ツバル

Tuvalu
1999年,ドイツ,92分
監督:ファイト・ヘルマー
脚本:ファイト・ヘルマー、ミヒャエラ・べック
撮影:エミール・クリストフ
音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ、ユルゲン・クナイパー
出演:ドニ・ラヴァン、チュルバン・ハマートヴァ、テレンス・ギレスピー

 ある見捨てられた港町にある一戸建てプールに年老いた父と住むアントンはその建物からでたことがない。そんなある日、プールにやってきた娘エヴァにアントンは一目ぼれする。
 セリフはほとんどなく、そのセリフも一つの既存の言語ではないので、字幕は付されないという異色の作品。実験的な短編作品で有名なヘルマー監督がカラックス作品でお馴染みのドニ・ラヴァンを主演に撮った作品。ヒロイン役のチュルバン・ハマートヴァは「ルナ・パパ」の少女(製作はこっちの作品のほうが先)。

 「セリフ」というものに非常に意識が行きがちで、監督としてもうやはりそれは相当に意識していることなのだろうけれど、この映画は言語を廃したというよりは言語をより単純なほかのものに置き換えたものというイメージ。したがってそれほど斬新さは感じない。様々な言語で共通しそうな言葉(たとえばノー)を使ったり、身振りで表現したりすることはサイレント映画のちょっとした応用という気もしてしまい、新鮮味にはかける。
 それよりもこの映画でいいと思ったのは色調。全体にモノクロの映像なのだけれど、それぞれのシーンでその色調が違う。最初の場面はブルーで、「最近はやりのブルーフィルターか」と思ったらそうでもなく、決してカラーにはならない。ブルーのモノクロ、グリーンのモノクロ、ブラウンのモノクロなどなど様々な色のモノクロが現れ、モノクロだけでもこれだけのバリエーションがあるということを気づかせてくれる。ここがこの映画で一番よかったところ。
 あとは、不思議さ満載の細部は個人的には好み。最初に出て来た明らかに作り物の鳥なんかはかなりツボ。そういったB級的な要素とアート的な要素がうまく融合している、といいたいところだけれど、実際はあと一歩というところ。両方の要素が入ってはいるけれど、融合というにはちょと足りない。老人達が屋根の上でかさをさしているシーンなんかはかなりその融合が達成されているのかな、という感じはします。

タルチュフ

Tartuff
1925年,ドイツ,75分
監督:F・W・ムルナウ
原作:モリエール
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、ヴェルナー・クラウス、リル・ダゴファー、ルチー・ヘーフリッヒ

 オルター氏は20年来尽くしてくれている家政婦と二人暮し。氏は家政婦から孫のエミールが俳優になり遊び暮らしていると聞き遺産をすべて家政婦に与えることにした。しかし、それは実は家政婦の陰謀であった。それに気づいた孫のエミールは変装して「タルチュフ」という映画を持って祖父の家を訪ねる。
 モリエールの「タルチュフ」を劇中劇として利用し、目先を変えた新しい映画を作り出した教訓劇じみた作品。全体的には字幕がはさまれるオーソドックスなサイレント映画。

 「最後の人」と比べると、非常にオーソドックスで、欲しいと思うところには大体字幕が入っていく。それは分かりやすくていいのだけれど、やはり字幕が入ると映像のほうに目が行きにくくていまひとつ。字幕を使わずにいかに表現するかというほうが個人的には楽しめた気がする。
 それでも、冒頭の玄関のベルが鳴るシーンから映像的工夫に驚く。 もちろん普通は呼び鈴があんなところについているはずもなく、あんなに激しく動くはずもないのだけれど、たったあれだけの工夫でベルの音が聞こえてくるのだから、すごいもの。今となってはいまひとつ実感が湧かなくなってしまった「映画的現実」と実際の「現実」との違いというものをまざまざと見せ付けられた観がある。

最後の人

Der Letzte Mann
1924年,ドイツ,72分
監督:F・W・ムルナウ
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、マリー・デルシャフト、マックス・ヒラー

 高級ホテルのドアマンを勤める男。彼はその仕事を誇りにしていた。しかしある日、客の大荷物を持ってぐったりと休んでいるところを支配人に見つかり、トイレのボーイに降格を命じられる。おりしもその日は姪の結婚式、男はドアマンをやめさせられたとは言えず、ドアマンの豪奢な制服に身を包み毎朝出勤するのだが…
 ドイツサイレン時の巨匠ムルナウの代表作のひとつ。この映画はほとんど文による説明を使っていないが、それでも物語は十分に伝わってくる。本当に映像だけですべてを表現した至高のサイレント映画。

 この映画はすごい。サイレントといっても大体の映画はシーンとシーンの間に文章による説明が入ったり、セリフが文字で表現されたりするけれど、この映画で文字による説明があるのは、2箇所だけ。しかも、手紙と新聞記事という形で完全に映画の中のものとして使われるだけ。あとはすべて映像で表現している。
 しかも、俳優の演技、カメラ技術どれをとってもすごい。主人公を演じるエミール・ヤニングスの表情からはその時々の感情がまさに手にとるように伝わってくるし、カメラもフィックスだけでなく移動したりよったり引いたり露出を変えたり、涙で画面を曇らせたり、様々な方法で物語に流れを作り出し、映像の意味を伝えようとする。
 それに、音の表現方法が素晴らしい。最初の場面から、地面ではねる豪雨を描くことでわれわれは豪雨の音を頭の中で作り出すし、勢いよく笛を吹くしぐさで聞こえないはずの笛の音にはっと驚いたりする。
 物語時代の中身もかなり辛辣で、当時の貧富の差の大きさも感じさせるし、人々がいかに富や権威というものに踊らされているかということを風刺するものでもある。
 映像からすべてを読み取ろうとすると、けっこう想像力を掻き立てられ、「えー、最後どうなるのー?」というかなりドキドキした気持ちで見てしまいました。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

ミス・ダイヤモンド

Mis. Diamond
1998年,ドイツ,96分
監督:マイケル・カレン
脚本:ヨアキム・ハマン
撮影:ポール・ヴァン・ダー・リンデン
音楽:H・サレット
出演:サンドラ・スパイシャット、ウド・キア、トーマス・クレッチマン、マイケル・メンドル、アーネスト・アメリカ

 最新の機器を使ってスマートにしのび込み、盗みを働くラナはドイツで取れたダイヤモンドを展示する宝石展示会場から見事にダイヤを盗み取った。すぐとらえられてしまったラナだったが、そのダイヤは偽物だった。警備をしていた保険会社からは、本物を差し出せば見逃してやると持ちかけられるのだが…
 ドイツの若手女優サンドラ・スパイシャットが美人怪盗に扮したアクション映画。何はともあれ、リアリティに欠ける。B級映画にすらなりそこねた作品。

 とにかく、リアリティがなさ過ぎる。スタントみえみえ、本人がやってるシーンは迫力がまるでない。設定が不自然過ぎる。
 ということで、いくつか例を上げてみましょう。見た人もほとんどいないと思うので、解説しながら。
 簡単なところでは、ラナが殺し屋に追いかけられるんだけど、まずラナの走り方がおかしい。絶対早くない。なのに殺し屋は追いつかない。殺し屋は途中でやたらと人にぶつかる(これは結構面白かったけどね)。
 それから、カーチェイスのシーン。夜、盗みを終えたラナはポルシェで(ここ重要)逃げる。そして追われるんだけど、追いかけるのは多分オパル。二つの車がスタート。次のシーンは朝のハイウェイ。2台はぴたりとくっついて走っている。(ここですでにおかしい。何で一晩走ってポルシェがオパルを引き離せないのか?)そのまま街中を走り、カーチェイス。ここで魅せばのジャンプシーン。ラナはちゃんと着地。追いかけるティムはトラックのうえに着地、少々あって地面に降りる。でもラナの車はちゃんとそこにいるんだな。早く逃げろよ。
 などなどです。もう少し頑張れば面白いB級映画になったかもしれないのに。もちろん笑えるという意味で。惜しかった。おかしいよと思うところを笑いに結びつければね。それも踏ん切りがつかなかったのか?
 スタッフ、キャストも聞いたことない人ばかり。ウド・キアーはちょいちょい脇役で見るような気もする顔でしたがね。

愛と精霊の家

The House of the Spirits 
1993年,ドイツ=デンマーク=ポルトガル,139分
監督:ビレ・アウグスト
原作:イザベル・アジェンデ
脚本:ビレ・アウグスト
撮影:イェリン・ペルション
音楽:ハンス・ジマー
出演:メリル・ストリープ、ジェレミー・アイアンズ、ウィノナ・ライダー、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス、ヴィンセント・ギャロ

 南米のある国、物を動かしたり、予言したりという不思議な力を持った少女クララは自分の予言が当たって姉が死んでしまったことに罪悪感を感じそれから口を利かなくなってしまった。
 アメリカでもベストセラーとなったイザベル・アジェンデの小説を映画化したもの。クララを中心とした一族の年代記。
 原作の秀逸なストーリーが映画に生かされ、観客を物語世界にぐいぐいひき込む力が感じられる。

 原作と比べると、どうしてもその魅力は減じているといわざるを得ない。そもそもラテンアメリカ独特の空気を映しきれていないのは、「アメリカの映画」になってしまったからだろうか。少々詳細にその原因を探ってみると、もっとも大きいのはクララの不思議な力というものが、映画ではファンタジックな、しかもクララのみに備わっている「超能力」として扱われていることだろう。原作を読んでみれば、クララのその力というのは確かに不思議ではあるけれど、ファンタジーでもなんでもなく、現実にありうべき一つの現象として描かれている。周りの人々もクララの力に困惑はすれども、それを疑ってみたりはしない。その周りの人々の態度については映画でもかなり努力が払われていたように見えるが、どうしても本当に現実として描かれているようには思えない。
 ひとつ例をあげれば、フェルラが死を告げるためにクララの元へやってきたときに、エステバンがドアのところへ確かめに行く。この作業はまったく必要がないはず。フェルラはやってきて、去っていった。ただそれだけのことであって、フェルラの肉体がどこにあろうと実際には関係ないはずなのに。 しかし、原作はもっと長大な物語があり、それによって築き上げられる世界観というものがあるけれど、映画ではそれを作り上げるのは難しいのだから仕方がないのだろうという気もする。
 そう言ったことを割り引いても、ひとつ鼻につくのは映画全体に流れる「アメリカ臭さ」出てくる言葉はすべて英語だし、街や農場の風景も中南米の混沌がまったく感じられない。
 などと書いてくると、この映画を非難しているように読めますが、それはあくまで、原作と比較しての話であって、原作を意識せず純粋に映画としてみれば、ストーリー展開も力強いし、映像も無難に美しく、音楽も効果的で、役者もクララの若い頃をメリル・ストリープがそのままやってしまった点を除けば申し分ない。ヴィンセント・ギャロもかなりいい。
 と言うことで、ぜひ原作を読んでみてくださいませ。

東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

ローラとビリー・ザ・キッド

Lola + Bilidikid
1998年,ドイツ,90分
監督:クトラグ・アタマン
脚本:クトラグ・アタマン
撮影:クリス・スキレス
音楽:アルパッド・ボンディ
出演:ガンディ・ムクリ、バキ・ダヴラク、エルダル・イルディス、インゲ・ケレール

 ベルリンに住むゲイのトルコ人少年ムラートは、家父長であり高圧的に振舞う兄とその兄に従順な母との暮らしに息苦しさを感じていた。そんなある日、彼はゲイであることを理由に勘当されたもう一人の兄がいることを知る。物語はムラートと兄のローラ、その恋人ビリーを中心に展開してゆくが、長兄のオスマン、ローラの仲間たち、ドイツ人のゲイの中年男などが登場し物語に深みを与える。
 ドイツにおけるトルコ人の立場、ゲイの立場というものをひとつの事件を舞台として展開させてゆく監督の手腕はなかなか。登場人物一人一人に個性、内面がうまく描かれていたと思う。 

 この映画でまず目に付くのは、ドイツ人のホモフォビア(同性愛者嫌悪)とトルコ人に対する民族差別である。二重に(あるいは三重に)虐げられる存在としてのローラ。彼女(彼)が殺される。しかし彼女=彼が殺される理由はいくらでもあるのだ。ホモ嫌いのドイツ人、トルコ人嫌いのドイツ人、ホモ嫌いのトルコ人、などなど。
 このことがはらんでいるのは、トルコ人という被植民者の「女性化」(ここでは「ゲイ化」)である。ドイツ人=植民者=マチョ=家父長/トルコ人=被植民者=女性的=ゲイというちょっとひねったコロニアリズムが垣間見える。これによってトルコ人のゲイの不遇を描くというのならそれでいい。しかし、この作品が素晴らしいのは、そのように描かなかったこと。より複雑な要素としての家族や様々な愛情をそこに織り込んでいったこと。オスマンにローラを殺された衝動はなんだったのか?それは、オスマンとビリーに共通する要素、ドイツでトルコ人としていきながら、ゲイでありかつマチョとして生きようとすること、その矛盾がオスマンを殺人にまで駆り立てた。社会の歪みを引き受けた存在としてのオスマンとビリーを描くことで、ドイツ社会の抱える矛盾を明らかにしたといえるのではないだろうか?

さすらい

Im Lauf Der Zeit
1975年,西ドイツ,176分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、マルチン・シェイファー
音楽:インプルーブド・サウンド
出演:リュティガー・フォグラー、ハンス・ツィッシュラー、リサ・クロイウァー、ルドルフ・シュントラー

 映画館を巡回して、映写機を修理し、フィルムを貸して回る男ブルーノ(リュディガー・フォグラー)がある朝トラックでひげを剃っていると、目の前をものすごい速度で飛ばすビートルが通り過ぎ、川に突っ込んで沈んでいった。その車から現れた男ロベルト(ハンス・ツィッシュラー)は妻と別れて放浪生活をしていた。二人はほとんど言葉を交わすこともなく一緒に旅をはじめる。
 ロードムーヴィー三部作の三作目とされるこの作品はヴェンダースのロードムーヴィーの一つの到達点を示しているのかもしれない。もともと精緻なシナリオがなく撮りはじめたため、まさに旅をしながら物語が生まれてくるという感じになったのだろう。二人の男の人物設定が会って、その二人が旅をするとどのような関係が生まれていくのか?それを決してドラマチックに使用などと考えずに淡々と描いてゆくリアルな物語はまさしくロードムーヴィというにふさわしい。
 この映画で目を引くのは、動いてゆく風景。単に背景としてではなく、ミラーに映ったり、フロントガラスに映り込んだりとあらゆるところに背景が入り込み、それが過ぎ去ってゆく。 

 この映画のこの二人の男は決して前には進まない。いつも進んではいるのだけれど、彼らの旅は何かに向って進む旅ではない。それを象徴するのは最初と最後の移動の場面。最初の移動の場面。トラックに乗り込んだ二人をカメラは脇の窓から捕らえる(はず)。その反対側の窓の向こうにあるバックミラーは過ぎ去ってゆく土地をえんえんと映している(この場面はかなり不思議で、人物にも、窓の外の風景にも、バックミラーの風景にもピントが合っている)。最後の移動の場面、電車に乗り込んだロベルトは進行方向と逆に向かって座る。彼から見えるのは過ぎ去ってゆく景色だけだ。こうして二人の男は前には進まず、停滞し、時だけが流れ去る。彼らのそのような行動が何を意味しているのかを語ることをこの映画は巧みに避ける。彼らは最後、国境の米軍の東屋でわずかながら考えをぶつけ合うけれども、それがゆえに二人はわかれ、別々の方向へと進み始める。
 やっぱりこの作品も語るのは難しかった。黒沢清がどこかで言っていたけれど、ヴェンダースの映画(80年代以前)は「お話がどうも確実にあるようなんだが、それをひとことで言えといわれるとそう簡単には言えないような映画」なのだろう。だからどう書いていいのかわからない。みればわかる、みればわかる。と繰り返すだけ。
 本当にみればわかる。この映画、個人的にはヴェンダース作品の中でいちばん好きかもしれない。 

時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース

Faraway, So Close !
1993年,ドイツ,147分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー
撮影:ユルゲン・ユルゲス
音楽:ローラン・プティガン
出演:オットー・ザンダー、ピーター・フォーク、ナスターシャ・キンスキー、ホルスト・ブッフホルツ、ブルーノ・ガンツ

 『ベルリン・天使の詩』の続編。前作で人間になった親友ダミエルを見守る天使ミカエルは東西統一がなされたベルリンの街を眺めながら、自分もまた人間世界にあこがれ始めていることに気づく。そして、ついにバルコニーから落ちた少女を助けたことによって(人間界への介入)、人間界へと落とされたミカエルの冒険が始まる。
 前作の恋愛物語とは一転、堕天使ニミットを登場させることで活劇的な内容になっている。前作のロマンティックさと比べると、よりリアルに人間世界を描いたということか。ヴェンダースにとっての大きな転換点といえる『夢の涯てまでも』につづいて作られた作品だけに、それ以前のものとは大きく様子をことにし、ヴェンダースの新たな方向性の模索が感じられる。 

 カシエルはダミエルのように明確な目標を持って人間界へとやってきたわけではなかった。それがカシエルの何かが欠落しているという印象を作り、堕天使ニミットに付け入る隙を与えてしまうのだろう。しかし、果たしてこのことはどのような意味を持っているのか?明確なドラマを欠いた主人公カシエルは、しかし表面的には前作よりドラマティックな展開に引き込まれてゆく。『ベルリン・天使の詩』は明確なドラマを持っているという点で80年代以前のヴェンダース作品の中で異彩を放っているのだけれど、それと比べてもこの『時の翼にのって』は違ったスタイルの物語だ。
 この変化を理解するのは難しい。ヴェンダースは『夢の涯てまでも』以降、大きく作風を変えていくわけだけれど、その変化の方向性がまだ見えてこないという感じがする。『夢の涯てまでも』でロード・ムーヴィーにある意味で別れを告げたヴェンダースがいったいどこへ向っているのか、この作品は明らかにしてはくれない。『愛のめぐりあい』をはさんで『リスボン物語』にいたり、ロードムーヴィーに回帰しているように見えるヴェンダースだが、果たしてそうなのか?この作品は「とまった」ヴェンダースが何を語ろうとしているのかを示唆する作品であることは確かだが、何を語ろうとしているのかを理解することは難しい。カオスか?人間か?アメリカか?