恐怖のメロディ

Play Misty for me
1971年,アメリカ,108分
監督:クリント・イーストウッド
原作:ジョー・ヘイムズ
脚本:ディーン・リーズナー、ジョー・ヘイムズ
撮影:ブルース・サーティース
音楽:ディー・バートン
出演:クリント・イーストウッド、ジェシカ・ウォルター、ドナ・ミルズ、ジョン・ラーチ、ジャック・ギン、アイリーン・ハーヴェイ

 カリフォルニアでDJをするデイビッド。今日も放送中「ミスティ」をリクエストする女性から電話がかかってきた。仕事帰りに馴染みのバーで引っ掛けた女性が実はその「ミスティ」の女エヴリンだった。遊びのつもりで一夜をともにしたデイビッドだったが、エヴリンはしつこく彼に付きまとい、その行動は徐々に常軌を逸してゆく。
 いわゆる「ストーカー」もののサスペンス。時代的に言ってはしりといえる作品なのか。脚本は今から見ればかなりオーソドックスだが、映画の作りは、かなり不思議な感じ。デビュー作だけに、まとまりがないという感もしないでもないが、奇妙な調和をなしていると見ることも出来る不思議な映画。

 シナリオをざっと追って、映画の造りを簡単に見ていくと、オーソドックスなハリウッド映画に見えるかもしれない。特に、ヒッチコックっぽい(つまり、古典的なハリウッドサスペンスっぽい)造りに見える。そして、そう見た場合に秀逸なのはジェシカ・ウォルターの演技。本当に狂気を湛えたように見える「目」が特にすばらしい。
 しかし、ハイウッドらしい不自然さ。造りものっぽさ。最初のシーンが空撮、特にすごいのは、森でのラブシーン。そんなバカな!と叫びたくなる瞬間。
 しかし、しかし、この映画なんだかおかしい。調和が取れていない。最初のうちは気づかないのだけれど、トビーと海辺を散歩するあたりから、色調のおかしさに気づいてくる。色が多すぎる。デイビッドの家もそう。妙に色が多い。そしてそれが不思議な調和を作り上げている。たとえば、さっきもあげた森でのラブシーンの後の、岩場でのキスシーン。二人のシルエットははじっこのほうに小さくあって、残りは全部夕日。そしてこの夕日と空と岩とが赤とか白とか青とか緑とか、とにかく色がごたごたとあって、しかしそれが美しい。
 さらに、色だけでなく、映像のつなぎまで不思議なことになって行く。とくに、最後のほうデビッドがトビーの家に車を走らせるとき、デビッドとエヴリンが交互に映されるのだけれど、そのカットが異常に短い。
 などなど「なんだかおかしい」というイメージが残る映画。おそらくこれはイーストウッドが意識的に従来の映画作法を壊そうとしているのだろう。この評価はもちろんこの作品以降のイーストウッドの作品を見ての評価なのだけれど、この映画を見て、それが確かにあると思えることもまた事実。
 しかし、この作品をポンとみて、「こいつは才能があるよ!」と言えるだけの審美眼は私にはないとも思いました。まだまだ修行がたりんのう。
 いやいや、すごいねイーストウッド。

ストレート・トーク/こちらハートのラジオ局

Straight Talk
1992年,アメリカ,91分
監督:バーネット・ケルマン
原案:クレイグ・ボロティン
脚本:パトリシア・レズニック、クレイグ・ボロティン
撮影:ピーター・ソーヴァ
音楽:ブラッド・フィーデル
出演:ドリー・パートン、ジェームズ・ウッズ、グリフィン・ダン、ジョン・セイルズ、マイケル・マドセン、テリー・ハッチャー

 田舎町でダンスの先生として働いていたシャーリーだったが、生徒と話してばかりいていっこうにダンスを教えないという理由で首になってしまう。さらに、家に帰れば一緒に暮らす男に文句を言われ、シャーリーはシカゴへと引っ越すことを決意した。
 シャーリーがひょんなことからラジオの人生相談コーナーを担当してしまうことから始まるドタバタ劇を描いたコメディ。  話の筋はだいたい読めるけれど、それはそれとして、全体としてはまあまあ楽しめるでしょう。なんとなく深夜にテレビをつけていたらやっていて、ついつい見てしまうというタイプの作品。(まさにそれで見てしまったんですが)

 わかりやすいアメリカン・コメディ。ちょっとヒューマニスティックな香りがする。偶然ラジオに出て、人気が出て、落とされて、やっぱり復権。それはもう読め読めの展開。でも、ドクターシャーリーの人生相談そのものはかなり面白くて、その部分をもっと膨らましてもよかったんじゃないかと思ってしまう。回りのドタバタした話はほっといて、人生相談から起きる事件がなんこかあったりしたら、もう少し膨らませようがあったかもしれない。
 とはいうものの、たいした映画ではないことは確か。役者はなんだかどっかで見たことある人多数出演という感じ。ドリー・パートンという人はどうもカントリー歌手らしい。カメラのピーター・ソーヴァは「グッドモーニング、ベトナム」などコメディを撮っているカメラマン。

オータム・イン・ニューヨーク

Autumn in New York
2000年,アメリカ,107分
監督:ジョアン・チュン
脚本:アリソン・バーネット
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:ガブリエル・ヤーレ
出演:リチャード・ギア、ウィノナ・ライダー、ジリアン・ヘネシー、アンソニー・ラパグリ、アシェリー・ストリングフィールド、エレイン・ストリッチ

 枯葉舞う秋のニューヨーク、高級レストランのオーナーでプレイボーイのウィルはまたも恋人との短い付き合いに終止符を打った。その時公園で見かけた美女に自分の店で再会した。ウィルは彼女を口説き落とすが、彼女は思い病気であと1年も生きられない体だった。
 すべてが教科書通りのラブ・ロマンス。ストーリーも先の展開が読め、セリフもクサイし、ああ、べたべた。救いとなるのはウィノナ・ライダーのかわいさか、リチャード・ギアの笑い皺か。あとは映像が澄み渡るようにきれいだったこと。

 すごいです。こんなに潔いハリウッド映画は久しぶりに見ました。いまどきセントラルパークの空撮から入る映画なんてそうはない。そして、最初のシーンで使われているエキストラたちの白々しいこと。
 楽しみといえば、次ぎのシーンがどんなシーンかを予想すること。すべては典型的なラブ・ロマンスの撮り方、つくりかた。二人は思っていることをすべてセリフにしてしゃべる。クライマックスはスローモーション。
 リチャード・ギアはあそこまで行くと病気だとか、忙しいはずの医者がどうしてシャーロットのためにはニューヨークまで飛んでくるのか(クリーブランドの患者はどーすんだ)とか、シャーロットはばあちゃんに思いやりのあるせりふをはきながら、クリスマスはウィルと二人っきりで過ごしている(ばーちゃんは置き去りかい)とか、突っ込んでいけばきりもない。
 監督は「シュウシュウの季節」で監督デビューした女優さんだそうです。カメラは「さらば、我が愛 覇王別姫」で知られる人だそうで、なるほど。という感じ、確かに映像はきれいだった。
 そういえば、コックの奥さんをやっていたシェリー・ストリングフィールドは「ER」でスーザン・ルイスをやっていた人ですよね。それはなんだかうれしかった。ちょっと太ったかな。

ひかりのまち

Wonderland
1999年,イギリス,109分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:ローレンス・コリアト
撮影:ショーン・ボビット
音楽:マイケル・ナイマン
出演:シャーリー・ヘンダースン、ジナ・マッキー、モリー・パーカー、イアン・ハート、ジョン・シム、スチュアート・タウンゼント

 ロンドンの小さなカフェで働くナディアは伝言ダイヤルで恋人を募集。姉のデビーは息子のジャックと二人暮し、妹のモリーはもうすぐ子供が出来る。三人姉妹の母親は父親が家でぶらぶらしていることにストレスを募らせ、家を出てしまった末の息子ダレンのことを心配する。
 ロンドンでばらばらに暮らす家族のそれぞれの4日間を描いた物語。
 ヒューマニックな話だが、ウィンターボトムらしいひねりの聞いた筋と画素の荒い手持ちカメラを多用した映像がハリウッド的ハートウォーミング・ムーヴィーとは一線を画している。
 それぞれのキャラクターの個性がはっきりしていて、物語としては非常によく出来た映画だと思う。

 家族のそれぞれがばらばらに登場し、それぞれの悩みを抱え、しかし微妙に係わり合いながら、日常的ではあるけれど激動の4日間を過ごす。
 物語と脚本には非常に好感が持てた。「家族」というものを前面に打ち出すわけではなく、話が完全に収斂していくわけでもない。しかし、それぞれがそれぞれなりに問題を消化し、家族それぞれを決しておろそかにはしない。非常にリアルな物語に思えた。あるいはリアルなものを凝縮した感じとでも言おうか、とにかく「生」な感じがして非常によかった。
 ウィンターボトムという監督はいつも映像にかなり凝っていて、今回もさまざまなこだわりが感じられる。一つはもちろんもっとも目に付く画素の荒さ。これは恐らく証明を弱くしてカメラの感度を上げているのだろうけれど、なんとなくビデオカメラのような映像になる。特に夜の場面では家庭用ビデオカメラのような感じになる。もう一つの特徴は手持ち撮影の多用。特に歩いている人を近く(主に後)から手持ちカメラで追いかける映像が多かった。
 この映像がもたらす効果は素人っぽさであり、真実みであるのだろう。簡単に言えば「ブレア・ウィッチ」のような素人が記録したフィルムという設定にふさわしい映像の作り方。しかし、この映画ではその造り手の側にはまったく言及しておらず、映画の外に存在していることは明らかだ。ならどうしてこんな撮り方を、と思うけれど、簡単に言ってしまえばリアルさを追求しているんだろう。作り物ではない本当のドラマのように見せたいということ。現実を切り取ったもののように見せたいということ。それだけだと思いますが。
 非常によくまとまった映画だと思います。まとまりすぎていてもうちょっと壊してくれたほうがよかったという気がするくらいきれいにまとまった映画。それでも結構感動も出来るという映画です。

中国女

La Chinoise
1967年,フランス,103分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:クロード・シャンヌ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、フランシス・シャンソン、ミシェル・セメニアコ、レクス・デ・ブロイン

 毛沢東主義(マオイズム)をテーマにしたゴダール流革命映画。
 相変わらず、人物や場面の設定が明らかにならないまま映画は進行して行くが、とりあえずわかるのは、毛沢東主義を信奉している5人の若者が共同生活をし、それを映画として記録しているということ。しかしこれが映画の映画なのか、どこまでが現実なのか、それはわからないまま映画は進む。
 マルクス主義・共産主義・フランスの政治に詳しくないと意味のわからない用語がたくさん出てくるので、あまりに知らないと苦しいが、マルクス主義思想なんかを少々かじっていればなんとなく意味はわかるはず(それは私)。
 しかし、そこはゴダール。もちろん思想面を伝えることが第一義なのだろうが、ゴダール映画らしい映像感覚とサウンドは相変わらず素晴らしい。とにかく見てみて、うんうんうなずくもよし、わけがわからんと投げ出すもよし、ゴダール的世界を味わうもよし。

 とにかく、設定がわからないのだけれど、「何なんだこれは?」と眉間に皺を寄せながら最後まで見きってしまった。という感じ。最後まで見れば、なんとなく設定はわかるのだけれど、映画の撮影クルーの位置付けがなかなかわからない。おそらく、ゴダールたち自身でもあり、劇中人物でもあるという微妙な立場にいるのだろうとおもうが、果たしてどうか。
 毛沢東主義との兼ね合いもあり、難解と言われがちなこの映画ですが、見てみると意外と見やすい。わけがわからないと言えばわけがわからないのだけれど、ゴダールの映画は見始める時点ですべてを理解しようなどという構えは捨ててしまっているので、理解できなくてもそれは心地よいわからなさと言ってしまえるような感覚。(負け惜しみではないよ)
 最近、ゴダールの映画を見て思うのは、こういう天才的な感性を持つ人の映画は理解するのではなく、流し込むのだってこと。頭を空っぽにして感性そのものを流し込む。そうすると、1時間半の間は自分も天才になったような気になる。そんな感覚で見るゴダール。いいですよなかなか。

 ここまでが1回目のレビュー。今回ある程度、展開を把握してみたところ、実のところ彼らの若者らしい先走り感が映画の全編にあふれており、映画を撮っている男達はそれを冷淡に見つめているという関係性があるような気がしてきました。彼らの革命ごっこが一体どうなるのかをみつめている感じなのか… そこまではなんとなく理解しましたが、それだけ。
 あとは細部に気を引かれ、映像の構図の美しさはやはりゴダールならでは。壁際にひとりが立ってクロースアップでインタビューを受ける場面はそれぞれが違う色調で描かれており、その対比が美しい。

ブレイブ

The Brave
1997年,アメリカ,123分
監督:ジョニー・デップ
原作:グレゴリー・マクドナルド
脚本:ポール・マッカドン、ジョニー・デップ、D.P.デップ
撮影:ヴィルコ・フィラチ
音楽:イギー・ポップ
出演:ジョニー・デップ、エルピディア・カリーロ、マーシャル・ベル、フレデリック・フォレスト、マーロン・ブランド、イギー・ポップ

 家族のために仕事を探していたネイティブの男がバーで知り合った男に紹介された仕事はスナッフ・ムービー(実際に人を殺す映画)への出演だった。家族のために彼は出演を決意し、最後に与えられた一週間を過ごしに家に帰るのだが…
 ジョニー・デップの監督・脚本作はネイティブへの差別を描いた社会派ヒューマンドラマ。アメリカに根強く残る差別構造を描いているのだが、果たしてうまく描ききれているのか?
 マーロン・ブランドが特別出演、『クライ・ベイビー』で競演したイギー・ポップが音楽を担当、カメラは『アリゾナ・ドリーム』のヴィルコ・フィラチと周りはしっかりと固められている。

 ネイティブを描こうとしている割にはネイティブの登場人物が少ない。メディスンマンっぽい爺さんが出てくる以外は、アフリカ系神父が出てきて、ルイスというヒスパニック系のチンピラが出てくるくらい。社会の最下層の間に区別はないとでもいおうとしているのか?そのわりにはネイティブのスピリチュアルな儀式をやって見たり、どうにもまとまりが悪い。狙いがわかりにくい。
 スナッフ・ムーヴィーという発想はなかなか面白いのに、それがあまり活かされていないような気もする。
 遊園地でカメラをパンしてゆくとジョニー・デップが次々違う乗り物に乗っているところや、水に潜って次のシーンでは岸に座っているところなど工夫しようという意思は感じられるが、果たしてそれに効果があるのかというと、それは疑問。簡潔な感想で言ってしまえば、俳優に専念しなよ!という感じでした。
 多用されている「間」も、やはりジャームッシュやクストリッツァの「間」とは明らかに違う退屈な「間」になってしまっている。しかし、この「間」はもしかしたら面白くなる要素なのかもしれないと思いました。このリズムになじめば、映像がすっと心に染み込んでくるような、そんな「間」。それを少し感じたのはラリーの隠れ家の場面、入り口から上にカメラが移動していく「間」。これはなかなか難しいところ。
 ええ、さすがに俳優としてのジョニー・デップはなかなかよかった。ちょっとネイティブという設定は無理があったとしても、歩き方とか背中がいいね。ジョニー・デップは。Database参照

ノイズ

The Astronaut’s Wife
1999年,アメリカ,109分
監督:ランド・ラヴィッチ
脚本:ランド・ラヴィッチ
撮影:アレン・ダヴィオー
音楽:ジョージ・S・クリントン
出演:ジョニー・デップ、シャーリーズ・セロン、ニック・カサヴェテス、ジョー・モートン、クレア・デュバル

 宇宙飛行士のスペンサーとアレックスが船外作業をしている間に2分間地上との交信が途絶えた。しかし彼らは無事救出され、地上へと戻ってくる。スペンサーは検査の結果異常なく、アレックスも一度は危篤になるが一命をとり止めた。しかし、宇宙での2分間のことを語らない夫たちにスペンサーの妻ジリアンとアレックスの妻ナタリーは不信感を覚え始める。
 これが初監督となるランド・ラヴィッチがE.T.などのスピルバーグ作品で知られるカメラマン、アレン・ダヴィオーを招いて撮ったSFスリラー。恐怖感をあおる映像は見事だが、ストーリー展開にしまりがなく、なんとなくすっきりとしない映画になってしまった。  

 どうにもこうにも、展開にしまりがない。決定的な転換点がないまま話は進みなんとなく正体がばれて、なんとなく話が終わってゆく。ハッピーエンドではないというのはハリウッド映画としては珍しいが、この終わり方だったらハッピーエンドのほうがよかったかもしれない。(でも、この設定だとハッピーエンドは無理か)
 という、なんだか見終わった後すっきりとしない映画を見ながら思ったのは、恐怖心をあおる映像工夫がなかなか言いということ。スローモーションは最近あまりに多用されていて、少々食傷だが、ジリアンとリースがおもちゃ屋で向き合う時の視点を回転させながらの切り返しとか、何度か出てきたジョニー・デップを下からのアングルからとらえたショットとか、かなり心拍数を上げる演出が出来ていたなと思って、スタッフを見ていたら撮影がアレン・ダヴィオー。聞いたことあるぞ、と思って調べたら、E.T.の人だったという感じです。
 アレン・ダヴォーは他に『カラー・パープル』『太陽の帝国』『わが心のボルチモア』『ハリーとヘンダソン一家』『バグジー』などを撮っています。『ハリーとヘンダソン一家』はなかなか面白かった。

ロックド・アウト(21ジャンプ・ストリート)

21 Jump Street
1987~92年,アメリカ,92分
監督:ジョージ・モンテシ、ジェームズ・ホイットモア・Jr
脚本:グレン・モーガン、ジェームズ・ウォン、ジョナサン・レムキン
撮影:デヴィッド・ゲッツ
音楽:ピーター・バーンスタイン
出演:ジョニー・デップ、ホリー・ロビンソン、ピーター・デルイーズ、ダスティン・ヌエン、スティーヴン・ウィリアムズ、ブリジット・フォンダ、ブラッド・ピット

 おとり捜査に命をかける若き刑事たちを描いたTVシリーズ。ジョニー・デップをスターにした作品で、アメリカでは5年間続いた。「ロックド・アウト」というビデオには2話を収録。以前は「ハイスクール・コップ」というタイトルでビデオ発売されていた。現在、DVDで4タイトル出ている。(タイトルは「21ジャンプ・ストリート」)
 第1話はブリジット・フォンダがゲスト出演。路上生活する家出少年たちのリーダー格の少年の行方不明事件を追及する。ジョニー・デップはほとんど出てこない。
 第2話はブラッド・ピットがゲスト出演。連続空き巣事件の調査のため高校に潜入した刑事たちは生徒の自殺事件に遭遇する。「自殺」を巡ってさまざまな考え方が語られ、アクションとは離れたドラマになっている。 

 ジョニー・デップがスターになったということ以外さしたるトピックもないドラマ。おそらく各回違う監督で、ゲストを呼ぶというアメリカではオーソドックスなスタイルなのだろう。第1話は設定などがよくわからなかいまま見たものの、話立てがなかなか面白かったが、第2話はかなりきつい。ブラッド・ピットの熱狂的なファンなら話のために見てもいいかもと言うくらい。
 しかし、個人的にはアメリカのこういったテレビシリーズは大好きなので、テレビで放送されたら見てしまうかも。(苦笑)

スリーピー・ホロー

Sleepy Hollow
1999年,アメリカ,98分
監督:ティム・バートン
原作:ワシントン・アーヴィング
脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー
撮影:エマニュエル・ルベッキ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:ジョニー・デップ、クリスティナ・リッチ、ミランダ・リチャードソン、マイケル・ガンボン、キャスパー・ヴァン・ディーン、クリストファー・ウォーケン

 1799年、ニューヨーク。捜査官のイガボット・クレーンは自白の強要ばかりに頼る上司にたてつき、市長に郊外の町スリーピー・ホロー行きを命じられる。その町では3人の人間がたてつづけに首を切り落とされるという連続殺人事件が起こっていたのだ。そしてスリーピー・ホローには南北戦争で数多くの人々を惨殺した「首無し騎士」の幽霊が出るという伝説があったのだ。
 「シザー・ハンズ」「エド・ウッド」に続き3度目のコンビを組んだティム・バートンとジョニー・デップ。ジョニー・デップはバートンの幻想的な世界に本当によく映える。この作品は特に映像面でのティム・バートンの魅力が十全に発揮された作品。ストーリーもなかなか練られていてサスペンスとしても上出来。

 何はともあれ映像がきれい。特に色の使い方が素晴らしい。ティム・バートンといえば、とにかく原色をごたごたと入れ込んでごちゃごちゃした独自の色彩世界を作り出すというイメージがあったけれど、この作品ではモノトーンを非常にうまく使い、いつも通りの極彩色を控えめにして素晴らしい効果があがっている。大まかに言って、風景やロングショットでは色が少なめ、しかも単なるモノトーンでもなく、トーンを落としただけでもない不思議な色合い。セピアがかった画面にほのかに色がかかっている感じ。ロングで撮った森とか、人の顔の淡い色が非常に印象的だった。 それともちろん、リアルな首きり。これだけすっぱりと見事に首を切れる監督はティム・バートンしかいないでしょう。スパッとなスパッと。切り口も見事な出来映え。やはり特殊効果ってのはこういう細部に地味に使わないとね。どでかいCG使って、現実にないものを見せるよりも、現実にあるけど実際に映すのは難しいものをリアルに造る。ここのところをわかっているティム・バートンはやはりB級映画の巨匠。

クライ・ベイビー

Cry Baby
1990年,アメリカ,86分
監督:ジョン・ウォーターズ
脚本:ジョン・ウォーターズ
撮影:デヴィッド・インスレー
音楽:パトリック・ウィリアムズ
出演:ジョニー・デップ、エイミー・ロケイン、スーザン・ティレル、イギー・ポップ、トレイシー・ローズ、ウィレム・デフォー

 50年代アメリカ、クライ・ベイビーと仲間たちは札付きのワル。そんなクライ・ベイビーに恋をするお嬢様のアリソン。クライ・ベイビーも彼女のことが気に入って、しかし堅物の親や坊ちゃんたちの邪魔が入り…
 50年代のティーンズ映画そのままのストーリーの映画だが、そこはジョン・ウォーターズ。当たり前に撮るはずがない。というよりは、まったくそんな映画にはしない。すべてを壊し壊してゆく、バカっぽい・安っぽい・ウソっぽい、そんな本当にサイテーな映画(「最低」ではない)。
 こういう映画は見てまったくつまらないと思う人もかなりいるでしょう。だから万人に薦めるわけではないですが、かなりいいと思います。

 ジョン・ウォーターズといえば、『ピンク・フラミンゴ』とか、『ヘア・スプレー』とか、最近では『シリアル・ママ』とか、とにかくぶっ飛んだ作品を撮る監督ですが、この作品は意外とまともに見える。
 しかしもちろん、いきなり出てくるハシェットの異形を見ればこれが間違いなくジョン・ウォーターズの映画であることはわかるし、ある意味安心するというわけ。しかし、一応忠実に50年代のスタイルを守って映画を組み立てて行き、安っぽいジェームス・ディーンみたいなジョニー・デップがしっかりと不良のスターを演じてしまう。しかし、よく考えれば(ちょっと考えても)50年代映画にクライ・ベイビーのおばあさんみたいなキャラクターが許されるはずはないし、あんなにわらわらと黒人は出てこないし、3Dメガネももちろんない。こんな映画はパロディとすらいえない、間違い探しのような映画。しかもその間違い探しは、ひどく簡単。
 そしてすべてが安っぽく、造りも適当。最後のアリソンが飛ぶシーンなんかはあの明らかな人形さ加減があまりにチープで感動すら覚えてしまう。
 ここまで説明しても、わからない人にはまったくわからない。これを面白いという気持ちがこれっぽっちも理解できない。ということになるのでしょうが。それはそれでいいんです。だからこそカルト。みんながいいといってしまってはカルト映画ではなくなってしまう。決してカルト映画がわかる人が映画を理解できる人ではないので、「これが理解できなきゃ、映画好きとはいえないんだ」などとは思わないように。(思わないか)