歌う女・歌わない女

L’une Chante, L’autre pas
1977年,フランス=ベルギー,107分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:シャルリー・ヴァン・ダム、ヌリート・アヴィヴ
音楽:フランソワ・ヴェルテメール
出演:テレーズ・リオタール、ヴァレリー・メレッス、ロベール・ダディエス

 1962年、歌手を志す高校生のポリーヌは町の写真屋で昔隣人だった友人が子供と一緒にの写真を眼にする。そして彼女がその写真屋と同棲し、子供までもうけたと知る。後日彼女を訪ねたポリーヌは、彼女が貧しさに苦しみながらもう一人子供を身ごもっていることを知る。
 二人の女性はまったく異なった立場ではあるが、どこかにつながりを感じ、ひとつの物語を織り成してゆく。

 昨日は、シュールリアリスティックなヴァルダの世界感について書きましたが、それと比べるとこの映画は非常にオーソドックスな空間を構成しています。まったくの日常の風景。
 この映画にあるのは徹底的なアンチクライマックス。物語をひとつあるいはいくつかのクライマックスに向けて作ろうという姿勢ではなく、ほとんど平坦なストーリーテリングをしようという姿勢。この物語り方は非常に現実的である気がする。大きな節目である自殺の場面を経ても、二人の関係は劇的に変わらない。そもそもその自殺の場面も劇的に演出されない。
 ヴァルダは普段は非常に近くに人物をとらえる。多くの場合、画面からはみ出しさえする。そんなヴァルダが自殺に続くスザンヌの田舎暮らしの場面で徹底して遠くから被写体をとらえるのはなぜなのか? その画面が伝えるのは決してスザンヌの悲惨さというものではない。両親に冷たく当たられながらもスザンヌの顔には笑みがあふれ、子供たちも決して不幸せそうではない。しかしそう幸福そうでもない。
 つまり、この場面は遠くからとらえることで悲惨さやあるいは幸福さが薄められている。それは自殺という劇的な事件を機に大きくドラマが波打つのを防ぐ。
 これらによって作り出されるアンチクライマックスは映画の重心をドラマからそらせる。映画のドラマ以外の部分。それこそが常にヴァルダが観客にプレゼントしたいものなのだと思う。

百一夜

Les Cent et une Nuits
1994年,フランス,105分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:エリック・ゴーティエ
出演:ミシェル・ピコリ、ジェリー・ガイエ、エマニュエル・サリンジャー、マルチェロ・マストロヤンニ、マチュー・ドュミ

 映画と同じ年齢のムッシュ・シネマの城に映画の話をしに101日間通うというアルバイトの契約をしたカミーユ。そこにはマストロヤンニらスターたちも訪れる。そんなカミーユの恋人ミカは映画青年だが、映画を撮りたいが資金がない。そこで彼らが考えたのは…
 アニエス・ヴァルダが映画100年を記念して、たくさんのスターを出演させて撮った作品。シュールではあるが、遊び心にあふれた作品。

 かなりわけがわからないです。映画マニアなら、これはあれ、それはどれといろいろ思いをはせることができ、にやりとしてしまう演出も多くあるのですが、普通に見るとなんだかわけのわからない話になってしまっている感じ。 いろいろなスターが見られるということと、ヴァルダ流の映画史解釈を見ることができるというところがこの作品の面白いところでしょうか。ストーリーといえるものはほとんどないに等しいので、遊びたいだけ遊べる。シネマ氏の屋敷の使用人たちからして本当にわけがわからないので、なんともいえませんね。
 しかし、映画の中でシネマ氏が「アンダルシアの犬」を「映画の教科書」といっていたことを考えると、このシュールリアリスティックな空間がヴァルダにとっての映画というものなのではないかと推測することもできます。
 ヴァルダの映画はこれ限らずどこかシュールリアリスティックなところがある気がします。それは私がヴァルダを好きな理由のひとつでもあるわけですが、この作品はそのヴァルダのシュールリアリズム性を改めて明らかにしたというものでもあると思います。
 次から次に出てくるスターたちに惑わされがちですが、それこそがヴァルダが映画100年を振り返って最も言いたかったことなのかもしれません。シネマ氏の城の庭で開かれるパーティーで繰り返し現れ、強烈な印象を与える牛。それはその直後ブニュエルとして台詞までしゃべってしまう。その「黄金時代」への憧憬こそがヴァルダの映画の原動力なのではなかろうかとこじつけたくなります。

クリミナル・ラヴァーズ

Les Amants Crimineles
1999年,フランス=日本,95分
監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ピエール・ストーベ
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:ナターシャ・レニエ、ジェレミー・レニエ、ミキ・マノイロヴィッチ

 高校生のアリスがボーイフレンドのリュックと夜の学校に現れる。アリスはシャワー室でシャワーを浴びるサイードに近づく。サイードはアリスと寝たがっていた。彼を誘惑し、シャワー室に横たわるアリス。サイードがアリスに覆いかぶさったところに、ナイフを持ったリュックが忍び寄る…
 独特の感性で作品を作るオゾン監督のクリミナル・ドラマ。物語は当初の軌道からはずれ、迷走してゆく。

 結果的には「何じゃそりゃ!?」という話なのだけれど、その話の展開は魅力的で、どうしてこうなるのかというわけがわからないにもかかわらず、先の展開は気になるばかり。いろいろ大変なことが起こるのだけれど、その原因というか動機はひどく些細なものばかり。あるいは明らかにされもしない。
 そして、映画が終わってみると、その始まりと終わりっではまったく異なる世界がそこにある。時間軸に沿って進むドラマとアリスの日記を基に構成される事件の事実。時間軸に沿って進むドラマがその事件から派生した軌道から大きくずれてしまっているだけに、そこにはひどい齟齬が生じる。そのとき、アリスの世界とリュックと小屋の男の世界との間には何らかの乖離が生じている。展開してゆく(あるいは変化してゆく)その3人の関係性と、明らかになってゆくアリスとリュックとサイードの3人の関係性。映画が終わり、それらの関係性に結末がつけられたとき残るのは、彼らの感情に触れてしまったようなぬるりとした不思議な感触。そこにあるのは観客としての自分は疎外された世界。
 この映画のつくりはどの登場人物の心情もつまびらかにしないものになっている。したがってみる側は自分の位置に悩む。もっとも自己を投入しやすそうなリュックに肩入れしてみてみても、リュックの心情や感情は明らかにされず、結局は疎外され、途方にくれる。
 物語は見ている側をひきつけるにもかかわらず、そこに登場する人々は見ているものを寄せ付けない。しかし終わってみると彼らのぬるりとした感情に触れたような感覚も残る。
 という不思議な映画。

幸福

Le Bonheur
1964年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ、クロード・ボーゾレーユ
音楽:W・A・モーツアルト
出演:エマニュエル・リバ、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ

 ひまわり咲き乱れる野原を手をつないで歩く家族。仲むつまじいフランソワとテレーズには二人の子供があり、日曜日ごとに森にピクニックに出かける幸せそのものの家族。フランソワは叔父の建具屋で働き、テレーズは家で洋裁の仕事をしていた。フランソワはある日叔父から仕事を任されて近くの町に出かけていった…
 題名どおり、「幸福」とは何かということを考える映画。ヴァルダとしては初期の作品で、映像的に何か工夫をしようという試みが感じられるが、逆にあら削りという印象も与える。

 ひまわりを前景にして向こうから近づいてくる家族をとらえる。そんなタイトルクレジットは、さすがですが、ファーストシーンにいつもほどの切れがないという印象でもある。このタイトルクレジットの時点で非常に短いカットをはさんでいくのに、なんとなく違和感を感じる。この短いカットがこの映画の中では何回か使われていて、特にフランソワがエミリーのところに行ったときの奇妙に早い切り返しなどはざくっと印象に残り、映画のテンポを変えるという効果もあるけれど、個人的にはあまり好きではない。物語の最後のほうには、非常に重要と思われる何と解釈していいのかわからない短いシーンがありますが(ネタばれ防止のため言いません)、このシーンはすごくいろいろな解釈ができていいですね。ひとつの意味を与えることができないくらい短いシーン。その一瞬でとららえられたものは人によって違うはず。私は木の枝のしなりがとても印象的でした。
 もうひとつたびたび使われるシーンとシーンのつなぎ目のフェードのときに単色の画面が入るのは好き。はっきり言って意味はないと思うけれど、映画全体に強い色彩を使っているだけに、この色の使い方はなんだか心地よい。色といえば、シーンの変わり目意外でも、鮮やかな赤や緑の建物が短いカットで挿入されます。それはかなりとがった挿入の仕方。映画の流れをぶつりと断とうとする挿入の仕方であるような気がします。これも短いカット。
 この短いカットが今ひとつ納得いかないのはなぜかと考えてみると、これが私にはヴァルダの尖ろうとする意志に見えてしまうからでしょう。私がヴァルダの魅力として感じるのは、物語や映画の流れの分断ではなくて、雲散霧消という感じ。ぶつりと分断されるのではなく、なんとなくうやむやなまま消えていってしまうような感じなのです。先ほど触れた最後のほうの非常に重要な短いカットは物語をそんなうやむやさの中に放り込むという意味でとてもヴァルダらしくていいと感じるのです。
 それにしても、こんな形で「幸福」を描くのってすごい。

冬の旅

Sans Toi ni Loi
1985年,フランス,106分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:パトリック・ブロシェ
音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:サンドリーヌ・ボネール、マーシャ・メリル、ステファン・フレス、ヨランド・モロー

 広い畑に掘られた溝で見つかった若い女性の死体。浮浪者のような格好ではかなくも凍死してしまったその娘モナの、その死にいたる直前の数週間、いったい彼女は何をしていたのか?
 映画はその数週間の間に彼女が出会った人々のインタビューとそれを再現した映像という感じで展開される。その彼らから感じ取れるのはモナと触れ合うことによって生じた痛切な感情。さすらう女の「自由」と「孤独」。

 モナと触れ合った人々がモナについて語ること。そのことによってその語る人の人間性がえぐられていくようである。完全に自由で、しかし完全に孤独なモナ、その彼女とどう接するのか、それはその人がどれくらい自由で、どれくらい孤独であるのかを如実にあらわす。主要な人物の一人である農作業に力を注ぐ哲学の先生、家族と過ごし、自分のやりたいように生きている彼は、果たして彼自身が言うように「自由と孤独の間」を生きているのだろうか? モナとモナが出会う人たちの中で本当に自由なのは誰で、本当に孤独なのは誰なのか? 自由とは何か?孤独とは何か? その答えが決して出ないことは、この問いが果てしなく繰り返されることからも明らかだが、この映画は自由であること、孤独であることが、いったいどのようなことであるのかを表現している。それは「何か?」という問いに対する答えではないけれど、その問いを超えたところにある別の問いを投げかけるものだ。モナは一人テントで寝るときになぜ微笑んだのか?
 この映画がこれだけ力強く問いを投げかけることができるのは、映像がしっかりと語っているからだ。人のいないフレームと人のいるフレーム。それはカメラの移動、あるいは人の移動によってひとつのカットとしてつながったフレーム内での変化。あるいは、カットが変わる時の突然の変化。
 この映像を語ることは難しいのだけれど、人のいないフレームのはっとするような美しさと、人がいるフレームのほっとするような安心感とでもいえばいいのだろうか。人のいないフレームはきりりとした美しさを持っているのだけれど、そこには何か一種の緊迫感のようなものが漂う。そこからするりするりとカメラが動くことによって、緊張感は高まる。早くフレームに人が入ってきてくれと思う。この緊張感は何なのか?
 そして、そんな映像とは裏腹に正面からのクロースアップで構成されるインタビューの場面。カメラをじっと見据えてモナについて語る人々の暖かさや冷たさや、痛み。モナが死んでしまったということを知らず、やさしさを込めてモナについて語る人々、突き放すように語る人々。
 それらすべてから感じ取れる自由と孤独のせめぎあい。これぞまさに、言葉ではできない哲学を映像によって行っているといっていい作品。哲学する映画をこよなく愛する私はこの映画を愛することに決めました。

アニエスv.によるジェーンb.

Jane B. par Agnes V.
1987年,フランス,95分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ヌリート・アヴィヴ、ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:ジェーン・バーキン、アニエス・ヴァルダ、フィリップ・レオタール、ジャン=ピエール・レオ

 アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを読み解いていく。いくつかのショート・フィルムとインタビュー風に彼女を映した映像、ヴァルダ自身の語り、これらを組み合わせて浮かんでくるのは、ジェーン・バーキンという女優のおぼろげな像であり、アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを好きだという事実。全編にわたってヴァルダの遊び心にあふれた作品。楽しいと同時にヴァルダらしい不可解さも持つ不思議なフィルム。

 アニエス・ヴァルダのファースト・シーンはやはりすばらしかった。私は彼女を「ファースト・シーンの魔術師」と呼ぶことに決めました。今回のファースト・シーンは一葉の絵画(見覚えはあるけれど、誰のなんという絵だったかは思い出せません)の中の一人にジェーン・バーキンが扮しているというもの。言葉で書いてしまうと、たいしたことはありませんが、その絵画であるようで明らかに生身の人間が演じている動画がぱっと映った瞬間の色彩の鮮やかさや構成美はやはりいいのです。後ろの人が静止するのに耐え切れず微妙に動いているのもいい。
 このはじめのシーンからして、途中ではさまれるいろいろなショートフィルムにしても、この映画は基本的に「遊び」なんだと思います。アニエス・ヴァルダとジェーン・バーキンという才能のある二人であり、しかも気心が知れた関係だからこそできた遊び。くそまじめに映画を撮るのもいいけれど、映画を撮ること自体が楽しくなければ、楽しい映画なんかできないといっているような雰囲気の映画です。
 まあしかし、あくまで遊びですからぐっと映画に引き込まれ抜け出せないというような力はありません。つれづれなるままに、気ままに見る映画。だから退屈だと思う人もいるでしょう。
 それでも、映画のはしばしに気になるところはあります。最初のショートフィルムの最後のパンにヴァルダの感性のすばらしさを感じ、ジャンヌ・ダルクを演じるバーキンに、女優としてのすごさを感じます。遊びではあってもそれはまじめな遊びで、そこにはやはり才能のきらめきが感じられます。
 1時間半ずっとジェーン・バーキンを見ていて感じたのは、ジェーン・バーキンはミック・ジャガーとウィノナ・ライダーに似ているということ。何じゃそりゃ? という感じですが。似てるんですね、これが。よく見てみましょう。似てるから。だからといってミック・ジャガーとウィノナ・ライダーが似ているというわけではありません。ジェーン・バーキンが両方に(あるいは表情によってどちらかに)似ているというだけです。映画が遊んでいるので、見る側もちょっと遊んでみたということです。似てるよ。絶対。

夜と霧

Nuit et Brouillard
1955年,フランス,32分
監督:アラン・レネ
原作:ジャン・ケイヨール
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
出演:ミシェル・ブーケ(ナレーション)

 「ガス室」によって知られるようになったユダヤ人強制収容所の町アウシュビッツ。今は平穏な町となっているその町で戦争中行われていた暴虐の数々。ナチスによって残されたスチル写真と、現在の強制収容所後の姿を重ね合わせながら、その実態を明らかにしていく。
 さまざまなメディアによって取り上げられ語られてきたホロコーストとアウシュビッツだが、1955年の時点でこれだけのことを語り、これだけの恐怖を体験させる映画世界はものすごいとしか言いようがない。

 最初、のどかの田園風景のはじにちらちらと映る鉄条網と監視所。この時点ですでに鋭いものを感じるけれど、このカラーの跡地となった強制収容所の映像が、過去の白黒の映像にはさまれることで変化していくそのさまがすごい。跡地のがらんどうのベットの列、ただの穴でしかないトイレの列。これらのただのがらんどうである空間を見ることで体の中に沸いてくる恐怖感は、過去の映像だけでは実感できないもの。そこにひしめき合っていた人々がリアルに感じられるのはなぜだろう? 腹の底から沸き上がってくるような恐怖感を生み出すものは何なのだろう?
 それは「視線」だろう。記録としてとられた収容所の映像の視点はあくまで傍観者のものでしかない。しかし、レネは跡地を訪れ、それを傍観しているのではなく、強制収容所の生活というものを再体験しようと欲し、映画を見る人にもそれを再体験してもらおうと思っている。そこから生まれる、視線の置き方がすばらしいのだと思う。
 もちろん悲惨な映像もあり、それはそれで衝撃的なのだけれど、ただ悲惨なだけで恐怖感が沸くわけではない。それは一種の見せ方の問題だ。たとえば、髪の毛の山。一枚のスチル写真であるこの髪の毛の山を、普通は静止した一枚の写真として見せるだろう。しかし、この映画ではまずその静止画の下のほうを映し、そこからカメラを上にずらしていく。つまり、実際の山を下から上へと映していく効果を一枚の写真で生み出している。これはカメラによるひとつのドラマ化であるといえる。われわれが理解するのは強制収容所と虐殺という事実であるが、本当に恐怖するのは、われわれが虐待され虐殺されるというドラマなのだ。だから、人に何らかの感情を呼び起こそうとするならば、それがたとえドキュメンタリーであってもドラマ化が必要となるのだ。そういう意味でこの映画は純粋に優れた映画であり、ドキュメンタリーという枠で捉らえたとしても優れたドキュメンタリーであるといえるだろう。
 この映画を見て、あなたは何度身をすくめただろうか?

5時から7時までのクレオ

Cleo de 5 a 7
1961年,フランス,90分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ジャン・ラビエ
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:コリンヌ・マルシャン、アントワーヌ・ブルセイエ、ジャン=クロード・ブリアリ、アンナ・カリーナ、ジャン=リュック・ゴダール

 癌の恐れがあるクレオは7時に出る検査結果を待って、5時に占い師にタロットで占ってもらう。しかし、その結果は恐ろしいものだった。その結果に恐怖を増しながらも、歌手であるクレオはレッスンを受けたりして時間をすごす。
 パリの街を徘徊する5時から7時までのクレオをただただ追った作品。ヴァルダはこれが長編2作目。劇中劇である短編映画にゴダールとアンナ・カリーナが出演しているのにも注目。

 冒頭のタロット占い(カラー)が結構長く続いて、その終盤で、ぱっとクレオを映す。そこはモノクロで正面から画面いっぱいに捉えられたクレオの目からは一粒の涙がこぼれている。このシーンだけでやられてしまう。どうして冒頭にこんな美しいシーンを持ってこれるのかと思ってしまう。
 映画のほうはというと、全体にかなりおしゃれな感じ。アート系の女の子映画の古典とでも言うべき趣を持つ。そもそもヴァルダはヌーベル・ヴァーグの中でも女性的なものを大きく前面に押し出していた監督で、ヴァルダの発想は現代のアート系女の子映画にももちろん影響を与えている。この映画でもクレオの部屋の感じなんかのあたりにアート系の女の子映画の雰囲気がある。もちんそれでいいんです。全体にも結末にも満足しています。
 ヴァルダの映像はなんとなくものの捕らえ方が大きい気がします。ロングで撮るよりもアップで、画面から対象がはみ出すくらいの大きさで撮る。そんな画面が多い気がします。これはあくまで印象で、具体的にこことこことここというふうには言えないんですが、人物が切れていたりすることが多かったなぁと思ったりします。もっとほかの作品も見てみれば、そのあたりもわかってくるでしょう。そしてどの作品もファーストシーンがいいのかということも。この作品のと「カンフー・マスター!」を見る限りでは、ファーストシーンの魔術師と名づけたくなるくらいです。やはりファーストシーンは重要なのだと実感しました。

ぼちぼちだね(I’m so-so)

I’m so-so
1995年,デンマーク=ポーランド,56分
監督:クリストフ・ヴィエジュビツキ
撮影:ヤシェク・ペテリツキ
音楽:ジュビニエフ・プレイスネル
出演:クシシュトフ・キエシロフスキー

 「トリコロール」や「デカ・ローグ」などの作品を残し、1996年になくなった映画監督キエシロフスキー。「トリコロール」を最後に監督を辞めてしまった彼の姿を、ながらく彼の仕事上のアシスタントをしてきたヴィエジュビツキがカメラに収めた。彼はこの映画が撮られてから1年もたたずに亡くなってしまったが、フレームの中のキエシロフスキーは生き生きとして朗らかだ。
 日本で見られる機会はなかなかないかと思います。

 ドキュメンタリーとしては非常にオーソドックスな作品。それもそのはず。これは劇場公開用の映画として撮られたのではなく、デンマークのテレビ用に撮影されたいわゆるテレビ・ドキュメンタリー。なので、インタビューをメインに、作品を紹介しつつ、現在のキエシロフスキーについて語っていくというスタイル。
 なので、この映画の眼目は彼の哲学と彼がこれからしようとしていることにあるといっていい。全体を通していえることはキエシロフスキーは映画監督は語るべきものではなく、映画が語るべきだということを言っていると思う。質問に答え、映画が語らんとしていることを話して入るけれど、彼が強調するのは常に「解釈の余地」ということだ。いろいろな可能性を映画に盛り込んで、解釈は観客に任せるというスタンス。それがキエシロフスキーが自分の過去の作品について言っているすべてだといっても過言ではないだろう。
 という感じでのドキュメンタリーですが、私が一番思ったのはキエシロフスキーってなんて横顔がかっこいいんだろうということ。正面から映っているとそうでもない(といっては失礼か)のですが、映画の後半で部屋に座って、固定カメラで映している場面があって、その横顔がすごくかっこいい。大きめの鼻がでんと座っていて、りりしい顔立ち。

カンフー・マスター!

Kung Fu Master !
1987年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
原作:ジェーン・バーキン
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:フィリップ・ベルナール
出演:ジェーン・バーキン、マチュー・ドゥミ、シャルロット・ゲンズブール

 マリー=ジャンヌは娘の誕生パーティーで見かけた少年ジュリアンになぜか魅かれ、彼に出会うため学校へと向かう。偶然彼に車をぶつけてしまった彼女は彼をカフェへと誘い、「カンフー・マスター」というビデオゲームに熱中する少年の姿を食い入るように眺めた…
 ジェーン・バーキンが娘のシャルロット・ゲンズブールと競演。同じヴァルダ監督の「アニエスv.によるジェーンb.」と双子のような作品。何でも「アニエス…」の撮影中にバーキンが思いついたアイデアらしい。

 オープニングのキュートな映像。「あれ?スパルタンX?」と思ってみていたら、映画の中では「カンフー・マスター」と呼ばれている。でも、あのゲームはきっとスパルタンX。作りもまったく一緒だし。
 20歳以上という年の差。絵的には違和感があるけれど、決して不自然なことではないと思えるのはやはりジェーン・バーキンの力量でしょうか。マリー=ジャンヌがジュリアンに寄りかかる姿はとてもほほえましくもある。
 しかし、すべてが微妙。結局何も描いていないといってしまえるほどに微妙な心理の機微を描いているように見える。映画のどこを切り取っても、明確に断言しているところがない。明確に見えたことも一瞬の後にはまた不明確さの混沌の中に埋没しているような感じ。まるで世の中に明らかなことなどひとつもないのだといっているような。
 印象に残っているカットも物語とのかかわりを捉えることができない。島の家の窓のカット、その反復。ジュリアンのお母さん。
 なんだかひとつの物語があるようではあるけれど、そこをさまざまな物語の部分が通過していて、物語どうしの境界があいまいになっている感じ。もちろん現実の世界にはほかから独立したひとつの物語など存在しないのだから、そのほうが現実に近いということができるのかもしれないけれど、物語るということはその混沌とした現実からひとつの物語を抽出するということであって、そういう意味ではこの映画は物語ではないのかもしれない。
 なんとなく、アントニオーニと近しいものがあるかもしれない。ひとつの物語を抽出しないという点で。監督によって作品の傾向を一般化することにどれだけの意味があるのかはわからないし、その一般化によって見方が固定化されてしまうという弊害があることもわかっているけれど、とらえどころのない作品をとらえるための足がかりを探していたら、そんなイメージに至った。アントニオーニは散逸していく複数の物語。ヴァルダは無秩序にすれ違う複数の物語。重要なのは、その複数の物語を読み解くことではなく、それをそのまま受け入れることだと思います。その散漫さや混沌に、物語によって主張されるの
とは違う主張(あるいは世界)がある。のかもしれない。