カップルズ

Mah-Jong
1996年,台湾,121分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:リ・イジュ、リ・ロンユー
音楽:ドウ・ドゥチー
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン、タン・ツォンシェン、チャン・チェン、ワン・チーザン、クー・ユールン

 台北のアパートの一室で一緒に暮らす4人の少年たち、レッドフィッシュ、ドゥースペイスト(リトルブッダ)、ホンコン、ルンルン。彼らは大人をだまし、金をもうけ、青春を謳歌していた。そんな中、レッドフィッシュの父が膨大な借金を残して蒸発したり、フランス人の少女マルトが舞い込んできたり、という事件がおき、彼らの関係も微妙に変化してゆく。
 エドワード・ヤン得意の群像劇だが、少年4人のキャラクターがしっかりとしており、見ごたえがある。

 エドワード・ヤンの映画を見ていつも思うのは「オーソドックス」ということ。同時期にもてはやされたホンコンのウォン・カーウァイと比べられると、さらにそのオーソドックスさが目に付く。しかし、エドワード・ヤンの映画はしっかりと作られている。この映画も、目新しいといえば、登場人物の国籍がばらばらで、しかもそれが当然のこととして捉えられていることぐらい。
 もうひとつカーウァイと比較して面白いのは、エドワード・ヤンの映像は俯瞰ショットが多いこと。カーウァイがことさらに手持ちカメラで主観ショットを撮るのとは対照的に、ヤンは登場人物たちから距離を撮る。登場人物たちをどこかから覗いているような視点。この視点が特徴的なのだ。だから、同じ群像劇をとっても、一定の視点で撮りつづけることができる。その安定感が「オーソドックス」という感覚を生むのだろうか。
 それだけ安定して静かな映画なのに、漂う緊迫感。それは登場人物たちのいらだちや焦りが伝わってくるからだろう。筆力のある小説家のように登場人物たちの心理を描く力強さがエドワード・ヤンの魅力だ。派手ではないけど味がある。ストレートな表現ではないのだけれど、ビシビシと伝わってくる心情がある。

 この映画が抱えるメッセージは複雑だ。イギリス人であるマーカスにとっては未来を持つ輝ける国に見える。しかし、台湾人たち自身には閉塞感が付きまとう。ルンルンの家には星条旗やNBAのポスターがかかり、アメリカ(=欧米)への憧れが強いこともわかる。しかし、そのアメリカ型の(資本主義)社会が人々を蝕み、人間性を奪ってしまっていること、そしてそれが若者に更なる閉塞感を生んでいることもまた表現されている。
 さまざまな国籍の人が登場することは、その台湾という国の閉塞感の原因を表現するとともに、解決の可能性がそこにあるかもしれないということも表現しているように思える。物語のはじめからルンルンとマルトの物語は見えていて、それはひとつの物語として面白くはあるのだけれど、それだけでその閉塞感を解決すると考えるのはロマンティックすぎるから、異なった方向へと進む4人の仲間によってそれを表現する。そのしたたかな展開の仕方がこの映画に緊迫感と面白みを与えていると思う。

恐怖分子

Terrorizers
1989年,香港=台湾,109分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、シァオ・イエ、チェン・クォフー
撮影:チャン・ツァン
音楽:ウォン・シャオリャン
出演:コラ・ミャオ、リー・リーチュン、チン・シーチェ、ワン・アン、リウ・ミン

 研究者の夫と小説家の妻の夫婦、妻の元恋人、ある事件に関わってしまう不良とその恋人、事件に関わる刑事、カメラマン。さまざまな人々の関係が交錯し、さまざまなことが変化してゆく。主人公といえる存在がいない複雑な物語構成から浮かび上がってくるものは何か?
 エドワード・ヤンはこの作品で台湾の現代監督の一人として名を馳せた。それほど「新しい」という印象はないが、ゆったりとした映像に漂う言いようのない緊迫感がすごい。

 全体としてみれば、決して斬新な作品とはいえない。一つ一つのカットは従来の映画作法を踏襲しているものが多い。細かいことだが、別途で胸までシーツをあげている女性とか、タバコを映すときにまず灰皿を映してそこにタバコがフレームインしてくるとか、「ありがち」な映像がたくさんある。
 だから、いくら見ても、この映画に興奮することはなかった。時折、セリフを削ってうまく映像に語らせているところがあったりして、関心はしたけれど、逆に登場人物が饒舌になりすぎて、映画的世界からさめてしまうこともあった。
 そんなこんなで、「はんはん、こんなものね」と思いながら見ていたのだけれど、最後の最後で感想はがらりと変わった。最後、研究者である夫(名前は忘れました)に物語りは収斂してゆき、小説と現実の境を見失っていくと、昇進がかなわなかったことで狂気に陥り、逆恨みをして次々と人を殺してゆく。「そうきたか、ほほう」と思っていたら、物語は一転。違う結末が待ち受ける。この終わり方は素晴らしかった。本当の結末だけよりも味わい深いし、殺しまくる結末で終わってしまったら、「何の映画?」って感じになってしまう。そこをすっとまとめてしまう。そこがなかなかうまかった。
 というわけなので、眠くっても、がんばって最後まで見てください。最後に置かれる重心は「バッファロー’66」なみです。

アナライズ・ミー

Analyze This
1999年,アメリカ,104分
監督:ハロルド・ライミス
脚本:ピーター・トラン、ハロルド・ライミス、ケネス・ロナーガン
撮影:スチュアート・ドライバーグ
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・デ・ニーロ、ビリー・クリスタル、リサ・クドロー、チャド・パルミンテリ、ジョー・ヴィテレッリ

 ニューヨークのマフィアのボス、ポール・ヴィッティ。数十年ぶりに開かれる全米のマフィアのボスの大集会を前に、彼には悩みがあった。それは最近急に涙がとまらなくなったり、息苦しくなったりすることだ。一刻も早くそれを克服しなければならない彼はこっそりとたまたまであった精神科医ベン・ソボルに治療を頼む(命じる?)。
 ロバート・デ・ニーロとビリー・クリスタルという二人の実力はスターが組んだコメディ。監督は「ゴースト・バスターズ」でお馴染みのハロルド・ライミス。なかなかよく出来たコメディという感じですね。「なんかコメディみたい!」という時に気軽に見ましょう。

 ハロルド・ライミスが監督して、デ・ニーロとクリスタルが出て面白くないはずがなく、その通り面白いのだけれど、すごく面白いわけではない。まあ、コメディっていうものは、一つのすごく面白いものより、たくさんのまあまあ面白いものがあったほうがいいというのが私の考えなので、そのまあまあ面白いもののひとつとしては十分である。と思います。
 何も説明することはございません。マフィアと一般人の常識の違いを笑いにもって行くという比較的素直なネタで、素直なストーリー構成で、素直な撮り方で、いい役者。何も考えずに笑いましょう。難しいことは考えずにね。

清作の妻

1965年,日本,93分
監督:増村保造
原作:吉田絃二郎
脚本:新藤兼人
撮影:秋野友宏
音楽:山内正
出演:若尾文子、田村高廣、千葉信男、紺野ユカ、成田三樹夫、殿山泰司

 いやいやながら、60過ぎの呉服屋の隠居の妾となって家族を支えていたお兼だったが、その隠居が急死。遺言通りに大金を受け取って、母と田舎に帰ったが田舎の人たちは彼女らに冷たくあたり村八分同然の扱いを受けた。しかし、そんな中隣りの清作が模範兵として復員する。清作は周囲の反対を押し切って、お兼と夫婦になろうと考えるのだが…
 女の執念を描いたいわゆる「増村的」映画。共同体・個人・女という伝統的な日本の社会構造の問題点をえぐる秀逸なサスペンスドラマ。

 この頃になると増村はかなり真摯に社会を捉え、それを描こうとしているように見える。そして特に「女」についてさまざまな物語を描いている。そしてその女はどこか恐ろしい「強さ」を持っている。この映画の主人公お兼もそんな「女」のひとり。
 何といっても若尾文子の圧倒的な存在感。主人公の感情の起伏が見ている側にまでうつってしまうような濃密な緊張感がそこにはある。  そして秀逸なのはストーリー。日露戦争という時代。世間・共同体と個人、時代をおって変化するその関係性を「女」というこれまた時代とともに変化する存在から描いたある意味ではサスペンスフルな物語。
 増村作品は後期になるとこういったどろどろした話が多くなってくるが、その展開は相変わらずめまぐるしい。これもやはりいらないところはばっさり切ったという印象だ。つまり、映画の長さに対して物語の量が多い。時間の流れ方が早い感じがする。それによって、「青空娘」は軽快にとんとん拍子で話が進んでいくという印象になったが、こちらは物語が凝縮されたという印象になる。どちらにしても90分という時間はあっという間に過ぎ、幸福な充実感が残った。

青空娘

1957年,日本,89分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:高橋通夫
音楽:小杉太一郎
出演:若尾文子、菅原謙二、川崎敬三、信欣三、沢村貞子、ミヤコ蝶々

 田舎の高校を卒業した有子は東京に住む両親のもとへ引っ越すことが決まっていた。そんな時、一緒に暮らしていた祖母が急死。死の直前、東京の母は本当の母親ではないことを知らされる。憧れの先生の「いつでも青空を見て元気を出せ」という言葉に勇気付けられて、有子は気丈に東京での生活をスタートさせるのだが…
 増村保造が若尾文子とはじめて組んだ記念すべき作品。継母と娘というシンデレラの物語のアレンジだが、少しも悲惨さがない明るい作品にしあがっている。軽妙なテンポで映画は進みあっという間に終わってしまう勢いのある作品。

 とにかくテンポがいい。むしろ早過ぎるくらいにトントン拍子に物語は進み、一気呵成にセリフをしゃべる。セリフもカットもリズムに乗って、あれよあれよと進んで行く感じ。停滞するとか焦らせるということはまったくなく、軽快にして軽妙(あ、同じか)。
 しかし、それは必ずしも短いカットもつないでつないでというわけではなくて、長いカットも短いカットもいらないところはばっさり切る。その潔さがリズムを生む。まさにモダニズム、日本映画に付きまとう暗いイメージや静謐なイメージとはかけ離れたところで展開する映画。とにかく楽しい。楽しく笑って、わけのわからないうちに映画は終わる。素晴らしいですね。これは。
 しかも、40年前の映画とは思えないほどやさしい。すっと映画の中に入っていける感覚。これこそが映画の快感。こんな映画をスクリーンで見られる機会を逃してしまってはいけません。

恋する惑星

Chungking Express
1994年,香港,101分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル、ケン・ラーワイ
音楽:チャン・ファンカイ、ロエル・A・ガルシア
出演:トニー・レオン、フェイ・ウォン、ブリジット・リン、金城武、ヴァレリー・チョウ

 「その時彼女との距離は0.1ミリ。57時間後、僕は彼女に恋をした」。
 冒頭のシーンに非常に印象的なせりふのあるこの映画、二つの恋がテイクアウトの軽食屋で交差する。謎の金髪の女と刑事モウ。軽食屋で働くフェイと警官663号。彼女にふられた二人の男の恋物語。
 タランティーノが絶賛し、自らが配給権をとったことから世界的な注目を集めた。確かにいい。すごくスタイリッシュで、リズムがあり、音楽のセンスもよく、映像もこっている。最もカーウァイらしいといえる作品。

 音楽、何といっても音楽、バーで流れるレゲエのリズム、軽食屋で流れる「カリフォルニア・ドリーミン」(だったっけ?)。雰囲気にぴたりと合っているわけではないと最初は思うのだけれど、映画を見て行くにしたがって、その音楽と映像・場面が切り離せないものとして頭に刻みつけられる。そんな素晴らしい音楽の使い方。それはもちろん、クリストファー・ドイルのカメラあってこそなのだけれど。
 ドイルのカメラといえば、この映画で二度ほど使われていた、スロー・モーションというかストップ・モーション。警官663号がゆっくりとした動きをし、そこを無数の人が通過して行くシーン。一つ目は、軽食屋でコーヒーをすするシーン、2つ目はバーでジュークボックスにコインをいれるシーン。このシーンは非常に印象的なのだけれど、どうやって撮っているんだろう? やはり、トニー・レオンがゆっくり動いて、そこを人が急いで歩いて、その速さを調整しているのかな?
 さすが超絶技巧のクリストファー・ドイル。と唸ってしまうシーンでした。

いますぐ抱きしめたい

As Tears Go By
1998年,香港,96分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:アンドリュー・ラウ
音楽:ダニー・チャン
出演:アンディ・ラウ、マギー・チャン、ジャッキー・チュン、アレックス・マン

 香港でチンピラをしているアンディ。そこにいとこのマギーが転がり込む。アンディの弟分ジャッキーは虚勢ばかり張って、今日もアンディに助けを求めてきた。アンディはジャッキーの借金取立てを助けてやる。一方でアンディは恋人につらくあたられる。
 アンディとマギーの関係を中心に話は展開するが、全体としてはアクションあり、恋愛ありのオーソドックスな香港映画。前半こそカーウァイらしい勢いが感じられるが、後半にかけて少々だれるか。しかし、ストーリーテラーとしての実力は十分発揮。

 やはり、クリストファー・ドイルの不在は意識しないようにしても気になってしまう。あの映像、あの躍動感、あの感覚。それ無しではウォン・カーウァイの映画は物足りない。確かに物語もよく練られてるし、映像もきれいなんだけど、それではよく出来た香港映画でしかなくて、「ウォン・カーウァイ」でしかない。と、いうのはもちろんクリストファー・ドイルを経験してはじめて生じる感覚なのだけれど、ドイルの映像にはそれだけ力があるんだ。それを感じる作品。
 しかし、カーウァイ作品の底に流れる「甘ったるさと激しさの共存」という底流はこの作品にも流れている。恋愛映画でアクション映画。そのような映画はたくさんあるけれど、その多くは恋愛のあるアクション映画か、アクションのある恋愛映画にしかなっていない。しかし、この作品は恋愛映画であると同時にアクション映画でもあるという映画にしあがっていると思う。

少年と兵士

The Child and The Soldier
2000年,イラン,90分
監督:セイエッド・レザ・ミル=キャミリ
脚本:モハマド・レザイ=ラド
撮影:ハミド・コゾーイ
出演:メヘディ・ロテフィ、メヘラン・ラジャビ、ルーホリラ・ホセティ、ビザン・ソルタニ

 ある基地の大晦日、若い兵士が軍曹に正月休暇を早めてくれと頼みに行くが、もちろん聞き入れられない。そんな時、盗みでつかまった少年をテヘランの少年院へ連れてゆくという任務がしょうじた。軍曹は少年を送り届けることを条件に、休暇を早めることを認めるのだが、そこは大晦日、テヘランへの交通手段はやすやすとは見つからず、二人はヒッチハイクをすることに。
 非常にオーソドックスで良質のイラン映画。少年が出てきて、教訓めいたお話で、ちょっと感動的で、風景が美しくて、そんないい映画です。

 イラン映画といえば少年。この映画もやはり少年。しかし、今度の少年は盗みをした少年。と、いうことは教訓じみた話になるはず。と、思ったらやはりそう。少年は最後「二度としないよ!」と怒ったように言い放つのでした。
 しかし、この映画のいいところは、一方的にそういう教訓話にしてしまわないところ。軍隊の融通の利かなさや、おとなの身勝手さもしっかり欠いているところ。なんだか久しぶりにいい話を見たわ。という感じです。
 ところで、この映画で一番好きなキャラクターは運転手のおじさん。レスリングをやっていたというデブのおじさん。そのおじさんが一年歳後の夕暮れに、トラックの上でお茶を飲んでいるシーンは最高です。いいぞおじさん。
 さらにところで、この映画で、主人公が家族と新年を迎える場面が昼間なんですが、イランでは日付は昼間に変わるんですかね? そうなんでしょうねおそらく。これはイスラムの暦の問題なんでしょうか? どなたか知っていたら教えてください。やはり我々(私だけ?)はイランとかイスラムについてあまり知らないんですね。イラン映画を見るたびにそう思います。今日は本気でペルシャ語を習おうかと思いました。
 ほのぼのといい映画でした。

セクシャル・イノセンス

The Loss of Sexual Innocence
1998年,アメリカ,106分
監督:マイク・フィギス
脚本:マイク・フィギス
撮影:ブノワ・ドゥローム
音楽:マイク・フィギス
出演:ジュリアン・サンズ、ジョナサン・リス=メイヤーズ、ケリー・マクドナルド、サフロン・バロウズ、ステファノ・ディオニジ、ジーナ・マッキー、ロッシ・デ・パルマ

 1954年、ケニア。少年はとうもろこし畑にあるボロ小屋でひとりの老人が混血の少女に本を読ませている隠微な場面を覗き見る。それは主人公ニックの5歳の頃。映画はニックの5歳、12歳、16歳、そして現在(恐らく30代)の場面がモザイク状に組みたてられ、そこにアダムとイヴらしき裸の男女(男は黒人、女は白人)の挿話がいれ込まれて展開する。 難解で、思索的とも言える映画構成。『リービング・ラスベガス』で名を馳せたマイク・フィギスが17年間の構想の末、完成させた自伝的作品。イノセンス=無垢という事をテーマにしたこの作品は、真面目に真摯に我々に語りかけてくる。

 映画としてはかなりいい出来だと思う。哲学的で幻想的で、難解で。シーンごとに照明や撮り方に変化があって、非常に面白い。夢のシーン照明がずっと片側だけからあたっていたりして。難解で何を言いたいのか的を得ないのだが、観客に口をポカンと開けさせるだけの力をもった映画だとは思う。
 しかし、真面目過ぎるし、古すぎる。構想17年というが、それは17年間構想を練ったということではなくて、17年前の構想だってことでしかないのではないかと疑問に思わざるを得ない。何と言ってもそれを感じさせるのが、「アダムとイヴ」。アダムが黒人でイヴが白人(北欧系)というキャスティングにこだわったということが美談のように言われているが、それはむしろ黒人差別という白人の原罪を克服しきれていないことの証であるように見えてしまう。「私は差別をしていない」というモーション。「だからアダムを黒人として描ける」という傲慢。それは映画中でニックが「ダニ族」だったか何かのカニバリズムの種族についてしたり顔で語った場面と重なり合う。「偏見なんてない」とことさらにいうことは、むしろ偏見を持っていることの証明であり、「偏見を持っているが、それを押さえ込むことが出来る」に過ぎない。
 なぜ黒人男性と黒人女性ではいけなかったのか? なぜエデンの園にいた馬は白馬だったのか? そんな事を考えていると黒人男性と白人女性というキャスティングが欺瞞でしかないように見えてくる。
 この映画は、難解なようで、むしろやさしすぎ、語りすぎているように思える。解くのが難しい問題(つまり、難しいが解ける問題)を扱っているかのように振舞っているが、むしろこの映画が扱っているのは差別や原罪という解くことの出来ない問題なのではないだろうか? そのような問題をあたかも解決できる問題であるかのように語ることは意味がないばかりか有害ですらある。
 というわけで、純粋に映画としては評価できますが、その底流に流れる思想性にどうも納得がいかなかったというわけです。まあ、理屈っぽいたわごとだと思っていただければいいですが。

インビジブル

Hollow Man
2000年,アメリカ,112分
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:エリザベス・シュー、ケヴィン・ベーコン、ジョシュ・ブローリン、キム・ディケンズ、ジョーイ・スロトニック、メアリー・グランバーグ

 「透明人間」のハイテク・ポール・ヴァーホーヴェン版。
 苦労の末ついに生物の透明化と復元をゴリラの段階まで成功させた天才科学者のセバスチャンは、自らを実験台に人体実験をやることを決意する。透明にして3日後に戻すという計画で、軍部の委員会には内緒で。そうして透明になったセバスチャンはいったいどうなるのか?
 SFXを駆使して「透明人間」に現実感を持たせたところはさすが、SFXを使った映像には迫力がある。しかし、いつものっヴァーホーヴェン節と比べるとプロットにはちゃめちゃさがなく、普通の映画になってしまっているのが残念。

 たしかに、映像はすごい。消えてくとこも戻ってくとこも、本当にすごいし、透明なケヴィン・ベーコンが透明なのに、やっぱりケヴィン・ベーコンなところもすごい。しかし、やはりプロットがね。透明になって、精神的にきつくて(つまりストレスね)、それがいつしか周りに対する憎悪に… なんて、普通のハリウッド映画じゃん。やっぱり、ヴァーホーヴェンは警官がロボットとか、宇宙人が昆虫とか、そう言った奇想天外な設定があってこそじゃないですかねえ。  と思いました。
 (ここからは、勝手な話になって行きますが)たとえば、精神的なストレスが原因とかじゃなくて、透明になったがゆえに殺人鬼になるとか(これは怖い。とりあえず意識を取り戻したとたん、近くにいた人を殺してしまう)。
 そのあたりが、不満ですね。しかし、これだけエロイ、グロイ映画を作ったということは素晴らしいと思います。とかくヒューマニズムに傾きがちで、SFX使ってヒューマンドラマを作ってしまうようなハリウッドで、彼の存在は貴重です。PG12くらいはつけてもらわないと、ヴァーホーヴェンも泣きます。
 と、いうことで、懲りずに次回作も見に行くことでしょう。