生まれてはみたけれど

1932年,日本,91分
監督:小津安二郎
脚本:伏見晃
撮影:茂原英雄
出演:斎藤達雄、菅原秀雄、突貫小僧(青木富夫)、吉川満子

 郊外に越してきたサラリーマン一家。2人の腕白兄弟は早速近所の悪ガキと喧嘩、引越し前の麻布ではいちばんつよかった兄ちゃんはここでもガキ大将になれるのか?  そんな二人も頭の上がらない父さんを二人は世界で一番えらいと信じていた。しかし、引っ越してきた近所には父さんの会社の重役が、果たして父さんは威厳を保ちつづけられるのか?
 非常に軽妙なタッチですごく躍動感のあるフィルム。登場する子供ひとりひとりのキャラクターが立っていて非常にいい。映像のリズムがよくて音を感じさせる演出なので、サイレントでもまったく苦にはならない。

いわゆる静謐な「小津」のイメージとは違うこのサイレント映画は画面のそこここに「音」が溢れている。そして非常に巧妙なストーリー展開。
 私はちゃんと細部まで観察しようという意気込みで劇場に座ったのだけれど、見ているうちにぐんぐんと物語に引き込まれ、気づいてみればもうラストという感じで見てしまった。90分という長さは当時の映画としては長尺だが、今見れば非常に心地よい長さ。やはり映画の理想は90分という自説は正しかったのだと再確認してみたりもしました。
 「何がよかったのか」と効かれると非常に困る。ストーリーはもちろんよかった。子供たちのキャラクターがよかった。出てくる子供たち(8人くらい?)のそれぞれが非常に個性があり、映画が始まって20分もすれば見分けがついてしまう。これは非常に重要なことだと思う。といっても、それが面白かったというわけではない。具体的にいえば、2人が学校から逃げ出す間合いとか、犬がお座りして2人見送るその画だとか、通って欲しいところで必ず電車が通過するその演出だとか(何と目蒲線!)、いろいろです。
 やっぱり小津ってすごい。

Kelid
1987年,イラン,76分
監督:エブヒム・フルゼシュ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:モハマド・アラドポシュ
出演:マハナズ・アンサリアン、ファテメ・アサール、アミール・モハマッド・プールハッサン

 ある朝、お母さんはまだ小さいアミール・モハメドと赤ん坊を置いて買い物へ。アミール・モハメドは鳥に水をあげようとするが、水道の栓が固くてひねれない。どうしていいかわからないアミール・モハメドに次々と難題がのしかかる。いったいお母さんはいつになったら帰ってくるの!?
 キアロスタミが脚本した作品らしく、素朴な少年の姿をひたすらとらえる。アミール・モハメドのひたむきな姿は見ていて楽しいが、さすがに物語が単調すぎたか。イラン映画らしいイラン映画であることは確か。
 イラン版「ロッタちゃん」というところ?

 なにかこう、どこかで展開があるのかと思いきや、結局最後まで、淡々と、単調に、ただひたすらアミールの姿を追いつづける。そこには省略もなく、本当に時間の流れどおりに忠実に追いつづける。近所のおばさんや、おばあさんが出てきて、その時には、アミールから視線が離れるのだけれど、結局また戻ってきて、ひたすらアミールの視線。
 なんだかこう、途中まではいいのだけれど、ここまでひたむきにやられてしまうと、すさんだ心の大人にはついて行けない、温かく見守ってもいられない、そんな気がしてきてしまう。もうちょっと展開があってもよかったかな、と思ってしまう。ちょっと、すっきりしない感じです。

右側に気をつけろ

Soigne ta Droite
1987年,フランス,81分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
音楽:リタ・ミツコ
出演:ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・ペリエ、ジャック・ヴィルレ、ジェーン・バーキン

 殿下と呼ばれる映画監督と白痴の男、スタジオでレコーディングをするミュージシャンこの3つの物語が、断片として描かれて行く、非常に詩的な映画。
 ジャン=リュック・ゴダールその人が演じる「殿下」はフィルムの缶を持って「地上にひとつの場を」求めて歩き回る。
 といってみたものの、この映画にストーリーは不必要だ。挿入される空のカットや、自然や人を眺め、それを味わうことがこの映画を見るときに必要なことのすべてだ。おそらくドストエフスキーの「白痴」をモチーフにしたと考えられるこの作品は世界(地上)の無垢な美しさを求める物語なのだろう。

 理解しようとすると、かなり難しい。しかし、理解することを止めればそれなりに味わうことはできる。映画のはじめから「白痴」という言葉が表れ、ゴダール演じる男が「伯爵」と呼ばれるところから、ドストエフスキーの「白痴」がイメージされるが、さらにそのゴダール演じる伯爵は常に「白痴」を読んでいる。したがって、映画を見る側としては、この伯爵を「白痴」の主人公であるムイシュキン伯爵(公爵だったけ?)と重ね合わせてみることになる(少なくとも私は)。
 しかし、そうするともうひとりの白痴らしい男との関連性が見えなくなってくるし、レコーディングをしているしている二人との関係性もわからない。
 私の力及ばずというところでしょうか?
 そこで、理解することをあきらめただただ眺めていれば、その音(必ずしも音楽とは限らず数限りないノイズも含む)と画のコンポジションはまさにゴダールの世界で、あるいはこれこそがゴダールの世界なのだと感じられはするけれど、それは、抽象絵画を見るように曖昧な感情しか呼び覚まさない。なんとなくすごいし、なんとなく見入ってしまうんだけれど、それがいったい何なのかわからない世界、この映画にあったのはそんな世界。

カフェ・オ・レ

Metisse
1993年,フランス,92分
監督:マチュー・カソヴィッツ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ピエール・アイム
音楽:マリー・ドーン
出演:ジュリー・モデュエシュ、ユベール・クンデ、マシュー・カソヴィッツ

 自転車でやってきたみすぼらしい白人の青年と、タクシーでやってきたこぎれいな黒人の青年。二人は混血の美女ローラに妊娠したと告げられる。しかもどちらの子供かわからない。さらにローラは生むことにもう決めていた。さて、二人はどうするか?「人種」という重たげな問題をあっさりコメディにしてしまう。 マシュー・カソヴィッツの監督デビュー作はたわいもないコメディのようで、じっくりと味わうだけの含蓄がある作品に仕上がっている。
 「この映画はすごいよ」と私は言いたい。「この映画を消化できないようじゃダメだよ」と高飛車に言いたい。
 でも、軽い気持ちで見てください。そういう映画ですから。

 ジャマルとフェリックス、そしてローラ。この3人はただ単に黒人・白人・混血という関係性なのではない。ジャマルはアフリカ人、フェリックスはユダヤ人、ローラはマルティニク人。3人ともがフランスの社会ではマイノリティであり、この三人の間では必ずしも「白さ」「黒さ」が社会的な問題となるわけではない。  おそらく、ジャマルの家系は出身国(おそらくセネガルかどこか)がフランスの植民地であった頃から、高度の教育を受け、本土において成功したのだろう。ローラは、おばあさんがフランスにいることから、マルティニク(カリブ海のフランス領の島)から移住してきたものの大きな成功は勝ち取れなかった(だから母親はマルティニクに帰った)のだろう。フェリックスは名前からしてポーランド系、第2次大戦後にフランスにやってきたのかもしれない。
 そして、現在では、フェリックスの家がいちばん貧しい。ジャマルの家がいちばん金持ち。
 しかし、ローラは言う「彼は黒すぎるのかも」。肌の色への偏見か?
 ジャマルは暴君のように振舞う。無意識的な性差別か?
 教育とか、社会的地位とか、「やばい地区」とか、いろいろなことが複雑に絡まって、しかしそれを解きほぐそうとはせず複雑なまま提示する。それはただ、あるがままをぽんと提示するということなのだけれど、その複雑さが複雑さとして表現されるためには、ただそこらに転がっている現実を切り取ればいいというわけではなくて、それなりの選択と、表現の工夫が必要になってくる。そしてそれはひどく難しい。どんどん複雑化して行く現実をありのままに切り取っている(ように見える)この作品には非凡なものがあるということに我々は気づかなければならない。

メリーに首ったけ

There’s Something about Mary
1998年,アメリカ,119分
監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
脚本:エド・デクター、ジョン・J・ストラウス、ピーター・ファレリー、ボビー・ファレリー
撮影:マーク・アーウィ
音楽:ジョナサン・リッチマン
出演:キャメロン・ディアス、マット・ディロン、ベン・スティラー、リー・エバンス、クリス・エリオット、ブレット・ファーブ

 テッドは本当にどうしようもない男。彼の唯一の誇りは、高校のプロム・パーティーに学校のアイドルメリーに誘われたこと。しかし、その大事な時にジッパーに大事なモノを挟んでしまい病院送りという本当にまぬけな男。
 月日は流れ、友人に勧められメリーを探すことにしたテッド、彼女を見つけることはできたのだが、 彼女の周りには数多くのライバルがいて…
 メリーを巡る男たちのせこく、くだらない争い。とにかく、ドタバタお下劣ギャグ満載、道徳心のある人は見てはいけません。

 単純明快なコメディですが、私にとってコメディ映画の条件は、
・とにかくくだらない(その通り)
・インパクトのある場面がある(ファスナーとか犬とか)
・一応ストーリー展開が気になる(だいたい読めるけど)
・オチがつく(体質的にオチがつかないと落ち着かない。なんちって(>o<;) )
 です。この映画一応条件を満たしています。
 しかし、メリーに首ったけが好きな理由はこれだけではありません。キャメロン・ディアスがかわいいのはもちろんですが、やはり、アメフトネタですね。アメリカ人にはわかりやすいけれど、日本人にはあまりわかりにくいアメフトネタ。私はアメフト好きなので、非常にうれしかった。
 と、言うわけでここで解説。
 まず、ブレッドことブレット・ファーブは本当に本当にNFL(アメリカのプロフットボールリーグ)のスーパースターで、年俸も5億くらいもらってると思います。で、メリーが、ブレッドをふった理由が、字幕ではどうなっていたか忘れましたが、英語では、「私は49ersのファンだから」というような感じの台詞だったんですね。ブレット・ファーブはグリーンベイ・パッカーズの選手で、それが気に入らなかったというわけです。映画の途中でも、オフィスの椅子にスティブ・ヤング(49ersの選手でファーブと同じくらいスーパースター)がかかっていたというのもにくい作戦ですね。
 こんな感じで、ただの薀蓄披露になってしまいましたが、ファーブじゃなくて、ヤングだったら、ベン・スティラーはふられてたのか?と思ってしまう今日この頃です。
 などというアメフト話はおいておいて、この映画でいちばん好きだったのは、唐突に歌いだす二人組。その名はジョナサン・リッチマン。この映画の音楽を担当している人です。一応ちゃんとしたアーチストで、CDなんかも出しています。しかし、とにかく登場の仕方が面白い。ああ、これぞまさしくアメリカンコメディ。

オネーギンの恋文

Onegin
1999年,イギリス,106分
監督:マーサ・ファインズ
原作:アレクサンドル・プーシキン
脚本:マイケル・イグラティフ、ピーター・エテッドギー
撮影:レミ・アデファラシン
音楽:マグナス・ファインズ
出演:レイフ・ファインズ、リヴ・タイラー、トビー・スティーヴンス、レナ・へディ、マーティン・ドノヴァン

 19世紀初頭のロシア、ペテルブルクに住む貴族のエヴゲニー・オネーギンは伯父を看取りに田舎の屋敷へと向かう。彼は社交界の虚栄に飽き飽きし、今のままの生活に疑問を覚えていた。そして、伯父の遺産である田舎の屋敷にしばらくとどまることに決めたが、そこに明確な目標があるわけでもなく、友人になった青年地主のレンスキーと漫然と時を過ごしていた。
 そんなオネーギンの恋愛物語。プーシキンの原作を主演のレイフ・ファインズの妹のマーサ・ファインズが映画化。初監督作品ながら、その組み立てには類まれなセンスが感じられる。

 この映画の最大の強みは物語(つまり原作)であることは確か。しかし、それを丹念にスクリーンに映し込んだ監督の力量もかなりのものだと思う。丁寧に丁寧に映像を重ね、映画を作り込んでいったという感のある作品で、きっちりと無駄が省かれているところに好感が持てる。
 少々クローズアップが多いのが気になったが、それ以外では、余計な説明的な映像やセリフや独白が省かれ、映像に語らせることに成功していると思う。そして、物語の展開も、ついつい語ってしまいたくなる部分、説明してしまいたくなる部分がばっさり切られ(たとえば、オネーギンの以前の生活、レンスキーが死んでからのこと、ラストシーン位後のこと)、映画全体がスリムになった感じがする。そう、最近の映画はこういった思いきりというか、我慢というか、「思い切って切ってしまうこと=語るのを我慢すること」が足りない気がする。だから、だらだらと長い映画が多くなって、2時間半も3時間も映画が続き、「まだまだ切れるんじゃないの?」という疑問だけが頭に残るという事態になってしまう。映像のセンスとか、そういったものはたいしたことない(といっては失礼か)のだけれど、この監督は映画の作り方がわかっている監督なのではないかと思いました。

プランケット&マクレーン

Plunkett and MacLeane
1999年,イギリス,100分
監督:ジェイク・スコット
脚本:ロバート・ウェイド、ニール・バーヴィス、チャールズ・マッケオン
撮影:ジョン・マシソン
音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ロバート・カーライル、ジョニー・リー・ミラー、リヴ・タイラー、アラン・カミング、ケン・スコット、トミー・フラナガン

 18世紀イギリスで有名になった「紳士強盗」こと、プランケットとマクレーンの強盗団の活躍を描いたアクション映画。
 貧乏だが地位と品位は兼ね備えているマクレーン大尉と、泥棒を家業としているプランケット。この二人が組んで貴族から強盗をはじめると、マクレーンの紳士的な態度から「紳士強盗」とよばれ、世間の評判になる。この二人に裁判長の娘レディ・レベッカが絡んで物語は展開して行く。
 監督のジェイク・スコットはリドリー・スコットの実子でこれが初監督作品。イギリス映画としては派手で撮り方もハリウッド映画のような雰囲気。アクションシーンはなかなかの迫力がある。

 本当にイギリス映画なのかと疑いたくなるほどハリウッドっぽい作品。イギリス映画らしいところもなくはないが、そのどれもが決して独創的とは言えないところに難がある。銃撃シーンがスローモーションだったり、服を脱ぐシーンがコマ送りだったり、どこかで見たことあるんだよなという映像的工夫しかなかったのがつらかった。
 ストーリーとしてはなかなか面白いんだけれど、先の展開は読みやすく、あまりスリルは味わえない。
 とにかくこの映画はロバート・カーライルとリヴ・タイラーの映画。ロバート・カーライルが一人映画らしい存在としているという感じ。ロバート・カーライルらしさは十分に出ている、最後のシーンの独特な走り方を見ながら、「ああ、やっぱりいい役者ね」と思いました。リヴ・タイラーはとにかくかわいいのでいい。ちょっと首が太いのと肩幅が広いのが気になりますが、まあいいでしょう。お父さんに似なくて本当によかった(余談)。

百萬圓貰ったら

If I Had a Million
1932年,アメリカ,88分
監督:H・ブルース・ハンバーストン、エルンスト・ルビッチ、ノーマン・Z・マクロード、スティーヴン・ロバーツ、ノーマン・タウログ、ジェームズ・クルーズ、ウィリアム・サイター、ルイス・D・レイトン
原作:ロバート・D・アンドリュース
脚本:イザベル・ボーン、クロード・ビニヨン、ウィットニー・ボルトン、マルコム・スチュアート・ボイラン、ジョン・ブライト、シドニー・ブキャナン、レスター・コール、ボイス・デ・ガウ、ウォルター・デレオン、オリヴァー・H・P・ギャレット、ハーヴェイ・ハリス・ゲイツ、H・ブルース・ハンバーストン、グローヴァー・ジョーンズ、エルンスト・ルビッチ、ロートン・マッコール、ジョセフ・L・マンキウィック、シートン・ミラー、ロバート・スパークス、ティファニー・セイヤー
出演:ゲイリー・クーパー、ジョージ・ライト、チャールズ・ロートン、メアリー・ボーランド、フランシス・ディー、ジャック・オーキー

 大企業家のジョン・グリデンは医者に余命幾ばくもないと言われていた。彼の周りにはそんな彼の遺産を狙う親戚がうようよ、社員たちも頼りにならない間抜けばかり。そこでグリデンは自分の財産を身も知らない他人に分け与えることに決めた。その選定は、住所録から無秩序に選び、それぞれに100万ドルをあげるというものだった。
 100万ドルを手にした人々の短い物語がオムニバス形式で続くコメディ。いわゆるルビッチらしい「スクリューボール・コメディ」ではないが、非常にテンポよく話が次々と展開されているので小気味よい見ごこち。話もいわゆるコメディから少しほろりとさせるものまで多岐にわたり楽しめる。

 ルビッチと言うと「スクリューボール・コメディ」(スクリューボール・コメディは1930年代にハリウッドではやったコメディで、男女男という恋愛関係を描いたもの。ルビッチはその最大の作家で数多くの傑作を生んでいる。特に婚約している男女の間に一人の男が割って入ってひと悶着という展開が多いため、「ルビッチの映画で婚約しているということはつまり別れるということだ」とまで言われた)。
 しかし、この作品はまったく違う。オムニバスという形式がどういういきさつでとられたのかわからないが、当時のハリウッドのいきさつを考えると、おそらく会社の企画にルビッチがかり出されてというのが妥当なところだろう。このオムニバスの中で、ルビッチがどの部分の脚本を書き、どの部分を監督したのかはわからないが(調べればわかるのかもしれない)、どれもなかなか面白い。
 他の監督では、ハンバーストンが後に「十人のならず者」などを撮って有名になったほか、タウログはジェリー・ルイスの底抜けシリーズのいくつかをはじめとして数多くのコメディを撮っているし、それぞれの監督がトーキー初期のコメディの巨匠ばかりであるのだ。 
 うーん、そうなのか。と自分で納得してしまいましたが、やはり1930年代はハリウッドの黄金期。ちょっと探せば面白いものがざくざく出てくるのだと実感しました。

ベイブ/都会へ行く

Babe : Pig in the City
1998年,オーストラリア,96分
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ジュディ・モリス、マーク・ランプレル
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ナイジェル・ウェストレイク
出演:マグダ・ズバンスキー、ジェームズ・クロムウェル、ミッキー・ルーニー、メアリー・スタイン

 アカデミー賞にもノミネートされ話題となった「ベイブ」の続編。牧羊犬ならぬ牧羊ブタとして有名ブタになったベイブ。しかし彼のいる牧場は借金に苦しんでいた。牧場を救うためにはベイブが都会でパフォーマンスを見せるしかない!と、いうわけで、ケガをして牧場から出られないホゲット爺さんに代わって奥さんがベイブを連れて出かけることになった。
 この作品もやはり、大ヒット作の続編は失敗するという法則に抗いきれなかった。そこそこ面白いのだけれど、前作と比べてしまうと、かなり苦しい。しかし笑えるところは結構あるので、見ても損はないでしょう。

 うーん、相変わらず面白いのは動物たち。爺さんが出てこないというのがすごく残念。フェルディナンドとかねずみとかキャラはたつけど、いかんとも…
 面白いんですけどね、やはりヒット作の続編は、特にコメディは難しいってことですか。「ビバリーヒルズ・コップ」とかね、「48時間」とかね、「裸のガン」とかね。
 まあ、いいでしょう。これくらい笑えれば許してあげます。

カルメンという名の女

Prenom Carmen
1983年,フランス=スイス,85分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:プロスペル・メリメ
脚本:アンヌ=マリー・ミエヴィル
撮影:ラウール・クタール
出演:マルーシュカ・デートメルス、ジャック・ボナフェ、ミリアム・ルーセル、クリストフ・オーデン、ジャン=リュック・ゴダール

 ビゼーの歌劇『カルメン』をゴダール流に映像化したものらしい。
 最初の2つのシーンは、精神病院と室内楽の練習風景。精神病院にはゴダールがいて、室内楽の練習風景でははっとするほど美しい少女がヴィオラを弾いている。最初この2つの場面がほぼ交互に展開されて行くが、精神病院にはゴダールの姪カルメンが訪ねて来て、ゴダールの別荘を使わせてくれと頼む。室内楽の練習は終わり、少女(クレール)は兄と思いを寄せているらしい兄の友人(ジョー)と車に乗る。カルメンは仲間と銀行強盗をする。そこには警官のジョーが居合わせる。
 ストーリーがどうこうより、その映像と音とで見せる作品。全編ゆったりとしたペースで進み、後には美しさのみが残る。

 これを「難解」といってしまってはいけない。これは至極単純な映画だ。理解することは難しいけれど、理解しようとしてはいけない。説明を求めてはいけない。「いずれ説明してあげるわ」とカルメンは繰り返す。しかし、決してその説明がされることはない。ゴダールも我々に何も説明しようとしない。登場人物たちの考えていることも、行動の理由も、それぞれの場面が意味していることも。ただひたすら美しいものが並べられたフィルム。すべてが作りものじみていて、しかしすべてが美しい。あまりにすべてが美しいので、我々は逆にその単調さに弛緩してしまう。眠りにも似た心地よさに。美しいクレールの顔、美しい波打ち際、美しいランプシェード、美しい空。しかし、時折、その単調な美しさを凌ぐはっとする瞬間がある。月明かりに照らされたカルメンの横顔、モップで拭われる床の血。
 ただ一人現実的な時に囚われているジョーのように考えることはあきらめて、我々は美しさの奔流に身を任せればいい。逆行で影になった男女のシルエットの美しさに、浴室のタイルに押し付けられるカルメンの裸体の美しさに、カフェの鏡に映ったゴダールに付き添う女性の佇まいの美しさに、見とれていればいい。