キカ

Kika
1993年,スペイン,115分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アルフレッド・メイヨ
音楽:ペレス・プラド
出演:ベロニカ・フォルケ、ピーター・コヨーテ、ビクトリア・アブリル、アレックス・カサノバス、ロッシ・デ・パルマ

 メイクアップアーティストのキカは死化粧の話をきっかけに、メイク教室の生徒に恋人のラモンとの出会いのいきさつを話し始める。そのラモンは3年前に母親を自殺で亡くしていた。キカはラモンの継父のニコラスと知り合い、家に呼ばれていってみると、そこに死んだラモスが横たわっていたのだ。しかしキカが死化粧をはじめるとラモスは生き返ったのだった。
 奇怪な登場人物とめくるめくプロットとゴルティエの鮮やかな衣装でかなりキッチュな印象の映画だが、しっかりと作りこまれていてしっかりと仕上がっている。

 このわけのわからなさのオンパレードはなんなのか? わけがわからないといっても混乱させるようなわからなさではなく、「?」を浮かべながらなぜか笑ってしまうようなわけの和からなさ。だからとても心地よい。果たしてどのくらいの人がこの心地よさを感じるのだろう? このわけのわからなさはアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられることが多い。あるいはキッチュというひとことで。ゴルティエの衣装もそのわからなさとイメージの両方に手を貸している。しかし、必ずしもアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられる問題ではないのかもしれない。ただ単純化されていない映画、説明をしない映画。ただそれだけかもしれない。映画というのは分かりやすくするために物事を単純化して、それに説明を加える。誰かが「複雑なものを単純に言うのが芸術だ」といったけれど、映画もひとつの芸術として複雑なものを単純に語る。それはわかりやすくという意味で単純に。しかしアルモドバルの単純化は「分かりやすさ」に主眼を置かない。「おもしろさ」に主眼を置き、複雑な物事を面白くするために単純化する。だからわかりやすさという点ではちっとも単純化されていない。むしろ、分かりやすいために必要なものを省いてしまうために分かりにくくなってしまう。だから理解しようとするとちっともわけがわからない。この映画も物語だけを追うんだったら、多分15分くらいで終わってしまうだろう。
 だから、全く物語とは無関係な面白い場面がたくさんある。キカがフアナをメイクするその2人の関係とか、警察とか、アンドレアの番組の内容とかいろいろ。そのそれぞれがプロットにどう関わってくるのかなんてことは気にせずに、あるいはその無関係さに気付きながら見れば、それはまさに子供の心で見れば面白さが詰まっている。警察もポール・バッソのところは相当面白いですね。普通の映画とは全く違う描き方です。キカの反応とか、かなり不思議。
 あと少し気になったのは「十字」。所々に出てくる十字の形状はなんなのか、ラモンの寝室にはキリストをモチーフにしたコラージュが飾ってあるし、全く敬虔とは言いがたいこの映画に顕れるこの神の像は何を意味しているのか? 私はキリスト教徒ではないので、こういうものを描こうとするときにどう神を意識するのかということは想像も出来ませんが、アルモドバルになって想像してみるに、このような映画を作ることが「神」とどのように関わるのかを考えることが彼には必要なのだろうということ。それは見る側に対して「神」に関するメッセージを送るということではなくて、自分にとっての意味付けのようなものを考えるためなのだろうと想像します。あくまで想像ですが…

ワンダフルライフ

1999年,日本,118分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
音楽:笠松泰洋
出演:ARATA、小田エリカ、寺島進、内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、香川京子、阿部サダヲ

 死んだ人が、まず行くところ。それは生前の一番の想い出を唯一の記憶とするためにそれを再現する場所だった。その場所で働く人々を中心に、22人の死んだばかりの人々との対話を描いたファンタジックなヒューマンドラマ。
 ドキュメンタリー畑出身の是枝監督らしいドキュメンタリーに傾いた描写がそこここに見られる。発想もユニークで面白いので、すっと映画に入りやすい。

 それぞれの人がその想い出を考える場面、特に彼らが真正面から固定された画面の中で語る姿はまさにドキュメンタリー風の映像であり、そのそれぞれの思いがこの映画で一番面白い部分。複雑な思いを抱えて死んだ人々の心のほつれがほどけていく過程がうまく表現されているような気がする。
 この映画が素晴らしいのは、映像がどうのというよりも、私たちに語りかけてくること。この映画を見ながら、自分が今死んでしまったら「一番印象に残ったこと」といわれてなんと答えるだろうか? という明確な問いがひとつ投げかけられる。もちろん私たちはまだ死んでいないので、それを考えたところからこれからの「生」に対して何か考えが変わるかもしれない。あるいは変えなくていいんだと気付くかもしれない。そのように今ある「生」に向き合うことこそこの映画がわれわれに投げかけていることなのだろう。この映画を見て、考えてみましょう。「一番印象に残ったこと」とは何か?
 そのあたりは明確です。ちょっと文章で書くと空々しいですが、映画を見れば実感です。さて、映像がどうのといいながら、この映画はとてもきれい。舞台設定がなんか古い学校だか病院っぽいところで、それ自体がフォトジェニック(フィルムジェニック?)なのに加えて、季節が冬というのも印象的です。一番はっとしたのはARATAと小田エリカが雪の中を歩いて建物まで行き、建物の中に入るシーン。ただそれだけのシーンですが、うーんなんかいいんだよね。
 難を言うなら、後半のプロットでしょうか。言ってしまえばなくてもよかった。まあ、あってもマイナスではないし、21人の人々がいなくなって静かになったところでじっくりと見られるという利点はあるけれど、前半のスピード感から一転、急にスローになるので、ちょっと気が抜ける感じもします。個人的な好みとしては、人々がいなくなって、次の人たちがくる。その単純な1サイクルを描くだけでよかった気もします。
 でも、ラストカットはとてもよかった。ということは後半も必要なのかな?

野火

1959年,日本,105分
監督:市川崑
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、稲葉義男

 第二次大戦中のレイテ島。壊滅状態の日本軍の中で、肺病にかかった田村は口減らしのため、病院に入院するように命令される。しかし、立ち上がれないような傷病者であふれかえる病院でも受け入れてもらえない田村は、同じような境遇にある数人の兵士と病院の隣の林で過ごしていた。しかし、そこにもついに、アメリカ軍の攻撃の手が及んだ。
 攻撃と飢餓という要素から極限状態に置かれた兵隊たちの心理を描いた作品。この映画のためにかなりの減量をしたという船越英二の演技が素晴らしい。

 確かにすさまじい映画で、戦争の経験がわりと身近なものではある時代にしか作れなかったものであるような気がする。映画にたずさわる誰もが戦争を経験し、それを表現したい欲望に駆られている。そんな雰囲気が伝わってくるような作品である。
 しかし、今見れば手放しで賞賛できるような内容ではないことも事実。どこまでが事実でどこまでがフィクションなのかという問題ではなく、ひとつの戦争をこのように描くことによって伝わってしまうものは何なのかという問題。この映画は「人食い」というショッキングな題材を扱っているわけだが、その描き方が何となく薄い気がする。人を「人食い」に駆り立てるもの、「人食い」によって人はどう変わってしまうのか、そのあたりがあまり見えてこない。そこが見えてこないとこの映画の主旨も見えてこない。そんな気がしてしまう。途中でひとりの気が狂った将校が登場する。その存在は「人を食う=狂う」という単純な因果関係を想定してはいないだろうか。私が問題にしたいのは「人を食うことでなぜ人間は狂うのか」という部分である。それはあくまで私の興味ではあるが、ただ「人を食う=狂う」という等式を提示するだけでは説得力がないし、インパクト以外の何かを与えることはできないと思う。この映画からたち現れてくるのは結局のところ「人は食うな」というメッセージであり、そんなことは分かっているといいたくなる。私にとって問題は「なぜ人を食ってはいけないのか」ということであり、それを分かりきったこととして片付けてしまうのは納得がいかない。もちろんこの映画は極限状態にある人々を描くことで、「人を食うこと」に対する葛藤を描き、「なぜ」を考える材料にはなる。しかし、その「なぜ」の答えへと至る路のすべてが見ている側に任されていて、この映画自体はその「なぜ」の答えを出そうとしていない。その答えを提示する必要はもちろんないけれど、その「なぜ」を問題化するぐらいはしてもよかったと思う。
 なんだか難しい話になってしまいましたが、こういうとことんシリアスな映画をみる場合には仕方のないこと。船越英二もいつもの女ったらし役とはまったく違う役を、素晴らしく演じている。やっぱりこの人はすごい役者だったのね。セリフは棒読みだけど、そういう味なんだと思う。

DEAD OR ALIVE FINAL

2001年,日本,90分
監督:三池崇史
脚本:石川均、龍一郎、鴨義信
撮影:田中一成
音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔、竹内力、テレンス・イン、ジョシー・ホー

 時は西暦2346年、荒野に囲まれた国際都市横浜では人口抑制のため、不妊化薬が強制投与されていた。その政策を推し進めるのは中国系の市長ウー。しかし一部の人々はその政策に反対し、投薬を拒否していた。そんな市の警察のひとりホンダがひとりの少年を追い詰めたとき、人間とは思えない動きをするひとりの男リョウがあらわれた。
 DOAシリーズの完結編はSF。ジャッキー・チェン事務所の全面協力で複数の言語が飛び交う国際的な作品になった。アクションも香港アクションを採用。

 DOAシリーズは過剰であることによって笑いを生み出してきた。もちろんその最高のものは1作目のラストだけれど、それに代表される非人間的なまでの過剰さというのが生命線である。この3作目は2作目に比べて救われている。しかし、この作品はまじめな中に存在する過剰さという笑いではなく、基本的に過剰である。だから、これは笑えるアクション映画ではなくて、アクションを基本としたコメディ映画であると言えるだろう。2作目ではアクションだかコメディだかわからない中途半端な作品で、消化不良でしたが、この3作目では完全にコメディ化してしまうことによってシリーズとしての収拾も何とかつけられたと言うことができるだろう。
 だからアクションとしてもパロディ的な要素が多い。いわゆる「マトリックス後」のアクションの安っぽいコピーを提示することでそれをパロディ化するという方法。そんな方法がとられています。意図的に安っぽいコピーを作ることでその傾向を茶化すという感じ。だからワイヤーアクションも相当しょぼい。昨日の「最終絶叫計画」に共通するようなパロディ傾向があると思います。
 さて、他に言うことといえば、複数の言語が登場することでしょうか。世界が国際化されれば一つの場所で複数の言語が存在することは容易に想像できることで、その間でのコミュニケーションというのがどのように成立するのかというのもなかなか興味深いところではあります。基本的にはそこにデュスコミュニケーションが存在しそうですが、この映画では互いに異なった言葉を話していながらコミュニケーションが成立している。これはかなり不思議です。ちょっと不自然です。これを見ながら同じく哀川翔が複数言語状況を体験する映画「RUSH!」を思い出しました。それと比べると、この映画のコミュニケーション状況は不自然で、なじめない、腑に落ちない感があります。せっかく複数の言語を使っているのにその意味がない。それなら全部日本語でもよかったんじゃないかと思う。そのあたりも考えたんだろうけれど、いまひとつ実を結ばなかったというところ。
 ということで、これでシリーズ終わりでよかったよ。という感じです。オチもまあまあだし。

最終絶叫計画

Scary Movie
2000年,アメリカ,88分
監督:キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズ
脚本:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、バディ・ジョンソン、フィル・ボーマン、ジェイソン・フリードバーグ、アーロン・セルツァー
撮影:フランシス・ケニー
音楽:デヴィッド・キタイ
出演:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、アンナ・ファリス、チャリ・オテリ

 コープス高校でひとりの生徒が殺される。そして、それは連続殺人事件へと発展していく…
 「スクリーム」をパロディ化し、そこに様々な映画のパロディを加えたいかにもアメリカ的なパロディ映画。このジャンルの作品の中ではかなり面白い方だとは思いますが、いかんせん日本ではパロディ自体の受けが悪いのでこの作品もいまひとつ人気は出なかった。
 個人的にはそんなに悪くないと思います。

 本当に単純なネタの集積で映画を作る。ホントにほんとーに単純なネタ。これは要するに下手な鉄砲も数うちゃあたる方式で、どれかがヒットしてくれればいい。見ている人のそれぞれがどこかで笑ってくれればいい。そんなやり方。映画のパロディはもとの映画を見ていないと笑えない。だから、映画のパロディをやるときはこういう下手な鉄砲も…方式にするのは間違っていない。しかし、この方式で多くの映画が失敗し、わずかな映画が成功してきた。それでも作られつづけるのはアメリカ人が映画が好きでパロディが好きだから。この映画の鉄砲はそれほど下手でもなかったらしい。
 日本の映画環境の中で見ると、ちょっと分かりずらいところも多い。最大の見せ場と思われる「マトリックス」のところがいまいち。笑えるといえばそのショボサくらい。ショボサで笑いをとるのはパロディとしてはいまひとつな気がする。それに対して「ブレアウィッチ」のところはかなり好き。入りの部分もさりげなくていいし、鼻水だらだらも相当すごい。個人的にはここが一番のヒット。左膝貫通くらい(どのくらい?)のヒットでした。あとはらりってるところくらいかな。
 まあ、あとはぼちぼちね。オチはいまいちでしたが、一応あったので安心。私は落ちのないコメディはなんだか気に入らなくて、いつもオチを気にしてしまう。やはりコメディは笑って終わりたいというのもあるし、一番面白いネタを最後にもってくるもんだろうという期待もある。このオチはインパクトはまあまああるけれど、映画をまとめるものではない、突発的なもの。だから印象は弱いし、笑いも弱い。新作もなかなか見ようとは思えない。

フェリックスとローラ

Felix et Lola
2000年,フランス,89分
監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
音楽:エドゥアルド・ドゥボア
出演:シャルロット・ゲンズブール、フィリップ・トレトン、アラン・バシュング、フィリップ・ドゥ・ジャネラン

 移動遊園地でバンパーカーの小屋のオーナーのフェリックスはいつものように窓口に座ってチケットを売っていた。そんな彼の目に寂しげな顔でバンパーカーに乗りつづける女を目に留めた。そのときは女を見失ってしまったフェリックスだったが、その夜カフェで見かけた彼女に声をかけると彼女は「私を雇ってくれない?」とフェリックスに聞くのだった。
 ルコントお得意のラブ・ストーリーちょっとサスペンス仕立て。舞台装置も物語りもいかにもルコントらしい感じ。「橋の上の娘」でも組んだドルージュのカメラがかなりいいです。

 やはりまずひきつけられるのはストーリー。フェリックスとローラの駆け引きというと御幣があるかもしれないので、関係が面白い。全体をサスペンス調にしてローラを謎めいた女にしたことで、見ている側にもその関係性が読み解けないようになっているのでかなり集中してみることができる。だからかなり短く感じられる。私の体感では75分くらいでした。そうして集中してみれば、2人ともにぐっと入り込めるので、最後の映画的な裏切りも納得してみることができる。別に映画としてつじつまが合わなくたって、そんなものはどうにでもなると思う。そしてこの物語のその後ふたりはどうなるのか、見終わった後もつい考えてしまう。見終わった後でもその映画のことを考えられる映画は素敵だと思う。
 ということですが、見ればそれぞれ考えることがあるだろうと思うので、ここは言葉すくなに終えておきます。それよりもいうべきだと思うのは、カメラマンのドルージュの力量。多分まだ若いカメラマンで、はじめて見たのですが、かなりセンスを感じます。この映画はかなりズームが行ったり来たりするんですが、そのズームへのこだわりというか、そこの「技」に感服。
 というのも、映画を見ながらずっと気になったのは、そのズームがたまに引っかかること。つまり、ズームする速度が一定ではなく、最後に急に早くなったり、途中で遅くなったりするということ。こういうことは素人のホームビデオでもない限りなかなか見られないものなので、見た瞬間はかなりの違和感を感じます。しかしこれはもちろん作為的なものでしょう。違和感を感じると人間はっと立ち止まるもので、この立ち止まりは映画に対する注意が再び呼び覚まさせます。こういうのはなかなかできそうでできない。やろうと思ってもうまくいかない。このカメラマンも失敗してしまったらどうしようもない作品になってしまう恐れも孕んでいると思いますが、この作品では成功しています。
 そして、そんな違和感になれつつある頃、とてもスムーズなピン送りがあったりします。ピン送りというのはピントをひとつのものから別のものに送るということ(つまり、たとえば遠くのものにあっていたピントを近くのものに移すということ)ですが、終盤で画面の手前にあるZUCCA のプレートから奥にいるローラの顔へカメラがパン(ヨコ移動)しながらピントが送られます。この画はなかなかきれいでありました。
 こんな微妙な変化が映画を見ている私たちの心理をコントロールしているような気がします。その変化に対して意識的であろうと無意識であろうとその影響は受けていると思います。そんな細かい部分を見るものまた愉し。

冒険者たち

Les Aventuriers
1967年,フランス,110分
監督:ロベール・アンリコ
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョヴァンニ、ピエール・ペリグリ
撮影:ジャン・ボフェティ
音楽:フランソワ・ド・ルーべ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス

 飛行機乗りのマヌーとレーシングカーに熱中するローラン。2人は大の親友で、いつもローランの家のガレージに入り浸る。マヌーは頼まれた仕事で凱旋門を飛行機でくぐるという計画を立てていたが、失敗し免許停止に。ローランも開発していた車が爆発し無一文になってしまった。そんな2人にコンゴの近海に宝が沈んでいるという話が転がり込んで…
 2人の男とひとりの女。そんなフランス映画にありがちな設定ながら、とても繊細で爽やかなドラマ。とてもソフトないい雰囲気を持つ映画。

 フランス映画はかくありなむ。ちょっとまえまでフランス映画といえばこんな感じでした。美男美女に海に水着に… そしてこの映画はそんなフランス映画らしいフランス映画としての完成度は高い。2人の男とひとりの女の関係を描くという、ある意味古典的な題材をプロットの中心には据えずにさらりと描く。本当はそれこそが映画の最大のテーマであるかもしれないけれど、あくまで控えめにという姿勢がいい。その抑えた感じがハリウッドと比較したときのフランス映画のイメージなのかもしれません。
 それにしても、映画にフランスらしさがあるというのは不思議なこと、同じように日本映画らしさとかハリウッド映画らしさとかイラン映画らしさとかがある。そのことは前々から疑問でした。この監督だって「よし!フランス映画らしい映画を撮るぞ!」と決めて映画を撮っているわけではないはず。意識しなくてもそういう映画になってしまう。逆にフランスでハリウッド映画っぽい映画を撮ろうとしたら「ハリウッド映画っぽく撮るぞ!」と決めないと撮れないような気がする。この映画の「国民性」というのはすごく不思議です。憶測では各国の映画製作のシステムが影響を与えているのでしょう。インディペンデントで作られた映画のレベルでは製作国による違いはそれほど明確ではない気がします。あるいはインディーズ系と呼ばれる監督達はそのレベルを超えようとしています。アキ・カウリスマキの映画は「日本映画」のジャンルに入ると誰かがどこかで言っていましたが、そういうようなこと。ジム・ジャームッシュだってアメリカ映画ではないと思う。しかし、そうして「国民性」のレベルを超えようとしているということは逆にまだ超えるべき境界が存在することを意味し、どこからそんなものが生まれるのかという疑問は解明されないのです。
 今日もまた話がすっかりそれてしまいましたが、これはなかなか興味深い問題だと思いませんか?
 さて、映画に話を戻しますがこの映画「冒険者たち」という題名のわりには、映画に起伏が少ない。比較的淡々と物語りは進み、いくつかの山場はあってもたたみかけるような勢いはない。といってもそれが悪いといっているわけではなくて、うららかな午後のひと時に何人かで紅茶でも飲みながら見たりするのには適していると思います。しかし、それは絶対にこの映画でなければいけないというのではなくて、そんなシチュエーションに適した一本でしかない。その「弱さ」が気になります。しかし、しかし、そういう映画も必要で、そういう映画をストックしておけば、たとえば気分に適したCDをかけるように、気分に合わせて映画を見るということができたりします。頭の中に入れておいて、友達がきたときにレンタルビデオ屋で借りてきたりするといいでしょう。

 それが「映画を日常に」ということ。かな。

花火降る夏

去年煙火特別多 
The Longest Summer
1998年,香港,128分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、ケネス・ビー
出演:トニー・ホー、サム・リー、チャン・サン、ジョー・クーク

 1997年、香港返還をまえに香港の英国軍部隊が解散した。そのひとりであったガーインも仕事を失い、仲間とぶらぶらするしかなかった。ガーインの両親はヤクザの子分をしている弟のシュンに仕事を世話してもらえという。最初は抵抗していたガーインだったが結局はヤクザのボスの運転手をすることにした。
 香港返還をまえにして香港の人々がどう生きていたのかを描くフルーツ・チャンの香港返還三部作の2作目。

 映画の最初の方から映像がとてもいい。いきなり、口に穴があいている少年が登場するというのもとてもいいし、そのあとガーインが登場してからも独特の構成美というか、不思議な感じの映像がいい。なんというか、非日常的な空間というか、普段はなかなか見れないものや視点を使うことはそれだけで映画を興味深いものにする。映画にはそういう魔術的な視線(マジカル・ビュー)を提供する一面があり、それが特撮やCGという工夫を生んできたと思います。この映画の場合は、(顔に穴は別にして)特別特殊な方法をとっているわけではないものの、路面電車の架線など、普段は注目しないような視点でものが語られている。そういう、日常生活では見慣れない視点が取り入れられているというのは映画を面白くひとつの要素なのだと実感しました。
 と、言ってもただそういう映像を流しているだけで言い訳もなく、それを効果的に、プロットに対する興味をかきたてるように配置されていることが重要で、「口に穴」はそんな典型的な例である。こういう効果的な映像が冒頭にあるだけで、映画にぐっと引き込まれる。
 そのプロットはというと、それほど格別にスリリングというわけではないが、人と人との関係性が興味深く、展開力がある。加えてガーインの「心」の展開がとても気になる。無表情で何を考えているのかわからないガーインがどのような心を抱えて行動しているのか? それは物語の終盤で一気にわかってくる。それを明かすことはしないけれど、その無表情な彼の抱える心の重みはそこに至る映画の全般に顕れている。その骨太な感じは映画を見ている時点でかなりよかったのだけれど、最後たたみかけるようにガーインの心の中が明らかになるとそれは圧倒的な力を持って迫ってきた。どんなふうにかは言いませんがね。
 もちろんガーイン単独ではなくて、他の“マッチ棒”たちとの関係性も興味深いものがあります。すれ違ったり、出会ったりしたときの一瞬の表情に表れる心のかけらがとてもうまく表現されていると思いました。
 フルーツ・チャンを見るならまずこれだ! と声高に言いましょう。

ぼんち

1960年,日本,105分
監督:市川崑
原作:山崎豊子
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、草笛光子、山田五十鈴、船越英二、京マチ子

 隠居暮らしの喜久治は腹違いの息子達のことを客に聞かれ、思い出話をはじめる。話の始まりは昭和の初め、喜久治が大阪は船場の足袋問屋のボンボンだった頃に遡る。当時はいいように放蕩を続けていた喜久治だったが、家の中で発言力を持つ母と祖母の勧めに従って結婚することにした。しかし、しきたりや世間体ばかりにこだわる母と祖母はそう簡単に嫁の弘子を受け入れはせず…
 市川崑に宮川一夫、市川雷蔵と当時脂の乗り切っていた人材が集まって作られた、ちょっと時代がかった題材をモダンな感じで撮った秀作。

 宮川一夫がカメラを持つと、どんな映画でもいい映画になってしまうのだろうか? 宮川一夫らしさというものが特段何かあるわけではないけれど、「いいな」と思ってスタッフを見ると、宮川一夫の名前があることが50年代、60年代の映画には多い。この映画でも映像の素晴らしさには感心するしかなく、昔の話が始まった冒頭の数シーンを見るだけで、それが自然で滑らかでありながらどの瞬間を切り取っても美しいことに気付く。その映像にどんな特徴があるとかいうことを説明できないのがつらいのですが、なんとなくのイメージとしては上からの視線が多く、色彩が鮮やかで、動きのある画面が多い。という感じでしょうか。あとは意外な視線から物を眺めることも多いかもしれません。この映画の冒頭で記憶に残っているのは、母と祖母の2人が足早に廊下を歩く足袋のアップと舟がフレームを横切るところを真上から撮ったところ。ともに日常的ではない視点で撮られているということがあるので、そう考えると、意外な視点というのも特徴のひとつなのかもしれません。
 まあしかし、宮川一夫が名カメラマンであるということはすでに定説となっているようなので私がことさらに言うまでもないかもしれません。そういうすごいカメラマンがいたんだよ。ということです。見たことない方はぜひ一度見てみてくださいな。
 映像の話が長くなってしまいましたが、ほかにこの映画で気に入ったところといえば、喜久治の人間性でしょうか。「ぼんち」という言葉の意味はいまひとつ分かりませんが、確かにボンボンではあるけど、ただの穀つぶしの放蕩息子ではないということでしょうか。とにかく、この喜久治という人のやさしさと自然に出てくる改革精神(というと大げさですが)は素晴らしいですね。こういう人になりたい、というと御幣があるかもしれませんが、こういう心のもちようで暮らしたい、と思った次第であります。

ロミオ・マスト・ダイ

Romeo Must Die
2000年,アメリカ,115分
監督:アンジェイ・バートコウィアク
原案:ミッチェル・カプナー
脚本:エリック・バーント、ジョン・ジャレル
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:スタンリー・クラーク、ティンバランド
出演:ジェット・リー、アリーヤ、イザイヤ・ワシントン、ラッセル・ウォン、DMX

 オークランドの湾岸地帯で派遣を争う黒人マフィアと中国系マフィア。中国系マフィアのボスの息子が黒人系のカジノに行った夜、何者かに殺された。ホンコンではボスのもう一人の息子が刑務所で服役していたが、弟が殺されたという知らせを受け、脱獄し、渡米する。
 カメラマンとして長いキャリアを持つバートコウィアクの初監督作品。ジェット・リーもハリウッドでの初主演作となった。やはりジェット・リーのアクション満載の作品。

 まあ、こんなもんといっては失礼ですが、予想の範囲を越えないというところ。やっぱりジェット・リーのアクションはかっこよく、キャラクターも好みだけれど、話の展開は早々に8割方読めてしまったし、レントゲン写真みたいなのもよくわからないし、ちょっとCGバレバレのところもあったし、ね。
 まあ、でもジェット・リーはやっぱりいいな。この映画で唯一「こいつはっ」と思ったのはジェット・リーがアリーヤを使ってアクションをするところ(結構最初の方)。なるほど、設定も面白いし、アクションとしてもなかなかのもの。アリーヤの壁走りもなかなかでした。結局ジェット・リーが出ると、ジェット・リーの映画になってしまうのか? この映画でアクションを担当しているのは、コーリイ・ユエン。最近このメルマガに3度目の登場、「キス・オブ・ザ・ドラゴン」でもジェット・リーとコンビを組み、ブルース・リーの娘シャノン・リー主演の「エンター・ザ・イーグル」の監督です。香港時代にも何度かジェット・リーと組んだことがあるようなので、それをパッケージでハリウッドにもってきたという感じなんでしょう。ジェット・リーの新作“The One”でも、アクションを担当しているようです。
 というジェット・リー映画でした。