汚れた血

Mouvais Sang
1986年,フランス,125分
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ、シャルル・アズナヴール、デヴィッド・ボウイ、セルジュ・レジアニ
出演:ミシェル・ピッコリ、ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピー

 ハレー彗星の影響で異常気象に見舞われるパリ、マルクはメトロで自殺した仲間のジャンの死を怪しみ、「アメリカ女」がやったのではないかと疑う。しかし、マルクは「アメリカ女」への借金を返さねばならず、そのためには製薬会社に忍び込む必要があった。彼はジャンと同じく手先が器用なジャンの息子アレックスを誘おうと考えた。
 「ポンヌフの恋人」「ポーラX」のレオス・カラックスが世界的認知を得た作品。徹底的に作りこまれた映像美と難解な物語が独特の世界を作り出す。

 確かにこの作品はすごいんですが、あまり「すごい、すごい」と言われすぎている気もするので、へそ曲がりな私としてはちょっと文句をつけてみたくなるわけです。
 最初のあたりはかなりゴダールの影響を感じさせるモンタージュで始まり、しかし、アップの多用や普通のギャング映画のような物語が進行しそうで、「ちょっと違うのかな」と思わせる。この最初のシーンはかなりいい。年寄りばかりで構成したのも非常に面白い。
 次のシーンもなかなかいい。  しかし、その後映画が進むにつれ、物語としては魅力を失っていき、映像も「作り込み」が目に余るようになってくる。特に気になったのは映像で、新しいことをやろうという気持ちも、なにをやりたいのかもわかるし、確かに面白い構図なのだけれど、作りこみすぎて「自然さ」が失われてしまっているように見える。それは構図を守るために動きを奪われてしまったことからくるのだろう。たとえば、アナのアップの後ろでアレックスが動いているシーンがあって、最初は奥のアレックスにピントがあっていて、画面の3分の2を占めるアナはぼやけている。それが、突然ピントが切り替えられるのだけれど、そのためにアレックスの動きが非常に制限されてしまっている。その「構図のために人を動かしている」っていうのが、どうもね、気に入らないというか、そっちに目がいっちゃって映画の中に入り込みきれないというか、そんな居心地の悪さがあるんですね。
 とはいってもやはり、いい映画ではある。アレックスがデヴィッド・ボウイにのって疾走するシーンなどなどいいシーンはたくさんあるし、この監督はなんといっても女優の使い方がうまい。当時ほとんど無名だったジュリー・デルピーをうまく使っている。
 いわゆる「アート系」と呼ばれる映画だと思うんですが、その中でもかなり時代の先を行っていたのだなと感じるわけです。この映画にいたく感動する人の気持ちもわかります。
 私にはそこまでの真面目さがないということなのかな?

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

タクシー

Taxi
1996年,スペイン=フランス,114分
監督:カルロス・サウラ
脚本:サンティアゴ・タベルネロ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジプシー・キングス、マノ・ネグラ
出演:イングリッド・ルビオ、アガタ・リス、エウサビオ・ラサロ、カルロス・フエンテス

 タクシー・ドライバーのレメはある夜、ある薬注の女性を拾う。女性が寝入ってしまうと、彼女は運転手の仲間“ファミリア”に連絡し、彼らは橋の上で落ち合った。彼らは女性を車から引きずり出し、橋から投げ落とした。
 一方、タクシー・ドライバーのべラスこの娘パスは大学の入学試験に不合格、自暴自棄になって髪の毛をスキンヘッドにしてしまう。その娘を見た父は彼女をタクシーに乗せようと考えた。
 スペインで良質の作品を撮りつづけるサウラ監督が、移民・差別・ネオナチと言った社会問題を、タクシー・ドライバーというユニークな視点から、サスペンス調で描いた映画。まじめです。

 社会問題を映画で取り上げるというのは難しいことなのだけれど、この映画はタクシー・ドライバーをその中心に据えたことでかなり成功している。まさしく発想勝ちなのだろうか。
 しかし、脚本がどうも今ひとつ。パスとダニがはじめてキスをする場面、二人は星がどうだのという話をしたりするが、あまりにあんまりだ(なんのこっちゃ)陳腐というか、何というか、ねらいだとしたら外れているし、本当にあのセリフがしゃれていると思っているなら、もっと映画見ろ!という感じ。
 そんな脚本のつたなさに邪魔されながらも鋭敏な映像はカルロス・サウラの本領発揮。特に印象に残ったのは、フレームの右隅にテレビの画面があって、奥でパスがご飯を食べているシーンと、寝ているパス(目は開けている)が暗闇から徐々に浮かび上がり、カメラも徐々によっていくシーン。最後の、カレロが死んでいるシーンもなかなか。全体的に言っても、構図がきれいで、タクシーに拘泥するならば窓ガラスへの映り込みを非常にうまく使っていて、トーンは暗いけれど、美しい画面でした。
 という感じです。発想はよし、映像もよし。しかし脚本がちょっと…

タクシー・ブルース

Taxi Blues
1990年,ソ連=フランス,110分
監督:パーヴェル・ルンギン
脚本:パーヴェル・ルンギン
撮影:デニス・エフスチグニェーエフ
音楽:ウラジミール・チェカシン
出演:ピョートル・マモノフ、ピョートル・ザイチェンコ、ヴラジミール・カシュプル、エレナ・ソフォノヴァ

 タクシー運転手のシュリコフはある夜騒がしい若者の団体を乗せ、最後の一人まで送り届けた。しかし、金を取ってくるといって去った若者は帰ってこなかった。翌日その若者を訪ねて彼が出演しているライブハウスへ。借金のかたに彼のサックスを預かった。
 ソ連映画といっても崩壊寸前のペレストロイカ全盛の時期を舞台にしている。それは価値観の衝突する時期であり、地道に働くタクシー運転手と自由に生きるミュージシャンという二人を中心に据えることでその対照を際立たせた。
 と、図式的に言ってしまうこともできるが、この映画の魅力はそんな思想的な点ではないし、映画自体もそのような政治的な主題を前面に押し出さない。「人間」というものを巧妙に描いた映画。

 非常にハードボイルドな、それでいて人間の内面をえぐるような不思議な映画。ほとんど感情というものが廃され、登場人物たちは感情をあまり表さず、もちろんそれが語られることもない。特にシュリコフは何を考えているのかわからない無表情な人間で、彼が笑うときは常にシニカルな笑いだ。  もちろんリョーシャはそれとは対照的によく笑い、怒るのだけれど、彼の感情は酒の助けを借りたものだ。
 だから二人が互いにどんな感情を持ち合っているのかを我々は知ることはできない。もちろん二人も互いの感情がわからない。二人が互いに影響を与え合っていることは確かなのだけれど、それぞれの内面での話であって、それが相互理解につながるわけではない。
 まあ、それが表に現れないからこそこの映画は面白いのであって、二人の内面の感情の変化が手にとるようにわかってしまったら、それはできそこないのハリウッド映画になってしまう。そこに陥らなかったのがこの映画のよいところ。
 しかし、リョーシャが黒人のサックスプレイヤーとサックスの演奏で意気投合するというところは少々ロマンチストすぎたかな、という感があった。
 しかししかし、この映画は結局収束せず、物語は拡散していくのだけれど(最後に出てくる後日談も映画の延長にはちっともなく、なんだか唐突な感じがする)、それがこの映画の非常に現実的なところ。二人はただすれ違うだけ。あれだけ様々な出来事が起きたのに、結局は街角ですれ違った人と大差はない。そこに程度の差こそあれ、根本的には何も変わらない。
 この文章もかなり拡散していっているけれど、あるひとつの現実の切り口として、あるひとつの人間ドラマとして、歴史的に大きな意味を持つ場所と時期に関するひとつの語りとして、この映画に描かれているものは非常に興味深い。

SARA

SARA
1997年,ポーランド,112分
監督:マチェイ・シレシツキ
脚本:マチェイ・シレシツキ
撮影:アンジェイ・ラムラウ
音楽:マレク・ステファニケウィック
出演:ボグスワフ・リンダ、アグニェシュカ・ヴォタルチック、チェザーリ・パズラ

 特殊部隊の任務を終え、帰宅したレオンは自らの不注意で娘を死なせてしまう。それ以後酒びたりの日々を送っていたレオンに、マフィアから娘サラのボディガードの依頼がきた。
 ポーランド版「レオン」と呼ばれるこの作品は、確かに主人公の名前もレオン、マフィアの家には「レオン」のポスターと、「レオン」を意識して作られていることは確かだが、映画としてはまったく別物。レオンほどかっこよくはないが、なんだか温かみのある映画に仕上がっている。

 マフィアそして殺し屋、銃弾がバンバン飛んで、人がドンドン死ぬのに、なんとなく温かみのある映画。緊迫する場面よりもなんだか微笑んでしまう場面のほうが多い不思議な映画。なんとなくまとまりはないのだけれど、とにかく監督の映画への愛情が感じられる。
 まず、いろいろな映画が映画の中に登場するのがいい。家にはレオンのポスター、食事時にゴットファーザーがテレビで流れていて、それ以外のときでもいつもマフィア映画を見ている。このマフィアがいつもマフィア映画を見ているというシチュエーションも何かの映画で見た気がするけれど、思い出せないなぁ。で、サラとレオンが中華料理屋で踊りだすシーン、あれはおそらく「パルプフィクション」。フレームが一緒だったもの。
 こんなものがちらちら出てくるたびににやりとしてしまうのだけれど、他にもニヤリとしてしまうところがかなりある。サラを中絶させようとしているとき、サラの父親が「麻酔は心臓に悪いから」と言う。「そんなばかなぁ」と思うけど、案外、こんな対応のほうが現実なのかもしれないとも思ってしまう。 こんなちょっと間抜けなエピソードのどれもが、いわゆるマフィア映画よりも現実に見えてしまうと言うのがこの映画のすごいところ。だから、普通にマフィア映画のようでいて、ちっともドキドキしないし、けれどもすごく面白い。
 ものすごーくヒットしなそうな映画(実際ヒットしなかった)だけれど、私はこういうの非常に好きです。

ビーン

Bean
1997年,イギリス,89分
監督:メル・スミス
脚本:リチャード・カーチス、ロビン・ドリスコール
撮影:フランシス・ケニー
音楽:ハワード・グッドール
出演:ローワン・アトキンソン、ピーター・マックニコル、パメラ・リード、ハリス・ユーリン

 王立美術館に勤めるミスター・ビーンはいつものように遅刻。いつものように解雇されそうになるが、会長の鶴の一声で今日も首の皮一枚つながった。そんなとき、アメリカ絵画の傑作、ホイッスラーの「母の肖像」を5000万ドルで購入したロス・アンジェルスの美術館から、権威づけのための学者の派遣が要請された。そして、なぜかミスター・ビーンが派遣されることに!
 イギリスから世界的な大ヒットとなったホームドラマ「ミスター・ビーン」の映画版。ドラマのほうを見慣れていると、まず笑い声が入っていないのが違和感。ミスター・ビーンのキャラクターもちょっと違っていて違和感。ネタ的にはあまり変わらないので、楽しめることは楽しめますが。

 これならドラマを見ているほうがいいかも。場面と場面のつなぎ方なんかはまったくドラマのままで映画にしてしまっているから本当に違和感がある。ドラマを見たことがない人が見たらどうなのかはわからないが、一度でもドラマを見たことがあれば違和感を感じることでしょう。  具体的には、ホームドラマのつなぎで多用される画面のフェードアウトが映画でも多用されていること。フェードアウトというのは、次のシーンに映るときに、音がフェードアウトし、画面が徐々に暗転し、暗くなったところで次のシーンが始まるという手法のことを言ってるのだけれど、ホームドラマの場合、ひとつの落ちがあったところでこのフェードアウトによる場面転換があり、そのフェードアウトの間はたいてい笑い声が響いている。しかし、映画だとその笑い声がない。普段ホームドラマを見ていると、笑い声は邪魔な気がするのだけれど、この映画を見て、意外とあの笑い声ってのは重要なんだなと思いました。

死刑台のエレベーター

Ascenseur puur l’Echaaud
1957年,フランス,92分
監督:ルイ・マル
原作:ノエル・カレフ
脚本:ロジェ・ニミエ、ルイ・マル
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:マイルス・デイヴィス
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ジョルジュ・ブージュリー、リノ・ヴァンチュラ、ジャン=クロード・ブリアリ、シャルル・デネ

 石油会社に勤める元将校のジュリアンは会社の社長を自殺に見せかけて殺し、女と逃げる計画を立てていた。無事殺しは成功し、会社を出たが、殺人に使ったロープを忘れてきたことに気づき会社に戻る。しかし、エレベーターに乗ったとたん守衛がビルの電源を落とし、ジュリアンはエレベータの中に閉じ込められてしまった。
 ヌーヴェル・ヴァーグの担い手の一人ルイ・マルの実質的な監督デビュー作。おかしなところも多いが、映画的魅力にあふれたサスペンス映画になっている。

 細かいところを言っていけば本当におかしなところが多い。夜中町を歩いてずぶ濡れになったはずのフロランスが次のシーンでバーに入るとすっかり乾いて、髪の毛もセットしなおされているとか、なぜみんながみんなキーを着けたまま車を置きっぱなしにするのかとか。
 それはさておいて、映画としてはかなりいい。特にすきなのは、フロランスが途方にくれて町を歩くシーン、最初真横からフロランスを捉えて、後ろに映る街の人がなぜかみんなフロランスのほうをじっと見る、その後、正面から捕らえて、道路を渡るフロランスの前後を車がきれいに通過していく。非現実的なのだけれど、非常に美しくて魅力的なシーンだ。もうひとつは取調室のシーン。妙に暗くて、ジュリアンの周りだけが白く浮き上がっているその空間の感じが非常にいい。部屋の壁とか、扉とか天井とかそんなものは一切映っていない、舞台上のセットのような空間がたまらなく美しい。
 あとはやはりマイルス・デイヴィスの音楽。フロランスが町を歩くシーンではマイルスのトランペットが鳴り響くが、それはまさに今でいえばミュージック・ビデオのような詩的映像になっている。
 プロットのオーソッドックスさや、細部の稚拙さを差し引いても映画として十分に魅力的な映画。あるひ突然もう一度見てみたくなる作品。

ひかりのまち

Wonderland
1999年,イギリス,109分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:ローレンス・コリアト
撮影:ショーン・ボビット
音楽:マイケル・ナイマン
出演:シャーリー・ヘンダースン、ジナ・マッキー、モリー・パーカー、イアン・ハート、ジョン・シム、スチュアート・タウンゼント

 ロンドンの小さなカフェで働くナディアは伝言ダイヤルで恋人を募集。姉のデビーは息子のジャックと二人暮し、妹のモリーはもうすぐ子供が出来る。三人姉妹の母親は父親が家でぶらぶらしていることにストレスを募らせ、家を出てしまった末の息子ダレンのことを心配する。
 ロンドンでばらばらに暮らす家族のそれぞれの4日間を描いた物語。
 ヒューマニックな話だが、ウィンターボトムらしいひねりの聞いた筋と画素の荒い手持ちカメラを多用した映像がハリウッド的ハートウォーミング・ムーヴィーとは一線を画している。
 それぞれのキャラクターの個性がはっきりしていて、物語としては非常によく出来た映画だと思う。

 家族のそれぞれがばらばらに登場し、それぞれの悩みを抱え、しかし微妙に係わり合いながら、日常的ではあるけれど激動の4日間を過ごす。
 物語と脚本には非常に好感が持てた。「家族」というものを前面に打ち出すわけではなく、話が完全に収斂していくわけでもない。しかし、それぞれがそれぞれなりに問題を消化し、家族それぞれを決しておろそかにはしない。非常にリアルな物語に思えた。あるいはリアルなものを凝縮した感じとでも言おうか、とにかく「生」な感じがして非常によかった。
 ウィンターボトムという監督はいつも映像にかなり凝っていて、今回もさまざまなこだわりが感じられる。一つはもちろんもっとも目に付く画素の荒さ。これは恐らく証明を弱くしてカメラの感度を上げているのだろうけれど、なんとなくビデオカメラのような映像になる。特に夜の場面では家庭用ビデオカメラのような感じになる。もう一つの特徴は手持ち撮影の多用。特に歩いている人を近く(主に後)から手持ちカメラで追いかける映像が多かった。
 この映像がもたらす効果は素人っぽさであり、真実みであるのだろう。簡単に言えば「ブレア・ウィッチ」のような素人が記録したフィルムという設定にふさわしい映像の作り方。しかし、この映画ではその造り手の側にはまったく言及しておらず、映画の外に存在していることは明らかだ。ならどうしてこんな撮り方を、と思うけれど、簡単に言ってしまえばリアルさを追求しているんだろう。作り物ではない本当のドラマのように見せたいということ。現実を切り取ったもののように見せたいということ。それだけだと思いますが。
 非常によくまとまった映画だと思います。まとまりすぎていてもうちょっと壊してくれたほうがよかったという気がするくらいきれいにまとまった映画。それでも結構感動も出来るという映画です。

中国女

La Chinoise
1967年,フランス,103分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:クロード・シャンヌ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、フランシス・シャンソン、ミシェル・セメニアコ、レクス・デ・ブロイン

 毛沢東主義(マオイズム)をテーマにしたゴダール流革命映画。
 相変わらず、人物や場面の設定が明らかにならないまま映画は進行して行くが、とりあえずわかるのは、毛沢東主義を信奉している5人の若者が共同生活をし、それを映画として記録しているということ。しかしこれが映画の映画なのか、どこまでが現実なのか、それはわからないまま映画は進む。
 マルクス主義・共産主義・フランスの政治に詳しくないと意味のわからない用語がたくさん出てくるので、あまりに知らないと苦しいが、マルクス主義思想なんかを少々かじっていればなんとなく意味はわかるはず(それは私)。
 しかし、そこはゴダール。もちろん思想面を伝えることが第一義なのだろうが、ゴダール映画らしい映像感覚とサウンドは相変わらず素晴らしい。とにかく見てみて、うんうんうなずくもよし、わけがわからんと投げ出すもよし、ゴダール的世界を味わうもよし。

 とにかく、設定がわからないのだけれど、「何なんだこれは?」と眉間に皺を寄せながら最後まで見きってしまった。という感じ。最後まで見れば、なんとなく設定はわかるのだけれど、映画の撮影クルーの位置付けがなかなかわからない。おそらく、ゴダールたち自身でもあり、劇中人物でもあるという微妙な立場にいるのだろうとおもうが、果たしてどうか。
 毛沢東主義との兼ね合いもあり、難解と言われがちなこの映画ですが、見てみると意外と見やすい。わけがわからないと言えばわけがわからないのだけれど、ゴダールの映画は見始める時点ですべてを理解しようなどという構えは捨ててしまっているので、理解できなくてもそれは心地よいわからなさと言ってしまえるような感覚。(負け惜しみではないよ)
 最近、ゴダールの映画を見て思うのは、こういう天才的な感性を持つ人の映画は理解するのではなく、流し込むのだってこと。頭を空っぽにして感性そのものを流し込む。そうすると、1時間半の間は自分も天才になったような気になる。そんな感覚で見るゴダール。いいですよなかなか。

 ここまでが1回目のレビュー。今回ある程度、展開を把握してみたところ、実のところ彼らの若者らしい先走り感が映画の全編にあふれており、映画を撮っている男達はそれを冷淡に見つめているという関係性があるような気がしてきました。彼らの革命ごっこが一体どうなるのかをみつめている感じなのか… そこまではなんとなく理解しましたが、それだけ。
 あとは細部に気を引かれ、映像の構図の美しさはやはりゴダールならでは。壁際にひとりが立ってクロースアップでインタビューを受ける場面はそれぞれが違う色調で描かれており、その対比が美しい。

ミス・ダイヤモンド

Mis. Diamond
1998年,ドイツ,96分
監督:マイケル・カレン
脚本:ヨアキム・ハマン
撮影:ポール・ヴァン・ダー・リンデン
音楽:H・サレット
出演:サンドラ・スパイシャット、ウド・キア、トーマス・クレッチマン、マイケル・メンドル、アーネスト・アメリカ

 最新の機器を使ってスマートにしのび込み、盗みを働くラナはドイツで取れたダイヤモンドを展示する宝石展示会場から見事にダイヤを盗み取った。すぐとらえられてしまったラナだったが、そのダイヤは偽物だった。警備をしていた保険会社からは、本物を差し出せば見逃してやると持ちかけられるのだが…
 ドイツの若手女優サンドラ・スパイシャットが美人怪盗に扮したアクション映画。何はともあれ、リアリティに欠ける。B級映画にすらなりそこねた作品。

 とにかく、リアリティがなさ過ぎる。スタントみえみえ、本人がやってるシーンは迫力がまるでない。設定が不自然過ぎる。
 ということで、いくつか例を上げてみましょう。見た人もほとんどいないと思うので、解説しながら。
 簡単なところでは、ラナが殺し屋に追いかけられるんだけど、まずラナの走り方がおかしい。絶対早くない。なのに殺し屋は追いつかない。殺し屋は途中でやたらと人にぶつかる(これは結構面白かったけどね)。
 それから、カーチェイスのシーン。夜、盗みを終えたラナはポルシェで(ここ重要)逃げる。そして追われるんだけど、追いかけるのは多分オパル。二つの車がスタート。次のシーンは朝のハイウェイ。2台はぴたりとくっついて走っている。(ここですでにおかしい。何で一晩走ってポルシェがオパルを引き離せないのか?)そのまま街中を走り、カーチェイス。ここで魅せばのジャンプシーン。ラナはちゃんと着地。追いかけるティムはトラックのうえに着地、少々あって地面に降りる。でもラナの車はちゃんとそこにいるんだな。早く逃げろよ。
 などなどです。もう少し頑張れば面白いB級映画になったかもしれないのに。もちろん笑えるという意味で。惜しかった。おかしいよと思うところを笑いに結びつければね。それも踏ん切りがつかなかったのか?
 スタッフ、キャストも聞いたことない人ばかり。ウド・キアーはちょいちょい脇役で見るような気もする顔でしたがね。