息子の部屋

La Stanza del Figlio
2001年,イタリア,99分
監督:ナンニ・モレッティ
原案:ナンニ・モレッティ
脚本:ハイドラン・シュリーフ
撮影:ジュゼッペ・ランチ
音楽:アレッサンドロ・ザノン
出演:ナンニ・モレッティ、ラウラ・モランテ、ジャスミン・トリンカ、ジュゼッペ・サンフェリーチェ

 精神科医のジョバンニは妻パオラ、息子アンドレア、娘イレーネと仲睦まじくし暮らしていた。そんなある日、学校に呼び出され息子に窃盗の疑いがかかっていることを知る。息子を信じようとするジョバンニだったが、そこには一抹の不安が…。その事件をきっかけとして、家族の歯車が微妙に狂い始める…
 なかなかメジャーになれなかった寡作の監督ナンニ・モレッティがカンヌ・パルムドールを獲得し、一気にメジャーになった。作品としてはいわゆる感動作という感じだが、「家族の絆」などという安易な結論にいかないだろうという予想はできるかもしれない…

{ 映画はなんとなく進む。息子が死んでしまった後の家族の話が眼目となるのだろうけれど、そこもまたなんとなく進む。家族は議論をしているようで全く議論はしていない。自分の信条を吐露するだけの一方的な発話。果たして監督はそんなことを描きたかったのだろうか?
 それはさておき、この映画のラストシーンは秀逸だ。ラストシーンの話をしてしまうのはなんだけれど、その浜辺とバスの切り返し(多分違う場所で撮影していると思うけど)からは家族としての結論が見えてくる気がする。それは浜辺に佇む家族の姿の美しさがそう錯覚させるのだろうか?
 そのラストシーンについて考えていると、そこに至るまでの心理的な道筋がわからなくなってくる。果たして彼らはどうしてそのような結論に行き着くことができたのか? あまり人物の心理を直接的に描こうとしないこの映画からそれを読み取るのは難しい。涙や笑顔や無言の歩みからそれを読み取るのは難しい。主人公のジョバンニはさまざまなことを語り、彼自身の想像する場面も描かれるから彼の心理を推測するのは、ある程度は可能だけれど、この家族の変化を捉える鍵は彼よりもむしろ妻のパオラや娘のイレーネにある気がする。それにしては彼女たちの心理をとらえるためのヒントが少なすぎる。
 だから、美しいラストにもかかわらず、なんとなく消化不良な感じが残ってしまった。一人称で語ることは決してできないはずの家族の物語を一人称で語ってしまった作品。その視点を持つジョバンニに自分を同定できればこの映画に浸ることができるのだろうが、それができないと厳しい。そして監督は主人公(それはつまり自分)の視点に観客を引き込む努力をしていない。
 これは監督が主演する映画にたびたび見られる欠点でもある。監督で主演ならば、その視点に自分が立つのは当たり前だ。監督と主演の両方をして、自身が映画に没入しすぎないようにするのは難しいのだろう。そんな中で観客の位置を正確に把握していくのはさらに難しい。

シャンプー台の向こうに

Blow Dry
2000年,イギリス,95分
監督:バディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ビューフォイ
撮影:シャン・デュ・ビトレア
音楽:パトリック・ドイル
出演:ジョシュ・ハートネット、アラン・リックマン、ナターシャ・リチャードソン、レイチェル・グリフィス、レイチェル・リー・クック

 イギリスの田舎町キースリー。市長が記者会見場で高らかに宣言したのは、「全英ヘアドレッサー選手権」の開催地に決まったということだった。報道陣たちは興味を失って去っていく中、一人興味を示したブライアン。父親のフィルとともに田舎町で美容院をやっているが、実はその父がもと全英チャンピオンだったのだ。しかし、父親は選手権に興味を示そうとはしない…
 また、イギリスらしいイギリス映画ひとつ。イギリス映画らしい風景にイギリス映画らしい感動。イギリス映画好きにはたまらない作品ですね。

 イギリス映画らしい田舎町に、イギリス映画らしい家族の物語、イギリス映画らしいストーリーがあって、アメリカ育ちの娘がやってきて… 羊も出てくる。何もかもが絵に書いたようなイギリス映画。このイギリス映画らしさはどうもアメリカから見た「イギリス映画」像のような気がしてしまう。主役級の若者2人もハリウッドの若手スターとなると、どうもハリウッド向けという「臭さ」ぷんぷんが漂う。それはつまりなんとなくうそ臭さを感じてしまうということ。周到に感動できるように組み立てられてはいるけれど、その「臭さ」を感じてしまうと、その感動の押し付けがましさが気になってくる。そうはいってもちょっと感動してしまったのですが、そんな風に感動してしまった自分が悔しい気分。
 というようなうがった見方をしさえしなければ、なかなかいい作品です。レイチェル・リー・クックはかわいいし、ジョシュ・ハートネットも情けなくていい味出してるし、感動できるし、その割にコメディの要素も忘れないし。 さて、そんなイギリス映画らしいイギリス映画だったわけですが、ひとつレズビアンという要素が出てきたところがちょっと毛色の変わった感じ。これもアメリカ向けという気もしないでもないですが、奥さんが女の人と逃げるというのはイギリス映画ではなかなか見ない展開。これを見て真っ先に思い出したのは、テレビドラマの「フレンズ」で、それはそれだけアメリカ的なトピックだということなのかもしれません。
 そういう意味でも、絵に書いたようなイギリス映画でありながら、どうもハリウッドの影が見えてしまうという映画。

愛の世紀

Eloge de L’Amourohn
2001年,フランス,98分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック、ジュリアン・ハーシュ
出演:ブルーノ・ピュッリュ、セシル・カンプ、クロード・ベニョール

 パリ、エドガーはある企画をもっている。出会い、セックス、別れ、再開という愛における4つの瞬間を若者、大人、老人という3組のカップルについて描くというもの。果たしてその出演者たちを探し始めたエドガーは役にぴったりの女性に以前であっていたことを思い出す。
 ゴダールはあくまでゴダールである。美しいけれど理解できない。すべてを理解することはできないけれど、何かが引っかかる。それがゴダールでいることはわかっている。

ゴダールはアインシュタインなのかもしれない。ゴダールを全く理解できるのはゴダール自身と世界中にあと幾人かしかいないのかもしれない。それでもゴダールがすごいと思えるのが天才たるゆえん。アインシュタインの相対性理論も理解できないけれどそれが何かすごいことを説明していることはわかる。ゴダールの映画も理解できないけれど、それが何か新しい表現であることはわかる。こじつけていろいろと理解してみることはできるけれど、その理解は全きゴダールとはおそらく異なっているだろう。しかし、相対性理論と同じく、ゴダールも一部分を利用しただけでも新しいものが生まれるのかもしれない。
 断片化されたこの映画を見ながら、そのそれぞれの断片が何かを含んでいることはわかる。前半のモノクロの鮮明なフィルムの映像と、後半のカラーの濁ったビデオの映像。その違いが表現しているのはフィルムの優越だろうか?あるいは質の違いが必ずしも価値の違いを生みはしないということだろうか?実際その結論はどちらでもいいのだろう。映像をとどめるためにはフィルムとビデオがあり、その質には違いがあるということ。そこまでをゴダールは明らかにし、それを併用することによって表現できることもあるということを示してはいるけれど、その先は…
 「愛について」という言葉と「さまざまな事柄」という言葉のどちらが先に出るのか、その順番を変えることにどんな意味があるのか? それもまたわからない。
 私はこの映画でゴダールがこだわっているのは「言葉」だと思った。冒頭の「映画、舞台、小説、オペラのどれを選ぶ?」という質問の答えは「小説」だった。それは小説という言葉による芸術。つまり「言葉」の象徴。ゴダールはこの映画で言葉を多用しながら、それと決してシンクロすることのない映像の断片を重ねていく。それは「言葉」への反抗、映像を使った新しい文法、新たな世紀の文法であるかのようだ。アインシュタインが相対性理論を発明したように、ゴダールは映画という新たな文法を発明したが、われわれは従来どおりの文法でそれを見るから理解できない。それは仕方のないことだ。「何度も繰り返し眺めていれば、ある日ふっとわかるかもしれない」という頼りない望みを抱きながら、私はゴダールを見続けるのだろう。

花様年華

花様年華
2000年,香港,98分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル、リー・ピンビン
音楽:ミカ・ギャロッソ、梅林茂
出演:トニー・レオン、マギー・チャン

 1962年、香港。新聞社に勤めるチャウは貸し部屋を訪ねるが、一歩の差で借りられてしまう。それでも隣に部屋を借りたチャウ夫妻は隣のチャン夫妻と同じ日に引っ越した。ともに仕事に忙しい二つの家の夫婦だったが、チャウはある日妻がチャンの夫と浮気していることに気づく。
 若者向けのスタイリッシュな映画を撮ってきたカーウァイが一転、落ち着いた大人のドラマを撮った。しかし基本的なスタンスは一緒かもしれない。

 ウォン・カーウァイは他の映画と違うというところに価値を置いているような気がする。クリストファー・ドイルのカメラに助けられて『恋する惑星』などなどのヒット作を撮っていたころ、その映像のスピード感は他の映画では見たことのないものだった。しかし、ヒットすれば似たような映画が続々登場するのは映画業界の必然。香港にとどまらず、日本でもアメリカでも似たような映画が続々登場した。
 カーウァイはこの映画でそれに抵抗し、限りなく「遅い」映画を撮る。異常なほどに含まされた「間」。シーンとシーンの間に挟まれる黒い画面、台詞のない長い長いシーン、さらには多用されるスローモーション。執拗なまでにスローダウンさせられた映画。それがこの映画だと思う。もちろん映画を遅くすれば、描ける物語は少なくなる。しかし一定の時間に限ってみればその描写は濃くなっていく。だからこの映画は全体にじっとりとしていて、いろいろなことがそこから染み出てくるのだけれど、あまりに「間」が長すぎてついつい寝入ってしまうというのもある。
 それでも、唐突に時間がジャンプするところがあったりして、その間や、言葉にならないしぐさや表情を見る側に読み取らせようとする意図が感じられもする。しかし、実際のところ、カーウァイが求めるのはただ映像と音に浸ることだろう。ついつい物語を追ってしまうと苛立ちを感じたりするけれど、ただただ映画に浸っていればなかなか気持ちいい映画だと思う。
 ただひとつ気に入らなかったのは、舞台を過去にしてしまったこと。過去を舞台にし、いわゆる中国的なものを香港に当てはめる。そのいわゆる中国的なものを道具化してしまったカーウァイは最後に「過去は想うのみ」ということでその矛盾を顕わにしてしまう。
 あるいは映画に描いた中国的なものなどはすでにアンコールワットと同じく遺跡でしかないといいたかったのだろうか。

私が愛したギャングスター

Ordinary Decent Criminal
2000年,イギリス,95分
監督:サディウス・オサリヴァン
脚本:ジェラード・ステムブリッジ
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ダイモン・アルバーン
出演:ケヴィン・スペイシー、リンダ・フィオレンティーノ、ピーター・ミュラン

 ダブリンで次々と強盗を成し遂げていくマイケル・リンチと仲間たち。2軒の家に帰れば妻と義妹とたくさんの子供たちが待っている。警察を挑発し、子供たちにも警察を信じるなというおとぎ話を聞かせる。そんな彼が妻と見に行ったカラヴァッジョ展で名画「キリストの逮捕」に心魅かれる。
 売れっ子ケヴィン・スペイシーがイギリスに呼ばれちょっと変わったギャング映画を撮る。ケヴィン・スペイシーはイギリス映画の雰囲気にもよくはまり、むしろアメリカでやっているよりいい感じ。

 まず、映画の表層をなぞっていくと、面白いのは音楽のミスマッチ感と、空想と思わせるシーン。人のクロースアップになった後、シーンが続くとそれがその人の空想であるように思えるのはわかりやすい映画の文法だが、この映画はその文法を使いながら、そのようなシーンが必ずしも空想ではなかったりする。あるいは空想があまりにぴたりとあたっているのか。そうでなければ未来の出来事が前倒しで映像化されているということなのか。その出来事のつながり方のギクシャクした感じもなかなかいい。
 それにしても、この映画はなかなかとらえどころがない。マイケル・リンチは冷酷なところも見せながら人をひきつけるキャラクターだ。そもそも人は何故か「よい泥棒」というものに惹かれるらしい。このマイケル・リンチは必ずしもよい泥棒ではないかもしれないが、味のある泥棒であることは確かだ。その味のある泥棒が名画を盗み、もとの持ち主である教会に帰す。別に教会は明確に「返してほしい」といっているわけではない。それがオリジナルであっても複製であっても同じという態度だ。その複製を気づかれないようにオリジナルにすりかえておくマイケル・リンチの意図は何なのか。単純に絵が教会にふさわしいと考えただけなのだろうか。
 展覧会で警備員に守られて飾られているときより、教会で神父たちが食卓を囲む上にかかっていたほうが光景として美しいことは確かだ。それをうまく映像によって伝えている。観客はマイケル・リンチの視点になってそれを満足げに眺める。それでいいということなのかもしれない。
 単純にサスペンスとは言い切れないかなり不思議な味わいの映画でした。

おいしい生活

Small Time Crooks
2000年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ
出演:ウディ・アレン、トレイシー・ウルマン、ヒュー・グラント、エレイン・メイ

 レイは銀行強盗に失敗して2年間服役していた、今はうだつのあがらない皿洗いの初老と男。そんなレイが奥さんのフレンチーにチョコレートを買って帰る。何か裏があるとフレンチーが勘ぐったとおり、レイはさえない二人の仲間と銀行の2軒隣の空き家を買い取ってトンネルを掘るという計画を立てていたのだった。しぶしぶ計画に乗ったフレンチーはカモフラージュのためクッキー屋さんをはじめたが…
 ウディ・アレンとドリーム・ワークスが組んだメジャー向けドタバタ・コメディ。癖がなくなった分、いいところもいやなところもなくなってしまった感じ。

 この映画でいいところは小ネタのみ。ウディ・アレンがベチャベチャとしゃべるところは、ウディ・アレンらしさもあり、癖もあり、悪くない。それほど笑えるところがあるわけではないけれど、「ああ、ウディ・アレンを見ているんだ」という気になる。しかし、全体的に見ると、ウディ・アレンは普通の人になりすぎたと思う。ちょっと変わり者で、頭の足りない、初老の男。そんな薄いキャラクターでは映画も締まらない。
 それより何より、この映画でしょうもないのは物語。毒もなく、味もなく、感動もなく、意味もない。結局のところ貧乏人が小金をもうけて金持ちの振りしたってそんな金は身につかない。貧乏人は貧乏人らしくしてりゃいいんだと言っていると解釈したくなるようなお粗末な物語。貧乏人が金持ちに近づこうとすることで、金持ちを批判しようとするのかと思いきやそうでもなく、金持ちは金持ちで、いやなやつだけど別に悪い人ではないといいたいようだ。ひとつ言っているといってもいいことは「金持ちは孤独だ」ということくらい。だからどうした、それがなんだ。
 金持ちが貧乏人を馬鹿にして、貧乏人は馬鹿にされたまま終わる。貧乏人は金持ちになりきれなくて、貧乏人であることに満足して終わる。結局何の波風も立たず、状態は保存され、いたずらに時が過ぎただけ。
 何でウディ・アレンはこんなしょうもない映画を撮ってしまったのか。私はウディ・アレンはあまり好きではないけれど、彼なりのスタイルがあることは認めるし、それを好む人がいることも認める。私の好みにはあわないというだけ。でも、この映画はそんなアレンらしさもなく、ドリームワークスに寄りかかって、端っこで小さく自分の芸を見せているだけに見える。

家路

Je Rentre a la Maison
2001年,ポルトガル=フランス,90分
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ
脚本:マノエル・デ・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
出演:ミシェル・ピコリ、アントワーヌ・シャビー、レオノール・シルヴェイラ、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジョン・マルコヴィッチ

 映画は舞台から始まる。ベテラン俳優のジルベールの演じる舞台。その袖に不安げに控える3人の男。舞台の幕が下がり、ジルベールに交通事故で奥さんと娘夫婦がなくなったことが知らされる。孫と二人暮しとなったジルベールは今までどおりいつものカフェでコーヒーを飲み、仕事を続けるが…
 ポルトガルの巨匠オリヴェイラ監督らしい淡々とした物語。名優を使い、味わい深い映画を作るのはこの監督の十八番。

 基本的に役者を見せようという映画の気がする。オリヴェイラはかなり役者というものを非常に重くとらえている感があり、マストロヤンニの遺作となった『世界の始まりへの旅』なども名優マストロヤンニへの敬慕の念が画面からにじみ出る。
 だからこの映画も役者の味をじっくりと引き出す。その意味では音だけ、あるいは動きだけで演技させるオフ画面(フレームの外の部分)を多用するというのもよくわかる。最初のショーウィンドウのシーンも切り返しの連続で、常に映っていない側の音を拾っていくのはすごい。終盤のジョン・マルコヴィッチによるリハーサルの場面のかなりすごい。そのすごさはわかるけれど、ここまで徹底して使われると、ちょっと食傷してしまう。
 それはオリヴェイラ特有のゆったりとしたときの流れと関係あるかもしれない。とにかくオリヴェイラの映画は遅い。1カットが長く、1シーンが長く、物語の展開も遅い。もちろん物語で見せる映画ではないのでそれでいいのだけれど、その遅さはどうしても映画の細かな部分に注意を向かせる。勢いで突き進む映画だったなら、細部なんてそんなにこだわらなくても見られるのだけれど、これだけ遅いと、画面の隅々まで目を凝らさざるを得ない。あるいは画面の外側までじっくりと見なければならない。それはオフ画面を使ってもそれをとらえることが簡単だという一方で、慣れてしまうとそれが普通になり、退屈になってしまう恐れがある。この映画では先ほど述べたリハーサルの場面で再びキュッと締まり、ぐだぐだになってしまうのは避けられたけれど、中盤に眠気が訪れるのは(私にとっては)オリヴェイラの常である。
 しかし、この緩やかさがいい物を見せてくれることもある。この映画ではカフェの場面であり、新聞だ。ジルベールがカフェに行き、コーヒーを飲み、出て行くと、「フィガロ」を持ったひげのおじさんがその席に座る。別の日、ジルベールは「リベラシオン」を持ってカフェに行く、その日ジルベールは買い物をしてきたためつくのが少し遅く、「フィガロ」のおじさんが来たときまだ席が空いていない。「フィガロ」のおじさんは奥の席に着くが、ジルベールがったのでいつもの席に行こうとする。すると「ル・モンド」を持ったおじさんがするりとその席に座ってしまい、「フィガロ」はまた奥の席に戻る。まったくただそれだけのこと。フランス人が見ればおそらくそれぞれの新聞の意味がわかるのでしょう。私にはその意味はわかりませんが、そこに「味」があるのはわかります。それはこのゆったりとしたスピードがあってこそ可能な演出なのでしょう。

害虫

2001年,日本,92分
監督:塩田明彦
脚本:清野弥生
撮影:喜久村徳章
音楽:ナンバーガール
出演:宮崎あおい、蒼井優、沢木哲、石川浩司、りょう、田辺誠一

 父親をなくし母と二人で暮らす中学一年生の北サチ子、そのサチ子の母親が手首を切って自殺未遂を図った。そのころから徐々に学校に行かなくなったサチ子はタカオやキュウゾウといった人たちと出会う。一方学校では同級生の夏子がサチ子のことを心配していた。
 塩田明彦監督が『EUREKA』で話題を呼んだ宮崎あおいを主人公として、またも少年・少女ものを撮った。『月光の囁き』と通じるどこか「イタイ」ドラマ。

 物語の前半から、状況を説明する要素がほとんどなく、台詞もあまりしゃべられない。いきなり挟み込まれるキャプションの相手も最初は誰だかわからない。このわからないことだらけの始まり方というのは見る側の集中力を高めていい。人物の関係性や展開を考えるために、何も見逃さないように画面に意識を集中せざるを得ない。
 この映画の物語は非常にいい。とても痛く、とても濃い。よくある話といえばよくある話だが、そのよくある話を説明や解釈抜きにしてしまうところがいい。たとえば、普通はキュウゾウがいったいどのような人なのかを説明するようなシーンを加えてしまう。それをせずに、キュウゾウはただのキュウゾウであるとするところがいい。その説明がするりと抜けたところに入り込むのは、見る側の解釈である。本当に画面(とキャプション)だけがこの映画のすべてである。余計なものは一切ない。余計な台詞をそぎ落とし、ずっと緊張感が保てるようにしてある。台詞を削り落としたぶん、代わりにわれわれに語りかけてくるのは「モノ」である。
 この映画は「門」の映画だ。繰り返し画面に登場する門、一番頻繁に映るのはサチ子の家の門。このサチ子の家の門の繰り返しでわれわれの意識は門に注がれるようになる。この門に注意を注ぐということが行われていないと、ラストシーンがまったくわからなくなってしまう。ラストシーンの「意味」の解釈は見る人それぞれであるけれど、それが何であるかを見間違えるわけには行かない。監督はそれを見間違えないように繰り返し「門」を映してきたのだから、私がわざわざそんなことを強調することもないのだけれど、そのように周到にモノによって語らせる映画の作り方が気に入ったのだ。
 門といえば、これは余談ですが、学校の校門も出てきた。むかし校門で生徒が圧死するという事件があって、それを思い出したりもしたけれど、そこで小さく映っていた先生は… この映画はいい役者や見たことある人がちょっとした役で出てきます。これは結構映画を見ていて楽しみなので、ここでは明かしません。見つけたときに喜びましょう。校門の先生はわかりにくいので、注意してみていましょうね。

M:I-2

Mission: Impossible 2
2000年,アメリカ,124分
監督:ジョン・ウー
原作:ブルース・ゲラー
脚本:ロバート・タウン
撮影:ジェフリー・L・キンボール
音楽:BT、ハンス・ジマー
出演:トム・クルーズ、ダグレー・スコット、タンディ・ニュートン、ヴィング・レームズ

 バケーション中のイーサン・ハントのもとに、ヘリがやってきて、新たな指令が伝えられた。それは偽装された飛行機事故によって盗み出された新しい病原菌を奪い返すというもの。そのパートナーとして、腕のいい女泥棒ナイアを指名してきた。早速彼女を見つけ、接触を図るイーサンだったが…
 トム・クルーズ製作・主演の『M:I』シリーズ2作目は、香港映画の雄ジョン・ウーが監督、ジョン・ウーらしく2丁拳銃にワイヤー・アクション満載の痛快ハリウッド映画になっている。

 ジョン・ウーはすごいですねえ。ハリウッドにどっぷりつかっているのか、ハリウッドをおちょくっているのかわからないですが、ハリウッドに来て、ハリウッドよりハリウッドなハリウッド映画を作ってしまう。あるいは自分をもパロディ化した映画のパロディのパロディ映画なのか。とにかく「なんじゃそりゃ」というコメントしかできない映画。映画の最初から最後まで「なんじゃそりゃ」のオンパレード。これをすごいといわずになんという。面白いと思うかどうかは個人の好み。ある意味最後まで目をはなせない。
 ジョン・ウー的にすごいのは、自分の十八番(おはこ)2丁拳銃、ワイヤーアクション、そして鳩をすべてズガンと入れてしまったこと。ワイヤーアクションはどうもさえない。鳩はなかなかいい。2丁拳銃は…ただ銃を両手に持っているだけ。
 ハリウッド的にすごいのは、ハリウッド映画にありがちな先の先まで読めてしまうその筋立てがスパイ映画に適用されてしまっていること。敵のアジトから逃げるとき、なぜ急にバイクに乗った警備員が、しかも2人、しかもバイクは黒と赤、形も違う、が登場するのか… それはもちろんトムが乗り、もう一台には… この臆面ない過剰サービスがものすごい。
 スローモーションの過剰さもすごい。私はここで以前から『マトリックス』以後のアクション映画の過剰さについて語っていますが、この映画のジョン・ウーの作り方はそれらの過剰さとは別の方向に向きながら、やはり過剰さを前面に押し出しているところが面白い。『マトリックス』以後の過剰さを支える一つの要素であるワイヤー・アクションを以前から使っている監督であるにもかかわらず、そこでは勝負せずに、他の部分で勝負し、しかしそこでやはり過剰な演出をする。そのあたりがジョン・ウーのすごいところなのではないかと思います。
 この『M:I』シリーズはトム・クルーズのイメージ・ビデオという評判が高いですが、この「2」をみて、ジョン・ウーはそれを逆手にとって、トム君をだましているんじゃないかと思います。トム・クルーズをかっこよく見せる演出であるとトム・クルーズを納得させながら、映画を見るとそうでもない。「かっこいいだろ」光線が出すぎてかっこ悪い。この映画を見てまず感じるのは「トム・クルーズの背が低くない!」ということで、それはきっとそこまで気を使ってのキャスティング。そのやりすぎなところ(また過剰さ)を見るにつけ、逆にトムは道化にされてしまっているという印象も受けます。
 最後のエンドロールに香港映画ばりのNG集があれば、その疑惑は私の中で確信に変わったのですが、残念ながらNG集はなし。ジョン・ウーはやろうと思ったけれど、プロデューサーのトムに止められたという筋書きであることを私は望みます。

火垂

2000年,日本,164分
監督:河瀬直美
脚本:河瀬直美
撮影:河瀬直美、猪本雅三
音楽:河瀬直美、松岡奈緒美
出演:中村優子、永澤俊矢、光石研、小野陽太郎

 あやこは幼いころ両親と別れ、今はストリッパーをして生活をしている。あやこが妊娠し、中絶をした帰り、道端に倒れた彼女を見かけた大司。大司は死んだ祖父の残した窯を引き継ごうとしていた。そんな2人が出会う。
 火の赤みと自然の風景。舞台は奈良。監督・脚本・撮影・音楽とすべてをこなす河瀬直美の淡々とした世界。

 ながながと、きりきりと、たんたんと、映画はつむがれていくけれど、ばっさりと単純化してしまえば、これは親子(特に母親)の映画だと思う。あやこも大司も親はほとんど登場しない。このことがそもそも意味深く、象徴的である。しかし、親の存在は常に重くのしかかる。大司の引き継いだ祖父の窯を見に来たおじちゃんが「母親の胎内のようだ」みたいなことを言っていた。そう。この映画では窯が母親(あるいは親一般)の暗喩になっている。あやこが一緒に暮らす「姐さん」踊り子の恭子もあやこにとっては母親の一人である。
 あやこと大司がいつまでも衝突するのは、ふたりが人との係わり合いを持ちづらいからであるのは明らかだ。その原因を親との関係性の希薄さに求めているというのも理解しやすい。だから、このふたりが正常な、というか円滑な関係を結ぶにはその「親」と和解しなければならない。あるいは「親」を完全に殺してしまわなければならない。それはつまり、実在しない(実在していた)親ではなく、彼らにとっての象徴的な意味での「親」をである。
 私はそのようなことをこの(わかりにくい)映画をわかりやすく解釈するためのテーマとして掘り出してみた。淡々と進んでいく映画を一つのつながりと見るためには何らかの縦糸を見出していかなければならない。私が見出した縦糸はその「親殺し」ということだった。それはラストシーンをみながら「なるほどね」という実感だった。和解することと殺すこと。一見背反するように見えることだけれど、こと「親」と対するときにはこの二つの事柄は理念的に両立しうると思う。
 などと書いてもぜんぜん言葉が足りないという感じですが、より明確な言葉で語ろうとするとすべてがうそ臭くなってしまうのでやめます。むしろこの映画はそのことをうまく表現しているように私には思えました。ので、映画を見てじっとりと考えてくださいませ。
 ちょっとよくわからない話になってしまいました。
 もうひとつ全体をつなげるのは「赤」の色彩。光や夕日の赤い色に照らされた風景や人物。ただその美しさをとらえたかっただけという印象も受ける。理解しようとすると難解だけれど、その美しさをとらえるのは難しくない。ストリップ小屋の紅い照明も燃え盛る窯の炎も、無数のロウソクがともる寺の風景も。