ジャム・セッション 菊次郎の夏<公式海賊版>

1999年,日本,93分
監督:篠崎誠
撮影:河津太郎
音楽:久石譲
出演:北野武、候孝賢、「菊次郎の夏」全スタッフ・キャスト

 「菊次郎の夏」の撮影に同行しカメラを回した篠崎誠監督のドキュメンタリー・フィルム。撮影現場の映像に加え、撮影期間中に来たの監督の元を訪れた候孝賢監督と北野監督の対談の様子も収めた。
 いわゆる「北野組」の映画への姿勢、現場の雰囲気などが臨場感を持って伝わってくる作品。監督でありかつ主演でもある北野武(ビートたけし)の現場での活躍もみもの。

 撮影には恐らくデジタルビデオが使われ、そこの実際の映画のフィルム映像がはさみ込まれる。いわゆる「映画撮影の裏側!」的なフィルムとしてではなく、監督北野武とスタッフ・キャストを描いたドキュメンタリーとして撮られているところが素晴らしい。
 作品同様撮影現場にも笑いが溢れているということが伝わってくる。この作品を見ていると、「菊次郎の夏」という映画は映画を見ているより、撮影しているほうが楽しいんじゃないかと思えてくる。それがいいか悪いかは別にして、そんな現場の雰囲気をうまく伝えているところがこのフィルムのいいところ。 
 候孝賢がでてきたり、美術スタッフの奮闘が描かれていたり、マニアには見どころがたくさんという感じですが、やはりメイキング・ビデオという性格上、散漫な感じになってしまっています。仕方がないとはいえ、もっとドラマティックに展開して行くとまた別の面白さがあったのでは、などとも思ってしまいます。

菊次郎の夏

1999年,日本,121分
監督:北野武
脚本:北野武
撮影:柳島克己
音楽:久石譲
出演:ビートたけし、関口雄介、岸本加世子、吉行和子、細川ふみえ

 父親が交通事故で亡くなり、おばあちゃんと一緒に暮らす少年正男。彼にとって夏休みはひどくつまらない時期だった。友達は旅行に行ってしまい、サッカー教室も休み。そんな夏休み、正男は顔すらも覚えていない母親を探しに豊橋へと行くことを決意した。そんな正男を心配する近所のおばちゃん(岸本加世子)は仕事もなくふらふらしている自分の夫に正男を連れていってくれるよう頼む。
 大人になりきれない男と、少年のロードムービー。北野監督はこれまでの暴力的な作品から一転して、笑いに溢れた暖かい作品を撮り上げた。
 久石譲作曲のテーマ曲が頭に残る。

 全体的な北野的「間」はこれまでの作品とかわらないが、全体の雰囲気や色調はがらりと変わっている。かなり「笑い」の要素を重視した作品。それでも、ビートたけし名義で撮った「みんな~やってるか!」とは明らかに違う北野的世界。しかしセリフをそぎとった「間」は健在。果てしなく晴れた空も「キタノ」の色だ。
 個人的に好きなのは、井出らっきょとグレート義太夫のハゲのおっちゃんとデブのおっちゃん。この二人が絡む一連のシーンの間と笑いがとてもいい。

あの娘と自転車に乗って

Beshkempir
1998年,キルギスタン=フランス,81分
監督:アクタン・アブディカリコフ
脚本:アクタン・アブディカリコフ、アヴタンディル・アディクロフ、マラト・サルル
撮影:ハッサン・キディリアレフ
音楽:ヌーラン・ニシャノフ
出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ、アディール・アブリカシモフ

 キルギスタンで暮らす少年が、自分より背の高い少女に抱く淡い恋心。少年から思春期に達そうとする年代に共通の感情を大部分モノクロのパートカラーで描いた作品。監督の自伝的物語であるらしい。主演の男の子は監督の実の息子であるらしい。
 キルギスタンというほとんど知られていない国から届いた映画は、そのイメージに違わず素朴で純粋な物語を紡ぎ出している。

 色鮮やかなカラーの映像で始まった映画が、モノクロ(というよりセピア色)の画面に転じ、そしてそれは延々続く。時々思い出したようにカラーの画面が挿入される。監督の自伝的作品であることを知っていれば、セピア色の記憶のなかに鮮明に残っているカラーの記憶を強調する意図だということはわかるけれど、それがどれほどの効果を生んでいるのか? どれほどの意味があるのか? 確かにやりたいことはわかる。自分の記憶を映像に定着させ、それが自分だけのものではないことを実証して見せること。それは映画監督の誰しもがやることではある。しかし、このやり方はあまりに自慰的ではないか? 自分の分身である主人公の心理をさらけ出すことなしに、美しいものを美しく描くだけ。 今なに素朴で純粋であるはずがないと思うのは、都市国家に住む汚れた心のうがった見方なのだろうか?
 このパートカラーはちょっとうなずけないが、この監督の映像に対する感性はなかなか。砂で作った女の人を牛が踏んでいくシーンとか、最初の老婆たちがフレームに一人また一人と入ってくるシーンとか、かなり「はっ」とさせられるシーンはあった。
 となると、むしろ全編カラーで見てみたかったという気がしてくる。これだけいい画が撮れるんだから、しかも色彩をすごく鮮やかに撮れるのだから、カラーのめくるめく映像美を見てみたかった。
 最後に、ストーリーははっきり言って退屈。「養子」ということがテーマになっているのはわかるけれど、それに対してクライマックスがあるわけでもなく(あるとすれば、網戸を張るシーンかな)、かつ話はずるずると女の子の方へと移行してしまう。おばあちゃんの葬儀のシーンもちっとも感動的じゃなかったし。
 というわけで、可もあり、不可もあり、秋の夜長にはいいかもしれない。

GO! GO! L.A.

L.A. Without a Map
1998年,イギリス=フランス=フィンランド,107分
監督:ミカ・カウリスマキ
原作:リチャード・レイナー
脚本:ミカ・カウリスマキ、リチャード・レイナー
撮影:ミシェル・アマテュー
音楽:セバスチャン・コルテーリャ
出演:デヴィッド・テナント、ヴァネッサ・ショウ、ヴィンセント・ギャロ、ジュリー・デルピー、ジョニー・デップ

 スコットランドの田舎町で葬儀屋に勤めるリチャードは、アメリカから来た女優の卵バーバラに一目ぼれ、一日きりのデートが忘れられず、すべてを捨ててロサンゼルスへやってきた。しかし、そこはハリウッド、リチャードのような田舎ものの居場所はなかった。スラム街に家を借り、唯一できた友人のモスと彼女を手に入れようと画策するのだが…
 弟のアキ・カウリスマキと比べるといまいち知名度の低いミカ・カウリスマキ監督が撮った意外とまともな恋愛映画。ばらばらなキャストが面白い。特にヴィンセント・ギャロがとてもいい。

 壊そうとして壊しきれなかったまともな恋愛映画。いかんせん主人公の二人がまとも過ぎた。ヴィンセント・ギャロとジュリー・デルピーはとてもいいし、ジョニー・デップも効いているが、物語の芯が何だかぽあんとしてしまってしまりがない映画になってしまったのかもしれない。でも、ヴィネッサ・ショウはかわいい。
 それでも、レニングラード・カウボーイズ(弟ミカの映画でおなじみ)が出て来たり、言葉(訛りや言いまわし)にかなりの工夫が凝らされていたりと楽しめることはたしか。ヴィンセント・ギャロのしゃべり方なんかはかなり癖があっていいが、その辺りは我々日本人には少々伝わりにくいのかもしれない。
 姿勢としては、ハリウッドをおちょくるヨーロッパ連合軍。ハリウッドを舞台にしたハリウッド映画とはちょっと違った映画にしあがっている。特にパターソンのおもしろくなさはかなり面白い。それをみんなが「LA的」と称するあたり、ミカ・カウリスマキのシニカルな見方が感じられる。

ラスベガスをやっつけろ

Fear and Loathing in Las Vegas 
1998年,アメリカ,118分
監督:テリー・ギリアム
原作:ハンター・S・トンプソン
脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、トッド・デイヴィス、アレックス・コックス
撮影:ニコラ・ペコリーニ
音楽:レイ・クーパー、布袋寅泰
出演:ジョニー・デップ、ベニチオ・デル・トロ、トビー・マグァイア、キャメロン・ディアス、クリスティナ・リッチ、エレン・バーキン

 ジャーナリストのラウル・デュークとサモア人で弁護士のドクター・ゴンゾーは砂漠のオートバイレーすの取材のため真赤なオープンカーにドラックをいっぱいに詰め込みラスベガスへ向かっていた。途中ハイカーを拾ったりしながら着いたラスベガスで二人はドラック三昧。ろくに取材もせずにひたすら飛びまくる。
 「鬼才」テリー・ギリアムがその独特の映像で正面からドラッグを扱った作品。とにかくトラップした状態をいかに映像化するかということに映画のすべてをかけている。とにかくめちゃくちゃ。少しやりすぎたかテリー・ギリアム。
 スタッフ、キャストがかなり豪華。脚本に「シド・アンド・ナンシー」などで知られるアレックス・コックスを加え、音楽に布袋寅泰が加わっているのはご愛嬌か。出演陣も今をときめくスターがチョイ役で登場。

 ちょっとやりすぎたテリー・ギリアム。本当にやり放題、好きなことをやりたいだけやる。汚す、壊す、水につける。映像を歪める。緻密な幻覚を作る。筋とか内容とかはどうでもよく、ただただ圧倒的な勢いを作れ! これも「12モンキーズ」のヒットでようやく「カルト」の冠がとれたおかげか。あるいはそれへの反抗か。
 とにかく、完全なるテリー・ギリアムワールドにうまく絡んだ役者人の怪演。特に、ジョニー・デップとクリスティナ・リッチが世界に最も溶けこんでいたと思う。色合いや、ライティングもいかにもテリー・ギリアム。少々時代懐古的な感じも加えつつ、ひたすら切れる。
 少し、興奮を抑えて、分析してみましょう。
 この映画がここまで、滅茶苦茶でありえるのは、きちんと作りこまれているから。つまり、滅茶苦茶なものをそのままとったのでは滅茶苦茶には見えず、それはただ雑然としたものになってしまう。それではいかに滅茶苦茶なものを作り出すか。そのためには滅茶苦茶さを作りこむこと。ある意味では小津的な、しかし小津とは正反対の映画に対する姿勢がそこに感じられる。
 というのは、小津の映画の端整な、清閑な感じもまた、ただなにもないところを映したのではなく、微妙に作りこむことによって、何もないという感覚を作り出したものであるからだ。たとえば、オズ映画の部屋の壁は徹底的に「汚し」をかけ、非常に自然な壁を作り出したという。ただの白い壁があればなにもないという感覚が生まれるのではなく、適度に汚れた壁があってこそそこにはなにもないと感じられるのだ。
 テリー・ギリアムの滅茶苦茶さも、それはただ滅茶苦茶なのではなく、何がどこにあり、何がどのようになっていれば滅茶苦茶だと見えるのかを緻密に計算してある。同じ壁の「汚し」でも、どう汚せば派手に見えるのか、滅茶苦茶に壁を汚すということがどう言うことなのか、それを計算し尽くした末にできあがる滅茶苦茶さ。それがこの映画の秘密だと思う。

マルコビッチの穴

Being John Markovich 
1999年,アメリカ,112分
監督:スパイク・ジョーンズ
脚本:チャーリー・カウフマン
撮影:ランス・アコード
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジョン・キューザック、キャメロン・ディアス、キャスリーン・キーナー、ジョン・マルコヴィッチ

 人形使いのクレイグはチンパンジーやオウムといった動物と妻と幸せに暮らしていたが、妻に勧められ就職することにする。新聞の求人欄で見つけた会社に行ってみると、その会社は7と1/2階にある奇妙なオフィスだった。
 そしてある日、ファイル整理をしていて、キャビネットの裏にある奇妙な扉を見つけた。入ってみると、それは俳優のジョン・マルコヴィッチの頭の中に通じる扉だった…
 ミュージックビデオ界では超有名人、CM業界では超売れっ子のスパイク・ジョーンズがついに映画界に進出。「ジョン・マルコビッチの中に入る」という発想はとにかく見事としか言いようがない。
 スターもひっそりと多数出演。

 とにかく奇想天外な発想をうまくまとめたという印象。プロットも途中すこし「?」と思うが、最後にはしっかりまとまる。 なんと行っても、7と1/2階という発想がすごい。ストーリー展開からすると必ずしも必要な設定というわけではないの(あの空間の不思議さを演出しさえすればそれでいいはず)だけれど、これがなかったら、この映画の価値は半減、笑いは激減。みんなが猫背で首をかしげて並んでいる映像。何だか、映画館を出るときに、自分も猫背で歩いてしまいそうになった。
 ストーリーの展開の仕方で言えば、登場人物たちがあまり語らないのもいい。さすがにミュージック・ビデオやCMといった映像で見せる技術に長けたスパイク・ジョーンズだけにセリフに頼ることなく、どんどんストーリーをつないでいく。唐突に饒舌になって自分の身の上を語り出したりする主人公にはもう辟易ですから、このくらい、登場人物たちの考えていることが微妙にわからないこのくらいの加減がいい。
 映像は、決して派手ではないけれど、押さえるところは押さえたという感じ。普通の映像は普通に、凝るところは凝る。やはり全員がジョン・マルコヴィッチなシーンのインパクトは強烈だった。7と1/2階を紹介するビデオなんかは、いかにも70年代っぽく作りこまれていて、妙なこだわりが感じられましたね(内装も若干きれいなような気がするし)。

天使

Angel 
1937年,アメリカ,91分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:サムソン・ラファエルソン
撮影:チャールズ・ラング
音楽:フレドリック・ホレンダー
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ハーバード・マーシャル、メルヴィン・ダグラス、エドワード・エヴァレット・ホートン

 ホルトン氏は友人に紹介してやってきた、パリの亡命ロシア大公妃のサロンで出会った英国人の美しい女と夕食をともにし、恋に落ちる。しかし女は彼の申し出の返事を引き延ばし、男の元から去って行く。
 ハリウッド黄金期の巨匠エルンスト・ルビッチが名女優マリーネ・ディートリッヒを迎えて撮り上げたシャレた恋愛映画。今から見ればスノッブな感じが鼻につくが、「階級」というものが今より色濃く残っていた社会では映画とはこのようなものであってよかったのだろう。
 全体的にシャレた雰囲気でクラッシクというわりには気軽に見られる作品。

 映画史的なことはよくわからないのですが、この映画で非常に多用されている切り返しというのはこのころに開発された技法なのでしょうかね?「画期的なものをどんどん使おう」と言う感じで使っているように見えますが。まあ、技術的なことはいいとして、この映画で使われている「相手の肩越しから覗きこむ画」の切り返しというのはなかなか柔らかくていいですね。最近、切り返しが使われる場合真正面から捉えた画をつなぐ場合が多いのですが(恐らく互いの視線を意識した画だと思いますが)、私としてはそのやり方はどうも今ひとつ落ち着きが悪いんですよ。なんとなく映画の中にポツリと放り込まれてしまう気がして、それよりは、肩越しとか、斜めからとかの画で、なんとなく傍観者としていられるほうがいい。映画のジャンルにもよりますが、恋愛映画では特にそう思います。
 映画的なこともそうですが、クラッシックな映画を見ると、時間的なギャップに気づいていつも感心することがあります。たとえば今回の映画では、音楽的なことに頭が行きました(「二人の銀座」の影響もあるかもしれない)。「この頃って、まだジャズですらメジャーカルチャーじゃなかったんだな」とか、そこから「若者の文化ってものもまだまだ出てこないんだな」とか。
 なかなか古い映画というのは見る機会もないし、見ようとも思わないものですが、「巨匠」と呼ばれる人の作品はやはり、多少色褪せることはあっても、映画として十分見る価値のあるものなのだと感じました。

バッファロー’66

Buffalo ’66 
1998年,アメリカ,118分
監督:ヴィンセント・ギャロ
脚本:ヴィンセント・ギャロ、アリソン・バグノール、クリス・ハンレイ
撮影:ランス・アーノルド
音楽:ヴィンセント・ギャロ
出演:ヴィンセント・ギャロ、クリスティナ・リッチ、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・ギャザラ、ミッキー・ローク

 数年ぶりに刑務所から出てきたビリーは、トイレを探してバッファローの街を歩き回る。彼は母親に電話し、家にいもしない嫁を連れて行くといってしまう。そこで、ビリーはそばにいた見ず知らずの女を誘拐し、嫁のフリをさせようとするのだが…
 「愛と精霊の家」などで知れる俳優ヴィンセント・ギャロの初監督作品。散漫でありながら一本筋の通った物語は、ニューヨークから少し外れたバッファローという街のイメージにぴたりとはまる。
 この映画で最も目をひくのは映像だと思う。評価については賛否が分かれるだろうが、考え抜かれた構成であることはたしか。

 とにかく、映像のことについて書きましょう。まず目をひく、映像のはめ込み。回想シーンのサイズダウン。この辺りは考え抜かれ、効果としてはなかなかのものを生んでいるとは思うけれど、それほどセンスは感じられなかった。それよりも、この映画で最も素晴らしいのはフレームの切り方。シークエンスとしての映像というよりは、一瞬一瞬の「絵」としての構図がすばらしい。歌うビリーの父とそれを見るレイラのふたつの画とか、ビリーと電話するブーク(だったかな?)の腹のアップとか、ビリーとレイラが最初に車に乗るときの上からの構図とか、本当にはっとさせられる「絵」がたくさんあった。あと、映像でよかったのは、ビリーがスコット・ウッドを撃ち殺したと創造する場面。あのセンスは素晴らしい。ヴィンセント・ギャロ今度はコメディを撮って欲しい。(この映画ももしかしたらコメディかもしれない)
 ところで、ビリーに殺されるかもしれなかった、スコット・ウッド。これはアメリカ人ならすぐピンと来る。バッファロー・ビルズのキッカー、スコット・ノーウッドがモデル。1991年のニューヨーク・ジャイアンツとのスーパーボウルでこれを決めれば逆転というフィールドゴールをはずしたキッカー。バッファローの人はいまだに根に持っているらしい。バッファロー・ビルズはその後3年連続でスーパーボウルに出場したが、一度も勝てなかった。ノーウッドがトップレスバーを経営しているかどうかはわからないが、アメリカのプロスポーツ選手は引退後飲食店を経営することが多い。
(注1)
スーパーボウル:アメリカのアメリカン・フットボール・リーグNFLの優勝を決める試合。アメリカ人にとっては非常に大きなイベントで、「招待状を送って犯罪者を一斉検挙した」などといった面白いエピソードには事欠かない。映画にもたびたび出てくる。
(注2)
フィールド・ゴール:アメフトの得点方法のひとつで、キッカーがプレイスされたボールをけってポールの間を通せば得点(3点)を獲得できる。

愛と精霊の家

The House of the Spirits 
1993年,ドイツ=デンマーク=ポルトガル,139分
監督:ビレ・アウグスト
原作:イザベル・アジェンデ
脚本:ビレ・アウグスト
撮影:イェリン・ペルション
音楽:ハンス・ジマー
出演:メリル・ストリープ、ジェレミー・アイアンズ、ウィノナ・ライダー、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス、ヴィンセント・ギャロ

 南米のある国、物を動かしたり、予言したりという不思議な力を持った少女クララは自分の予言が当たって姉が死んでしまったことに罪悪感を感じそれから口を利かなくなってしまった。
 アメリカでもベストセラーとなったイザベル・アジェンデの小説を映画化したもの。クララを中心とした一族の年代記。
 原作の秀逸なストーリーが映画に生かされ、観客を物語世界にぐいぐいひき込む力が感じられる。

 原作と比べると、どうしてもその魅力は減じているといわざるを得ない。そもそもラテンアメリカ独特の空気を映しきれていないのは、「アメリカの映画」になってしまったからだろうか。少々詳細にその原因を探ってみると、もっとも大きいのはクララの不思議な力というものが、映画ではファンタジックな、しかもクララのみに備わっている「超能力」として扱われていることだろう。原作を読んでみれば、クララのその力というのは確かに不思議ではあるけれど、ファンタジーでもなんでもなく、現実にありうべき一つの現象として描かれている。周りの人々もクララの力に困惑はすれども、それを疑ってみたりはしない。その周りの人々の態度については映画でもかなり努力が払われていたように見えるが、どうしても本当に現実として描かれているようには思えない。
 ひとつ例をあげれば、フェルラが死を告げるためにクララの元へやってきたときに、エステバンがドアのところへ確かめに行く。この作業はまったく必要がないはず。フェルラはやってきて、去っていった。ただそれだけのことであって、フェルラの肉体がどこにあろうと実際には関係ないはずなのに。 しかし、原作はもっと長大な物語があり、それによって築き上げられる世界観というものがあるけれど、映画ではそれを作り上げるのは難しいのだから仕方がないのだろうという気もする。
 そう言ったことを割り引いても、ひとつ鼻につくのは映画全体に流れる「アメリカ臭さ」出てくる言葉はすべて英語だし、街や農場の風景も中南米の混沌がまったく感じられない。
 などと書いてくると、この映画を非難しているように読めますが、それはあくまで、原作と比較しての話であって、原作を意識せず純粋に映画としてみれば、ストーリー展開も力強いし、映像も無難に美しく、音楽も効果的で、役者もクララの若い頃をメリル・ストリープがそのままやってしまった点を除けば申し分ない。ヴィンセント・ギャロもかなりいい。
 と言うことで、ぜひ原作を読んでみてくださいませ。

恋する人魚たち

Mermaids 
1990年,アメリカ,110分
監督:リチャード・ベンジャミン
原作:パティ・ダン
脚本:ジューン・ロバーツ
撮影:ハワード・アサートン
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィノナ・ライダー、シェール、ボブ・ホスキンス、クリスティナ・リッチ

 時は1963年、女手ひとつで二人の娘を育てるフラックスは生活も奔放。何かあるごとに引越しを繰り返す。今回も男に振られ16回目の引越しをすることに。今度の行き先はマサチューセッツの田舎町。そこで今度は娘のシャーロットが修道院で働くジョーに一目ぼれ、母も靴屋の店主と仲良くなって…
 ちょっと変わった家族ものという感じですが、本質はコメディなのかな? 全体的に不思議に雰囲気があって、何だか面白い。ウィノナ・ライダーとシェールはもちろんのこと、妹役のクリスティナ・リッチがかなりいい味出してます。

 かなりいい感じです。適度にだるく、適度におかしい。ジェットコースターな笑いとは違うゆったりとした笑いです。なんと言っても目に付いたのはクリスティナ・リッチ。何歳なのかはわかりませんが、笑いのつぼを巧妙につく演技。
 ハリウッドの映画によくありがちな、家族の絆とか人の心の問題を突いて行く少々説教くさい話だが、シェールとウィノナとクリスティナの家族がどうにも能天気なところがかなりよい。
 秋の夜長にのほほんと見たい一作というところでしょうか。