リプリー

The Talented Mr. Ripley
1999年,アメリカ,140分
監督:アンソニー・ミンゲラ
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:アンソニー・ミンゲラ
撮影:ジョン・シール
音楽:ガブリエル・ヤーレ
出演:マット・デイモン、グウィネス・パルトロー、ジュード・ロウ、ケイト・ブランシェット、セルジオ・ルビーニ

 ルネ・クレマンが『太陽がいっぱい』という題名で映画化したパトリシア・ハイスミスの小説(日本語の題名は「太陽がいっぱい」だが、原題は、『リプリー』の原題と同じ“The Talented Mr. Ripley”)の再映画化。厳密に言うとリメイクではないが、一度映画化された作品の再映画化なので、前作を意識しないわけにはいかないだろう。
 物語は、友人の代理でピアノを演奏したトム・リプリーは、その場に居合わせた大富豪から放蕩息子のディッキーをアメリカに連れ戻すよう頼まれる。リプリーはその仕事を果たすためイタリアへ。ディッキーと婚約者のマージに近づくことのできたリプリーだったが、なかなか彼を説得できない。
 マット・デイモン演じるリプリーが何を考えているのかわからないところに、言い知れぬ恐ろしさがあるサスペンス。

 『太陽がいっぱい』との比較はおいておくとして、映画としてはよく出来た映画ではある。ストーリーのひねりも効いているし、マット・デイモンの何を考えているのかわからないキャラもいい。ジュード・ロウは妙にイタリアの海岸にマッチしているし。
 しかし、しかしですね。ちょっとうるさい。すべてがうるさい。表情を映すための執拗なクローズアップもうるさいし、いかにもイタリアらしい風景もうるさい。音楽はよかったけど。ビデオで見れば気にならなかったと思われる、クローズアップの連続は、スクリーンではうるさすぎる。そんなに大きくしなくても、表情はわかる。クローズアップで効果的に表現したいのはわかるけれど、それはあまりにこらえ性がないというもの。風景だって、いちいち上から映さなくたって、イタリアだってことはわかってるよ。いちいち車がアルファロメオなのも気になった。これらのうるさいものたちを切り詰めていけば、30分は短くなって、気持ちよく見られることができたのではないでしょうか? ドラマとしての質はいいのにもったいない。
 と、一通り文句を言ったところで、今度は擁護に回りましょう。ジュード・ロウはよかった。ひどい男なんだけど、好きになってしまう。それはマージしかリ、リプリーしかり、なんだけれど、そんな男をジュード・ロウうまく演じきっていた。音楽はよかった。最初は50年代という設定がわからなくて、「ジャズ=反抗的」という図式がのめこめなかったけれど、時代設定を納得すれば、音楽の使われ方に非常に納得。
 この映画、前半まではかなりよかった。ジュード・ロウが死ぬあたりまで。マット・デイモンのミステリアスな行動や表情も思わせぶりだし、三人の関係の微妙さ加減がよかった。しかし、いたずらにジュード・ロウが魅力的だったせいか、彼が死んでからは物語に入り込めない。その後の展開もどうでもよかった。ディッキーがいなくなってしまったら、もうどうでもいいんだよ。本人に成り代わったところでその隙間を埋めることはできないのだよ。後半を見て思ったのはそれだけ。それを納得させるためだけの1時間なのだとしたら、それはあまりに不毛なのではないでしょうか? あれ、やっぱり擁護してないや!

行商人

Peddler
1987年,イラン,95分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:ホマユン・バイヴァール、メヘルダッド・ファミヒ、アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ゾーレ・スルマディ、エスマイル・ソルタニアン、モルテザ・ザラビ、マハムード・バシリ、ベヘザード・ベヘザードブール

 マフマルバフが強烈な映像で貧困層の人々を描いた3話オムニバス。
 第1話は「幸せな子供」。4人の障害児を抱え、スラム街の廃バスで暮らす貧乏な夫婦が、今度生まれる子供は幸せにしようと、子供を自分たちでは育てずに、誰かに育ててもらおうと奮闘する物語。
 第2話は「老婆の誕生」。年老いた車椅子生活の母と暮らす一人の青年。少し頭の弱い彼は日々懸命に母親の世話を焼いていたが…
 第3話は「行商人」。市場で服を売っていた行商人が突然ギャングに連れて行かれる。それは顔見知りのギャングで、彼にはなにか後ろめたいことがあるらしい。彼はギャングに連れていかれる途中、逃げる方法を考えるが…
 いきなり、氷付けになっているような赤ん坊の映像ではじまるショッキングな作品は、貧困と恐怖で織り上げられた絶妙のオムニバス。果たして万人に受けるのかどうかは別にして、一見の価値はある快作(怪作)。

 とりあえず、各作品の印象に残ったところを羅列しましょう。
第1話:社会批判ともとれるテーマ。父親の鼻にかかった「ハーニエ」。
第2話:主人公が揺り椅子に寝ているショットから部屋をぐるりと回ると朝になっ  ているシーン。割れたガラスをくっつけた鏡。さまざまな映像的工夫。
第3話:羊をさばくシーンは圧巻。3本の中ではいちばん明快。
 と、いうことですが、とにかく、この映画は恐怖と狂気を縦糸と横糸にして織り込んだ織物(ギャベ)のような映画。何だかわからないけど、心臓の鼓動が早まり、ドキドキしてしまう。恐怖映画ではないんだけれど、じわじわと恐怖が内部から涌き出てくるような感覚。
 マフマルバフはイランの中ではかなり社会派の監督として位置付けられ、この映画も、貧困層を扱っているということで社会批判的なメッセージを込めたものとして受け取られるだろう。もちろんそのようなメッセージも込められているのだろうけれど、とにかく映画として素晴らしい。
 とにかくさまざまなアイデアが素晴らしい。アイデアでいえば特に2話目。まず、様々なものを操るひも。死んだように見える母親(時折口をもごもごと動かすことでかろうじて生きているのが確認できる、そのかろうじさが素晴らしい)。割れた鏡をジグソーパズルのようにはめて行くところ、そしてその鏡で見る顔。部屋にかけられた絵(あの絵はかなりいいと思うんだけど、いったい誰が書いたんだろう?)。
 あまり無条件に誉めすぎなので、少々難をいえば、3話目がちょっと弱かった。話としても普通だし、想像を映像化して、どれが現実なのかわからなくするという発想も決して独特とはいえない。3話目でよかったのは、阿片窟のような地下のギャングのたまり場。あんな雰囲気で全編が統一されていれば、かなり不思議でいいものになったかもしれない。しかし、羊をさばくところは本当にすごかった。あれは絶対に本物。喉から空気が漏れる音までがリアル。あー、こわ。

アルファヴィル

Alphaville
1965年,フランス=イタリア,100分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ポール・ミスラキ
出演:エディ・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、ラズロ・サボ、エイキム・タミロフ

 「外部の国」からアルファヴィルへとやってきた新聞記者のジョンソン。ホテルに着くなり、接客係が売春婦まがいのことをするなど、そこは全く奇妙な街だった。実はスパイである彼はフォン・ブラウン教授なる人物を探し、アルファビルを自滅させるという任務を帯びていた。その娘と仲良くなったジョンソン(偽名)は徐々にアルファビルの内実に迫っていく…
 すべてがコンピュータに管理される都市アルファヴィル。そこでは言葉が統制され、人間的感情を規制されていた。簡単に言ってしまえばSF映画のパロディということになるのだろうけれど、そこはゴダール。単なるパロディにはしない。言葉をめぐる哲学的な冒険。それがこの映画のテーマかもしれない。

 メタファー。この映画を見終わったときに最初に浮かんだ言葉はそれだった。いったい何が何のメタファーなのか? サイエンスを欠いたSFはいったい何をたとえているのか?
 SFのパロディという形態はアルファヴィルが車で来られる「外部の国」であるというところにある。つまり、銀河系とか、いろいろなSFっぽい言葉を使っているけれど、それが果たして我々の言っている「銀河」という概念と同じなのかは言っていない。「銀河」というのが我々の言っている「国」程度の意味しか持たず、「外部の国」というのが、地球を意味しているのではなく、隣りの国を意味しているにすぎないとしたら…
 未来という現在のメタファー。
 宇宙という地球のメタファー。
 コンピュータという人間のメタファー。
 言葉はいったい何のメタファーなのか? 最後にナターシャが「愛している」という言葉を口にすることによって救われるのはいかにも鼻白いが、この鼻白さが意味するのは私もまたアルファ60によって感情を殺されてしまっているということなのか?

 と前回書いたものの、とりあえず私は全くもってこの映画の何たるカを理解していなかったということは確かだ。いまも理解しているわけではないが、ゴダールが投げかけてきた謎のいくつかは少なくともたどることができる。
 それはまあそれとして、「銀河」が重要であることは間違いない(私の直感はある程度は正しかった?)。この映画の「銀河」とは全くもって言葉(用語法)の問題である。アルファビルは砂漠の中に作られた小都市。設定上はアメリカのどこかである。アルファ60はそのアルファビルを「国」と呼び、それ以外を「銀河」と呼ぶ。星間を結ぶ高速道路を通ってやってきたジョンソン(レミー・コーション)は「外の国の人」である。そのようにして、概念に対する言葉を置き換えることがアルファ60の中心的な働きである。そして、そのようにして言葉を置き換えていくこと、そのことによってすべてを論理整合的に、合理的にするということが目的になるわけだ。しかし、その目的が結局のところどのような結果につながるのかは明らかにされない。結局は人間によって操作されるコンピュータであるアルファ60が都市を支配しているということは、それを操作する人間の意図がその支配の方法に影響を及ぼしているはずなのだが、その操作する人間であるフォン・ブラウン教授(ノスフェラトゥ)の意図は全く見えてこない。
 言葉と合理化を端的に象徴しているのが「元気です ありがとう」という言葉である。人が出会ってすぐ口にするこの言葉は「こんにちは、お元気ですか?」「ありがとう、元気です、あなたは?」「元気です、ありがとう」の最初の2つの会話を端折ったものであると考えられる。これは会話の合理化であり、言葉に新たな意味を持たせる行為でもある。アルファ60はこのようにさまざまな言葉の意味をすり替えていき、住民をコントロールしていく。 

 アルファ60のほうの謎は映画の中でジョンソン(レミー・コーション)が解き明かしている。私はそのことに今回気づいたわけで、それはそれでいいとしよう。言葉という点に注目すればアルファビルとアルファ60がどのようなものであるかはわかる。
 わからないのはそれを作り上げ、コントロールするフォン・ブラウン教授の存在である。この謎は私には解けなかったのだが、とりあえず言葉に大きな意味を持たせている(言霊ではないが、言葉には意味があり、それが何かを変えたりする)ことからして、登場人物の本名と偽名のそれぞれにも意味があるのではないかと思った。
 まず、フォン・ブラウン教授の本名であるらしいノスフェラトゥとは言うまでもなく古典的に吸血鬼を意味する(映画史的にも『吸血鬼ノスフェラトゥ』という古典がある)。つまり、この本名が映画の終盤で明らかにされるとき、彼の吸血鬼性が暴かれたということになる。偽名のほうのフォン・ブラウンはナチス・ドイツの著名なロケット学者で戦後はアメリカでロケット開発に参加した科学者をさすと思われる。したがって、このキャラクターは科学者の仮面を被った吸血鬼という意味づけがなされているわけだ。
 これに対してレミー・コーションのほうはエディ・コンスタンティーヌが『そこを動くな!』以来演じてきた映画のキャラクター(FBI捜査官)である。テレビ・シリーズにもなったらしいので、フランス人にしてみればおなじみの顔ということになるのだろう。偽名のほうの意味はわからないがこれはゴダールの一種の遊びであると思う。
 つまり、重要なのはフォン・ブラウンのほうということになるのだが、結局のところ科学者の仮面を被った吸血鬼という隠喩的な意味以上のことは私にはわからなかった。
 かなり飛躍して考えを展開していくならば、言葉を奪うということは血を吸うように人間から生命を奪ってしまうことなのだ、とゴダールは言いたいのかもしれない。ゴダールは非常に言葉に意識的な作家であり、言葉を非常に重要視するから、言葉をこの映画のテーマのひとつとした時点でそのようなメッセージをこめようと考えた(あるいは自然とこもってしまった)と考えても不自然ではない。もうひとつ重要なものと考えられていると思われる「愛」とあわせて、ゴダールが重要視するふたつのテーマがこの映画でもテーマとなっていると考えれば、少しは(私の)気持ちもすっきりする。

モンテ・カルロ

Monte Carlo
1930年,アメリカ,90分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:アーネスト・バイダ
撮影:ヴィクター・ミルナー
音楽:フランク・ハーリング、レオ・ロビン、リチャード・ウィティング
出演:ジャネット・マクドナルド、ジャック・ブキャナン、ザス・ピッツ、クロード・アリスター

 公爵と女伯爵との結婚式、女伯爵ヴェラは伯爵から逃げ出し、メイド一人を連れて電車に飛び乗った。ヴェラが行き先に決めたのはモンテ・カルロ。ほとんどお金がない彼女はカジノで稼ごうと考えたのだった。そんな彼女に一目ぼれした伯爵フェリエールは何とか彼女に近づこうとするが、彼女は彼をはねつける。思案した彼は、美容師に化けて彼女に近づくことに決めた。
 ルビッチが、トーキー初期に撮ったミュージカルコメディ。最初からしばらく音楽のみでセリフがないので、サイレント映画かと思ったくらい、サイレント期のスタイルがそのまま残っている。
 いわゆるミュージカルなので、突然歌い出したりするのが気になるが、歌も軽妙でかなり楽しい。

 とことん軽い。軽快なテンポと明るい雰囲気。一生懸命見るよりは、なんとなく流しているのがいい。そういう映画。それでもなんとなく見ると幸せになる。そういう映画。映画史的にどうだとか、ミュージカル映画ってのは不自然でいやだとか、いろいろ理屈をこねたり、文句をつけたりすることも可能だろうけれど、そういうことをすることがまったくばかげたことに思えてくるような映画。映画なんて楽しければいい。映画に音がついた頃の人々はそう考えていたんだろうか?
 この映画がトーキー初期であるのは、汽車を映す時に、車輪のアップがあったり、時計の時報を表現するのに、からくり人形を映したりするあたりから伺える。音を表現するために考案された映像法から抜け出せないと言ったところだろう。しかし、そのことが映画にとってマイナスにはなっていないので、別にかまわないだろう。
 個人的には、公爵のくせのあるしゃべり方がなんとも心引かれた。出てくるだけでなんとなく面白い。そんな人物を登場させることができたのもトーキーのおかげ。ルビッチはそのトーキーの利点をいち早く活用したという点ではやはりすごいと言っていいのだろう。

浮き雲

Kauas Pilvet Karkaavat 
1996年,フィンランド,96分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ
音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ

 レストランで給仕長を務めるイロナと市電の運転手をするラウリの夫婦、新しいテレビも買い幸せに暮らしていたが、市電の赤字による人員削減でラウリが解雇されてしまう。仕事をいくら探しても見つからないまましばらくたったころ、イロナのレストランも大手のチェーン店に買収され、イロナも失職してしまう。仕事も見つからず、二人は途方にくれる…
 アキ・カウリスマキ得意の重い空気。フィンランドの重く垂れこめた空と、それとは対照的に鮮やかな色彩にはカウリスマキ監督の繊細な映画的感性が感じられる。

 これは非常にカウリスマキらしい映画であるにもかかわらず、当たり前の映画であるようにも映るという不思議な映画。カウリスマキはかなり変わった映画を80年代から90年代前半にかけて撮り、“カルト”という印象を観客に植え付けた。そのカウリスマキらしさとは徹底的に削られたセリフ、無表情な登場人物たち、常に暗さを伴う風景、印象的な音楽、などなどというもの。この映画にもそれらの要素はことごとくあり、まさにカウリスマキ的世界がそこにはある。
 しかし他方で、カウリスマキは変わりつつあったのかもしれない。常にシニカルであったカウリスマキの映画に何か本当に明るいものが見えて来ているような、(カルトではないという意味で)当たり前の映画に近づきつつあるような、そんな印象がこの映画にはあった。この映画を最初に見た時点ではそれは何かカウリスマキの魅力が薄められているようで、面白みが削がれているようにも感じられたけれど、いま改めてみると、それはカウリスマキの新たな次元というか、カルトから本当の実力派へと脱皮する段階であるのかもしれないと思える。
 映画を、そして物語を無理にひねろうとせず、観客の不意を付いて驚かせようとせず、ストレートに物語を進めながら、しかしその世界は明らかにカウリスマキという、そんな映画がこの映画では目指されているように思える。しかし、カルトな観客も裏切らず、さまざまな仕掛けも隠されている。 

 そして、カウリスマキらしいといえば、この映画で印象的なのはタバコ、とにかくカウリスマキの映画といえばタバコ、これは欠かせない要素である。このタバコとそしてもうひとつ欠かせない犬が非常にカウリスマキ的であり、映画的である。映画とはただそこにあるものではなく、画面から匂いたつものであるはずだ。この映画のタバコや犬からは「映画」がたまらなく匂ってくる。
 普通の「話」では無視されがちな些細な細部がたまらない魅力を放つのが「映画」的。これだけ、タバコと言う小道具を魅力的に使った映画を最近は見ない。昔はどこでもタバコは小道具の王様だったのに。そして犬。ただの犬。いつも尻尾を振っている犬。しかしこの犬がなんとなくこの映画にけじめをつけている。それぞれのシーンにそっと登場し、さりげなく存在感をアピールし、当たり前であることをそっと告げて去って行く。
 この犬に限らず、カウリスマキの映画には物語にはまったく必要のないものが登場し、それによって非常に魅力的になってしまうということがある。ただ二人が立っているのではなく、何かが通り過ぎたり、何かの音がしたり、ただそれだけでそのシーンが名シーンであるように思えてしまう。そんな魔法のような効果がカウリスマキの映画にはある。
 一見当たり前のようにも見える映画の中に、映画的魅力をふんだんに盛り込む、そんな魔術師のようなカウリスマキの魅力はカルトであることから離れていっても、増して行くばかりなのだ。彼は今本当に偉大な監督になろうとしているのかもしれないとこの映画を見て思った。

ギャベ

Gabbeh 
1996年,イラン,73分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アームード・カラリ
音楽:ホセイン・アリサデ
出演:ジャガイエグ・ジョタト、アッバス・サヤヒ、ホセイン・モハラミ、ロギエ・モハラミ

 大きな絨毯(ギャベ)を洗う老夫婦の前に一人の美しい娘が現れる。娘の名前はギャベ。しかし、彼女が現実の存在なのかはわからない。幻想か現実か、ともかく、娘は自分の身の上を話し始める。映画は、老夫婦と娘の語る物語を行ったり来たりするが、娘の物語は老夫婦の回想なのか?それとも…
 鮮烈な色彩溢れる映像でファンタジックな世界を描く。実際に1000キロもの道のりをロケして歩いたというマフバルバフの野心作。色鮮やかなギャベをモチーフにした色彩の映画。

 「人生は色彩だ!」と叫ぶ伯父さんの言葉がこの映画の核心を伝える。この叔父さんが唐突に先生として登場するシーンで、花や空を手で捕まえるそのシーンは「色」というものがこの映画の確信であることを十分に伝える。しかし十分過ぎるかもしれない。我々は老婆とギャベなる娘のその鮮やかな青い衣装の一致と、ギェベ(絨毯)の鮮やかな色彩に魅せられ、この映画が色彩の映画であることを即座に了解しているのだから、何の脈略もなくさらりと叫ばれる「人生は色彩だ!」というその叫びだけですべてを了解するのだ。ひたすら白い雪の風景を見て、その色彩の不在に心を打たれるのだ。だから、余計な、子供を諭すような、そして過度に前衛的なそのシーンはなくてもよかった。この映画の色彩はそれだけ鮮烈で、人生が色彩であり、映画が色彩であることはまったく何の説明も不要なくらい明らかなのだ。だから、私は監督のそのサービス過剰に敢えて苦言を呈したい。
 衣装と毛布と自然の色合いだけで、十分物語が成立するのだと言うことを私は学んだ。茶色い山にぽつんと残る色鮮やかな妹の衣装はさまざまなことを語ってくれる、そのことが一度も語られなくとも、白い山にポツリと立つくろい馬の影と、雪の上の残されたスカーフは愛を語る。
 「色」は心を浮き立たせる。土の上に並べられた色とりどりの毛糸玉を見て、川辺に並べられた無数のギャベを見て、私はこの映画を見てよかったと思った。

サイクリスト

The Cyclist 
1989年,イラン,83分
監督:モフセン・マフマルバフ
原作:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:モハラム・ゼイナルザデ、エスマイル・ソルタニアン、マフシード・マフシャールザデ、サミラ・マフマルバフ、フィルズ・キャニ

 妻が重い病気にかかり、高額の入院費を工面しなくてはならなくなったナシムは、元アフガンの元自転車チャンピオンで、イランにやってきたばかりで仕事もない。何とか見つけた井戸掘りの仕事も入院費の足しにはならない。そんな時、友人が世話になっている興行師から、1週間自転車に乗りつづけるという賭けの対象にならないかと持ちかけられる。愛する妻のためひたすら狭い広場を自転車でくるくる回るナシム。果たして彼は自転車に乗りつづけることができるのか?
 イランでは全国民が見たと言われる、モフセン・マフバルバフ監督の幻の名作。ファンタジックともシュールとも言える独特の味わいがほかのイラン映画とは一線を画する。広角レンズを多用した映像もアバンギャルドで、まったく古さは感じさせない。
 「りんご」を監督した娘のサミラも子役で出演。

 「果たしてこの映画は面白かったのか?」という疑問。「でも、もう1回見たい」くらいの感動。いや、感動といってもそれはいわゆる感動ではなく、こんな映画が存在していたのかという感動。あるいはこんな映画が存在していいのかという感動。
 なにが幻想でなにが現実なのか?と言ってしまうと非常に陳腐になってしまうが、ひたすら自転車に乗るというちょっと考えるとおかしいはずの行為がいつしか英雄的な行為へとすりかわって行く過程、周囲の人々は彼の行為になぜか心を動かされ、彼の姿に感動するのだけれど、自転車に乗っているナシム自身はまったく別の衝動に動かされているかのように自転車をこぎつづける。
 1回ずるをしたからってそれがどうした。妨害する人々と応援する人々がいて、そこに多額のお金が動いているからって、それがどうした。そんなこととはまったく無関係にナシムはこぎつづけるんだ。もう、息子も妻さえも、どうでも良くなっているかもしれない。
 もしかしたら、ここでこぐのを止めてしまったら世界そのものが崩壊してしまうのではないかというような恐怖感にさいなまれながら彼は自転車をこいでいるのかもしれない。
 しかし、しかし、映画自体は彼のそんな心を映し出すわけではない。映画は彼の周囲を執拗に映しつづける。興行師やジプシーの女や、なんか、領事や大使やいろいろな大変な人が出てきて、ドタバタと繰り広げる。
 しかし、しかし、しかし、私が心打たれたのは、ナシムと息子がいっしょに自転車に乗っている場面。自転車側に固定されたカメラは二人の顔をアップで捉え、周りを取り囲んでいるはずの観衆は抽象的な色の集合でしかなくなってしまう。ただ左から右へと移動する抽象的なピントの合っていない図形。その場面は感動的だ。
 でも、いったい何に感動したんだろう? 何が面白かったんだろう? 本当に不思議な映画だ。エンドロール(ペルシャ語だからまったく文様にしか見えない)の背景になったナシム(と自転車)をローアングルから撮ったスチルもなんとなく心に残った。

ヘカテ

Hecate 
1982年,スイス=フランス,108分
監督:ダニエル・シュミット
原作:ポール・モーラン
脚本:パスカル・ジャルダン、ダニエル・シュミット
撮影:レナード・ベルタ
音楽:カルロス・ダレッシオ
出演:ベルナール・ジロドー、ローレン・ハットン、ジャン・ブイーズ、ジャン=ピエール・カルフォン

 北アフリカに赴任したフランスの外交官ロシュールはパーティーでであったアメリカ女性クロチルダと恋に落ちる。純粋な恋愛映画として始まるこの映画、しかしクロチルダの謎めいた行動がロシュールを混乱させ、徐々にサスペンスの要素が強まって行く。
 徐々に緊迫感を増す展開もおもしろいが、この作品で最も素晴らしいのはその構図。フレームによって切り取られた一瞬一瞬が一葉の絵画のように美しい構図を構成する。微妙な色合い、光の加減、フォーカスを長くして作り出す不思議な構図などなど。その美しいという言葉では言い表せない映像を見ているだけでも飽きることはない。

 そう、構図が美しい。無理に一言で表現してしまえばそういうことなのだが、決してそれだけでこの映画の映像のすばらしさが表現できるわけではない。重要なのは、その一瞬の構図が美しいことではなく、その変化する構図が緊張感を保ちながら美しくありつづけることだ。
 たとえば、山の上から、ロシュールと上司の外交官が下を見下ろしている場面。カメラは彼等二人の背中を映しながら右から左へゆっくりとパンして行く。その時、正面にひとつの山並みが見えるのだが、その山が正面にやってきたときの構図にはっと心を打たれる。もちろんその時、遠くにあるはずの山と近くにいるはずの二人とに同時にピントがあっていることも大事な要素だ。そこでは映画における遠近法が無視され、山と人は同じ大きさのものに見える。
 あるいは、階段にロシュールとクロチルダがうずくまっているシーン。最初、赤と緑の微妙な色合いで、左上へと昇って行く階段と、右上に青い窓が映される。その構図だけでもちろん驚くほど美しいのだが、まず、右上の窓のところロシュールが動く。そこで観衆は(少なくとも私は)そこに人間がいることに気づく。そしてさらに、階段のところにはクロチルダがいることに気づく。二人はのそのそと動き、構図を変化させるのだけれど、果たして構図は美しいままだ。
 もうひとつ、面白いのは、30年代くらいのハリウッドの模倣。私が気づいたのは、ある場面で二人がキスする時、直接映すのではなく、影を映す。これはいわゆるクラッシックなハリウッド映画を見ているとたびたび用いられる手法だ。他にも、あっと思ったシーンが二つほどあったけれど、ちょっと思い出せません。おそらくシュミットは黄金期のハリウッド映画にかなりの愛着を持った監督なのだろう。
 非常に、玄人受けする映画だと思いました。

未来は今

The Hudsucker Proxy 
1994年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン、サム・ライミ
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ティム・ロビンス、ポール・ニューマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、チャールズ・ダーニング、スティーヴ・ブシェミ

 重役会議中突然、社長がビルの44回から飛び降り自殺。会社の経営は絶好調だったのに、いったいなぜ? このままだと会社が買収されてしまうことに危機を覚えた重役たちは脳タリンを社長にして株価暴落をもくろむことにする。彼等が目をつけたのは、たまたま重役室を訪れた新米郵便係のノービルだった。
 もちろん、重役たちの思うままに行くはずはなく、そこからの展開がコーエン兄弟の腕の見せ所。やはりコーエン兄弟というところも多々あるが、「ファーゴ」や「バートン・フィンク」と比べると少々パンチが弱いかもしれない。
 しかし、それは逆に安心して見られるということでもあるかもしれない。誰でも気軽に楽しめるという意味では良い作品。

 確かに、コーエン兄弟の作品で、コーエン兄弟の映像で、コーエン兄弟のひねりようなんだけれど、どうも弱い。ティム・ロビンス演じるノービルがずっと「まぬけな顔」といわれるところは、『ファーゴ』でブシェミが「変な顔」と言われつづける場面を思い起こさせるし、地下の郵便室の映像なんかは、『バートン・フィンク』のあの暗澹さに似通っている。
 でも、それだけなんですよ。筋だって大体予想がつくし、映像の工夫だって、「ふーん」とは思うけど、驚くほどではない。くすりとするけど、爆笑するわけでも、始終ニタニタしてしまうわけでもない。たとえば、最初の社長が飛び降りるシーンなんて、かなり面白いのだけれど、それはただ単にあの場面が面白いというだけで、作品全体の面白さにはつながってこない。
 どうしたんだろう、コーエン兄弟。おそらくこの映画を評価する人もかなりいると思いますが、私はちょっと納得いかない。いや、面白いんですよ。面白いんですけど、「もっとできるよコーエン兄弟」と言いたい気分にさせます。 やはり、見たのが2回目だったからでしょうか? 1回目見た時はもっと楽しめたような気がします。でも、本当にいい映画は何度見ても楽しめないとな…「ビッグ・リボウスキ」は2回目でもぜんぜん面白かったし。
 などなど、気持ちがプラスとマイナスに行ったり来たりですが、どうでしょうかね? 見た方はぜひ意見をくださいませ。

パッション

Passion 
1982年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ドミニク・ブラン、ミリアム・ルーセル

 最初のカットは、空を横切る飛行機(雲)。そこから、切れ切れの断片が次々とつなげられる。それぞれの意味するところは説明されることなく、それぞれのカット(映像)の切れ目とセリフ(音)の切れ目も一致しない。ひとつのモチーフは工場で働くどもりの少女、もうひとつのモチーフは生身の人間で構成される絵画(おそらくレンブラント)の撮影風景。いきなり見るものを圧倒し、混乱させる作りで始まるこの映画、徐々に物語らしきものがたち現れてくる。
 ゴダールらしい実験性と工夫に溢れた作品。物語らしきものがあるようでないようなのだけれど、常に緊迫感が漂い、見るものを厭きさせない。
 いわゆる普通の映画に馴らされてしまっていると、かなり面食らうに違いない映画だが、この世界になじんでいけば、最後には終わってしまうのを惜しむ気持ちが沸いてくるに違いない。

 この映画に溢れているのは、「音」と「光」。「音」はその過剰さによって、「光」はその不在によって存在を主張する。我々はまず遠くを飛ぶ飛行機のノイズに耳を澄ませ、主人公である少女の吃音に耳を尖らせ、彼女の吹くハーモニカに違和感を覚え、突然けたたましくなるクラクションに驚かされる。
 主人公であるジョルジは光の不在に頭を悩ませ、我々は多用される逆行の画面にいらだつ。美しいはずの音楽は中途で寸断され、聞きたい言葉はの登場人物たちの心の中のモノローグによってかき消される。
 この世の中は、過剰なノイズによって肝心の音は聞こえず、光が存在しなくなってしまったために物が見えなくなってしまっている。劇中で作られている『パッション』という映画が完成しないのは、光が見つからないからではなく、光が存在しないからなのだ。
 ゴダールのすごいところは我々をいらだたせることによって、自分の側にひき込んでしまうこと。我々の欠落した部分につけ込んで我々に期待を抱かされること。しかしその期待がかなうことはなく、我々は痛みを抱えて映画館を後にする(またはビデオデッキのイジェクトボタンを押す)。そして、ためらいながらも違うゴダールに期待をしてしまう。
 なぜそうなのかを分析することは難しい。我々はただ驚くだけ。ゴダールの映画はなぜショッキングなのか? ゴダールの映画に登場する女性たちはどうしてあんなに美しいのか?
 やはりゴダールは天才なのか?