ロミオ&ジュリエット

William Shakespear’s Romeo & Juliet
1996年,アメリカ,120分
監督:バズ・ラーマン
原作:ウィリアム・シェークスピア
脚本:クレイグ・ピアーズ、バズ・ラーマン
撮影:ドナルド・マカルパイン
音楽:ネリー・フーパー
出演:レオナルド・ディカプリオ、クレア・デインズ、ジョン・レグイサモ、ポール・ラッド

 シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台を現代に置き換え、映画化。セリフはシェイクスピアの原作に忠実に再現した。全体的に新さというものはないが、映像もきれいで、何よりもレオナルド・ディカプリオとクレア・デインズのコンビは見ていてほほえましい。
 演劇のセリフをそのまま使ったことで、映画としての面白さがそがれてしまった観があり残念。

 この映画の最大の問題は、シェイクスピアのセリフを忠実に再現したこと。監督としてはそこに新しさを見いだそうとしたのだろうけれど、映画としては致命的な欠陥になりかねない。そもそも映画というものが、演劇との差異化から始まっており、演劇にはないさまざまな手法を取り入れることで独自の芸術しての立場を成立させてきたという経緯がある。
 舞台と違って、大声を張り上げてせりふを言う必要がないとか、クローズアップなどの言葉以外の表現方法が革命的に増えたとか、そのような要素こそが映画を映画として成立せしめているのだから、セリフを原作の演劇に戻してそのまま使ってしまうということは映画であることの意義を根底から覆してしまう可能性があるのだ。
 と、理屈臭くなってしまいましたが、どうにも、この映画を見ているとセリフまわしがまどろっこしくて、映画に入り込んでいけない。しかも、原作があまりに有名なので、あまりストーリー展開にハラハラできない。
 と、いうわけで、純粋に映画としてみるなら、問題多しですが、スターを中心に作られる映画というのも映画産業にとっては非常に重要なものですから、このような映画がある意味はあると思います。大好きなスターが出ていれば、どんなに面白くなさそうでも見る!それがファン。

ブルー・イン・ザ・フェイス

2000/5/6
Blue in the Face
1995年,アメリカ,85分
監督:ポール・オースターウェイン・ワン
脚本:ポール・オースターウェイン・ワン
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:デヴィッド・ハーン
出演:ハーヴェイ・カイテルミラ・ソルヴィーノジャレッド・ハリスジャンカルロ・エスポジートジム・ジャームッシュマイケル・J・フォックスマドンナルー・リード

 「スモーク」のキャスト・スタッフが、現場の雰囲気を映画にしてしまおうというアイデアから生まれた作品。「スモーク」のキャストに加え多彩なゲストが登場する。
 話は、ブルックリンで煙草屋を経営するオギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)とそこに訪れる客たちとの間で繰り広げられる。タバコを止めると宣言し最後の一本をすいにくる常連、インチキくさい時計売り、ベルジャンワッフルを探すヒッピー風の男(?)、などなどいろいろなキャラクターが笑いをふりまいては帰っていく。
 さしたるストーリはなく、アドリブがかなりを占める各出演者の演技が見所。セリフを決められた演技よりも生き生きとしているかもしれない。マイケル・J・フォックスが元気な姿を見せているのもうれしい。

 この映画で、個人的に最大の注目はマドンナ。「歌う電報配達人」として登場するわけだが、マドンナの出演作の中でいちばんのできだと思う。マドンナもここまで吹っ切れてしまえば、じゅうぶん役者としてやっていけるのでは?
 この映画は「スモーク」のシリアスな雰囲気とはうって変わって軽快なテンポの映画だが、こっちの方がポール・オースターのよさを引き出しているのではないかと思う。ポール・オースターの小説というと、不思議な静けさがあって映像にするとどうしても重たくなりがちなので、これくらいくだけたとり方をしてしまったほうがよくなるのかもしれない。(あまり知られていないが、ポール・オースター原作の映画では「ミュージック・オブ・チャンス」というのがあって、これはまれに見る駄作だった。)
 ちなみに、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というタイトルは、顔が真っ青になるまでセリフをしゃべらせるという案からつけられたタイルらしい。

幻影は市電に乗って旅をする

La Ilusion Viaja en Tranvia
1953年,メキシコ,83分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:マウリシオ・デ・ラ・セルナ、ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ、ホセ・レヴエルタス
撮影:ラウル・マルチネス・ソラレス
音楽:ルイス・ヘルナンデス・ブレトン
出演:ギリェルモ・ブラボ・ソーサ、リリア・ブラド、カルロス・ナバロ、フェルナンド・サト

 メキシコシティの市電局の車掌カレイレスと修理工タラハスは、担当していた133号の解体によって自分たちも解雇されるであろうことを知る。133号に別れを惜しむ彼らは酔っ払い、気づけば133号のところにきていた。彼らは勢いで133号に乗り込み、夜の町へと出発する。
 カレイレスとタラハスを中心としたやりとりがおかしく、カフカが喜劇を書いたならこんな風になっていたのではと思わせるコメディ。
 ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の代表作のひとつ。

 帰りたいけど帰れない。そこに現れる乗客たちの多様性が暗示しているものは何なのだろうか?単なるコメディではなく、その乗客たちにブニュエルは何らかの意味を託したのだろう。社会(階層)・宗教・政治(共産主義)・アメリカなどを象徴的に示す人々が乗り込み、我々にじんわりと何かを訴えかけては下りてゆく。
 そして、全体がまた現実であるのか幻想であるのかもわからない構造。一貫して現実として描かれた入るのだけれど、それがどうして現実だとわかるのか?果たして133号は本当に町を走ったのか?カレイレスとタラハスの夢物語では?町の人々の見た幻影では?最後のナレーションを聞いてそんなことを考えた。

引き裂かれたカーテン

Torn Curtain
1966年,アメリカ,128分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ブライアン・ムーア
撮影:ジョン・F・ウォーレン
音楽:ジョン・アディソン
出演:ポール・ニューマン、ジュリー・アンドリュース、リラ・ケドロヴァ、デヴィッド・オパトッシュルド、ウィッグ・ドナス

 シカゴ大学の教授マイケル・アームストロング(ポール・ニューマン)は学会を抜け出し東ドイツへと亡命を企てる。しかしそこに、置いてきたはずの婚約者サラがついてきてしまい……
 冷戦時代のベルリンを舞台にしたスパイ映画。アルフレッド・ヒッチコック監督50作目という記念すべき作品。いかにもヒッチコックというからくりといかにもヒッチコックという展開。しかし、それは展開を読みやすいという欠点にもなっているかもしれない。過去の名作と比べると見劣りするが、ヒッチコックは駄作は作らない。若いポール・ニューマンもかっこいい。

 「ヒッチコックはハッピーエンド」そう思いながら見てしまうと、ここでも助かる、ここでも助かる、と考えながら見てしまう。どういう助かり方をするのか、どういうふうに警官を巻くのか、そこに興味は移ってしまう。
 ハラハラどきどきのサスペンスというより、クイズのようなもの。劇場での「火事だ!」は予想通り。しかし、”fire!!”と叫んで、ドイツ人はわかるのだろうか?
 冷戦も終わって10年、スパイ映画も作りにくくなってるんだとしみじみ感じた一作でした。

恋のじゃま者

Nothing in Common 
1986年,アメリカ,119分
監督:ゲイリー・マーシャル
脚本:リック・ボーデル、マイケル・プレミンジャー
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:パトリック・レナード
出演:トム・ハンクス、ジャッキー・グリーソン、エヴァ・マリー・セイント、ヘクター・エリゾンド、バリー・コービン

 シカゴの広告代理店に勤めるやり手の広告マン・デヴィッド(トム・ハンクス)。彼のもとにある日父親から電話があり、両親が別居したことがわかる。そしてしまいには父親が転がり込んできて、それまで順風満帆、女性関係も華やかだった彼の生活に暗雲が立ち込めてゆく……親子の関係を描いたハートフルコメディ。
 初期のトム・ハンクスの主演作は当たり外れが大きい。これは文句なしにはずれ。80年代アメリカの浮かれ気分をそのまま映画にしてしまったという映画。この頃はこんな映画が氾濫していたことを考えると、一見の価値はあるかも。

宇宙貨物船レムナント6

1996年,日本,42分
監督:万田邦敏
脚本:万田邦敏、麻生かさね
撮影:小渕好久
音楽:青木寿
出演:大和武士、田村翔子、山下哲生、並木史朗、清水佑樹、有吉崇匡

 AD2046、地球と火星のちょうど中間辺りを航行していた宇宙貨物船レムナント6に緊急事態が発生。閉じ込められた6人の運命は……
 短い時間の中にさまざまな要素を詰め込み、監督の心意気が感じられる。役者は個性的でいいのだが、いかんせん演技がぎこちなく、映画に入り込みにくくなってしまう。低予算・短時間の映画として考えればなかなかのできだが、やはり作品としての完成度は今ひとつ。しかし、万田監督の次回作に期待を持たせる一作。 

パラダイス・ビュー

1985年,日本,114分
監督:高峰剛
脚本:高峰剛
撮影:としおかたかお
音楽:細野晴臣
出演:小林薫、戸川純、細野晴臣、リリイ、辺土名茶美

 「沖縄映画」という発想としては、比較的早い時期のもの。沖縄のどこかの島の人々の生活を神話的世界と不思議な映像でつづった物語。沖縄のさまざまな風土が織り込まれ、それが生活に密着しているのだという主張が感じられる作品。
 細野晴臣が音楽を担当し、出演しているのがなんだか不思議だが、主要な三人以外は沖縄の役者を使っている。子役で出演している辺土名茶美は「DA PAMP」のISSAのお姉さん。 

 「琉球」ということを主張したいのもわかるし、実験的なものをつくりたいのもわかる。しかし、あまりに映画のプロットが複雑すぎて、ある特定の興味を持ってみている人でないと、興味を持ってみつづけることが困難な映画なのだろう。
 特に、頻繁に挿入されるストップモーションやネガの映像が、映画そのもののリズムを狂わせて(あるいはずらせて)いるために、全体が冗長なものに感じられてしまう。そのずらしによって何かを考えさせようというのだとしたら、その試みは成功していないと思う。
 2時間弱の映画なのに、かなり長く感じられたのはそのせいだろう。フレームの切り方や一つ一つのエピソードの作り方などは面白いので、飽きるというわけではないが、とにかく疲れる。
 細野晴臣の演技には苦笑。

告白

True Confession 
1981年,アメリカ,107分
監督:ウール・グロスバード
原作:J・G・ダン、ジョージ・ディディオン
脚本:ジョン・グレゴリ―・ダン
撮影:オーウェン・ロイズマン
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ロバート・デ・ニーロ、ロバート・デュバル、チャールズ・ダーニング、バージェス・メレディス、エド・フランダース

 神父と刑事という兄弟が、年老いてから昔の思い出を回想する映画。二人がともにかかわりあった殺人事件から二人の運命は思わぬ方向に転がっていくことに。
 兄弟の心理的な葛藤を描いた心理サスペンス。言葉にならない心理を表現する名優二人の演技はさすが。 

 言葉のない「間」を使って緊張感を保ち、観衆を物語りに引き込んで行く方法は秀逸だが、名優二人の演技なくしては成功しなかったかもしれない。物語としては特に目新しいものもなく、警察や教会の腐敗というのもありがちな題材ではある。
 やはり、デ・ニーロとデュバルの演技ということに話は収斂してしまうが、二人の神や兄や弟や教会の利益や腐敗やさまざまなものに対する心理の揺れ動きもうまく表現されているという点がすばらしかった。

パリのレストラン

Au Petit Marguery 
1995年,フランス,95分
監督:ローラン・ベネギ
原作:ローラン・ベネギ
脚本:ローラン・ベネギ、ミシェル・フィールド、オリヴィエ・ダニエル
撮影:リュック・バジェス
音楽:アンジェリーク&JCL・ネイチョン
出演:ミシェル・オーモン、ステファーヌ・オードラン、アニエス・オバディア、アラン・フロマジェ、クリア・ケーム

 今日で閉店することになったパリのレストラン、「プティ・マルギュリー」に招待客たちが集まる。レストランで交差する人々の人生を描いた作品。「いわゆる」フランス映画の典型のような作品。適当に洒落ていて、適当にユーモアがあって、ロマンスが散りばめられ、などなど。
 料理の映像がリアルで、見ているだけでよだれがたれそうなところはなかなか素敵な映画でした。 

 この映画は、素晴らしい作品とはいえないが、面白いところはたくさんある。まず料理がおいしそう。映画で料理がおいしそうに映るというのはなかなかない。時間の行き来が自然。回想シーンというと、わざわざ映像を古めかしくしたりとわざとらしいものが多いが、過去の場面でも映像を加工せず、(最初は現在と区別できないくらいに)自然に描いているところが好感をもてた。
 登場人物がやたらと多いというところは諸刃の剣かもしれない。それぞれの人物の関係性(誰が誰でどんな人か)ということが最後にはわかるようになっているが、途中ではわけがわからず、映画なのかに入り込むのを妨げてしまう可能性がある。
 とにかく、いわゆるフランス映画といえばこんなものを想像する。どことなくこじゃれている。そのいちばんの要因は適度に「隠す」こと。すべてをつじつまが合うように見せるのではなく、観衆の想像の余地を残しておくこと。この映画で言えば、荒れるダニエルをアガメムノンが慰める場面、どうやったのかはわからないがとにかく、ダニエルは元気になって帰ってくる。ダニエルとオスカー(だっけ?)の愛情、オスカーとアガメムノンの友情、その絆の強さをさりげなく伝える。この辺がフランス映画。

南東からきた男

Hombre Mirando al Sudeste 
1986年,アルゼンチン,107分
監督:エリセオ・スビエラ
脚本:エリセオ・スビエラ
撮影:リカルド・デ・アンヘリス
音楽:ペドロ・アスナール
出演:ウーゴ・ソト、ロレンツォ・クィンテロス、イレーネ・ベルネンゴ、クリスティーナ・スカラムッサ

 田舎の精神病院に勤めるデニスのところに突然現れた青年ランテースは、自分は宇宙船で地球にやってきたと主張する。そのこと意外はすべて正常な彼はいったい何のために精神病院にやってきたのか?アルゼンチン版『カッコーの巣の上で』とも言える作品。

 ランテースは果たして「キリスト」なのか?
 ランテースをキリストとし、デニスは自分をピラトゥに例えるが、それならば救われるべきローマの民は精神病院の患者たちということになる。果たしてそのような図式でこの映画は成り立ちうるのか?精神病院という閉ざされた世界でのみ語られる物語は、全的な救済の一部として描かれているのか?
 好意的にとれば、この物語はランテースによる救済の物語と考えることもできるが、救済されるべき(無知な)人々として精神病患者たちを取り上げるというのはどうにも落ち着きが悪い。しかもその患者たちはあくまで没個性的であって、非人間的である。それに対して、医師のデニスは内面も深く描かれ、人間的である。非人間的な患者たちが徐々にランテースに感化され、人間デニスの苦悩はいっそう深くなってゆくという構図はあまりに安直で納得がいかなかった。
 映像は非常に美しいのだけれど、その美しさまでもがなんだか作り物のように見えてきてしまって辛かった。