痴人の愛

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:谷崎潤一郎
脚本:池田一朗
撮影:小林節雄
音楽:山本直純
出演:安田道代、小沢昭一、田村正和、倉石功

 工場で実直な技術者として働く河合譲治はひそかに家に自由奔放な女ナオミを住まわせていた。譲治はナオミを自分の理想的な姿に育て、惜しみなく金を注いでいたのだ。
 三度も映画化されている谷崎潤一郎の『痴人の愛』。増村は安田道代と小沢昭一というコンビでこれを映画化した。この作品も女に翻弄される男、そして狂気という増村らしい作品。

 この『痴人の愛』の独特なところは、まず譲治が工場勤めであること、そして、その工場の映像とノイズとが時折インサートされること。もうひとつは「ナオミの日記」という写真日記の存在。それぞれが映画にとって非常に効果的な要素となっている。工場はもちろん、対比のために存在しているのだが、その工場の映像が完全に無人であるというところがいい。
 物語のほうも増村らしく、少々ひねってある。一番大きいのは、譲治に家を追い出され、男の家を渡り歩いている間のナオミを描く場面がないこと。浜田がひどい境遇に落ち込んだということを説明するのだけれど、実際にナオミが何をしているのかを我々は目にすることはできない。そして、服を取りに帰ってきたナオミは(戻りたいという意思があることは察することができるにしても)毅然として弱みを見せない。「強い女」。増村的世界の住人らしくナオミは男を振り回す強い女なのだ。だから、戻ってからも以前以上に譲治を強く支配する。そして譲治のほうは狂気との境をさまよう。ナオミという女を巡る狂気。浜田もまたその狂気の落ち込みそうになるのだけれど、彼はその愛を理性にとどめることで狂気への一歩を踏みとどまる(ように見える)。
 『刺青』でおセツをめぐって狂気へと踏み出していったおとこたちと同じく、男たちはナオミを巡っても狂気へと踏み出してゆくのだ。

刺青(いれずみ)

1966年,日本,86分
監督:増村保造
原作:谷崎潤一郎
脚本:新藤兼人
撮影:宮川一夫
音楽:鏑木創
出演:若尾文子、長谷川明男、山本学、佐藤慶、須賀不二男

 何者かに薬をかがされ、背中に刺青を彫られる女。その女は裕福な質屋の娘おセツ。おセツはある夜、手代の新助と駆け落ちをした。とりあえずかくまってくれるといっていた船宿の権次のところで蜜月を過ごすが、そんなおセツに彫師の清吉が目をつけていたのだ。
 谷崎潤一郎原作、新藤兼人脚本、増村保造監督、若尾文子主演という『卍』と同じメンバーに名カメラマン宮川一夫を加えて撮られた、映画史上に残る名作。

 男を翻弄する女という増村が好むテーマにぴたりとはまる谷崎の「刺青」。なぜこれまで映画化しなかったのかという原作をやはり見事に映画化した増村だが、この作品の成功はやはり宮川一夫にかかっていたのかもしれない。ややもすれば安っぽいやくざ映画になってしまいそうな題材を見事に芸術の域に高めているのはその映像の美しさだろう。もちろん若尾文子の演技も素晴らしいけれど、人間の肌がこれだけ美しく撮られている映画は見たことがない。本当に這っているように見える女郎蜘蛛の刺青が描かれた背中は吹き替えが多いらしいが、それは美しいものだった。
 ということで、映像はさておき、この映画でもやはり狂気が登場する。ここでの狂気は若尾文子に言い寄る男全員ということもできる。妻になるという口約束を信じて妻を殺してしまう権次はその典型だ。しかし、もっとも深く「狂気」に犯されているのは新助だろう。おセツを殺そうとする瞬間、新助は「狂気」との境界を踏み越えようとしていた。そして清吉。おセツの肌に女郎蜘蛛を彫って以後狂気に犯されたようにさ迷い歩く清吉は、しかし、最後に女郎蜘蛛をさす殺すことで正気の域に踏みとどまったのか、それともあるいは、それこそが狂気への決定的な一歩だったのか? 見終わった直後はそれは彼が正気にとどまったということだと感じたのだけれど、今考えると、あれが決定的な一歩であったのだとも感じる。
 とにかく「狂気」が付き纏う増村の映画。狂気への決定的な一歩を踏み出すまいとふんばっている人々の映画である。

偽大学生

1960年,日本,94分
監督:増村保造
原作:大江健三郎
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:黛敏郎
出演:若尾文子、ジェリー藤尾、船越英二、伊丹一三(十三)

 四年浪人した末にまたも大学に落ちてしまった大津彦一は田舎の母親のためにも大学に受かったことにして、偽大学生として大学に通おうと決意する。そうして東都大学で偽大学生生活をはじめた彦一はひょんなことから学生運動グループに仲間入りし、学生運動に参加することになるが…
 当時文学界のニューウェーブとして話題を集めていた大江健三郎の小説「偽証のとき」を映画化。若者の複雑な心理を偽大学生という要素によって抉り出したサスペンスフルな映画。
 主人公はジェリー藤尾で若尾文子は主役ではないのだが、男ばかりの学生の中でその存在感は絶大。作品はモノクロ。

 いつものことながら、増村保造は人間の心理を抉り出す。「狂気」と「正気」の間には紙一重の隙間もないのかもしれない。最後のクライマックス、学食に学生たちを集めて演説会が行われ、若尾文子扮する睦子がたまりかねて演説をぶつシーン、真実を語っているはずの睦子がみなに笑われるシーン、われわれは一瞬、本当に何が真実なのかわからなくなってしまう。もしかしたらこの映画全体が狂気の産物だったんじゃないかと思ってしまう。それは「ドグラマグラ」の世界のように。
 映画は結局きちんと話を整理し、現実は現実に狂気は狂気にと返してしまうのだけれど、それで現実の問題が解決されたわけではないことに変わりはない。 増村が好んで描く「狂気」というもの。恣意的な線引きで「正気」と区別されてしまう狂気。我々はそれが怖いけれど、それは身近にある。あるいは身近にあるからこそそれが怖い。増村の映画にはその「狂気」が常にといっていいほど頻繁に出てくるのだけれど、それを正面から描くことはなかなかない。あるいは、はっきりと境界を越えて「狂気」のほうに入り込んでしまった人を描くことはなかなかない。むしろ境界ぎりぎりで「正気」のほうにいる人、あるいはまさに境界線上にいる人を描こうとする。
 そんな意味で、この作品は他の作品とは少し違うということもできるし、同じということもできる作品。私としては、増村的世界を大江健三郎が歪ませた、あるいは、増村の歪みと大江の歪みがあわさって新たな歪みを生み出した作品と考えたい。

蝿男の恐怖

The Fly
1958年,アメリカ,94分
監督:カート・ニューマン
原作:ジョルジュ・ランジュラン
脚本:ジェーズム・クラヴェル
撮影:カート・ストラス
音楽:ポール・ソーテル
出演:アル・ヘディソン、パトリシア・オーウェンズ、ヴィンセント・プライス、ハーバート・マーシャル

 ある夜、フランシスのもとに弟アンドレの妻エレーヌから「アンドレを殺した」という電話がかかってくる。その直後、工場の夜警からも「プレス機のところで人が死んでいる」という電話が。警察とともに駆けつけてみると、それは紛れもなく弟の死体だった。エレーヌは「アンドレを殺した」というばかりで動機を話そうとしない。その裏にはアンドレの行っていた実験の秘密が隠されていた…
 ジョルジュ・ランジュランの原作を映画化したSFホラーの古典的名作。このあと続編が2本作られたほか、クローネンバーグによって「ザ・フライ」としてリメイクもされた作品。

 とりあえず、発想が素晴らしい。それは原作のおかげであり、だからこそリメイクまでされたのだろうけれど、なんと言っても、事件の顛末をまず先に語ってしまうという私が勝手に「コロンボスタイル」と呼んでいるやり方がホラー映画らしくなくていい。ホラー映画というのは普通、恐怖のもとがなんだかわからず、「なんだ?なんだ?」っていうので怖さをあおるものなのに、この映画はまったく違う。そしていわゆるホラー映画的な怖さはない。むしろ一つ一つの謎が解かれていくというミステリーのような感覚がある。
 ハエ男のメイクとか、機械装置なんかはもちろん今見ればお粗末な代物だけれど、こういったSF映画というのはその当時の最先端を用いたもの(多分)であるので、その時代の発想を知ることができて面白い。この時代のSFを見ていつも思うのは、前にも書いたかもしれないけれど、「デジタル」という発想の欠如。タイマーなんかも全部アナログで時計の針みたいのをジジジとまわしてセットする。これを私は勝手に「サンダーバード時代のSF」と呼んでいるのだけれど、意外と面白いSF作品が多いのです。
 あとは、アンドレの家にかかっていたモジリアーニの絵がなんとなく印象的でした。

枯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

A Brighter Summer Day
1992年,台湾,237分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
撮影:チャン・ホイゴン
出演:チャン・チェン、リサ・ヤン、チャン・クォチュー、エレン・チン、リン・ルーピン

 1961年の台湾、戦後の混乱の中、台北の町では不良少年たちが組を作って抗争を繰り広げていた。上海から移住してきたばかりの一家の息子で夜間中学に通うスーを中心に物語は展開してゆく。中学生らしい淡い恋や少年らしい生活と、そんな安穏とした生活を許さない周囲の環境の間でスーは混乱し、成長してゆく。
 スーと少年たちの物語とスーの家族の物語とが複雑に入り組み、かなりストーリーをおっていくのは大変だが、4時間という長さを押し切ってしまうだけの力はある作品。体調と時間に余裕があるときにご覧ください。

 これはすごい映画かもしれない。時代性というか、この時代の台湾の空気感が伝わってくるような映画。革命によって成立した中華人民共和国と、台湾に逃れた国民政府。スーの一家もまた台湾に逃れた。しかし彼らはそこでは新参者でしかなく、スーの父は危うい立場にある。
 様々な場面や様々なことが頭に残ってはいるのだけれど、それを総体化することができない。4時間の映画の中に4時間分、とまではいわないにしても3時間分くらいはしっかりと中身が詰め込まれ、それらをひとつの映画として受け入れるにはかなりの覚悟がいるのだろう。
 たとえば懐中電灯の持つ象徴性。ミンという人物の持つ意味。マーの孤独。バスケットボール。
 そのような事々が未消化の塊のまま頭の中に鎮座している。それを解きほぐし、丸のまま受け止めることができた時、この映画の本当のよさを感じ取れるのだろう。体調なんかによっても印象が変わってしまうのが映画というもの。誰かが言っていたが「映画というのは生もの」なので、この作品はいつかどこかでもう一度(できれば劇場で)見てみたい。

RONIN

RONIN
1998年,アメリカ,122分
監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:J.D.ザイク、リチャード・ウェイズ
撮影:ロバート・フラッセ
音楽:エリア・クミラル
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジャン・レノ、ナターシャ・マケルホーン、ステラン・ステルスガルド、ショーン・ビーン、ジョナサン・プライス

 冷戦も終わり職を失った元スパイたちが謎の雇い主に集められ、ニースのホテルにいるターゲットからケースを強奪するという仕事に雇われた。武器調達の時点からトラブルが続き、メンバーも互いの事を知らず信用できない。果たしてケースの中身は何なのか? 強奪は成功するのか? デ・ニーロとジャン・レノという豪華な競演。フランスを舞台にした正統派アクション映画。カーチェイスシーン満載なので、カーチェイス好きはとくとごらんあれ。

 一言で言えば平均点のアクション映画。「7人の侍」の翻案だけあって、設定の発想は味があっていい。テンでばらばらな人たちが集まって何かするというのは非常に映画的で見ていて楽しい。特に前半はそれぞれの役回りがはっきりしていて、それぞれの個性が出ていてよかった。
 しかし、一人一人と裏切り、死んでゆくに連れ、ただのアクション映画になってしまう。敵味方がはっきりしないところはなかなかいいのだけれど、結局デ・ニーロとジャン・レノがかっこいい映画ということでまとまって終わり。あー、もうひとひねりほしかった。
 もうひとつの疑問はなんとも執拗なカーチェイスシーン。「TAXi」じゃないんだから、そんなに長々とカーチェイスをやられてもね。という感じがしてしまう。車マニアやカーチェイス好きにはたまらないんだろうけれど、ちょっと長すぎたかな。全体にもうちょっと削ってスリムにすれば、スカッと楽しく見れたのかもしれません。
 全体的にはまあまあの、平均的な、見てもいいかなというくらいのアクション映画。デ・ニーロファン、ジャン・レノファン、カーチェイスファンには薦められるでしょう。
 しかし、やっぱりジャン・レノは銃を持って何ぼだね。ちょっと太ったけど、銃とかナイフとか武器を持っているときがジャン・レノのかっこいいときである。

盲獣

1969年,日本,84分
監督:増村保造
原作:江戸川乱歩
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:間野重雄
出演:緑魔子、船越英二、千石規子

 自分がモデルとなった彫刻を見るため画廊に足を運んだアキはそこでその彫刻をなでまわす一人の盲人に出くわした。それを見たアキは不気味な感じを覚えた。数日後、マッサージ師を呼んだアキは突然麻酔薬をかがされ、目や鼻や乳房の不気味なオブジェが並ぶ大きな部屋に閉じ込められ、そこにあの盲人が現れた。
 江戸川乱歩の原作に、圧倒的な迫力のセット。とにかく妖艶にして不気味な世界がそこにある。しかしそれはただ気持ち悪いのではなく、なんともいえない魅力を放つ世界でもあるのだ。

 まず最初の印象は、異常なほどに芝居じみているということだ。アキが閉じ込められることになるアトリエもそうだし、3人の俳優たちの演技もそうだ。とにかくすべてが大げさで非現実的、それがこの映画の第一印象だった。

 しかし、その非現実的なところというのは物語が進むにつれて気にならなくなっていく。アキはその部屋から逃げ出そうと試みるが、それが難しいとわかると今度は男をたぶらかして母親と反目させ、状況を変えようともくろむ。その手練手管は非常に現実的だし、アキと母親の対決にはリアルなドラマがある。

 それでもやはり目を引くのは船越英二の異常さだ。その異常さは観ているものに恐怖心を抱かせる。これが目を引くのは、その異常さだけが実はこの非現実的な物語の中で現実的なものだからなのかもしれない。

 物語を追っていくと「こんなことはありえない」と思うけれど、なんとなく「ありうるかもしれない」と思わされてしまう瞬間がある。自分をアキの立場においてみたとき、こういうことがもしかしたらあるかもしれないと考えると心の底からいい知れない恐怖が湧き上がってくる。

 そして、船越英二の不気味さと緑魔子の妖艶さがせめぎあいながら映画はずんずん進んでいき、最初に感じた違和感のようなものはどんどん薄れて映画に引き込まれていく。

 終盤はもう怖いというか、神経に障ってくる。心臓の弱い人は見ないほうがいいんじゃないかっていうくらいにきつい。実際にグロテスクな場面があるわけではないんだけれど、グロテスクなものに弱い人にはかなりつらいと思う。

 しかも、この結末に至る心理というのがもうまったく理解できない。これはもう異常としかいいようがなく、正常な神経で理解することは不可能なんじゃないかと思う。しかし、同時にこの異常さというのは社会的認知されている異常さでもあるとも思える。具体的に言ってしまうとSM的な性倒錯で、ここまで極端なものはさすがに拒絶反応を起こしてしまうけれど、そういう性向の存在自体は広く認知されている。

 そのようなものを60年代にストレートに映画に描いたこの作品はやはり今見ても面白い。まったく古さを感じないしファンキーだ。やっぱりすごいな。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

The Blair Witch Project
1999年,アメリカ,81分
監督:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
脚本:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
撮影:ニール・フレデリックス
音楽:トニー・コーラ
出演:ヘザー・ドナヒュー、マイケル・C・ウィリアムズ、ジョシュア・レナード

 1994年、ドキュメンタリー撮影のため「ブレア・ウィッチ」の魔女伝説で知られるブラック・ヒルズの森に入った大学生3人が消息を断った。そしてその1年後、彼らが撮影したと見られる16ミリフィルムとビデオが森の中で発見された。
 300万円という低予算で作られながら、世界中で話題を呼んだホラー作品。その作品手法よりも、各種メディアを巻き込んで実話のように思わせる宣伝手法が新しかったといえる。

 純粋に映画としてみると、決して面白いとはいえない。ただ3人の大学生が出てきて、叫んで、手持ちのぶれた画面を見せるだけ。心理ホラーのはずなのに、プロットの細部が稚拙であまりに危機感が感じられないし、現実味がない。まず、地図を捨てるはずがないし、なんと言ってもあそこまで心理的に追い込まれていたなら、とりあえず重たいカメラを放り出して逃げるはずだと思ってしまう。つまり、最後まで撮影しつづけているという設定自体が不自然で、映画作りのそもそものアイデアからおかしいと思ってしまう。そして何かが迫っているという演出も稚拙、小道具も稚拙で、登場人物たちの恐怖を共有できるとは思えない。
 あえて誉めるとするならば、マイク役がなかなか良かったかな。彼は人物設定としても(地図を捨てるとこは置いておいても)うまくできていて、最初はひとりいらだち、残りに二人がパニックに陥るに連れて逆に冷静になっていくというのがなかなかうまいと感じました。役者としてもほかの二人よりはうまいのではないでしょうか。
 この作品のすごいところは作品とは無関係なメディアの部分。ホームページを大々的に立ち上げ、その事件に真実味を加えてゆく。ニュース映像を作ったり、伝説を細かく解説したりと至れり尽せり、作り物だと知らずに見れば本当にあったんだと信じるほうが自然なくらい。
 と、いうわけでマーケティング的にはかなり新しくもあり、革命的でもあったのだろうけれど、映画としてはひどいもの。

エドワード・ヤンの恋愛時代

Duli Shidai
1994年,台湾,127分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:アーサー・ウォン、ズァン・ズァン、リー・ロンユー、ホン・ウクシュー
音楽:アントニオ・リー
出演:チェン・シャン、チニー・シュー、チュンワン・ウェイミン、リチー・リー、ダニー・デン、リン・ルービン

 広告製作会社の社長モーリー、学生時代からの親友で会社でも片腕のチチ、モーリーの婚約者でお坊ちゃまのアキン、アキンとモーリーのもので働くラリー、チチの恋人ミン、など台北で暮らす若者たちの2日間を描いた群像劇。彼らにとって激動の2日間の心の葛藤を見事に描いた秀作。
 なんと言っても脚本が素晴らしいこの作品は、エドワード・ヤンの哲学をフィルムに刻み付けたというイメージ。2時間の中にすさまじいほどたくさんのセリフが詰め込まれ、ぐんぐん頭の中に打ち込まれてくる感動的な作品。

 普通、これだけ語る部分が多い映画というのは疲れるものなのだけれど、この映画は疲れない。見終わった後も爽やかな感動が心に残るだけで疲労感は感じなかった。むしろもう一回見てもいいかなと思ってしまうくらい。
 やはり本が素晴らしいと言うしかないが、もちろん映像がその助けをしていることも確かだ。しかしそれは際立った映像美というわけではなく、あくまでセリフが言わんということを引き立たせるため邪魔しない映像技術ということ。この映画で目立った効果といえば、完全に黒い画面で語られるセリフと、シーンとシーンの間に挟み込まれるキャプションくらい。特に暗い画面は完全に黒い画面以外にもかなりあった。やはり画面を暗くすると、人の意識は耳に行き(あるいは字幕に行き)、それだけセリフに集中できるということなのだろう。かなり哲学的ともいえる(決して小難しいわけではないが)セリフをあれだけのスピードでしゃべらせてそれを観衆の頭に詰め込むのはかなり大変なはず。しかしそれがすんなりと入ってくるのは、その映像的工夫があってこそだろう。シーンとシーンの間のキャプションというのも、字幕で見るわれわれにはわからないが、北京語を理解する人たちならば、目と耳から同時に言語情報が入ってくるわけで、それなりの効果を生むのだろう。
 ここで登場人物たちの心理が変化してゆく様子を解説するのは止めよう。この映画の素晴らしさはそれぞれの登場人物がそれぞれ「勝手に」考え方を変化させていくことである。といってみたところでこの映画の魅力はちっとも伝わらないし、逆にまとまりのない散逸な映画であるようなイメージを湧かせるだけだから。しかしひとつ言っておきたいのは、この映画を見ると、いわゆるラブロマンスの「相手の考えていることがわかる」なんていう演出は安っぽい作り物にしか見えなくなってしまうということ。決して結末に向かって物語が収束していくわけではないところがこの映画の最大の魅力なのだ。

死刑台のエレベーター

Ascenseur puur l’Echaaud
1957年,フランス,92分
監督:ルイ・マル
原作:ノエル・カレフ
脚本:ロジェ・ニミエ、ルイ・マル
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:マイルス・デイヴィス
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ジョルジュ・ブージュリー、リノ・ヴァンチュラ、ジャン=クロード・ブリアリ、シャルル・デネ

 石油会社に勤める元将校のジュリアンは会社の社長を自殺に見せかけて殺し、女と逃げる計画を立てていた。無事殺しは成功し、会社を出たが、殺人に使ったロープを忘れてきたことに気づき会社に戻る。しかし、エレベーターに乗ったとたん守衛がビルの電源を落とし、ジュリアンはエレベータの中に閉じ込められてしまった。
 ヌーヴェル・ヴァーグの担い手の一人ルイ・マルの実質的な監督デビュー作。おかしなところも多いが、映画的魅力にあふれたサスペンス映画になっている。

 細かいところを言っていけば本当におかしなところが多い。夜中町を歩いてずぶ濡れになったはずのフロランスが次のシーンでバーに入るとすっかり乾いて、髪の毛もセットしなおされているとか、なぜみんながみんなキーを着けたまま車を置きっぱなしにするのかとか。
 それはさておいて、映画としてはかなりいい。特にすきなのは、フロランスが途方にくれて町を歩くシーン、最初真横からフロランスを捉えて、後ろに映る街の人がなぜかみんなフロランスのほうをじっと見る、その後、正面から捕らえて、道路を渡るフロランスの前後を車がきれいに通過していく。非現実的なのだけれど、非常に美しくて魅力的なシーンだ。もうひとつは取調室のシーン。妙に暗くて、ジュリアンの周りだけが白く浮き上がっているその空間の感じが非常にいい。部屋の壁とか、扉とか天井とかそんなものは一切映っていない、舞台上のセットのような空間がたまらなく美しい。
 あとはやはりマイルス・デイヴィスの音楽。フロランスが町を歩くシーンではマイルスのトランペットが鳴り響くが、それはまさに今でいえばミュージック・ビデオのような詩的映像になっている。
 プロットのオーソッドックスさや、細部の稚拙さを差し引いても映画として十分に魅力的な映画。あるひ突然もう一度見てみたくなる作品。