タブウ

Tabu
1931年,アメリカ,81分
監督:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
原作:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ヒューゴ・リーゼンフェルド
出演:マタヒレリ

 ポリネシアに浮かぶボラボラ島。そこで人々は平和に暮らしていた。島の若者同士の恋物語がある日やってきた大きな帆船によって破られる。
 ドイツの巨匠ムルナウがハリウッドに渡り、ドキュメンタリーの巨匠フラハティの協力で、ポリネシアの現地人を起用して撮った作品。セミ・ドキュメンタリー的な手法も画期的であり、ムルナウらしさも生きているかなりの秀作。

 現地の素人の人たちを出演者として使うという手法はキアロスタミを初めとして、今では数多く見られる方法だが、この時代にそのような方法が試みられたというのはやはりドキュメンタリー映画の父フラハティならではの発想なのだろうか。おそらくこの映画に出演しているポリネシアの人々は映画のことなど何も知らなかっただろう。もしかしたら映画というものを見たことも聞いたこともなかったかもしれない。そのような状況の中で映画を撮ること。それはある意味では現地の人たちの生の表情を撮ることができるということかもしれない。
 サイレント映画というのは自然な演技をしていたのでは自然には写らない。再現できない音を映像によって表現することが必要である。それを非常に巧みに扱うのがドイツ表現主義の作家達であり、それを代表する作家がムルナウである。だから、フラハティとムルナウが組んでこのような作品を撮るというのは理想的な組合せであり、また必然的な出来事であったのかもしれないと思う。この映画が製作されてから70年が経ち、はるか遠い位置からみつめるとそのようなことを考える。しかし、作品の質は現在でも十分に通じるもので、そのドラマは多少、陳腐な語り尽くされたものであるという感は否めないものの、十分魅力的だし、映像の力も強い。ほら貝や波や腰蓑が立てる音が画面から聞こえてくるように思える。
 ムルナウはこの作品の完成直後交通事故で帰らぬ人となってしまった。当時まだ43歳。わずか12本の作品しか残さずに死んでしまった天才を惜しまずにいられない。

スタンド・バイ・ミー

Stand By Me
1986年,アメリカ,89分
監督:ロブ・ライナー
原作:スティーヴン・キング
脚本:レイナルド・ギデオン、ブルース・A・エヴァンス
撮影:トーマス・デル・ルース
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、コリー・フェルドマン、キファー・サザーランド、ジョン・キューザック、リチャード・ドレイファス

 小学校を卒業し、最後の夏休みを過ごす少年4人組。いつもどおり遊んでいるところにそのひとりバーンが息を切らしてやってきた。バーンが言うには行方不明になった少年の死体が少し離れた森にあるということらしい。4人は明くる朝、死体を見るために冒険に出かける。
 ホラーの巨匠スティーヴン・キングのホラーではない作品。秀逸な脚本と映像にぴたりとくる音楽、若かりしリヴァー・フェニックスの存在感。十数年前はじめてみた時の衝撃を思い起し、思い入れもこめての☆4つ。

 たいした話ではないですね。でも、アメリカ映画ではよくある古きよき少年時代回想映画の中では群を抜くできでしょう。それは、この映画が公開された頃、ちょうど映画の少年達と同じ年頃で、なんだかとても衝撃だったということに対する思い入れが大きな要素となっているのだとは思いますが、映画ってそんな個人的なものなんだということを実感したりもしました。
 けれど、10年以上経ち、何回となくみて、久しぶりに見返してみても、やはりいい映画だったということです。映像がとかどうとかいうことではなくて、どう考えても脚本がいいのでしょうね。原作ももちろんいいのでしょうが、私が読んだ限りでは、この原作からこの映画を作るにはかなりの脚色が必要で、その脚色はかなり見事。
 あとは音楽とリヴァー・フェニックスということですが、特に言うこともございません。何度みても、見たあとには10数年前に買ったサントラ(もちろんアナログ)をかけてしまいます。
 すぐれた脚本には変な工夫を凝らさず、シンプルに作ればいいといういい見本だと思います。橋とか森とか汽車とかヒルとか映像的にもとても洗練されているのだけれど、それをなるべく自然なものにしようという意図が感じられました。死体までもが自然に見えるほどです。
 そうえいば、お兄さんはジョン・キューザックでしたね。今回はじめて気づきました。

お熱いのがお好き

Some Like it Hot
1959年,アメリカ,121分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
撮影:チャールズ・ラング・Jr
音楽:アドルフ・ドイッチ
出演:ジャック・レモン、トニー・カーチス、マリリン・モンロー、ジョージ・ラフト

 禁酒法時代のシカゴ。ギャング同士の抗争は虐殺ともいえる大きな事件になってしまう。それを目撃してしまった二人のバンドマン、ジョーとジェリーはギャングに追われることになり、二人は女だけの楽団にもぐりこむことを思いつく。
 ワイルダー、ジャック・レモン、モンローの豪華な顔ぶれで映画史に名を残すコメディの名作。30年代のフィルム・ノワールをパロディ化し、ワイルダーお得意の展開に持っていった。

 ビリー・ワイルダーの作品ははずれはないけど、傑作!というものも見当たらないという気がする。この作品はワイルダーの作品の中では有名でもあり、面白くもあり、代表作のひとつではあるのだけれど、やはり傑作といえるほどすごい出来ではない。別に傑作を生み出す監督ばかりが名監督ではなく、ワイルダーのように質のよい作品を並べる監督の方が本当の名監督と言えるのかもしれないけれど、名監督といわれるとどんな傑作があるのかと思ってしまうこともまた事実。
 だから、ワイルダーの代表作といわれる作品にも過度の期待をしてしまいがちで、それが逆にいまひとつワイルダーを認めることができないなってしまっているのかもしれない。と自己分析してみました。
 いま見てみると、ネタの大半は予想が尽くというのがコメディ映画としてはどうしても気になってしまう。もちろんマリリン・モンローはものすごい魅力を振り撒いているし、登場するキャラクター達はみんないいキャラ出してるし、細かいネタも面白い。だから、ある意味でコメディ映画の原風景であり、それなりに見る価値もあるとは思いますが、ワイルダーの師匠ルビッチと比べると、やはりルビッチの方が何倍もすごかったのではないかと思ってしまったりもします。ワイルダーの方がすぐれていると思うのは、ルビッチよりもふざけ方が精密なところ。たとえば、フロリダに向かう列車の車輪を繰り返し映しますが、たまにその回転が異常に速かったりする。その辺りのふざけ方は面白いと思いましたが。
 なんだか、誉めてるんだかけなしているんだか分かりませんが、可もなく不可もなく、それがワイルダーに対する私の評価なのです。

パルプ・フィクション

Pulp Fiction
1994年,アメリカ,154分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、クリストファー・ウォーケン、ブルース・ウィリス、クエンティン・タランティーノ、スティーヴ・ブシェミ

 レストランで強盗の相談をするカップルのエピソードに始まり、次にメインとなる2人組みのマフィアのエピソードが始まる。2人組みのマフィア、ヴィンセントとジュールスはアパートの一室にブツを取り返しに行くが、そのエピソードから、今度は八百長を持ちかけられるボクサーのエピソードへと飛ぶ。複数のエピソードがモザイク状に配せられた物語。確かに物語としても面白いけれど、むしろもっと面白いのは枝葉末節の部分。様々な脇役がいい味を出して、物語を通過していく。そのさまが格別によい。

 こういう風に、複数のエピソードを重ねられてしまうと、プロットの構成に頭を奪われがちだが、この映画の場合、どのエピソードもたいした内容ではない。それぞれのプロットは絡み合っているけれど、決してスリリングなサスペンスや複雑な謎解きがあるわけではない。なんとなく謎を残しながらエピソードの間を滑っていく。そんな感覚。その感覚がタランティーノの革新的なところで、この映画の後しばらく多くの映画が「パルプ・フィクションっぽく」なってしまうくらいのインパクトをもてたところだろう。
 そのすべるような感覚というのは、この映画のほとんどの部分は余剰の部分で、実際はどうでもいいようなことばかりだというところからきていると思う。たとえば、5ドルのシェイクがうまかろうとまずかろうとそんなことはどうでもいい。これをトラボルタとユマ・サーマンの間の心理の機微を映す鏡と解釈してもいいけれど、私はむしろシェイクの方がメインで、それが何かを語っているように思わせるのは単なるモーションだと思う。そんな思わせぶりなシーンばかりを積み重ねながら、何も語らずに物語りは進行していくわけだ。最初マーセルスが後姿(首のバンソウコウ)しか映らないことから、このボスは謎めいた存在なのかと思いきや、中盤であっさり顔が出てしまうのも、なんとなく思わせぶりながら、あっさり裏切ってしまう一つの例である。
 この「思わせぶり」という要素は、オフ画面を多用するという画面の使い方にも現れている。オフ画面というのは、フレームの外のもので作り出す効果のことを言うが、これは単純に隠されているということから「思わせぶり」な効果を生む。画面の外から聞こえる声・音、フレームの外に出て行ってしまう人。それによってシネスコの画面も有効に使うことができたのだろうと思います。特に、それを感じたのは、ユマ・サーマンが家に帰って(オープンリールの)テープにあわせて踊るところ。柱を挟んで右へ左へと移動するところかしら。
 この映画は「クールだ」とか「バイオレンスだ」とか何とか言われることが多いですが、こんなもんクールでもバイオレンスでもなんでもない暇つぶし映画ですら(語尾がおかしい)。映画という2時間の暇な時間をどう埋めるのか、なんとなく面白そうなことを詰め込んでいってあとはうまくつなげればいい。そういうことなんじゃないかしら。

2001年宇宙の旅

2001 : A Space Odyssey
1968年,アメリカ=イギリス,139分
監督:スタンリー=キューブリック
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:スタンリー=キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

 人類の夜明け、そこには黒く巨大な直方体があった。それに触った猿達は道具を使うことを覚え、他の猿の群れに優位に立てるようになった。それから数百万年後、月へと向かう宇宙船に乗り込んだフロイド博士は極秘の任務を帯びていた。それからさらに数年後、最新鋭の人工知能HAL9000を搭載したディスカバリー号が初の有人木星航海に向かう。
 壮大に映像でひとつの宇宙像を描き出した言わずと知れたキューブリックの代表作。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌だと私は思う。

 この映画を見るといつも寝てしまう。劇場で見れば大丈夫かと思ったけれど、劇場で見てもやはり寝てしまった。何も考えず、物語を追い、映像に浸り、ただスクリーンを目で追っていると、どうしようもない眠気が襲う。その心地よさは何なのか。私はこれは一種の子守歌だと思う。宇宙を舞台とした壮大な子守歌。原作を読むと、かなりプロットも複雑で、物語の背景が説明されていて、SF物語として読むことができるけれど、この映画は原作とは別物であるだろう。
 もちろんこの映画にはいろいろな解釈ができ、じっくり考えて自分なりの解釈を導き出すという営為はキューブリックが狙ったことに一つなのだろうけれど、そのために原作なんかの周辺知識を利用することは私はしたくはないので、ただただ「これは子守歌だ」とつぶやくだけで満足する。

2007年のレビュー
  この映画は私にとって映画探求の端緒となった作品のひとつであった。それは何年か前、私がこの作品を劇場とビデオで立て続けに2度見たとき、同じところで眠ってしまったことから起きる。この作品の最終版、サイケな映像でトリップをするあたりからラストのスペースチャイルドが登場する辺りまでうつらうつらと眠ってしまうということが2度続いたのだ。
  そんなことから考えたのは、眠ることもまた映画を見るあり方の一つだということである。眠っていたら映画を見てはいないのだけれど、しかし途中眠っていたとしても映画は見たことになる。その眠ってしまった時間もあわせて映画の体験なのだ。そんなことを考えながら私はこの作品を「宇宙を舞台とした壮大な子守歌」と名づけた。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌、それは映画を見ながら眠ってしまった自分自身への言い訳であると同時に、このように心地よく眠れてしまう映画への自分なりの解釈でもあった。
  そこから私は映画を見るということへの魅力にひきつけられて行ったのだ。

 まあ、それはいい。今回改めて見直してみて、最後まで眠ることなく見て思ったのは、この作品が本当に面白い作品だということだ。序盤の類人猿が登場するシーンの、その類人猿のぬいぐるみ然とした演技には40年という隔世の感を感じざるを得ないし、宇宙船などに使われている技術にもSF的想像力の豊穣さを感じると同時に、限界をも感じるわけだが、作品全体としては本当に40年前の作品とは思えない完成度と面白さを保っている。
  まず思うのは、イメージとサウンドによる絶対的な表現力である。この作品は2時間半という時間の作品にしては極端にセリフが少ない映画である。その代わりに映像によるイメージとサウンドによって観客の想像力を刺激し、様々なイメージや想念を喚起する。とくにサウンドは「美しき青きドナウ」のような音楽に加えて、ノイズの使い方が非常にうまい。船外作業をするときのノイズと呼吸音、ただそれだけで彼らの緊迫感が手に撮るように伝わり、「何かが起こるのではないか」という緊張をわれわれに強いる。そして、そのような明確な効果がない部分でも、この作品にはノイズが溢れ、それが静に私たちに働きかけ続けるのだ。
  そして、イメージも実に豊富だ。モノリスという空白をも意味するのではないかと考えうる漆黒の平面と対照的な形で様々なイメージがわれわれに提示される。もちろん円を回転させて擬似重力を作るという方法を映像化したのも見事だが、それ以上にハルのカメラに点る赤いランプや宇宙飛行士のヘルメットに映る明かりによって観客のイメージを喚起するそのやり方が実に見事だ。特殊な技術を使わずとも、そして言葉を使わずとも、観客の側で何かを考えてしまう。実に綿密に計算された映像であると思う。

 この作品が“名作”とされながらどこかで無条件に絶賛されるわけではないのは、理解しがたい部分があるからだ。見終わって誰しもが感じるであろう「だから何なの?」という感覚、この消化不良な感じが引っかかりとして残るのだ。そして、そこから何かを導き出すことができなければ、結局この作品はなんでもなくなってしまう。ただ退屈なだけの映像詩となってしまうのだ。
  そしてそれはこの作品が持つ必然的な欠点である。この作品は基本的に哲学として作られている。それはこの作品のテーマ曲のひとつが「ツァラトゥストラはかく語りき」というリヒャルト・シュトラウスの交響詩であることからも明確に示唆されている。
  哲学とは問であり、それに対峙する人はそれに対する答えを求めるのではなく、答えを探すのだ。哲学に答えはない。哲学にとって重要なのはその答えを探す過程であるのだ。だからこの作品を見ることも、作品が何を言っているかが重要なのではなく、作品が何を言っているのかを考えることが重要なのだ。
  しかし、それは無駄かもしれない。それは結局何の役にも立たないかもしれないのだ。私はそのような無駄も尊いものだと思うからこの作品は絶賛されるべきものだと思うが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問は当然だ。
  あるいは、何らかの答えを出して、その答えから演繹して作品に対して否定的な態度をとるというあり方もありえるだろう。そのあり方に対しては私は間違っていると言いたい。なぜならば、この作品自体は何も結論じみたことを行っていないからだ、見る人それぞれが導き出した結論は、作品よりもその見る人それぞれを反映している。人それぞれの世界と人類に対する見方を反映しているのだ。それをもって作品を批判するというのは、結局は思い込みによって世界を観ている自分自身の姿を露呈しているにすぎないのではないか。

 この作品が投げかける、世界とは何か、人類とは何かという問、類人猿と人類の境界はどこにあるのか、そして人間とコンピュータの境界はどこにあるのか。この広大な宇宙において独立独歩歩んできたと一般的には考えられている人類と宇宙との関係をどう捉えるか、それらの問に対する答えは用意されていないし、導き出すこともできない。類人猿は棒を持った瞬間にヒトとなったのか、ハルは機械に閉じ込められた人間ではないのか、デイブの新宇宙での経験は果たして何なのか、それらの問に答えようと真摯に考えること、それこそがこの作品の意味なのではないか。

生きるべきか死ぬべきか

To be or Not to be
1942年,アメリカ,99分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:エドウィン・ジャスタス・メイヤー
撮影:ルドルフ・マテ
音楽:ウェルナー・ハイマン
出演:キャロル・ロンハード、ジャック・ベニー、ロバート・スタック、ライオネル・アトウィル

 第二次大戦前夜のワルシャワ、街にヒトラーが現れた。それは実は、ヒトラーとナチスを描いた舞台を上映しようとしていた劇団の俳優だったが、ナチスによってその公演は中止に、そして戦争がはじまる…
 エルンスト・ルビッチが大戦中にナチスをおちょくるような映画を撮った。なんといってもプロットのつなぎ方が素晴らしい。コメディといってしまうのはもったい最高のコメディ映画。

 まず、出来事があって、その謎を解く。ひとつのプロットの進め方としてはオーソドックスなものではあるけれど、それを2つの芝居と戦争というものを巧みに絡めることで非常にスピーディーで展開力のある物語にする。そんな魅力的な前半から後半は一気に先へ先へと物語が突き進む先の見えない物語へと変わる。そのストーリー展開はまさに圧巻。
 そしてこれが大戦中にとられたということに驚く。当時のハリウッドにはそれほどの勢いがあった。ヒトラーが何ぼのもんじゃ!という感じ。しかし、一応コメディという形をとることで、少々表現を和らげたのかもしれない。ストレートに「打倒ヒトラー!」というよりは、やわらかい。しかしその実は逆に辛辣。戦争が終わり、ナチスを批判する映画はたくさん作られ、歯に衣着せぬ言葉が吐き出され、数々の俳優がヒトラーを演じたけれど、この作品とチャップリンの「独裁者」とをみていると、どれもかすんで見えてくる。「シンドラーのリスト」はヒトラーを直接的に描かないで成功したけれども、そこにはどう描こうとも決して越えられない2つの映画が存在していたのではないか?
 そんなことを考えながら、60年前の名作を見ていました。やっぱルビッチってすごいな。ちなみに、主演のキャロル・ロンハードはこの作品が最後の出演となっています。きれいなひとだ…

丹下左膳余話 百万両の壺

小さな笑いが重なって大きな幸せを生む、幸福な伝説の名作。

1935年,日本,91分
監督:山中貞雄
原作:林不忘
脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳
音楽:西梧郎
出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎

 柳生藩の殿様は、自分の家の壺に百万両のありかが塗りこめられていること知る。しかし、見た目二束三文のその壺は弟が江戸へ婿養子に行くときにくれてやってしまっていた。藩主は使いをやってその壺を取り戻そうとするが、そうそううまくはいかない。
 時代劇でありながら、コメディ映画。しかもハリウッドのスラップスティックコメディを思わせるような軽快なテンポに驚かされる。

 70年近く前の映画なのにこれだけ笑えるというのはすごい。原作は丹下左膳なわけだけれど、どこか落語的な味わいを感じさせるシナリオでもある。そしてまた、コメディとして完成されているというのがこの映画のすごいところだ。しっかりとした構図、画面の内外で動き回る役者の動き、それは本当にうまい。

 そしてさらにすごいと思ったのは映画全体の躍動感、一つ一つのネタにはそれほど意外性があるわけではない。しかしそれを映画という手段によって笑いにもっていく。具体的にいえば、オチの前倒しというか、ネタを転がす部分を省くところ。一例をあげると、安坊が竹馬を欲しい欲しいと言って駄々をこねる場面で、女将さんは「駄目」といっているのに、カットが変わっていきなり安坊が竹馬に乗っている。言葉で説明すればただそれだけのことなのだけれど、このようにして観る者を「えっ」と一瞬驚かせるそんな瞬間が輝いているのだ。

 だから、ずーっとこの作品を見ているとどんどん楽しい気分になってくる。笑える作品を見たというよりは幸せになれる作品を見た、そんな感想がピタリと来る。やはり名作は名作といわれるだけのことはあるのだと改めて実感させられた。

 この作品が作られた1935年というと、チャップリンが『モダン・タイムス』を発表する前年、アメリカではマルクス兄弟やアステア&ロジャースが活躍していた。日本では戦争の匂いが漂い決して世の中は明るくなかった。この作品はそんな世の中を少しは元気付けたのかもしれない。

 そんな人々を明るくする作品を作り上げた山中貞雄は小津をも凌ぐ天才と言われながらわずかな作品を残して(完全な形で残っているのはわずか3本)戦争の犠牲となってしまった。この不朽の名作を見れば映画のすばらしさを感じることができるが、同時に戦争の悲しさ、虚しさをも感じてしまう。

 映画というのはただ見て楽しむことができればそれでいいのだが、私にとって山中貞雄の作品だけはどうしてもそうは行かない映画だ。面白ければ面白いほど哀しみが付きまとう、そんな作品なのだ。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。

真夜中のカウボーイ

Midnight Cowboy
1969年,アメリカ,113分
監督:ジョン・シュレシンジャー
脚本:ウォルド・ソルト
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:ジョン・バリー
出演:ダスティン・ホフマン、ジョン・ヴォイト、ブレンダ・ヴァッカロ、シルヴィア・マイルズ

 故郷テキサスを後にし、ニューヨークへと向かうジョー。彼はカウボーイスタイルで金持ちの女を引っ掛けて金を稼ごうと考えていた。しかし冷たい群衆の街ニューヨークで彼の計画は思うように進まなかった。そんな彼はある日、バーで足の不自由な小男ラッツォと知り合う。
 60 年代後半の生のアメリカ、二人の名演技、耳に残るテーマ曲、斬新な映像、どれをとっても当時のアメリカ映画の最先端を行っていただろうと思わせるアメリカン・ニュー・シネマの傑作。

 69年という時代、ヨーロッパではヌーベルヴァーグがもてはやされ、アメリカではインディペンデント映画が興隆した時代。ハリウッド映画の斜陽が囁かれはじめた時代。アメリカ社会はこの映画で描かれているような閉塞感に苛まれ、都市の人々の孤独かが進み… などという社会批評が頭をよぎる。リースマンが宣言していた群集の孤独化は間違いなく進んでいたのだろう。
 その「都市の孤独」がこの映画では(意図的に)強調されている。ジョーは故郷でも必ずしもいい思い出ばかりがあるわけではないけれど(過去をはっきりとさせないところもこの映画の秀逸な点の一つであるがこれは余談)、彼が夢を抱えてやってきた都会でであったのはより深い絶望であった。それは顔のない群集であり、行き倒れている人に見向きもしない孤独な人々である。「信用」というものが存在しない社会、そこで見出したラッツォとの友情(と呼んでいいかどうかは微妙)が彼にとってどのような意味を持ったのか? ラッツォのために初老の男を殴るとき、彼の頭によぎったものは何だったのか? そして息絶えてしまったラッツォの頭越しに眺めるフロリダの(街の)風景はどのような印象を彼に与えたのか?
 そこに浮かんでくるのは再び「孤独」。一瞬のかりそめの友情に孤独を忘れた彼が再び直面する孤独。それをどう受け取るかは映画「後」のわれわれの営為だけれど、わたしには永劫回帰する閉塞的な孤独しか浮かんでこなかった。しかし、この映画はそれでよくて、逆に希望にあふれた終わり方をしてしまったら私にとってはなんとも後味の悪い映画になってしまったことだろう。