ここから出ていけ!

Fuera de Aqui !
1977年,ボリビア,100分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団
撮影:ホルヘ・ビグナッティ、ロベルト・シソ
音楽:マルセル・ミラン、フレディ・シソ
出演:アンデスの農民たち

 アンデスにあるカラカラ村は姑息な政治屋にだまされないきちんとした意志をもった人々が住む村であったが、羊の皮をかぶった狼には抵抗出来なかった。カラカラ村にやってきた北アメリカの宣教師の一団は無料診療所を作って村人の信頼を勝ち取り、一部の村人を信仰に引き込むが、実際彼らがやっていたのは村人の不妊かと周囲の地質調査だった。
 味方の顔をして村に入り込み、利益をむさぼる北アメリカの帝国主義の実情を事実に基づいて描いた最後のいわゆる「ウカマウ」的作品。

 いままでウカマウが一貫して描いてきたハンヤンキー帝国主義というテーマを再び声高に訴える。扱う対象も『コンドルの血』で扱った平和部隊と重なるものであり、新しさはないし、結末も農民たちが年の労働者との団結を訴えて終わるという予想通りの展開で、ウカマウの映画を何本も見てから見ると、映画としての面白みには欠けるかもしれない。
 まあ、しかしウカマウ映画の本来の目的である反帝国主義という意識の喚起はこの映画でも実現されているのでよいのだろう。
 しかし、ウカマウはこの作品の次には『ただひとつの拳のごとく』というドキュメンタリーを撮り、あるひとつの新たな試みを行う。そしてさらにその次の作品は『地下の民』というよりフィクション性を強めた作品だ。それはこのころからウカマウにとってのひとつの役割が終わりつつあったということだろう。

濡れた二人

1968年,日本,82分
監督:増村保造
原作:笹沢左保
脚本:山田信夫、重松孝子
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、北大路欣也、高橋悦史、渚まゆみ、小山内淳

 32歳人妻の万里子は仕事仕事でまったくかまってくれない夫にまたも旅行を断られ、一人旅にでることにした。行き先はいず、昔女中をしていた勝江のところに厄介になることにした。そしてそこで漁師をする情熱的な25歳の若者繁男に出会い…
 円熟味を増した若尾文子の妖艶な演技と増村保造の粘っこい演出がなんともいえない激しく濃厚なドラマを作っている。

 いまなら昼ドラな感じのこの作品。若い男と旅先で不倫。しかし、その奥には増村らしい激しいドラマが… なんと言っても、最後まで若尾綾子が表情を崩さないのがすごい。喜びや絶望を表情に湛えはするのだけれど、最後までどこか余裕を感じさせる表情で押し切るその強さがやはり、増村保造的女性像を一身に受けた感じがして素晴らしかった。
 というのも、増村×若尾コンビはこの作品の次「千羽鶴」で最後となったのである。合計20本もの作品を作ったコンビでなければ出来ないいわゆる「あうん」の呼吸がこの作品には感じられる。増村が思い描く女性像を若尾文子がためらいもなく演じて見せるその刹那、北大路欣也が演じる繁男は間違いなく若造で滑稽で子供だ。最期一人悲惨な境遇に陥ったように見える若尾文子演じる万里子こそが実は真の自由と真の自分自身を手に入れた勝利者であるのだろう。そしてその自由を感受できるだけの強さを見につけるためにこの苦難が彼女に必要だったのだろう。
 私がここから勝手に読み取るのは、「女は強くあれ、しかし女は弱いものだ」という考え方。なんとなく明快ではないけれど、そんなことを増村×若尾コンビの映画は語りかけてくるように思える。

積木の箱

1968年,日本,84分
監督:増村保造
原作:三浦綾子
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:若尾文子、緒方拳、松尾嘉代、梓英子、内田喜郎

 北海道の富豪佐々林家の長男一郎は姉であると思っていた奈美恵と父豪一との情事を偶然覗き見て奈美恵が実は父の妾であったことを知る。一郎は父への反発心から家で食事することを止め、学校の近くのパン屋で毎日パンを買ううちに一人でそのパン屋を切り盛りする久代にあこがれるようになっていく。
 思春期の少年が大人の世界を垣間見たことから起きる煩悶を描いた。増村いわく「少年のヰタ・セクスアリス」。

 まず少年が主人公というのが見慣れない。そしてその少年のあまりのかたくなさにいらだつことしきり。いくら若尾文子と緒方拳が爽やかでも、少年が放つ停滞感を薄めることは出来ず、全体のトーンはかなり重い。しかし、その最大の要因であるはずの奈美恵のキャラクターが非常に増村的で逆にちょっと安心してしまう。普通の増村だったら奈美恵を主人公にして描くところを今回は逆の視点で描いてみたというところだろうか。
 ということで、全体的には少しバランスが悪いかなという感じがしなくもない。緒方拳も「セックスチェック」の強烈なキャラクターと比べるとなんだか弱い感じがしてしまうし、若尾文子も地味な人。
 そんな中、光っていたのは奈美恵を演じる松尾嘉代とみどりを演じる梓英子。その二人の火花散る戦いの物語にしてしまったらもっと増村的でもっと面白い映画になったんじゃないかと思ってしまうのは、私だけだろうか?

汚れた血

Mouvais Sang
1986年,フランス,125分
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ、シャルル・アズナヴール、デヴィッド・ボウイ、セルジュ・レジアニ
出演:ミシェル・ピッコリ、ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピー

 ハレー彗星の影響で異常気象に見舞われるパリ、マルクはメトロで自殺した仲間のジャンの死を怪しみ、「アメリカ女」がやったのではないかと疑う。しかし、マルクは「アメリカ女」への借金を返さねばならず、そのためには製薬会社に忍び込む必要があった。彼はジャンと同じく手先が器用なジャンの息子アレックスを誘おうと考えた。
 「ポンヌフの恋人」「ポーラX」のレオス・カラックスが世界的認知を得た作品。徹底的に作りこまれた映像美と難解な物語が独特の世界を作り出す。

 確かにこの作品はすごいんですが、あまり「すごい、すごい」と言われすぎている気もするので、へそ曲がりな私としてはちょっと文句をつけてみたくなるわけです。
 最初のあたりはかなりゴダールの影響を感じさせるモンタージュで始まり、しかし、アップの多用や普通のギャング映画のような物語が進行しそうで、「ちょっと違うのかな」と思わせる。この最初のシーンはかなりいい。年寄りばかりで構成したのも非常に面白い。
 次のシーンもなかなかいい。  しかし、その後映画が進むにつれ、物語としては魅力を失っていき、映像も「作り込み」が目に余るようになってくる。特に気になったのは映像で、新しいことをやろうという気持ちも、なにをやりたいのかもわかるし、確かに面白い構図なのだけれど、作りこみすぎて「自然さ」が失われてしまっているように見える。それは構図を守るために動きを奪われてしまったことからくるのだろう。たとえば、アナのアップの後ろでアレックスが動いているシーンがあって、最初は奥のアレックスにピントがあっていて、画面の3分の2を占めるアナはぼやけている。それが、突然ピントが切り替えられるのだけれど、そのためにアレックスの動きが非常に制限されてしまっている。その「構図のために人を動かしている」っていうのが、どうもね、気に入らないというか、そっちに目がいっちゃって映画の中に入り込みきれないというか、そんな居心地の悪さがあるんですね。
 とはいってもやはり、いい映画ではある。アレックスがデヴィッド・ボウイにのって疾走するシーンなどなどいいシーンはたくさんあるし、この監督はなんといっても女優の使い方がうまい。当時ほとんど無名だったジュリー・デルピーをうまく使っている。
 いわゆる「アート系」と呼ばれる映画だと思うんですが、その中でもかなり時代の先を行っていたのだなと感じるわけです。この映画にいたく感動する人の気持ちもわかります。
 私にはそこまでの真面目さがないということなのかな?

赤い天使

残酷な戦場で繰り広げられる壮絶な愛のドラマ、増村の傑作!

1966年,日本,95分
監督:増村保造
原作:有馬頼義
脚本:笠原良三
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、芦田伸介、川津裕介、千波丈太郎

 従軍看護婦の西さくらは中国大陸の野戦病院に配属された。前線の病院では手足切断などあたりまえ、バタバタと人が死んでいく異常な状況の中でさくらは女性としての信念を貫き行き通そうとしていた…
 増村×若尾コンビ15作目のこの作品は、いつものように激しく愛に生きる女の生き様を描き、さらに戦争を舞台に選ぶことでその壮絶さを増し、描写に深みが増している。増村保造の傑作のひとつ。

 この映画は始まりから強烈だ。映画が始まるのは看護婦の西さくらが天津に赴任するところから。そして、その最初のよる、さくらは早速強姦されてしまう。その痛々しい描写と妙に冷めている兵隊たちの対照的な態度が強烈な印象を与える。そして、映画が始まって物の数分もしないうちに、さくらは更なる前線へと送られる。そこでは気が狂うほどのけが人が運び込まれ、昼夜を徹して腕や足を切り続ける。増村はその描写に手を抜くことなく、足を切断する瞬間を捉え、切り落とされた腕や足であふれんばかりのバケツを映す。この映画が白黒でよかった。これがカラーで描写がリアルだったら、このシーンにはとても耐えられないと思う。その意味では、この映画はあえて白黒なのかもしれないとも思う。過酷なテーマと陰惨な情景、それをカラーでリアルに表現して観客に衝撃を与えるよりも、白黒にすることで観客の頭の中で映像を組み立てさせ、強い印象を残す。そのような戦略であるのではないか。

 まあ、ともかく、この映画の衝撃的な始まり方は見事にこの映画のテーマを浮き彫りにする。それは「性」と「死」である。戦場でいつ死ぬかわからないという切迫した状況に立たされている兵士たちの性、それがこの映画の最大のテーマとなっているのだ。

 戦争という極限状態の中では、男女の間にはセックスという関係しか成立しえないのだろうか? そのような疑問がこの映画からは感じられる。強姦、慰安婦、などなど。そんな中で西さくらは岡部軍医を愛するようになる。しかしそのときの「愛する」ということの意味はいったい何なのだろうか。

 基本的にこの映画の中で人を愛しているのは西さくらだけだ。他の人たちはあきらめているか、絶望しているか、感覚を押し殺しているかである。

 たとえば、看護婦や軍医はそれほど死が切迫していないがゆえに「兵隊は人ではなくて物だ」などということを言う。彼らは兵士を人として見てしまうことによって押し寄せてくる怖さや悲しみを自ら遠ざけ、感情を押し殺し、実は自分の身近にも迫っているはずの死を遠ざけようとする。戦場という場に漂う死の空気に感染しないためにその空気の源泉である兵士を遠ざけ、自分は安全な場所に避難しようとする。もちろん安全な場所など存在しないし、そのことはわかっているのだけれど、そのようにして自分が安全であるという錯覚にすがらなければ生きていけない、そのためには感覚の切断によって自己保存を図らなければいられないのだ。もちろん岡部軍医が使うモルヒネというのがその感覚の切断をもっとも端的に表しているものだ。鎮痛剤であるモルヒネはまさに感覚の切断を意味している。

 もしかしたら岡部軍医がやたらめったら手足を切るのも、そのような切断の象徴なのかもしれない。彼は自分の感覚を切断するように手足を切断する。そのことで兵士を死から遠ざけると同時に、自分自身も死から遠ざかろうとする。

 しかし、西はそのような幻想にしがみつくことを拒否し、兵士とともに死に直面することを選ぶ。そして彼らに愛を振りまく。強姦されても、乱暴されても、自分が「殺した」ことになるしを受け入れるよりも、彼らを愛そうとするのだ。それがゆえに、彼らが物であるとか、他人であるとかと言って常に逃げようとする軍医や婦長に反発する。

 しかし、死に囚われている兵士たちもまた彼女を受け入れはしない。兵士たちの多くもまた感覚を切断することで死の恐怖から逃れようとしているのだ。だから彼らは愛されることを望まない。愛されてしまえば、死ぬことが怖くなるからだ。彼らは自分が求めているのは愛ではなくセックスだと自分に言い聞かせることで感覚を切断して行くのだ。

 あるいは、絶望からそれが反転する場合もある。映画の途中に登場する川津祐介演じる折原一等兵は、岡部軍医に腕を切断され、病院にずっといる。そのような悲惨な傷病者を帰すことは戦意の減退につながるということで内地に帰ることも出来ず、永遠にそこにとどまることになるとあきらめているのだ。彼は絶望しており、死を恐れていないから、感覚を切断することもなく、西が振りまく愛を受け入れる。西はその愛を岡部軍医に対する愛の延長であるかのように捉えるけれど、このことから明らかになるのは、岡部軍医に対する愛というものこそが西が振りまく無私の愛の延長にあるものだということだ。彼女が岡部軍医に好きな理由を「父に似ているから」というとき、重要なのは本当に父に似ているかどうかとか、近親相姦的欲望を抱えているかどうかということではなく、「父」という名前に象徴される崇高なものへの愛の具現化であるということだ。

 「西は人形ではなく、女になりたいんです」

 西のこの印象的な台詞の意味は「愛して欲しい」ということだ。それは自分が捧げる愛を返して欲しいということだと西はとっているが、これはむしろ岡部軍医に自分を通じて崇高なものへの愛を取り戻して欲しいという意味だと考えたほうがふさわしいのではないか。感覚を切断し、愛し合いされることを拒否し、最終的には絶望するのではなく、崇高なものに愛を捧げることによって生きようと努力すること、それこそが重要だと言っているのだ。

 この「崇高なもの」とはもちろん天皇ではないし、キリスト教的な神というわけでもない。もっと曖昧模糊とした価値あるもの、それが内地に残してきた子供という形をとったっていいし、もちろん宗教的な神という形をとったっていいわけだが、それらに化体される「父」なるものを西は愛するのだ。

 だから、西は岡部軍医よりもはるかに強い。そして、その強さというのは西のみならず戦時の女性全般が持っていた強さなのかもしれないのだ。戦後強くなったのは女と靴下といわれるように、戦後女は強くなったのだが、実は恩が強くなったのは戦後ではなく戦中なのではないか。男たちが「自分たちは戦っている」という大義名分の陰に隠れる一方で、生身で戦争に立ち向かわなければならなかった女たちは強くなった。西はそのような女たちの代表であるのだ。強くなるということは男になることではなく、より強く「女」であることである。「女」という記号が象徴するのは「母」つまり「愛するもの」である。女たちは「女」であることによって男よりも強くなり、自分を守っていたのだ。

 そのような「女」西さくらを演じるこの映画の若尾文子は本当にすばらしい素晴らしい。若尾文子のフィルモグラフィーの中でも1、2を争う出来、「女」らしいキャラクターとしては一番かもしれない(それと対照的なキャラクターを演じたすばらしい作品としては川島雄三監督の『しとやかな獣』などがある)。

 もちろん、増村保造監督の下で、若尾文子はさまざまな女を演じてきた。そして、この作品の若尾文子はそのさまざまな女の集大成を演じているようなのだ。フィルモグラフィー的にはこの後も『妻二人』『華岡青洲の妻『積木の箱』『濡れた二人』『千羽鶴』と増村作品に出演しているが、実質的にはこの『赤い天使』とその前の『刺青』が増村保造と若尾文子が組んだ作品の頂点に当たるのではないだろうか。

 ただ、興をそぐようではあるが、若尾文子は決してヌードを撮らせなかったことで有名な女優でもあり、この映画でもきわどい場面はほとんどがボディ・ダブルだと思う。注意深く見ていると、体をきわどく写すカットでは顔が映っていない。しかし、それも含めて、それが彼女の女優魂であるのだとも思う。別に裸で客を引っ張り込む必要はない。弱い男たちに彼女は愛を捧げ、男たちは自分が強くなったような気がして満足して帰って行くのだ。

 そういえば、この作品では西と岡部軍医がいるシーンで、画面に遮蔽物が映っていたり、画面の半分が暗くなっていることが多いような気がする。このようなシーンはおそらく観客に覗き見しているかのような感覚を与えることになるだろう。覗き見しているということは、つまり見ている側は安全な場所にいることを意味しているから、このような画面の作り方までもが男どもを励ましているかのように思えてきてしまうのだ。

ミッドナイト・ラン

Midnight Run
1988年,アメリカ,126分
監督:マーティン・ブレスト
脚本:ジョージ・ギャロ
撮影:ドナルド・ソーリン
音楽:ダニー・エルフマン
出演:ロバート・デ・ニーロ、チャールズ・グローディン、ヤフェット・コットー、ジョン・アシュトン

 ロサンゼルスに住む元刑事の賞金稼ぎジャックは保釈金保険業者のエディの依頼で容疑者を捕まえいている。今回は、マフィアの金を横領し、福祉団体に寄付した会計士のジョナサン“デューク”マーデュカスがターゲット。ジャックはマフィアとFBIの裏をかき、さっさとNYでデュークを確保したのだが…
 適度な笑いとアクションをちりばめた、ロード・ムーヴィーの傑作。物語のプロットが非常にうまく練られていて、一度見始めたらとまらない映画に仕上がっている。

 このころのデ・ニーロも好きだし、こういったおおらかな感じのアクション映画も好き。適度に笑いがあるほうがいいし、ロードムーヴィーは大好き。ということで、個人的な好みとしては最高!
 ですが、それは置いておいて、少々分析してみましょう。まず優れているのはプロット。話自体はそれほどひねっていないのだけれど、ジャックとジョンの関係に加え、マフィア、FBI、マーヴィン、エディ、ジャックの元妻と娘、がしっかりと話の縦糸に織り込まれ、うまくかみ合っている。どの要素もおまけのエピソードというふうにはならず、何らかの形で作品を引っ張っていく。だから、よく考えてみれば単純なストーリーを単純に感じさせずに最後まで押し切ることが出来ているのだろう。
 そして、それを非常に素直に撮影しているのだが、何せ登場人物が多いし、話の流れがいくつもあるので、次のシーンがどんなシーンなのか予想がつかないというのがいい。この映画ではシーンとシーンが1カットでつながっていることが多い。つまり、ひとつのシーンの最後のカットと次のシーンの最初のカットをひとつのカットでまとめてしまうということ。
 例えば、最後のほうで、トニーたちがジョンを連れてホテルに入っていくシーンで、トニーがホテルの中に入ったあと、カメラがパンすると、張り込んでいるFBIが移って、そこでカットが切れて、FBIのモーズリーのシーンになる。こんな感じ。
 これがどうと言う訳ではないんですが、こういう地味な工夫が物語りのスムーズな流れを生み出しているんではないかと思ったわけです。
 ちなみに、監督のマーティン・ブレストは「ビバリー・ヒルズ・コップ」の監督でもあるので、こういったアクション・コメディはお手の物という感じですね。
 さらにちなみに、脚本を書いているジョージ・ギャロはこの映画のヒットに気をよくし、”Another Midnight Run”というシリーズもののテレビ映画を3本作りました(プロデュース)。前にこのメルマガでも取り上げましたね。邦題では「ミッドナイト・ラン1」「--2」「--3」となっています。こっちもなかなか面白いです。

エディー/勝利の天使

Eddie
1996年,アメリカ,101分
監督:スティーヴ・ラッシュ
脚本:ジョン・コノリー、デヴィッド・ルーカ、エリック・チャンプネラ、キース・ミッチェル、スティーヴ・ザカリアス、ジェフ・ブハイ
撮影:ヴィクター・ケンパー
音楽:スタンリー・クラーク
出演:ウーピー・ゴールドバーグ、フランク・ランジェラ、デニス・ファリナ、ウォルター・ペイトン

 NYニックスの大ファンのエディは今日も不振のニックスを応援しにマジソン・スクエア・ガーデンにいた。そんな中ハーフタイムのシュートコンテストに参加したエディは見事に名誉コーチの座を手にしたが、興奮して審判に暴言を吐き退場処分になってしまう。しかし、そんなエディへの歓声に目をつけたオーナーが彼女を本当のコーチにすることに…
 出演者のほとんどがNBAの本物のプレイヤーという異色のコメディ。物語としてはいわゆる「メジャー・リーグ」型サクセス・ストーリー。

 ニックスの選手として出演している選手たちもチームは違うものの本当のNBAプレイヤーというところがかなりすごい。ふつうは、主人公たちは俳優を使って、対戦相手は本物というのが多いけれど、これはみんな本物。パットン(マリク・シーリー)がワン・オン・ワンで対戦する選手はペイトンだし、ラリー・ジョンソンは出てくるし、もう大変。
 なんですが、他の部分はまったくもって、ありがちなお話。弱小チームが突然強くなって… というスポーツものにはお決まりのストーリーなので、プレーの部分で見せるしかなかったんじゃないかと思うんですが、それほどスーパープレー連発!というわけでもない。
 ので、まあNBAを知らなきゃ大して面白くもない映画ですね。
 個人的にはけっこう楽しめましたが…

大いなる幻影

1999年,日本,95分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
撮影:柴主高秀
音楽:相馬大
出演:武田真治、唯野未歩子、安井豊、松本正道

 舞台は2005年、場所はおそらく東京近郊。恋人同士であるハルとミチ。ハルは音楽を作っているらしく、ミチは郵便局のようなところで働いている。すべてが無機質で暴力があたりまえのように行われている世界。しかし血なまぐさいわけではない世界。
 脈略のない、しかし断片では決してない物語と、ロングショットの映像。ある意味では新たな映像世界を切り開いたと言えるのだろうけれど、なかなか消化しきれない作品。

 大体言いたいことはわかる。でも面白くないんだこの映画は。しばらく時間を置いたらまた見たくなるような気もするけれど、いわゆる「面白い」映画ではないし、芸術的あるいは哲学的な映画でもない。だからと言って見たのが時間の無駄だったという種類の映画ではなくて、あとからじんわり「ん?」「んん?」という感じでボワボワしたものが頭の中に浮かんでくる感じ。それが何なのかはわからないけれど、黒沢清が徹底的に描いている「怖さ」にとっての根源的な何かであるような気もする。
 かなり言葉に詰まりますが、この映画の怖さというのは、いわゆる近未来に対する恐怖のようなもの(花粉症が例ですね)でもあり、もっと何か根源的なものでもあるような気がする。それが何かは漠として捉えられないのだけれど、その漠としているところはこの映画の製作意図でもあるだろうから、そのまま、漠然としたまま受け取っておいたほうがいいのでしょう。
 などと、終わって考えてみると、いろいろ浮かんでくるんですが、見ているうちはけっこう眠い。セリフなしで固定カメラのロングショットが何分も続いたりするから仕方がないことなんだけれど、まあ少々寝てしまっても映画の全体像を捉えるのに支障はないのでいいでしょう。ウトウトしながら2回連続とかで見てみると意外といいのかも知れない、などと勝手なことを思ったりする。

恋におちたシェイクスピア

Shakespeare in Love
1998年,アメリカ,123分
監督:ジョン・マッデン
脚本:マーク・ノーマン、トム・ストッパード
撮影:リチャード・グレートレックス
音楽:スティーヴン・ウォーベック
衣装:サンディ・パウエル
出演:グウィネス・パルトロウ、ジョセフ・ファインズ、ジェフリー・ラッシュ、ベン・アフレック、ジュディ・デンチ

 街の劇場の作家ウィル・シェイクスピア、彼の詩を愛し役者にあこがれる両家の令嬢ヴァイオラ。ヴァイオラはスランプに陥っていたシェイクスピアの新作のオーディションに男装し、トマス・ケントと名乗って参加する。シェイクスピアはその演技に目を留め、逃げ出した彼を追いかけ、ついにヴァイオラの屋敷に来てしまう。その夜、楽士に紛れ込んで屋敷にもぐりこんだウィルは美しいヴァイオラを見て、一目で恋におちる。
 若き日のシェイクスピアが「ロミオ&ジュリエット」を完成させる背景にあった恋物語(フィクション)を描いた歴史物語。

 非常に普通のラブ・ストーリーだけれど、さすがにグウィネス・パルトロウはアカデミーらしい演技をしている。トマス・ケントのときの声色の変え方なんかがかっこいい。知らずに見ていたら、わからなかったかどうかは謎ですが、どうでしょうね。「クライングゲーム」とか「エム・バタフライ」みたいに、見事にだますことが出来たか…
 それはそれとして、いい演技、いい脚本があって、シェイクスピアという未だに人気のある人物を扱ってマジめっぽう作品を作れば、こんな作品が出来るでしょう。そして、アカデミー賞も取れるでしょうという見本のような映画。学校の教科書で必ずシェイクスピアを読むアメリカ人にとってはうなずける話なのでしょう。しかし、シェイクスピアにそれほど馴染みのない日本人にとっては「十二夜」がどんな話かわからないし、「タイタス・アンドロニカス」なんて「なんか聞いたことある…」程度だし、こんなシェイクスピア解釈が生まれる前提なんてひとつもわからないのです。
 そういうことなので、私にとってはこの映画は単なるひとつのラブ・ストーリーだったわけです。でも、私はこういう中世あたりを舞台にした映画はけっこう好きなようで(自分では気づいてなかった)、この映画もなかなか楽しめました。

逃亡者

The Fugitive
1993年,アメリカ,130分
監督:アンドリュー・デイヴィス
脚本:ジェブ・スチュアート、デヴィッド・トゥーヒー
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ハリソン・フォード、トミー・リー・ジョーンズ、ジュリアン・ムーア、ジョー・パントリアーノ

 妻殺しの嫌疑をかけられ、試験となったリチャード・キンブルは護送車の事故に乗じて脱走し、執拗に彼を追うジェラード警部の追跡から逃れながら真犯人を探し出そうとする。
 有名なテレビシリーズをハリソン・フォード主演で映画化した当時の話題作。ジェラール警部を演じるトミー・リー・ジョーンズがアカデミー助演男優賞を受賞した。

 いいですね。面白いですね。まっとうなサスペンスですね。ちょっとハリソン・フォードがいいもの過ぎるのが気になりましたが、トミー・リー・ジョーンズは非常にいいキャラですね。そして彼の仲間たちもかなり素敵な感じです。ちょっと前に、この映画の続編と言っていい「追跡者」という映画を紹介しましたが、それはこの映画でトミー・リー・ジョーンズと仲間たちだった人が主人公の映画で、そっちを見てから、この映画を見返してみると、そのトミー・リー・ジョーンズの仲間たちのキャラに深みが出てきて楽しめますね。
 頭からかなりオーソドックスな映画で、裁判シーンに回想シーンに冤罪という、典型的な展開に、護送車が事故で犯人が逃亡という「手錠のまゝの脱獄」以来のハリウッドの伝統的脱獄手法が出てくるのもまたオーソドックスです。
 といってもそれもこれもおそらく何度も見ているせいで、ほとんどの展開がわかってしまうからなのでしょう。最初に見たときには相当手に汗握り、ハラハラドキドキしながら見ていたはずです。それくらいオーソドックスでいて良質のサスペンス。犯罪の種明かしの仕方も、心理的な盛り上げ方も、いいのですよ。
 私はこの映画がなんだか好きです。なにがと言うわけではないですがなんとなく好き。テレビでやっているとなんとなく見てしまう。やはり脇を固めるマイケル・チャップマン(「レイジング・ブル」)やジェームズ・ニュートン・ハワード(「ER」のテーマ曲を作った人)の力もあるのかもしれません。