右側に気をつけろ

Soigne ta Droite
1987年,フランス,81分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
音楽:リタ・ミツコ
出演:ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ、ジャック・ヴィルレ、ジェーン・バーキン

 殿下と呼ばれる映画監督と白痴の男、スタジオでレコーディングをするミュージシャンこの3つの物語が、断片として描かれて行く、非常に詩的な映画。
 ジャン=リュック・ゴダールその人が演じる「殿下」はフィルムの缶を持って「地上にひとつの場を」求めて歩き回る。
 といってみたものの、この映画にストーリーは不必要だ。挿入される空のカットや、自然や人を眺め、それを味わうことがこの映画を見るときに必要なことのすべてだ。おそらくドストエフスキーの「白痴」をモチーフにしたと考えられるこの作品は世界(地上)の無垢な美しさを求める物語なのだろう。

 理解しようとすると、かなり難しい。しかし、理解することを止めればそれなりに味わうことはできる。映画のはじめから「白痴」という言葉が表れ、ゴダール演じる男が「伯爵」と呼ばれるところから、ドストエフスキーの「白痴」がイメージされるが、さらにそのゴダール演じる伯爵は常に「白痴」を読んでいる。したがって、映画を見る側としては、この伯爵を「白痴」の主人公であるムイシュキン伯爵(公爵だったけ?)と重ね合わせてみることになる(少なくとも私は)。
 しかし、そうするともうひとりの白痴らしい男との関連性が見えなくなってくるし、レコーディングをしているしている二人との関係性もわからない。
 私の力及ばずというところでしょうか?
 そこで、理解することをあきらめただただ眺めていれば、その音(必ずしも音楽とは限らず数限りないノイズも含む)と画のコンポジションはまさにゴダールの世界で、あるいはこれこそがゴダールの世界なのだと感じられはするけれど、それは、抽象絵画を見るように曖昧な感情しか呼び覚まさない。なんとなくすごいし、なんとなく見入ってしまうんだけれど、それがいったい何なのかわからない世界、この映画にあったのはそんな世界。

カフェ・オ・レ

Metisse
1993年,フランス,92分
監督:マチュー・カソヴィッツ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ピエール・アイム
音楽:マリー・ドーン
出演:ジュリー・モデュエシュ、ユベール・クンデ、マシュー・カソヴィッツ

 自転車でやってきたみすぼらしい白人の青年と、タクシーでやってきたこぎれいな黒人の青年。二人は混血の美女ローラに妊娠したと告げられる。しかもどちらの子供かわからない。さらにローラは生むことにもう決めていた。さて、二人はどうするか?「人種」という重たげな問題をあっさりコメディにしてしまう。 マシュー・カソヴィッツの監督デビュー作はたわいもないコメディのようで、じっくりと味わうだけの含蓄がある作品に仕上がっている。
 「この映画はすごいよ」と私は言いたい。「この映画を消化できないようじゃダメだよ」と高飛車に言いたい。
 でも、軽い気持ちで見てください。そういう映画ですから。

 ジャマルとフェリックス、そしてローラ。この3人はただ単に黒人・白人・混血という関係性なのではない。ジャマルはアフリカ人、フェリックスはユダヤ人、ローラはマルティニク人。3人ともがフランスの社会ではマイノリティであり、この三人の間では必ずしも「白さ」「黒さ」が社会的な問題となるわけではない。  おそらく、ジャマルの家系は出身国(おそらくセネガルかどこか)がフランスの植民地であった頃から、高度の教育を受け、本土において成功したのだろう。ローラは、おばあさんがフランスにいることから、マルティニク(カリブ海のフランス領の島)から移住してきたものの大きな成功は勝ち取れなかった(だから母親はマルティニクに帰った)のだろう。フェリックスは名前からしてポーランド系、第2次大戦後にフランスにやってきたのかもしれない。
 そして、現在では、フェリックスの家がいちばん貧しい。ジャマルの家がいちばん金持ち。
 しかし、ローラは言う「彼は黒すぎるのかも」。肌の色への偏見か?
 ジャマルは暴君のように振舞う。無意識的な性差別か?
 教育とか、社会的地位とか、「やばい地区」とか、いろいろなことが複雑に絡まって、しかしそれを解きほぐそうとはせず複雑なまま提示する。それはただ、あるがままをぽんと提示するということなのだけれど、その複雑さが複雑さとして表現されるためには、ただそこらに転がっている現実を切り取ればいいというわけではなくて、それなりの選択と、表現の工夫が必要になってくる。そしてそれはひどく難しい。どんどん複雑化して行く現実をありのままに切り取っている(ように見える)この作品には非凡なものがあるということに我々は気づかなければならない。

オネーギンの恋文

Onegin
1999年,イギリス,106分
監督:マーサ・ファインズ
原作:アレクサンドル・プーシキン
脚本:マイケル・イグラティフ、ピーター・エテッドギー
撮影:レミ・アデファラシン
音楽:マグナス・ファインズ
出演:レイフ・ファインズ、リヴ・タイラー、トビー・スティーヴンス、レナ・へディ、マーティン・ドノヴァン

 19世紀初頭のロシア、ペテルブルクに住む貴族のエヴゲニー・オネーギンは伯父を看取りに田舎の屋敷へと向かう。彼は社交界の虚栄に飽き飽きし、今のままの生活に疑問を覚えていた。そして、伯父の遺産である田舎の屋敷にしばらくとどまることに決めたが、そこに明確な目標があるわけでもなく、友人になった青年地主のレンスキーと漫然と時を過ごしていた。
 そんなオネーギンの恋愛物語。プーシキンの原作を主演のレイフ・ファインズの妹のマーサ・ファインズが映画化。初監督作品ながら、その組み立てには類まれなセンスが感じられる。

 この映画の最大の強みは物語(つまり原作)であることは確か。しかし、それを丹念にスクリーンに映し込んだ監督の力量もかなりのものだと思う。丁寧に丁寧に映像を重ね、映画を作り込んでいったという感のある作品で、きっちりと無駄が省かれているところに好感が持てる。
 少々クローズアップが多いのが気になったが、それ以外では、余計な説明的な映像やセリフや独白が省かれ、映像に語らせることに成功していると思う。そして、物語の展開も、ついつい語ってしまいたくなる部分、説明してしまいたくなる部分がばっさり切られ(たとえば、オネーギンの以前の生活、レンスキーが死んでからのこと、ラストシーン位後のこと)、映画全体がスリムになった感じがする。そう、最近の映画はこういった思いきりというか、我慢というか、「思い切って切ってしまうこと=語るのを我慢すること」が足りない気がする。だから、だらだらと長い映画が多くなって、2時間半も3時間も映画が続き、「まだまだ切れるんじゃないの?」という疑問だけが頭に残るという事態になってしまう。映像のセンスとか、そういったものはたいしたことない(といっては失礼か)のだけれど、この監督は映画の作り方がわかっている監督なのではないかと思いました。

プランケット&マクレーン

Plunkett and MacLeane
1999年,イギリス,100分
監督:ジェイク・スコット
脚本:ロバート・ウェイド、ニール・バーヴィス、チャールズ・マッケオン
撮影:ジョン・マシソン
音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ロバート・カーライル、ジョニー・リー・ミラー、リヴ・タイラー、アラン・カミング、ケン・スコット、トミー・フラナガン

 18世紀イギリスで有名になった「紳士強盗」こと、プランケットとマクレーンの強盗団の活躍を描いたアクション映画。
 貧乏だが地位と品位は兼ね備えているマクレーン大尉と、泥棒を家業としているプランケット。この二人が組んで貴族から強盗をはじめると、マクレーンの紳士的な態度から「紳士強盗」とよばれ、世間の評判になる。この二人に裁判長の娘レディ・レベッカが絡んで物語は展開して行く。
 監督のジェイク・スコットはリドリー・スコットの実子でこれが初監督作品。イギリス映画としては派手で撮り方もハリウッド映画のような雰囲気。アクションシーンはなかなかの迫力がある。

 本当にイギリス映画なのかと疑いたくなるほどハリウッドっぽい作品。イギリス映画らしいところもなくはないが、そのどれもが決して独創的とは言えないところに難がある。銃撃シーンがスローモーションだったり、服を脱ぐシーンがコマ送りだったり、どこかで見たことあるんだよなという映像的工夫しかなかったのがつらかった。
 ストーリーとしてはなかなか面白いんだけれど、先の展開は読みやすく、あまりスリルは味わえない。
 とにかくこの映画はロバート・カーライルとリヴ・タイラーの映画。ロバート・カーライルが一人映画らしい存在としているという感じ。ロバート・カーライルらしさは十分に出ている、最後のシーンの独特な走り方を見ながら、「ああ、やっぱりいい役者ね」と思いました。リヴ・タイラーはとにかくかわいいのでいい。ちょっと首が太いのと肩幅が広いのが気になりますが、まあいいでしょう。お父さんに似なくて本当によかった(余談)。

カルメンという名の女

Prenom Carmen
1983年,フランス=スイス,85分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:プロスペル・メリメ
脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル
撮影:ラウール・クタール
出演:マルーシュカ・デートメルス、ジャック・ボナフェ、ミリアム・ルーセル、クリストフ・オーデン、ジャン=リュック・ゴダール

 ビゼーの歌劇『カルメン』をゴダール流に映像化したものらしい。
 最初の2つのシーンは、精神病院と室内楽の練習風景。精神病院にはゴダールがいて、室内楽の練習風景でははっとするほど美しい少女がヴィオラを弾いている。最初この2つの場面がほぼ交互に展開されて行くが、精神病院にはゴダールの姪カルメンが訪ねて来て、ゴダールの別荘を使わせてくれと頼む。室内楽の練習は終わり、少女(クレール)は兄と思いを寄せているらしい兄の友人(ジョー)と車に乗る。カルメンは仲間と銀行強盗をする。そこには警官のジョーが居合わせる。
 ストーリーがどうこうより、その映像と音とで見せる作品。全編ゆったりとしたペースで進み、後には美しさのみが残る。

 これを「難解」といってしまってはいけない。これは至極単純な映画だ。理解することは難しいけれど、理解しようとしてはいけない。説明を求めてはいけない。「いずれ説明してあげるわ」とカルメンは繰り返す。しかし、決してその説明がされることはない。ゴダールも我々に何も説明しようとしない。登場人物たちの考えていることも、行動の理由も、それぞれの場面が意味していることも。ただひたすら美しいものが並べられたフィルム。すべてが作りものじみていて、しかしすべてが美しい。あまりにすべてが美しいので、我々は逆にその単調さに弛緩してしまう。眠りにも似た心地よさに。美しいクレールの顔、美しい波打ち際、美しいランプシェード、美しい空。しかし、時折、その単調な美しさを凌ぐはっとする瞬間がある。月明かりに照らされたカルメンの横顔、モップで拭われる床の血。
 ただ一人現実的な時に囚われているジョーのように考えることはあきらめて、我々は美しさの奔流に身を任せればいい。逆行で影になった男女のシルエットの美しさに、浴室のタイルに押し付けられるカルメンの裸体の美しさに、カフェの鏡に映ったゴダールに付き添う女性の佇まいの美しさに、見とれていればいい。

アルファヴィル

Alphaville
1965年,フランス=イタリア,100分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ポール・ミスラキ
出演:エディ・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、ラズロ・サボ、エイキム・タミロフ

 「外部の国」からアルファヴィルへとやってきた新聞記者のジョンソン。ホテルに着くなり、接客係が売春婦まがいのことをするなど、そこは全く奇妙な街だった。実はスパイである彼はフォン・ブラウン教授なる人物を探し、アルファビルを自滅させるという任務を帯びていた。その娘と仲良くなったジョンソン(偽名)は徐々にアルファビルの内実に迫っていく…
 すべてがコンピュータに管理される都市アルファヴィル。そこでは言葉が統制され、人間的感情を規制されていた。簡単に言ってしまえばSF映画のパロディということになるのだろうけれど、そこはゴダール。単なるパロディにはしない。言葉をめぐる哲学的な冒険。それがこの映画のテーマかもしれない。

 メタファー。この映画を見終わったときに最初に浮かんだ言葉はそれだった。いったい何が何のメタファーなのか? サイエンスを欠いたSFはいったい何をたとえているのか?
 SFのパロディという形態はアルファヴィルが車で来られる「外部の国」であるというところにある。つまり、銀河系とか、いろいろなSFっぽい言葉を使っているけれど、それが果たして我々の言っている「銀河」という概念と同じなのかは言っていない。「銀河」というのが我々の言っている「国」程度の意味しか持たず、「外部の国」というのが、地球を意味しているのではなく、隣りの国を意味しているにすぎないとしたら…
 未来という現在のメタファー。
 宇宙という地球のメタファー。
 コンピュータという人間のメタファー。
 言葉はいったい何のメタファーなのか? 最後にナターシャが「愛している」という言葉を口にすることによって救われるのはいかにも鼻白いが、この鼻白さが意味するのは私もまたアルファ60によって感情を殺されてしまっているということなのか?

 と前回書いたものの、とりあえず私は全くもってこの映画の何たるカを理解していなかったということは確かだ。いまも理解しているわけではないが、ゴダールが投げかけてきた謎のいくつかは少なくともたどることができる。
 それはまあそれとして、「銀河」が重要であることは間違いない(私の直感はある程度は正しかった?)。この映画の「銀河」とは全くもって言葉(用語法)の問題である。アルファビルは砂漠の中に作られた小都市。設定上はアメリカのどこかである。アルファ60はそのアルファビルを「国」と呼び、それ以外を「銀河」と呼ぶ。星間を結ぶ高速道路を通ってやってきたジョンソン(レミー・コーション)は「外の国の人」である。そのようにして、概念に対する言葉を置き換えることがアルファ60の中心的な働きである。そして、そのようにして言葉を置き換えていくこと、そのことによってすべてを論理整合的に、合理的にするということが目的になるわけだ。しかし、その目的が結局のところどのような結果につながるのかは明らかにされない。結局は人間によって操作されるコンピュータであるアルファ60が都市を支配しているということは、それを操作する人間の意図がその支配の方法に影響を及ぼしているはずなのだが、その操作する人間であるフォン・ブラウン教授(ノスフェラトゥ)の意図は全く見えてこない。
 言葉と合理化を端的に象徴しているのが「元気です ありがとう」という言葉である。人が出会ってすぐ口にするこの言葉は「こんにちは、お元気ですか?」「ありがとう、元気です、あなたは?」「元気です、ありがとう」の最初の2つの会話を端折ったものであると考えられる。これは会話の合理化であり、言葉に新たな意味を持たせる行為でもある。アルファ60はこのようにさまざまな言葉の意味をすり替えていき、住民をコントロールしていく。 

 アルファ60のほうの謎は映画の中でジョンソン(レミー・コーション)が解き明かしている。私はそのことに今回気づいたわけで、それはそれでいいとしよう。言葉という点に注目すればアルファビルとアルファ60がどのようなものであるかはわかる。
 わからないのはそれを作り上げ、コントロールするフォン・ブラウン教授の存在である。この謎は私には解けなかったのだが、とりあえず言葉に大きな意味を持たせている(言霊ではないが、言葉には意味があり、それが何かを変えたりする)ことからして、登場人物の本名と偽名のそれぞれにも意味があるのではないかと思った。
 まず、フォン・ブラウン教授の本名であるらしいノスフェラトゥとは言うまでもなく古典的に吸血鬼を意味する(映画史的にも『吸血鬼ノスフェラトゥ』という古典がある)。つまり、この本名が映画の終盤で明らかにされるとき、彼の吸血鬼性が暴かれたということになる。偽名のほうのフォン・ブラウンはナチス・ドイツの著名なロケット学者で戦後はアメリカでロケット開発に参加した科学者をさすと思われる。したがって、このキャラクターは科学者の仮面を被った吸血鬼という意味づけがなされているわけだ。
 これに対してレミー・コーションのほうはエディ・コンスタンティーヌが『そこを動くな!』以来演じてきた映画のキャラクター(FBI捜査官)である。テレビ・シリーズにもなったらしいので、フランス人にしてみればおなじみの顔ということになるのだろう。偽名のほうの意味はわからないがこれはゴダールの一種の遊びであると思う。
 つまり、重要なのはフォン・ブラウンのほうということになるのだが、結局のところ科学者の仮面を被った吸血鬼という隠喩的な意味以上のことは私にはわからなかった。
 かなり飛躍して考えを展開していくならば、言葉を奪うということは血を吸うように人間から生命を奪ってしまうことなのだ、とゴダールは言いたいのかもしれない。ゴダールは非常に言葉に意識的な作家であり、言葉を非常に重要視するから、言葉をこの映画のテーマのひとつとした時点でそのようなメッセージをこめようと考えた(あるいは自然とこもってしまった)と考えても不自然ではない。もうひとつ重要なものと考えられていると思われる「愛」とあわせて、ゴダールが重要視するふたつのテーマがこの映画でもテーマとなっていると考えれば、少しは(私の)気持ちもすっきりする。

浮き雲

Kauas Pilvet Karkaavat 
1996年,フィンランド,96分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ
音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ

 レストランで給仕長を務めるイロナと市電の運転手をするラウリの夫婦、新しいテレビも買い幸せに暮らしていたが、市電の赤字による人員削減でラウリが解雇されてしまう。仕事をいくら探しても見つからないまましばらくたったころ、イロナのレストランも大手のチェーン店に買収され、イロナも失職してしまう。仕事も見つからず、二人は途方にくれる…
 アキ・カウリスマキ得意の重い空気。フィンランドの重く垂れこめた空と、それとは対照的に鮮やかな色彩にはカウリスマキ監督の繊細な映画的感性が感じられる。

 これは非常にカウリスマキらしい映画であるにもかかわらず、当たり前の映画であるようにも映るという不思議な映画。カウリスマキはかなり変わった映画を80年代から90年代前半にかけて撮り、“カルト”という印象を観客に植え付けた。そのカウリスマキらしさとは徹底的に削られたセリフ、無表情な登場人物たち、常に暗さを伴う風景、印象的な音楽、などなどというもの。この映画にもそれらの要素はことごとくあり、まさにカウリスマキ的世界がそこにはある。
 しかし他方で、カウリスマキは変わりつつあったのかもしれない。常にシニカルであったカウリスマキの映画に何か本当に明るいものが見えて来ているような、(カルトではないという意味で)当たり前の映画に近づきつつあるような、そんな印象がこの映画にはあった。この映画を最初に見た時点ではそれは何かカウリスマキの魅力が薄められているようで、面白みが削がれているようにも感じられたけれど、いま改めてみると、それはカウリスマキの新たな次元というか、カルトから本当の実力派へと脱皮する段階であるのかもしれないと思える。
 映画を、そして物語を無理にひねろうとせず、観客の不意を付いて驚かせようとせず、ストレートに物語を進めながら、しかしその世界は明らかにカウリスマキという、そんな映画がこの映画では目指されているように思える。しかし、カルトな観客も裏切らず、さまざまな仕掛けも隠されている。 

 そして、カウリスマキらしいといえば、この映画で印象的なのはタバコ、とにかくカウリスマキの映画といえばタバコ、これは欠かせない要素である。このタバコとそしてもうひとつ欠かせない犬が非常にカウリスマキ的であり、映画的である。映画とはただそこにあるものではなく、画面から匂いたつものであるはずだ。この映画のタバコや犬からは「映画」がたまらなく匂ってくる。
 普通の「話」では無視されがちな些細な細部がたまらない魅力を放つのが「映画」的。これだけ、タバコと言う小道具を魅力的に使った映画を最近は見ない。昔はどこでもタバコは小道具の王様だったのに。そして犬。ただの犬。いつも尻尾を振っている犬。しかしこの犬がなんとなくこの映画にけじめをつけている。それぞれのシーンにそっと登場し、さりげなく存在感をアピールし、当たり前であることをそっと告げて去って行く。
 この犬に限らず、カウリスマキの映画には物語にはまったく必要のないものが登場し、それによって非常に魅力的になってしまうということがある。ただ二人が立っているのではなく、何かが通り過ぎたり、何かの音がしたり、ただそれだけでそのシーンが名シーンであるように思えてしまう。そんな魔法のような効果がカウリスマキの映画にはある。
 一見当たり前のようにも見える映画の中に、映画的魅力をふんだんに盛り込む、そんな魔術師のようなカウリスマキの魅力はカルトであることから離れていっても、増して行くばかりなのだ。彼は今本当に偉大な監督になろうとしているのかもしれないとこの映画を見て思った。

ヘカテ

Hecate 
1982年,スイス=フランス,108分
監督:ダニエル・シュミット
原作:ポール・モーラン
脚本:パスカル・ジャルダン、ダニエル・シュミット
撮影:レナード・ベルタ
音楽:カルロス・ダレッシオ
出演:ベルナール・ジロドー、ローレン・ハットン、ジャン・ブイーズ、ジャン=ピエール・カルフォン

 北アフリカに赴任したフランスの外交官ロシュールはパーティーでであったアメリカ女性クロチルダと恋に落ちる。純粋な恋愛映画として始まるこの映画、しかしクロチルダの謎めいた行動がロシュールを混乱させ、徐々にサスペンスの要素が強まって行く。
 徐々に緊迫感を増す展開もおもしろいが、この作品で最も素晴らしいのはその構図。フレームによって切り取られた一瞬一瞬が一葉の絵画のように美しい構図を構成する。微妙な色合い、光の加減、フォーカスを長くして作り出す不思議な構図などなど。その美しいという言葉では言い表せない映像を見ているだけでも飽きることはない。

 そう、構図が美しい。無理に一言で表現してしまえばそういうことなのだが、決してそれだけでこの映画の映像のすばらしさが表現できるわけではない。重要なのは、その一瞬の構図が美しいことではなく、その変化する構図が緊張感を保ちながら美しくありつづけることだ。
 たとえば、山の上から、ロシュールと上司の外交官が下を見下ろしている場面。カメラは彼等二人の背中を映しながら右から左へゆっくりとパンして行く。その時、正面にひとつの山並みが見えるのだが、その山が正面にやってきたときの構図にはっと心を打たれる。もちろんその時、遠くにあるはずの山と近くにいるはずの二人とに同時にピントがあっていることも大事な要素だ。そこでは映画における遠近法が無視され、山と人は同じ大きさのものに見える。
 あるいは、階段にロシュールとクロチルダがうずくまっているシーン。最初、赤と緑の微妙な色合いで、左上へと昇って行く階段と、右上に青い窓が映される。その構図だけでもちろん驚くほど美しいのだが、まず、右上の窓のところロシュールが動く。そこで観衆は(少なくとも私は)そこに人間がいることに気づく。そしてさらに、階段のところにはクロチルダがいることに気づく。二人はのそのそと動き、構図を変化させるのだけれど、果たして構図は美しいままだ。
 もうひとつ、面白いのは、30年代くらいのハリウッドの模倣。私が気づいたのは、ある場面で二人がキスする時、直接映すのではなく、影を映す。これはいわゆるクラッシックなハリウッド映画を見ているとたびたび用いられる手法だ。他にも、あっと思ったシーンが二つほどあったけれど、ちょっと思い出せません。おそらくシュミットは黄金期のハリウッド映画にかなりの愛着を持った監督なのだろう。
 非常に、玄人受けする映画だと思いました。

パッション

Passion 
1982年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ドミニク・ブラン、ミリアム・ルーセル

 最初のカットは、空を横切る飛行機(雲)。そこから、切れ切れの断片が次々とつなげられる。それぞれの意味するところは説明されることなく、それぞれのカット(映像)の切れ目とセリフ(音)の切れ目も一致しない。ひとつのモチーフは工場で働くどもりの少女、もうひとつのモチーフは生身の人間で構成される絵画(おそらくレンブラント)の撮影風景。いきなり見るものを圧倒し、混乱させる作りで始まるこの映画、徐々に物語らしきものがたち現れてくる。
 ゴダールらしい実験性と工夫に溢れた作品。物語らしきものがあるようでないようなのだけれど、常に緊迫感が漂い、見るものを厭きさせない。
 いわゆる普通の映画に馴らされてしまっていると、かなり面食らうに違いない映画だが、この世界になじんでいけば、最後には終わってしまうのを惜しむ気持ちが沸いてくるに違いない。

 この映画に溢れているのは、「音」と「光」。「音」はその過剰さによって、「光」はその不在によって存在を主張する。我々はまず遠くを飛ぶ飛行機のノイズに耳を澄ませ、主人公である少女の吃音に耳を尖らせ、彼女の吹くハーモニカに違和感を覚え、突然けたたましくなるクラクションに驚かされる。
 主人公であるジョルジは光の不在に頭を悩ませ、我々は多用される逆行の画面にいらだつ。美しいはずの音楽は中途で寸断され、聞きたい言葉はの登場人物たちの心の中のモノローグによってかき消される。
 この世の中は、過剰なノイズによって肝心の音は聞こえず、光が存在しなくなってしまったために物が見えなくなってしまっている。劇中で作られている『パッション』という映画が完成しないのは、光が見つからないからではなく、光が存在しないからなのだ。
 ゴダールのすごいところは我々をいらだたせることによって、自分の側にひき込んでしまうこと。我々の欠落した部分につけ込んで我々に期待を抱かされること。しかしその期待がかなうことはなく、我々は痛みを抱えて映画館を後にする(またはビデオデッキのイジェクトボタンを押す)。そして、ためらいながらも違うゴダールに期待をしてしまう。
 なぜそうなのかを分析することは難しい。我々はただ驚くだけ。ゴダールの映画はなぜショッキングなのか? ゴダールの映画に登場する女性たちはどうしてあんなに美しいのか?
 やはりゴダールは天才なのか?

GO! GO! L.A.

L.A. Without a Map
1998年,イギリス=フランス=フィンランド,107分
監督:ミカ・カウリスマキ
原作:リチャード・レイナー
脚本:ミカ・カウリスマキ、リチャード・レイナー
撮影:ミシェル・アマテュー
音楽:セバスチャン・コルテーリャ
出演:デヴィッド・テナント、ヴァネッサ・ショウ、ヴィンセント・ギャロ、ジュリー・デルピー、ジョニー・デップ

 スコットランドの田舎町で葬儀屋に勤めるリチャードは、アメリカから来た女優の卵バーバラに一目ぼれ、一日きりのデートが忘れられず、すべてを捨ててロサンゼルスへやってきた。しかし、そこはハリウッド、リチャードのような田舎ものの居場所はなかった。スラム街に家を借り、唯一できた友人のモスと彼女を手に入れようと画策するのだが…
 弟のアキ・カウリスマキと比べるといまいち知名度の低いミカ・カウリスマキ監督が撮った意外とまともな恋愛映画。ばらばらなキャストが面白い。特にヴィンセント・ギャロがとてもいい。

 壊そうとして壊しきれなかったまともな恋愛映画。いかんせん主人公の二人がまとも過ぎた。ヴィンセント・ギャロとジュリー・デルピーはとてもいいし、ジョニー・デップも効いているが、物語の芯が何だかぽあんとしてしまってしまりがない映画になってしまったのかもしれない。でも、ヴィネッサ・ショウはかわいい。
 それでも、レニングラード・カウボーイズ(弟ミカの映画でおなじみ)が出て来たり、言葉(訛りや言いまわし)にかなりの工夫が凝らされていたりと楽しめることはたしか。ヴィンセント・ギャロのしゃべり方なんかはかなり癖があっていいが、その辺りは我々日本人には少々伝わりにくいのかもしれない。
 姿勢としては、ハリウッドをおちょくるヨーロッパ連合軍。ハリウッドを舞台にしたハリウッド映画とはちょっと違った映画にしあがっている。特にパターソンのおもしろくなさはかなり面白い。それをみんなが「LA的」と称するあたり、ミカ・カウリスマキのシニカルな見方が感じられる。