200本のたばこ

200 Cigarettes
1998年,アメリカ,102分
監督:リサ・ブラモン・ガルシア
脚本:シャナ・ラーセン
撮影:フランク・プリンツィ
音楽:マイケル・ブラモン
出演:ベン・アフレック、ケイシー・アフレック、ギルモア・ディアズ、コートニー・ラヴ、ジェイ・モーア、クリスティナ・リッチ、エルヴィス・コステロ

 1981年のニューイヤーズ・イヴに、いっしょに年を越す相手を求めてさまよう若者たちの群像劇。ソウル・ミュージックをガンガンに流すタクシードライバーが物語りの縦糸になり、様々な男女の出会いを描いた。
 けっこうなスターがぞろぞろ出てきて、とにかく音楽を鳴らして、細かいエピソードをつないでいくという手法。MTVフィルムズの製作だけあって全体のスタイルは洗練されているが、何か一貫するものがなく散漫な印象を受ける。

 この映画でよかったのはタクシー・ドライバーとエルヴィス・コステロ。タクシー・ドライバーは結局物語に参加してしまったのはちょっといただけないが、全体をなんとなくまとめる役目を何とかこなしていたし、最後の写真語りのところはかなりよかった。コステロは、途中で一回チラッと出てきて、「あ、コステロ」と思ったら(見た方気づきましたか?)、最後にはしっかりと登場してしまった。でもネタ的には一番面白いネタだったね。
 結局のところ、一つ一つのエピソードのスタイルに力点がおかれていて、断片断片は決して悪く、「バッファロー’66」なんかよりはかなり洗練されていると思うけれど、それをまとめる何かとか、それぞれの登場人物のキャラクターとかがしっかりと掘り下げられていないのが、どうも入り込めない原因だと思う。
 しかし、これは二者択一の問題で、個々のキャラクターを掘り下げていくと必然的に時間を長くするか、登場人物をへらすを得ず、そうするとスピード感みたいのが失われてしまうかもしれない。だから、スタイルとスピード感を重視するならば、このように散漫な感じで押し切ってしまったほうがいいのかもしれない。
 でも、個人的な好みからいえば、いまひとつでした。せっかくそろえた役者たちを生かしきれてない感じがしてしまって、何かもったいないな。

金融腐食列島[呪縛]

1999年,日本,114分
監督:原田眞人
原作:高杉良
脚本:高杉良、鈴木智、木下麦太
撮影:阪本善尚
音楽:川崎真弘
出演:役所広司、椎名桔平、仲代達矢、風吹ジュン、若村麻由美

 総会屋への不正な利益供与を巡って、大手都銀の朝日中央銀行に検察庁のメスが入ろうとするが、旧態然とした経営陣は危機感を抱かない。それに立ち上がったのは企画部副部長の来たのを中心とした中堅グループだった。
 とにかくハードボイルドに銀行というわかりにくい世界をわかりやすくサスペンスにした快作。すごくめまぐるしくカットが割られ、映画にスピード感があるので、小難しい用語が出てきても聞き飛ばして物語に没頭できる。

 サスペンスとしてはかなりいい。なんといっても銀行というなかなかサスペンスにはなりにくそうなところをついたのが成功の秘訣でしょう。終わり方はちょっと似非ヒューマニズムみたいで気に入らなかったけどね。やっぱ捨石なんだからみんな死んじゃうくらいの勢いがあったほうが好みとしてはよかったね。でも、会社のために死ぬってのも今さらナンセンスという気もしますが…
 それにしてもこの映画、異常にカットが多い。長まわしなんて全然なくて、1分あるカットもあったかどうかぐらいの印象だった。何なんだろう… まあ、でもオフフレームとかでうまくつながりを持ってやっているので、そんなに見苦しくなくてよくて、むしろスピード感が出てよかったのでしょう。
 ひとつ気になるのは、たびたび出てきた日比谷公園でオーボエを吹くホームレス。どっかで事件に関わってくるんだろうと思っていたのに、結局最後までなんでもなかった。あれはいったい何? BGMを同録っぽくするための演出? そのわりには音が澄みすぎてたよ。ホームレスが持ってる楽器のわりには。
 などということもありますが、まったく期待していなかった割には面白く見られた映画でした。しかし、難点といえば、社会派なのか娯楽映画なのかその辺が中途半端というか、両方のいい点を取っていればいいのだけれど、中途半端でどちらに行くにも思い切りが足りないという気がしてしまうところですね。私は純粋に娯楽映画としてみて成功しましたので、「みんな死んじゃえ」とか適当なことをほざくわけですが、社会派映画としてみてしまうと… どうなんだろ?

遊び

1971年,日本,90分
監督:増村保造
原作:野坂昭如
脚本:今子正義、伊藤昌洋
撮影:小林節雄
音楽:渡辺岳夫
出演:関根恵子、大門正明、蟹江敬三、松坂慶子

 工場で働く少女は郷里に病気の姉と母がいる。度々金を無心にくる母に嫌気がさした少女はホステスをしようとホステスになった元同僚に電話をかけようとする。公衆電話でその電話番号を探しているところへチンピラの少年がやってきた。少年は彼女をお茶に誘う。しかし2人には無邪気とはいえない運命が待っていた…
 大人の世界に翻弄される少年と少女を描いた恋愛ドラマ。若い女優を主人子に据えてとるというのも増村の常套手段のひとつ。この作品を最後に増村は大映を去った。

 増村にしては素直な映画で、ことがこうあって欲しいという方向に順調に進んでいく。なんとなく驚きが少なく感じてしまう。映像はいつも通りさえているのだけれど、それほどすごい! と圧倒されるほどの構図はなかったと思う。なんだか、増村保造は結局ロリコンで、若い女優を使って甘っちょろいロマンスを撮りたかっただけなのか?
 という疑問が浮かんでしまうのは、「でんきくらげ」や「大地の子守歌」のほうが断然面白かったからだろうか。  この映画で白眉は松坂慶子。ちょい役だけど「かわいい!この子誰?」と思わせる。松坂慶子主演でやったらもっと面白かったかも?

闇を横切れ

1959年,日本,103分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、増村保造
撮影:村井博
出演:川口浩、山村聡、叶順子、高松英郎

 市長選挙に打って出た革新党の候補者落合がストリッパーの死体とともに発見された。西部新聞の記者石塚は現場に居合わせた巡査片山が現場から立ち去った怪しい男のことを警察の生田課長に告げる場に居合わせた。しかしその男のことは闇に葬られ落合が犯人と断定された。石塚は不信に思い取材をはじめるのだが…
 増村初の社会派サスペンスドラマ。しかしアップテンポなところは恋愛映画と変わらず、すごいスピードで事件が二転三転していくのが見所。ある意味ではヒーロー映画なので、川口浩ファン(いまどきいないか)は必見です。

 100分を越える作品なので、増村としては長いほう。そしてさらに話の展開が異常に早くて、人はバタバタ死に、敵味方がころころ変わり、話はどんどん進んでいく。のに、よく考えてみると1週間に満たない出来事を栄がいた映画。恐ろしい… フツーの人間はあんなに生き急がないぞ。
 しかし、その辺が増村的なところで、非現実的なほどのスピード感がなんといっても初期の増村の魅力。そして速さのせいか必然的にドライな感じになるけれど、この映画はかなりロマンティックなヒーロー映画。川口浩は正義の味方って感じで、編集局長とともになぜだか新聞に命を懸ける。後々振り返ってみると腑に落ちないことがたくさんあるのですが、見ているときには圧倒されてまったく気づかない。ということはこの映画は成功ね。2時間見ている人をだませれば映画としては素晴らしい。「世の中所詮偶然に支配されているのよ」とでも思って納得しましょう。

ゴッド・アンド・モンスター

Gods and Monsters
1998年,アメリカ,106分
監督:ビル・コンドン
原作:クリストファー・ブラム
脚本:ビル・コンドン
撮影:スティーヴ・M・カッツ
音楽:カーター・バーウェル
出演:イアン・マッケラン、ブレンダン・フレイザー、リン・レッドグレーヴ

 豪邸でメイドと二人で暮らす老人。彼は「フランケンシュタイン」などの恐怖映画で有名だった映画監督のジェームズ・ホエール。脳卒中で倒れ入院していた彼が家に帰ると新しい庭師が来ていた。ゲイであるジェームズはその若い庭師に興味を示すようだが…
 実在の映画監督ジェームズ・ホエールの晩年に焦点を当てた伝記小説の映画化だが、彼の作品の名場面などを挟み込みながら作られた映画。おそらく、監督のビル・コンドン(主にB級映画の脚本家・監督)がホエールのファンで、撮りたかったという感じの映画だろう。なかなかなんともいいがたい不思議な映画だが、これまた不思議なことにアカデミー脚色賞を受賞している。

 率直な感想としては、「なんかおかしい」という齟齬感があって、それはしかし、面白くないというのではなくて、なんかひとつ転べばすごい面白い映画になりそうな感じ。だから逆にあまり評価はしたくない。映画に努力賞はなくて、結果がすべてなのでね。下手に監督のことを好きだから壊しきれなかったのか、それともまったく壊す気はなく真摯に作ったけれど力量及ばずなのか、微妙なところだけれど、それでも見ている側を引き込むくらいの力はある。
 しかも、ストーリーもよくわからなくて、なんとなく謎めいているんだけれど、そのとらえどころのない謎が解かれるわけでもなく、そもそもその謎が具体的にどんな謎なのかもわからない。
 というわからないことだらけの不思議な映画。見る価値はあったと思いますが、狐につままれたような気分ですね。

ヤンヤン 夏の想い出

a one & a two
2000年,台湾=日本,173分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:ヤン・ウェイハン
音楽:ベン・カイリー
出演:ウー・ニエンジェン、エレン・ジン、イッセー尾形、ケリー・リー、ジョナサン・チャン

 今日はヤンヤンの叔父さんの結婚式。しかし、小学生のヤンヤンはいつものように女の子にいじめられ、結婚式の前には叔父さんの元恋人が殴りこんできたりと大変。そんな中ようやく結婚式を終えて帰ってみると、具合が悪いといって一人家に帰ったおばあさんが病院に運ばれたと近所に人に言われる。
 エドワード・ヤンらしい群像劇だが、台湾の裕福な一家族のそれぞれが抱える問題をクロスオーバーさせながらじっくりと味わい深く描いた非常に丁寧さが感じられる作品。
 出てくる役者たちがみんないい。日本人プログラマーを演じるイッセー尾形もかなりいい。

 本当に丁寧な仕事をする。役者の選定も相当大変だったらしいが、それが感じられるいい配役。ヤンヤンはすごくいい表情を持った子供だし、なんといってもお父さんのNJは素晴らしい。なんだかすごく普通で、しかしうまい。
 フレーミングも非常に丁寧で、これ、と決めたフレームでカメラを固定してしっかりと撮る。同じフレームがくりかえしでてくるから、説明がなくても徐々にそれに馴れていく。映った瞬間にどの場所かわかるようになってくるし、オフフレームの部分との位置関係もわかりやすい。居間で窓に向かっているときに左側から声が聞こえたら… とかね。そしてもちろんそのフレームの一つ一つは周到に計算されていて、鏡の置き方とか、壁に貼ってある写真とか、微妙なアンバランス加減がとてもいい。印象的だったのは母親のミンミンが泣いている場面で、ミンミンは画面の右半分を占めていて、背後に鏡があり、聞き手のNJは位置的にはカメラの右隣にいて映っていない。それでその鏡の左端にヤンヤンとティンティンの写真が貼ってある。それは何てことない画なんだけれど、その人物と空間のバランスがすごくいい。同じようなバランスがあったのは、台北のカラオケやでNJが一人カウンターに座って舞台側(カメラ側)を向いている場面。NJは画面の右半分にいて、左側にはカウンターにポツリとイッセー尾形が飲んでいたグラスが置いてある、その間には山盛りのピスタチオ。そんなバランス。
 全体的にはエドワード・ヤンもすっかり落ち着いたという感じですが、バランスがよくて、繰り返しになりますが丁寧な映画。これまでの作品の流れから言って落ち着くところに落ち着いたというか、完成された反面、驚きは減ってしまったというか、微妙なところですね。でも、やはりいろいろなプロットを重ねていくストーリーテリングと画面へのこだわりはさすがだなという作品でしたね。

チェイシング・エイミー

Chasing Amy
1997年,アメリカ,114分
監督:ケヴィン・スミス
脚本:ケヴィン・スミス
撮影:デヴィッド・クレイン
音楽:デヴィッド・パーナー
出演:ベン・アフレック、ジョーイ・ローレン・アダムス、ジェイソン・リー、ドワイト・ユーウェル、マット・デイモン

 ホールデンとバンキーは20年来の親友で2人でコミックを共作、しかもその作品で売れっ子になった。彼らはある日、ゲイの黒人漫画家フーバーに女性漫画家アリッサを紹介される。ホールデンは彼に一目ぼれ、彼女もまんざらではないように見えたが、彼女に誘われクラブに行くと、彼女は美しい女性とキス。じつは彼女はレズビアンだった。
 「クラークス」で話題をさらった新鋭監督ケヴィン・スミスの3作目の監督作品。コメディタッチのようでセクシャリティについての考察がこめられた意外とシリアスな青春映画。ブレーク寸前のベン・アフレックがいい感じ。マット・デイモンもちょい役で出演。

 「セクシャリティ」というのがなんといっても問題になるが、この映画のいい点は結局のところホモセクシュアルを擁護するわけでもなく、否定するわけでもないところ。ただそこにあるものとして、選択肢のひとつとして描いたこと。セクシュアリティの歴史の中で差別されてきたホモセクシュアルを擁護しようというのがここ10年か20年くらいの動きであり、映画でもそんな映画が多く撮られた。しかし現代、すでにそのようにホモセクシュアルを擁護するだけの映画は時代遅れになってしまった。実際はホモセクシュアルは依然として差別されつづけ、冷遇され続けているからそのような映画も取られなければならないのだけれど、人々の倫理観としては、ホモセクシュアルをそのように差別することが間違ったことであるという認識は確立されているのだろう。
 この映画の中ではバンキーがそのような旧態依然のホモフォビアをかかえる人物として描かれているが、彼が潜在的にゲイであることは映画が始まってそれほど時間がたたなくてもわかることだ。自分のゲイ性を否定するものとしてのホモフォビアであることはすぐにわかる。
 しかし、そのようなことは今までにも描かれてきた。この映画が新しいのは、ゲイであることが「普通」(規範)から外れているということを描いたからではなく、ゲイの中にも「普通」(規範)があることを示しているからである。アリッサのレズビアン仲間の反応、そしてホールデンに告白されたときのアリッサの反応。それらは「正しい」ゲイのあり方というものの存在を示す。
 そしてもうひとつこの映画の新しさはセクシャリティが変容しうるものであることを示したこと。あるいはヘテロやゲイといったカテゴリーにくくられない自由なセクシャリティも存在しうるということ。最終的にはホールデンとバンキーが付き合ってもよかった。見ている側としてはそれぞれ賛否意見があるだろうけれど、「そういうこともありうる」ということは認めると思う。それはこの映画にそれだけ説得力があったということではないか。

タルチュフ

Tartuff
1925年,ドイツ,75分
監督:F・W・ムルナウ
原作:モリエール
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、ヴェルナー・クラウス、リル・ダゴファー、ルチー・ヘーフリッヒ

 オルター氏は20年来尽くしてくれている家政婦と二人暮し。氏は家政婦から孫のエミールが俳優になり遊び暮らしていると聞き遺産をすべて家政婦に与えることにした。しかし、それは実は家政婦の陰謀であった。それに気づいた孫のエミールは変装して「タルチュフ」という映画を持って祖父の家を訪ねる。
 モリエールの「タルチュフ」を劇中劇として利用し、目先を変えた新しい映画を作り出した教訓劇じみた作品。全体的には字幕がはさまれるオーソドックスなサイレント映画。

 「最後の人」と比べると、非常にオーソドックスで、欲しいと思うところには大体字幕が入っていく。それは分かりやすくていいのだけれど、やはり字幕が入ると映像のほうに目が行きにくくていまひとつ。字幕を使わずにいかに表現するかというほうが個人的には楽しめた気がする。
 それでも、冒頭の玄関のベルが鳴るシーンから映像的工夫に驚く。 もちろん普通は呼び鈴があんなところについているはずもなく、あんなに激しく動くはずもないのだけれど、たったあれだけの工夫でベルの音が聞こえてくるのだから、すごいもの。今となってはいまひとつ実感が湧かなくなってしまった「映画的現実」と実際の「現実」との違いというものをまざまざと見せ付けられた観がある。

最後の人

Der Letzte Mann
1924年,ドイツ,72分
監督:F・W・ムルナウ
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、マリー・デルシャフト、マックス・ヒラー

 高級ホテルのドアマンを勤める男。彼はその仕事を誇りにしていた。しかしある日、客の大荷物を持ってぐったりと休んでいるところを支配人に見つかり、トイレのボーイに降格を命じられる。おりしもその日は姪の結婚式、男はドアマンをやめさせられたとは言えず、ドアマンの豪奢な制服に身を包み毎朝出勤するのだが…
 ドイツサイレン時の巨匠ムルナウの代表作のひとつ。この映画はほとんど文による説明を使っていないが、それでも物語は十分に伝わってくる。本当に映像だけですべてを表現した至高のサイレント映画。

 この映画はすごい。サイレントといっても大体の映画はシーンとシーンの間に文章による説明が入ったり、セリフが文字で表現されたりするけれど、この映画で文字による説明があるのは、2箇所だけ。しかも、手紙と新聞記事という形で完全に映画の中のものとして使われるだけ。あとはすべて映像で表現している。
 しかも、俳優の演技、カメラ技術どれをとってもすごい。主人公を演じるエミール・ヤニングスの表情からはその時々の感情がまさに手にとるように伝わってくるし、カメラもフィックスだけでなく移動したりよったり引いたり露出を変えたり、涙で画面を曇らせたり、様々な方法で物語に流れを作り出し、映像の意味を伝えようとする。
 それに、音の表現方法が素晴らしい。最初の場面から、地面ではねる豪雨を描くことでわれわれは豪雨の音を頭の中で作り出すし、勢いよく笛を吹くしぐさで聞こえないはずの笛の音にはっと驚いたりする。
 物語時代の中身もかなり辛辣で、当時の貧富の差の大きさも感じさせるし、人々がいかに富や権威というものに踊らされているかということを風刺するものでもある。
 映像からすべてを読み取ろうとすると、けっこう想像力を掻き立てられ、「えー、最後どうなるのー?」というかなりドキドキした気持ちで見てしまいました。

シュウシュウの季節

Xiu Xiu: The Sent Down Gir
1998年,アメリカ,99分
監督:ジョアン・チャン
原作:ゲリン・ヤン
脚本:ジョアン・チャン、ゲリン・ヤン
撮影:ユエ・ルー
音楽:ジョニー・チェン
出演:ルールー、ロプサンガオ・ジェ

 成都の学校を卒業した文秀(ウェンシュウ)は田舎の工場へ労働奉仕に行くことになった。シュウシュウと呼ばれた少女時代に別れを告げ、彼女は仲間とトラックで出て行った。最初は順調に働いていたシュウシュウはある日、老金(ラオジン)とともに牧場で働くよう言われる。
 「ツイン・ピークス」で有名な女優ジョアン・チェンの初監督作品。美しい映像に女性らしい繊細さが漂う作品。

 映像がきれい。といっても構図がどうとか、撮り方がどうとかいうことではなくて、単純に美しいものを撮っているという感じがする。といってもただ美しいものにカメラを向ければ美しい映像が出来るというわけではないので、かなり気を使って撮ったのだろうということは感じられた。
 それなりにいい作品なんだけれど、一番気になったのは語り手である男の子。一貫して彼が語り手であるのだけれど、見ている間それをずっと忘れていて、最後に再び彼の語りが入ったところでそれを思い出させられる。しかし、それで思うのは「うそ臭い」ということ。ずっと成都にいた彼が語り手である必要はないし、細かいことを知っているはずがないと思ってしまう。むしろ語り手なんかなくしてしまったほうが映画としては納得がいっただろう。それに、シュウシュウに恋焦がれていた彼がこんな徹底して悲劇的な物語を語れるはずがないと思ってしまう。
 「オータムン・イン・ニューヨーク」でも感じたことだけれど、なんとなく過度にロマンチックな感じで、個人的にはあまり好きになれない。ここまで徹底的に悲劇なんだから、もっと冷たく撮ってしまったほうがよかったんじゃないかと思いました。