満員電車

1957年,日本,99分
監督:市川崑
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:宅孝二
出演:川口浩、笠智衆、杉村春子、船越英二、川崎敬三、小野道子

 一流大学の平和大学を卒業し、駱駝ビールに就職が決まった茂呂井は東京でのガールフレンドたちに別れを告げ、新人研修に向かう。そこで十人のうち8人までが縁故採用だと知ったが、あくまで現実的な茂呂井はそれにもめげず赴任先の尼崎で退屈な仕事をしっかりこなす。しかしそんな彼のところにははが発狂したという便りが届いた。
 川口浩主演によるコメディ。前半はあたたかい雰囲気だが後半は一転ドライでシニカルな笑いに包まれる。

 今ならばテレビドラマという感じの軽めのコメディですが、そうは言っても市川崑しっかりと画面を構成しています。特に多いのは画面の真中で正面を向いた顔。単純なアップだけでなく、後景で何かが起こっているときに、画面の前面に顔があるというようなことが多いです。その正面を向いた人々(主に川口浩)の目はうつろ。空っぽの目をしています。
 前半は決してそんなことはなく、朗らかで明るい眼をしているのですが、後半になるとうつろで空っぽの目になってしまう。それはやはりサラリーマン生活は明るさを殺していくというメッセージなのでしょう。それ自体は特段変わったことでもないけれど、それでも着実なサラリーマン生活にこだわる川口浩の姿に皮肉を感じます。
 しかし、最後まであくまでコメディで暗い気分にはさせない。その時代のことがわからない今見てどうなのかというと、どうなんだろう。「今でも共通する部分はあるよ」という安っぽい言葉は吐きたくないので、別の言葉でいいますが、結局のところ、ずっとこういう「生きにくさ」を描いた映画はあったということでしょう。自分の居場所がない感じ。居場所を見つけたと思ったら他の人にすでにとられていたり、居ついてみたら追い出されたりする感じ。そんな感じがふわっと漂ってきます。
 一見すると、世間をシニカルに見ているような感じがしますが、そういう誰もが感じる居場所のなさを描くということは、実はむしろ世の中を正面から見ているかもしれない。川口浩がまっすぐみつめる先にいる我々というのが世間であるのかもしれない。最初明るい目でみつめ、次にはうつろな目でみつめ、最後サラリーマンをあきらめた彼が再びエネルギッシュな目でみつめる正面にある世間とはつまりわれわれのことなのかもしれません。そしてわれわれもこの映画の中にある世間をまっすぐみつめることになる。
 そういうこと。かな?

EUREKA ユリイカ

2000年,日本,217分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:田村正毅
音楽:山田勲生、青山真治
出演:役所広司、宮崎あおい、宮崎将、斎藤洋一郎、光石研

 九州で起こったバスジャック事件。6人の乗客と犯人が殺され、運転手の沢井と、中学生と小学生の兄妹だけが生き残った。心にキズを抱えた3人は以前の生活に戻ることができず、沢井は失踪し、兄妹は家に閉じこもるようになってしまった。しかし2年後その沢井が帰ってくる…
 現代の日本を代表する作家の1人青山真治が白黒シネスコ3時間半という、非現代的非商業的なフォーマットで撮った挑戦的な作品。これも現代の日本を代表するカメラマンである田村正毅とともに作り上げた映像は研ぎ澄まされており、美しい。

 確かに見事な映像。白黒シネスコというのもとても好き。しかし、これが「新しい」映画なのか? という疑問が付き纏う。どの画面を切り取ってもどこかで見たことがあるような気がしてしまう。ヴェンダース、ソクーロフ、アンゲロプロス… 彼らの面影をそこに見てしまうのは私だけだろうか? この映画が70年代に、いや80年代でも作られていたら新しい映画であっただろう。しかし、2000年の今、この映画は果たして「新しい」のか? そんな疑問が生じてしまう。先駆者たちが作り上げた新しい世界観(それはもちろんその先駆者達からヒントを得てのことだが)を組み合わせ、作り出した画面に果たして新しい世界観はあるのか? あえて白黒シネスコというオールドスタイルを取ったこの映画はそれゆえにその古きよき映画を乗り越えていなければならないはずだ。
 自らをあえて苦しい立場に置いた作家はその責務を果たすことはできなかった。しかし、巷にあふれる映画と比べるとその完成度は高く、またその挑戦自体にも意味があることだったと思う。だからこの映画は見られる必要がある。そしてそれが見られやすいようにドラマ的なプロット、哲学的なテーマも用意されている。しかしそのどちらも(連続殺人事件の犯人は誰かというドラマとなぜ人を殺してはいけないのかという哲学的テーマのどちらも)それほど完成度は高くない。ドラマは結末が見えてしまうし、哲学的には踏み込みが甘い。だから、ドラマや哲学という入り込みやすい要素によって映画に取り込まれた観客も映画そのものに立ち返らざるを得ない。
 誰もがこの映画を見ることによって映画が抱える問題に直面せざるを得ない。映画を愛するものならばこの映画を見なくてはならない。こういう映画を作ってくれる作家が日本にいることはうれしいことだとも思う。
 最後に、この映画を語るときどうしても「長い」という問題が出てくる。しかし映画の長さが1時間半あるいは2時間というのは神話でしかなく、実際はどんな長さでもいいはずだ。キェシロフスキーは1時間×10話からなる「デカローグ」をとった。わずか15分の「アンダルシアの犬」はいまだ映画史に残る名作である。だから、そもそもことさらに長さを意識する必要はないはずだ。それでも「長さ」を問題とするならば、この映画が突きつける問題を考えるならば、映画にこれくらいの余裕がなければいけないと言おう。映画からはなれて自分の考えに浸れる時間をこの映画は提供していると思う。

ウォーターボーイ

The Waterboy
1998年,アメリカ,89分
監督:フランク・コラチ
脚本:ティム・ハーリヒー、アダム・サンドラー
撮影:スティーヴン・バーンスタイン
音楽:アラン・バスクァ
出演:アダム・サンドラー、キャシー・ベイツ、ヘンリー・ウィンクラー、フェアルーザ・バーク

 少々とろい31歳のボビーはママと2人ルイジアナ州の山奥に住んでいた。そんなボビーはみんなにいじめられながらもフットボールチームの給水係を懸命に努めていたが、コーチの怒りに触れてついにクビ。給水係を愛する彼は新しいチームを探してまわり、おんぼろチームに入り込むが…
 人気コメディアンのアダム・サンドラーが脚本に製作総指揮まで勤めた脳天気コメディ。ラジー賞常連のサンドラーはこの映画でも見事ワースト主演男優賞にノミネート。

 笑える人と笑えない人がいるでしょう。アダム・サンドラーの笑いはいつもそう。でも私は好きですこういうの。今回は共演にキャシー・ベイツを向かえてパワーアップ。親子のからみが最高でしょう。プロットもよめよめ、つくりも安っぽく、映画としてはガタガタですが、笑えればすべてよし。そしてうかうかしていると感動すらしてしまうかもしれない。
 これはドリフト同じ、新喜劇と同じ、子供の読む絵本と同じ、結末が分かり、筋がわかり、その安心感があるから安心してみることができる。そこにたまに入れ込まれた意外性が笑いのつぼにはいります。
 ナンバー1ギャグをあげるなら、キャシー・ベイツが1人で卓球のラケットで遊んでいたところかな。あとは、わけのわからない言葉をしゃべるコーチ。ナンバー1じゃなくなっちまった。まあいいや。
 多分アメリカなんかだと差別的表現なんかの問題で、PG12くらいになるんだろうけれど、これくらいの差別的表現はむしろ教育的なんじゃないかと真面目なことも考えたりします。むしろ差別を逆手にとって笑いにすることで、差別する側を笑うみたいな意味にも取れるんじゃないかしら。アダム・サンドラーがどう考えているかはわからないけど。これを見て笑えないような偏狭な大人にはなるな! と言いたいです。

ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ

Breakfast of Champions
1999年,アメリカ,109分
監督:アラン・ルドルフ
原作:カート・ヴォネガット・ジュニア
脚本:アラン・ルドルフ
撮影:エリオット・デイヴィス
音楽:マーク・アイシャム
出演:ブルース・ウィリス、アルバート・フィニー、ニック・ノルティ、バーバラ・ハーシー、オマー・エプス

 CMでも有名な中古車販売会社の社長ドゥエイン・フーバーはその人柄で町じゅうの人から愛されていた。しかし、自殺願望に取り付かれた妻や愛人のフランシーに振り回されてイライラが募る毎日だった。そんなある日、たまたま聞いた無名のポルノ作家キルゴア・トラウトの名前がなぜか頭から離れなくなる。
 アラン・ルドルフは「愛を殺さないで」などいろいろなジャンルを手がけている監督。この作品はコメディといいながら、果たしてどの辺がコメディなのかわからない不思議な映画。

 ここまでわけのわからない映画は久しぶりに見ました。コメディとしては笑えない。ファンタジーとしては夢がない。サスペンスにしては謎がない。そのくせ先が全く読めない。特におもしろくもないのに、結末が気になって最後まで見てしまう。そんな感じです。
 コメディとして気に入ったのは、オマー・エプス演じるウェイン・フーブラーかな。わけのわからない映画に登場するわけのわからないキャラクター。それを野放しにしてしまう映画。そもそも一体どれがギャグなのかわからない。いつの間に車で生活しているのか?
 それに対して、ニック・ノルティの役は個人的にはあまり。女装で笑わせるという発想はもう古いという感じがしてしまいます。それならそれで、あれでドラッグ・クイーンとして舞台に立っていて… とか思い切った展開にして欲しかったところです。
 それにしてもわけがわからなかった。この映画を理解した人がいたら教えて下さい。ただの笑えないギャグ映画なのか? それとも狂人たちの言葉の裏に込められた何らかの哲学をメッセージとして伝える映画なのか… ポルノ作家といわれるキルゴア・トラウトの存在もまた謎。実は彼の存在は野卑な三文文学を芸術にしてしまういまどきの社会に対する皮肉なのか? などと深読みをしてみたりもします。

光の雨

2001年,日本,130分
監督:高橋伴明
原作:立松和平
脚本:青島武
撮影:柴主高秀
音楽:梅林茂
出演:萩原聖人、裕木奈江、山本太郎、高橋かおり、大杉漣

 若手の映画監督阿南は知り合いのCMディレクター樽見の初監督作品のメイキングを撮影することになった。その映画は連合赤軍の浅間山荘事件を描いた小説「光の雨」を映画化するものだった。その時代を生きた樽見とそんな事件のことすら知らない若者によって取られる映画がどのようになるのか、阿南は興味を持ってみつめるが…
 単純に小説を映画化するのではなく、それを映画化することを映画に撮るという二重構造をとることで、ドキュメンタリー的な要素を入れ込んだ。

 映画の映画とすることで、単なる昔話ではなくできたことは確か。しかし、結局物語の焦点がそれを経験した世代にあるのか、経験しなかった世代にあるのかがはっきりしない気もする。若者達が映画に出ることによってその内容に影響され、自分の中の何かが変わるということは理解できる。それは私が70年には生まれてもおらず、経験していなかった世代に親近感を覚えるということもあるかもしれない。しかも、そもそも映画全体をみれば、より興味を持ったのは連合赤軍の話自体で、撮影に関する話にはあまり興味が湧かなかった。したがって、個人的には単純に原作をそのまま映画にしてくれたほうがよかったといいたい。
 しかも、映画としても中身の映画のほうが、撮影に関する話よりうまくできている気がする。一番気になったのは、ロケハンをしている阿南が抜けている床から落ちる場面の、落ち方の下手さ加減だったりするのだけれど、そもそも撮影に関する話で印象に残っているところといえば、弟が兄のメイクをふき取りながら話すシーンくらい。
 このように撮影に関する話がいまひとつな理由を考えてみると、結局のところ、ドキュメンタリー的な要素といいながら、あからさまにフィクションであるということ。これはドキュメンタリーとフィクションの境界を越える作品ではなく、ドキュメンタリーという看板を借りた完全なフィクションでしかないということ。つまり、最近はやりのドキュメンタリー風をちょっとアレンジしただけのもの。それは単なるドキュメンタリー風よりも性質が悪い。原作の描いた世界をまっすぐに映画化できないから、そこから逃げるために回りくどいやり方をとったのではないかと穿った見方をしたくなる。原作自体を描いた部分は面白かったのだから、それだけでがっちり勝負して欲しかったと、その事件を知らない世代としては思います。

 これは余談ですが、この映画はなんとなく「バトルロワイヤル」に似ている。山本太郎が出ているというのは別にしても、映画の空気が似ている。死んだ人の名前が字幕で出るところも似ている。だからどうだということもないですが、細かく見ていけばもっと似ているところが見つかる気がします。

バスを待ちながら

Lista de Espera
2000年,キューバ=スペイン=フランス,106分
監督:ファン・カルロス・タビオ
原作:アルトゥーロ・アランゴ
脚本:ファン・カルロス・タビオ、アルトゥーロ・アランゴ、セネル・パス
撮影:ハンス・バーマン
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ウラジミール・クルス、タイミ・アリバリーニョ、ホルヘ・ベルゴリア、アリーナ・ロドリゲス

 キューバの田舎にあるバス停留所。そこにやってきたエミリオはやってきたバスに群がる人々を目にする。しかしバスはひとりの少女を乗せただけで走り去ってしまい、待っていた乗客たちはバスに悪態をつくのだった。待ちくたびれた乗客たちは修理中のバスに望みをかけるのだったが…
 「苺とチョコレート」のスタッフ・キャストが再び集まって作られたコメディタッチのやさしいキューバ映画。日本にはあまり入ってこないキューバ映画でもいい映画はあるものです。

 バス停に長くいたら、バス停に愛着が湧くものなのか? そもそもバス停に長くいることがないので想像しにくいですが、普通に考えたらありえそうもないことなので、彼らがバス停をまるで家のように考えるようになるに連れ、どんどん笑えて来ます。それはなんだかやさしい笑い。「いいように考えるんだ」とエミリオも所長も映画の中で言っていましたが、まさにそのきわみという彼らの姿勢はどんな状況でも救われてしまうような勢いを生む。明るさを生む。そして見ている側にまで、その明るさとやさしさを分け与える。そう感じました。
 だから、一度オチた後の展開も最後の結末も、納得し微笑み、大きな心で受け入れて笑って終わることができる。バスを待っている時点でも、一度オチたあとでもその物語が現実であると実感をもって理解することはできないのだけれど、それが現実であって欲しいと望んだり、現実としてありうるかもしれないと思ったりする、それくらいの現実感を生み出す力がこの映画にはある。
 キューバ映画があまり日本に入ってこないことの理由のひとつに検閲の問題がある。現在でも社会主義国家であるキューバの映画は国家によって検閲を受ける。その検閲を通らなければ、映画を上映することはできないし、おそらく相当な苦労をしなければ海外に持ち出すこともできず、その映画は埋もれていく。だから、日本であるいは世界で見られるキューバ映画のほとんどはキューバ政府の検閲を通ったものである。この検閲というのは基本的には不自由を意味し、完全にマイナスなことであると理解される。もちろん自由に映画を作れないことは映画界全体にとってはマイナスだし、意欲的な作家はキューバを出てもっと自由に映画を撮りたいと思うだろう。しかし、この検閲という体制の下でもいい映画は生まれる。検閲とは映画にとっての制限のひとつに過ぎない。映画には他にも資金や期間、あるいはそもそもフレームという制限がある。その制限の中でいかに表現するかが作家の力量であり、それが芸術というものだと思う。だから必ずしも検閲があるから面白い映画は生まれないというわけではないだろう。いまや映画大国となっているイランにも検閲は存在するし、日本の映倫も自主規制とはいえ検閲の一種であるだろう。
 話がまとまらなくなってしまいましたが、要するにもっといっぱいキューバ映画を輸入して! ということですかね。埋もれた名作がきっとたくさんあるはず。

日本鬼子 リーベンクイズ

2001年,日本,160分
監督:松井稔
撮影:小栗謙一
音楽:佐藤良介
出演:日中戦争を経験した方々

 8月15日の靖国神社には様々な人が集い集まる。「英霊」と称えられる人々が戦場でやってきたこととは何なのか。1939年の満州事変に始まり、日本が無条件降伏をするまでの15年間休むことなく続いた日中戦争において中国に渡り拷問・強姦・虐殺などを行ってしまった兵士たち本人の証言によってそれを問う貴重な記録映画。時間軸にそった日中戦争の展開も解説されており、戦争を知らない世代にとっては非常に勉強になるお話。

 この映画で語られていることを知ることは非常に重要だと思う。情報としては様々なメディアで紹介され、文字として読むこともできることで、ことさらこの映画を見なければならないということはないけれど、実行した本人が証言している映像を見ることは文字を読むことよりも何倍かは伝わりやすいと思う。そしてあわせて歴史が解説されるというのもいい。文字でこういう構成をとられると、なんとなく流れが分断される気がして読みにくかろうと思うが、映画にしてしまうと、ぐっと集中してみる時間に区切りがついて見やすくなるという効果もあると思う。
 ということで、内容をここで繰り返すことには全く意味がないので、やめることにして、映画を見ながら思った(あるいは思い出した)ことを書いてみましょう。ちょっと映画の主張からは外れますが、ひとつは古参兵の命令は絶対だったというのを見ながら「兵隊やくざ」を思い出す。「兵隊やくざ」(1965)は勝新太郎演じる正義漢の初年兵が古参兵の命令にもはむかって正義というか仁義を貫くという映画。当時の観客達は自らの軍隊経験と重ね合わせて、感慨を持ちながら見ていたんだろうなぁと想像する。もうひとつはここに登場する人たちはおそらく一度ならずどこかでそれをかたったり書いたりしている人たちなんだろうと思う。一部の人はどこかに書いたということやしゃべったということが明らかになっている。そういう体験を経ているからこそカメラのまえで冷静に(あるいは冷静さを装って)体験を語れるのだろう。逆に語れないままいる人や、語ることの出来ないままなくなってしまった人のほうが多いのだろう。彼らがそれを語れるのはやはり中国の軍事法廷の寛大さが大きな要因となっていると思う。中国人民に謝罪し、感謝した彼らはそれを他の人たちに伝え、二度と繰り返さないようにするという義務感を重く感じただろう。それは自分や家族の恥となることを厭わないほどに。

メメント

Memento
2000年,アメリカ,113分
監督:クリストファー・ノーラン
原案:ジョナサン・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン
撮影:ウォーリー・フィスター
音楽:デヴィッド・ジュリアン
出演:ガイ・ピアース、キャリー・アン・モス、ジョー・パントリアーノ、ジョージャ・フォックス

 殺された男とそのポラロイド写真。そこから時間は巻き戻り、ポラロイドを持っている男が殺したことが分かる。その男レナードは前向性健忘で10分以上前の記憶が残らない。そして最後の記憶は妻が殺された場面であり、その殺した男を見つけ出し、復讐するためにポラロイドとメモと体の刺青を記憶代わりにしていた。
 時間を逆行してゆくスタイルが新しく、アメリカではリピーターが続出。ロングランヒットとなった作品。確かに見る側も頭を使わざるをえず、2時間はあっと言う間にすぎる。

 かなり慎重に、ネタばれを避けながら行きます。この映画の眼目はもちろん謎解きにあります。「記憶喪失の疑似体験」というキャッチコピーのとおり、失われた記憶を取り戻す旅。謎というのはもちろん「妻を殺しなのは誰か」ということ。しかし、その答えは映画の冒頭で「テディ」が殺されたことによって明らかになっているようである。となると、観客が知りたいのは「なぜテディが犯人だとわかったのか?」ということになります。そして、問題となるのはレナードが前向性健忘であること。つまり覚えていられないこと、になるはずです。しかし、本当に問題になるのは別のこと。それはレナードが前向性健忘であること。そしてそうなる前のことを覚えていること、なのです。レナードは映画の途中で「記憶は記録よりあてにならない」といいます。もうこれ以上はいえませんが、見た人には分かるでしょう。
 この映画はその途中のどこかで論理と問題点のすりかえがある。それがまた見る側の混迷のどを深めることになるのだと私は思います。具体的に言えば、「なぜテディが犯人だとわかったのか?」という問題から「なぜテディは殺されたのか?」という問題へ。この問題のすりかえを見失わず、注意深く見ればとりあえずこの映画の時間のスパンではちゃんとおさまるところにおさまるのだと思います。
 しかし、
!!!!!!!!!!!!!
!!以下ネタばれていく!! 見てない人は絶対読まないでね。
!!!!!!!!!!!!!
 まとまっているのはテディの話、つまり「テディはなぜ殺されたのか」という話だけで、根本的な疑問は解決しない。それは「妻を殺したのは誰か」という問題。これには全く解決の道が開けない。むしろ話は混迷のどを深めるだけ。ここがこの映画が「わからない」となる最大の原因なのだと思ういます。
 ここからは私の勝手な解釈になりますが、この問題が解決しないのは、この話が本当はもっともっと長いからではないか? 映画が終わるまえに殺されたジ**(伏字)については原因どころか背景も全く説明されない、そしてそれに関わってナ***(伏字)についてもわからない。そして終わり近くのレナードの回想シーンも説明がつかない。これらの説明がつかないことどもはもっと長い物語の先で解決されることではないか、と思います。なので映画としては続編ができる。2作目はジ**(伏字)についての話で、タイトルも決まっています。「メメント-1(マイナス1)」。俺が監督だったら絶対作る。そして、最終的には12時間くらいの完全版を作って観客に勝負を挑んで欲しい。
 かなり勝手な想像が膨らみましたが、そういう勝手な想像をだれもがしてしまう映画でしょう。だからヒットする。面白いからいいんです。今日は映画としてどうこうという話はしません。

エステル

Esther
1986年,イスラエル=イギリス,97分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、ステファン・レヴァイン
撮影:アンリ・アルカン
音楽:クロード・バートランド
出演:シモーナ・ベンヤミニ、モハマド・バクリ、シュメール・ウルフ、ジュリアーノ・メール

 ここはインドから中東まで100以上の州を治めるペルシャ王の宮殿であることが説明される。その王の宮殿には各地から美女が集められ、ハーレムが作られる。そのハーレムの中から王妃となったエステルとその養父モルデカイ、王の腹心アマンの間で繰り広げられる物語。
 とはいっても、アモス・ギタイだけに、純粋なコスチュームプレイではなく、現代に問題を投げかける作品になっている。ドキュメンタリーをとりつづけていたギタイ初の劇映画。

 過去の時代、ペルシャが栄えていた時代、おそらくヨーロッパの中世にあたる時代、そんな時代を想定しているようでありながら時折、車のエンジン音やクラクションなど現代にしか存在しない生活音が入る。
 物語はというと、ユダヤとアラブという現代のイスラエル-パレスティナに通じる対立構造を描いている。したがって、映画が進んでもその生活音がなくならないばかりかむしろ増え、さらにあからさまに現代的な音になっていくのを耳にしてこの映画によって主張されているのは「これは決して昔話ではない」ということなのだと気付く。
 表現における齟齬から推論して自ら気付いたこのことは、映画によって直接的に語りかけられたことよりも心に深く響く。この映画はその心理を巧みに利用し、われわれに気付かせ、そしてその「気付き」を最後の長い長い1カットのシークエンスで裏付ける。
 この映画がほとんど1シーン1カットで撮られているのは、なぜか。映画になぜということはないのだけれど、ここまでかたくなに1シーン1カットに固執されると考えてしまう。単純にドキュメンタリーの手法をそのまま使っただけなのか。音の部分で映画作法を崩しているがために視覚的な部分では古典的な映画作法にことさらに従うことでバランスをとろうとしているのか。そのようなことも考えながら、私はこの1シーン1カットの画面にアンチ・クライマックスを感じる。この映画はクライマックスを避ける。劇的な場面がない。盛り上がりそうな場面ではそれを避ける。その際たるものは終盤の絞殺刑のまえの少年たちの闖入。盛り上がるべき場面でそれをぶち壊す。そしてわれわれを現代へと立ち返らせる。クライマックスが存在しないことで現在へとスムーズにつながる。1カットの中に過去と現在が混在していても、困惑はするが受け入れることはできる。そんな感じがした。

冬物語

Conte d’Hiver
1991年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リュック・パジェス
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:シャルロット・ヴェリ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリエッシ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリク

 夏のビーチで出会ったフェリシーとシャルル。夏が終わり、シャルルはフェリシーの住所を受け取り、2人はそれぞれの居場所へと向かった。5年後、美容師をしながら、別の男と付き合うフェリシー、美容院の主人から結婚を申し込まれていた。実はフェリシーは住所を書き間違え、シャルルからの便りはついに来なかったのだ。そのシャルルとの間の娘エリーズはもう4歳になる。
 ロメールの四季の物語の2作目。冬のパリは寒そう。劇中劇として登場するシェークスピアの『冬物語』が物語の下敷きになっているらしい。

 なんとなく「夏物語」とついになった話のような気がする。もちろん、「夏物語」の方が後に作られたので、順番は逆にしても2つの作品の関係は深そうである。「夏」のほうは1人の男と3人の女、「冬」は1人の女と3人の男。「冬」の冒頭の海の風景は「夏」の舞台となった海と同じように思える(ちがうかも)。結局どちらも、遠くにある望みの薄い恋をあきらめて、身近にある恋を選ぶことができるのか…というお話。まさにロメールっぽいというところですね。
 そういう話だとどうしても、物語の方に引きずられてしまいがち。あるいはそれが映像や技巧を意識させずに見せるロメールのうまさなのか。
 この映画でもうひとつロメールらしいと思うのは「輪廻」の話。「春のソナタ」では超越論の話が出てきましたが、今回は「輪廻」の話。パスカルとかいろいろな人が登場しますが、よくわからない。見ている人の多くはフェリシーの立場でその哲学話を見るのでしょう。だからその会話が意味しているところがよくわからないと思う。これは単純にわからないということではなくて、このわからないという感想を共有することでフェリシーの立場に近づくことができるということも意味する。「インテリにはなりたくない」というフェリシーの気持ちが共感でき、そんなわけのわからない会話の中に感覚的な意見で切り込むフェリシーに拍手を送りたくなる。この主人公への共感という感覚はロメールの映画の特徴だと思います。「夏」の時にも書きましたが、映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって映画を経験するそんな映画だと思う。
 やはり「四季の物語」と題されてシリーズ化されているだけに、どの作品もどこか似た雰囲気を持っていますね。