ハッシュ!

2001年,日本,135分
監督:橋口亮輔
脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾
音楽:ボビー・マクファーリン
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子、富士真奈美、光石研

 直也はペットショップで働きながら気ままなゲイライフ送っていた。ゲイであることを隠しながら研究所で船の研究をする勝裕は、思いを寄せていた同僚が結婚してしまったことにショックを受ける。歯科技工士の朝子は自分の殻にこもり、周囲との関係をたって孤独な生活を送っていた。付き合い始めた直也と勝裕がふとしたことで朝子に出会ったことである物語が始まる…
 橋口亮輔が「渚のシンドバット」以来久々に監督した作品。自身もゲイである監督は今回もゲイの世界を描いた。今回はコメディ的な要素を強め、明るく楽しく見ることができる。

 これは完全にコメディなんですよ。ゲイ・ムーヴィーというとなんだか思想的なものがこめてあるという印象ですが、面白いゲイ・ムーヴィーというのはたいていコメディ。だからとにかく笑えばいい。かなり人間関係のドラマを濃厚に描いてるけれど、それも結局は笑いにもっていく。
 もちろん、ゲイであることを隠す勝裕(すべてはここからはじまる)という問題もあるし、ゲイに対する誤解(たとえば富士真奈美)という問題も提起されてはいるけれど、それはあくまでそのことに今まで気付かなかった人達が気付けばいいという程度のもの。そこにことさら何か主張が込められているわけではないと思います。
 どこが面白かったかといえば、「うずまさ」かな。一番は。ゲイとは関係ないけれど。でもこういうゲイとは関係ないネタも含まれているからこそこれはあくまでコメディだと言い切れるという面もあります。
 私がここまでコメディであることを力説するのは、ゲイ映画が(特にメディアによって)何か特別のもののように扱われ、そこで投げかけられている問題意識のようなものを取り上げてしまう。もちろんそれは意義のあることではあるけれど、逆にゲイ映画というものを特別なものとしてしまい、客足を遠のかせてしまう。そんな気がしてしまいます。コメディ映画としてみてきた人が「ああ、これってゲイの映画なんだね」と思うくらいがいいと思う。
 私はゲイの人たちのクリエイティビティというものを非常に買っているので、そのようにして彼らの活躍の場が広がることはとても喜ばしいことだと思うのです。この映画はゲイカルチャーはゲイだけのものであるというような考え方を打ち崩すきっかけになりそうな勢いを持っています。
 あるいは、ゲイ映画ではない。ゲイというカテゴライズを越えたすべての人間が持つ「孤独」という問題、それを描いた映画だということもできる。

 さて、「ゲイ映画」というジャンルわけをいったん無視して、この映画を見つめなおして見ます。この映画でもっともすばらしいのはその自然さ、それはつまりリアルさ。細部まで行き届いた現実感。自然な台詞回しは最近流行の役者のアドリブを取り入れようという方法かと思いきや、ほぼすべて台本通りリハーサルにリハーサルを重ねて作り上げたものだそうです。そう考えると、この映画の緊迫感や生々しさは非常に驚異的なものかもしれません。役者の身にせりふが染み込んでいる感じがする。小物なども注意が行き届いている。直也と勝裕が一緒に住む部屋のファーストカットで直也と直也の部屋にあった緑のチェックのクッションが映る。これが(今までの)直也の部屋でないことは明らかなので、くどくど説明しなくてもこの1カットだけで引っ越して二人ですんでいるということがわかる。このあたりは秀逸。
 さて、今回気づいたことは勝裕が直也の着ていた服を着ているということ。太陽みたいな柄のTシャツや、シャツなんかを共有しているのかお下がりで着ているのかはわかりませんが、とにかく直也が勝裕のダサさを克服しようと着せていると思われます。そのあたりの細かい設定も現実感を増しているのでしょう。
 後は、シーンからシーンのジャンプ。シーンの終わりが唐突で、いきなり次のシーンに飛ぶ。一瞬の黒画面やフェードアウトが入ることはあっても、かなり唐突な感があります。これは上映時間の都合上カットしたということもあるようですが、基本的には橋口監督のスタイルということですね。映画がテンポアップするとともに勝裕が風呂場で口を真っ青にするところのようなシーンの面白いつながり方をも生み出しています。

 これは余談ですが、誰もが心に引っかかる「怒るといつもアイス食べるじゃん」のアイスクリームはハーゲンダッツのバニラアイスクリームですが、橋口監督曰く、それは「世界で一番おいしい食べ物」だそうです。それはステキ。

ハズバンズ

Husbands
1970年,アメリカ,131分
監督:ジョン・カサヴェテス
脚本:ジョン・カサヴェテス
撮影:ヴィクター・J・ケンパー
音楽:ジャック・アッカーマン、スタンレー・ウィルソン
出演:ベン・ギャザラ、ピーター・フォーク、ジョン・カサヴェテス

 中年に差し掛かった4人の仲間、そのうちの1人が死ぬ。その葬式に駆けつけた3人の仲間たち。複雑な思いを抱えたまま葬儀場を後にした3人はのんだくれ、あてもなく彷徨い始める…
 ジョン・カサヴェテスがはじめて自分の監督作品に出演、いつもの出演者陣と息のあった演技を見せる。タイトルに「コメディ」とあるが、果たしてこれはコメディなのかどうなのか?

 いきなり、音楽+スチルの連続という破天荒な始まり方をするが、この表現は導入とて絶妙。そのスチルを見ているだけで、次につながる葬式がマッチョ気味のハゲ気味の男のものであることがすんなりと伝わってくる。そこに言葉による説明は要らない。わざとらしいフェードアウトやセピアの映像もいらない。淡々と続くスチルだけでそれを十分に語っている。そのあたりがまずカサヴェテスの型破りなところでしょう。そしてその後もフレーミングやピンとの合わせ方などカサヴェテスらしさ満載なわけです。
 そんな映像と物語があいまってこの映画は非常にイライラさせられます。身をかきむしりたくなるようなイライラ感。「一体こいつらは何がしたいんだ?一体こいつらは何がおかしくて笑っているんだ?」と始終思わずに入られない。彼らとともに笑うことはどうしてもできない。そんな笑えないコメディにこめられているのはもちろん彼ら自身のイライラ感。どうしようもないという感覚。何かが失われ、それによって生じる歪みをどうすることもできないという感覚。そのようなものなのでしょう。だから見ていて決して心地よくはなく、楽しくもないのです。しかし見ている者の何らかの感情を呼び起こせるということはその映画に一種の「面白さ」があることを意味するでしょう。私たちは大概「面白い」映画を見たいと思います。しかし、その「面白い」とは「楽しい」ということとはイコールではなく、悲しかったり怖かったり痛かったりするはずです。そんな「痛さ」=「面白さ」がこの映画にはあると思います。

きらめきの季節/美麗時光

美麗時光
2001年,台湾=日本,100分
監督:チャン・ツォーチ
脚本:チャン・ツォーチ
撮影:チャン・イーミン
出演:ファン・チイウェイ、ガオ・モンジェ、ウー・ユゥジィー、ツェン・イーチャア、ツァイ・ミンショウ

 台湾の下町に暮らす一家。働きもせずギャンブルにほうける父親たち、癌に苦しむ娘を抱えながら息子たちはチンピラの仲間入りをしてしまう。この一家の2人の少年を主人公にどことなくファンタジックに描いたドラマ。
 チャン・ツォーチは前作「最愛の夏」が話題を呼んだ新鋭監督。

 普通に見えたドラマが級に転換する面白さ。最後映画が思わぬ展開をしていくために様々な複線が張られている。一番大きいのはもちろん川に飛び込んだ二人というエピソードだけれど、それ以外でも時間の感覚をどこか狂わせるような工夫が凝らされている。そもそも家の周りの迷路のような道。どこがどうなっているのか、最初は全くわからないが、繰り返し家への道をたどっていくうちに分かってくる。しかし結局のところ全体像を把握することはできない。そしてすぐに切れる街灯。熱帯魚。いろいろな要素が見る側の時間の感覚を失わせ、物語り全体を迷路のように構成してゆく。
 あとはどうですかね。道とのかかわりでロングショットが多くて、結構映像的にも面白かったですね。その物語的な特異さを除けば、アジア的なアジア映画という感じです。

ルール

Urban Legend
1998年,アメリカ,99分
監督:ジェイミー・ブランクス
脚本:シルヴィオ・ホータ
撮影:ジェームズ・クレッサンティス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:ジャレッド・レト、アリシア・ウィット、レベッカ・ゲイハート、ジョシュア・ジャクソン

 夜中にドライブ中のミッシェルはガス欠になり、あやしげなスタンドに立ち寄る。そこで怪しげな店員に襲われるがうまく逃げ出したが、実は車の後部座席に人が忍び込んでいたのだった。
 「スクリーム」「ラストサマー」といった流行のティーン・ホラーのひとつ。犯人が誰だかわからないというつくりも同じ。

 なんというか、この手のティーン・ホラーというのはいわゆるアイドル映画なわけで、とりあえずお気に入りの役者さんが出ていれば、劇場に足を運び、それで映画としても面白ければなおよしというものなんだと思います。だからそもそも映画としての評価がどうこうということもいう必要があるのかな。と思います。
 しかし、これは「スクリーム」や「ラスト・サマー」より後発の作品なので、ただの真似という評判をぬぐうためには何か工夫が必要だったはず。それが多分「都市伝説」で、アメリカの若者なら誰でも知っているであろう伝説を使うことで身近にもありえそうな話にするという工夫なわけですね。他には特にないか… でも、犯人はかなり分かりにくいですね。犯人がわかりにくいということは、裏返せばあとから見るとちょっと無理があるということになりがちというのもあります。この映画もそうですね…
 続編も製作され、ちょうど今公開されていると思います。

スコア

The Score
2001年,アメリカ,125分
監督:フランク・オズ
原案:ダニエル・E・テイラー、カリオ・セイラム
脚本:カリオ・セイラム、レム・ドブス、スコット・マーシャル・スミス
撮影:ロブ・ハーン
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・デ・ニーロ、エドワード・ノートン、マーロン・ブランド

 パーティー中の屋敷に忍び込み見事にダイヤモンドを盗み出したニック。表の顔はモントリオールのジャズクラブのオーナー。モントリオールに帰った彼は25年来の相棒であるマックスから400万ドルという大きなヤマ(スコア)を持ちかけられる。しかし、危険を冒さない、住んでいる街では仕事をしないということをモットーとするニックはそのヤマに二の足を踏んでいた。
 「イン&アウト」などコメディ作品で知られるフランク・オズ初の本格サスペンス。味のある役者をそろえ、決して面白くないわけではないが、ひねりがないのがサスペンスとしては残念。

 大きなヤマの話があって、初めての奴と組む。となるとこの先の展開は… と予想してしまうのが人の常。それがどうなるのかは言わないとしても、このひとつのヤマで2時間撮ってしまうというのはちょっとつらかったかも。もうひとつのエピソードとしてデ・ニーロの恋話があるけれど、それも映画の中でそれほど大きな割合は占めない。もっと切り詰めていけば30分くらいは削れたんじゃないかと思ってしまう。その上でもうひと話盛り込めば、濃密で面白い2時間になったのではないかという気がする。やはり畑違いというハンディを克服し切れなかったというところでしょうか。最初の盗みのところはテンポもあってとてもよかったんだけどなぁ…
 さて、それにしてもマーロン・ブランドもデ・ニーロもすっかり太ってしまいましたね。マーロン・ブランドはいいとしても、デ・ニーロの盗みのシーンは重そうでなんだかねという感じでした。すで太ってしまったのか、あるいは引退寸前の泥棒という役作りなのかは分かりませんが、なんだか悲しいわ。

囁く砂

Whispering Sand
2001年,インドネシア=日本,106分
監督:ナン・アフナス
出演:クリスティン・ハキム、ディアン・サストロワルドヨ、スラメット・ラハルジョ

 インドネシアのある島の浜辺で暮らす母と娘。父親はいなくなり、母がお茶の屋台と産婆の手伝いをして生計を立てていた。ある日、そこに踊り子をしている叔母が訪ねてくる。叔母は旱魃のせいで街は治安が悪化し、放火までが起こっていると知らせ、ここから逃げるよう勧めるが母親はそれを受けいらない。しかし、あるよ村にも火の手が上がり、母娘も逃げざるを得なくなった…
 いかにもアジアらしい寡黙な映画。映画の中に登場するインドネシアの風景に新鮮な驚きがある。

 まずプロットが分かりにくい。放火をして回る人たちは誰なのか? 迷彩服に身を包んだおそらくゲリラの人たちは何なのか? インドネシアの人なら見ただけでその背景は分かるのだろうか? 私には全くわからなかった。放火する人たちは、雨が降らない事が理由とされている。しかし、雨が降らなくてなぜ放火をするのか全くわからない。そのあたりの脈略のつながらなさに引きずられていまひとつ映画に入っていけない。むしろ超自然的な力とか魔術的な力で説明されている方がまだ入りやすかったような気がする。お父さんというのもいまひとつ人物像がはっきりしない。
 この映画は題名のとおり「砂」の物語で、毎朝砂に埋もれてしまう家というのも出てきて、どうしても安部公房のあるいは勅使河原宏の「砂の女」を思い出してしまう。そんなことを考えながら見ると、この映画では砂に埋もれてしまう家がいまひとつ生かされていない気がする。ただそこに家があるというだけで、「砂に埋もれてしまう」という設定は全く物語には関係してこない。「砂の女」を知っていると、それがなんだかもったいなく感じてしまう。あの家使ってもっと面白いことができるんじゃないか、などと考えて、またも映画の本筋から心が離れてしまう。
 けなしてばかりですが、それはやはり映画に入り込めなかったから。そうすると、主人公の母娘の気持ちにも共感ができない。となるとどうしても批判的な目で見てしまうのです。しかし、気に入ったシーンがひとつ。それは母娘が山を旅するシーン、砂嵐がやってきて去るとひとりの男が隣にいる。そして、その周りの砂の中からたくさんの人が這い出てくる。ただそれだけのシーンですが、インパクトがあるし、なんだか「砂」の持つ別の一面が語られているような気もしました。

ザ・ロード

Yol
2001年,カザフスタン=日本=フランス,85分
監督:ダルジャン・オミルバエフ
出演:ジャムシェド・ウスマノフ、サウレ・トクチバーエヴァ

 カザフスタンのアルマイトにすむ映画監督のアランは妻とひとり息子ときれいなアパートで暮らす。アランと妻の関係はなんとなく空々しいが、そこに母が亡くなったという電報が届く。アランは車を走らせ、実家へと向かうが、その道々昔のことを思い出したり、幻想といっていいようなことを考える。
 映画監督を描く映画でロードムービー、といってしまうと、なんとなくありきたりという気がするが、はっきり言ってこの映画はいわゆる ロードムービー ではない。かなり不思議な雰囲気の映画。

 現実と幻覚や思い出のつながり方はとてもいい。境目がよくわからなくて、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか。そして、どれが実際にあったことで、どれが想像なのか、それが明確にされていないのが面白い。
 「道」というのはこの映画にとっては媒介に過ぎない。「ザ・ロード」というくらいだから、 ロードムービーが意識されているのだろうが、この映画が ロードムービーだとするならばそれは実在する道に沿ったたびではなくて、主人公の心の旅を描いたものなのだろう。実際の道とその風景と事件をきっかけにして頭の中で展開される様々な出来事が本当の旅である。というのも、 ロードムービーというのは基本的に未知の場所を旅することから生まれるドラマであって、この映画の実際の旅は自宅から両親の家という既知の道を旅するものなので、そこに ロードムービーというドラマは生まれにくいように思う。
 しかし、個々のヴィジョン(現実と非現実を分かたないものとしての「見たもの」という意味)はかなり面白い。「罪と罰」的な衝動、水没する道、空手映画などなど。この映画も『グレーマンズ・ジャーニー』と同じく散漫な映画になってしまってはいるけれど、それはそれでなかなか面白いと思います。

グレーマンズ・ジャーニー

Journey of the Gray Men
2001年,イラン=日本,110分
監督:アミル・シャハブ・ラザヴィアン
出演:レザ・シャイクアームドカムセ、アーマド・ビグデリ、アリ・シャサワン

 かつて人形劇の一座を組んでいた三人の男達。老境に達した彼らが再開し、再び人形劇をしながら旅をすることに決める。当時使っていたぼろ車を引っ張り出し、旅に出るのだが…
 ドキュメンタリー風でありながら、決してドキュメンタリーではない不思議な雰囲気をかもし出すロードムーヴィー。

 なんといっても不思議なのはこの映画の性格。ドキュメンタリー風の映像で作ったフィクション映画がはやっている昨今、しかしこの映画はどういったドキュメンタリー風のフィクションでもない。むしろそんなドキュメンタリー風フィクションをパロディ化したような作品。それもいかにもイランらしいやり方で。コンセプトとしては監督の父親の体験を素人の役者を使って再現したというものだが、なぜかそこに映画クルーが時々入り込んでくる。たとえば、老人がトラックの上で何かに熱狂している若者達とけんかになるシーン。すえつけられたカメラにフレームインしてきて、正面で止まり、そこでけんかになるのだが、それを止めにクルーが入っていく。このあまりに作り物じみた茶番劇。これがパロディではなくてなんなのか?
 そして最後まで何が映画の中心なのかが見えないプロット。もちろん映画に中心なんてなくていいのだけれど、ここまで散漫なのも気になる。結局のところ監督自身の収拾のつかない心をそのまま表現してしまったという感じに見えるけれど、ここまで作り物じみていると逆にそのように見えるように作りこんだのではないかと深読みしてしまう。最後に登場するエピソードの真実性までも疑いたくなってくる。
 その素直ではない感じがイラン映画のイメージとは相反してとても興味深い点となってもいるのですが。

JSA

JSA: Joint Security Area
2000年,韓国,110分
監督:パク・チャヌク
原作:パク・サンヨン
脚本:キム・ヒョンソク、チョン・ソンサン、イ・ムヨン、パク・チャヌク
撮影:キム・ソンボク
音楽:キム・グァンソク
出演:ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、イ・ヨシエ、キム・テウ、シム・ハギュン

 1999年10月28日、38度線上、板門店の共同警備区域(JSA)の北側の監視小屋で起こった銃撃事件。この事件で二人の北朝鮮兵が死亡した。この事件の解明のため中立国監督委員会は韓国系スイス人将校ソフィーを捜査官として派遣した。彼女がたどり着いた真実は予想もしないものだった…
 韓国で「シュリ」の記録を塗り替える大ヒットとなったサスペンスドラマ。日本人から見ても「韓国らしい」映画に見えます。

 結局のところ朝鮮半島の関係というものが分かっていないものとしては、感心してしまいます。これはつまり韓国人の願望。こんな風になってそれこそ「民族統一」がなされればいいなぁという願望が作らせた映画ということでしょう。なので、中立国監督委員会というのもソフィーさんもほんのおまけにすぎず、おそらく1人美女が欲しかったというだけのことのような気がします。
 映画的な工夫という面では特段書くべきこともないので、ドラマに関することに終始したいと思います。
 さて、今韓国人の願望と書いたとおり、これは韓国人の願望でしかなく、北朝鮮人の願望ではない。北朝鮮の兵は南の文化に憧れを抱くけれど、南の兵士が来たの文化に憧れを描くことはない。結局「南」のほうがいいということを言っているに過ぎない気がします。おそらく北朝鮮で同じような映画を作ったとしたら、逆に「南」の兵士が「北」の文化やものにあこがれる様を描くでしょう。そのあたりがこの映画が「願望」にすぎないことを示しています。「願望」を超えて、統一の礎になることはありえないということ。つまり娯楽作品に過ぎないということ。
 で、娯楽作品として描くなら、ソフィーさんは要らなかったかもしれない、と思います。最初の銃弾がドアを貫通し、中の明かりが見えるシーンはなかなかよく、それだけでこの事件が何だったのかを解明する映画なのだろうと予想はつきます。それだったら、捜査などというまどろっこしい手続きをとらず、事件の全貌が明らかにならないまま時間を遡って、展開していって欲しかったななどとも思います。その方が緊迫感がますような気がします。

アモーレス・ペロス

Amores Perros
1999年,メキシコ,153分
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ・ホルダン
撮影:ロドリゴ・ブリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:エミリオ・エチェバリア、ガエル・ガルシア・ベルナル、ゴヤ・トレド、バネッサ・バウチェ

 メキシコのスラムで母と兄と兄嫁と暮らすオクタビオは兄の兄嫁に対する暴力に腹を立てていた。そんなオクタビオの犬コフィが闘犬で稼ぐチンピラ・ハロチョの犬を噛み殺してしまった。それに重なるように挿入される犬を連れた老人による殺人は後に続く断章へのプロローグ。
 重なり合う3つの断章からなる作品。血と暴力にあふれているが、そこにあるのはメキシコシティという都市に住む人々のなまの人生であるのだろう。

 最初の断章がすごくいい。何者かに追われ、怪我をした犬を連れてくるまで逃げ回るという1つの場面から始まり、そこに至るまでを過去の時点から描きなおすという技法事態は新しいものではないが、観客の興味をひきつけるひとつの方法としては非常に効果的である。
 そして、そのシーンの映像がエネルギッシュであればなおさらである。手持ちカメラのクローズアップで展開されるスピード感が観客の期待をあおる。そしてその期待は、殺された男から流れた血が鉄板で煮えたぎり、血に飢えた闘犬が相手の犬の血を口から滴らせるのにあおられる。
 そんなシーンの連続に興奮させられたわれわれは闘犬のよう血を求め、血なまぐさいシーンが続くのを期待する。あるいは目をそむける。最初の断章はあくまでも暴力的で血なまぐさく進む。
 この血なまぐささは2つ目の断章でやわらげられるが、これは絡み合う断章のひとつというよりは、1つめから3つめに続く物語から派生したひとつの余話であるだろう。しかしもちろん共通する要素もある。ひとつは題名からも分かる犬であり、愛である。そして、この断章が加わることによって見えてくることもある。それはメキシコあるいはメキシコシティの全体像である。この3つの断章が存在することによってメキシコシティという町の多様性が見えてくる。そして、違う世界に住んでいる人であってもどこかで関わりあわざるを得ないとうことが。
 この映画で描かれるメキシコシティは「男」だと思う。それはラテン・アメリカに付き纏うイメージである「マチョ」でもある。最初の2つの断章に登場する男達は皆怒りっぽく、攻撃的だ。やさしそうに見えたオクタビオもダニエルも最後にはその攻撃的な正確をあらわにする。それに対してスサナとバレリアの2人が閉じ込められた存在であるというのは象徴的だ。女を支配しようとする男、そんな構図があからさまに浮かび上がってくる。そんな中ひとり異なった相貌を見せるエル・チーボ。私は彼をそのマチスモをひとつ乗り越えた存在と見る。女性を支配しようということをやめ、それよりも自分を支配することを目指す。かれもまた攻撃的な正確をあらわにするが、その攻撃は男にしか向けられない。マチスモを発揮して革命へ身を投じた彼がそこから戻ってきてマチスモを乗り越えた。そのように見える。しかし彼の娘への過剰な愛はまた別のマチスモを象徴しているのではないかという気もしないでもない。