1963年,日本,93分
監督:増村保造、吉村公三郎、衣笠貞之助
脚本:白坂依志夫、笠原良三、新藤兼人
撮影:石田博、小原譲治、渡辺公夫
音楽:芥川也寸志
出演:滝瑛子、ジェリー藤尾、江波杏子、叶順子、川崎敬三、益田喜頓、乙羽信子、森光子、船越英二

 増村・吉村・衣笠という人気監督を集めて撮られた三話オムニバスの映画。
 第一話:プレーガール
 何人ものボーイフレンドを掛け持ちする短大生の万里子だが、本命の菊村には美恵というガールフレンドがいて…
 第二話:社用2号
 スポンサーの社長のコネでドラマに出演している新子は自分がドラマを降ろされたことを知って愛人である社長に訴えるが…
 第三話:三女体
 田代幾馬が愛人の道代にピストルで殺される。彼の死をめぐって警察と道代と本妻の安子が繰り広げる騒動の顛末は…

 それぞれ簡単に感想を。
 第一話は増村的世界であるようで、まだ入っていないというイメージ。主人公の万里子は増村が好むキャラクターだが、いかんせん30分という時間は短すぎたか、これから物語が始まるぞという感じがしてしまう。もっと主人公のキャラクターを膨らませて、プロットを複雑にすれば増村作品一本出来上がりという作品かな。
 第二話はかなりいい。吉村公三郎の作品はあまり見たことがないけれどこの作品はコメディタッチでありながら、女の生き様をしっかりと捉えている感じがする。そのあたりなんとなく増村と似ている。あるいは増村が吉村の影響を受けているのかもしれない。「女経」でもいっしょにやっているし、「暖流」など吉村作品を増村がリメイクしている(あるいは同じ原作を映画化している)作品もいくつかある
。  第三話は前二つとだいぶ趣が違う。衣笠というと時代劇という印象があって、こういう現代劇はあまりイメージがない。この作品は役者はかなりよくて、乙羽信子の演技なんかはすごいのだけれど、ほとんど全部の場面を語りにしてしまったので、いくら回想シーンが入るとはいえ動きが少ない印象になってしまった。

爛(ただれ)

1962年,日本,88分
監督:増村保造
原作:徳田秋声
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、田宮二郎、水谷良重、丹阿弥谷津子、船越英二

 増子は恋人の浅井に妻がいることを知った。浅井は妻と別れて増子と結婚するというが、増子は「奥さんに悪い」とか「寝覚めが悪い」といってあまり賛成していなかった。しかし結局妻と別れることを浅井は決意した。そんな時、増子の姪の栄子が浅井と増子の家に転がり込んできた。
 女同士の骨肉の争いという増村のもっとも得意とするジャンルを一種の群像劇として撮った作品。増村×若尾の10本目。ともに脂の乗り切った時期の作品。

 女同士の骨肉の争いを撮らせたら増村は世界一の監督だと思う。狂い死ぬ前妻、増子も狂気の一歩手前かあるいは一歩踏み込んだところまで追い込まれる。皆がふてぶてしく生き、生命を賭して戦っている感じ。この感じを出すのはすごい。
 この映画で特にそれが気になったのは音。ラーメンをすすったり、お茶をすすったりする音、病室で聞こえるカラスの声、それらは不自然に大きく強調され、見ている側の神経を逆なでする。それは劇中の人たちの気持ちの苛立ちをも表しているのだろう。
 構図は相変わらず。奥の人物にピントを合わせて前景をぼかしたり(しかもボケている部分が、画面の3分の2くらいを占める)、画面の中で要素を偏らせたりする構成にしびれる。

サブウェイ・パニック

The Talking of Pelham One Two Three
1998年,アメリカ,90分
監督:フェリックス・エンリケス・アルカラ
原作:ジョン・ゴーディ
脚本:ピーター・ストーン、エイプリル・スミス
撮影:フェリックス・エンリケス・アルカラ
音楽:スチュワート・コープランド
出演:ヴィンセント・ドノフリオ、エドワード・ジェームズ・オルモス、ロレイン・ブラッコ、ドニ-・ウォールバーグ

 2人の男が合図を送りあいながら地下鉄に乗り込む。駅に着くと別の2人が運転手と車掌を銃で脅し、電車を発車させた。地下鉄は四人の男女にハイジャックされた。果たして彼らのねらいは…
 1974年の「サブウェイ・パニック」のリメイク。アメリカでテレビ用の映画として作られた。フェリックス・エンリケス・アルカラはセガールの「沈黙の断崖」の監督。出演者たちも「どっかで見たことあるけど…」という感じ。

 テレビ用と考えるとなかなか優秀な作品。それはもちろんもとがあるからだろうけれど、しっかりとした脚本にしっかりとした映像。20分に一回くらい「ここでCM」というようにフェードアウトしていくのはご愛嬌。
 といっても、特筆すべきことはありません。全体に映像にフィルタがかかって青っぽい映像になっているのがなかなかいい感じ。ブルー役のヴィンセント・ドノフリオですが、どこかで見たことあるんだけど、結局どこで見たのかは思い出せずじまい。

ただひとつの拳のごとく

Las Banderas del Amanecer
1983年,ボリビア,92分
監督:ホルヘ・サンヒネス、ベアトリス・パラシオス
撮影:イグナシオ・アラマヨ
音楽:ハタリ・グループ
出演:ボリビアの人民たち

 1979年、ボリビアではナトシュによる軍事クーデタがおこった。しかしこれまでの軍事政権下での活動で力をつけてきていた労働総同盟は大規模なゼネストを打ってこれを打ち倒した。しかし、ことはそう簡単には行かない。左翼化を恐れる軍は再びクーデタを起こし、労働総同盟はさらなる戦いに入った。
 長い亡命生活からようやく帰国したウカマウ集団が再び遭遇した軍事クーデタ。今度は彼らはそれをドキュメンタリーという形で記録した。ウカマウの映画のひとつの分岐点となった作品。

 まず、ここまで堂々とウカマウが映画を撮れるようになったという意味で、それだけボリビアの民主化が進んだのだといえるだろう。だからこそウカマウはこの作品を最後に民衆を動員するような映画を撮るのは止めたのだろう。あるいはこの作品もすでに民衆を動員するという意図で撮られたというよりは純粋に人民の勝利の過程を記録しただけなのかもしれない。
 しかし、人民の勝利が完全ではないと考えていることは明らかだ。彼らが目指すのは社会主義体制であって、生ぬるい民主主義ではないのだ。それはこの映画の最後にあらわれている。しかし、この時点で社会主義の運動がいわれなき弾圧を受けることはなくなったことは明らかであり、それならばもう映画という手段を使わなくても社会主義を民衆に訴えることが出来るようになったのだろう。
 それにしてもこの作品はすごい。やはりこれまでの再現映画とは違ってドキュメンタリーという生々しさがある。表面上は同じなのだが、やはりその裏にある真剣さが違う。一つ一つの演説にしても声がかれるくらいに叫んでいるその声がリアルだ。だからこの作品はウカマウ映画のひとつの完成形であると私は思う。ウカマウがそもそも映画を撮り始めた理由「映画によって人民を感化すること」、これが「映画によって人民とともに闘うこと」に変化はしたが一貫して人民を動員するための映画を撮ってきたウカマウが結果としてそのような映画と決別することになった映画であるだろう。ただし、「地下の民」以降もスタイルは変わったとはいえ、根本的な姿勢は変わらないことも言っておく必要があるだろう。

男性・女性

Masculin Feminin
1965年,フランス=スウェーデン,104分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ギイ・ド・モーパッサン
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ウィリー・クラン
音楽:フランシス・レイ
出演:ジャン=ピエール・レオ、シャルタン・ゴヤ、マルレーヌ・ジョベール、ブリジット・バルドー

 ポールとマドレーヌはカフェで出会う。マドレーヌは友達のエリザベートと同居しながら、歌手になろうとしていた。ポールは兵役から帰ってきて雑誌社に職を見つけた。ポールはマドレーヌを盛んに口説こうとするがマドレーヌはなかなかそれに応じない。
 ポールとマドレーヌとの恋愛を中心に、60年代の若者たちを描いた作品。ゴダールはモーパッサンの短編『ポールの妻』と『微笑』に触発されてこの作品を撮ったらしい。

 一見素直な作品だが、非常に奇妙というか不思議な作品。恋愛とその友人たちとの関係といった部分はとてもわかりやすいが、それ以外の部分がかなり不思議。そして、その周縁の部分こそがゴダールが描きたかったもののような気がする。とにかくやたらと人が死ぬ。しかし死ぬ場面自体は出てこない。ガソリンを体に浴びて焼身自殺したり、いきなりナイフで自分を刺したり、何ナノこれは?  とどうしても思ってしまう。
 そして、『中国女』と共通する社会主義への関心、ポールのやっている「世論調査」なるもの。などなど、謎は山積み。
 しかし、ポールの友人のロベールが労働運動とマルクス主義に傾倒しているところはなんとなく「中国女」の雛形という感じがする。主人公のグループが5人というのも共通しているし、歌が印象的に使われているというのもあるし…
 といってみたものの、ちっとも分析にはなっていません。なんとなくの感じを書いてみただけです。やっぱりゴダールってのは入りやすくて、見ているとその世界にすっと入り込めて、でもその意味は一向にわからないという感じの作家であることを再確認するにとどまったというところでしょうか。

ペイ・フォワード 可能の王国

Pay it forward
2000年,アメリカ,123分
監督:ミミ・レダー
原作:キャサリン・ライアン・ハイド
脚本:レスリー・ディクソン
撮影:オリヴァー・ステイプルトン
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ヘイリー・ジョエル・オズメント、ケヴィン・スペイシー、ヘレン・ハント、ジェイ・モーア、ジョン・ボン・ジョヴィ

 中学1年の新学期、顔中にやけどの傷跡を持った社会科教師シモネットは生徒たちに「世界を変える」ことを課題にするように言う。生徒の一人トレヴァーは母と二人暮しだが、母は昼はカジノで夜はナイトクラブで働いてなかなか話も出来ない。そして彼は母がアルコール依存症から抜けきれないことを心配していた。
 そんなトレヴァーがシモネット先生の最初の授業の後、ホームレスを一人家に招いたのだが、彼はいったい何をしようというのか…
 「ピース・メーカー」「ディープ・インパクト」などを監督したミミ・レダーが挑むヒューマンドラマ。中心となる三人の役者がなかなかよく、わかっていても感動してしまう有無を言わせぬ感動作。

 本当に力ずくでも感動させてやろうという作品。なんか見え透いていていやなんだけど、感動しないわけには行かないという感じ。最後主人公の少年が… というのはちょっと予想してなくて、それに驚いている隙をついて感動させるという感じ。
 そんなひねくれたことを言いながら、全体としてはうまくまとまっていた気がする。ラス・ヴェガスという場所もよくて、「ヴェガスってこんなに田舎なんだ」と思ったが、その田舎具合が映画にはとても効果的。映像的にもきれいなコントラストが描けている。難点といえば、ちょっと中盤ストーリーの進行が停滞したという感じかな。といっても、わずかなものですが。もう10分くらい切れるかなという気はしました。記者の人がトレヴァーを轢きそうになるところとかね。物語に関係あるのかと思ったら全然なかった。あるいは逆にもう少しエピソードを詰め込んで長くしてみるとか。
 ということで、「また見たい」とはそれほど思わないけれど、人には薦められる作品かと思われます。

兵隊やくざ

1965年,日本,102分
監督:増村保造
原作:有馬頼義
脚本:菊島隆三
撮影:小林節雄
音楽:山本直純
出演:勝新太郎、田村高廣、淡路恵子、早川雄三、成田三樹夫

 軍隊嫌いで昇格もせず、一年後の除隊を楽しみにだらだらと上等兵をしている有田に一年兵の世話をしろという命令が下る。その一年兵大宮貴三郎は上官にはむかう問題児だった。しかし、有田は大宮を気に入り、大宮も有田を慕うようになっていった。そんな中、戦況は徐々に悪化して行く…
 増村がはじめて本格的に勝新太郎と組んだ作品であり、はじめての戦争映画でもある。しかし増村はこの作品を「青春映画」であると語った。

 舞台を軍隊に移しても増村は増村だということがまずある。それは主人公として描く人間の人間性であり、映画のとり方である。主人公が兵隊に代わっても増村の描く主人公は自分の意志を決して曲げない強い人間であり、しかし決して冷酷ではない人間だ。
 そして撮り方も変わらない。この時期多くの作品でカメラを勤める小林節雄がこの作品でもカメラを回し、変わらぬ質の映像を提供する。いつも言っている登場人物が片側による構図も相変わらず使われており、安心して見られる。
 この映画で面白いのはとにかく喧嘩のシーンがやたらと多いことと全体が意外にコメディタッチでまとめられているのだろうか。これまでの増村映画の印象からするとあまりアクションシーンというか殴り合いのシーンなんかはなかったような気がする。男が女を張り倒したり、女が男に馬乗りになったり、女が男を刺したりというシーンはあっても、それは一瞬のことであり、いわゆる喧嘩というシーンは印象に残っていない。だからどうということでもないのだけれど、この喧嘩のシーンで印象的なのは、決して蹴ったり殴ったりするときにアップに寄らないということだ。今普通に考えると、アクションの迫力を増すためには殴る瞬間をアップのスローで映したりするものだが、この映画では喧嘩のシーンはとにかく引きで撮る。寄っても全身映るくらい。これもひとつの増村美学なのだろうかなどということを考えてしまった。

エントラップメント

Entrapment
1999年,アメリカ,113分
監督:ジョン・アミエル
脚本:ロン・バス、ウィリアム・ブロイルズ
撮影:フィル・メヒュー
音楽:クリストファー・ヤング
出演:ショーン・コネリー、キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、ヴィング・レームズ、ウィル・パットン

 1999年12月、ニューヨークの高層ビルのある部屋からレンブラントを盗み出した泥棒。保険会社の女性調査員ジンはそれが有名な美術品泥棒マックの仕業であると分析した。そしてジンはマックを罠にはめるべく、上司を説得しロンドンへ向かった。
 早い展開でどんでん返しの連続という典型的なハリウッド映画。ちょっとストーリー展開が強引な気はするが、スリルを味あわせる推理ものとしてはなかなかの出来。予想通り気楽に見られる作品でした。

 ニューヨークの空撮から入って、まずはセリフなしの泥棒シーン、うーんハリウッド映画が始まるぞ! というわかりやすい始まり方。しかし、最初のシーンで泥棒の顔を見せないところがなんかくさい、と思ったらやっぱり複線。複線に複線を重ね、どんでん返しにどんでん返し。こういう複雑な推理ものは好きだな。次の展開次の展開を読む楽しみがあって。
 そういうことなので、ストーリー以外の部分はその展開をじゃまさえしなければ許せてしまうというところがある。それに、展開が早いからちょっと「え?」と疑問に思うところがあっても、見ているうちに忘れてしまう。だから、黄金のマスクを取りに行くときに、行きは2分かかったのに、帰りは何で30秒で来れるんだとか、そんなことを気にしてはいけない。次の展開を予想しながら「やっぱりね」とか「そう来たか」とか「なるほどね」とか言っていればそれでいいんだと思う。

「女の小箱」より 夫が見た

1964年,日本,92分
監督:増村保造
原作:黒岩重吾
脚本:高岩肇、野上竜雄
撮影:秋野友宏
音楽:山内正
出演:若尾文子、田宮二郎、川崎敬三、岸田今日子、江波杏子

 製薬会社の株式課長川代はナイトクラブの経営者石塚による会社乗っ取りを防ぐため忙しく働いていたが、川代の妻那美子はいつも夫の帰りが遅いのに不満だった。そんなある日、友人の女医に誘われナイトクラブに足を運んだ那美子はそこで石塚に出会う。
 「愛」というものを徹底的に前面に押し出し、「愛」を巡って渦巻く男女の愛憎を描いた濃密な作品。

 この作品は、増村×若尾コンビが絶頂期を迎えていた頃の作品。『妻は告白する』『卍』『赤い天使』などと同時期に撮られた作品だが、作品のトーンはかなりメロドラマ色が強い。「私への愛とあなたの夢のどっちを取るの」と執拗に聞く那美子の激しさはすごい。しかし、那美子は石塚の前以外では鉄面皮に表情を変えず、淡々と語る。そのギャップを演じきれるところが若尾文子のすごいところなのだろう。特に石塚を待つ間に夫と兄がやってきたラスト近くの場面、若尾文子は眉一つ動かさず淡々と話す。その表情にしびれる。
 あとはやはりいつもどおりの増村節。今回は特に、画面の半分か3分の1を壁とか扉とかいったもので殺してしまう画面が多く用いられた。石塚と那美子がレストランで語る場面、石塚が話すときは左3分の1に柱、那美子が話すときには右3分の1に柱、この二つを切り返しで使う。これは見るとけっこう驚く。話している人に注目していると、次のカットでそこにいきなり柱が映るんだから。人物を画面の中央に配しての切り返しとは明らかに画面の印象が異なってくる。この感じが増村的なわけだ。
 というわけで、この映画は増村的メロドラマの典型のひとつということが出来るだろう。画面もストーリーも主人公のキャラクターも増村的な、ひとつの典型である。

ISOLA 多重人格少女

2000年,日本,94分
監督:水谷俊之
原作:貴志祐介
脚本:水谷俊之、木下麦太
撮影:栗山修司
音楽:デヴィッド・マシューズ
出演:木村佳乃、黒澤優、石黒賢、手塚理美、渡辺真紀子

 震災直後の神戸、人の心を読める「エンパス」である由香里は心のケアのボランティアをするために東京から神戸にやってきた。彼女はそこで、12の人格を持つ少女千尋に出会う。そして、彼女には震災後もう一人「ISOLA」という人格が加わっていたが、その人格は他の12の人格とは明らかに異なっていた。
 『黒い家』などで知られる貴志祐介の原作の映画化。黒澤明の孫娘黒澤優が映画初出演で千尋を演じる。原作はかなり怖いホラーだが、映画のほうはホラーではあるもののそれほど怖くはない。

 原作を読んでいてしまったので、怖さはほとんど感じず、長い小説をこなしきれていないという印象が残った。原作では「ISOLA」という名前の意味が終盤まで謎として怖さをあおるのに、映画ではいとも簡単にその名前の意味が明らかになってしまうのに拍子抜け。
 しかし、原作は読んでいないつもりで、この映画について考えると、出来はそんなに悪くないかもしれない。木村吉乃と黒沢優がいい。石黒賢はどうもいけない。CGなどの特殊効果が安っぽくてTVドラマ並。原作を読んでないつもりになっても、時間に対して内容が盛りだくさん過ぎたかなという印象は否めない。
 震災、多重人格、性的虐待、エンパスなどの要素を映画の中で生かしきれていない気がした。