しびれくらげ

1970年,日本,92分
監督:増村保造
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:渥美マリ、田村亮、川津祐介、玉川良一

 モデルのみどりは、ウェイトレスだったのを繊維会社の宣伝部員山崎に拾われグラビアに出るくらいのモデルになれたのだった。その山崎は恋人であるみどりに取引のためアンダーソンという米国人と寝てくれと頼む。一方みどりにはストリップ小屋の楽屋番をしているのんだくれの親父がいた。果たしてみどりは…
 一応「でんきくらげ」の続編という形だが、人物設定はまったく関係なく、物語もまったく違うもの。物語の質もそうとう異なっていて、この映画のほうが増村としてはオーソドックスに男と女の関係を描いていると思う。

 「でんきくらげ」は「女の生き様」という要素が前面に押し出されていた気がするが、こっちは「男と女の関係」というオーソドックスなテーマが一番大きな要素になっている。見る前は「でんきくらげ」と同じく、女が体ひとつでのし上がってくみたいな映画を期待していたのだけれど、その予想は裏切られた。まあ、でも、主人公の渥美マリが一本筋がとおっていて強いのだけれど、情にはもろいキャラクターである設定は同じ感じだったので、二つの作品がまったく異なるというわけではない。
 むしろこの作品は「遊び」に設定が似ている。ヤクザが女を手篭めにして体を売らせるという設定に何か思い入れがあったのかわからないけれど、ほとんど同じシチュエーションを使っている。しかも連れ込み宿の女将(雇われ女将)が同じ人(でも宿の名前は違った)。増村は女が買われたり騙されたりして売春婦になるという設定が好きらしい。そういえば「大地の子守歌」もそうだった…
 さて、作品に話を戻すと、この作品は最初のシーンからかなりひきつける。普通に寝室っぽいところで渥美マリはネグリジェ(と映画で言っていた)を脱いでいくのだけれど、その脱ぎ方が妙に大げさで、「何なんだ?」と思ってみていると、それがファッションショーだとわかる(ぱっと見ストリップにしか見えないけれど)。そのちょっと後のシーン、みどりと山崎が波止場に行ったシーンで、波止場に車(確か軽トラ)が整然とものすごい台数止まっている。これは圧巻。 「高度経済成長!」という感じです。やはりビデオの小さい画面で見ると構図なんかに目が行きにくいのですが、そのあたりはけっこう「おおっ」と思わせるところでした。

張り込み

2000年,日本,79分
監督:篠原哲雄
原作:華倫変
脚本:豊島圭介
撮影:上野彰吾
音楽:村山達哉
出演:若林しほ、小市慢太郎、堺雅人

 買い物をして団地に帰ってきた主婦スミレは人だかりと警察の姿を見つける。覗き込むとそこには布をかけられたルーズソックスの死体。その団地では自殺が相次いでいた。部屋に戻ったスミレのところに刑事と名乗る男が来る。男は向かいの部屋に爆弾犯人が潜伏していると言い、ここに張り込んでいいかときく。しぶしぶ中へと入れたスミレだったが、男の態度は張り込みをしているようにはとても見えなかった。いったい男は何者?そして目的は?
 ほのぼのとしたイメージのある篠原監督のサイコ・サスペンス。白黒を主体にした映像は恐怖感をあおるには最適なのかもしれない。

 現在が白黒で回想がカラーという普通とは逆の描き方のこの映画。確かに白黒画面のほうが不思議な怖さがある。あるいは、白黒というのは赤外線スコープの色なのだろうか。密室で起きるサスペンス劇を見つめるわれわれはどこから見ているのか?
 まあ、そんなことはいいんですが、この映画はなかなか怖いです。しかも徐々に徐々に怖くなっていく。最初からは予想もしない展開だけれど、振り返ってみると、最初部屋に戻ったスミレがなぜビールを飲み、何か物思いにふけるように座っていたのかという謎(といっても、最初見たときにはそんなあまり気にならない)も解けてくる。投身自殺という出来事が過去の出来事を想起させたということ。そのあたりの構成が巧妙である。だから恐怖をあおるあおり方も巧妙で、吉岡をあくまで不気味な男として描く。何かされているわけではないのに、何かされると決まったわけではないのに、しかし何も出来ない恐怖。ある意味ではカフカ的な抜け出せない迷宮に押し込まれてしまったような恐怖感。そしてそれは決して終わることがない。出口のない迷路に終わりはないということ。
 しかし、この映画で一番気になるのは吉岡役の小市慢太郎。笑ったり、無表情になったり、その表現力がすごい。何でもこの人は京都の劇団MOPの役者さんで演劇界ではかなり有名な人らしい。演劇の人が必ずしも映画で成功するわけではないけれど、この役者さんはいいかもしれない。

趣味の問題

Une Affaire de Gout
2000年,フランス,90分
監督:ベルナール・ラップ
原作:フィリップ・バラン
脚本:ベルナール・ラップ
撮影:ジェラール・ド・バティスタ
音楽:ジャン=ピエール・グード
出演:ジャン=ピエール・ロリ、ベルナール・ジロー、フロランス・トマサン、シャルル・ベルリング

 レストランでウェイターのアルバイトをしていたニコラはそこの常連客で実業家のフレデリックに声をかけられ、料理の味見をし、仕事を紹介するといって名刺を貰う。後日ニコラはフレデリックに呼ばれ、彼の味見係として雇われた。
 映画はそのエピソードと、いまは刑務所に入っているらしいニコラと周囲の人々に対する弁護士の質問で構成される。
 ある種のサスペンスではあるが、実業家と味見係という馴染みのないモチーフだけに難しいが、逆に不思議なスリルもある。

 結局何なんだ…
 ニコラの人格が刻一刻と換わっていくのはわかるし、それが不自然ではない形で示されているので、すんなりと物語自体には入っていけるのだけれど、結局なにがどうなっているのかわからない。ただ単にフレデリックがそもそも狂っていただけなのか、ただのサディストなのか… ただなんとなく怖い感じ。しかし、その怖い感じはわれわれの視点はニコラの友達の側にある場合に起きるわけで、ニコラやフレデリックの立場に立つと怖さはなくなってしまう。フレデリックはわけがわからないので、入り込めず、ニコラに入り込むのも難しく、結局中途半端な位置で映画と対峙しなければならなくなってしまう。そのあたりがこの映画のなじみにくいところなのでしょう。
 そう、なんだか釈然としない作品。ニコラがフレデリックを殺したという結末は映画半ばくらいで予想出来てしまうわけだし… いまひとつ釈然としないわけです。

イギリスから来た男

The Limey
1999年,アメリカ,89分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:レム・ドブス
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:クリフ・マルティネス
出演:テレンス・スタンプ、ピーター・フォンダ、ルイス・ガスマン、バリー・ニューマン

 服役中に娘ジェニーが交通事故で死亡したと知らされたウィルソンは娘の死を不審に思い、その真相を追究する。そこで浮上してくるのは生前のジェニーの恋人、テリー・ヴァレンタインなる人物だった。
 「セックスと嘘とビデオテープの」という冠も取れてきたスティーヴン・ソダーバーグのカッティングが冴え渡る作品。テレンス・スタンプも非常にいい。映画として芸術的でありながら娯楽性も高いというなかなかの傑作。

 なんといっても、最初から飛ばすソダーバーグの映像の作り方に圧倒される。特にカットのつなぎ方がすごい。最初のほうでは、テレンス・スタンプ演じるウィルソンの主観といえるシーンで、ひとつのシーンの中にいくつかの時間を混在させ、それらの時間の順序を明かさないまま短いカットでパンパンつないでいく。そしてさらに映像と音声(セリフ)があっていないという離れ業。それは観客に理解させようというのではなく、ウィルソンの感じている感じを漠然とつかませようという狙いなのだろう。
 そして、この映画はそれが漠然としたまま進んでいく。何かを確実に謎解きするというのではなくて、何かに導かれて進んでいく。テレンス・スタンプの徹底した無表情が我々に感情を持たせるのを拒む。感じるのは苛立ち。ウィルソンが感じている焦燥感。それは、ウィルソンが麻薬調査局のボスと対面する場面、ひとつセリフごとに次のセリフがまどろっこしいかのようにブツっとカットが切られる場面で頂点に達する。
 最後に謎解きがやってきても、我々はそれにそれほどショックは受けない。それはそのようであるということを受け入れ、ウィルソンの心にいまだぽっかりとあいている穴を感じるだけだ。とりあえず映画としてはすべてのパズルがはまりすっきりとして映画館を出られる。こういう映画はすごく好き。計算された無秩序というか、ある意味ではまとまっているのだけれど、内容的には完全な結末が用意されているわけではないというか、そのあと結局物語が散逸していくというか、そんな落ち着かない感じの映画。

クルーゾー警部

Inspector Clouseau
1968年,アメリカ,92分
監督:バッド・ヨーキン
原作:ブレイク・エドワーズ、モーリス・リッチリン
脚本:トム・ウォルドマン、フランク・ウォルドマン
撮影:アーサー・イベットソン
音楽:ケン・ソーン
出演:アラン・アーキン、フランク・フィンレイ、デリア・ボッカルド

 列車強盗事件の一味が新たな犯罪計画を立てていることを突き止めたスコットランド・ヤードはフランスから名警部クルーゾーを呼び、事件を任せることにした。署長は署内にもスパイがいるといい、クルーゾーに警戒するようにいうのだが…
 「ピンクの豹」でおなじみとなったクルーゾー警部が活躍するアクション・コメディ。今回はアラン・アーキンがクルーゾー警部を演じる。おそらく、ピンク・パンサーをアメリカ版として作ったのだろう。イギリス独特の妙な笑いの間がなくなり、すっと入っては来るのだが、なんだか物足りない気もする作品。

 「ピンクの豹」のリメイクというわけではない。かといって続編でもなさそう。やっぱりアメリカ版なのでしょう。ピンク・パンサー・シリーズは「ピンクの豹」に始まり、何本も作られているけれど、この作品は「ピンクの豹」と「ピンク・パンサー2」の間に作られている。監督もオリジナルのブレイク・エドワーズではない。主演もピーター・セラーズではない。つまり、おそらくピンク・パンサー・ファンはこれを認めない。私もあまり認めたくない。ピンク・パンサー・ファンでは決してないけれど。
 しかし、あくの強いピンク・パンサーと比べるとこの映画はすっきりとしている。イギリスの笑いに独特な妙に粘っこい間がないので、すっと入っては来る。でも、この映画はちっとも笑えない。面白くないわけではないけれど、笑わせようとしているところがすっかりわかってしまい、素直に笑えない。予測が出来てしまっては、この手のネタでは笑えない。したがって、ただのサスペンス映画になってしまう。
 ということで、なんだか中途半端な感じがしてしまう作品。

青髭八人目の妻

Bluebeard’s Eighth Wife
1938年,アメリカ,80分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:アルフレッド・サヴォアール
脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー
撮影:レオ・トーヴァ-
音楽:ウェルナー・リヒャルト・ハイマン
出演:クローデット・コルベール、ゲイリー・クーパー、デヴィッド・ニーヴン

 フランスのリヴィエラでパジャマの上着だけを買い求めようとする男。しかし店員に断られ一悶着。そこに現れた令嬢が自分はパジャマの下だけ欲しいと言い出した。よく眠れないという男に令嬢は「チェコスロバキア」を逆からいえばよく寝れると教え、男は令嬢に惚れたらしい。しかし、やはり眠れなかった男はホテルで部屋を変えてもらおうとし、案内された部屋には侯爵という男が居座っていた。しかしその男は昨日令嬢が買ったパジャマのズボンをはいていた。  ルビッチが当時まだ若かったブラケットとワイルダーを脚本家に起用。とにかくすごいスピードで映画が進み、細かい描写は一切省略。今見てどれくらい笑えるかは好みの問題ですが、軽いネタとシニカルな笑いを織り交ぜるところはなかなか巧妙。

 今みると、あまり笑えるネタはないですが、デパートの社長がパジャマのズボンを穿いていなかったりという単純なネタは時代を超えて笑えるものらしい。前半はそんな軽い感じのネタをルビッチのスピードで押し切る感じ、後半はなんだか話も停滞、笑いもシニカルになっていき、なんとなくワイルダー味が出てくる感じ。  ルビッチの作品群の中で特に傑作というわけではないですが、ルビッチらしい作品のひとつだし、ビリー・ワイルダーと組んだというのも話題のひとつにはなるでしょう。ワイルダーは当時まだ30台の前半で監督をやる前、この後「ニノチカ」でもルビッチ・ブラケットと組んでいます。ブラケットは脚本家・プロデューサーとして有名な人で、このあともビリー・ワイルダーとコンビを組み、「サンセット大通り」などで製作・脚本を担当しています。映画史的にいえば、そんな人たちがはじめてであった作品なわけですね。そういうさめた見方をすることも出来ます。

月光の囁き

1999年,日本,100分
監督:塩田明彦
原作:喜国雅彦
脚本:塩田明彦、西川洋一
撮影:小松原茂
音楽:本多信介
出演:水橋研二、つぐみ、草野康太、井上晴美、真梨邑ケイ

 同じ剣道部で同級生の北原紗月と日高拓也。互いの気持ちを告げることが出来ずに2年近くのときを過ごしてきたが、拓也の親友マルケンが紗月にラブ・レターを渡してくれるよう拓也に頼んだことをきっかけに、二人はようやく思いを通い合わせることが出来た。2人は普通に付き合い始めるのだが、拓也にはなんともいえない違和感と満たされない思いがあった。
 いわゆるノーマルではない性癖を持つ高校生の拓也が求める究極の愛とは何なのか? 濃密で美しい屈折した純情さを描いた青春映画の傑作。

 この世界観は素晴らしい。高校生を主人公に選び、マゾヒズムとフェテシズムをうまく描きこんでいるのがすばらしい。説明するのがバカらしいくらいストーリーに力があり、ぐんぐん引き込まれていく。最初の爽やかさが徐々に崩れていく中、しかし高校生であるという条件を生かして純粋さというか未熟さを残し、深みには入り込みすぎない。SMの世界へと入り込んでいく激しさを描くよりも深みのある世界観を描けていると思う。そのあたりはかなり原作のコミックによるところが大きいのでしょうが、それは気にせず純粋に映画として楽しみましょう。
 それから、この映画が映画として秀逸なのは、1カットでフィックスフレームでの構図の変化。固定されたフレームの中で、均整の取れた構図がアンバランスな構図へと変化するその変異が美しい。ひとつは風邪で寝ている卓也の顔の汗を紗月が拭くシーン。椅子に座っていた紗月が卓也の枕もとへかがみこむ瞬間、右へと偏るその変化。もうひとつあげればラストシーン、土手の上に座る紗月のところへ拓也が登っていくシーン、こっちはさらにこっていて、最初左に2人という偏ったフレームから、拓也が一度右に移動してバランスが取れ、また左に移動してアンバランスになるという変化。他にもあちこちにありました。
 かなりロケハンを重ねていそうな風景も素晴らしい。風景が風景として撮られているところはあまり無いけれど、ロングショットを多くしてかなり風景を意識的に見せている感じはしました。
 役者さんたちもちょっとセリフはおぼつかないところもありましたが、表情による表現が非常によくて、かなりの緊張感とリアリティーを感じましたね。
 かなり好きですこの作品。「どこまでもいこう」もよかったですが、こういうちょっとドロッとした作品のほうが噛みがいがあっていいですね。

25年目のキス

Never been Kissed
1999年,アメリカ,107分
監督:ラージャ・ゴスネル
脚本:アビー・コーン、マーク・シルヴァースタイン
撮影:アレックス・ネポンニアシー
音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:ドリュー・バリモア、デヴィッド・アークエット、ジョン・C・ライリー、リリー・ソビエスキー、ジェレミー・ジョーダン

 シカゴ・サン・タイムズのコピー・エディターのジョジーは優秀だけれど見た目はぱっとしないし、内気できちんとした正確。そんな彼女がハイスクールに覆面記者として潜入することになった。しかし彼女は高校時代いじめられた悲惨な思い出しかなかった。果たして彼女の二度目の高校生活はうまくいくのか…
 ドリュー・バリモアがプロデュースも担当した爽やかなラブコメディ。わかりやすくハリウッドなので安心してみることが出来る。ことごとく平均点かな。何か見るの無いかなという人や、ドリュー・バリモアファンの人や、ジョン・C・ライリーファンという渋い人や、「え? ジェレミー・ジョーダンってあのちょっと前に歌手やってたジェレミー・ジョーダン? 好きだったんだ。」という人にお勧めです。

 まず難点をいえば、ちょっと設定が不自然ね。あんなにまがまがしく持ち物検査をやってるのに、あんなに簡単に入り込めるってのがどうにも怪しい。ドリュー・バリモアはまあまあ記者だからいろんな伝もあるだろうけれど、弟のロブにいたってはどうして普通に入り込めてるのか一向にわからない。そんな疑問が頭を掠めてしまいます。そしてやっぱり高校生には見えないドリュー・バリモア。でも、それは個人的には許容範囲でした。
 いいところは… 全体的に…
   一番よかったのはオープニングとエンドロールかな(苦笑)。音楽もいいし、映像の作り方もなかなか。オープニングのほうが好きだけれど、エンドロールの卒業写真ってのもかなり冒険していてよかったですね。

完全なる飼育

1999年,日本,96分
監督:和田勉
原作:松田美智子
脚色:新藤兼人
撮影:佐々木原保志
音楽:十川夏樹
出演:竹中直人、小島聖、北村一輝、泉谷しげる、渡辺えり子

 見知らぬアパートの一室で手錠をかけられ、全裸で目を覚ました少女。彼女はランニング中に薬をかがされ、監禁された。男は少女が目を覚ますと「誘拐して申し訳ありません」と謝り「完全な愛が欲しい」とほざき、「あなたを飼育します」と宣言する。
 「あの」和田勉が監督、故松田優作の夫人でノンフィクション作家の松田美智子の原作、さらに新藤兼人が脚本。小島聖がヌードになったりと話題だけは事欠かない作品ですが、映画としては…

 前半は、なかなかスリリングなサスペンスタッチで、小島聖の大胆さ(ぬぎっぷりも演技自体も)もかなりよかったんだけれど、途中からそうとう厳しくなる。どこからかというと、それははっきりしていて、監禁してからしばらくたって、小島聖が竹中直人を誘惑してバスローブの肩をさっとはずすところから。なぜなら、そこがスローモーションになるから。それは陳腐でおそらく映画としてはやってはいけないことだから。それまでは何とか並の上くらいでもっていたのが、一気に崩れ落ちます。まず、それに続くシーン、ただいたずらに時が過ぎていくことをあらわす日めくりカレンダー。この陳腐さも噴飯もの。そして、その日めくりが過ぎての朝、アパートの外景の画面に響き渡る小鳥の声! アー、もうだめ。後は、転がる石のごとくです。温泉旅行で話的にちょっと盛り返すかなと思わせるけれど、結局そのあとさらに転がり落ちていきます。その辺はもうそこら辺のAVよりひどいポルノ映画。和田勉の願望を映像化しているだけと見ました。外出するとなると、突然セーラー服だし、いままでずっとバスローブだったのに突然Tシャツを着ているともったら、案の定服のままシャワーを浴びるし、という感じです。

ロルカ、暗殺の丘

Death in Granada
1997年,スペイン=アメリカ,114分
監督:マルコス・スリナガ
脚本:マルコス・スリナガ、ホアン・アントニオ・ラモス、ニール・コーエン
撮影:ファン・ルイス=アンシア
音楽:マーク・マッケンジー
出演:アンディ・ガルシア、イーサイ・モラレス、エドワード・ジェームズ・オルモス、ジャンカルロ・ジャンニーニ

 1950年代のプエルトリコ、そこに住む小説家の若者リカルドはスペインのグラナダで生まれ育ち、内戦に際して家族で移住してきたのだった。そして、リカルドはスペインにいた頃、ない戦中に謎の死を遂げた詩人ロルカに一度だけ会って話をしたことがあった。そんな彼は今、スペインの詩人たちについての文章を書いている。そこで彼は、ロルカの死の謎を解明するため父親の反対を押し切ってスペインに向かった。
 いまだフランコ政権下にあるスペインを舞台にすることで、謎の解明という物語にサスペンスの要素を入れ込むことが出来たのがミソ。これがなければ退屈な映画になってしまっていたかもしれない。なかなかよく出来た映画がです。

 終わってみればなんとなくあやふやだったあれもこれも納得がいき、サスペンスとしては非常にうまくまとまっているでしょう。
 しかし、根本的なところで、主人公がなぜそこまでロルカを殺した人が誰かということにこだわるのかがつかめなかった。だから、映画の勢いに乗ってしまえばすごく面白くみれるのだろうけれど、一度そこに引っかかってしまうとなかなか入り込めないのかもしれないとも思いました。
 もうひとつわからなかったのは、出てくる人みんなの「目」。みんながみんなすごくもの言いたげな目をしていて、しかし何も言わない。でも、このわからなさはいいわからなさですね。この「何か言いたいけどいえない目」というのがこの映画のすべてを象徴するものであるということになるのでしょう。そしてほとんどの人は最後まで何も言わない。このあたりがかなり巧妙に計算されている気がしましたね。ちょっと多すぎたかなという気もしましたが、効果を損ねるほど濫用しているわけではないと思うのでよしとしましょう。
 というわけで、この映画は「目」の映画。「目」でいかにものを語るか、言葉だけが物事を語るのではないという、わかりきっているようでなかなか実感出来ないことをなかなかうまく表現した映画だったと思います。