暗黒街の弾痕

You Only Live Once
1937年,アメリカ,86分
監督:フリッツ・ラング
原作:ジーン・タウン、グレアム・ゲイカー
脚本:ジーン・タウン、グレアム・ゲイカー
撮影:レオン・シャムロイ
音楽:アルフレッド・ニューマン
出演:ヘンリー・フォンダ、シルヴィア・シドニー、ウィリアム・ガーガン、バートン・マクレーン

 弁護士事務所で働くジョーの婚約者のエディがついに服役を終えて出所した。周りの人々はエディのことを快くは思わないものの、二人は幸せに新婚旅行へと出かけ、エディはトラック運転手の職にもつくことができた。しかし周囲の前科ものに対する目は厳しく、徐々に窮地に追い詰められていく。そんな折、6人の犠牲者を出す強盗事件がおき、現場にはエディの帽子が残されていた…
 ハリウッド黄金時代を気づいた映画監督にひとりフリッツ・ラングが作り上げた傑作サスペンス。この作品が生み出すスリルは70年近い歳月を全く感じさせない。

 「ドラマ」というものは不変というか、時代を超えて通じるものであると実感させられる。この映画は徹底的にドラマチックで、ドラマでない部分は一切ない。次々と現れる謎の連なりが織り成すまさしく隙のないプロットで観客を必ずつかまえる。最初の謎はジョーの婚約者らしい「テイラー」なる人物が誰なのかということ。この謎に始まって次々と途切れることなく、しかし過剰になることなく謎が繰り出されていく。観客はその謎の答えを知るために映画を見つづけざるを得ず、その解明の過程に含まれる小さなドラマにも目を奪われる。特に刑務所でのエディの様々な計略のスリル感はたまらない。
 なんとなく暗く、地味な展開は黄金期のハリウッドのイメージとは裏腹なようだけれど、それによってフリッツ・ラングがその黄金期の中にあっても異彩を放たせたものであり、時代を越えてわれわれを魅了する要素でもある。全体に映像が暗いのもフィルムが古いせいばかりでもないだろうし。勧善懲悪の二分法となっていないのも好感が持てる。いい/悪いが明確に示されていないという点では昨日の「氾濫」と似てはいるが、こちらは絶対的な悪が存在しないのではなく隠されているに過ぎないので違うし、この違いはやはりハリウッド映画が基本的には勧善懲悪の原理原則を基本としていることを示唆しいてもいる。いくらフリッツ・ラングでもその原則をはずすことはできなかった、あるいははずそうとは思わなかったところにかすかな欺瞞を感じたけれど、まあそれはそれとして70年前の偉大な映画に拍手を送ります。

氾濫

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:伊東整
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:佐分利信、沢村貞子、若尾文子、川崎敬三、叶順子、左幸子

 画期的な発明をして化学会社の重役になった真田佐平だったが、貧乏の頃から一転、仲間や昔の知り合いから遠まわしに金を無心されることが多くなり、会社の対応も決して親切と言えるものではなかった。そんな生活に徐々に嫌気がさしている佐平だったが、妻や娘はその贅沢な生活を満喫していた。
 当時年間4本ペースで映画を撮りつづけていた増村保造初期の作品の一つ。軽快なコメディ路線とは別のどろどろとした人間ドラマ路線の作品。

 増村作品としてはそれほど卓抜した作品ではありませんが、どろどろとした感情のもつれを描くのが得意な増村らしい作品。特にこの作品はその感情を整理せずにそのままの状態で提示し、一つの方向性に持っていこうとしないという点で非常に面白い。いい/悪いというような二分法を働かせることは全くせずに、ただただ感情の奔流をそれこそ「氾濫」させるのに任せるような描き方。それは本がどうこうとか、プロットがどうこうということよりも、「どこまで見せるのか」という監督の意図がストレートに反映される部分のような気がする。そのような意味でこの感情の表現のコントロールは増村保造自身の得意分野なのであると改めて確認をしたわけです。
 そのようなドラマの部分を抵抗なく描ききるためほとんど全編にわたっていわゆる普通の映像で構成されている。よく言えば自然、悪くいえば平板な映像によってドラマを際立たせようとする意図が感じられます。しかし、その感情たちがいっせいに「氾濫」する最後の5分か10分くらいはラストシーンをはじめとして、はっとさせるシーンにあふれている。それが始まるきっかけは左幸子を前景の真ん中に配し、右に部屋、左に階段を移すシーン。この突然の構図の変化は一気に感情をスクリーンの外へ流しだす。そしてそれから連なるシーンではそれぞれの登場人物の感情が濁流のように流れ出す。そしてその感情の本流の中で登場人物それぞれの人間性を判断しようとしてしまうのだけれど、果たしてその判断がつくことはなく、このレビューもこのまま流れていきます…

姉のいた夏、いない夏

The Invisible Circus
2001年,アメリカ,93分
監督:アダム・ブルックス
原作:ジェニファー・イーガン
脚本:アダム・ブルックス
撮影:ヘンリー・ブラハム
音楽:ニック・レア=クロウズ
出演:ジョーダナ・ブリュースター、クリストファー・エクルストン、キャメロン・ディアス、プライス・ダナー

 18才のフィービーは6年程前に旅先のポルトガルで自殺してしまった大好きだった姉のことを思い、浮かぬ日々を送っていた。姉のフェイスはフィービーが12歳のときヨーロッパに旅に出たまま帰らぬ人となってしまった。フィービーはその姉の足跡をたどるため母親の反対を押し切ってヨーロッパへと出発する。
 60年代から70年代の若者を描いた青春ドラマ。淡々とした物語のなかにいろいろなメッセージが込められているような気がする。

 最近は若者を描こうとするなら70年代という風潮が目に付きますが、それはやはり作り手がまさに青春を送った時代だからでしょう。それが悪いというわけではありませんが、同じような設定ばかりだと新鮮味がなくなって、面白さが減じてしまうということはあります。この作品は舞台をヨーロッパとすることで、アメリカ映画としてはちょっと違う雰囲気を出したものの、革新的と言えるほどではなかった。音楽の使い方なども非常にオーソドックスでした。
 物語のほうはなかなかよくて、心理的なゆらぎを中心に描くことで、なんとな奥深そうな印象を与えることができている。奥深い部分は全く描いていないのだけれど、その部分は見る側がどうにでも想像できるという余地を残している。この辺りはうまいです。基本的なコンセプトとしては、突き抜ける激しさと結局平凡へと帰るその力強さとを対比させるという感じなのでしょうが、どちらがいいとも悪いとも、強いとも弱いとも、言い切らない。その微妙な感じは好きですが。
 しかし逆に、結局のところ普通すぎるという印象も否めません。描かないということは平板さに甘んじるということにもなるので、全体的に漫然とした感じになってしまう。まあ、当たり前のことですが心理描写を中心としたドラマを作る場合にはそのあたりのバランスが難しいのだなと感じたわけです。

グレンとグレンダ

Glen or Glenda
1953年,アメリカ,67分
監督:エドワード・D・ウッド・Jr
脚本:エドワード・D・ウッド・Jr
撮影:ウィリアム・C・トンプソン
音楽:サンドフォード・ディキンソン
出演:ダニエル・デイヴィス(エド・ウッド)、ドロレス・フラー、ライル・タルボット、ベラ・ルゴシ

 意味不明な実験シーンから始まるこの映画の中心となるのはグレンという服装倒錯者の話。女装趣味なだけでちゃんとした婚約者もいるグレンが悩む姿を描いている。
 しかしそこは「史上最低の映画監督」と呼ばれるエド・ウッド。物語の筋と何の関係があるのかわからないベラ・ルゴシをストーリー・テラーに使い、さらに医者に物語を話させるという不可解な3重構造をとる。このわけのわからなさは面白いが、見るに耐えないという人の方が多いと思う。

 さすがにこれはひどい。まず本題に入るまでに15分くらいかかるというのがすごい。それまではほぼ不必要といっていい導入部がだらだらと続く。そして途中にいったい物語にどんな関係があるのかというようなお色気シーンがたっぷり5分ほども挿入される。
 そういうプロットのまどろっこしさがねければ、相当に面白いB級映画になるのだけれど、それにすらなれないところがやはり「史上最低」なのだろうか。
 エド・ウッドといえば安っぽい作りで有名だが、この映画もその例に漏れず、全くお金がかかっていない。刑事と医者が話す場面はみえみえのセットで、2つの角度からしか撮影できないらしい。ベラ・ルゴシがいる部屋の後ろにあるおどろおどろしさを出そうとしているぬいぐるみも変。そして戦争シーンは明らかにどこかの記録フィルムの流用。全く同じシーンを繰り返し使う。そして役者が下手。などなど恐ろしいほどの安っぽさ。
 この安っぽさ自体は好きですけどね。安っぽさを前面に押し出して勢いで乗り切ってくれれば面白いのにね。
 そしてジェンダー的にも、「昔はこうだったのね」と思う意外、とくに考察に値するほどのものもありません。
 そこまで言いながらも、一度見てみる価値はある。と思う…

猥褻行為~キューバ同性愛者強制収容所~

Mauvaise conduite
1984年,フランス,112分
監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス・レアル
出演:ロレンソ・モンレアル、ホルヘ・ラゴ、レイナルド・アレナス、フィデル・カストロ

 1960年代、キューバにあったUMAPという強制収容所には密告により様々な人々が収容された。同性愛者をその一角を占めていたが、当時世界的な熱狂で迎えられたキューバ革命賛美の潮流の中ではそのような事実はなかなか認められにくかった。しかし1980年代までにキューバからは100万人規模の人々が亡命し、徐々に理想化された国の内幕が判明してきた。
 亡命を余儀なくされた有名人のインタビューを中心としたドキュメンタリーによってフィデル・カストロとキューバ政府の誤謬を暴く。トリュフォー作品や「クレイマー・クレイマー」などのカメラマンとして知られるアルメンドロスの初監督作品。

 言ってしまえば映画としてはそれほど面白くはない。ドキュメンタリーといってわれわれがイメージする経験者の証言と限られた事実を示す映像とで構成される単調なドラマ。しかし、そのドラマは強烈だ。日本では余り知られていないにしろヨーロッパなどでは比較的知られているキューバの作家や批評家達が登場し、強制収容所の実態を語る。全く信じられないようなことが公然と行われていたという事実に直面するということは常に衝撃的である。
 この作品にも登場した作家レイナルド・アレナスは収容所をはじめとした強烈な体験を「夜になる前に」という作品につづっている。この作品にはこの映画も出てくるのだが、その信じられない体験を目にしたときの衝撃が生々しくよみがえってきた。(この「夜になる前に」は昨年アメリカで映画化され、日本でも今年の秋頃に公開される予定。)
 ドキュメンタリーという枠を越えようとする映画的にすぐれたドキュメンタリーも面白いけれど、こういう古典的なドキュメンタリーもその内容さえすぐれていれば非常に面白いものになる。この作品は非常に陰惨な内容を語っているはずなのに、インタビューを受ける人たちは比較的明るい表情で陰惨な雰囲気はまるでない。そのあたりの奥に秘められたひそやかな憎悪を見るよりも彼らがそうやって振舞うことによって生じる雰囲気を素直に味わいたい。

赤ちゃん泥棒

Raising Arizona
1987年,アメリカ,95分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:バリー・ソネンフェルド
音楽:カーター・バーウェル
出演:ニコラス・ケイジ、ホリー・ハンター、ジョン・グッドマン、ウィリアム・フォーサイス

 コンビニ強盗を繰り返し、刑務所に出たり入ったりの男ハイは警察官のエドと恋におち、何度目かの出所後結婚。幸せに生活をし、子供が授かる日を夢見ていたが、ある日エドが不妊症であることが発覚。悲嘆に暮れていたそんなとき、アリゾナで五つ子が生まれたというニュースを目にする…
 コーエン兄弟にニコラス・ケイジという、当時売り出し中だったいまや大物どうしの組み合わせ。コーエン兄弟のスタイルはいまも変わらずだが、なんとなく若さも感じるような、感じないような。

 冒頭からコーエン兄弟らしい不思議な雰囲気。得意の反復によるユーモラスな雰囲気作り。刑務所の面接官の妙に非人間的な動きなどなど「ああ、コーエン兄弟ね」と思わずにいられない感じで始まります。全体的に言ってもコーエン兄弟(というよりコーエンファミリー)らしさ全開で、バリー・ソネンフェルドの動的カメラワークも冴えに冴えます。特に手持ちのアクションシーンはこの映画が15年も前であることを考えると(技術的に言って)すごいことになっている。手持ちであることを意識させないようなスムーズなカメラワークが素晴らしい。最近のドキュメンタリー「タッチ」のぶれぶれカメラとは一味違う(どうしてドキュメンタリータッチをそんなに敵視するのか?)。カーター・バーウェルの音楽もいつもどおりの不思議な齟齬感を含みながら映画をしっかり引き立てる。
 今回何年ぶりかに見ていて気づいたのは、脱獄のシーンが「ショーシャンク」と似ている。もちろんこちらのほうが前ですが、泥まみれで穴から抜け出して叫ぶ。ジョン・グットマンとティム・ロビンスという大きな違いはあり、どうしても落ちをつけずにいられないという違いは出てきてしまうものの、基本的な撮り方なども同じ(だったと思う)。「ショーシャンク」が先で、こっちがパロディというなら話はわかりやすいのですが、順番も逆で「ショーシャンク」には原作もあるというところでかなりの不思議を感じてしまいました。
 さらなる元ネタがどこかにあるのだろうか? どっかで見たような気がする… 何だろう、「大脱走」じゃないし… 知っている人がいたら教えて下さい…

機械じかけのピアノのための未完成の戯曲

Neokonchennaya Plya Makhani Cheskogo Pianimo
1976年,ソ連,102分
監督:ニキータ・ミハイルコフ
原作:アントン・P・チェーホフ
脚本:ニキータ・ミハイルコフ、アレクサンドル・アダバシャン
撮影:パーヴェル・レーベシェフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:アントニーナ・シュラーノワ、アレクサンドル・カリャーギン、エレーナ・ソロヴェイ

 ある夏の日、ロシアのとある田舎、とある貴族の未亡人の家に集まる人々。それは未亡人の義理の息子の結婚披露パーティで、知り合いの地主や医者などいろいろな人が集まって様々な騒動を繰り広げる。
 原作はチェーホフの短編で、それを群像劇として映画にした。登場人物が多く人間関係の把握が難しかったりするが、非常な映像へのこだわりが感じられる作品になっている。

 物語としてはよくわからない。おそらく当時ソ連が抱えていた問題(冷戦真っ只中)なども絡みつつ、革命に対する考え方なども孕みつつ、しかし検閲もあるだろうということで何かを口に含みながら言い切らないという感じで物語りは進む。ニコライとソフィアの話がメインであることはわかるし、それはそれとして面白いので、それ以上は追求しません(できません)。
 それよりも、映像的な面がかなり気になる。フレームの奥行きの使い方がとても面白い。最も特徴的なのは建物のロビー(?)で登場人物全員を縦方向に配置して撮るシーンで、これはかなり何度も繰り返し出てきた。それ以外でも、冒頭すぐに、未亡人と男がチェスしているシーンで、手前で違うことをしている人がいたり、どこのシーンかは忘れてしまいましたが、場面の奥で話している手前にフレームの外側から人が入ってきたりかなり意識的に奥行きを使っている。
 映画空間に奥行きがあるということをわれわれは暗黙の了解として理解しているけれど、本当はあくまでも二次元の空間であり、奥行きというのは遠近法を使った錯覚である。アニメなどを見るとそれを意識することはあるが、普通に映画を見ているとそのことは余り意識しない。われわれはそれだけこの錯覚に慣れてしまっているのだが、この映画の極端な奥行きの表現は逆にそのことをわれわれに意識させる。だからどうということもないけれど、「そういえば、そうだったね」と当たり前の事実に気づくという経験がこの映画を見て一番印象的なことでした。

メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙篇

1982年,日本,141分
監督:富野喜幸
脚本:星山博之
音楽:渡辺岳夫、松山祐士
出演:古谷徹、鈴置洋孝、古川登志夫、白石冬美

 激しくなるジオン公国と地球連邦軍の戦い。シャア率いるザンジバルとの戦いを逃れたホワイトベースは中立コロニー・サイド6へ。くしくもザンジバルも同じコロニーに寄港していた。ホワイトベースを迎え撃とうとサイド6を取り囲むジオンの艦隊。
戦争に影響を与え始めた「ニュー・タイプ」。果たして勝つのはジオンか連邦か。 TVシリーズ「機動戦士ガンダム」の映画化第3弾。31話から最後までをダイジェストにする形でシナリオを練り直した作品。

 物語は佳境で、様々な人間関係が渦を巻く。シャアとセイラ、ブライト・ミライ・スレッガー、知らない人には何の事やらわからないかもしれませんが、この当たりの人間ドラマがガンダムの真の面白み。終盤はジオン側でもザビ家を中心とした人間関係の相克を見ることもできます。
 しかし、逆に前半と比べるとモビルスーツやモビルアーマーが次々と登場し(特にジオン)、ここのものに対する魅力が減じてしまうかもしれない。その当たりが少々不満ですが、やはり最後ア・バオア・クーでは感動するしかありません。ああ、やっぱりガンダムっていいわ。
 今回見て思ったのは、「ニュー・タイプ」というのはかなり面白い。単なる突然変異なのかもしれないけれど、必ずしも均一に強さではない。ある意味では強度の違う変異が同時的に起きるという異常事態。ブライトは「そんな都合よく人間変われない」というけれど、そんな無頼とが思いを寄せるミライ・ヤシマも少しニュータイプの気があったりするわけです。ララァとアムロを頂点として様々な段階のニュータイプがいる。うーん、不思議。遺伝学的にどうなのだろう、それは。
 未来史の捉え方なども考えつつ、まだまだ物思いにふけることができる。

血だらけの惨劇

Strait-Jacket
1963年,アメリカ,96分
監督:ウィリアム・キャッスル
脚本:ロバート・ブロック
撮影:アーサー・アーリング
音楽:ヴァン・アレクサンダー
出演:ジョーン・クロフォード、ダイアン・ベイカー、リーフ・エリクソン、アンソニー・へイズ

 夫の浮気現場を目撃したルーシーは斧で夫とその浮気相手を惨殺。それを娘キャロルが目撃していた。20年間の精神病院への収容の後、外の世界へと戻ってきたルーシーはキャロルと兄のビル夫妻のもとで暮らし始めるが…
 主にホラー映画を撮りつづけた監督ウィリアム・キャッスルの代表作の一つ。単純ながら味わいのあるサスペンス映画。

 なかなかいいできだと思います。少々わざとらしさは感じるものの結構怖くできているし、登場人物たちがみんな不気味でなかなかいい。
 ホラー映画なので何をかいてもネタばれになりそうですが、ホラー映画といえばこういう映画という感じだったと思う。いわゆるスプラッター系の映画が出る前、つまりリアルな惨殺映像が作れるようになる前はこういう見せないものが多かった。もちろんいまもホラー映画の大半は見えない恐怖を描くものが多く、ホラー映画の基本形ではあるけれど、そういう文法以前にこれしかできないとでも言いたげに淡々と怖さを演出している感じ。