夏物語

Conte D’Ete
1996年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:フィリップ・エデル、セバスチャン・エルムス
出演:メルヴィル・プポー、アマンダ・ラングレ、オーレリア・ノラン、グウェナウェル・シモン

 ガスパールはバカンスを過ごすため、友人の家を借りてディナールへやってきた。街をぶらぶらとしてクレープ屋へよった彼は翌日一人海へ行き、そのクレープ屋でバイトをする女の子と出会い、仲良くなる。どことなく人待ち顔のガスパールは実は思いを寄せるガールフレンドを探していて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」シリーズの3作目。1人の男と3人の女を描いたロメールらしいラブ・ストーリー。

 エリック・ロメールの映画というと、私ははずれはないけれど大当りもないというイメージがあります。しかしそんな中でこの映画はかなり好きなもの。四季の中でも一番でしょう。
 ロメールの作品は遠目のショットが多い。大体が人物の全身がすっぽり入る感じ。だから画面の大部分を占めるのは風景ということになり、それがロメールらしい味わいとなる。この映画でも、印象に残るのは、海・空・浜・山、人物よりは風景だと思う。それがロメールの爽やかさ、おしゃれな感じにつながっているのでしょう。
 さて、そんなことよりもこの映画が素晴らしいのはその詩情。どうにも優柔不断な男であるガスパールのキャラクターは男なら誰もがどこか引っかかる自己像だと思う。女性でもそんな男にいらいらしつつ、その恋愛劇にあこがれてしまうようなそんなみずみずしさ。誰もが自分の体験と重ね合わせることができるような物語。そんな憧れとか思い出とかそんな形で自分にひきつけることができる物語であること、それが素晴らしいところ。
 多くの映画はそこに没入することによって体験するものだけれど、ロメールの映画は逆に映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって経験できるもの。そのような映画が与えるのは非日常的な経験によって日常生活を乗り越えることではなく、直接的に自分の日常に何かを加えること。自分自身を(無意識にでも)内省することによって、何らかの活力とか意欲とかそのような動力が生み出されること。そのようなことだと思います。多分。なんとなく見ると元気になる気がします。

ぼくは歩いてゆく

Don
1998年,イラン,90分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:ファルザッド・ジョダット
出演:ファルハード・バハルマンド、バフティアル・バハ、ファルザネー・ハリリ

 9歳のファルハードは戦争中に生まれ、両親が届をしなかったために戸籍がない。しかも父親は麻薬におぼれ、服役を繰り返す。学校に通うこともできないファルハードはもぐりで雇ってくれる働き口を探して歩き回る。ただ一枚の身分証のために雇ってもらえないファルハード、それでも彼は歩きつづける。
 ジャリリが街の少年の経験を少年自身によって再現させたフィルム。いまだ混迷するイランの社会を克明に描く。

 少年の経験を少年自身によって再現したことの利点は、ファルハード少年が過去を追体験することによってよみがえってくる感情のリアルさ。特に表情に表れる彼の不安感がリアルである。
 社会的な問題を少年の視点から見るというモチーフはイラン映画では定番。したがってこのモチーフで秀逸な映画を作るのは難しい。どれも良質ではあるけれど、「これはすごい!」と驚嘆できるものはなかなかないのです。同じモチーフを繰り返すことからくる弊害。なんだか区別がつかなくなってくる感じ、それがこの映画にもあります。
 ということなので、モチーフから離れてテーマ的なものへと話を進めましょう。私がこの映画を見て一番考えたことは「嘘」ということ。少年の口をつく数々の嘘、嘘をついてきたがために上塗りしなければならないさらなる嘘、理由はないけれど反射的についてしまう嘘、それらの無数の嘘が果たして本当なのか嘘なのか最初はわからない、しかし映画を見進めるに連れて、「嘘なんだろうな~」と断定的に見てしまう自分がいる。そんな自分も怖いし、少年にそうやって嘘をつかせてしまう社会も怖い。その嘘をつくときの少年の表情は今にも泣き出しそうで、その表情が目に焼きつきます。
 そのようにして少年の感情に誘導されたわれわれは大人たちの理不尽さに怒りを覚え、少年の当惑と憤りを肌で感じることができる。

天井桟敷の人々

Les Enfants du Paradis
1945年,フランス,195分
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
出演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、ピエール・ブラッスール

 19世紀のパリ、犯罪大通りと呼ばれる通りは今日も人で賑わう。その通りにある劇場に役者になりたいといってやってきた男パトリック、その彼が通りで目を止めた美女ガランス、その劇場の看板役者の息子バチスト、女優のナタリー、ガランスの友人で犯罪を繰り返しながらも詩人を自称するラスネールといった人々が繰り広げる壮大なドラマ。
 物語は2幕からなり、1部が犯罪大通り、2部が白い男と題された。プレヴェールの脚本は非の打ち所がなく、カルネの造り方にも隙がない。まさにフランス映画史上指折りの名作。

 3時間以上の映画ほぼ全編にわたって、あきさせることなく見せつづける。それはこの映画のテンポがとても心地いいから。第2部の途中で少しスローダウンしてしまうが、そこでようやくこの映画のスピード感に気づく。長い映画にもかかわらず、一般的なドラマよりもテンポが速い。つまり量的には普通の2時間の映画の3倍くらいの量がある(概念的な量ですが)。それでも辟易せずに、勢いを保ったまま見られるのは、そのプロットの巧妙さ。常に見る側に様々な疑問を浮かべさせたまま次々と物語を展開していく。実に巧妙な脚本と周到な映像化のなせる技。
 劇中劇が非常に面白いというのも素晴らしい。なんとなく映画の劇中劇というと、おざなりで退屈なものが多く、時間も大体短い。しかしこの映画の劇中劇はすごく面白い。映画の中では一部分しか見られないのが残念なくらい面白い。特にバチストの演じる劇は途中で途絶えてしまったときには「終わっちゃうの?」と思ってしまうほど魅力的だった。
 しかし、なんといっても4人4様のガランスへの想い、彼らが抱える想いを描くその繊細さ、そのロマンティシズムはいまだどの映画にも乗り越えられていないのではないかと思う。もちろん中心となるのはバチストとパトリックで、他の2人は障害として作られたようなものだけれど、それでもそこには一種のロマンティシズムがある。4つのロマンティシズムの形が衝突し、それを受け止める女は何を想うのか。
 個人的に少々不満だったのは、第2部途中のスローダウンと、ガランスの配役ですかね。ガランスは魅力的だけれど、絶世の美女というわけではなく(目じりの小皺も目立つし)、ナタリーといい勝負くらいだと思う。好みの問題ですが、そこに映画と一体化するのを邪魔するちょっとした要素がありました。
 そんなことはいってもやはり名作中の名作であることに変わりはなく、何度見てもいいものです。5時間くらいのディレクターズカット版とか、あるわけないけどあったらいいななどと思ってしまいます。淀みなく、美しい。それが永遠に続けばいいのにと思う映画。そんな映画にはなかなか出会えません。

麦秋

1951年,日本,124分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:原節子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子

 紀子は両親と兄夫婦とその2人の息子と仲睦まじく暮らし、東京で重役秘書の仕事もしていた。しかしもう28歳、まわりは早く結婚をと考える。学生時代からの親友で同じく未婚のアヤと嫁に行った友達をいじめたりもしているが、本心はどうだかわからない。
 小津らしく家族を中心に、日常生活の1ページを静かに切り取った作品。晩年というほどではないが、かなり後期の作品なので、スタイルも固まり、いわゆる小津らしい作品となっている。

 小津映画の特徴といわれるものがもらさず見られる。ローアングル、固定カメラ、表情を正面から捉えての切り返し、などなど。もちろん映画からこれらの特徴が分析されたのだから、そのような特徴が見られるのは当然なのだが、分析の結果を知って映画を見るわれわれはそのことに目をやってしまいがちだ。
 しかし、そんな分析的な目で映画を見てしまうとつまらない。特に小津の映画は分析的な目で見ると、どれも代わりばえがせず、型にはまっていて退屈なものとなりかねない。しかし、小津が偉大なのはそのようなスタイルを作り出したことであり、そのスタイルは驚嘆に値するものだ。小津のスタイルとはあくまでも、よりよい描写のために作り上げられてきたものであり、まずスタイルありきではない。笠智衆の寂しさを捉えるのに、右斜め後ろからローアングルで撮るのが一番いいと思うからこそローアングルで撮るのであって、ローアングルがまずあるわけではない。
 だから、なるべく分析的な視点から逃れて映画を見る。するとこの映画は他の小津の映画と同じく不自然だ。カメラをまっすぐみつめて、棒読みでポツリとセリフをはく笠智衆はやっぱり不自然だ。ついついにやりとしてしまうような不自然さがあちらこちらにある。その不自然さはしかし空間をギクシャクさせるような不自然さではなくて、逆にほんわかとあたたかくさせる不自然さであると思う。それは映画全体の雰囲気とも関係があるのだが、その不自然な振る舞いや映像によって逆に人間くささのようなものが生まれる気もする。
 この不自然さという部分だけを取って何かを言うことは意味がないのかもしれないけれど、この映画で引っかかったのはその部分でした。もうひとつ「間」の問題も頭をかすめましたが、この小津的な「間」というのはもう少し考えてから書くことにします。
 で、この作品に限って言うと、特徴的なのは「戦争」の影。この作品が作られたのは昭和26年だから、戦争が終わってそれほど経っていない。映画の中でも言われているように、不意に戦争で行方不明になった家族が帰ってきたりもする頃、その戦争の影というものが映画全体に漂っているような気がします。特に、両親の表情にある曇りはその戦争が落としていったひとつの影であるような気がします。リアルタイムでこの映画を見た人たちにもまた、戦争の影というものが落ちていたのだろうとも思いました。

メキシコ万歳

Que Viva Mexico !
1979年,ソ連,86分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリ-・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
撮影:エドゥアルド・ティッセ、ニコライ・オロノフスキー
音楽:ユーリー・ヤクシェフ
出演:メキシコの人たち

 映画はアレクサンドロフの解説から始まる。エイゼンシュテインとティッセと3人でメキシコで映画を撮った話。50年間アメリカにフィルムが保管されていた話。そのあと映画が始まり、メキシコの歴史を語る映画であることが明らかにされる。この映画は現在の先住民達の生活を描く前半と、独裁制時代に辛酸をなめた農奴達を描いた後半からなる。
 ロシア革命とメキシコ革命が呼応する形で作られた革命映画は、エイゼンシュテインが一貫して描きつづけるモチーフをここでも示す。メキシコの民衆に向けられたエイゼンシュテインの眼差しがそこにある。

 私の興味をひきつけたのは後半の農奴達を描いたドラマの部分だ。それはラテン・アメリカに共通して存在する抵抗文学の系譜、映画でいえばウカマウが描く革命の物語。最後にアレクサンドロフが言うようにこの映画がその後の革命までも描く構想であったということは、この映画がメキシコ革命を賛美するひとつの賛歌となることを意味する。
 もちろんエイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」から一貫して革命を支持する立場で映画を撮ってきた。だから、同時代にメキシコで起こった革命をも支持することは理解でき、この映画がアメリカでの話がまとまらなかったことを考えれば当然であるとも思える。そして、このフィルムが50年近くアメリカからソ連に渡らなかったことも考え合わせれば、米ソ(と中南米)の50年間の関係を象徴するような映画であるということもできるだろう。
 内容からしてそのような政治的な意図を考えずに見ることはできないのだが、それよりも目に付くのは不自然なまでの様式美だろう。最初の先住民達を描く部分でもピラミッドと人の顔の構成や、静止している人を静止画のように撮るカットなど、普通に考えれば不自然な映像を挿入する。それはもちろん、その画面の美しさの表現が狙いであり、そのように自然さを離れて美しさを作り出そうとすることがエイゼンシュテインの革新性であり、そのような手法はいまだ革新的でありつづけている。
 そのような革新的な美しさを持つ画面と、革命的な精神を伝える物語がいまひとつ溶け合っていないのは、エイゼンシュテイン自身による編集でないせいなのか、それともその違和感もまた狙いなのかはわからないが、様式美にこだわった画面が映画の中で少し浮いてしまっていることは確かだ。それは他とは違う画面が突然挿入されることによって物語が分断されるような感覚。これはあまり気持ちのいいことではない。もちろんその挿入される画面は美しいのだが、もし現在の映画でこのような映画があったら、ことさらに芸術性を強調するスノッブな映画というイメージになってしまったかもしれない。
 今となってはいくら願ってもかなわないことだが、未完成のの部分も含めたエイゼンシュテイン自身による完全版が見てみたかった。映画もまたその歴史の中で取り返しのつかない失敗を繰り返してきたのだということを考えずにいられない。

深紅の愛

Profundo carmes
1996年,メキシコ=フランス=スペイン,114分
監督:アルトゥッーロ・リプスタイン
脚本:バス・アリシア・ガルシアディエゴ
撮影:ギリェルモ・グラニリョ
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
出演:レヒナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、マリサ・パレデス

 コラルは二人の子供を抱え、看護婦で何とか生計を立てていたが、ひとり身であることから欲求不満がたまる。太ってしまったことを気にしながら、雑誌の恋人募集欄で見つけたニコラスという男性に手紙を書く。ニコラスは鬘をかぶり、手紙を送ってきた女性を騙す詐欺しまがいの男だったが、コラルはニコラスに恋をしてしまう。しかし、その恋はコラルの運命を変えてしまった…
 実話をもとにメキシコの巨匠リプスタインが映画化した作品。画面もリズムも物語りもどこか不思議な違和感を感じさせるところがとてもいい。

 冒頭のシーン、鏡に映りこんだポートレイトから始まり、同じく鏡に映りこんだベットに横たわり雑誌を読むコラルが映る。そのあと一度鏡を離れ、再び今度は違う鏡にうつる。そしてさらにベットに横たわるコラルを今度は直に。このカメラの動きにいきなりうなる。技術論うんぬんという話はしたくないですが、鏡を使うのが難しいということだけ入っておきたい。カメラを動かしても不必要なものが鏡に映りこまないようにものを配置することへのこだわり。これは難しいからすごいということではなく、そのような面倒くさいことをやろうというこだわりがすごいということ。さすが巨匠といわれるリプスタインだなという感じです。
 このシーンでさっと身構えたわけですが、この映画はかなりすごい。まったくもってマイナーな作品だと(多分)思いますが、まさに掘り出し物。そのすごさは映画の完成度にあるのではなく、その煩雑さにある。まずもって画面が煩雑、様々な色彩が画面に混在し、ものがごちゃごちゃとしていて落ち着かない。それはすっきりとした画面を作るより難しいこと。主人公2人のキャラクターも秀逸。パッと見、全く魅力的でなく、画面栄えしない2人だが、その姿が煩雑な画面にマッチし、なんともいえないリアルさをかもし出す。さらにコラルは物語が進むにつれて魅力的に見えてくるから不思議、そしてニコラスの鬘に対する恐ろしいまでの執着、2人の異常性へのさりげない言及などなど、細かな配慮がすべてにおいて効いている。
 プロットの面でも、ひとつひとつのエピソードを追っていかないところの違和感がいい。「このあとどうなるんだ?」という疑問を浮かべさせるようなエピソードの終わり方をしていながら、その後を追うことはしない。疑問符がついたまま次の展開へと移ってしまう。その投げ出し方の違和感がいい。だから結末の投げ出し方がもつ違和感にもかかわらず、見終わって感動すら感じてしまうのかもしれない。
 なかなかこういう違和感というのは表現しにくいものですが、これはつまりいわゆる一般的な映画とは違うという意味での違和感。完璧な舞台装置のまえで演じられるひとつの劇としての映画との齟齬感。しかもそれが偶然によるのではなく、作り出されたものであるということがひとつ重要である。それはつまり映画を否定しようという試み、いわゆる映画とは異なった映画を作り出そうという試み。そのような試みが顕れてくるような映画を私は愛したいのです。この映画もひとつそんな否定の可能性を孕むものとして面白いということ。これを不出来なメロドラマとしてみるのではなく、ひとつの挑戦であると見ることに快感があるのです。

ピストルオペラ

2001年,日本,112分
監督:鈴木清順
脚本:伊東和典
撮影:前田米造
音楽:こだま和文
出演:江角マキコ、山口小夜子、韓英恵、永瀬正敏、樹木希林、沢田研二、平幹二郎

 ライフルを構え、何者かを撃ち殺した男。その男が別の男に殺され、東京駅にぶら下がる、あやしげな笑みを浮かべながら死ぬ。撃った男は車に乗り込み、逃げてゆく。黒い着物に黒いブーツ、殺し屋ナンバー3通称野良猫は殺し屋のギルドの代理人小夜子から仕事を受ける。仕事はこなしたが、そこにナンバー4通称生活指導の先生が現れた。
 「殺しの烙印」を自らリメイクした鈴木清順は、全く違う作品に仕上げる。白黒世界とは全く違う鮮やかな色彩世界、男の世界とは違った女の物語。

 江角マキコは美しい。あの衣装もとても素敵。それに限らず色使いに関してはいうことなし。清順映画の色使いはやはりすごいです。初めから終わりまで画面の色使いを眺めているだけで「美」というものに対する並々ならぬ意識を感じずに入られない。
 と、美しさという点ではいうことはない。して、物語に行けば、
 どうしても「殺しの烙印」を意識しながら見てしまうのですが、基本的に全く違う作品。前作を意識して、あてはめをしながら見てしまうと作品自体を楽しめなくなってしまう。殺し屋のランキングがあるということ以外は共通点もあまりない全く別のお話として見なければいけないのでした。
 そんなことを考えながら話がまとまらないのは、映画もまとまらないから。清順映画を理解しようという試みはというの昔にあきらめていますが、この映画はその中でもかなり混迷の度合いが高い部類に入ると思います。物語というよりは個々の描写/表現が。特に撃ちあいのシーンなどは何がどうなっているのやらさっぱりわからない。それは映画としての表現もそうだし、関係性の描写もそう。画面やプロットを構成する各要素が一体どんな意味を持っているのか、あるいはどんな役割を果たしているのか、そのあたりがなかなか見えてこない。清順映画は何度も見ればそれが徐々に見えてくるという感じのものが多いので、これもまたそのひとつではあるのだろうけれど、困惑したまま映画館を出るというのはなかなかつらいものです。
 全く違う心構えで、もう一度見れば、また違うことを考えられるのではないかなと思います。「ツィゴイネルワイゼン」は見るたびに驚きを与えてくれる映画であり、それはわけのわからなかった部分が少しずつわかってくることや、それまでは気づかなかったカットや小道具に気がつくことの喜びがある映画だったわけです。果たしてこの映画はどれほどそれに近づけるのか、それはもう一度見てのお楽しみという気がします。

バトル・ロワイヤル

2000年,日本,117分
監督:深作欣二
原作:高見広春
脚本:深作健太
撮影:柳島克己
音楽:天野正道
出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、柴咲コウ

 近未来の日本、暴力化する子供達を恐れた大人は通称BR法と呼ばれる法律を定め、毎年全国の中学三年生の中から1クラスを選び出し、最後の一人が残るまで殺し合いをさせるというゲームをすることに決めた。
 衝撃的な内容で話題を呼んだ小説「バトル・ロワイヤル」を深作欣二が映画化。基本的には原作に忠実な物語だが、映画としてはさすがに構成に工夫をしてある。

 原作を読んでしまっていたので、先の展開に対するハラハラ感というのは減じてしまったけれど、原作を読まずに見れば、もちろんその展開の仕方にかなり興味を惹かれるだろうし、映画として原作の物語の展開力をしっかりと再現している気はする。バトル・ロワイヤルという環境は全く人が信用できないという状況なわけで、その前提が存在すれば、見る側の頭の中には様々な推論が去来する。だからこの原作が映画として面白くならないはずはないという気はした。
 さて、原作を読んでいたがため逆に映画としてのよしあしが見えてくることもあると思うのですが、この映画はまさにそんな感じ。原作との比較という意味ではなく、プロットの部分を除いたいわゆる映画的なものについてということですが。
 この映画で最も特徴的と言えるのは字幕、文字の使い方。人の名前なんかを字幕で出したりするのは、洋画のテレビ放映のようで気に入らないのですが、この映画はそういう状況説明の字幕だけでなく、唐突に黒バックに白文字でセリフが字幕として入る。この唐突さはなんなのか、そしてこの唐突な中断による断絶はなんなのか? 壮絶な描写に対する一種の間として機能していると考えることもできるし、教訓めいたお言葉と理解することもできるし、表面的な暴力性とは裏腹な内面の人間性の描写とでも言うこともできるかもしれない。そのどれかひとつということではなく、それらの要素をあわせ持つものとして存在していると私は思う。それは、ラストの字幕。その一種の違和感すら覚える字幕をみたときに感じた爽快感のようなものから感じたこと。
 このような映画が暴力をあおるために作られることはもちろんなく、そこに何らかの反面教師的な性格を持たせていると受け取るのが普通であり、この映画もそのようなものとして作られたと思うのだけれど、この字幕の存在とそれが作り出す間がそれを確信させる。この映画の公開に反対したバカな国会議員もいたけれど、そんな大人が結局BR法のようなものを作ってしまうんだろうな、などとまっとうなことも考えてみたりしました。

オー・ブラザー!

O Brother, Where are Thou ?
2000年,アメリカ,108分
監督:ジョエル・コーエン
原作:ホメロス
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:T=ボーン・バーネット
出演:ジョージ・クルーニー、ジョン・タートゥーロ、ティム・ブレイク・ネルソン、ジョン・グッドマン、ホリー・ハンター

 1930年代アメリカ、屋外での労働中に脱獄した囚人の3人組が、その一人エヴェレッとが隠したが、まもなくダムができて水没してしまうらしいという宝を手に入れるべく旅をする。
 ホメロスの「オデュッセイア」を原作とした映画で、全体的に寓話じみた雰囲気を持つ。コーエン兄弟らしい細かい演出は健在。

 コーエン兄弟の作品には何か共通した世界観があり、それはなんだかやわらかさというかやさしさというか、とがっていないところ。「ミラーズ・クロッシング」のようなフィルム・ノワール的な作品でもそれがある。そのコーエン兄弟がアメリカ南部、古きよき時代をしかも「オデュッセイア」で描くとなると、そのやわらかさがさらに強まることは見るまえから予感できる。しかも甘いマスクのジョージ・クルーニー。
 そして、予想通りのやさしい映画。コーエン兄弟の作品は全体なやさしさの中にどこか刺があるのがもうひとつ特徴といえるのですが、この映画ではその刺が欠けている。ジョージ・ネルソンはかなりコーエン兄弟らしいキャラクターですが、やはりスティーヴ・ブシェミがいないのが問題なのか…
 うーん、すべてが微妙です。「オデュッセイア」が原作というのも、収まりどころがわかるというのと、ここの登場人物がどこにはまるのか考えてしまうという点で映画自体への注意が散漫になるという問題もある。
 しかし、やはりコーエン兄弟の細かい作りこみは健在で、一番それを実感したのは、ジョン・グッドマンが熱弁を振るう場面で、彼の眼帯が徐々に汗で染まっていくところ。あとは、ジョージ・クルーニーのひげがきちんと着実に伸びていくところ。その辺の気配りはさすがというところ、しかもハリウッド資本で資金も潤沢にあったのでしょうか。
 という微妙な映画でしたね。失敗作ではないけれど、あまりらしさが感じられない。ジョージ・クルーニーはなかなかいい味を出していたけれど、コーエンワールドの住人にはなりきれていない。

リメンバー・ミー

Ditto
2000年,韓国,111分
監督:キム・ジョングォン
脚本:イ・ドンゴン、イム・テギュン
撮影:チョン・グァンソク
音楽:イ・ウッキョン
出演:キム・ハヌル、ユ・ジテ、ハ・ジウォン

 70年代の韓国ソウル。新羅大学に通うソウンは大学の先輩トンヒに想いを寄せていた。そんなソウンがひょんなことから手に入れたハム無線機を皆既月食の日につけてみると、知らない人から通信が。その日は驚いて切ってしまったソウンだったが、次の日話してみるとその男も同じ大学に通うと知り、無線機の教本を借りるため会う約束をするが…
 韓国で大ヒットとなったラブ・ストーリー。なんだかなつかしさも感じさせる淡い物語。

  冒頭を見たときは、「これはやっちゃった」と思いました。家庭用編集機でもできそうなセピア効果、そしてありがちなピアノのBGM。嘘のようにうぶな所作をする女子大生。そして、皆既日食の夜空のちゃちさ。
 しかし、話が進むに連れ、そうでもないと分かる。物語自体はたいしたことがなく、誰もが発想できそうな(現に「オーロラの彼方に」って言う映画もあった)ものですが、最近時空ものに敏感な私としてはちょっと気を惹かれてしまうわけです。しかしそれは置いておいて、まずは映画の話。映画としては平均点のストレートなラブストーリーで、登場人物のキャラクターがはっきりとしているのがとてもよい。問題はBGMのこっちが恥ずかしくなるほどのストレートさと映像の作りの安さでしょうか。主役のキム・ハルヌがいかにも70年代らしい顔(どんな顔?)だったのがなんだかつぼにはまりました。ちょっと松たか子似。
 という映画ですが、問題の時空の問題は、実はインのガールフレンドのヒョンジがそのことにさらっと触れていて「同じ次元にいる」とか何とか言っているんですが、これは全くそのとおりで、この映画の中のソウンとインは二人ともまっすぐな時間軸上にいて、その四次元空間から抜け出すことをしない。だから物語とは破綻しない。つまり、インがアクセスした過去は自分にとってのストレートな過去で、現在と矛盾したことをしないからそのベクトルが変化することはなく(あるいはそもそも変化した未来にいるので)、ソウンが異なった未来に向かうことはないわけです。しっかりできていますねハイ。

 注意! ここからパーフェクトネタばれ!!!

 もし、インがトンヒとソンミのことをいわなかったとしたならば、未来は変わったかもしれない。しかし、その未来にはインは存在しないわけだから、インがいまいる時点とは異なるものなわけです。5次元平面の別の点にいる。つまり、どこかでベクトルが変化して、異なった四次元空間が出現したというわけ。しかし、だからといって今ある四次元空間がなくなるというわけではなく、インにとっては一つしかない過去として存在するし、ソンウにとってはありうべき未来として存在していたものということ。あるいは、ソンウがインにもっと前に会って、未来のことを予言していたとしたら、そこでまたベクトルは別の方向に進み、異なった四次元空間が出現していたのでしょう。様々なありうべき可能性の中で、この物語では閉じたひとつの四次元空間だけをつかまえることを選択したということでしょう。その方が物語が混乱せず、すっきりしますからね。そしてヒョンジのほとんど理解できないひとことのセリフにメッセージをこめたということでしょう。意外とやるねこの監督。インとソンウは会っても会わなくてもよかったけど、会うことで本当に物語が閉じたという気がしてよかったようにも思えます。