思います。
 今日は話がばらばらになってしまいました。結論としては「火曜サスペンス」と根本的には違わないけれど、田宮二郎とシネスコと映画の質が違うということです。後はメディアが違うということも結構影響があるでしょう。
 そして田宮二郎はやはりいいということ。

放浪記

1962年,日本,123分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井手俊郎、田中澄江
撮影:安本淳
音楽:古関裕而
出演:高峰秀子、田中絹代、宝田明、加東大介、小林桂樹、草笛光子

 両親と行商をしながら全国を転々として少女時代を暮らしたふみ子は本が大好きでいつも本ばかり読んでいる。女学校を卒業し、母と二人東京に落ち着いたが、母は九州にいる父を助けに九州へといってしまう。一人暮らしをはじめたふみ子だったが仕事はなかなか見つからず、貧しい生活を送っていた…
 林芙美子のデビューのきっかけとなった自伝小説の映画化。成瀬が映画化した林芙美子の作品としては最後の作品となった。林芙美子自身の文章をキャプションに使い、かなり原作を反映させた作品となっている。

 冒頭から何度も入る。文字によるキャプション「○月×日 …」。この言葉はすごく美しく、ぐっと心に響いてくる。もちろん原作ままの文章をキャプションとし、それを高峰秀子が読むという形なのだけれど、原作ではおそらく無数にあるであろうその文章の中から本当に心に響く言葉を選び出し、効果的な配することができるのは映画の力だ。原作者-脚本家-監督の絶妙のコラボレーション。ただ、この文章も映画の終盤になるとその威力を弱める。映画の中でも言われている「貧乏を売り物にしているのが鼻につく」ということだろうか?それとも単純にその言葉に慣れてしまうからだろうか? あるいは映画のテンポにあまりに変化がなさ過ぎるからか?
 基本的にこの映画はドラマが最大の魅力であると思う。ふみ子のまさにドラマティックな人生。そのドラマにこそ観客は入り込み、ふみ子に自己を投影する。あるいはふみ子を影から見つめている保護者のような立場に自分を置く。だから福地が登場すると「こんな男にはだまされるなよ」などと思ってしまう。ふみ子の味方として映画の中の世界の隣に佇む。そんな立場で映画を見ることができるのはすばらしい。それはもちろん成瀬のさりげない演出、子供のころふみ子が画面の奥でいつも本を読んでいるとか、本郷の下宿の建物が微妙に傾いているとかいうことも重要だし、高峰秀子の非常にうまい役作り、しゃべり方や表情も重要なのだろう。しかし、これも終盤になると弱まってしまう。なんとなくふみ子にわずかに反感を覚えてしまったりもする。感覚としては映画の中の世界からぽんと外に放り出されてしまったような感じ。ふみ子という存在がすっと遠くに行ってしまったような感覚を覚える。これも成瀬流の演出なのか? 最後にクライマックスを持ってきて感動の涙を流させようとするいやらしいハリウッド映画とは違う成瀬の「いき」なのかとも思う。
 ある意味では絶妙な終わり方。パーティーでの福地のぶった演説はすごく感動的だった。しかしそれはふみ子の敵であったはずの福地の呼んだ感動であり、単純な勧善懲悪のドラマの裏切りである。一人の立場に入り込んで映画を見ると、ほかの人を善悪に二分しがちで、この映画もその例外ではないのだけれど、しかし、福地の演説に限らず終盤でこの二分論を裏切ることで映画全体を複雑で味わい深いものにしているのも事実である。この関係性の転換というか書き換えがシンプルなドラマとしてとらえた映画にとっては違和感になってはいるけれど、逆に深みを出してもいるといえるのではないだろうか?

晩菊

1954年,日本,102分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:田中澄江、井手敏郎
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子、沢村貞子、細川ちか子、望月優子、上原謙

 広い屋敷に聾唖のお手伝いと二人暮しのきんは不動産を売買したりしながら小金を貯めこんでいる。昔の芸者時代の友達にも金を貸し、足しげく取り立てに向かう。そんなきんときんから金を借りている3人のむかしの仲間。40を過ぎ、華々しい生活とは離れてしまった彼女たちの日常を淡々と描く。
 「めし」と同様、成瀬巳喜男が林芙美子の原作を映画化。味のある女優たちを使って渋くて味のあるドラマを作ったという感じ。

 この作品はすごく面白い。それはここに登場する主に4人の女の人たちが非常に魅力的だからだ。主人公の“きん”を演じる杉村春子はもちろんだが、他の沢村貞子、細川ちか子、望月優子も本当に素晴らしい。なかでも、いちばんよかったのは望月優子演じる“とみ”である。
 他の3人がかなり名前がある女優であるのに対し、この望月優子だけはかなり地味である。しかし彼女は劇団のたたき上げであるだけに確かな演技力を持ち、脇役としてはかなり活躍していたし、1953年の木下恵介監督の『日本の悲劇』では見事に主役を演じ、毎日映画コンクールの女優賞も受賞している。ちなみにだが、71年には社会党から参議院選に出馬し当選、女性層の支持が強かった。
 その望月優子がこの作品で見せる演技は本当に素晴らしい。彼女はどっかの寮で掃除婦をしていて、細川ちか子演じる“たまえ”とひとつ家に同居している。最初に登場するのはそのたまえへの借金の催促に行こうとするおきんがたまえがいるかどうかをとみに確かめに来るのだ。とみはおきんからは借金していないが、寮の若い男から借金しているらしく、催促されるのだが、それを色目だかなんだかわからない表情をして「もうちょっと待ってよー」と甘ったるい声でいう。この独特の雰囲気でもうかなり面白い。
 さらにはギャンブル好きの酒好きという設定で、映画の終盤で細川ちか子とふたりで酔っ払うシーンがまた面白い。文字で書いてもちっとも面白くないと思うので、詳しく書く事はやめるが、中年女性さもありなんという感じのふたりの酔っ払い具合と関係がほほえましくも面白い。
 この望月優子と細川ちか子はもう大きい子供がいて、夫はいないという点で共通点があり、ひとつのわかりやすいキャラクターとして成立している。望月優子がもと芸者であったのに対して、細川ちか子のほうはそうではなく、仲居だったようなことを言っていた気がするが、今では別な形ではあるがふたりとも掃除をして生活している。
 この夫なし、子供ありの水商売の女性というのは成瀬映画にたびたび登場してきたキャラクターである。小さな子供を抱えながら生活して行くためにバーで働かなければならない女性、その女性のなれの果てというか、十数年後がこのふたりということになるのだろう。その点でもこのふたりのキャラクターは面白い。子供がいれば幸せだという母性の肯定も実は成瀬が女性を描くときの特徴のひとつだったのだとこの作品を観ながら思う。
 成瀬映画といえば自立しようとする女性が主人公で男や家族がその足かせになる。というものが多く、普通に考えたら子供も足かせになりそうなものだが、成瀬の考え方はそうではない。子供は女性の自立のうちに入っており、子供を抱えながらも独立独歩頑張って行くという女性を成瀬は応援するのだ。

 それに対して、沢村貞子が演じるのぶは成瀬が描く女性の典型から外れている。なんと言っても夫婦仲がよい。夫(沢村宗之助)は情けない男の類型に入りそうだが以外にしっかりしていて、妻の尻にしかれているような体裁をとりながら妻との関係をうまく保っているようだ。つまりふたりは幸せなのだ。沢村貞子があまり登場しないのは、幸せな人を描いてもあまり面白くないからだろう。
 そして、杉村春子である。杉村春子は成瀬が描く重要なモチーフである女と金を集約したようなキャラクターである。しかも最終的に金に頼ることを選択した女、成瀬は女は男に(その男は必ず情けない男なのに)頼ってしまうという女の生き方を書き続けてきたが、ここで男に頼らない女、お金に頼ることで一人で生きて行く女を描いた。それは、彼女が散々男に苦労してきたからであるが、やはりじつは、男に頼りたいというかやっぱり男が好きで、上原謙演じる田部がやってくるのをうきうきと待ったりする。
 そのうきうきとした姿を金を勘定している彼女の姿と対比してみると、杉村春子という女優がいかにすごいかがよくわかる。そのどちらが本当の彼女の幸せか、あるいはどちらも幸せではないのか、どちらも幸せなのか、そのあたりの微妙な心理を見事に演じきっている。そしてその彼女の心理の機微や心境を見事に演出する成瀬も非常にうまい。私は、映画の最後の最後、杉村春子が駅の改札を抜けようとするときに、切符をなくしてあっちこっちを探すシーンがとても好きだ。

<前のレビュー>

 本当にただ元芸者の4人の女たちの日常を描いただけの物語。何か事件が起こりそうな雰囲気はあるのだけれど、結局何も起こらず、淡々と終わる。それでも、あるいはむしろそのことで、4人の女たちのそれぞれの人間性のようなものが見えてくる。しかも、それは単純にキャラクタライズされた紋切り型の人間性ではなく、どこか多面性を持っているもの。もちろん人間誰しも多面的で、一つのキャラクターに押し込むことはできないけれど、映画という限られた時間の空間の中で、その多面性を描くのは難しいと思う。しかも、何かの事件があって、そこから明らかになっていくのではなく、シンプルなまったく日常的な交わりの中でそれを描いていくということの難しさ。そして、その難しさを感じさせないほどさらりと描ききってしまう「いき」さ。そこにやはり成瀬のすごさを感じてしまう。
 しかし、そうはいってもこの映画はあまりに渋い。その渋さを破るのは、きんの家の昼の場面でかならずなっている何かをリズミカルに叩く音(何の音だろう?)と物語の終盤で突然入る杉村春子のモノローグ。このふたつの変化球は映画全体を純文学的にしてしまうことを防いでいる。言葉にならない感情の機微を観客に読み取らせようとするような難解な映画にはせず、渋いけれども肩を張らずに見れる映画にしていると思う。特にあの音は、お手伝いさんが聾唖であることもあって無音になりがちな家の場面にさりげなく音を加える。単純なリズムであることで、音楽のように余分な意味がこめられることもない。あの場面が無音だったら、と仮定してみると、きんはもっと思いつめた、何か心ぐらいことか差し迫った理由があってお金儲けをしているように見えてしまったかもしれない。そう考えると、あの単純なリズムによって主人公のキャラクターが軽くなり、映画も軽くなったということができるような気がする。
 そういうさりげなさが成瀬巳喜男の「いき」さの素なのだと思います。なるほど、もともと女性を描くのがうまい成瀬がお気に入りの女流作家林芙美子の作品を映画化すれば、こうなるよね。という作品。

降霊

1999年,日本,97分
監督:黒沢清
原作:マーク・マクシェーン
脚本:黒沢清、大石哲也
撮影:柴主高秀
音楽:ゲイリー芦屋
出演:役所広司、風吹ジュン、石田ひかり、きたろう、岸部一徳、哀川翔、大杉漣、草なぎ剛

 心理学の研究室の大学院生早坂は霊的な減少に興味を持ち、霊能力を持つという純子を実験に呼ぶ。しかし、教授は早坂の考えに理解を示すものの、実験には反対し、実験は中止となった。そんな純子の夫克彦は効果音を作成する技師で、ある日音を取りに富士山のふもとへ向かった。そこには誘拐された少女が犯人とともに来ていた…
 現代日本ホラーの代表的な監督の一人黒沢清が手がけたTV用のホラー映画。黒沢映画常連の役所広司を主演に起用し、質の高い物を作った。

 霊的なものを扱ったホラー映画の怖さはやはり、いつどこに出てくるかわからないというところ。それは、たとえば連続殺人犯も同じことで、ホラー映画の基本とも言える恐怖感。この映画はその怖さを非常にうまく出している。カメラがいったんパンして戻っていくと、誰もいなかったところに人影があったりする効果。その怖がらせ方がとてもうまい。
 それはホラー映画としては普通の部分だけれど、この映画に独特なのは、その霊がなぜ怖いのかよくわからないところ。よく考えてみると、普段語られる霊というのはあまり実害は及ぼさず、何が怖いのかといえば、その存在自体ということになる。この映画に登場するのもそんな存在自体に人々が恐れてしまうような霊。その具体的ではない恐怖の演出の仕方というのもうまい。そして存在自体が怖いということの、その怖さの下はどこにあるのかと考える。そう考えていくと…
 といっても、具体的な恐怖がないので、いわゆるホラー映画のような怖さではない。脇役で登場する豪華なキャストたちのキャラクターもあって、どこかおかしさもある怖さ。そのあたりのバランスの取り方もうまいです。

雨月物語

1953年,日本,97分
監督:溝口健二
原作:上田秋成
脚本:川口松太郎、依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄太郎

 戦国時代、近江の国の農村で焼き物を作っていた源十郎は戦に乗じて町で焼き物を売り小金を手にする。女房の喜ぶ顔を見て調子に乗った源十郎は侍になるための金がほしい弟籐兵衛とともに大量の焼き物を作り始めた。そしてついに釜に入れたとき、村に柴田の軍勢が来たため、やむなく山に逃げることになってしまったが…
 『雨月物語』を川口松太郎らが大胆に脚色し、溝口が監督をし、宮川一夫がカメラを持って、日本映画史上に残る名作に仕上げた。外国での評価も高く、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を得た。

 原作が「雨月物語」だけあって、かなりドラマが太い。技術や演出がどうこう言う前に登場人物たちのドラマに引き込まれる。宮木を除く3人の行く末は大体予想がつく。しかし、それでもその悲惨さというか、やるせなさに心打たれる。そしてダネーも言っている宮木の死。(フランスの批評家セルジュ・ダネーが著書「不屈の精神」の中で、この宮木の死について触れ、これを「死んでも死ななくてもいいような死」というような感じで述べていた)
 ダネーとは異なる観点から見ても、この死は非常に重要である。この宮木の死によってドラマはすっかり変わってしまう。この死によってこのドラマは決定的にハッピーエンドの可能性を奪われる。この死以降はどこを切っても不幸しかでてこない。たとえ籐兵衛が出世したとしても、その結末に訪れるであろう絶望を見てしまっているわれわれはそこに希望を見出すことはできない。
 そんな映画上の重要な転換点であるひとつの死をさらりと、ほとんどセリフもない、物語の本筋とは関係なさそうな文脈で語ってしまうところはなるほどすごいと思う。一種のアンチクライマックス。
 そして、もちろん映像もすばらしい。言わずと知れた宮川一夫。一番ぐっと来たのは、籐十郎が初めて若狭の屋敷に行ったとき。日が暮れて、屋敷のそこここに、灯りがともされ、そこを若狭が歩いてくる。カメラはそれを屋敷の上からゆっくりとパンしながら撮り、ゆっくりと視点をおろしてゆき、籐十郎がいる部屋の正面でぴたりととまる。そのとき、フレームの右側からフレームインしてきた松がすっと前景に入るその美しさ。人物は小さく、松は大きい。その画面のバランスがたまらなくいい。

めし

1951年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井出俊郎、田中澄江
撮影:玉井正夫
音楽:早坂文雄
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉村春子、杉葉子、風見章子、大泉滉

 結婚して5年、東京から大阪に越して3年、子供もなく平凡な毎日を繰り返す三千代は日々の単調さに息が詰まっていた。そんなとき東京から夫の姪の里子が家出をしたといって転がり込んできた。そんな居候の存在も今の三千代には夫との関係をさらに寒々とさせるものでしかなかった…
 林芙美子の原作を成瀬が淡々としたタッチで映像化。端々まで注意の行き届いたつくりで倦怠期の夫婦の心理をうまく描いた傑作。川端康成が監修という形でクレジットされているのも注目に値する。

 こういうのが本当にしゃれた映画というのだろう。静かに淡々と夫婦の間の心理の行き来を描くその描き方は芸術的ともいえる。登場する誰もが多くを語らない。言葉少なに、しかし的確に言葉を発する。しかしストレートな物言いではなく、婉曲に言葉を使い、しかしそれがいやらしくない。こういう台詞まわしの機微が味わえるのは古い日本映画ならではという感じがする。それはもちろん古きよき時代への郷愁であり(生きてないけど)、それによって現代の映画のせりふの使い方を貶めるものではないけれど、こういう空間をたまには味わいたいと思う。
 そしてその細かい気遣いはせりふ使いにとどまらない。小さなしぐさの一つ一つが納得させられる感じ。ひとつ非常に印象に残っているのは、終盤で三千代と初之輔が食堂に入り、話をする。話をしていると、画面の後ろで誰かが店に入ってくる。二人はそちらをふっと見遣る。そしてすぐに向き直る。その人はまったく物語とは関係ない人だから、別に振り返らなくてもいいし、そもそも入ってこなくてもいい。しかし、そこで人が入ってきて、そこに目をやる。この映画全体とは本当にまったく関係ないひとつの仕草はとても自然で、彼らの存在にぐっと現実感を与える気がする。
 本筋は語りすぎず、しかし気の利いた遊びも忘れない。こういうのが本当にしゃれたというか粋な映画なんだと思いました。こういう日本映画のよさというものを忘れていはいけないなと思いましたね。ふとセルジュ・ダネー(フランスの人ね)が溝口の『雨月物語』のワンシーンについて書いていたことを思い出しました。それは、「溝口は、その死が起こっても起こらなくてもよいことがわかるような、漠然とした運命として宮木の死をフィルムに収めたからである。」というものでした。ダネーの論点とはちょっとずれている気はしますが、そこに漠然としたひとつのイメージがわいてきます。日本流の「粋」のこころがなんとなくそこにある気がしました。

月曜日のユカ

1964年,日本,94分
監督:中平康
原作:安川実
脚本:斉藤耕一、倉本聡
撮影:山崎泰弘
音楽:黛敏郎
出演:加賀まりこ、中尾彬、加藤武、北林谷栄

 キャバレー勤めのユカは男の人を喜ばせることを女の生きる目的と考え、ボーイフレンドに加えて“パパ”とも付き合っていた。しかし、ある日ボーイフレンドと歩いているときに家族と買い物をするパパの姿を見かける。その顔が今までに見たことがないほど嬉しそうだったことにユカはショックを受ける…
 加賀まりこ初の主演映画は日活の看板監督中平康によるもの。加賀まりこがとにかくかわいい。

 かなり不思議な映画です。冒頭から外国語と字幕。途中でも静止画に声が入ったり、ストップモーションがあったりと普通ではない効果が多用されています。しかし、だからといって前衛的というわけではなく、オーソドックスなものの中に一つのスパイスとして入っている感じ。だから鼻につくわけでもなく、しかし逆にそれほど印象にも残らないというものです。あるいはむしろそのような効果はひとつの笑い(ギャグ)として存在しているのかもしれない。または、ひとつの転調として。時々止まったり早くなったりすることで、単調になるのを避けるという効果。
 加賀まりこが正面を向いて、棒読みで語る場面。こういうアクセントがあるのはとてもいいと思います。この場面もそうですが、この映画はシネスコの画面の真ん中を使うということが多い。真ん中に物を置いて、左右を空白にするというのはかなり大胆だと思います。
 面白い作り方だとは思いますが、私としてはあまり好みではないかもしれません。なんとなく飄々とうまく立ち回っている感じの映画で、正面からずばっと切り取ることをしないという感じ。抽象的でわかりにくいとは思いますが、そんな感じなのです。人物の描き方も映像の組み立て方もそんな感じです。こういう題材を扱うならば、もっと人間の内面に土足で踏み込んでいくような大胆さがほしかったと思います。そうでなければ全体をもっと軽妙なものにするか、そのどちらかのほうが好みには合うのでした。
 こういう映画のセンスのよさというのも理解できるんですけどね。あくまで好みの問題でした。

千と千尋の神隠し

2001年,日本,125分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:安藤雅司
出演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、菅原文太

 都会から郊外へと引っ越すことになった千尋と両親は来るまで引越し先に向かっていた。その途中で迷い込んだ道の行き止まりにあったトンネルを抜けると、そこには朽ち果てたような建物が並ぶ不思議な空間だった。両親に引っ張られるようにその空間に入り込んだ千尋は日が沈むころ不思議な少年にであった。
 八百万の神々が集う湯屋に迷い込んだ人間の少女を描いたファンタジックな物語。ほのぼのとした中にスリルと謎を織り込んだジブリらしい作品。

 夢のない大人になってしまったのか、それとも夢の世界に浸りきっているのか、こんな夢物語では感動できない自分に気づいてしまう。いわゆる「現実」からいわゆる「夢」の世界へと行き、戻ってくるというだけのお話なら、別に宮崎駿じゃなくたっていいんじゃないかと思う。宮崎駿なんだからもっと現実と夢との乖離を小さくして、この「現実」世界の隣にもこんな「夢」世界が現実に存在していると思い込めるくらいの説得力がほしかったと思う。
 そんなことを考えながら、昔の作品などを思い浮かべてみると、同じような設定なのは「となりのトトロ」くらいのもので、ほかはそもそもからして架空の世界の話だったりする。そして、なるほどトトロもあまり納得がいかなかったなと思い出す。
 さて、ということなので、物語には重きをおかず、細部を考えて見ましょう。 宮崎駿のアニメを見ていつも思うのは、カメラの存在が意識できるということ。もちろんアニメなので、カメラは存在しないのだけれど、あたかもカメラが存在しているかのように画面が構成されている。この映画でも冒頭の一連のシーンではカメラのパン(横に振ること)やトラヴェリング(いわゆる移動撮影)だと錯覚させるような映像が出てくる。その後も人物のフレーム・インやズーム・アップという手法が出てきたりする。このようにしてカメラを意識させることで生まれる効果はおそらくオフ・フレームを意識させるという効果だろう。アニメだからもちろんフレームの外側なんて存在しないのだけれど、カメラの存在を意識すると、自然にその外にもものがあると考えるようになる。だから単純に画面の中だけで作られたアニメーションよりも広がりがあるように感じられるのだと思います。
 これは余談ですが、この映画の中でもっとも宮崎駿らしいと私が思ったのは、千がパイプの上を走るシーン。パイプが外れて落ちそうになるんですが、その落ちそうなパイプの上を走るさまですね。ナウシカでいえば、くずれそうになる橋を渡る戦車。この崩れそうなものの上を急いで走るのを見ると、「あ、はやお」と思います。

 ところで、前に『西鶴一代女』をやったときに、『千と千尋』について触れたのでそれも載せておきます。

 私がこのシーン(田中絹代ふんする遊女お春が金をばら撒く金持ちの男に振り向かないというシーン)でもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。

 ということで、宮崎と溝口は似ているのかと考えてみたのですが、ある種の想像世界を好むという点や女性を主人公にする点は似ている。ただどちらも溝口のほうが宮崎よりも大人向きというか、生々しい感じになる。かといって、宮崎が溝口を子供向けにしたものというわけでもない。
 んんんんんんん、あまり似てない。かな。
 ふたりは興味の方向性が似ているということはあるけれど、作風としてはあまり似ていない。物語に対する考え方がちょっと似ているかもしれないので、それはまた考えることにします。

風の谷のナウシカ

1984年,日本,116分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:小松原一男
出演:島本須美、納谷悟朗、永井一郎

 「火の七日間」と呼ばれる文明滅亡のときからから1000年、地球は猛毒の瘴気を放ち、巨大な昆虫が飛び交う「腐海」と呼ばれる森林で覆われていた。海からの風によって腐海の毒から守られている風の谷、平和に暮らすその谷に虫に襲われた軍事国家トルメキアの船が墜落する…
 文明と自然の関係性を問題化しながら、映画としては一人のヒロインをめぐる娯楽作品に仕上げるところがさすが宮崎アニメ。

 今改めてみると、気づくことがいくつかあります。ひとつはこの世界のモデルがコロンブス以前の中南米であるということ。マヤやアステカといった文明をモデルとした神話的な世界でしょう。トルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられます。山際に立つ石造りの建物などもそう。イメージとしてはマチュピチュでしょうかね。
 もうひとつは「顔」です。風の谷の人々は常に顔があり、表情があるのに対して、トルメキアの兵士たちはほんの一部を除いてほとんど顔が見えない。顔を奪われるということは個性を奪われるということであり、人間性を奪われるということだと思います。つまり、トルメキアの人たちの顔を描かないことによって、彼らは非人間的な印象を持つということ。これに対して虫たちには顔がある。トルメキアの兵士たちより、むしろ虫のほうが人間性を持っているとあらかじめ宣言するようなこの構造が宮崎駿の演出のうまさなのかなとも思います。
 あとはキャラクターのデザインの秀逸さでしょうか。特に虫のデザインは本当にすばらしい。もともとSF出身だけにそのあたりは細かいのでしょう。さらに作画監督が「銀河鉄道999」などので知られる小松原一男だというのも大きいかもしれません。
 というところでしょうか。内容に関しては小学校の教科書に載せてもいいようなものなので、特にコメントはいたしません。むしろこの映画を教科書の一部にするべきだと思うくらい。

<日本名画図鑑でのレビュー>

 まず、なぜ『ナウシカ』なのか。『トトロ』や『千尋』ではなく『ナウシカ』なのか、『AKIRA』ではなく『ナウシカ』なのか、である。
 それはこの作品がアニメを“漫画映画”から“アニメーション”に、つまり後に“ジャパニメーション”と呼ばれる新たなメディアへと変化させた記念碑的作品だからである。大人、子供を問わず観客を引き込む物語の面白さとダイナミックな映像というハリウッドにも比肩するスペクタクルの出発点がここにあるからなのだ。宮崎駿という作家の出発点はもちろんこれ以前にあった。しかし、ひとつの映画としてひとつの完成された世界を提供したのはこれが最初だったのである。
だからこの作品は日本の映画史、というよりは世界の映画史に残る名作であるわけだが、そのことをわざわざここで断らなければならないところに若干の歯がゆさはある。

 さて、前口上はそれくらいにして、映画の内容に入るが、この映画は基本的な形としては「人類滅亡後の世界」というSFの基本的な形を踏襲している。しかし、滅亡といい切れないほどの多くの人々が生き残っているし、文明も残っている。しかし、それは滅亡の日=“火の七日間”から千年もの月日が流れたからかもしれない。つまり、滅亡の危機に瀕した人類はいったん原初の生活に戻り、千年かけてこの映画の段階まで取り戻してきたのだというように考えるのが自然なのではないか。
 まあしかし、それはたいした問題ではない。そのような前提はあくまでもひとつの世界観を構築する土台になっているというだけで、そこを突き詰めて行っても特にえられるものはないだろう。
 それでも、この千年というときには意味があるのだと思う。この千年という時の隔たりがあるからこそ新たな神話が生まれ、それが神話化したことについて説得力を持つ。そして神話が説得力を持つからこそ、この物語にも説得力が生まれるのだ。神話の実現、それはつまり神の到来であって、決定的な救済の徴だ。この映画がそのような神話の実現をめぐる物語であるからには、そのようにして神話を産む前提となる歴史を作り上げる必要があったのだ。
 そしてさらにこの映画は、その神話の説得力を高めるために、語られはしなくともより精密な神話を用意しているように思われる。それは、タイトルクレジットのぶぶんで絵巻物のように神話が語られている部分からもわかる。そして、それを見る限りではその神話というのはマヤやアステカといったアメリカ大陸の旧文明をモデルとしているのではないかと思う。それはトルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられるし、山際に立つ石造りの建物なども伝説的な都市国家であるマチュピチュを髣髴とさせる。そのような現実的なモデルを使って精密な神話的世界を作ること、それが実は非常に重要だったのではないかと思う。
 そのような強固な前提が存在しなければ、すべてが空想から成り立っているSFの世界は成立し得ない。そういう意味からいえば、この作品は純粋なSFとしてみても、非常に優れた作品だということになる。

 そして、その神話化はさらに進み、ある意味ではこの物語時代が神話化されているともいえる。この映画は現在から見れば未来を舞台にしたSFであり、映画の時間軸から観ればリアルタイムの物語である(つまり昔話などではない)。にもかかわらず、この映画は全体的に神話くさい。それはおそらく、この物語が神話の構図(つまりは原物語なもの)にピタリとはまるということだろう。
 それが端的に現れるのは、この物語の善悪二分論とそれと矛盾する形でその対立項から逃れる人間の存在である。善悪二分論の部分は非常に明確だ。善の側の極にいるのはナウシカであり、悪の側の極にいるのは巨神兵である。そして風の谷に人々は善であり、トルメキアは悪である。
 そのことは物語を知らなくても、その画面を一瞬見ればわかる。それは、風の谷の人々には全員に顔があるのに対して、トルメキアの人々には顔がない。顔があるのは姫と参謀ともうひとりだけで、その他の兵士たちは常に仮面を下ろしていて顔がないのだ。顔がないということはつまり個人ではなく、したがって人間ではないのだ。ならば彼らはいやおうなく“悪”とみなされざるをえない。
 さらにいうならば、虫には顔がある。つまり虫たちはトルメキアの兵士たちよりも善の側に近い。宮崎駿はこのことをまったく説明せずに、画面だけで感覚的にわからせてしまう。感覚的にわかるということは映画を言葉で理解するということではなく、体のどこかで感じるということにつながるのだ。このあたりが宮崎駿の演出の巧妙さであり、彼の作品がハリウッド映画に比肩するスペクタクルになる得る要因であるのだと思う。

 そしてそれを実現するもとにはキャラクターデザインの秀逸さがあった。宮崎駿や高畑勲はまだ若手と言っていい新進気鋭のクリエーターだったのに対し、作画監督の小松原一男はすでに松本零士作品などで定評を得ている「名前のある」クリエーターだった。当時のアニメファンにしてみれば「コナン」の宮崎と「ハーロック」の小松原、このふたりの組み合わせでどんな世界が描き出されるのか、にわくわくしたことだろう。
 そして、それは見事に結実し、すべてのキャラクターが見事にその世界をきっちりと構成する空間が出来上がった。人も、虫も、乗り物も、そして人々の世界観も、すべてがパズルのピースのようにピタリとはまったのである。
 私がどうしてもこのナウシカを宮崎作品のベスト1に上げる理由はここにある。確かに物語の質などを考えると、いい作品はたくさんあるのだが、小松原一男を失ってしまった宮崎駿はどこかノスタルジーに傾きすぎてしまう傾向があるように思われる。小松原一男はその世界観をSFのほうに、つまり未来のほうに引っ張っていこうとしたが、宮崎駿は過去のほうへと引っ張っていこうとするのだ。
 そのノスタルジーを使うやり方のほうが、今の時流にはあっている(つまりスペクタクルとして観客をひきつけることが出来る)のだとは思うが、それはやさしすぎるというか、わかりやすすぎるというか、単純すぎると思うのだ。過去というすでに整理された時間から現代への教訓を見つけるということは言ってしまえば簡単なことなのだ。歴史を忘却から引き戻すこと、それももちろん大切だが、日本のアニメというものは手塚治虫以来ずっと未来を見つめ続けてきたのではないかと思うのだ。宮崎駿にももう一度、未来に目を向けて欲しいと思う。

 そしてこの映画は、未来に目を向けているがゆえに、そこから現代へと跳ね返ってくる課題も浮き彫りにしている。それは、憎しみの連鎖、あるいは恐怖の連鎖である。いま世界を襲っている未曾有の悲劇の根幹にあるのは恐怖の連鎖/憎しみの連鎖である。恐怖からその恐怖のもとと目される他者を攻撃し、そこに憎しみと恐怖が生まれ、逆向きの攻撃がなされる。その際限ない連鎖が現在の(アメリカからいえば)「アメリカ対テロ」という構図を生み出した。アメリカが恐怖に縁取られた国だということはマイケル・ムーアが盛んに言っているけれど、アメリカに限らず人間は恐怖に弱いのである。
 この映画はそのことを見事に描き出す。恐怖におびえた人々は次々と武器を強力にしてゆき、人間の力の及ばないものまで持ち出してしまう。ナウシカはそれを収める超人的な存在として現れてくるが、そのカリスマの力もどれくらい続くのだろうか…

無法松の一生

1943年,日本,82分
監督:稲垣浩
原作:岩下俊作
脚本:伊丹万作
撮影:宮川一夫
音楽:西梧郎
出演:坂東妻三郎、月形龍之介、園井恵子、沢村アキヲ

 小倉の車引きの松五郎は喧嘩っ早く傍若無人なところから「無法松」とあだ名されていた。そんな無法松はある日、怪我をして泣いている少年を見つけ、家まで送り届ける。それからその家族と親しくなり、少し様子が変わってきた。
 阪妻に稲垣浩という黄金コンビに加えてカメラは宮川一夫、脚本は伊丹万作と役者がそろった感じ。戦争中でもこんな映画が撮られていたと思うとうれしいですね。

 とてもオーソドックスなドラマで、話としても戦時中らしく教訓めいたものではありますが、映画としての完成度はかなり高い。それはやはり宮川一夫のカメラというのもあるでしょう。おそろくまだ若かった宮川ですが、そのスタイルはすでに一流。おそらく稲垣浩がうまく引き出したというのもあるのでしょう。繰り返される人力車の車輪の映像、ラスト前の太鼓からの流れるような断片(モンタージュといってもいい)、このあたりを見ると、50年以上も前の映画とは思えない魅力を持っています。
 さて、ひとつ気付いたのは音のこと。おそらく当時はすべて同録だったらしいと推測され、遠くの人の声は小さく、近くの人の声は大きい。遠すぎる人の声は聞こえない。だから無法松に放っておかれた客は画面の奥でパントマイムをしています。声は全く聞こえない。これが自然だというわけではなく、おそらくマイクの感度の問題で、今なら特に問題になることでもないと思いますが、こういう録音にも注意して演出しなければならないものだということを改めて実感させられます。
 もうひとつ。映画を見ながら「ぼんぼん」と呼ばれる子役の子が長門裕之に似ているね。といっていたら、長門裕之でした。クレジットでは沢村アキヲとなっています。そういえば映画一家でした。お父さんは沢村国太郎、つまり沢村貞子のお兄さん。お母さんはマキノ智子、つまり牧野省三の娘、ということはマキノ雅弘と兄弟。なるほどね。でも50年前の顔を見て分かってしまうっていうのもかなり個性的ってことですね。
 どうでもいいことばかり書いてしまいましたが、正月なのでご勘弁。