ふたつの時、ふたりの時間

那邊幾點
2001年,台湾=フランス,116分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・イーピン
撮影:ブノワ・ドゥローム
出演:リー・カンション、チェン・シアンチー、ルー・イーチン、セシリア・イップ、ジャン=ピエール・レオ

 シャオカンは父をなくした。ひっそりと葬式をして、シャオカンはいつものように路上で腕時計をする生活に戻るが、母親は父親の霊を呼び戻すことのかたくなになる。腕時計を売っていると、翌日パリに行くという女性アンチーがシャオカンのつけている腕時計を売ってくれと強引に買っていく。シャオカンはそのときからパリのことが気に掛かり始めた。
 カメラマンに『青いパパイヤの香り』などで知られるブノワ・ドゥロームを迎えたが、基本的には淡々としたツァイ・ミンリャンの世界は変わらない。

 リー・カンションの佇まいはいい。無言でも何かを語る。それは必ずしもうまいということではなく、雰囲気があるということ。時計の卸やで時計をたたきつける前から、そんなことをやりそうな雰囲気がある。時計を売っているだけで絵になる。何が起ころうともそれが運命であるかのような顔をしている。
 そのような佇まいをジャン=ピエール・レオも持っている。この映画の中で引用されるのは、『大人は判ってくれない』の牛乳を盗むシーンだが、このシーンだけでも、その雰囲気は感じられる。おそらくわざとらしくない演技ということなのだろうが、何かそれを超えた自然さというか、もとから持っている雰囲気なんじゃないかと思わせる何かがある。それは本人の登場シーンでの、なんだかなぞめいた薄い微笑みからも感じられる。
 そして孤独だ。ツァイ・ミンリャンの同情人物たちはみな孤独だが、今回もまた孤独だ。しかし、いつもどおり、その孤独にはどこか救いがある。『Hole』では最後に救われた。この映画ではずっと孤独でありながら、ずっとどこかに人とのつながりを感じさせる。それは非常に希薄なつながりではあるのだけれど、つながりであることは間違いない。シャオカンとシアンチー、シャオカンの父と母、シャオカンと母、そのつながりははかなく、明確に語られことはないけれど、この映画はまさにそのつながりを描いた映画なのだと思う。だからこの映画は本当は孤独を描いた映画ではなく、孤独ではないことを描いた映画なのだ。人は本来的に孤独だということと、本来的に孤独ではないということ、この相反する2つのことが、決して相反するわけではないということを描いているような、つまり、それは同時に真実でありえるということを描いているような、そんな微妙な映画。
 しかし、よく考えると、そんなことはこの映画に限らず、あるいは映画に限らず、どんなことからも導き出せる結論なのかもしれない。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

鬼が来た!

鬼子来了
2000年,中国,140分
監督:チアン・ウェン
原作:ユウ・フェンウェイ
脚本:チアン・ウェン、シー・チュンチュアン、シュー・ピン、リウ・シン
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:リー・ハイイン、ツイ・チェン
出演:チアン・ウェン、香川照之、チアン・ホンポー、ユエン・ティン

 1945年、日本軍占領下の中国の小さな村掛甲台、日本軍の砲台があり毎朝、軍艦マーチがなる村に住む馬大三は愛人と暮らしていた、そんなある夜、謎の中国人が大三に銃を突きつけ、「荷物を預かってくれ」と言った。実はその荷物は日本兵と日本軍の通訳だった…
 『紅いコーリャン』などで知られる俳優チアン・ウェン(姜文)の監督第2作。難しく重いテーマを扱いながら、ブラックユーモアで包み隠し、軽く見られるように仕上げている。

 目につくのは過剰なクロースアップと手持ちカメラで追うアクションシーン。映画のテーマとなるべき部分が語られるとき、カメラは執拗に発話者を追う。丹念に、忠実に発話者の顔を正面からクロースアップで捉える。そのしつこさは耳に聞こえてくる言葉を振り払う。もちろん字幕で読んでいるのだけれど、そもそも耳に聞こえてくるのは言葉であり、その言葉が聞こえなければ、字幕も頭に入ってこない。この映画の言葉は頭に入ってこない。しつこく映されるでかい顔の口が動き、音が出ているのだけれど、その音が意味を成すことはない。
 アクションシーン、手持ちカメラで、動く人を至近距離で捕らえようとするその映像には肝心の人が映っていない。ただ動く何者かがあるだけ。人を斬る瞬間も、走る勢いもそこには映っていない。ただ乗り物酔いを誘うような揺れる画面があるだけ。そこからは中国人と日本軍の関係性は伝わってこない。
 アクションやユーモアでテーマの重さをカヴァーする。それは決して悪いことではない。しかし、そのカヴァーの下のどこかでそのテーマを追求するべきではないだろうか? この映画でその追求されるべきテーマは上滑りするセリフの中にしかない。
 要するに、この映画にはリアルさがない。このリアルでなさの原因は何か。誤解を恐れずに言えば、それはカットの多さ。もちろんカットが多くてもリアルな映画はある。しかし、この映画の場合カットを多く割ることによって、画面と画面のつながりが、そして人と人とのつながりが希薄になる。クロースアップの繰り返しである会話の画面のセリフがなぜ真に迫らないのかと言えば、その一つ一つの発言(一つ一つのカット)が全体から浮いていて、それぞれがひとつの一人語りでしかないからだ。つまりそこには会話が成立していない。役者自身がその人になりきれていないのかもしれない。とにかく、この画面に登場する人たちは生きていないのだとわたしは思う。

この素晴らしき世界

Musime si Pomahat
2000年,チェコ,123分
監督:ヤン・フジェベイク
脚本:ペトル・ヤルホフスキー
撮影:ヤン・マリーシュ
音楽:アレシュ・ブジェズィナ
出演:ポレスラフ・ポリーフカ、アンナ・シィシェコヴァー、ヤロスラフ・ドゥシェク、チョンゴル・カッシャイ

 第二次大戦下のチェコ。ユダヤ人で工場を経営するヴィーネル家の家族はナチスに家を接収され、街中に居を移す。そしてさらにポーランドのゲットーへの移住を命じられる。隣に住むチージェク夫妻は彼らの身を案じつつ、彼らを見送るしかなかった。そしてその数年後、そのチージェク夫妻の下に収容所を逃げ出したヴィーネル家の息子ダヴィドがやってくる…
 ナチス-ユダヤをめぐる映画のチェコ版。ストレートに感動させるヒューマンドラマ。『ライフ・イズ・ビューティフル』に感動できた人ならば、きっとはまるはず。

 ストーリーはとても面白いです。プロットもよい。ちなみに、一応解説しますが、ストーリーとは映画全体の物語の流れ、プロットとは映画で描かれるシーンの流れです。ちょっと聞くと同じものであるように聞こえますが、ストーリーというのはプロットでは省かれている物語も含むという点が違います。基本的に映画を作るとき(脚本を書くとき)にはストーリーからプロットを起こす。つまり映画的な展開になるように場面を省いたり足したりする作業をするようです。わかったようなわからないような説明ですが、ストーリーが面白いというと、お話が面白いということ。プロットが面白いというと映画の展開が面白いということという感じでわたしは使い分けています。
 ちょっと映画の基礎知識の話しになってしまいましたが、映画の話に戻って、こういうホロコーストものは、単純なヒューマンストリーではなくて、はらはらどきどきするところがいいですね。誰が敵で誰が味方か、というようなことを感じながら、その展開を見守る。そのスリルを演出するという点ではこの映画は優れているでしょう。
 しかし、それは逆にこの映画を娯楽作品にしてしまっている。チェコでのホロコーストという題材をシリアスに扱っていながら、そこから踏み込むことはせず、スリルと感動を届けるという話に。
 簡単に言ってしまえばリアルではないということでしょうか。これは完全にお話であって、ひとつのリアルな物語ではないということを感じてしまう。というところです。
 でも、面白いには面白い。です。

マジェスティック

The Majestic
2001年,アメリカ,152分
監督:フランク・ダラボン
脚本:フランク・ダラボン
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:マーク・アイシャム
出演:ジム・キャリー、マーティン・ランドー、ローリー・ホールデン、アマンダ・デトマー

 第二次大戦直後のハリウッド脚本家のピーターは自分の作品が映画化され、その主演女優は自分の恋人とこれから順風満帆な人生が待ち受けていると思っていた。しかし、当時ハリウッドを席巻していた赤狩りの標的になってしまう。まったく身に覚えのなかった彼だったが、逃れられない運命を悟り、あてもなく車を走らせて事故を起こしてしまう…
 『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』という感動作を撮ったフランク・ダラボンがオリジナル脚本で挑む意欲作。ジム・キャリーはすっかりシリアスな役が似合うようになってしまった。

 いわゆる感動作ですが、どうでしょう。ストーリーはなかなか。予想の範囲は出ませんがまあよくできているという感じです。
 いいと思ったのは脇役の使い方。特に「マジェスティック」の人々はとてもいいキャラクターを持っている。タラボン監督というのは脇役の作り方、使い方がうまい人なのかもしれない。それも一人重要な脇役を配するというのではなく、何人も脇役を作ることで、主役を食うほどのキャラクターは生まれないというのがいいのかもしれません。
 ひとつどうかなと思ったのは、今頃、このように赤狩りを批判的に描き、それに立ち向かった(フィクショナルな)ヒーローを描くということはどうなのかと思います。過去を顧みる意味ではいいけれど、こんなに正々堂々と自分は正義の代弁者だというスタンスを取るのはどうなんだと思ってしまいました。
 時代による価値観の違いを見つめることはしないで、今の価値観から過去を無批判に評価しているように見えてしまう。そのような一面的なものの見方はその視線を現代に向けたときに大きな問題を生む危険があるような気がします。現代の多様な価値観もどこか一点から見てしまいはしないかという危惧。
 そんな勝手な推量からこの映画を批判するのもなんなので、批判はしませんが、「ちょっと臆面なさ過ぎるんじゃないの?」と感じたということです。まあ、あくまで娯楽作品なので、それほど小難しく考えることはないかと思いますがね。

Jazz seen/カメラが聴いたジャズ

Jazz Seen: The Life and Times of William Claxton
2001年,ドイツ,80分
監督:ジュリアン・ベネディクト
脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・クレサー
出演:ウィリアム・クラクストン、ペギー・モフィット

 ウェスト・コースと・ジャズのジャケットをはじめとしたアーティスト写真に加えファッション写真でも名を上げた写真家のウィリアム・クラクストン。彼の半生をインタビューに再現ドラマを加えて語る。
 モデルであり、パートナーであるペギー・モフィットに加え、デニス・ホッパー、カサンドラ・ウィルソン、ヘルムート・ニュートン、バーと・バカラックなどが登場し、クラックストンについて、あるいはクラクストンと語る。

 ドキュメンタリーらしいドキュメンタリーというか、しゃれた「知ってるつもり」というか、そんなものです。「知ってるつもり」にしてはセンスもよく、出てくる人たちもものすごいということですが、基本的なスタンスは変わりません。なんといっても再現ドラマを使うというところがなんだかTV番組っぽい。別にTV番組っぽくて悪いということはありませんが、あの再現ドラマは本当に必要だったのか?という疑問は残ります。
 監督のジュリアン・ベネディクトは『BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ』というジャズ・ドキュメンタリーを撮っているだけに、おそらくクラクストンに共感を感じているのでしょう。彼の作品を撮影する仕方は非常にいい。劇中でも述べられているようにクラクストンの写真の構図は非常にすばらしいのですが、その構図の美しさをうまくフィルムにのせている。
 まあしかし、ドキュメンタリー映画というよりはやはり教養番組ととらえたほうがいいんでしょうね。ジャズと写真というなんだかしゃれた教養を身につけた大人のための(あるいは大人になるための)教養番組という感じ。教養番組も面白くないと身につかないので、面白さは必要。この映画を見ていると、クラクストンにも興味がわくし、写真にも興味がわくし、ジャズにも興味がわく。ということで、とてもよい教養番組だということでしょう。
 ヘルムート・ニュートンとの写真の専門的な話とか、4×5のカメラとか、35ミリのフィルムとか、専門的な話もあるのですが、そこを下手に解説しないところがいい。そのわからなさがなんだか味わいでもあるという気がします。

少林サッカー

少林足球
2001年,香港,112分
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー
脚本:チャウ・シンチー、ツァング・カンチョング
撮影:クウェン・パクヒュエン、クォン・ティンウー
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、ン・マンタ、ヴィッキー・チャオ、カレン・モク

 「黄金右脚」といわれる名プレイヤーだったファンはチームメイトのハンが持ちかけた八百長に乗ってしまい、PKをはずして観客に襲われ右脚を折られてしまった。20年後、ファンは変わってスターとなったハンの下で働いていた。 そんなハンが街で少林寺拳法の普及を夢見るシンとである。最初はバカにしていたハンだったが、彼のキックが並々ならぬものであることに気づく…
 香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督主演したアクション・コメディ。ワイヤー・アクションはバリバリ、ネタはベタベタ。

 映画は面白ければいい。ということをこれだけあっけらかんと示されると気持ちがいい。いろいろ言えば、いろいろ言える。しかし、あまり何も言わないほうが面白い。と言いつつ言わねばならないのですが。
 さて、なんといっても目につくのはワイヤー・アクションとCGですね。どちらもどうでもいいところに多用されているのがいい。これはまさに過剰なことが笑いを生むものなわけですが、すべてを笑いに持っていこうというベタベタな精神はちょっと残念です。コメディ映画だからしょうがないし、このままでも十分腹がよじれるほど面白いのですが、もしやっている本人たちはいたって真面目ということが画面に現れつつも、その果てしない過剰さで見ている者を笑わせずにはいないというものが作れれば、それはもう内臓が噴出すほど面白いものになったのではと思います。
 こんなことを真面目につらつらと書いていても仕方ないので、楽しい気分で行きましょう。オープニングのアニメーションは正統派でかっこいいのですが、その前のカンパニー・クレジットからしてパロディです。しかも脈略とは全く関係ありません。パロディといえば、この映画はたくさんのパロディが含まれていますね。踊ったり、ドラゴンだったり、いろいろです。キーパーの人はブルース・リーにそっくりですが、ユニフォームがそろったときにキーパーの服を見て誰かが「それ、かっこいいなあ。交換しようぜ」などといっているのもかなりのもの。このブルース・リー関係ではかなりいろいろなネタがあると思うのですが、ブルース・リーファンというわけではないわたしはたくさん見逃している気がします。 チャウ・シンチーさんは拳法とかやっていたんでしょうかね。それとも香港人にしてみるとこれくらいのことは常識なのか。少林拳とか崋山派とか太極拳とかいろいろ出てきます。そのあたりの違いは今ひとつわかりませんが、面白いからいいか。結局全部それ。
 あまり面白さが伝わっていない気がしますね。まあ、でもこの面白さを文章で伝えるのは無理というもの。
 この映画は熱狂的なファンが多く生まれ、DVDなども企画もののボックスなどが発売されました。そこまでマニアではなくてもチェックしたいのが、字幕版と吹き替え版の違い。セリフの長さが違うので、内容が微妙に変わってくるのはどの映画でも同じですが、この映画の場合、字幕版と吹き替え版でギャグがかなり違います。だから両方見れば、ギャグの量は2倍とは言わないまでも1.2倍くらいにはなるのです。さらに、日本版・香港版・インターナショナル版と3バージョンあるらしいので、それも見比べてみるといろいろと発見があるかもしれません。
 字幕と吹替えの間が開いてしまったので、どこが変わったということはわかりませんが、歌なんかはもちろん日本語になっていたりして、山寺宏一さんの吹替えは適度に音痴でなかなかよかったです。歌のシーンのみんなで踊るのは、なんとなく『ブルース・ブラザーズ』のパロディっぽい気がします。踊りもソウルな感じで、それも安っぽいパパイヤ鈴木的ソウルな感じ。このシーンも結構好きです。

 最後に、こらえられないネタひとつ(字幕にも吹替えにも登場)
 「地球は危ない。火星に戻れ」
 ぷぷぷぷぷ

助太刀屋助六

2001年,日本,88分
監督:岡本喜八
原作:生田大作
脚本:岡本喜八
撮影:加藤雄大
音楽:山下洋輔
出演:真田広之、鈴木京香、村田雄浩、岸田今日子

 助六はひょんなことから仇討ちの助っ人をしたのがきっかけで勝手に助太刀屋助六と名乗るようになった。なんといっても武士が自分に頭を下げ、ついでにお礼までもらえるというのが魅力だった。ヤクザモノと気取りながら刀を抜くのは大嫌い。そんな助六が15両の大金を手にして、7年ぶりに故郷に帰った。しかし、村はひっそりと静まり返っていた。
 御年78歳、岡本喜八6年ぶりの新作。全体に軽いタッチの仕上がりで、『ジャズ大名』以来のコンビとなった山下洋輔の音楽がよい。

 音楽の使い方がよい。こんな完全な時代劇を、何の工夫もせずに今劇場でかけるのはなかなか難しい。何か現代的な工夫を凝らさなくてはいけない、と思う。その工夫がこの映画では音楽で、ジャズのインストに笛(尺八かな?)の音などを絡ませながら、うまく映画の中に配する。これが映画のコミカルさ、盛り上がりに大きな助けになっています。音楽を担当するのはジャズ・ピアノの名手山下洋輔。『ジャズ大名』でも岡本喜八作品の音楽を担当したが、『ジャズ大名』がストレートにジャズをテーマとした作品だったのに対して、こちらは単純な時代劇、そこに和楽器を絡ませたジャズを入れるというなかなか難しいことをうまくこなした。
 そのほかの部分はそつがないという印象です。特に奇をてらった演出もせず、ドラマの展開も予想がつく範囲で、登場人物もコンパクトにまとめ、そもそも物語が一日の出来事であるというところからして、全体的にコンパクトな映画だということがわかります。そつがない、コンパクトということは無駄な部分がないということでもある。つまりストーリーがもたもたしたり、余計な挿話があったりしないということですね。それはつまり編集がうまいということ。やはり経験によって身につけた技なのか、見事であります。
 あとは、岸田今日子がいい味かな、と思います。ナレーションが始まった時点でも「おおっ」と思ったのですが、その後しっかり出演してさらに「おおっ」。あまり岸田今日子らしい味は出しませんが、因業婆らしさを見事にかもし出しています。最後には立ち回りでもさせるのかと期待しましたが、それはやらせませんでした。そのあたりは残念。たすきがけに、薙刀でもも持って後ろからばっさりなんていうシーンを想像して一人でほくそえんでいました。

修羅雪姫

2001年,日本,92分
監督:佐藤信介
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:佐藤信介、国井桂
撮影:河津太郎
音楽:川井憲次
出演:釈由美子、伊藤英明、嶋田久作、佐野史郎

 500年もの間、鎖国を続けるとある国に、隣国の帝政の崩壊で元近衛兵たちが流れてきた。彼らは建御雷(たてみかずき)と呼ばれる一族で、だれかれかわまず殺す暗殺集団となっていた。その中のひとり雪は逃亡者を追い、殺しに行ったところで元建御雷の男空暇に母親を殺したのが現在の首領白雷であることを告げられる…
 1970年代に梶芽衣子主演で映画化されたコミックの映画化。映画のリメイクではなく、原作が同じというだけ。香港のアクション俳優ドニー・イエンがアクション監督を務め、アクションは本格派。

 話がくどい。物語の背景説明をくどくどと、しかもモノローグで語る。それを語る(場面上の)必然性もないし、物語の上でその背景説明が絶対的に必要であるとも思えない。だから、この背景説明は無駄なもので、特に隆の両親が殺されたとかそんなことはどうでもよく、建御家がどうして暗殺者集団になったのかというのも別にどうでもよいことのような気がする。もっと雪の物語に全体を絞って、話を凝縮すれば面白くなったのにと思ってしまう。くどくどした説明がはさまれることで、そこで映画のペースが落ち、アクションシーンにあるスピード感が損なわれてしまう気がする。
 なので、どうしても映画に入り込めない感はありましたが、アクションシーンはなかなかのもの。アクション監督はドニー・イエンで、香港アクション流行のワイヤーバリバリ、いたるところでワイヤーです。これだけ徹底して使われると気持ちのいいものかもしれない。日本映画のアクションシーンとしてはかなりいいものなのではないかと思います。
 そして、意外といいのが釈由美子。アクションシーンにはたどたどしさが見えるものの、ワイヤーのおかげで何とかこなしているし、演技も意外とうまかったりする。無表情さと、感情が表れる顔と、そして終盤のなんともいえない顔と。けっしてうまくはないけれど、何かが伝わってくる感じ。日本アカデミー賞の主演女優賞くらいあげてもいい気がしました。
 しかし、この映画は細部をおざなりにしすぎ。車の汚しは雑だし、血の飛び方や吐き方などもそうとうに安っぽい。(特に必要であるとも思えない)変な特急電車や街並みのCGに金をかけるより、そういった細部をリアルにしていくことにお金をかけてほしいと思いますね。いくらアクションに迫力があっても、流れる血がどう見てもにせものでは面白さも半減です。雪が手の甲をぐさりと刺され、どう考えても骨も神経もばっさり切れているのに、あんなにすぐに回復してしまうのもどうかと思う。
 そういった詰めの甘さが日本の娯楽大作にたびたび見られ、だから巨額を投じた作品はたいていこける。地味な部分にお金をかけるその心の余裕かマニアなこだわりがいい作品を生むのではないかと思ったりします。

トレーニング・デイ

Traning Day
2001年,アメリカ,122分
監督:アントワーン・フークア
脚本:デヴィッド・エアー
撮影:マウロ・フィオーレ
音楽:マーク・シンシーナ
出演:デンゼル・ワシントン、イーサン・ホーク、スコット・グレン、エヴァ・メンデス

 麻薬捜査課に転任して初出勤の日の朝、ジェイクはチームのリーダーであるアロンソにダイナーに呼び出された。とっつきにくそうなそのベテラン刑事は犯罪者たちが恐れる伝説的な刑事だった。彼の型破りなやり方に最初は戸惑い、反発するジェイクだったが、徐々に彼には逆らえないことに気づいていくのだった…
 デンゼル・ワシントンが強烈なキャラクターでアカデミー主演男優賞を獲得。主演二人の演技なくしては持たない映画だったことは確かだろう。

 アロンソが繰り返し言うジェイクの「目」。その「目」がすばらしかったというわけではないけれど、そのようにアロンソが言った後、ジェイクの目をしっかりとアップで捉えるその描き方は役者の演技にすべてをゆだねているということだろう。イーサン・ホークがそのような「目」を演じることができるという確信。そのような確信を持たなければ、そこに素直なアップを持ってくることはできないはずだ。
 同様にデンゼル・ワシントンにもセリフ以外のことを語らせる。ジェイクが踏み込んだそのベットルームで見せるアロンソの無表情な顔。その全く感情のこもっていない冷静な無表情さをデンゼル・ワシントンが演じられるからこそそこには無表情が存在する。その無表情さの奥に秘められたアロンソの作戦をその表情からわからせられると確信したからこそ、その場面は全く無表情に進められるのだろう。
 果たしてその監督の確信は半ば正しかった。そのような控えめな演出で役者は生き、映画は救われた。これがもしCGゴテゴテのマトリックス風の映画だったならばとても見れるものではなかっただろう。ましてやアカデミー賞など…という感じ。
 結局のところ、デンゼル・ワシントン自身はいつもと変わらぬ好演をしていて、それを強調する演出をする監督にめぐり合えたということでしょう。ある意味ではこの監督はソダーバーグのような、役者のいいとこ引き出し型の監督であると思います。
 最大の問題点は脚本でしょうか。前半はなかなか面白いのですが、物語が転換したあたりからはぐずぐずずるずるの偶然に頼ったつじつま合わせのやわなスリラーになってしまう。メッセージ性も特にない。脚本がよければ作品賞も夢じゃなかった?
 そういえば、ブラックミュージック界の大物たちがたくさん出ていました。一番目だったのはメイシー・グレイですが、他にもドクター・ドレイとスヌープ・ドッグが出ています。ブラックミュージック好きの人は探して楽しみましょう。