フラワー・アイランド

Flower Island
2001年,韓国,126分
監督:ソン・イルゴン
脚本:ソン・イルゴン
撮影:キム・ミョンジョン
音楽:ノ・ヨンシム
出演:ソ・ジュヒ、イム・ユジン、キム・ヘナ

 映画は女性のモノローグから始まる。マチュピチュで神秘の力によって美しい声を得たという話をする。彼女を含めた心にキズを抱えた3人の女性達。その3人の女性達が偶然に出会い、「花島」という南の島に向かって旅をする。
 とにかく不思議な雰囲気を持つ映画。映像も、物語も、個々のエピソードもなんだか不思議。監督はこれが長編デビュー作となるソン・イルゴン。何でもカンヌ映画祭の短編コンペで賞をとっているらしい。

 不思議不思議。映画は不思議なくらいが面白いのでいいのですが、それにしても不思議。一番不思議なのは多用されるピントをずらした画面。ピントがボケたフレームに人が入ってきてピントがあったり、画面内でピントを送ったり(つまりひとつのものから別のものにピントを動かす)することは他の映画でもよく見るし、この映画でも最終的には何かにピントが合うのだけれど、ピントが合うまでの時間が異常に長い。最初はそのピンぼけ画面に疲れるけれど、人間なんでもなれるもので、その内気にならなくなってくるから不思議。確かにしっかりピントがあってはっきり見えるより、ピントがずれてぼんやりしていた方が美しく見える場合もあり、この映画でもそれを感じさせられはするけれど、ここまでこだわる理由はなんなのかとても不思議。
 映像の不思議さはそんなところとしても、物語も不思議。個人的には不思議な話は好きなのですが、残念なのはなんとなくファンタジックな方向に行ってしまったこと。不思議なものを不思議なものとして描くのではなくて、普通に描いているんだけど「よく考えてみると不思議だよね」みたいなものが好き。マジックリアリズムとでも言うようなもの。オクナムが「天使のともだち」といったとき、「天使のともだち?」と思ったけれど、それは特に不思議なことではなく当たり前のことのように流れていく。そんな感じ。そんな感じがもっと続いていればとてもよかったと思います。
 しかし、全体を通してみてみれば、なんとなくわけがわかったような気もしてくる。あるいは解釈を立ててみることはできる。ネタばれになってしまうので全部は言いませんが、途中で出てきた時点では理解できなかったシーンたちの始末がついたとき、何かがわかった気がしたのです。その分かってしまった気になってしまうのもあまり居心地がよくない。わけのわからない映画はわけのわからないまま、不思議さを残したままとどまっていてくれた方が気持ちよい。もっと不思議なままで終わってしまうことがたくさんあってもよかった。バスの運転手のようにわけのわからないまま物語から去っていってしまう人ばかりがたくさんいてもよかった。そう思います。

空の穴

2001年,日本,127分
監督:熊切和嘉
脚本:熊切和嘉、穐月彦
撮影:橋本清明
音楽:赤犬、松本章
出演:寺島進、菊地百合子、外波山文明、沢田俊輔

 北海道の寂れた道沿いにある薄汚れたドライブイン「空の穴」。そこに立ち寄った登と妙子のカップルだったが、2人の間はギクシャクし、妙子は近くのガソリンスタンドで置いてきぼりにされてしまう。一方、「空の穴」をやっているのは競馬好きの父と料理人の息子市夫。競馬を見に出かけると言って父親が出かけてしまった翌日、「空の穴」に再びやってきた無一文の妙子は食い逃げしようとするが市夫につかまってしまう。
 「鬼畜大宴会」でデビューした熊切和嘉の第2作。PFFのスカラシップ作品でもある。前作とは一転して激しさは影をひそめる。

 市夫のキャラクターの描き方がとてもいい。とっつきにくく、自分勝手で、近くにいたら多分イライラさせられる性格だけれど、その殻を破ったところには違うものがあるだろうと思わせる。でも、そもそもそんな殻を一体破ることができるのか?という疑問も浮かぶ。それは妙子によって徐々に開かれていくのだけれど、それは本当に開かれたのか?
 その市夫の「殻」を象徴的に示すのはジョギングだと私は思う。走るという行為は自分に閉じこもるのには最適だし、最初の朝、妙子に「ジョギングですか?」と聞かれて、「ううん、ただ走ってるだけ」と答えたのも面白いと同時に意味深である。走ること=閉じこもること。物語が進むに連れ、このジョギングのシーンは姿を消す。これはつまり市夫が殻から出てきたということなのだろう。と、いいたいが、実際は決して殻から出ることはなく、妙子を自分の殻に引き込もうとしているに過ぎない。世界に対して殻を開くのではなく、二人の殻を作ろうと試みる。そういう考え方に過ぎない。
 それが悪いといっているのではない。誰しも社会に対して壁を持っていなければならないし、親しい人はその壁の中に引き込みたいと思う。しかし同時に引き込むことに恐れも抱く。市夫と妙子は2人とも他人を自分の殻の中に引き込むことにしり込みしている。そんな2人の無意識の駆け引きが、最終的にはどうなったのか、実際のところはよくわからない。市夫は何かを得たのだろうけれど、一体に何を得たのだろうか? 再び走り始めた彼の殻は妙子と出会う前の殻とどう変わったのだろうか?
 です。尻切れトンボのようですが、これは哲学なので疑問符で終わらなければいけません(勝手なポリシー)。
 で、他に気づいたことといえば、ロングショットが美しい、ガソリンスタンドの夫婦はひどい、寺島進はやっぱり渋い/確かに人相は悪い。かな。

少年と砂漠のカフェ

Delbaran
2001年,イラン=日本,96分監督アボルファズル・ジャリリ脚本アボルファズル・ジャリリレサ・サベリ撮影モハマド・アフマディ出演キャイン・アリザデラハマトラー・エブラヒミホセイン・ハセミアン

 アフガン人の少年キャインは戦争が続くアフガニスタンを逃れ、イランの国境にきた。そこからカフェを営む老夫婦の下へと流れ着いた彼はそこで店の手伝いなどをしながら平和に過ごしていた。しかし、イランではアフガンからの不法入国者が問題となっており、そのカフェにも度々警察が出入りしていた…
 砂漠と少年というイラン映画のひとつの典型的なモチーフの中に、アフガニスタンという問題を編みこんだ作品。他にもいろいろと考えさせられることでしょう。

 荒野と少年、まさにジャリリらしく、イラン映画らしい始まり方。セリフも少なく、効果音もなく、淡々としている。構図はシンプルにして美しく、決して斬新ではないけれど、よく考えられている。人やものの配置の仕方、パッと挿入される静止画のような映像。それらの映像美はイラン映画にしかできない独特の美学だと思う。
 しかしそんなことばかり言っていてはイラン映画は皆同じということになってしまうので、この映画の何が独特かを考える。映像の面で気付いたことといえば、被写体がフレームアウトしない。この映画ではカメラが捕らえる中心的な被写体がフレームアウトすることはない。カットの切り替わりは被写体がまだ画面に残っている間に行われる。前を車が通過したりすることはあっても、中心的な被写体はフレームアウトしない。唯一といっていい例外は軍用トラックが何台か通り過ぎる場面で、3台か4台のトラックが画面の右から左へと消えてゆく。だからどうということもないですが、ちょっと小津が「画面を横切るなんてそんな下品なことできない」といっていたのを思い出しました。
 さて、この映画はかなり強いメッセージを持つ映画だと思いますが、アフガンを取り上げているからといって反戦ということではなくて、漠然とした愛のようなもの。それを敷衍させていけば反戦にもつながるというもの。
**注意**
 こういう結論じみた事を書いてしまうのはあまり好きではないのですが、これを書かずにこの作品を語ることはできんと思うので書いてしまいます。映画を先入観を持って見たくないという(まったくもっともな)意見の人はここから先は読まないでね。
**注意終わり**
 このセリフの少なさにもかかわらず、キャインと老夫婦の間の愛情というのが滲み出してくる。もちろん警察での場面などそれが明確に出てくる部分もあるけれど、ただおばあさんが窓から外を眺めているだけで、そこに何か愛情の視線のようなものを感じるのは不思議だ。そしてそのセリフの少なさは穏やかで、言葉なしでも通じ合う心というようなものを表現しているのだろう。その愛情はキャインと老夫婦に限らず通りすがりの人までも及ぶ。この映画の登場人物たちはちょっとしたけんかをしても次のシーンではすでに仲直りしている。
 この映画はこの愛情の由来をおそらく宗教に持ってきている。イランの人たちは宗教熱心な人が多く、この映画でも宗教的なシーンがでてくる(特に顕著なのは礼拝のシーンと結婚式のシーン)。同じ神を愛する者達が本当に仲違いなどできるわけはないと、監督は言いたいのではなかろうか。
 さらに、映画中の宗教儀式を行うのが主にアフガン人であることから、あえて深読みすれば、戦争によってムスリム同士が敵対することの無益さを主張していると読めなくもない。

メイド・イン・ホンコン

香港製造
1997年,香港,108分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:オー・シンプイ、ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン
出演:サム・リー、ネイキー・イム、ウェンバース・リー、エミィ・タン

 1997年、返還目前の香港の下町に母と2人で住む少年チャウ、学校にも行かず、悪がき仲間とバスケをし、少し頭のトロイ子分ロンと借金取り立ての手伝いをしている。ある日、借金を取り立てに行った家出であった娘ペンはなぜかチャウに好意をもち、次第に3人出会うようになった…
 香港を代表する若手監督の一人フルーツ・チャンの長編デビュー作。そのスタイリッシュな映像から第二のウォン・カーウァイとも言われた作品。

 オープニングから序盤いまひとつしっくり行かなかったのはフルーツ・チャン独特のリズムのせいだろう。ばっさりと切れて終わる断章の長さと、断章と断章の間のジャンプのアンバランス。このリズムがどうも体になじまない。
 しかし、途中のひとつのシーンでグット映画につかまれた。それはチャウが包丁を握ってトイレに入ったときに、別の少年が小便をする中年の男の腕をばっさりと(これも包丁で)切り落とす場面。このグロテスクな一瞬をさらりと見せたこのシーンにはっとする。このシーンは画面にインパクトがあるだけではなく、物語の展開にも主人公の気持ちにも大きなインパクトを与える。この大胆な転換点を大胆な映像で描ききったところがすごい。
 これですっかり映画になじみ、リズムにもなじみ、最後までつらつらと行くと、ラストまえのシークエンスにまた見せられる。ポケベルの呼び出しの声と氾濫する映像。フルーツ・チャンがウォン・カーウァイになぞらえられたのは、このあたりの映像のスタイリッシュさゆえだろう。しかしウォン・カーウァイの映像の独特さが主にクリストファー・ドイルのカメラワークによっていたのに対し、フルーツ・チャンのそれは編集のリズムによっていると思う。ひとつひとつの映像はそれほど新奇なものではないけれど、ここでも独特のリズムが存在し、それが新しさを感じさせるのだろう。この場面ではフラッシュバックとして一瞬挟まれる映像が非常に効果的で、そのフラッシュバックを見ることによって観衆が思い出させられるシーンの重なり合いが、観客の頭の中にさらに複雑な映像世界を作り出させているような気がした。フラッシュバックを見ることによって頭の中に蓄えられていた映像がどばっと出てくる感じ。そんな感じでした。

死んでしまったら私のことなんか誰も話さない

Nadie Hablara de Nosotras Cuando Hayamos Muerto
1995年,スペイン,104分
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス
撮影:パコ・フェメニア
音楽:ベルナルド・ボネッティ
出演:ヴィクトリア・アブリル、フェデリコ・ルッピ、ピラル・バルデム

 メキシコのとある場所で麻薬の取引が行われていた。その取引相手の金が贋金ばかりなことに気付いたマフィアは相手が警察であることを見破り、殺し合いに。そこに居合わせた売春婦のグロリアは警察の一人の勧めに従いそこにあったマフィアの裏金の世界中のありかをしるしたファイルを持って逃げ出したが、故郷のスペインへと送還されてしまった。
 複数のプロットが重なり合って重厚なドラマを作り出している秀作。単純なクライムアクションでもなく、ヒューマンドラマでもない生々しい映画。

 ひとつのドラマを作るのに、登場人物に複数の物語を用意すると話は面白くなる。しかし、それらがうまく絡まないと全体として散漫になってしまう。この映画では主人公のグロリアに関して言えば、その複数の物語がうまく絡み合って面白いドラマを生み出している。男の欲望の目にさらされることや、お酒への渇望を克服できないこと。だらしなさややさしさといったもの。様々なことがらが重層的に積み重なってキャラクターが出来上がっているように見える。酔っ払ってスーパーで買い物をするシーンは素晴らしく、そのときのグロリアの表情を見、その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってくる。
 もう一人、マフィアの側の男もいい物語を持っている。だから、この追う男と追われる女の物語はそのおっかけっこ自体が重要なのではなくて、追う男と追われる女それぞれの物語が重要なのである。結局のところその2人のそれぞれがどうなるのかということが興味の対象になるのであって、本来プロットの中心に置かれるべきファイルのことなんてどうでもよくなる。
 私はグロリアが拷問に耐える姿を見て、そのことを思いました。物語の展開がどうなるかよりも、それぞれの人間がどうするのかが重要なんだと。だから、犯罪映画というか、アクション/サスペンスとして見てしまうとちっとも面白くない。のろのろしてて、派手なアクションもないし、すぐわき道にそれるし。
 でも、それぞれの人間についてのドラマとしてみればかなり面白く、深みがあるのです。だからこの映画はいい映画だと断言します。

さて、枝葉のことが2つほど。
 この映画の題名は原題ではおそらく「私」ではなく「私たち」になっていると思います。英語題でもそうなっているので、訳し間違いではなく、なんか理由があってのことと思いますが、私としては「私たち」の方が意味がとおるような気がします。語呂が悪いのかなぁ? そんなことないよな。
 2つめ、この監督さんはこの映画が初監督作品ですが、私は結構期待できる気がしたので、いろいろ調べたところ、いまペネロペ・クルス主演で映画を撮っているらしい。しかもスペインにとどまっているらしいので、期待できるかもしれません。スペインといえば、ビクトル・エリセの寡作ぶりが思い浮かびますが、この監督もそういう人なのかしら。

新生人 Mr.アンドロイド

Making Mr.Right
1987年,アメリカ,94分
監督:スーザン・シーデルマン
脚本:フロイド・バイヤーズ、ローリー・フランク
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:チャズ・ジャンケル
出演:ジョン・マルコヴィッチ、アン・マグナソン、ベン・マスターズ

 広告会社のフランキーは恋人でクライアントのスティーヴと喧嘩をし、彼の選挙キャンペーンの仕事をおりてしまった。次に彼女に入ってきた仕事は宇宙飛行用に開発されたアンドロイドのユリシーズの広告。知名度を上げて政府からの補助金を確保するという仕事だった。彼女はユリシーズに礼儀作法が足りないといい、自らそのコーチをすることになったが…
 ジョン・マルコヴィッチが芸達者らしく二役を演じる、オーソドックスなコメディ。音楽もファッションも80年代らしい時代性が出ていていい。

 この当時、ロボットやアンドロイドの技術がどれだけ進んでいたのかは分からないので、この映画の発想が新しいものだったのかどうなのかは分かりませんが、いま見れば特に目新しさもなく、ありがちな話という気がしてしまう。ロボットに代表される「もの」が人間に恋をする。それは大体、生命となってはじめて出会った異性に恋をしてしまうという話が多いですね。おそらく同じ頃の映画だったと思いますが、「マネキン」とか「スプラッシュ」とか(スプラッシュは生きものだけど)そんなお話。
 と考えると、こういう話には何らかの原物語のようなものがあるのではないかと考えてしまいます。それはひとつの明確な物語ではなくて、イメージのようなものでもいい。「恋」というものに対する神話じみた物語。そんなものが存在しているような気がします。一目惚れの神秘というかそんなもの。しかも、いまあげた2つも含めて3つの話すべてがコメディというのもまた示唆的なような気もします。そのような神話じみた物語が存在しながら、現代はそれをシニカルに見ているという解釈。そんな解釈ができるかもしれない。
 どうも映画がオーソドックスで面白さも並という映画になると、こういうことを書いてしまうようです。こんな解釈の仕方はあくまで見る側の勝手で、作り手の意識には上っていないのでしょう。そういう無意識に従ってしまうパターンのようなもの、だからこそ「神話じみた」ということになる。そのパターンをいかに崩していくのかが面白さのポイントになるのかもしれない。見る側にも存在する無意識のパターンを以下に裏切るか、ということですね。
 それで、結局何がいいたいのかといえば、この映画はありがちなパターンの物語を普通に撮ってしまったので、普通の映画になっているということです。面白くないわけじゃないけれど、特にどこが面白いというわけでもない。
 オチも読めたしね。

リトル・チュン

細路祥
1999年,香港,115分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、チュ・ヒンチョン
出演:ユイ・ユエミン、ワク・ワイファン、ゲイリー・ライ

 中国に返還される直前の香港、街の一角にある料理屋の息子チュンは香港の人気歌手ブラザー・チュンと同じ名前であることからリトル・チュンと呼ばれていた。父の商売や母の賭け事を子供の頃から見ていたチュンは少年ながらにお金儲けのことを考えていた。そんな中の店にある日、働きたいとファンという少女が訪ねてきた。「子供は雇えない」とチュンの父は追い返すが、チュンはその子に興味を持った。
 フルーツ・チャンの香港返還三部作の3作目、子供の視点から香港という街の多様性や活気、返還が持つ意味などを描いている。

 全体の印象としては、断片ごとのクオリティは高いけれど、まとまりがいまいちというところでしょうか。話にいろいろな焦点があって、話が散漫になりすぎた感があります。おばあちゃんとブラザー・チュンの話とか、ファンの話とか、デヴィッド兄弟の話とか、どれも面白そうな話なのに、なんだか中途半端で終わってしまっている。しかし、1本に話を絞ってしまうのもまた面白くなくなってしまうような気がするので、なかなか難しいところ。すべてをぐんぐん掘り下げて、4時間くらいの映画にしてくれていたら個人的にはうれしいですが…
 話の散漫さというのはリズムの悪さでもあると思う。先の展開への興味をかきたてながら次へ次へと進んでいくというリズムがこの映画にはないのではないかと。ひとつのまとまりがあったら、そこで一度終わって次のまとまりが始まる。それが単調なリズムで連なっていく。そうなるとそのひとつひとつがうまくまとまっていても飽きずに見るのは難しい。注意深く、ひとつひとつのシーンを吟味してみれば面白いところも見出せるのですが、ずうっと集中してみるというのはなかなか大変ですからね。
 でもこの映画もバイオリズムがあえば面白く見れると思うんですよね。映画は一期一会、見る環境や体調で違って見えてくるもの。私が退屈してしまったのはバイオリズムがあっていなかったせいかもしれない。もう一度見れば違う風に見えてきそうな映画ではあります。

秋日和

1960年,日本,128分
監督:小津安二郎
原作:里見弴
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:原節子、司葉子、岡田茉莉子、佐分利信、笠智衆

 旧友三輪の7回忌に集まった3人の友人と残された三輪の妻子は寺を後にし、料理屋で語る。その席で三輪の娘百合子のお婿さんを世話しようと話になるが、話はなかなかうまく進まず…
 小津は60年代に入っても親子の物語を撮る。原節子が娘役から母親役に回り、全体にモダンな感じになってはいるものの、本質的な小津らしさは変わらず、その混ざり加減がとても心地よい感じ。

 60年代、オフィス街、銀座、BG(ビジネス・ガール)とくると、どうしても増村保造の世界を思い浮かべてしまいますが、これは小津。なので、物語の展開もやはり小津。増村ならば、秋子を巡ってドロドロとしたり、いろいろあると思うのですが、小津なので最終的に母娘の物語になります。そして相変わらずカメラ目線で正面を向き、独特の節回しで「ねぇ~」と言う。
 小津の「ねぇ~」が好き。小津映画の女性たちは「そうよ」と「ねぇ~」だけでいろいろなことを語る。大体は女性同士が視線を交わしあいながら、なんだか企み気に「そうよ」… 間 …「ねぇ~」という。ついつい微笑んでしまうその光景が好き。小津映画を巨匠巨匠と構えて見るよりも、「ねぇ~」といいながら微笑んで見たい。この映画はそんな見方に最適です。
 この映画を見ながら60年代に暮らしたいと思いました。まあ無理ですが。増村を見ていてもそうですが、モーレツな生活の中に何か味わいのようなものがあるとは思いませんか? 何かかが新しくなっていく時期というか、古いものと新しいものが混在している時期という感じ。そして娯楽の中心は映画で毎週毎週こんな映画が封切られる。少々不便でもそんな生活って素敵だと思いますね。
 だんだん映画の感想ではなくなってきていますが、気にしない。私は普段歩くのが好きで、ふらふらと東京の町をさまよっているのですが、大通りを歩くのは楽しくない。それよりも細い道をふらふら歩く。それでも東京はどの道もしっかりと舗装され、つまらない。60年代の映像を見ていると、銀座ですらまだ舗装されていないところがあったりする。そんな道を歩くのは快適ではないかもしれないけれど楽しいことのような気がします。これは生きたことがない時代へのノスタルジー。現実は違うと思うけれどノスタルジックに見ることがとても楽しいのでいいのです。
 そうなったら、このメルマガもガリ版で作るしかないかしら。それもいいかもね。

春のソナタ

Conte de Printenmpsr
1989年,フランス,107分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リック・パジェス
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル

 ジャンヌは研修のためパリにやってきた従妹に部屋を貸し、自分は出張中の彼氏のアパートで過ごしていた。従妹が帰るはずの日、従妹の部屋に行くと従妹とその彼氏がまだ家にいた。従妹の滞在が伸び、ジャンヌは彼の部屋に戻ることに。その夜、気が進まない友だちのパーティーでに行ったジャンヌはそこでナターシャという少女に出会い、その娘の家に泊まることになった…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の第一作。恋愛を巡る心理の行き来が興味深く、少々哲学的というフランス映画らしい物語。

 なんてことはないはないですが、考えていることをすぐに言葉にして表現するというのがなんとなくフランス映画っぽい。それも感情的な言葉ではなく、思弁的な言葉をさらりといってしまう。それが恋愛に関わることであってもそう。この映画も物語を進めていく中心にあるのは会話であって、登場人物たちが発する言葉である。
 言葉と映画の関係について考えてみる。映画はやはり映像の芸術で、エンターテイメントだから、言葉は不可欠な要素ではないと思う。だからサイレント映画だって面白い。しかし、このように言葉が重要な要素として使われるのも面白い。それはヌーヴェル・ヴァーグに特徴的な話なのだろうか?(不勉強ですみません)確かにゴダールも言葉に非常に意識的な作家だし、ヌーヴェル・ヴァーグからなんだろうなという気もする。
 言葉を使うことで映画は曖昧になる。受け手に任される要素が大きくなる。それは意味の伝わり方が映像よりも曖昧だから。受け手の素養によって伝わり方が大きく違ってくる。たとえばこの映画ででてきた「超越的と超越論的」というものの違いを理解できる人がどれだけいるのか? わからないものとして無視するか、当たり前のように理解するか、中途半端に理解していてそこでつまずくか。私はそこでつまずいて映画においていかれてしまいましたが、それで映画の見え方が違ってくると思う。
 映像だってもちろん受け手によって捉え方は違うのだけれど、イメージのままで植え付けられる分、個人差が少ない気がする(あくまで気がするだけ)。なので、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画のちょっと難しいものというイメージもまんざら間違っていない気がする。それは見る人によって見え方が違ってくるもの、イコール定まった答えがないものということ。本当はその方が自由でやさしい映画であると私は思うのですが。

彼女を見ればわかること

Things You Can Tell Just By Looking At Her
1999年,アメリカ,110分
監督:ロドリゴ・ガルシア
脚本:ロドリゴ・ガルシア
撮影:エマニュエル・ルベッキ
出演:グレン・クローズ、ホリー・ハンター、キャシー・ベイカー、カリスタ・フロックハート、キャメロン・ディアス

 年老いた母親を介護しながら仕事をする医師のキーン、15歳になる一人息子と二人で暮らすローズ、独身を貫きながら不倫相手の子供ができしまった銀行の支店長、瀕死の恋人と暮らすレズビアンの占い師、盲目の妹と二人で暮らす女刑事。
 孤独に生活する5人の女たちを描いたオムニバス。監督のロゴリゴ・ガルシアはノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの息子で、これまでカメラマン/批評家として活躍してきた。これが初の脚本・監督作品。

 孤独である度合い、それは人との物理的な距離ではなくて、心理的な距離で測るしかない。いくら近くに恋人がいても、その気持ちが近くになければ、孤独が癒されることはない。孤独であることが常に負の力を持っているわけではなく、この映画の主人公達はその孤独を嫌がっているわけではない。むしろ自分から選んだという面ももっている。しかし、その孤独な状態はふとした機会に負のパワーを送ってくる。この映画はそのような瞬間を捉え、その孤独感が宿る瞬間の表情をつかまえる。
 この映画は非常に巧妙に構成されている。オムニバスのそれぞれが絡み合ってひとつの話としてまとまる、あるいはなんとなくつながった話になるという方法。それ自体は珍しいものではないけれど、この映画のつなぎ方はうまいと思う。それぞれの主要な登場人物が他のエピソードにも登場するというのはよくある方法だが、ポイントはそれぞれのエピソードをつなぐ一人の人物を登場させるということ。監督のロゴリゴ・ガルシアは「フォー・ルームス」の1編のカメラマンをやっているので、そこからヒントを得たのかもしれない。この映画ですべてのエピソードをつなぐのは、ネイティヴ系(あるいはラテン・アメリカ系)の一人の女性。どのエピソードでも、沈鬱な表情に孤独を湛えて、1カットくらいに登場する(最後は別)。どうしても気付かざるを得ないこの女性の存在が映画をうまくまとめ、全体の「孤独」というテーマを浮かび上がらせる。その使い方はとてもうまい。
 その孤独感を浮き上がらせるためかどうかわからないけれど、多用されるクロース・アップはちょっと辟易。いつも映画館は前のほうに座るせいかもしれないけれど、クロース・アップの多い映画はあまり好きではない。クロース・アップのような強い画面はたまに出てくるからこそインパクトがあり、効果的なのであって、何度もでてきてしまうとあまり意味がないと思ってしまう。
 細かいところにも配慮が行き届いていい。小さく引っかかるところがたくさんあると、映画は楽しくなります。(盲目の)キャメロン・ディアスが腕時計をしているだけで、その背景にあるいろいろなことを想像できる。そんな小さな引っ掛かりもあって、なかなかよい映画でした。